閉じる




 ひとりのトゥトゥが、路地から空を見上げている。
 まだ若い。小柄で痩せた体つきは、貧相といってもいいくらいだが、その羽毛は美しい。白い羽色の中で、翼の先のほうだけに上品な斑が入っている。
 彼の見上げる先の空では、ようやく飛ぶことを覚えたばかりだろう子どもらが、はしゃいだようすで追いかけっこをしている。まだどの子もよたよたと、飛び方が危なっかしい。ひとりが降下中の大人にぶつかりそうになって、叱られている。
 空は、よく晴れていた。高空にわずかばかりの薄雲が流れている。
 青年はふと疲れたように、視線を下ろす。同胞たちの舞う大空から、狭くごみごみした地上へ。家々の隙間を縫う路地は、ひどく曲がりくねっている上に、通りに面する家の住人らが、そこらじゅうにものを積み上げている。地上を歩いてゆこうと思えば、その隙間を縫ってゆくしかない。
 トゥトゥは町を作るとき、そもそも地面の上を歩くということを、ほとんど想定しない。火災や取り壊しに備えて、少しは家々の間隔をあけてはいるけれど、それだけだ。
 実際、地上をゆく者はめったにいない。まだ飛べないほんの幼い子どもを、どこかに連れてゆかなくてはならないだとか、飛んでは運べないような重い荷物を牽いてゆくだとか、とても飛べない嵐の中にどうしても出掛けなければならないだとか、そんな事情でもなければ、トゥトゥは歩いて出掛けたりはしない。
 たったひとりで地上を歩く、このトゥトゥの青年は、名をエトゥリオルという。
 ほとんどのトゥトゥがそうであるように、姓はない。ただのエトゥリオルだ。ほとんどのトゥトゥは、家柄や出自を誇るということをしない。誇るものがあるとすれば、それはただ彼ら自身の名ひとつというわけだ。
 頭上で子どもらの楽しげな声がして、エトゥリオルはもう一度、空を見上げる。子どもたちと遊んでやっているのか、鮮やかな羽色をした若いトゥトゥが、低いところをゆったりと旋回している。
 見上げるエトゥリオルの翼が、彼らにつられたように、小さく震える。二度、三度。
 けれど美しい茶斑の翼は、それ以上動くことはない。


 長い時間をかけて、エトゥリオルはステーションにたどりついた。空を飛ぶものにはあっという間の距離も、地上をゆけば遠い。
 昨年の冬に改装されたばかりの駅舎は、賑わっていた。二階のロータリーに舞い降りるたくさんのトゥトゥを見送りながら、エトゥリオルはひとり、地上階の非常口へと向かう。体全体で押すようにして重い鉄扉を開けると、音を立てて風が吹き抜けていった。
 駅舎の中はいつ来ても、乾燥した草のにおいがする。このにおいは、いったいどこから運ばれてくるんだろう? ステーションに来るたびに、エトゥリオルは不思議になる。
 階段を下りる彼の頭上を、ひとりの子どもが勢いよく翼を鳴らして飛んでゆく。背後から、母親らしきトゥトゥの怒声が追いかけてくる。建物のなかで飛ぶんじゃありません……
 改札を抜けると、ホームはひどく混雑していた。色とりどりのトゥトゥたちが、いつになくひしめきあっている。
 本格的な“季節(オーリォ)”にはまだ少し早いようなのに、どうしたことだろう。エトゥリオルは首をかしげる。
 初夏になると、若いトゥトゥたちは、こぞって北に向かう旅をする。
 行き先はそれぞれだ。普通、オーリォには自分の翼で飛んでゆくものだが、旅程の一部にトラムを利用する者もいる。けれどそれで混んでいるにしては時季が早いし、それに、いくらなんでも数が多すぎるような気がした。
 困惑しながら列に並んで、エトゥリオルは落ち着きなくあたりを見渡した。トゥトゥたちに混じって、ちらほらと、異星人の姿が目につく。
 低い背丈、羽毛のないつるつるした皮膚。その上から、複雑に縫製された何枚もの布地を身にまとっている。いつ見ても、エトゥリオルにはそれが、ひどく窮屈そうに見える。
 さっき階段のところで母親に叱られていた少年が、驚いたように翼をふくらませて、じっと異星人たちを見つめている。彼らの姿が珍しいのだろう。
 その屈託のないようすに、エトゥリオルは思わず表情をゆるめる。はじめてテラ人の姿を間近で見たとき、彼もやっぱり驚いて、まじまじと相手を凝視してしまったのだった。
 エトゥリオルにはひとり、テラ系の友人がいる。


 三年前の入学の日、憂鬱な思いで講堂に足を踏み入れたエトゥリオルは、その場の妙な空気に、すぐに気がついた。
 針のような緊張のにおいが、部屋中に満ちていた。敵意というほどのものではない。それでも、新しい環境を見定めようとする者たちが当然に発散する緊張感にしては、張りつめすぎている。
 原因は、すぐにわかった。前のほうの席に、ひとりのテラ人が座っていた。
 外部講師としてテラ系の技術者が招かれるようなことは、稀にあると聞いていた。けれど、そのテラ人が座っていたのは、学生の席だ。彼らのたしかな年齢は、トゥトゥには見分けがつきにくいけれど、どうもかなり若いように見えた。みなが遠巻きにする中で、たったひとり、平然と端末を操作して、資料を眺めている。
 ぽかんと見つめる彼の視線に気づいたのか、異星人は顔をあげてエトゥリオルを見た。
 ――やあ、はじめまして。
 いくらか聞き慣れないイントネーションはあったけれど、きれいな西部公用語(セルバ・ティグ)だった。
 テラ人の少年は、にっこりと笑ってみせた――その表情が彼らの笑顔であるということくらいは、メディアを通じてエトゥリオルも知っていた。それから少年は、さりげなく身を引いた。
 そのジェスチャーは、隣の席にどうぞといっているように、エトゥリオルの目には見えた。実際、そうだったのだろう。座らないのかいというように、少年は彼をじっと見上げて、首をかしげた。
 それにつられて、エトゥリオルは少年の隣の席に座った。それからあらためて、まじまじと異相の級友を見つめた。へんにつるつるした顔や手足、窮屈そうな服――それにトゥトゥとはまったく違う骨格。
 トゥトゥ用の椅子は、座りにくくはないのだろうか? そうエトゥリオルが訊ねると、少年はもう一度、にっこりと笑った。
 ――ありがとう。君、優しいんだね。
 親しくなるのに、時間はかからなかった。異星人とはいえ言葉は完全に通じたし、何よりサムは、いいやつだった……


 出発時刻を告げるアナウンスが流れる。物思いから我に返って、エトゥリオルは瞬きをした。ホームで列車を待つトゥトゥの姿は、ますます増えている。
 静かにホームに入ってきた車体は、最新式の、大きなものだった。
 交通機関は年々発展を見せている。近ごろではその多くに、テラ系の技術が使われている。そのことを苦々しく思っているトゥトゥもいないではないけれど、もともとが旅好きの種族だ。遠距離の旅行が手近になったこと自体は、おおいに喜ばれている。
 ドアが自動的に閉じて、列車はゆるやかに加速をはじめた。振動は少なく、車内は静かなものだ。
 あのテラ系の友人も、ついこの間まで、こうしてトラムに揺られながら、あの学校に通っていたのだ――いまさらのように気付いて、エトゥリオルは車内をまじまじと見渡した。ぴかぴかの新しい内装、座り心地のいい座席。
 向かいの席に、ひとり、テラ人が座っていた。手元の端末を、ずいぶん熱心に覗き込んでいる。何を調べているのだろう。
 エトゥリオルは、かつての日々を懐かしく思い出す。サムもよくあんなふうに、調べ物をしていた。そうしてエトゥリオルに気付くと、ぱっと顔を上げて、屈託なくいった。ねえ、リオ、ちょっと教えてくれるかい……


 トゥトゥの社会では、成人したあとも数年間は、仕事の引けたあとに学校に通うのが一般的になっている。エトゥリオルが入学したのも、そうしたハイスクールのひとつだった。
 不自由な翼のために半端仕事しかもらえない彼の懐では、学費を捻出するのは苦しかった。それでもエトゥリオルが入学を決めたのは、兄の説得に押し負けたからだった。
 お前みたいなやつだからこそ一つでも多くを学ぶべきだと、兄はいった。その言い分には、説得力があるような気がした。
 入学の日、どうにも気の重いまま、エトゥリオルは講堂に足を踏み入れた。勉強自体は嫌いではないけれど、友人を作ることが苦手なエトゥリオルにとって、集団生活を続けなくてはならないということは、どうしても気鬱の種だった。
 けれど結果的に、彼の学校生活は楽しいものになった。初めて出来た、親しい友人のおかげで。
 トゥトゥの学校にたったひとりで飛び込んできたくらいだから、サムはもとからトゥトゥの文化に関心があったのだろう。彼の尽きることのない質問の嵐に、呆れることなくいつまでもつきあうのは、エトゥリオルくらいのものだった。
 サムにものを教えているあいだ、エトゥリオルは自分がまっとうな、一人前のトゥトゥであるかのように錯覚することができた。いろんなことを教えたし、それに、いろんなことを彼から教わった。サムの話す異星の文化は、いつでも興味深かった。
 テラにはニックネームという文化があることも、彼から教わったのだ。彼、サム――サミュエル・フォグナー。
 ――君らにとっては、相手の名前をきちんと発音するのが礼儀なんだろ?
 そういうサムに、エトゥリオルはうなずいて、それから微笑んだ。
 ――うん。だけど、君たちのやりかたは、なんだかいいね。親しい人にだけ許す呼び方っていうのは。
 エトゥリオルがそういったのは、半分は、サムがエトゥリオルの名前を発音するのに、苦労している節があったからだ。
 発声するためのしくみ自体が違うのだから、いくら機械で補助しているといっても、無理があるのだろう。それまではずっと気付かないふりをしていたけれど、このときエトゥリオルは、これはいい機会かもしれないと、気付いたのだった。
 ――リオ、だったら、呼びやすい?
 エトゥリオルは遠慮がちに、そう口にだした。それはサムから借りた小説に出てきた、テラ人の登場人物の名前でもあった。テラ風の名前なら、きっとサムにも発音しやすい。
 サムの返事を待つ間、エトゥリオルは死ぬほど緊張した。ほんの呼吸ひとつぶんの間に、三回は図々しかっただろうかと考えた。
 サムはブルーの目をぱちくりとしばたいて、それからおそるおそるというふうに、確認した。
 ――だけど、君……いいのかい。
 エトゥリオルは羽を膨らませて、大きくうなずいた。
 ――君がそう呼んでくれたら、すごく、嬉しい。
 エトゥリオルはいまでも、誓っていえる。その言葉に、羽毛のひとすじほども嘘はなかった。
 もしそれが彼ではなくて、自身の名に高い誇りを抱くほかのトゥトゥだったなら、名前を縮めて呼ばれたりした日には、侮辱だと言って怒りだしたかもしれない。けれどエトゥリオルにとっては、本当に嬉しかったのだ。親しい友人の証、というものが。
 そのことをきっかけに、ますます彼らは親しくなった。いつか卒業して別れ別れになるのだと思うと、つらくなるくらいだった。
 テラ人たちの居住区で働くトゥトゥもいると聞いていた。もしかしたらエトゥリオルもいつか、そこで仕事をすることがあるかもしれない――その考えは、いつからか頭の片隅にあった。確固たる人生の目標なんていうことではなくて、ただ単純に、サムと同じ場所で働けたら楽しいだろうなというような、漠然とした思いだったけれど。
 エトゥリオルにとって、あのころ、毎日が楽しくてしかたなかった。
 ――地べた這い同士、気が合うんだろうさ。
 誰がいったのかもわからないその言葉が、背中に突き刺さった、あの日までは。


 どうしてあのとき、僕は怒らなかったんだろう?
 エトゥリオルは羽をしぼませて、座席に深く埋もれる。そうすると、ただでさえ痩せて小さな彼の体は、ますますみすぼらしく見えた。
 トラムの車窓から見える単調な光景は、鏡のように車内の様子をうつす。乗り物での遠出にはしゃいだ様子の子どもたち、静かに考えにふけっている年配のトゥトゥ――小さく縮こまって、卑屈な眼をした、やせっぽちの彼自身。
 サムはあの日以来、エトゥリオルに話しかけるのを、ためらうようになった。眼が合えば微笑むけれど、積極的に近づいてはこなくなった。
 それでもエトゥリオルのほうから、近づいてゆけばよかったのだ。何もなかったような顔で、明るく挨拶をして、前日までの続きの、たわいない雑談を持ちかければよかった。前に借りた本の感想だとか、教え方の悪い教師への不平だとか、そういうことを。
 どうしてたったそれだけのことが、できなかったのだろう。
 エトゥリオルは子どもの頃から、自分から人に親しく話しかけるということが、ひどく苦手だった。空を飛べない彼は、年の近いトゥトゥからは、たいてい馬鹿にされるか同情されるかのどちらかで、たまに誰かと少し仲良くなれたような気がしても、親しく付き合い続けるのは難しかった。たとえばちょっとそのあたりまで一緒に遊びに出掛けるというようなことが、エトゥリオルがいると、一々難しい。相手にわずらわしさを感じさせていると感じるたびに、気が引けてしまうのだった。
 そうしたことの積み重ねが、エトゥリオルを委縮させた。やがて彼は、ほかのトゥトゥと親しくなるということをはじめから諦めるようになり、その癖は、大人になってもなおらなかった。たまに向こうから話しかけてくれる相手には、なるべく礼儀正しく振る舞うこと――それがエトゥリオルにとっては、ずっと、精一杯だったのだ。
 うつむいて、エトゥリオルはポシェットを探る。取りだした小型端末の画面に表示しているのは、フェスティバルの案内だ。見慣れない動物や乗り物のイラストの上に、華やかな色彩のロゴで、今日の日付と場所が躍っている。
 サムから送られてきたものだった。
 その案内チラシが送信されてきたのは、卒業のすぐあとのことだった。もし都合がつくようなら遊びに来ないかと、遠慮がちな文面が、そこには添えられていた。
 ステーションが近くなり、列車がゆっくりと速度を落とす。正面の席のテラ人が顔を上げて、端末を荷物に放り込む。テラ人が好んで使う大きな手提げ鞄が珍しいのか、隣に座っていたトゥトゥの少年が手を伸ばして、母親にたしなめられている。
 アナウンスされた駅名は、マルゴ・トアフ。古い西部公用語で、水辺の町という意味だ。この惑星上にたったふたつっきりしかない、テラ系移民街――そのひとつ。


 列車から吐き出される乗客の波に押されて、ようやくエトゥリオルは気がつく。この大勢のトゥトゥたちは、自分とおなじくフェスティバルのためにやってきたのだ。
 こんなにたくさん乗っていたのか……エトゥリオルは振り返って、走り去る列車を見送る。
 改札を出て、エトゥリオルはトゥトゥたちの混雑から、すっと離れた。まっすぐに二階のロータリーへのぼってゆく彼らに背を向けて、地上の通用口を目で探す。
 前方に、思っていたよりもずっと立派な出入り口があって、エトゥリオルは首をかしげた。それから、遅れて気がついた。いま、青年の周りには、何人ものテラ人たちが行き交っている。
 彼らのあとに続いて自動扉を抜けながら、エトゥリオルはしきりにまばたきをする。ほかの人々といっしょの玄関を使うということに、彼は慣れていない。
 彼らにとっては、これが普通なんだ。
 そのことを納得したのは、ステーションの外に出てからだった。地上に並ぶいくつもの施設――地上を歩くたくさんの異星人たち。
 彼らは逆に、地上階から出入りするトゥトゥを見慣れないのだろう。おや、という顔でエトゥリオルに視線を向けて、通り過ぎてゆく。
 サムはあの学校に通うあいだ、どんな気持ちだったんだろう?
 そのことを、いまはじめて考えた自分に気がついて、エトゥリオルはショックを受けた。
 いつだって自分のコンプレックスを持て余すばかりで、友の苦労に思いをはせることを、ほとんどしてこなかったのだった。
 会いにいく勇気がしぼんだ。
 エトゥリオルは立ち止まって、地面に落ちる自分の影をみつめる。いったいどんな顔をして、サムに会えるというんだろう?
 このまま引き返してしまおうか。サムの端末に、都合が悪くなったと連絡をいれて。
 長いこと、迷っていた。やがてすっかり周りの人影がまばらになるころ、エトゥリオルはようやく顔を上げた。
 いまサムに会わずに帰ったら、このさき一生、友達なんか、ひとりもできないような気がした。
 ありったけの勇気を振り絞って、エトゥリオルは足を踏み出す。街の中心部へ向かって。


 ステーションのまわりには、たくさんの花々が植えられていた。整えられた花壇、たくさんのプランター。
 いっときそれらを見渡して、エトゥリオルは気付いた。それらの花々はおそらく、空から見下ろしたときに、いっそう美しく見えるように配置してあるのだった。この日のために準備したのだろう。
 マルゴ・トアフの街並みは、彼の目には、とても新鮮にうつった。建物同士の間隔が大きくあいていて、道が驚くほど整然としている。そしてとにかく、広い。ほとんどの人が、当たり前のように地面の上を歩いている。
 フェスティバルを見に来たトゥトゥたちの大半は、普段どおりに空を飛んで移動しているようだったけれど、中には面白がっているのか、テラ人たちの真似をして歩いているトゥトゥも、ちらほらといた。
 視界の隅を鮮やかな色が横切って、エトゥリオルは顔を上げる。色とりどりのバルーンが、風に飛ばされてゆくところだった。それを追いかけて、子どもたちが飛んでゆく。
 あんなにたくさん飛ばして、大丈夫なのだろうか? 上空の鳥たちを驚かせはしないだろうか。
 心配になったエトゥリオルが見守るうちに、バルーンは次々にはじけて、あとかたもなく消えていった。そのあとから、また新たなバルーンが放たれてゆく。ホログラフ? それともシャボン玉のようなものだろうか。
 いくらでも上ってゆくバルーンを、目で追いながら歩いているうちに、エトゥリオルは前方の広場に、友の姿を見つけた。待ち合わせ場所の噴水の前。全体に小柄なテラ人たちの中でも、特に小さく見える。まだこちらに気付いたようすはない。
 いまならまだ、引き返せる。また気持ちがくじけそうになって、エトゥリオルは足をとめた。
 迷う彼の視線の先で、サムは手元の端末をしきりに眺めては、顔を上げて周囲を気にしている。列車の時間は伝えてあった――エトゥリオルがなかなかやってこないので、心配しているのに違いなかった。
 意を決して、エトゥリオルは駆けだした。走りながら、大きく息を吸い込む。
「サム!」
 叫んだ瞬間、緊張のあまりに、体中の羽が逆立った。
 けれどサムはぱっと顔を上げて、笑顔になった。それからちっともためらわずに、両手を大きく振った。
 噴水の前に駆けつけるのと同時に、サムが飛びついてきた。
「よかった、会えた!」
 エトゥリオルが目を白黒させているのに気付いたのか、サムは抱擁を解いて、彼の背中をばんばん叩いた。「来てくれないかと思った」
「待たせてごめん」
 ばつの悪い思いで、エトゥリオルは尾羽を垂らした。けれどサムはぶんぶんと首を振って、笑顔になった。
「道はすぐにわかった? ステーションまで迎えにいくっていったのに」
「ありがとう。でも、一人で歩いてきてみたかったんだ。子どもみたいで恥ずかしいんだけど……」
 そんなことないよと微笑んで、サムはもう一度、エトゥリオルの背中を叩いた。
「なんだかすごく久しぶりみたいだ。――元気にしてた?」
「うん。君は……いつも元気そうだ」
 思わず本音が出たけれど、サムは歯を見せて笑った。そのいたずらっぽく光るブルーの目を見て、エトゥリオルはほっとした。前のように話せていることが、嬉しくてたまらなかった。
「――今日、来てくれてよかった」
 サムが急にしんみりというのに、エトゥリオルは瞬きをした。サムはいっときうつむいていたけれど、やがて顔を上げて、いった。「僕、地球に帰ることになったんだ」
 はっとして、エトゥリオルは友の瞳を覗き込んだ。
「帰るって――」
「一度も行ったことのない場所に、帰るっていうのも、ちょっとへんな話だけどね」
 サムはそんなふうに、笑ってみせた。彼はこちらで生まれて、故郷の星を知らない。
 彼らの母星までの道のりは、何年もかかると聞いた。エトゥリオルは慌てて口を開いた。
「だけど、君、ずっとこっちにいるんじゃなかったのかい」
「その予定だったんだけど……」
 サムはうつむいて、口早にいった。「うちの両親が、ふたりして本社に呼び戻されることになったんだって。僕だけでも残りたかったんだけど……居住権とか、難しいみたい」
 それきりサムは口をつぐんで、いっとき足元を見つめていた。
「そうか――君、まだ未成年だった」
 普段は忘れているその事実を思い出して、エトゥリオルは言葉を詰まらせた。サムはうなずいて、またちょっと笑った。
「うん。君たちみたいに、十歳で成人だったらよかったんだけど」
 そういって空を仰いだサムの瞳に、空を流れる雲がうつりこむのが、エトゥリオルから見えた。いっとき二人は黙りこんで、広場の楽しげな喧騒から切り離されていた。
 言葉を探し、何度もためらったあとで、エトゥリオルはようやく口を開いた。
「――いいほうに考えようよ。君、いつかはテラに行ってみたいって、いってたじゃないか」
 口に出してから、無神経だったような気がして、エトゥリオルは気がふさいだ。けれどサムは笑ってうなずいた。
「そうだね……うん、それはちょっと楽しみではあるんだ」
「――いつか、戻ってくるんだよね」
 縋るように、エトゥリオルはいった。サムは何度もうなずいた。それから少しためらって、続けた。「そのつもりでいる。――でも、自分の力でこっちにやってくるのって、けっこう大変なことみたいなんだ。時間がかかると思う」
 今度こそ言葉を失って、エトゥリオルは口をつぐんだ。またうつむいてしまったサムの頭のてっぺん見つめたまま、いくつもの言葉を飲み込んだ。
 いっときして、サムは急に、ぱっと顔を上げた。「ねえ、メインストリートに行こう」
 面食らうエトゥリオルの中肢(て)を引いて、サムは笑う。無理に笑って見せているのがわかる笑顔だった。
「もうじきショーがあるんだよ。あっちのほうがよく見える」
「ショー?」
 聞き返すと、サムの眼がきらりと光った。「そう。詳しいことは、見てのお楽しみ!」


 メインストリートは、なかなかのにぎわいを見せていた。
 さっきまでいた場所とは違って、道の中央には車道があり、そこには驚くほど小さくてスマートな自動車が、整然と走っている。
 サムから教えてもらったテラの本やムービーで、彼らの自動車を見たことは何度かあったけれど、実物を間近に見て、エトゥリオルはあらためて驚いた。
 トゥトゥにとっての自動車というものは、もっと大きくて、たくさんの荷を積んで街の外を走るものだ。それはたとえば、トゥトゥの手で運ぶには重すぎるような物資を、トラムの通らない場所へ運ぶような機械であって、ひとの移動のための乗り物ではない。
 歩道を歩く人の数は多い。サムがいったとおり、仮装している人がちらほらと混じっている。ときどきぎょっとするような格好のテラ人もいるけれど、エトゥリオルと眼が合うとにっこりと笑い返して、ときには手まで振ってくれる。エトゥリオルはしじゅう面食らったまま、サムについて歩いた。
「今日は、何のお祭りなんだい」
「ええと、なんだっけ。ハロ……ハロウィン、だったかな? 地球でなんかそういう名前の、仮装してやるお祭りがあって、今日はその日っていうことにしたんだって。でも、向こうとは暦も同期してないんだし、そのへんけっこう適当みたいだよ。騒げればなんでもよかったんじゃないかな」
「へえ」
 たしかに、通りを歩くテラ人たちの表情には、どこか浮かれたような明るさがあった。
 通りを歩くトゥトゥには子ども連れの姿が多いのに対して、異星人たちはほとんどが大人だ。こっちで生まれ育った子どもはまだあまり多くないのだと、いつかサムがいっていた。
 広々とした歩道のそこここに、色とりどりの屋台が出ている。そこに立ってお菓子や飲み物を振る舞うひとたちの中には、テラ人もいれば、トゥトゥもいた。配られているのは、テラ風のお菓子やジャンクフードがほとんどだが、その多くは、トゥトゥにも食べられるように工夫してあるようだった。
 歩く二人の足元を、小さな動物が音もなく駆け抜けてゆく。驚いて声を上げたエトゥリオルに、サムが笑い声を立てた。「ホログラムだよ」
 いわれてまじまじと見れば、たしかにそれは、映像だった。きれいな毛皮をした四足の動物が、気持ちよさそうに伸びをして、一声にゃおん、と声を立てる。その鳴き声は、どこか違う場所から聞こえてきたようだった。気付けば大通りのそこここを、似たような動物が駆けまわっている。
「ああ、これ、母さんがプログラムしてたやつだ。こういうことになると無駄に凝るんだから……」
 サムが伸ばした手は、あっさり映像を突き抜けて、その上に乱れた光が躍った。
「これ、なんていう生き物?」
「猫だよ。――僕だって、映像でしか見たことないけど」
 なんだか楽しくなって、エトゥリオルもサムの真似をして手を伸ばした。けれどホログラムの猫はしらんぷりをして、さっさとどこかに行ってしまう。
「可愛いね。誰か連れてきたりはしないのかな……」
「よその星の生き物を持ち込むのは、難しいんだって。生態系への配慮とか、色々」
「そっか、そうだよね」
「もっともそういう僕ら自身が、まずよその星の生き物だ」
 そういって、サムはちょっと皮肉っぽく笑った。「ああ、ほら、そろそろだ――」
 サムの指さす先を見上げて、エトゥリオルはぽかんと口を開けた。
 正面、通りのずっと向こうの空から、何かが飛んでくる。
 ものすごい速さだった。トゥトゥたちが飛びかうような空よりも、はるかに高いところを、銀色に光るものが、まっすぐに駆けてくる。先頭にひとつ――そのあとに続いて、みっつ――
 それはあっという間に、頭上を通り過ぎて行った。追いかけて巡らせた首が、痛くなりそうだった。
「ねえ、いまの――」
 聞きかけて、エトゥリオルはすぐに言葉を飲み込んだ。飛び過ぎていった四つの光が、旋回して戻ってくる。
「飛行機。フライトショーをやるんだって、父さんから聞いてたから。君、こういうのあんまり見たことないだろうと思って」
 ――飛行機。
 報道の中でしか知らなかったその言葉を、エトゥリオルは繰り返す。
 条約によって飛ぶ場所を厳しく制限されているという、テラ人の乗り物。報道の中で小さく映っているところなら、何度も見たことがある。それでも記憶のなかの機械と、いま空を行き交うそれを、エトゥリオルはうまく結びつけることができなかった。だって、こんなに速い――
 それは、まるで鳥のように編隊を組んではいたけれど、鳥のようでも、トゥトゥのようでもなかった。
 優美な軌道を描いて、高い空に翻る、銀色の翼。よく晴れた空のなか、地上のひとびとをからかうように、軽やかに踊っている。
 エトゥリオルは言葉を失って、空を見上げる。



 それは彼にとって、一年半ぶりに目にする青空だった。
 ジンは目を細めて、車窓ごしの空を見上げる。よく晴れている。空の色が違う気がするのは、窓に貼られたフィルターのせいか、それともあまりに久しぶりに空を見るせいで、そんな気がするだけだろうか。
 空が広い、と感じたのは、道幅がゆったりしているのと、建物の背が低いためだ。建築物そのものは、地球の都市で見るものとそう変わらない――当然だ、地球人が作った街なのだから。
 車は自動運転で、ゆっくりと走っている。隣の席で連れが話しかけてくるのに生返事を返しながら、ジンは外ばかり見ていた。流れてゆく景色のなか、建物の上を、大きなシルエットが舞っているのが見える。
 あれがトゥトゥだろうか。ジンは目を眇める。
 イメージしていたよりも、大きい。それとも、翼を広げてゆったりと舞うその優雅さが、実際よりも彼らを大きく見せているのか。
「……だからな、今日は昼前には終わると思うけど、もし体調を崩すようだったら――」
「ハーヴェイ、窓を開けてもかまわないか」
 話を遮られた連れは、小さく肩をすくめてみせた。「いいけど――お前、いま俺の話、聞いてたか?」
「悪い、聞いてなかった」
 いいながら、ジンの手はすでに操作パネルに伸びている。ハーヴェイはため息をついて、付け足した。「風が強いから、気をつけて」
 たしかに風が強かった。たいしたスピードで走っているわけでもないのに、吹き込んだ風が、車中の空気を一瞬でさらっていく。
「なんだかなあ。お前の傍若無人なのには、たいがい慣れてたつもりだったけど……いや、まあ、相変わらずで何よりだよ」
 皮肉でもなさそうにそういって、ハーヴェイは笑う。「なんにしても、古い知り合いが昔と変わってないのを知るのは、嬉しいもんだ」
 トゥトゥらしい大きな影は、ゆったりと上空を旋回したあと、遠くのビルの屋上に降り立って行く。この風の中だというのに、思わず見とれるような、優雅な滑空だった。
「――空の色が、違うな」
 ジンは呟く。こうしてじかに見ても、地球の空とは、少し色が違う。向こうにいるときにも、惑星ヴェドの空を映した資料画像を見たことはあったはずだが、そのときには気付かなかった。
「ああ、そうだな。紫外線もこっちのほうが強いから、長時間屋外で作業するときは気をつけて――だけど、センターにも窓ぐらいあっただろう?」
 ジンはリハビリテーションセンターの部屋を思い出して、肩をすくめた。たしかにあった。嵌め殺しの、小さく分厚い窓が。
 防疫管理上の問題から、地球からやってきたばかりの人間が入るエリアは、笑えるくらい厳重に隔離されている。廊下でさえ勝手に出歩くことは許されないし、中庭のたぐいもなかった。それに――
「正直、ゆっくり窓の外を眺める気分じゃなかったな」
 いって、ジンは窓を閉めた。
 一年半にわたる長旅だった。宇宙船の中でも、欠かさずトレーニングをこなすことが義務付けられていたし、月面の宇宙港にある施設でも、低重力下でのリハビリをしてきた。それにもかかわらず、いざ惑星上に降り立ってみれば、驚くほど体力は落ちていた。
 この二週間、たび重なる検査の合間に、じれったいようなリハビリプログラムをひとつずつこなしながら、気ばかりが急いていた。仮にセンターに広い窓があったとしても、外を眺めたりはしなかったかもしれない。
「で、地球とは違う空の色を見て、帰りたくでもなったか?」
「まさか」
 首をすくめて、ジンは一蹴した。「ただ……そうだな。遠くに来たって実感は、ようやく湧いてきたかな」
 それを聞いて、ハーヴェイがにやりとした。
「ようこそ、マルゴ・トアフへ」
 芝居がかった調子だった。両手を広げて、ハーヴェイは笑う。「住めば都とはよくいうが、慣れれば地球の大都市圏なんかより、ずっと暮らしやすいところだよ。スタッフは気のいいやつらだし――お前にはきっと、こっちの暮らしは、合うと思うぜ」
 自分のほうこそよほど水が合っているような調子で、ハーヴェイはいう。ジンは思わず、まじまじと友の楽しげな表情を見た。
 この旧友が、見た目よりもよほどハードな職責を背負わされているということを、ジンは知っている。なんのことはない、自分と同じということだ。忙しければ忙しいほど活き活きとする、その種の変人(ワーカホリック)の顔つきをしていた。
 車は自動操縦で角を曲がる。フロントガラスに投影されたナビゲーションを見る限り、まっすぐに最短ルートで支社に向かっているようだった。O&Wヴェド支社、彼の新しい職場。
「――外に出たいな」
 ジンがそういうと、ハーヴェイは露骨にため息をついた。
「あのなあ、ジン。お前、リハビリだってまだ途中なんだぞ。わかってるのか? 今日だって、手続きのためにやっと外出許可を取ったっていうのに」
 ジンはうんざりして首を振った。
「宙港に入ってから、月面でひと月も待たされたんだぞ。挙句、ようやく地上に降りたと思ったら、今度は窓もあかない建物の中に缶詰だ。これでくさくさしないでいられるやつがいるのか?」
「まあ、わかるけど……」
 ハーヴェイは言葉を切って、少し考えるようだった。
「そうだな。ちょうどフェスティバルがあってるから、途中でちょっと車を止めて、外の空気を吸うか。――不満そうだな。いっとくけど、それ以上はドクターストップだからな。歩き回るのは、まだ早いよ」
 その言葉を聞いて、ジンはふと笑った。見咎めて、ハーヴェイが眉を寄せる。
「何が可笑しい?」
「いや。お前が医者だっていうのも、まだぴんとこない」
「失礼なやつだな。だいたい、向こうで最後に会ったときには、もう医師免許は取ってただろ」
 顔をしかめながら、ハーヴェイは操作パネルを触る。その画面を見ながら、ずいぶん旧式の車だなと、ジンは呆れた。
 けれどそれは、わざとそうしてあるのだというのも聞かされていた。へたに最新技術を使っても、地球とは違う環境で運用される上に、何かあっても、修理できる設備や人材が、向こうに比べると限られてくる。それよりは壊れにくく、修理が容易なものがいいというわけだ。長年使われて信頼性のあるものなら、なおのこといい。
「フェスティバルっていうのは?」
「ああ。各企業から金と人を出して、ハロウィン風のお祭りをね。うちの会社からは、航空ショーをやってるよ」
「――へえ」
「おい。仕事をするにはまだ早いぜ」
 呆れたようにハーヴェイがいうのに、ジンは肩をすくめた。
「見るだけだ」


 車を降りるとき、ジンは慎重に地面を踏みしめた。ふらつきでもしたら、ハーヴェイに何といわれるかわからない。
 ホログラムの動物たちが、足元をにぎやかに走り回っている。デフォルメされた猫、兎、通りの向こうにはプードルまでいる。それを見た年配の婦人が、喜んで声を上げている。こちらに移住して久しいのだろう。彼女の気持ちが、ジンにもわかるような気がした。ヴェドに生き物は持ち込めない。
 顔を上げると、やはり空が、視界いっぱいに広がった。
「――建物の背が、低いな」
「ああ、それは協定があるんだ」
 ハーヴェイはいって、ぐるりとあたりを見回した。 
「背の高い建物があると、ビル風が彼らにとって危険なんだそうだ。建物の色が全体的に地味なのも、同じ理由だよ。反射光が危ないっていうんで、地球みたいに、ガラス張りのぴかぴかした建物はつくれない」
 いわれてみれば、たしかに建物よりもほんの少し高いところを、トゥトゥらしき大きな影が、ゆったりと飛び交っている。
 色とりどりの羽――風を巧みにとらえて自在に行き来する、強い翼。
 その優美さは、鳥のそれと同種のものだったけれど、シルエットひとつとっても、地球の鳥とはずいぶん違う。体型も違うし、翼のほかにもうひと組、肢(て)があるのもそうだ。資料では知っていたはずのことでも、こうして目の当たりにすれば、やはり新鮮だった。
 地上にも、歩きながら屋台を冷やかすトゥトゥの姿が目立っている。屋台といっても、その食べ物がほとんど無料で配られていることに、ジンは気付いた。
 ハロウィン風とハーヴェイがいったとおり、仮装している人々もいたが、それは地球人ばかりだった。トゥトゥにはそもそも、服らしい服を着る習慣がない。しかし彼らの羽の色はさまざまで、それ自体が仮装のように、ジンの目には映った。
 いまの時期、このあたりは晩春のころだと聞いていたが、風はそこそこ冷たかった。メインストリートには、にぎやかな音楽が溢れている。地球でいつか流行った歌に混じって、こちらの音楽だろう、聴き慣れない拍子のメロディーが混じる。ときおり色とりどりの風船が、空に放たれていく。
「派手にやってるな」
「まあね。――もとはうちの支社長が言い出したらしいんだけど、そこに国連支部のなんとかいう出先機関が乗っかってきて、けっこうおおごとになった」
「国連が?」
「そ。ファースト・コンタクトから数えれば、もう二百年から経つっていうのに、現地民との交流がなかなか進まないってんでさ。きっかけはなんでも歓迎なんだろう」
 へえ、と相槌を打って、ジンは空を見上げた。高いエンジン音が近づいてくると思ったら、空のずいぶんと高いところで、小型飛行機が曲芸飛行をやっている。車中でハーヴェイがいっていた航空ショーだろう。
 小型輸送機だった。ジンは目を眇めて、銀色の機体を見定める。戦闘機でもないのに、見事なものだ。
 しかしそれを見上げるトゥトゥたちの反応は、感心が半ば、困惑が半ばといったところに、ジンの目には見えた。
「――交流、ね。それで食いものを配って、ショーフライトか。発想が軍隊だな」
「俺もそう思う」
 いって、ハーヴェイは皮肉っぽく笑った。「しかしまあ、天気がよくて何よりだったよ。なんせこっちは、天候が変わりやすくて」
「この風は、いつもか?」
「ああ、今日は特に風があるほうかな。だけど、向こうに比べたら、ずっと、風の強い日が多いよ」
「上空はもっと風があるんだろうな」
 ジンの目が小型機をじっと追っているのを見咎めて、ハーヴェイは肩をすくめる。
「仕事にはまだ早いっていっただろ。張り切ったって、どうせあと一か月は仕事はさせられないんだ。のんびりやれよ」
「それは、医者としての意見か?」
「支社の規定だよ。焦っても無駄ってこと。ま、復帰したら嫌でもこき使われるから、覚悟しとくんだな。なんせエンジニアの数はぜんぜん足りてない――お前、なんでもやらされるぜ。こっちでは専門外って言葉は通用しないんだ」
「覚えとくよ。――と、失礼」
 ふらついた拍子に通行人とぶつかって、ジンは振り向いた。とっさに口から出た謝罪は英語だったが、そこに立って目を丸くしていたのは、地球人ではなかった。
「こちらこそ、ごめんなさい」
 目の前のトゥトゥの口から、英語で返事があったことに、ジンは意表をつかれた。地球人居留区で働くトゥトゥもいるとは聞いていたし、英語を話すものがいても不思議ではなかったが、それにしても、きれいな発音だった。
 はじめて間近で見るトゥトゥの姿に、ジンは一瞬、正面から見とれた。白くつやのある羽毛は、翼の先の方だけに茶色の斑が入っていて、その模様が目に美しい。周囲をゆきかうほかのトゥトゥに比べると小柄なように見えるけれど、それでもジンと同じくらいの背丈がある。
「リオ、大丈夫? 君、さっきから上ばっかり見てるから……」
 そういいながら駆け寄ってきた地球人の少年は、このトゥトゥの連れらしかった。そばまで近づいたところでハーヴェイのほうを見て、驚いたようすで目を丸くした。
「あれ、ハーヴェイさん? 休暇ですか?」
「なんだ、サムじゃないか。いや、いまから支社に戻るところだよ。――友だち?」
「ええ、ハイスクールで一緒だったんです。もしかして、そちらの方は――」
「ああ、そうか。こいつが君のお父さんの後任になるんだよ」
「そうなんですね」
 ジンの方を振り返って、サムは微笑んだ。そのいっぷう変わった色味の金髪や、ひょろりと高く伸びた背丈に目をとめて、ジンは驚いた。
「君は、二世代目?」
「ええ。生まれたときから、ずっとこっち。――もういっときしたら、地球に戻ることになります」
 そう話すサムは微笑んではいたけれど、そこに不安の影がにじんでいることに、ジンは気がついた。彼にとっては、ここが故郷なのだ。いくら両親のルーツだとはいっても、見知らぬ星に移住するのは不安だろう。
 ハーヴェイがふっと真顔になって、サムの肩を叩いた。
「いつか君とも一緒に働くものだと思ってた。残念だよ」
「僕もです」
 サムは、歳に似合わない大人びた表情で笑う。「――いつか僕も、こっちの飛行機、作りたかったな」
 呟いたあとで、少年はぱっと友人のほうを振り返って、笑顔になった。
「そうだ――リオ、さっきの飛行機、すごかっただろ?」
 ああいう飛行機の設計をする人なんだよといって、サムはジンを手のひらで示してみせた。
 しんみりした空気を吹き払おうと無理をしているのは明白で、その少年らしからぬ気遣いが、かえって痛々しいように、ジンの目には映った。
 リオと呼ばれたトゥトゥは、いっとき言葉を詰まらせて、嘴を開閉していた。緊張しているのか、羽を逆立たせて、さっきまでよりも全体的に膨らんで見える。いっとき口ごもってから、思い切ったように顔を上げて、口を開いた。
「あの――僕を、あなた方の会社で、雇ってもらえませんか」


   ※  ※  ※


 オーウェンアンドウィーバリー・エアプレーン・インダストリーズ。それがハーヴェイの勤務先の正式名称だ。
 創業者たちの名前がいまだに残っているという、なんとも前時代的な感のある社名だが、長くて面倒だというので、対外的にも社員的にもO&Wで通っている。
 もともとは古くからあった航空機メーカーが、多角経営化が進んだあげく、いまでは傘下に多くの企業を持つ巨大グループになっている。わざわざ遠くの星に人材を送り込んで支社を立ち上げるくらいだから、惑星ヴェドに存在する地球系の会社は、この手の大企業がほとんどだ。
 そのO&Wヴェド支社には、かなりの広さの診療室がある。慣れない異星での生活ということで、産業医の配置や健康診断の内容に、地球の企業よりもよほど厳しい制約があるためだ。
 広々とした診療室の隣、自分に与えられている事務室で、ハーヴェイは椅子を揺らしながら、電子カルテをチェックする。旧友を迎えにちょっとセンターにいっている隙に、机の端末には大量の書類が届いていた。まあ、それくらいはいつものことだ。
 来客用のテーブルで、同じく大量の誓約書と格闘していたジンが、ふっと顔を上げて呟いた。「――しかし、えらく話が早いんだな」
 件のトゥトゥは結局、今日のうちにすぐ面接という運びになった。いまごろ人事部社員の立会いのもとで、テストを受けているはずだ。
「支社の方針があるんだよ――もっとトゥトゥの雇用を増やしたいんだ。とにかく人手が足りてないからね」
 答えて、ハーヴェイは肩をすくめる。なんせ地球から技術者を呼び寄せるのには、とにかく金がかかる。あらゆる経費の中で、地球から人を連れてくるのにかかる費用が、桁違いに飛び抜けているのだ。
「だけど、うちで働きたいっていう奇特なトゥトゥは、なかなかいないからさ。――はい、ついでにこっちの同意書も電子署名(サイン)して、一緒に人事に提出しといて」
 ジンの手元の端末に書類を転送しながら、ハーヴェイは自分の肩を揉んだ。このあとジンの手の甲にIDチップを埋める簡易手術が待っている。
 O&Wの主要事業である航空産業は、トゥトゥの間から、いまだに反対の声が根強い。反対の声よりも需要のほうが大きいからこそ、参入する余地があるわけだが、それでもやはり、ここで働きたいというトゥトゥは多くない。
「エトゥリオル、っていったな。まあ、十中八九、すぐに決まると思うよ。真面目そうな子だし――それに、聞いただろ。あの流暢な英語!」
 あまりにきれいな英語を話すので、どこで覚えたのかと尋ねると、本人ではなくて、一緒にいたサムのほうが胸を張った。もともとは僕が教えたんですけど、でもこいつ、天才なんですよ!
 褒められたエトゥリオルのほうはというと、ひどく小さくなって首を振った。
 ――そんな。僕はただ、サムから借りた地球の本や、映画が面白くて。それで。
「しかし謙遜するトゥトゥってのは、はじめて見たな」
 ハーヴェイは呟いて、口角を上げた。
「そういうものか」
「まあトゥトゥも色々なんだろうけど――珍しいタイプなんじゃないかと思うよ」
 地域差や個人差はあるにせよ、トゥトゥは概して誇り高い。その誇りに見合うだけの礼儀正しさをも持ち合わせた種族ではあるけれど、しかし多くのトゥトゥは、自己評価を低く見積もることを好まない。
 ――あの、僕、生まれつき障害があって、飛べないんです。
 おっかなびっくりそう申告したエトゥリオルのようすを、ハーヴェイは思い出す。飛べないということが、あの小柄なトゥトゥのメンタリティに関係しているのかもしれない。
 何かしらの配慮のいる相手かもしれない――少し考えて、やめた。本人をよく知りもしないうちにあれこれ憶測しても、仕方のないことだ。顎をさすって、ハーヴェイは旧友のほうを振り返る。
「ま、あとはお前の裁量が試されるってわけだ」
「――俺か」
 にやりと笑って、ハーヴェイは端末に視線を戻す。人事部の知り合いからメールが届いていた。
「人事部長のさっきのようすからしたら、まずそうなると思うね。トゥトゥのエンジニアをいずれ育てたいっていうのは、前々から出てた話だったし――お前の通訳にももってこいだ。よかったじゃないか」
「それは助かるが……まあ、いい。もう決まったも同然なんだろう。その話しぶりからすると」
「ご明察」
 メールを一読して、ハーヴェイは椅子を回す。「いま書類が回ってきたよ。案の定、優秀なもんだ」
「――それはいいが、なんでそんな書類がお前のところに回ってくる?」
 にやりと笑って、ハーヴェイはメール画面を閉じる。
「まあ要するに、人付き合いは重要ってことさ」


   ※  ※  ※


 新年度から来られるかい。そういわれた瞬間、エトゥリオルは舞いあがるあまり、言葉を失った。それから大慌てで、ぶんぶんと何度もうなずいた。
「僕なら、明日からでも」
 勢い込むエトゥリオルに、人事部長という人は目を丸くして、破願してみせた。「そいつは嬉しい心がけだが、こっちにも手続きがあるし――それに、きみの上司になる予定の人間が、まだいっときリハビリテーションセンターから出てこないんだよ」
 どのみちじきに夏になることだし、しばらく待ってくれと、人事部長はいった。
 オーリォの季節になると、若いトゥトゥの多くは旅に出てしまう。
 そのためトゥトゥの一般的な企業では、そのひと月ほどの期間、ほとんど開店休業のような状態になる。マルゴ・トアフのテラ系企業が、その慣習に合わせているというのは意外だったけれど、よく考えてみれば、彼らにとってもオーリォの季節は、取引先の多くが休みに入る時期なのだろう。
 すぐに働けないというのは残念だったけれど、それでも帰り道、エトゥリオルはずっと浮かれていた。はじめのうちは見習いという話だったけれど、それでもこれまで彼が置かれてきた境遇からすれば、夢のような話だ。
 ――そうだ、念のために聞くけど、君、成人してるよね?
 面接に入る前に、ハーヴェイからそう確認された。
 気を悪くしないでくれよ。僕らにはなかなか、見ただけじゃ君らの年齢がわかりづらくってね――ハーヴェイは申し訳なさそうに弁解したけれど、それが方便だということは、すぐにわかった。痩せて体の小さいエトゥリオルは、同胞の間でさえ、ときどき子どもと間違えられる。
 成人したのは三年も前だ。それでもエトゥリオルは、返事をためらった。その微妙な間に、ハーヴェイが首をかしげるのがわかって、エトゥリオルは慌てた。
 ――あの、法的にはとっくに成人してます。ただ、僕――生まれつき障害があって、飛べないんです。それで、一人前としてみてもらえなくて……
 飛べないことで、仕事に制約があるというだけではない。十歳を迎えた次の夏、自分の翼で最初のオーリォに出て、はじめてトゥトゥは成人したとみなされる。
 古くからの慣習だ。地域によっても差はあるけれど、ほとんどの地方のトゥトゥがいまでも似たような風習を持っている。法律上はともかく実質的に、エトゥリオルは彼らのあいだで、一人前のトゥトゥと思ってはもらえない。
 ――あの、だけど、僕。
 何かいわなくてはならないと焦るエトゥリオルに、ハーヴェイは何でもないようにあっさりと首を振った。
 ――それは特に、問題ないと思う。ここでの仕事には、空を飛ばないとできないようなものはないよ――あったら僕らが大変だ。
 そういって、ハーヴェイは笑った。それより君、手先は器用かな? 機械をさわったりするのは好き?
 勢い込んで何度もうなずいたエトゥリオルに、それはよかったといって、ハーヴェイは書類を渡してくれた。
 そのあとで面接をしてくれた人事のひとも、同じような質問をして、やっぱり、まったく問題ないといった。
 飛べないということが、彼らのあいだでは、なんのハンディキャップにもならないのだ。
 考えてみれば当たり前のことだ。けれどたったそれだけの事実が、エトゥリオルにとって、どれだけ嬉しかったか。
 面接が終わるまで待っていてくれたサムは、わがことのように喜んで、ばしばしとエトゥリオルの背中を叩いた。よかったね、ほんとによかった――
 エトゥリオルは家路を歩きながら、翼を震わせる。サム――彼に会わなかったら、こんなチャンス、巡ってくることなんてなかった。


 その夜、たった一日でがらりと変わってしまった自分の運命に、エトゥリオルは興奮して、なかなか寝付けなかった。何度となく夜中に目を開けては、昼間の出来事は夢だったのではないかと疑って、小型端末を開いては、書類の存在を確認した。
 眠りなおそうとして目を閉じるたびに、瞼の裏に浮かぶのは、あの街の空に見上げた、銀色の飛行機。
 ――あの街で、働ける。




 幼いころ、エトゥリオルはいつか自分も空を飛べるようになることを、疑ってもいなかった。
 ひと一倍熱心に、彼は飛ぶ練習を重ねた。他の子どもらがそうするのと同じように、屋上のへりに足でしっかりしがみついて、くりかえし羽ばたきの練習をした。段差から飛び降りながら翼を動かしてもみたし、年長のトゥトゥが手本としてやってみせるように、助走をつけて翼を広げようとしてみたりもした。
 けれど彼の翼の動きは、どれだけ練習を重ねたところで、ごく弱々しいものにしかならず、体が浮き上がるような兆候は、いつまでたっても見られなかった。
 そもそもほかのトゥトゥが滑空をするときのように、すばやくまっすぐに翼を広げるというだけのことさえ、彼には満足にやれなかったのだ。時間さえかければなんとか広げることはできるのだけれど、それは赤ん坊のトゥトゥといい勝負の、緩慢な翼の動きにしかならなかった。
 近所の同い年の子どもらは、ひとりまたひとりと飛ぶことを覚えてゆき、やがてエトゥリオルだけが、最後まで取り残された。
 楽しそうに飛びまわる友人たちを、ひとり地上から羨ましく見上げるのが、エトゥリオルの日常になった。
 飛べないこと以上に、その仲間はずれのさびしさが辛かった。昨日までは同じように空を見あげて悔しそうにしていた友人が、あるとき魔法のようにこつを掴んで、危なっかしく、けれどたしかに自らの意思で、空へ飛び立ってゆく。
 そうなれば、すぐに彼らは空の上での遊びに夢中になる。地上からいつまでもひとり飛び立てない、どんくさい友達のことを、いっときのあいだ気遣いはしても、そういつまでも人の心配ばかりはしていられない。
 満足がゆくまで空を飛びまわって、やがて戻ってきた彼らは、エトゥリオルの姿を見て、ばつの悪そうな顔をする。その瞬間がつらくて、だんだんエトゥリオルのほうから、彼らと距離を置くようになった。


  ※  ※  ※


 自分の机をもらえた。
 それはエトゥリオルにとって、大事件だった。
 たかが机だ。自分でも、頭ではそう思う。トゥトゥがよく使う軽くて分解しやすい製品ではなくて、合金と樹脂の組み合わせの、重くて頑丈なデスクだというのは、珍しい経験かもしれない。それでも机はしょせん机だ。
 しかもテラ人の体にあわせて作られたデザインだから、彼にはあまり使いやすくもない。椅子ははじめからトゥトゥ用のものを用意してもらったけれど、引き出しの位置が邪魔だったり、広すぎて奥の方まで手が届かなかったりする。座り心地のいい席かといわれると、返答に詰まる。
 けれど、そんなことはどうでもよかった。
 自分だけの席が、オフィスにある。毎日、出勤したらその席について、彼に与えられた端末に向かって仕事をする。
 それは彼にとって、人生で初めてのことだった。
 舞いあがるあまり、デスクを前にした瞬間、エトゥリオルは固まった。あまりにも長いあいだ立ちつくしたまま固まっていたので、初日から上司を困惑させてしまった。


 出勤初日のその朝、会社のロビーで――地上階のほうの入り口だった――面接のときの人事部長が、にこやかに出迎えてくれた。その横に、ひとりの異星人が立っていた。
 知っている顔だった。フェスティバルの日、メインストリートでぶつかった異星人。エトゥリオルがこれまでに見たことのあるテラ人と比べて、背が高く、痩せていて、そして無愛想だった。
 今日から彼が、君の上司になる。そういって紹介されたその人は、ジン・タカハラと名乗った。
 そっけない感じで伸ばされた手は、指が長く、関節が目立って、なんとなくごつごつとしていた。
 彼らに握手の習慣があるというのは、サムから教わって知っていた。あわてて中肢(て)をさしだしたエトゥリオルは、見た目とは違う異星人の手の柔らかさに、ちょっと戸惑った。
「あの――なんてお呼びしたらいいですか」
 おそるおそる、エトゥリオルがそう訊ねたのは、どうやらテラ人の多くが上司を呼ぶときに、役職や敬称を使い分けているらしいということに、気付いていたからだ。周囲で雑談しながら歩く人々もそうだし、サムから借りた小説や映画の中でも、そうした風潮は垣間見られた。
 そこまではわかるのだけれど、どんなふうに使い分けたらいいのかが、エトゥリオルにはぴんとこない。敬称というもの自体が、そもそもトゥトゥにはなじみがないのだ。
 トゥトゥのあいだでも役職はもちろんあるが、役職で相手を呼んだりしたら、まずまちがいなく侮辱だといって怒られる。トゥトゥはなによりも先に、まずその名をもつひとりのトゥトゥであって、名もなき誰かではない、というわけだ。
 けれど、テラでは違う。彼らの会社で働かせてもらうのだから、彼らのルールにあわせるべきだ。エトゥリオルはそう考えた。
 けれどジンは、あっさりといった。「ジンでいい。――それが君たちの流儀だろう?」
 やっぱりそっけない口調だった。エトゥリオルは困惑して、眼をしばたいた。
「え――だけど、その、失礼にあたりませんか?」
「俺は、君たちの名前についての考え方を聞いたとき、とても感銘を受けたし、羨ましい話だと思った」
 間髪いれずジンはそういって、それから軽く首をかしげた。「――ただ、たしかに君のいうとおりだ。相手と場合によっては、失礼だと思われるかもしれない」
 エトゥリオルが慌ててうなずくと、ジンは少し考えてから、教えてくれた。
「そうだな。よく知らない相手には、とりあえずファミリーネーム……あとのほうの名前だな、それの前にミスタを付けて呼べば、たいてい失礼にはならないだろう。女性ならミズ」
「ミスタ・タカハラ、というふうに?」
「そうだが、頼むから、俺にはやめてくれ。ミスタ、なんていうがらじゃない」
「わかりました。――ジン」
 エトゥリオルがそういうと、ジンは小さくうなずいて、それから少し、ためらうような間をおいた。
「君の英語のほうが、俺の西部公用語(セルバ・ティグ)よりよほど流暢だし、こちらにあわせてもらうほうが、合理的なんだろうが……」
 ジンはこちらの言葉で、そう切り出した。英語で話すときと、声質ががらりと違う。サムもそうだったけれど、本来は発音できない声域を、機械でカバーしているのだ。
「しかし俺は、こっちの言葉をなるべく早く、マスターしなきゃならない。言葉を覚えるのには、とにかく使うのが早道だと思う。勉強につきあうと思って、君たちの言葉で話してくれないか」
 そんなふうにいうわりに、彼が話すのは、きちんとしたセルバ・ティグだった。ところどころイントネーションに違和感はあったけれど、通じないところも、文法的に間違っているところもない。
 本当に練習の必要があるのかとは思ったけれど、いわんとすることは納得できた。エトゥリオルは素直にうなずいて、自分もセルバ・ティグに切り替えた。
「わかりました」
「――もしかして、あらためて英語を勉強してきてくれたんじゃないのか」
 その言葉を聞いて、エトゥリオルはやっと、ジンが言い出しにくそうにしていた理由に気がついた。彼の努力を無駄にしたのではないかと、気にしてくれたのだろう。
「いえ――ええと、機械をさわる仕事だと聞いたので、関係のありそうな言葉を、少しだけ。だけどもとからサムに教わっていましたし、あらためてというのは、そんなに」
 言葉を選びながらそういうと、ジンはうなずいて、すまないといった。
 エトゥリオルは、上司への印象を改めた。よく笑うサムと違って、なんだか表情は少ないし、ぶっきらぼうな話し方をするひとだなと思っていたけれど、そういうことではないのかもしれない。
「しかし、正直にいって、言葉はなんとかなると思うんだが……八進法に慣れるのには、手間取りそうだ」
 その言葉に、エトゥリオルはジンの手を見た。テラ人の、十本の指。そういえば、サムも数学が苦手そうにしていた。こちらで育ったサミュエルでさえそうなのだから、来たばかりの彼からしたら、なおさらだろう。
 ここだといってジンが足をとめたのは、大きな扉の前だった。金属製の扉はきっちり閉ざされていたが、彼が壁の機械に手をかざすと、触れもしないのに、かすかな音を立てて開いた。
「君にもあとで、IDカードを渡す。俺たちは小さなチップにして手に埋め込んでしまうんだが――君は、そうだな、紐を通して首からでも下げておくといい」
 うなずきながら足を踏み入れると、なかには広々とした事務室があった。
 ゆったりとした間隔で、デスクや作業台がいくつもならんでいる。その上には、何に使うのかわからない道具の数々。デスクの数よりも、機械類のほうがずっと多い。壁際にはエトゥリオルにとっては見たこともないような、大型のコンピュータがたくさん並んでいる。
「ここで仕事をすることになる。といっても、実際は、工場のほうといったりきたりだな。――いまちょうどほかの連中が出払ってるが、午後には戻るらしいから、そうしたら皆に紹介しよう」
 そういいながら、ジンは入り口のそばのデスクを指し示した。ごく何気ない、あたりまえの仕草だった。
「君の机は、それだ」
 エトゥリオルは、その場で固まった。たっぷり呼吸五つ分は、動けなかったと思う。
 言葉も出てこなかった。
 頑丈そうな、真新しい感じのする机だ。どうやって搬入したのかと思うような大きさの、エトゥリオルの何倍も重さのありそうな、どっしりした事務用デスクだった。そして何より重要なことに、ほかにたくさん並んでいるものと、同じデザインだった。
 みんなと同じ、机。


「――座ったらどうだ」
 いわれて我に返ったエトゥリオルは、恐る恐る椅子を引いて、そっと腰を下ろした。そうすると、視線の高さにディスプレイがあった。
 彼用の机で、彼用の椅子で、彼用の端末なのだ。
 嬉しかった。ものすごく、嬉しかった。
 役に立たないといけない。まずなによりまっさきに、そう思った。
 なんせ自分は、まだ見習いなのだ。仕事が決まってからあわててちょっと勉強をしてきただけの、専門の訓練を受けたこともない、右も左もわからないような素人だ。
 それなのにまっとうな一人前であるかのように迎えてくれた彼らに、それだけの価値のある人材だと認めてもらえるように、頑張らなくてはならない。
 何を頑張ったらいいのかさえ、まだわかってもいなかったけれど、とにかくこのとき、その思いだけが、エトゥリオルの頭を占めていた。
「もともと、俺の専門は飛行機の、機体のほうの設計なんだが――どうやらここでは、なんでもかんでもやらされるらしい」
 人手が足りないのだと、ジンはいった。
 トゥトゥの言葉で「設計」といった、彼の声の響きを、エトゥリオルはふしぎな感慨とともに聞いた。あの飛行機のような機械を、設計して、実際に動くように組み立てる。それはどんな途方もない作業だろう?
「しかし、そうはいっても、俺自身がまだ復帰したばかりで、まともに仕事にならないんだ――悪いが今日は、とりあえず端末に入っている資料を眺めていてくれ。詳しいことは後回しにして、だいたいこういう感じの仕事だっていうのを、ざっと見てくれればいい」
 いわれてディスプレイを見ると、エトゥリオルの視線を拾って、インターフェイスが勝手に立ちあがった。
 端末自体は見慣れない大きなものだったけれど、ディスプレイの形やインターフェイスは、エトゥリオルも触ったことのある、トゥトゥの大手メーカー製品だった。
 もしかして、自分にあわせてわざわざ用意してくれたのだろうか? 驚いたエトゥリオルがそのことをいうと、ジンはあっさりと首を振った。
「いや。コンピュータ製品の基本性能は、こっちのもののほうがいいからな。使い道によっては善し悪しがあるらしいが、コストパフォーマンスまで考えたらな」
 俺はまだ、慣れなくて戸惑ってるがと付け足して、ジンは自分の端末に視線を投げた。いわれてみれば、そちらもどうやらトゥトゥの製品のようだった。ただ、ディスプレイの形状がまったく違う――トゥトゥと彼らはものの見え方が違うというから、彼らにあわせて改良してあるのだろう。
 エトゥリオルは驚きすぎて、言葉もなかった。
 なんせ相手は、異星人だ。はるか遠くの星系から、はるばるやってきた人たちで――宇宙を旅する手段も、空を飛ぶ飛行機も、速度の出る上に安定して動くトラムも、そのほかトゥトゥの手元にはいまだなかった重機や建築方法やその他の構造物を、はるばるこの星に持ち込んだのは、彼らテラ人なのだ。
 対してトゥトゥは、自分たちの惑星の月にさえ、いまだに自力で行ったことがない。そのトゥトゥの作った製品のほうが、彼らの持つコンピュータよりも性能がいいなんて、どうやったら信じられるだろう?
 そういうと、ジンはあっさり首を振った。「求められてきた技術の方向性が違うっていうことだろう。――誤解があるかもしれないが、もともと俺たちのほうが、君らの文明から学ぶために、こっちに来てるんだ」
 二度驚いて、エトゥリオルは羽毛を逆立てた。信じられないような話だと思った。
「俺からしてみたら、むしろ、不思議に思える。これだけの技術力があるのに、どうして君たちの知識と技術が、航空や宇宙の分野にはあまり向かなかったのか……」
 途中で言葉をきって、ジンはわずかに目を細めた。「だが、まあ、なんとなくわかるような気もする。――飛べない俺たちのほうが、空への憧れが強かったんだろう」
 どきりとして、エトゥリオルは顔を上げた。ジンはディスプレイに表示された図面を、じっと見つめている。
 エトゥリオルもつられて、その図面を眺めた。それの外形は、あの日の空に見上げた飛行機のものと、よく似ているように見える。
 ――これが、飛行機の設計図なんだ。
 ふしぎな感慨とともに、エトゥリオルはその図面を見た。書かれている数字や記号の意味も、いまはまだ、さっぱりわからなかったけれど。
 ――空に憧れて、どうしても飛びたくて、それで、あんな飛行機を作ってしまうんだ。
 図面を見つめるジンの真剣なまなざしを見て、同じだと、エトゥリオルは思った。
 このひとたちと自分は、きっと、同じだ。


  ※  ※  ※


 五歳の誕生日をまもなく迎えようかというころになっても、エトゥリオルは飛べるようにならなかった。どんなに発育の遅い子でも、いいかげん自由に空を飛び回っている年齢だった。
 いくらなんでもおかしいというので、両親に手を引かれて病院にいった。住んでいる街のちいさな医院ではなく、トラムにのって、隣まちの大病院へ。
 わざわざ足を運んだわりに、検査自体は、簡単なものだったと思う。少なくとも、まだ子どもだったエトゥリオルが、退屈を持て余して騒ぐほどの暇もなかったのはたしかだ。
 検査機器にうつった画像を眺めて、医師はいっとき黙り込んだ。そこにはトゥトゥの骨格が映し出されていた――それが自分の体の骨を透かして見ているのだということをエトゥリオルが理解したのは、少し遅れてからだった。
 長い沈黙に、彼ら家族がすっかり不安でいっぱいになるころ、医師はようやく、重い口を開いた。
 ――竜骨、というのです。
 そういって、医師はこつこつと、中肢(て)で自らの胸を叩くそぶりをみせた。続いて画像の真ん中のあたりを、そして最後にエトゥリオルの胸元を、指してみせた。
 ――こっちが、平均的なトゥトゥの骨格。
 そういって医師がディスプレイに表示させた写真は、さっき見せられたばかりの画像とは、似ても似つかないように見えた。三角の、大ぶりで、頑丈そうな骨。
 ――この骨が、飛ぶための筋肉を支え、ほかの骨と骨を、しっかりと繋ぎとめておるのです。おわかりになるでしょうか。
 医師は淡々と説明を続けた。いわれている言葉の内容ではなく、その声のため息のような響きに、エトゥリオルは不安をつのらせた。
 ――一般に、なかなか飛ぶのが上達しない子というのは、体重が重すぎるか、筋力が足らんのです。あるいはただ単純に、体を動かすこつを呑みこむのが、ちょっとばかり遅いか。そういうのは、とにかく時間はかかっても、努力で解決できる。
 そこで少しためらってから、医師は思いきるようにいった。
 ――だが、お子さんの場合は……たとえ筋肉をつけたところで、それを支えるだけの骨がなくては。
 その言葉を聞きながら、つないだ父親の手がかたくこわばったのを、エトゥリオルはよく覚えている。
 帰り道、父親は、もう手をつないではくれなかった。彼が見上げると、視線をひどく彷徨わせて、やがてばさりと羽を鳴らした。そうしてひとり、先に飛んでいってしまった。
 そのぐんぐん遠ざかる背中を見送りながら、エトゥリオルは何度も父親の名前を呼んだ。どうやら自分が飛べるようにならないらしいということよりも、置いていかれる恐怖のほうが、そのときにはずっと強かった。


   ※  ※  ※


 ――地べた這いどうし。
 いつか背中で聞いたその言葉が、ディスプレイの図面を見つめるエトゥリオルの胸に、ふとよみがえる。
 あのとき、その言葉が耳に飛び込んできた瞬間、エトゥリオルは悔しかった。悔しくて、恥ずかしくて、その場から逃げ出したかった。いなくなってしまいたいとさえ思った。
 いまは、どうだろう。
 複雑で精巧な、飛行機の図面――読み方もわからないその表示を、エトゥリオルはじっと見つめつづけた。目に残像が残るほど、いつまでも。




 その日は朝から、天気が荒れ気味だった。
 雨はさしてひどくもなかったが、風がある。空を見上げると、雲が渦巻きながら流れてゆくのがわかる。
 それでもこれくらいの風雨だったら、大人のトゥトゥは平気で飛ぶ。彼らの羽毛は水をはじくし、よほどの嵐でもなければうまく風をつかまえて、危なげなく飛行することができる。
 トラムのいいところは、天候に関係なく運行できるところだ。エトゥリオルは雨をふるい飛ばしながら、ステーションに向かう。
 テラ人たちが使っている傘のことを思い出して、いいなと思う。ポシェットを濡らさないための防水カバーはあるけれど、トゥトゥ自身が濡れないための道具というものは、ほとんどない。
 仕事の帰りにひとつ、買ってこようかと、エトゥリオルは考える。けれどこうして行き帰りに、トゥトゥしか周りにいない場所で、異星人の真似をして傘をさせば、空から見ても目立つだろう。その度胸が、自分にあるだろうか。
 彼がマルゴ・トアフで働き始めて、そろそろひと月半が経とうとしている。季節は盛夏を迎えて、吹きつける雨粒は生温かい。毎日ステーションまで歩くのにも、ずいぶん慣れはしたけれど、それでもやっぱり、時間がかかる。
 エトゥリオルは毎朝、早い時間に家を出る。もう少しステーションに近い地区に越せればいいのだけれど、家移りするには貯金が心もとなかった。
「エトゥリオル!」
 大声で呼ばれて、エトゥリオルは羽毛を逆立てた。頭上から、ばさばさと音を立てて、大柄なトゥトゥが舞い降りる。雨が跳ねて、エトゥリオルの顔にかかった。
 知った顔だった。エトゥリオルはとっさに微笑んで、尾羽を下げる。
「ピュートゥ……おひさしぶりです」
 世話になった相手だった。家具の修理を請け負う小さな会社を持っていて、エトゥリオルのことを気にかけて、ときどき半端仕事をまわしてくれていた。
「よう、元気にしてたか」
 ピュートゥは笑って翼を打ち鳴らしたが、すぐに真顔になった。「なあ。お前、マルゴ・トアフで働いてるって聞いたが、本当か」
 険しい語調だった。エトゥリオルは返答に詰まって、冠羽を揺らす。
 テラ人をよく思わないトゥトゥは少なくない。年配のトゥトゥには特に、そういう傾向がある。あらためてそういう話をしたことはなかったけれど、ピュートゥもそういうひとりなのだろう。
 迷ったけれど、嘘をつくのもいやだった。何も悪いことをしているわけではないのだから。エトゥリオルは覚悟をきめて、うなずいた。「はい、先月から」
「馬鹿野郎」
 大声だった。エトゥリオルが身を竦めるのを見て、ピュートゥはばつの悪いような顔になる。翼を二度鳴らして、少し声を落とした。
「なんだってお前、あんなけったくそ悪いところで――いや、事情はわかるが。それにしたって、働く場所はもうちっと選べよ。金に困ってるんだったら、また俺のところでもなにか……」
「違うんです」
 彼にしては珍しいことに、エトゥリオルは途中で話を遮った。「そういうことじゃないんです」
 自分で思っていたよりも、ずっと強い語調になった。ピュートゥが驚いて目を白黒させているのに気付いて、エトゥリオルは我に返る。
「――すみません、心配してくださってるのに」
 エトゥリオルは小さくなって、弁解した。「だけど、あの、お金のために嫌々とか、そういうのじゃないんです。まだ僕、見習いなんですけど、仕事も面白いし、それに職場の方々も、みんないいひとたちで、よくしてもらってます」
 ピュートゥはきつく顔をゆがめた。「馬鹿、いいやつらなわけがあるもんか。お前、ひとがいいにしても限度ってものがあるだろうよ」
「そんなんじゃ……」
「そうじゃなきゃ、お前、騙されてるんだ。わかってんのか、お前。あいつら星(くに)に帰れば年がら年じゅう殺し合いばっかりしてるような猿どもだぞ」
 吐き捨てられて、返答に詰まった。テラで過去に起きた凄惨な戦争や大量殺戮の話は、彼も耳にしたことがないわけではない。それはトゥトゥの社会ではあり得ないような規模のもので――だけど、とエトゥリオルは思う。彼の会ったことのあるテラ系の人々はみな、そんなふうな野蛮な種族には、とても思えなかった。
 いっとき言葉を探してから、エトゥリオルはいった。「彼らは、攻めてきたりはしませんよ」
「わかるもんか、あの地べた這いども」
 エトゥリオルがびくりと体をこわばらせたことに、ピュートゥは気付かない。強い語調のまま、彼は続ける。「だいたい連中、こっちじゃ大人しくしてるように見えるがな、ああやって害のなさそうなふりをして、経済侵略を仕掛けてきてるんだよ」
 年々市場に増えてゆくテラ系企業の製品をさして、ピュートゥはそんなふうにいった。
 エトゥリオルは反論しようとして、やめた。自分が何をいったって、彼が耳を貸すようには思えなかった。なんたって自分はピュートゥにとって、半人前の未熟なトゥトゥにすぎないのだ。
 ピュートゥは恩のある相手だけれど、それ以上話を聞き続けるのがつらくなって、エトゥリオルは尾羽を下げた。
「あの、ごめんなさい。僕、もう行かなくちゃ。トラムの時間があるんです」
 ピュートゥはまだ何かいいたげな顔をしていたけれど、強引に引き留めまではしなかった。エトゥリオルは彼に背を向けて、小走りになる。
 雨にぬかるんで歩きづらい路地を、エトゥリオルは急いだ。
 ひどくみじめな気持ちだった。ひとに恥じることをしているつもりはないのに、小さくなって逃げ出す自分がみっともなくて、いやだった。
 背中から、声だけが追いかけてきた。「困ったら、相談しろよ。力になれることがありゃ……」
 エトゥリオルは振り返らなかった。走りながら、胸の内だけで叫んだ。――あなたたちには、わからない。
 叫んだ直後には、自己嫌悪で死にそうになった。


  ※  ※  ※


 O&Wの社員食堂は、味がいいことで有名だ。
 一般の利用客にも開放されているものだから、ともすれば近隣のオフィスビルから他社の従業員が、わざわざ食事だけ摂りに来る。
 社員寮の食堂についても同じく好評で、その理由の半分は、もちろん料理人が優秀であるからなのだが、もう半分は、同社の農業部門が頑張っているからだ。
 航空機の会社に、なぜ農業部門があるのか。
 そもそもはるか別の星系にまで進出してくるような大企業には、さまざまな分野の子会社を系列に持つ巨大グループが多い。というよりも、中小規模の会社には、ヴェドまで進出してくるような体力がない。
 必然的に、各分野の人材はいつでも不足している。しかし、ヴェドに存在するふたつの地球人街には、いまやそれなりの人口がある。こちらに骨を埋めるつもりの人々はもちろんのこと、一時出向中の人間でさえ、一年や二年ですぐに帰るわけではない。彼らもそれぞれに生活を送らなければならない。
 つまり、求められる事業の幅広さに対して、企業の数自体が多くない。各企業の経営多角化は、避けられない宿命のようなものだ。かくしてO&Wはトースターも発電機も作るし、合金タワシもイモも作る。
 そのO&Wの農業部門には、ひとり、名物の女性研究員がいる。
 レイチェル・ベイカー。彼女は生物学系のさまざまな分野でいくつもの博士号を取得しており、地球にいたころには米国某有名大学の研究員として、多くの論文を発表していた。その美貌もあいまって、学会では非常に目立つ存在だった。
 才媛として名高い彼女は、ジンにとっては、同じ大学の先輩でもある。


 社員食堂はいつものごとく、大変な賑わいを見せている。ジンは支払いを済ませたトレイを持って、空席を探そうと振り返った。
 すぐ近くの席に、エトゥリオルがいた。ひとりで食事をしている。
 声をかけるかどうか、ジンは迷った。
 ひとりというのは、別に珍しくない。ややすると四六時中仲間とつるんでいないと不安になりがちなテラ系人類と違って、トゥトゥはひとりで食事をとりたがる者のほうが、むしろ圧倒的に多い。文化的背景というよりも、進化のルーツの問題かもしれない。
 そういう知識もジンは持っていたし、なにより食事どきまで上司の顔を見ているのでは、エトゥリオルも息が詰まるだろう。そこまで考えが及びはしたのだけれど、しかし、このときはちょうど、彼に話があった。
 三秒迷って、ジンはエトゥリオルの向かいに立った。
「ここ、いいか」
 エトゥリオルは少し驚いたように目を丸くしたけれど、すぐに微笑んで、どうぞといった。トゥトゥの微笑みは、このごろジンにも見分けがつくようになってきている。
「部長からさっき、話があったんだが――」
 エトゥリオルの皿を眺めながら、ジンは切り出した。トゥトゥと地球人では食べ物が違う。O&Wの社員食堂は味がいいことで有名だが、それは地球人にとっての話であって、必ずしもトゥトゥにとってはそうではないことも、ジンは聞いていた。なんせ料理人が地球人ばかりだ。
「――それ、うまいのか」
 自分で切り出した話を中断してまで、つい、ジンは訊いた。エトゥリオルのスプーンに乗っている食べ物の色が、あまりに奇抜な外観だったので。
 エトゥリオルは困ったように首をかしげて、微笑んだ。言葉よりも明確な回答だった。
「トゥトゥの料理人が来てくれたらいいんだがな」
 ぼやいて、ジンは話を再開した。「今度、社員寮に空きが出るんだそうだ。俺が入っているのと同じ所で、寮の食堂も調理師は地球系ばかりだから、飯は期待できないだろうが――だからってわけじゃないと思うんだが、入寮しているトゥトゥの社員は、そんなに多くない。が、ほかにもいないでもない」
 いいながら、ジンは、エトゥリオルが目を丸くして羽毛をふくらませているのに気がついた。冠羽がぴんと立っている。
 ちょっとためらって、ジンは続きを口にする。
「もし希望するなら、入れるそうだが……」
 そのことをエトゥリオルに薦めていいものかどうか、ジンは迷っていた。しかしエトゥリオルは、嬉しそうだった。地球人の目からみてもすぐにわかるくらい、とても嬉しそうだった。
「あの。すごく、助かります。もしご迷惑にならないのだったら」
 本人が喜んでいるところに水を差すのも、気が引けた。それでも黙っておけなくて、ジンは付け足した。
「迷惑なんていうことはない。だけど、会社のすぐ近くの寮ってのも、いいことばかりじゃないぞ。どうしても会社と寮の往復だけになって息が詰まるし――飯の味もそうだが、君らにとってここは、まだあまり暮らしやすい街じゃないかもしれない」
 なんせ、その辺の店で売っている品のほとんどが、テラ人の生活にあわせたものだ。この町で暮らすトゥトゥは、まだあまり多くない。
 けれどエトゥリオルは、すぐに首を振った。「かまいません」
 それでもジンはまだ、ためらった。
 エトゥリオルは本当に喜んでいるように見える。仕事中にも、楽しそうに働いているように、ジンの目には映る。
 しばらく迷って、ジンはいった。「――無理をしていないか?」
「無理、ですか?」
 きょとんとしたように首をかしげて、エトゥリオルは聞き返してくる。ジンは小さくうなずきかえして、注意深く部下の表情を見守った。
 異星人に囲まれて働いているというだけでも、大小のストレスはあるだろう。寮に移ってくれば、ますますエトゥリオルの生活は、トゥトゥの社会から切り離されてしまう。
 それはほんとうに、彼にとっていいことなのか。
 考え過ぎだろうか。エトゥリオルのきょとんとしたようすをみて、ジンは自嘲する。がらにもない余計な口出しをしているという自覚はあった。
 目を丸くしたまま、エトゥリオルは首を振った。
「無理なんて。――寮、入れてもらえるなら、ほんとうに助かります。いまのところから通うのに、けっこう時間がかかってるので」
 ジンはうなずいた。そうまでいわれたら、それ以上かさねて反対するのも忍びなかった。それに、入ってみて合わなかったら、越せば済むことだ。
「わかった。――伝えておく」


   ※  ※  ※


 エトゥリオルは浮かれていた。嬉しさのあまり、食事の残りもうまく喉を通らないような気がした。
 ジンは味のことを気にしていたけれど、食事がまずいというのは、実のところ、大した問題ではなかった。もともとトゥトゥには、テラ人ほどじっくり食べものを味わう習慣がない。好き嫌いはもちろんあるけれど、そもそもほとんどが丸呑みなのだ。
 暮らしが不便というのも、エトゥリオルにとっては、この街に限った話ではない。トゥトゥの町で、曲がりくねった路地を延々と歩いて買い物に行くことが、すでに彼にとっては苦労だった。
 それより、エトゥリオルにとっては社員寮という言葉の響きが、嬉しくてしかたがなかった。まだ見習い期間は残っているけれど、寮の話は、彼にここにいていいのだといってくれているように聞こえた。
 それに――この町に住めるなら、今朝のようなこともなくなる。
 今朝のことを思い出して、エトゥリオルは顔をくもらせかけた。それから慌てて瞬きを繰り返した。暗い顔をしていたら、またジンから無理をしていると思われてしまう。
「食べ物っていえば」
 話を変えようと、エトゥリオルは顔を上げた。「テラからこっちにやってくるのって、すごく時間がかかるんですよね。一年半でしたっけ。その間の食べ物って、どうするんです?」
「ああ、食いものはかなり大量に積みこんでくるな。こっちと一緒で、向こうでも宇宙港は月にあるんだが、月面プラントで作られた保存食が、航海中の主な食糧になる」
 ジンはいいながら、苦笑を洩らした。「いちおう味はいろいろあるんだが、さすがに途中でうんざりしたな――船内にもいちおう小さなプラントがあって、そこでも野菜なんかの栽培はするんだが、それで賄える量なんか知れてるし、何かあっても途中じゃ補給のしようがないから」
 食糧の問題があるがために、たくさんの物資を運んでくるよりも、ひとを一人連れてくるほうがずっとコストがかかるのだと、ジンはいった。そうまでして、遥かな星の海を渡ってひとがやってくるということを、あらためてエトゥリオルは思う。
 サミュエルのことを考えて、胸が痛む。もうじきサムは、地球に向かって旅立ってしまう。いつかまたやってくるにしても、何年も先のことになるだろう。
 向こうについたら手紙を送るよと、サムはいうけれど、手紙――データをやりとりするだけでも、往復で一年ちかい時間がかかるのだという。
「――もっと、近かったらよかったのに」
 思わずそうつぶやくと、ジンは首をかしげた。「そうかな」
 エトゥリオルが見上げると、ジンは思ったよりもずっと真剣な表情をしていた。
「あんまり簡単にやってこれる距離だと、今度は侵略だなんだと、物騒な話も心配しないといけなくなるだろう?」
 今朝のピュートゥの言葉を思い出して、エトゥリオルはどきりとした。これまでに彼が出会ったテラ人たちは、みな、友好的に見えた。それでも、もしもっと地球が近かったら、彼らは攻め込んでくるのだろうか?
 エトゥリオルの不安には気付かないようすで、ジンは首をかしげる。
「その点、これだけ遠ければ、戦争をするにも大勢で移住するにも、まずコストが大きすぎて馬鹿らしいし――この先どれだけ技術が進んでも、かかる時間はたいして短縮される見込みがないらしいからな。遠くてかえってよかったんじゃないかと、俺は思うよ」
 でも――いいかけて、エトゥリオルは言葉を呑みこむ。この話を続けるのが、怖いような気がした。そのかわりに、彼はぜんぜん違うことを口に出した。「すごく優秀なひとしか来れないんだって、ハーヴェイさんから聞きました」
 眉を上げて、ジンは呆れたような顔になった。
「自分でいうんだから、あいつも大概いい性格をしてるよな……」
 いわれてみればそうだ。エトゥリオルは思わず笑ってしまって、ごまかすように嘴を掻いた。
「それは大げさだが、そうだな――まあ、なんせ人ひとり連れてくるのには、さっきもいったように、金がかかるからな。希望すれば誰でも来れるってわけにはいかないな」
「みなさん、希望して来られるんですよね」
「たいていはそうだ。会社の命令で仕方なく、っていうやつもいるだろうが――」
 ふっと遠い目をして、ジンはいった。「俺は来たかった。もとはといえば、むこうの報道で見た君らの姿に憧れたのが、最初だったな。こっちへの移住を希望したのも、飛行機を作りたいと思ったのも」
 エトゥリオルは目を丸くして、スプーンを取り落とした。そんなに驚かなくてもいいだろうといって、ジンは肩をすくめる。
「あとは、向こうの水があわなかったんだ。家族とも折り合いが悪かったし」
 ジンがプライベートの話をするのは、珍しかった。皮肉っぽく笑って、半ばひとりごとのように、彼はいった。「ちょっとでも故郷から遠いところに行きたかった。まあ、地球を発つころには、さすがにそんなのは子どもじみた逃避だって、自分でもわかってはいたんだが――それでも正直にいうと、清々したな」
 エトゥリオルはその言葉に、とっさに同意しそうになった。彼もまた、成人して家族のもとを離れる瞬間、何よりもまず先に、ほっとしたのだった。そしてそのことに、いつもどこかで、小さな罪悪感があった。
 そのことを、ほとんど口に出しかけてから、エトゥリオルは言葉を呑みこんだ。軽々しく、他人にわかるなどといわれたくはないだろうと、そういう気がして。
「――だけど、犬を置いてきたのだけが、つらかったな」
 それだけを英語で、ジンはいった。意識してのことではないだろう。思わず口からこぼれたというふうだった。
「犬……、向こうの動物ですか?」
「ああ。生き物を連れてくるのは、制限が厳しいから――仕方のないことなんだが。野生化してこっちの生態系を崩しでもしたら、おおごとだし」
 わかってはいるんだが、といいながらも、ジンの表情はどこか、寂しそうだった。犬というのがどういう動物かはわからないけれど、いい友人だったのだろうと、エトゥリオルは思った。
「君たちは、動物を飼ったりはするのか。その、家畜とかではなくて」
 訊かれて、エトゥリオルは首をかしげた。「飼う、というのかわかりませんが、鳥の巣箱を作ったりはしますね。やってくる鳥の好きな樹を、庭に植えたり……」
 へえ、と相槌をうって、ジンは頬をゆるめた。「いいな、それ」
「年中そこにいてくれるわけじゃありませんけど、去年と同じ鳥がやってきたりすると、やっぱり嬉しいです」
「社員寮の裏庭にも、来るかな。こんな都市の真ん中でも」
「来るかもしれませんね」
 エトゥリオルは微笑む。それはとてもいい考えのような気がした。寮に入ったら、巣箱を作ってみよう。社員寮には、手ごろな樹があるだろうか。


   ※  ※  ※


 社員食堂の中が、かすかにざわついた。
 ジンは思わず食事の手を止めて、顔を上げた。喧嘩とか非常事態とか、そういう悪い緊張感ではない。しかし明らかに、その場の雰囲気が変わった。
 周囲を見渡したジンは、大股で歩くひとりの女性に気がついた。
 麦わら帽子というものを、彼は、ものすごく久しぶりに目にした。
 すっぴんの頬にはそばかすと、なぜか、乾いた泥。整えればおそらく綺麗なはずの金髪は、帽子からはみ出して、あちこち跳ねている。けれど本人にはそうしたことを、ちっとも気にするそぶりがない。
 袖まくりしたTシャツにジーンズ、足元ははき古したスニーカー。首にはタオルをひっかけて、その白さが眩しい。両手には山盛りの野菜籠を抱えていた。
 いまどきちょっと見かけない、古典的な農家のおばちゃんスタイルだった。
 野菜を盛った籠まで、資料映画の中に出てきそうな、植物の蔓で編んだやつだ。中にはどうやら芋と、トマトそっくりの何かと、何だか見ただけでは見当のつかない根菜が、絶妙なバランスで積まれている。
 貨物運搬用のカートが、自動制御でぴったり彼女のあとについてきていて、そこにも野菜が山積みになっている。いっそ全部カートに積めばいいようなものなのに、なぜわざわざ彼女は両手いっぱいに、みずから野菜を抱えているのか?
 その答えは、彼女の表情にありそうだった。じつに嬉しそうな、自分の作品を自慢してみんなにみせびらかす子どものような、笑顔。
 にこにこと満面の笑みを浮かべたまま、その女性は足早に、食堂を横切って行く。
 間近に通り過ぎる彼女の顔を見た瞬間、ジンは茫然とした。
 知っている顔だった。といっても、知人ということではない。記憶違いでなければ、昔、なんどとなく報道で目にした顔だ。
 最初はまさかと思った――化粧をしなければ女は別人に見える。けれど、彼女がこちらに移住したという話は、たしかにきいたことがあった。
 ぽかんとして、ジンはその背中が厨房に消えていくのを、口を開けたまま見送る。その向かいで、エトゥリオルは彼が何に驚いているのかよくわからないふうに、首をかしげている。周囲のほかの社員たちは、慣れたふうに食事に戻るか、面白がるように笑っている。
「もしかして、お前、彼女を見るのは初めてか」
 隣の席で飯を食っていた同僚が、面白がるように話しかけてきた。
「ベイカー女史……か? いまのが?」
 なぜジンが驚いているのかというと、彼が知っているレイチェル・ベイカーは、常に一部の隙もない完璧なメイクと華麗なスーツで武装した、名高き才媛だったからだ。報道の中で見かける彼女は、いつだってカメラに理知的な微笑みを向けていた。
 報道や彼女の著作に添えられた略歴で、何度も目にしたことのある女史と、さっき大股に通り過ぎて行った女の子どものようなバラ色の頬が、ジンの中で、結びつかなかった。
 おもむろに腕を組んで、同僚はいう。
「こっちにきて野生化した、代表例だな」
 さっきの話を盗み聞きしていたらしい。とっさに笑いをこらえて妙な顔になったジンに、エトゥリオルが不思議そうに首をかしげた。


 いっときして、女史は厨房から出てきた。来た時と同じように、ずかずかと大股で歩いていく。
 まだ茫然としているジンに気付いて、女史は足をとめた。
「見ない顔ね。あなた、新顔?」
 泥だらけの顔のなかで、眼だけが知性の光を帯びて、楽しげにきらきらしている。
 まさか彼女は、支社に所属する何百人からの社員、全員の顔を覚えているのだろうかと、ジンは眉を上げた。覚えているかもしれない。そう思えるくらいには、彼女は堂々たる話しぶりをしていた。
「――あなたの大学の後輩です、博士。お会いできて光栄です」
「そんな噂を聞いた気がするわ。あなた、エンジニアのひとでしょ……ええと、ジン・なんとか」
「タカハラです」
 ジンがいうと、女史はにっこり微笑んだ。「花形じゃないの。がんばってね」
 はい。返事をするジンの後ろに視線を向けて、女史はにっこりと微笑む。
「じゃあ、あなたが設計部門に採用になったっていう子ね。エトゥリオル、で発音は合ってるかしら?」
 エトゥリオルが目を白黒させながら、どうにか挨拶をする。ほんとうに彼女は、すべての社員を把握しているらしかった。
 ジンは女史の農家スタイルに、不躾と思いながら、つい視線を向けてしまう。
「植物学の研究をされているのかと……思ってました」
「わたしもね、来たときはそのつもりだったんだけど――でも、実際に来てみたら、ごはんがまずかったのよ」
 レイチェル・ベイカーはきっぱりといった。非常に真剣な表情だった。「ものすごく、まずかったの。許されざることだわ」
「……そうですか」
 何と答えたらいいかわからずに、ジンは間の抜けた相槌をうった。けれどその途方にくれたようすを、女史は気にするふうもなく、力いっぱいうなずいた。
「何はなくても、まずはおいしいごはんが、すべての基本だと思うの」
 空になった野菜籠を抱きしめて、女史は力説する。「わたしのプライドにかけて、かならずこの地でおいしい野菜をつくって、みんなの食卓を豊かにしてみせる。――期待しててね」
 女史は不敵に笑って踵をかえすと、来た時とおなじく、勢いよく去っていった。
「なんだか、かっこいいひとですね」
 エトゥリオルが、まじめな調子でそういった。
「――そうだな」
 ジンはうなずいた。女史の言動に思わずあっけにとられてしまったが、実際のところ、彼女のような人材がいてくれるからこそ、この異郷で地球人たちが暮らすことができているのだった。
 トゥトゥの作る野菜のほとんどは、地球人にとって、食べられるものではない。うまいとかまずいとかいう問題ではなく、消化できないのだ。
 作物のほうの改良だけではなくて、人体のほうへのアプローチ――人工の消化酵素を体内に入れることの研究も、少しずつ進んできてはいる。しかしなにせ人体実験を要する研究というものには、とにかく時間がかかる。
 食べ物の問題は、テラ系人類がこの星で活動するうえで、大きな制約になってもいるのだ。ふたつの移民街の外に出て、トゥトゥの街で暮らす地球人がほとんどいないのも、この問題が最大の障害になっているからだった。
 農業部門は、苦労が多いはずだ。地球から植物を持ち込むことにはとんでもなく制限が厳しいし――その点、月面プラントのほうがまだやりやすいはずだ――許可が下りても、その植物がこちらの風土で育つとは限らない。いまあるものに品種改良を重ねて、安全性を確認するための、途方もない検査と実験の積み重ね。大変な仕事のはずだった。
 そのはずだというのに――女史の活き活きとした笑顔を思って、ジンは感じ入った。
「彼女には、こっちのほうが水があうんだろうな」
 そう呟いた自分の声が、思いがけず羨ましそうな響きをしていて、ジンは苦笑した。
 自分にとってはどうだろうか――ジンは考える。
 まだわからない。同僚には恵まれていると思うし、暮らしにも、我慢できないほどの不自由を感じたことはない。地球に戻りたいと思ったことは、この二か月で実のところ、一度もなかった。それは彼女のように、こちらの水があっているからだろうか?
 そういうことではないだろう、と思った。彼はただ、故郷から逃げてきただけだ――このままでは。
 自分が惑星ヴェドにやってきた意味を、見出せる日がいつかやってくるだろうかと、ジンは思った。


   ※  ※  ※


「……じゃあ、寮の話は伝えておく。今日はこれで上がってくれ」
「はい。お疲れさまでした」
 帰ってゆくエトゥリオルの背中を見送って、ジンはわずかに眉をひそめた。
 エトゥリオルの足取りは、心なしかいつもより軽い。社員寮に入るのが、そんなに嬉しいのだろうか。ただ通勤が近くなるというだけの理由で?
「難しい顔をしてるわね」
 同僚から肩をたたかれて、ジンは椅子を回した。
「そんな顔、してたか?」
「まあ、もとからあんたは辛気臭い顔をしてるけどさ」
 笑われて、ジンは顔をこする。「悪かったな」
「なんかトラブルがあるんなら、早めに相談しなさいな。何ごとも問題の共有が基本よ。小さなことでも、ね。――リオがどうかしたの?」
「お、なんだ。問題発生か?」
 もうひとりの同僚が、椅子を滑らせて寄ってくる。これはいい同僚に恵まれたと喜ぶ場面だろうかと、ジンは首をかしげた。ふたりの面白がるような顔からすると、ただ単に物見高いだけかもしれない。
「トラブル、っていうわけじゃないんだが」
 ジンは言葉を濁した。
 ――よかったらリオと呼んでもらえますか。
 あるときエトゥリオルは、そういった。
 はじめは皆、驚いた。なんせふつうのトゥトゥは、名前を正確に呼ばれることについて、非常に強いこだわりがある。
 けれど最近では皆が、その言葉に甘えている。たしかに彼の名前は、地球人にとって、正しく発音するのが難しいのだった。
 サムを通じてニックネームの文化に共感したというエトゥリオルの言い分には、納得できるものがあったし、本人がそれでいいというのなら、ジンが文句をいう筋合いはない。
 それでもジンには、どこか気になる。
「こっちのやりかたにあわせようと、努力してくれているのはわかるんだが……」
 ほんとうにそれで、いいのか。
 口に出してみて、ジンはようやく、自分が何にひっかかっていたのか、わかったような気がした。
 種族間の相互理解は、望ましいものであるはずだ。けれど現状、トゥトゥには地球人を嫌うものも少なくない。いずれその垣根が低くなってゆくことは期待されても、それは今日明日のことではないだろう。
 いまこの時代を生きるエトゥリオルが、無条件に地球人に肩入れすること、生活の多くを地球人のやりかたにあわせるということが、彼にとって、いいことなのか。周囲のトゥトゥ――エトゥリオルの家族や知人の、彼を見る目はどうなのか。
 エトゥリオルは家族の話をしない。トゥトゥはそもそも一般的に、成人して自立すれば、家族とは距離を置く。エトゥリオルが特別ということではないのかもしれないが――
「過保護なやつだな」
 笑い飛ばされて、ジンは視線を上げた。
「そう見えるか」
「見えるね。リオだっていい大人だぜ」
 いわれてみれば、たしかにそうなのだった。ジンは頭を掻く。
 エトゥリオルの嬉しそうな後ろ姿を思い出せば、考え過ぎだろうかという気がした。そもそも、自分だって故郷になじめずにこんなところまで流れてきたくちで、ひとのことをとやかくいえた立場ではない。
 それに――昼間に見たベイカー女史の活き活きした顔を、ジンは思い出す。エトゥリオルだって、同じことなのかもしれない。もしトゥトゥの社会よりもこっちのほうが水が合うというのなら、それはべつに、悪いことではないのかもしれない。
 考えこむジンの肩を叩いて、同僚が笑う。
「お前ら二人とも真面目すぎて、見てるこっちの肩が凝りそうだよ。もうちょっと気楽にやれよ――ってことで、これよろしく」
 端末に送られてきたデータをちらりと見て、ジンは眉を上げた。
「なんだ、これ」
「息抜きにはちょうどいいだろ。俺、いまちょっと別件で忙しいんだわ」
 ファイルを開けば、そこには仕様書が入っていた。
 トラムの客席周りで使う、小型ヒーターの改良案件だった。
「――いくら専門外はないったってなあ」
 肩を落として、ジンはぼやく。本分とはいわなくても、せめて飛行機の設備の仕事をしたい。
「馬鹿。大事だろう、暖房は」
 わざとらしい真顔で諭されて、ジンはため息をついた。相談していたつもりが、体よく仕事を押しつけられただけだった。
 くすくす笑いながら、もうひとりの同僚が横から覗き込んでくる。
「それ、リオにやらせてみたら?」
 ジンは眉を上げて反論しかけて、それから呑みこんだ。エトゥリオルは皆の雑用を手伝いながら、どんどん知識を吸収している。もっと先のつもりでいたが、そろそろ実際に、何か触らせてみてもいいかもしれない。
 ジンはファイルの中身を検討した。それほど難しい仕事ではないし、なにより納期にはかなり余裕がある。「そうだな……教えてみるか」
「あの子、ほんと覚えが早いよね。ついこの間まで素人だったなんて思えないな」
 ジンはうなずいて、頭の中で予定を組み始めた。何からまず覚えさせるべきか。
「あんた、もっと褒めてやりなよ。あの子、比べる相手がいないんだから、あんたに褒められないと、自信がつかないよ。自分がどれだけすごくて、周りに期待されてるかってこと」
 ジンがとっさに反論しようとした、その口を封じるように、追い打ちがきた。「ちゃんと褒めているつもりだって、いま思っただろ。忠告しておくが、お前の褒めかたは、わかりづらい」
 憮然として、ジンはうなずいた。
「――気をつける」





 O&Wの屋上で、エトゥリオルはじっと空を見上げている。  まだ昼どきだというのに、思いがけずたくさんのトゥトゥが、そこらじゅうを飛び交っている。休憩時間を使っての買い物か、昼までのシフトなのか、あるいは混みあう社員食堂をさけて、外に食べに出かけるところだろうか。  今日は風が穏やかだった。高空には真っ白な雲の塊が、ゆっくりと流れている。  この頃にしては涼しく、空気はからりと乾燥していた。飛ぶのには絶好の日和だろう。誰もが気持ちよさそうに、のびのびと羽ばたいている。  真っ白な羽色をしたトゥトゥの女性が、いま上昇気流をとらえて、目を疑うほど高い空にのぼってゆく。  エトゥリオルは一度だけ、空を飛んだことがある。  ようやく物ごころついたばかりの、幼い時分の話だ。まだ自分が大人になっても飛べないなんて、思ってもみなかった頃。その日、兄の背中にしがみついて、エトゥリオルは空にのぼった。  トゥトゥひとり背中にのせて飛ぶなんて、いまにして思えば無茶な話だ。だけどそのころ、エトゥリオルはまだほんとうに小さくて、体重なんて紙のようなものだった。  ――しっかりつかまってろよ。  彼の兄はそういって、翼の付け根にエトゥリオルをしがみつかせた。  幼児のあんがい鋭いかぎづめに悲鳴を上げながらも、兄は二階の玄関から飛び立った。力強く羽ばたいた大きな翼は、すぐに上昇気流を捉えた。そうして彼らは家の上空を、ゆったりと二度、旋回した。  たいした高さではなかったはずだけれど、小さかったエトゥリオルにとっては、その空は、はるかな高みに思えた。上から見下ろす街並みは、砂色の小さな建物がぎゅうぎゅうにひしめき合っている。周りを飛ぶトゥトゥたちの色とりどりの翼が、ときどき視界の端を横切って行った。  着陸寸前、目を回したエトゥリオルがあぶなっかしく転げ落ちて、家の屋上でバウンドする結果になっても、兄弟はけろりとしたものだった。とりわけ落っことされたエトゥリオルのほうは。  心配して集まってきた周りの大人たちからこっぴどく叱られても、エトゥリオルはどこ吹く風で、兄にもう一度とせがんだ。  次は自分で飛べといって、兄は笑った。  その夜、エトゥリオルは興奮のあまり、なかなか寝付けなかった。それがたった一度、彼が自分の体で空を感じた、最初で最後の飛行の記憶。   ※  ※  ※  こわれるのは一瞬だった。  手の中できらきらと光を弾く小さな部品を、エトゥリオルは茫然と見つめた。金属光沢のなかにかすかに透けて見える、おそろしいほど微細な、緻密な回路。そのなかに、肉眼で見てはっきりとわかるほどの、亀裂が入っていた。  ほかの機械のパーツから流用できるような、汎用性のある部品だったらよかった。工場に在庫があって、すぐに取り換えのきくものなら。  その小さな小さな回路は、よりによって、今回の試作品のためにこのひと月をかけて、一から作り上げたやつだった。新しく作った部品のなかで、いちばん手間ひまと材料費のかかった、大事な部品のはずだった。 「――僕、」  言い訳をする勇気さえ、途中でしぼんで消えた。  社内規定としての試用期間は終わったけれど、エトゥリオルは実質上、まだ見習いから半歩も外に出ていない。給料をもらいながらも、仕事の何から何までを教えてもらっている身分だった。この部品だって、自力で作り上げたわけではなくて、手順をひとつひとつ教わりながら図面を引いて、何度も試算して点検してもらって、ようやくOKが出た。三日前に工場に回して、今朝しあがってきたものだった。  工場のロボットが、図面に沿って自動でどんどん作ってくれるような部品もあるけれど、いまエトゥリオルの手の中にあるものは試作第一号、プロトタイプだ。熟練の作業員がていねいに時間をかけて仕上げてくれた。よりによってほかの部品でなくて、なぜこれだったのか。  設計のときにも試算のときにも、慎重になって、どこかに間違いがないか、見落としがないかと、何度も確かめた。それなのに。 「――大丈夫か」  肩をゆさぶられて、はっとした。 「僕、あの――ごめんなさい、」  それ以上の言葉がつっかえて、出てこなかった。自分の努力をふいにしただけなら、まだいい。この部品ひとつ作るのに、みんなのどれだけの労力がかかっていたか。 「気にしなくていい。まだ納期には余裕がある。いまから作り直してもじゅうぶん間に合う――それより、こっちの図面を頼んでいいか。その間に、工場に連絡をいれておくから」  ジンは淡々とそういったけれど、エトゥリオルはすぐに返事ができなかった。何時間もの労力をふいにされて、怒っていないはずがあるだろうか。 「――はい」  それでもかろうじてうなずいたのは、わかっていたからだ。謝ったところで何になる。謝って部品が元に戻るわけではない。  受け取ったチップを端末に読みこませて、データを開く。キーを叩く手が、震えた。  通話を終えたジンが、振り返った。 「本当に気にしなくていい。俺の説明も足りなかったんだ」  エトゥリオルは息を吸って、反論を呑みこむ。そういうジンは、近ごろ本当に忙しくしていて、いまも、いくつもの仕事を並行して進めているはずなのだった。このところ、休日に寮にいたためしがないし、夜も遅くまで残っていた。  ほかのスタッフが、心配そうに視線を投げてきているのがわかった。エトゥリオルは体を縮めて、なんとか図面に集中しようとする。  無理だった。気持ちがすぐに、あの一瞬に戻る。手の中であっけなくひびの入った部品。緩衝材をかぶせる前の、むき出しに近い回路。不注意のつもりさえなかった。  キーを叩く、かぎづめの指を見つめて、エトゥリオルは震える息を吐く。  彼はトゥトゥとしては、かなり手先が器用なほうだ。自分でもそう思っていたし、それは嘘ではないはずだった。けれど、テラ人のやわらかく繊細な手とは、はじめから違う――  それを言い訳にしようとしている自分に気付いて、胸が苦しくなった。そんなことははじめからわかっていた。テラ人がそうする何倍も、自分は注意をはらわないといけなかった。それに、トゥトゥの企業だって精密部品は扱う。何の言い訳にもならない。 「リオ」  呼ばれて、びくりとした。ジンが作業の手を止めて、彼のほうに向き直っていた。 「落ち込むな。君はまだ新米で――俺だってこっちじゃそうだが、とにかく、失敗くらいして当たり前だ。そういう可能性もわかっていて、部品を触らせているんだ。この手の精密機器を扱う仕事は、君は、はじめてなんだろう?」 「――はい」 「新人っていうのは失敗するものだ。それでも知識だけで覚えて頭でっかちになるよりも、実物をさわりながら覚えていったほうがちゃんと身につく。だからリスクを承知の上で、どんどん作業を任せるんだ。誰だって何度も失敗しながら仕事を覚えていく。君が特別に不器用なわけじゃない」  慰められていることが、かえっていたたまれなかった。エトゥリオルはうつむいて、自分のかぎづめを見た。まだ少し、ふるえていた。 「失敗した人間に出来る挽回っていうのは、次はどうやったら失敗しないか、考えることだけだ。……これでもう、覚えただろう? ああいう部品を扱うときに、どこに気をつけたらいいのか」 「――はい」  うなずいたけれど、顔は上がらなかった。ジンの短いため息を、エトゥリオルの耳は拾った。 「休憩にしよう」 「え……」 「昼休みにはちょっと早いが、社食はもう開いてる。いったん仕事から離れて、まずはしっかり飯を食って、外の空気でも吸ってこい。そのあいだに気分を切り替えろ。――上の空で作業したって、よけいな失敗が増えるだけだ」  一から十まで、もっともだと思った。エトゥリオルはうなずいて、立ち上がった。みんなの顔を見られないまま、もう一度だけ声に出して謝って、フロアを出た。  食事なんかとても喉を通らないと思ったけれど、とにかく社員食堂にいった。受け取った料理を無理やりぜんぶ口のなかに入れて、ひといきで呑みこんだ。この上、ずるずる落ち込んだままミスを増やせば、なおさら皆に合わせる顔がないと思った。ジンのいうとおりだ。  エトゥリオルはいわれたとおりに屋上に出て、よく晴れた空を見あげた。この頃にしてはめずらしく陽射しが穏やかで、乾いた風が気持ちよかった。夏がもうじき終わるということに、このときはじめて気付いた。  空の端にうっすらとかすむ月を目で追って、エトゥリオルは目をしばたく。サムは三日前に、宇宙港に向かうシャトルに乗り込んでいった。今頃は月面のはずだ。そろそろ地球に向けて出発するころだろうか。  サムは笑顔でシャトルに乗り込んでいったけれど、その背中を見送りながら、エトゥリオルは泣きそうだった。次に会えるのは何年先だろう――テラはあまりに遠い。  それでここ数日、エトゥリオルは気落ちしていた。けれど、そのせいで集中力を欠いたのだとは思いたくなかった。仕事中には気をそらさずに、作業に没頭していたつもりだった。  だからこそ、失敗が痛い。  空を舞う同胞たちを眺めて、気持ちよさそうだなと、エトゥリオルはぼんやり考えた。  屋上の端に近づいて、エトゥリオルは、翼を動かす真似をした。どんなに力を入れても、冗談のようにのろのろとしか動かない、役立たずの翼。  わかっているのに、ときどき無意識に試してしまう。あるとき急に奇跡が起きて、翼が動くようになっているなんて、そんなことはあり得ない。   ※  ※  ※  言葉がきつい。人の気持ちがわからない。  人生の中で、何度おなじことをいわれてきたかわからない。ジンは階段を上りながら、がりがりと頭を掻いた。こっちに来てからエレベータは使わない習慣が身についた。たかだか三階建てのオフィスだし、近ごろ仕事がおしていて、運動不足がひどい。  気がふさいでいた。間違ったことをいったつもりはなかったけれど、間違っていなければいいというものでもない。  ものには言い方というものがあるのだし、相手を見て言葉を選ぶことぐらい、いいかげん出来るようにならないといけない年齢だ。自分でも、わかってはいる。頭では。  ――お前はものの言い方がきつい。  まずその場にいた同僚から怒られて、あとで話を聞いたハーヴェイにまで、追加で説教された。だいたいお前の顔は怖いんだし――  ジンは憮然とする。面相が悪いのは自分のせいではない。  いや、どうだろう。人間性が顔つきに出ているのかもしれない。歩きながら、思わずジンは自分の顔をこすった。  態度がきついのも、性根が曲がっているのも、自覚はある。人付き合いが下手なことも。気に食わない上司に皮肉を飛ばすくらいの性格の悪さは、もういまさら矯正するつもりもないが、部下のメンタリティに配慮しないというのは、また別の話だ、と思う。  反省はしている。しかし、どう対処したらいいのかはわからなかった。  たとえばハーヴェイなら、どうだろうか。生真面目な部下が失敗して青褪めていたら、冗談めかして笑い飛ばしてしまうだろう。それからさりげなく、重要なことだけを注意する。  ジンは気の利いた冗談をいう自分を想像しようとして、すぐに諦めた。人には向き不向きというものがある。  ため息が出る。過去にも部下を持った経験はないことはないが、どいつもこいつも日がな一日機械のことばっかり考えていて、頭のねじの一本も二本も飛んだようなやつらだった。神経が細いどころか、神経があるのかどうかも怪しいような連中。  数式やロジックが相手なら、怖いことはない。ユーモアを交えて軽口をたたくとか、気のきいた励まし方をするとか、そういうことこそが、彼にとっては難敵だった。いい年をして――と、自分でも思う。思うが、なおらない。  どう声をかけるか決めきれないまま、屋上のドアの前に来てしまった。  ため息をひとつ。ドアを開けるべく、IDをかざす。かすかな電子音がして、ロックが外れる。  屋上に出たジンは、すぐにはエトゥリオルの姿を見つけきれなかった。  外の空気を吸ってこいといったが、その通りにしたのかどうかはわからない。階段に向かったという目撃情報があったので、咄嗟にここだと思ったのだが、あるいは階下に降りて、中庭あたりにいるかもしれなかった。  O&Wの屋上は広々としている。地球のオフィスビルなら、転落防止の柵でも設けてあるところだが、トゥトゥは屋上をあたりまえのように玄関や通用口として使うから、そうした設備は作れない。彼らが飛び立ちやすいように、そのままだ。  風が吹きつけて、ジンは顔をしかめた。屋上という場所が、彼は好きではない。いやな思い出があるのだった。  ジンは物ごころついてからずっと、家族の誰とも折り合いが悪かったが、姉がその中でも極めつけだった。ありとあらゆるものを嫌っていて、人を傷つけることがなにより楽しくてしかたがない、そういう女だった。  その姉が、一度、飛び降り自殺のまねごとをした。  はじめはたしかに、まねごとだったのだと思う。当時の姉の恋人が、泡を食って止めに駆け寄ったときに、彼女のなかで、何かのスイッチが入ってしまったのだろう。姉は楽しくてしかたがないというように笑ったまま、ほんとうに屋上から身を投げた。  先端医療の力というものを、あれほど感じたこともなかった。およそ頭蓋の中身さえ無事なら、ほとんどの体のパーツは再生してしまう――ぐちゃぐちゃに見えた姉は命を取り留めて、三か月後にはもとの彼女と見分けのつかない姿で、家に戻った。  帰宅した姉と、眼が合った瞬間のことを、彼はいまでも覚えている。怯えるジンに気付くと、姉は笑った。楽しくてしかたがないという笑みだった。飛び降りた瞬間に浮かべていたのと、まったく同じ――  首を振る。思いだして気分のいい記憶ではなかった。  給水塔を回り込んで、ジンはぎょっとした。  見慣れたまっしろな羽毛に、きれいな模様の茶斑。後ろ姿でも、見間違えようがなかった。  エトゥリオルは、屋上のへりに立っていた。あと半歩でも身を乗り出せば、まっさかさまに落ちようかという、ぎりぎりのところに。 「――おい!」  とっさに声が出た。驚かせると危ないだとか、そういうことを考える余裕はなかった。   ※  ※  ※  ぼんやりと空を見上げていたエトゥリオルは、背後に誰かの気配を感じた。誰だろう、ここから飛び立つつもりなら、僕がここにいたら邪魔になるかな――考えたのは、そんなことだった。 「おい!」  それはジンの声だった。その切迫した響きに驚いて、エトゥリオルはとっさに振り返った。  ジンは蒼白な顔をして、そこにいた。伸ばされたかけた手の意味がわからなくて、エトゥリオルは目をしばたいた。  風が吹きつける。どこか空の高いところで、誰かの笑い声がしている。  呼吸ふたつぶんほど考えて、ようやく察しがついた。どういう誤解をされたのかということに。 「――あ」  ほとんど同時に、ジンもまた自身の誤解に気付いたようだった。普段はあまり慌てることのない上司が、珍しく動揺しているのが可笑しいような気がして、エトゥリオルは微笑んだ。 「いや――その、悪い、」 「いえ」  エトゥリオルは首を振った。何でもないように笑えたと、自分では思う。  ジンは何度か言葉を呑みこんで、それから真剣な顔で、頭を下げた。 「――すまない。つい何でも、とっさに自分たちの感覚でものを考えてしまう」 「そんな」  エトゥリオルはもう一度首を振った。「心配してくださったんでしょう? ――ありがとうございます」  空を飛べないのがあたりまえの彼らの感覚では、高いところから身を乗り出している人を見かけたら、とっさに心配するのが普通なのだろう。ジンの言葉におそらく、嘘はない。そう自分に言い聞かせながら、エトゥリオルは屋上のへりからさりげなく離れる。 「そろそろ休憩、終わりですよね。――戻ります」  ああ――まだ慌てたような声の相槌を、背中で聞いて、足早にならないように、エトゥリオルは歩いた。  IDカードをかざして、ドアを開ける。急がないように気をつけて、ゆっくりと階段を下りた。ジンの足音は、すぐには追いかけてこない。ほっとして、エトゥリオルは眼をしばたく。  階段には窓がない。扉を閉めてしまえば、外が晴れていることもわからない。できれば誰も上がってこなければいいと願いながら、エトゥリオルは薄暗い階段を、一歩ずつ踏みしめる。  この状況で心配されるトゥトゥなんて、僕ぐらいのものだろうなと考えて、エトゥリオルは小さく笑った。  いちいちそんなふうに考えてしまう自分が、みじめだった。

読者登録

朝陽遥さんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について