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 コクピットは、乾いた機械油のにおいがした。
 操縦席の中で、エトゥリオルは尻をゆする。シートはシミュレータと同じもののはずなのに、まだどこか慣れない。真新しすぎるせいだろうか。
 FMA21X――起動したばかりのシステムが、ディスプレイに大きくロゴを表示した。それがまだ正式なシリアルナンバーをもらえていないこの試作機の、いまの呼称だ。
 操縦桿を握るエトゥリオルの手は、少しばかりこわばっている。副操縦席の教官にばれて、笑われた。
「そう緊張するな」
 はい、と答える声は、自分でもそうとわかるくらい、弱々しいものになった。苦笑されるのが、振りかえらなくても気配でわかる。
「大丈夫だ。いざとなったら俺もついてるし、小型機とはいえ、こいつには優秀な操縦支援システムが載ってる。おまえが妙なことをしようとしたら警告も出るし、よっぽどとんでもないことをやらかさなければ、多少のミスはこいつがカバーしてくれる――シミュレータでもいやってほど試しただろう?」
 エトゥリオルはうなずいた。それからディスプレイの表示を、声に出して読み上げ確認した。
 夢に出るほど繰り返し頭に叩き込んで、飛ぶ前のブリーフィングでもさらに二度確認したチェック項目の数々を、ひとつひとつ、順を追ってクリアしていく。
 咳払いをひとつ。通信を入れる。
「エンジン点火します」
 少し待つと、外から機体をチェックしている整備士から、返答があった。『エンジン問題なし。スタートOK』
 シミュレータと同じように、ディスプレイに次の手順のナビゲーションが表示される。たしかに、ただ何も考えずに決められたコースを飛ぶだけなら、文字さえ読めれば子どもにだってできそうなくらい、操縦システムは優秀だった。
 それでも操縦士の眼で見て、声に出して、何重にもひとつひとつのチェックを繰り返してゆくのは、それだけ空を飛ぶということが、危険だからだ。
 本来なら無人でも運用できるだけの能力がある機体に、あえてパイロットが乗り込む。万が一のシステムエラーやコンピュータの誤認を、あるいは突発的な機器の故障を、ひとの眼でもかさねて監視し、対応するためだ。システムが自動で行うあらゆる動作が、緊急時にはパイロットの制御下に置くことができるようになっている。
 エトゥリオルは気をひきしめて、機器の示すデータを確認する。ひとつひとつ、システムに、OKの合図を返してゆく。大丈夫、エラーはない。
 エンジンの音が、だんだん高まっていく。
「――不格好なもんだよな。トゥトゥや、鳥たちからしたらさ。こんなややっこしいことしなきゃ、いちいち空も飛べないっていうのは」
 ふっと軽口のように、教官がいった。
 エンジンの回転が規定に達する。整備士のOKサインを、カメラ越しに確認する。
 管制に通信を入れると、すぐに走行許可が出た。
 加速の衝撃は、訓練中に想像していたよりも、もっとずっと柔らかかった。
 ディスプレイに映るカメラの画像と、キャノピごしの実際の視界が、流れるように進んでいく。なめらかな、きれいな加速。
 計器と目視の両方で、動翼の位置を確かめる。表示される風速を確認して、声に出して離陸速度を確認する。実際に機体が動き出してしまえば、訓練で叩き込んだ手順のとおり、自然に体が動いた。
「俺が口出しすることがないな」
 離陸のシークエンスが始まる。
 呆れたように、教官が笑う。「ま、せいぜいフライトを楽しませてもらうよ」
 エトゥリオルは冠羽をぴんと立てる。ちょっとだけ、誇らしかった。シミュレータに向かって、何百回もしつこく練習した甲斐があったと思った。
 機体が、浮き上がる。
 翼がシートに押し付けられる加速の中で、エトゥリオルは言葉を失った。地平がぐんぐん遠のいていく。高度計の数字が見る間にあがっていく。
 四方の視界が、青一色に染まる。
 空に、飲み込まれたような気がした。
 自分が二人いるような錯覚を、エトゥリオルは覚えた。手順どおりに数値を読みあげ、パネルを操作し、管制に通信を送っている自分と、ただぽかんと口を開けてキャノピの向こうに見入っている自分。
「――いい天気だ」
 歌うような抑揚で、教官がいう。隣にエトゥリオルがいなければ、いまにも本当に歌いだしそうな調子だった。
 あらかじめ組み込んであった高度に達したところで、システムが確認の表示を出してきた。OKの合図を返すと、自動的に機首が下がる。
 地上からではどこまでも晴れ渡っているように見えた空だったけれど、この高さに来ると、はるか遠くの地平に、うすく雲がたなびいているのが見えた。空の色が、地上で見上げるのと、すこし違う。
「さて。試験飛行だからな。最初はこの高度での動作確認から――訓練飛行ついでに機体の試験なんて無茶な話だが、パイロットの条件からすると、しかたないか」
 エトゥリオルは小さくうなずいた。現行機では、エトゥリオルには操縦することができない。
 そしてこの機体は、トゥトゥがテストしなければ意味がない。座席の形が違い、計器の配置が違い、操縦桿のつくりが違い、言語表示が違う。テラ人とは違うトゥトゥの視野にあわせたディスプレイ。
 教官の座る副操縦席は、旧来のテラ人用のものをベースに作られている。乗る者にあわせて、操縦席周りのユニットを丸ごと換装できるように設計されているのだ。
 手作業の記録項目は俺のほうでやるから、まあお前は飛ぶことに専念していろと、教官はいった。エトゥリオルは返事をする自分の声を、どこか遠くで聞いた気がした。
 操縦方法だけでいうなら、シミュレータとまったく同じはずだ。それなのに実際の飛行は、訓練とはまるきり違うものに、エトゥリオルには思えた。
 計器や、レーダーや、ディスプレイにしめされる状況や手順。そういうことを、眼でひとつずつ追いかけているはずなのに、同時にただ無心になって、ぽかんと周りをとりまく空に見とれている自分がいる。コクピットに収まって、機体を操作しているという実感が、どんどん遠のいてゆく。
 奇妙な感覚だった。教官も機器も、手を伸ばせば届くすぐそこにあるのに、エトゥリオルはまるで、たったひとりで空に浮いているかのような錯覚を覚えた。
 トゥトゥの視野は広い。前を向いたまま、エトゥリオルの視界には、側面のキャノピがはっきりと見えている。透明な強化樹脂の板の向こう、銀色の翼が、太陽の光を弾いて誇らしげに輝く。
 ふと、腑に落ちるように、思う。
 ――これが、僕の、翼だ。


   ※  ※  ※


 エイッティオ=ルル=ウィンニイは地上から、弟の操縦する機体をずっと眼で追いかけていた。
 路面に横たわっているときには、ひどく不格好な鉄の塊にしか見えなかった機体は、飛んでいれば、それなりに格好がついて見えた。
 はらはらしているのと同じ胸の片隅で、ほんのかすかに、弟を羨ましく思っている自分がいる。
 目を細めて、高空を駆ける機体を見つめる。どんな気分だろう、あんなに高い場所を飛ぶというのは。
 いまエトゥリオルが見ている空は、どんな色をしているだろう――衛星写真で見たことのある高高度の紺色の空を、エイッティオ=ルル=ウィンニイは思い浮かべる。あの画像ほど高くはないか。
 そこはトゥトゥの誰ひとり、いまだに自分の眼で見たことのない空だ。
 長いこと、エイッティオ=ルル=ウィンニイは高速で飛ぶ銀色の軌跡を、ただじっと見つめていた。機体はずいぶん高いところを何度も繰り返して飛んでいたけれど、やがて遠ざかっていったかと思うと、ゆったりと旋回して、機首をひるがえした。慎重に高度を落としはじめる。着陸姿勢なのだろう、機首がじわじわと上がっていく。
 近づいてくるのを見ていると、その銀色の機体には、かなりの迫力があった。
 エイッティオ=ルル=ウィンニイは、ふいに小さく笑った。がらになく子どものように胸を高鳴らせている自分に気付いたのだった。


   ※  ※  ※


 古来、絶対に壊れることのない機械はなく、絶対に事故の起きない行動はない。
 どれほど安全係数を高くとって組みあげられた機械も、どれほど綿密に計画されたプランも、同じことだ。ときに偶然の一致によって、あるいは悪意ある必然の積み重ねによって、人の予測と対処の間にある針ほどの隙間を縫って、それはやってくる。
 そこは訓練飛行場だった。厳重にセキュリティチェックの重ねられている空港ではなく、あくまで試験飛行のためにしつらえられた、テラ人の占有空間だ。
 当然、そこに設置された管制は、空港にある本式のものではなく、あくまで試験のために仮に組まれたものだった。
 それでもそこには大勢のスタッフが詰めていたし、いくつかのレーダーが備えられていた。たしかにそれらは、空港で運用されているものに比べれば、精度の一段落ちるものではあったが、たとえば地球の各国の空港を見れば、もっと粗雑なつくりのレーダーしか配備されていないところは、いくらでもあった。
 レーダーというものは、近距離ではかなり精密な解析をできるが、離れた場所については距離の分だけ荒くなるものだ。まして空にはつねに大小様々の鳥たちが飛んでいる。ときには風のいたずらで軽量のゴミまで舞っている。そうしたものの一つ一つまですべて拾って警告を上げているのでは、実際問題として、話にならない。あるていど距離の離れた場所の、鳥のようなごく小さな反応については、ノイズとして処理するようになっている。
 その日、管制に響いた警告が遅れたのは、過失か、それとも不幸な偶然か。
 あえていうなら、スタッフの中には、試験飛行の順調なスタートに喜んで興奮気味の者はいたけれど、油断して気を抜いているものは誰ひとりとしていなかった。
 周辺の地上には、飛行禁止区域をあらわす表示はあっても、そこに銃を持った兵士はいない。空中にマーカーはあっても、物理的な障壁はない。
 いままで惑星ヴェド上で、航空機による事故が起きたことはなかった。反対派のトゥトゥがデモを起こしたり、抗議文を寄せたりすることはあっても、彼らが強行的な手段に訴えたことは一度もなかった。

 悪夢のような、という表現は、責任逃れにすぎないだろうか。


   ※  ※  ※


 管制でレーダーを監視していたスタッフが、比較的大きなノイズに違和感を感じて声を上げたのは、システムがそれを危険物と認識して警告を出すよりも、ずっと前のことだった。
「――これ、鳥でしょうか」
 その声の中にかすかな不安の響きを聞きつけた周囲のスタッフは、そろって嫌な予感を覚えて、レーダーサイトを振りかえった。
 どんな小型航空機よりもずっと小さなそのノイズは、たしかに鳥と見えないこともなかった。
 けれど、そう決めつけて楽観するものは、誰ひとりとしていなかった。上空の衛星のうち、彼らの要請で即座にカメラを動かすことの出来たものがすぐ近くにあったのは、この日に彼らに訪れた、数少ない幸運のうちのひとつだった。
 それでも衛星が該当空域のピンポイントの映像を捉え、それを彼らのディスプレイに映し出するまでには、数秒のブランクがあった。
 画面に映ったそれは、青みがかった羽毛をまとう、ひとりのトゥトゥだった。
「――反対派か!?」
 悲鳴が管制を満たした。


  ※  ※  ※


 トゥトゥの飛行速度は速い。個人差は大きいものの、場合によっては水平飛行時で、時速120キロメートルを超える。
 そしてFMAシリーズは、小型機とはいえ、かなりの速度が出る機体だった。それが災いした。
 もし逆に、もっと圧倒的な高速で飛ぶ大型機だったならば、FMA21Xよりもはるかに高性能な機上レーダーを搭載していただろう。
 ここが飛行禁止区域でさえなければ、あるいはいまが着陸動作中でさえなければ、そもそも機体は、トゥトゥにはとても飛べない高度にいるはずだった。
 管制からの警告が機内に飛び込むよりも一瞬早く、エトゥリオルの動体視力は、その青白い影がトゥトゥであることを認識していた。
 同じとき副操縦席の教官の眼には、それはいまだ、ただの白い点としてさえ映っていなかった。
 それがもし逆だったなら、何かが変わっていただろうか。
 もしもエトゥリオルが、優秀ではない訓練生だったなら、とっさにパニックに陥って、何もできなかったかもしれなかった。逆に彼がもっと経験を積んだベテランだったなら、自動衝突回避装置の性能に賭けただろう。
 起こったことは、そのどちらでもなかった。
 エトゥリオルの手は反射的に、自動操縦に割り込んでいた。システムの発するいくつもの警告を即座にカットして、機体に急制動をかけた。
 判断の是非はあえて措こう。それは、見事な手際だった。この日までに何百回というシミュレーションを重ねてきた、彼の努力の結晶とさえいえるかもしれなかった。
 その結果、FMA21Xめがけて突っ込んできたトゥトゥは、機体に衝突することはなかった。風圧に煽られて危なっかしく振りまわされはしたものの、かろうじて体勢を立て直して、離れた地上に降下していった。
 引き換えに、FMA21Xはバランスを失ってきりもみに入った。
 それでも、もし――その日管制に詰めていた地球人たちの何人が、仮定はむなしいと知りながら、同じことを考えただろう。もし機体が着陸に入ったところでなくて、通常の高度だったなら、たとえバランスを崩したとしても、落下までの間に余裕をもって立て直せたはずだった。

 ――悪夢のような一瞬だった。


   ※  ※  ※


 青白いトゥトゥが視界に入ったその瞬間には、エイッティオ=ルル=ウィンニイはもう駆け出していた。次の一呼吸で、彼は空中に舞い上がって、全力で羽ばたいていた。
 彼のはるか前方で、銀色の機体がバランスを崩し、ぐるぐると回りながら、墜落を始める。その機体から、脱出装置によってふたつの操縦席が射出されるようすを、エイッティオ=ルル=ウィンニイの眼はとらえていた。そのうちのひとつが、すばやくパラシュートを展開するのも。
 そのとき、エイッティオ=ルル=ウィンニイは、何も考えていなかった。きりもみしながら落ちていく機体に、わずかでも接触したら自分の命はないだろうことも、自分が飛んで行ったところでまず間違いなくなにひとつ間に合わないだろうということも、馬鹿な特攻をかました見知らぬトゥトゥへの怒りも、彼の頭の中には、まるでなかった。
 地上の第三者からみたならば、それは空を切り裂くような見事な飛行だった――トゥトゥのような大きな生き物が出すとは思えない、驚くべき速度だった。けれど彼の主観の中では、信じられないくらいのろのろとしか、弟の姿は近づいてこなかった。
 引き延ばされた視界の中で、エイッティオ=ルル=ウィンニイは見る。パラシュートが彼の弟の翼に絡まって、開ききらないでいるのを。


   ※  ※  ※


 ぐるぐると回る視界の中で、エトゥリオルは自分の体が、完全に空に投げ出されていることを感じた。
 不思議とあまり怖くなかった。頭のどこかが冷静に、非常事態のマニュアルをなぞっていた。脱出機構が正しく働いて、自分の体が自動的に機体から射出されたことも、エトゥリオルは理解していた。それをどこかで、誇らしくさえ思っていたかもしれない――FMA21Xは、いい機体だ。
 ほかの飛行機をまだ知らない彼が、そんなふうに自慢げに思うのも、おかしな話かもしれないのだけれど。
 時間がひどく、間延びして感じられた。
 パラシュートの紐が、自分の翼に絡んだ瞬間にも、エトゥリオルは妙に冷静に、事態を把握した。心のどこかに、苦笑するような思いさえあった。ろくに動きもしないくせに、こんなときに邪魔だけはしてくれる、彼の役立たずの翼。
 絡まった紐を、なんとか手で掴もうとする。体が激しく回転している中では、それはひどく困難なことに思えた。
 間に合わない。
 間延びした思考の中で、彼は思う。死ぬ前に一度だけでも空を飛ぶことができた。僕は、幸運だったのかもしれない。
 青く澄んだ空と、地上の遠景とが、忙しなく入れ替わる。銀色に輝く太陽が眩しい。
 そのときエトゥリオルの視界に、エイッティオ=ルル=ウィンニイの姿が飛び込んだ。
 不思議なことに、エトゥリオルは一瞬、兄の姿に、はっきりと見とれた――高速で回転する視界の中で、そんな余裕があったはずはないというのに。あるいはそれは、彼の錯覚なのかもしれなかった。
 それでも彼は、見たと思った。見事な飛翔だった。がむしゃらに飛んでいるように見えて、わずかの無駄もない、力強く優雅な羽ばたき。
 かつての幼い日々、無心に兄に憧れていたころのことを、エトゥリオルは思い出した。
 ――あんなふうに、僕も、飛びたかった。
 その瞬間、エトゥリオルは初めて、心臓が引き絞られるように、怖いと感じた。
 体じゅうが一瞬で、燃えあがるように熱くなった。耳元で風が轟々と唸っている。間延びしていた時間が、急にもとの流れに戻る。
 ――死にたくない。


   ※  ※  ※


 高速で飛んでいるせいで狭まった視界の中で、エイッティオ=ルル=ウィンニイは、その光景を見た。動かないはずの弟の翼が、大きく二度、羽ばたくところを。
 それは、空を飛ぶにはまったく足りない、不器用な羽ばたきだった。
 けれどその頼りない羽ばたきは、それでもエトゥリオルの姿勢を安定させて回転を止め、落下速度を遅めた。
 視界に映るそうしたものの意味を、エイッティオ=ルル=ウィンニイはほとんど理解していなかった。だからそうした細部のひとつひとつは、彼があとになってから思い返したことだ。
 気がついたときには、地表がすぐ間近だった。
 エイッティオ=ルル=ウィンニイのかぎづめに、弟のパラシュートが引っ掛かっていた。ものすごい力で、彼の体はそれに引っ張られて、バランスを崩した。
 弟の墜落に巻き込まれながら、エイッティオ=ルル=ウィンニイは必死に羽ばたいた。それでも高度を稼ぐまでには至らなかった。
 二人は風に流されながら、飛行場の滑走路に、斜めに突っ込んだ。
 遠くで機体が炎上する轟音が響いていた。




14



 病室の白々とした壁を、窓越しの陽射しが切り取っている。
 うつ伏せにベッドに転がったまま、エトゥリオルは瞬きをする。こうして日のある時間に部屋を見渡しても、埃ひとつ浮いていない。はじめ、彼はそのことに驚いたのだけれど、そのまま疑問を口に出したら、ここは病院だからねと、ハーヴェイに苦笑された。
 そういうものだろうか。入院するということ自体が生まれてはじめてのエトゥリオルには、この中央医療センターの清潔な部屋が、どうにも落ち着かない。早く出て寮に戻りたいと、日に何度も思う。
 落ち着かないといえば、このうつ伏せの姿勢も、彼には落ち着かなくてしかたがない。トゥトゥはふつう、座って眠る。けれど痛めた場所が場所だけに、ただ座っていても、どこかしら痛むのだった。
 あの日、FMA21Xから投げ出された空中で、自分の翼がたしかに羽ばたいたのを、エトゥリオルは覚えている。
 妙なものだった。生涯まともに動くことはないだろうと、幼いころに宣告されたとおり、彼の翼はこれまでどんなに力を込めても、弱々しく動かすことしかできなかった。
 けれどやはり、それだけの無茶をしたということなのだろう。いま翼を少しでも動かしてみようとすると、胸や背中に激痛が走る。助かったのは何よりだけれど、骨から筋からあちこち痛めていて、こうして何日もずっと、病院のベッドに転がっている。


 嬉しいことに、設計部のスタッフをはじめとして、FMAの改良設計に関わった人々が、交代で見舞いに来てくれていた。
 レイチェル・ベイカーは例によって、前が見えないほど山盛りの果物を差し入れてくれた。今度ばかりは彼女の顔も、泥だらけではなかった。場所が病院だから、気を遣ったのだろう。
 その果物の山は、ほとんどエイッティオ=ルル=ウィンニイの腹に消えた。
「なかなかいけるな、これ。また持ってきてくれないかな」
 悪びれずにそんなふうにいって、けろりとしている。この兄は、寮のエトゥリオルの部屋を拠点にして、むやみやたらと病室に入り浸っていた。
 エイッティオ=ルル=ウィンニイもまた、手脚や腹など、あちこちに傷を負っていた。ところどころ自慢の羽毛がそげ落ちてしまっていて、手当のあとが見るだに痛々しい。それでもとにかく、翼にたいした怪我がなくてよかった――エトゥリオルはしみじみ思う。
 飛べなくなれば、ふつうのトゥトゥはあっという間に弱って死んでしまう。もとより飛ぶことのできない自分のほうが、怪我には強いというのが、なんだか妙な話のように、エトゥリオルには思える。
「そういや、今日も来てたな。ええと、ジンだっけ? お前の上司の」
 エトゥリオルがうなずくと、エイッティオ=ルル=ウィンニイは嘴をかすかに下げて、複雑そうな顔をした。それから、この兄にしては非常に珍しいことに、続きを口にするのを、かなり長いことためらった。
「治ったら、また続ける……んだよな」
 FMA21Xの試験飛行のことをいっているらしかった。エトゥリオルは少し首をかしげて、うなずいた。
「そうなると思う――まだはっきりしないけど」
 ジンは、おそらくこのまま中止ということにはならないだろうといった。断言しなかったのは、世論がどう動くか、見極めがつかないからだ。
 エトゥリオルは安静を理由に報道を見ることを止められているけれど、見舞いに来る皆の話から察するかぎり、例の事故は、けっこう派手に流されているらしかった。
 今度のことをかさに着て、航空機の危険性を言い立てるトゥトゥも、少なからずいるだろう――エトゥリオルは思う。
 けれど不思議なもので、前ほど嫌な気持ちにはならなかった。あの初フライトの日以来、不思議なくらい、気持ちが安定していた。ひどい目にあって死にかけたというのに、妙な話なのだけれど。
「あんなに、さ」
 エイッティオ=ルル=ウィンニイはいっとき嘴を掻いていたけれど、やがて、ふっと真顔になった。「危ない目にあうかもしれないんだったら、もうやめちまえよって、いいたいんだよ。俺としては、ほんとはさ」
 エトゥリオルは何もいわずに、ちょっと笑った。その困ったような微笑みを見て、エイッティオ=ルル=ウィンニイは首をすくめる。
「――まあ、わかってるよ。お前が案外怖いものしらずで、おまけに頑固なやつだってことはさ」
 エイッティオ=ルル=ウィンニイはそういうと、翼をばさばさ鳴らして、呆れたようにそっぽを向いた。
「ありがと、助けてくれて」
 エイッティオ=ルル=ウィンニイはもうひとつ、ばさりと翼を鳴らした。


 このセンターにエトゥリオルが入院しているのは、本当なら、かなり不自然なことだった。いくら事故現場から最寄りの医療機関とはいえ、なんせここには、トゥトゥの医師が常駐していないのだ。
 ジンやハーヴェイがいろんなところに掛け合って、無理を通してくれたのだそうだ。トゥトゥの病院に入ったのでは、取材に詰めかけてこられてもブロックできないからといって。入院して三日目になって、エトゥリオルはようやくその話を知った。
 それでトゥトゥの医師がはるばる日参して、エトゥリオルの怪我のようすを診てくれる。O&Wに健康診断で来ている、あの頑固そうな医師だ。
 いつかのように、頭ごなしに叱られたりはしていないけれど、正直に言うとエトゥリオルは、まだ彼のことがちょっと怖い。


 エイッティオ=ルル=ウィンニイが腹ごなしの散歩に出かけてしまうと、エトゥリオルはふたたび退屈になった。
 安静にしているべきだというのはわかるのだけれど、なんせずっと、ただ転がっているだけなのだ。寝て時間をつぶすにも限度がある。
 それでもやはり、体が弱っているのだろう。うつぶせのまま、やがてうつらうつらしだしたころ、病室のドアが軽く叩かれた。
「――はい」
 寝ぼけた声で返事をすると、姿を見せたのは、ジンだった。
「仕事はいいんですか」
「もう終業時間は過ぎてるよ」
 いわれて窓を見ると、たしかに日は傾きかけていた。夕陽に、エトゥリオルは眼を細める。空調のきいたこの部屋にいると忘れそうになるけれど、もう夏だ。日が長い。
「何か、進展はありました?」
 訊くと、ジンは肩をすくめた。
「計画の行方のほうは一進一退だが――ひとまず、シミュレーションの結果は出たよ。君があのとき制御系に割り込まなかったら、例のトゥトゥは、おそらくぎりぎりのところで助からなかっただろうという話だ」
 ほっとして、エトゥリオルは笑った。「よかった。無駄に機体を壊しただけなんじゃないかって思って、じつはけっこう、気が咎めてました」
 ジンも苦笑する。それからふっと、疲れたような顔になった。
「いくら事故防止のためのシステムを作っても、ああもまっしぐらに突っ込んでこられたんじゃなあ……」
 件のトゥトゥがああした行動に出た理由は、まだはっきりしていない。
 アンドリューが教えてくれた話によると、報道では、職を失って自棄になっていたのではといわれているらしい。もともと、長距離貨物自動車のドライバーだったそうだ。貨物航空機の参入で仕事が減ったことを、恨みに思っていたのではないか――
 憶測だ。トゥトゥの噂話ほど、あてにならないものもない。
 いっときして、ジンは顔を上げた。
「いや、それも言い訳か。――まあ、いずれにせよ、自動衝突回避については、まだ見直さないとな。パラシュートもだ」
 それからジンは、仕事の状況について話してくれた。まだ方針が決まらなくて試作二号機には手をつけられないが、試験飛行のデータは、引き続き解析が進んでいること。あんなことになったわりには、スタッフの士気はほとんど落ちていないこと。
 話が途切れたところで、エトゥリオルは顔を上げた。うつ伏せのまま首をそらして、ジンと視線を合わせる。
「――取材とか、止めてもらってるんでしょう?」
 ジンは眉を上げた。「当たり前だ。君だって、そんな調子なのに」
 エトゥリオルは情けなく転がったままの自分を見下ろして、思わず笑った。たしかにそのとおりだった。
「あの。僕、もうちょっとよくなったら――」
 自分で驚くほどすんなりと、そのあとの言葉は出てきた。「取材、受けてみたいんです」
 ジンは面食らったような顔をした。
 庇ってくれた彼らに申し訳ないような気がしながらも、エトゥリオルは言葉を引っ込めなかった。
「話、ちゃんと聴いてもらえるかわからないんですけど。きっと報道とかって、いまごろ推測だらけの、とんでもない話が出回ってたりするでしょう?」
 ジンは黙っていたけれど、その渋い表情を見れば、肯定しているも同然だった。
「僕、ちゃんと話さなきゃいけないことが、あると思うんです」
 いって、エトゥリオルは上司の反応を待った。
 ジンは、すぐにはいいともだめだとも答えなかった。いっとき考えるように黙り込んでいたけれど、やがて長い間のあとに、ため息を落とした。
「――まずは、体調を戻してからだ」
 エトゥリオルは嬉しくなって、つい微笑んだ。
 いつだって、心配してもらっていることは有難かったけれど、同時にそれが、エトゥリオルには辛かった。心配をかけることしかできない自分が、あまりに情けなくて、みじめに思えて。
 いまだってまだまだ半人前には違いない。だけど、少しずつでも変わっていけると思った。


   ※  ※  ※


「――では、あの飛行機に乗ることになったのは、あなたの希望で?」
「はい」
 ひとしきり雑談を交わしたあと、くせのない中央ふうの西部公用語(セルバ・ティグ)で、トゥトゥの記者は聞いてきた。
 年配の女性だった――記者という仕事からエトゥリオルが漠然と想像していたよりも、ずっと物腰がやわらかく、穏やかな話し方をする人だった。取材を受けているのが、病室だということも関係しているかもしれない。
 支社長の判断で、公正な報道で知られている彼女を、O&Wのほうから指名したと聞いていた。そうした配慮を受けることが、心苦しいような気はしたけれど、反対派寄りの記者から意地の悪い質問を浴びせられても上手に切り返す自信があるかといわれると、わからなかった。
「飛行機に乗りたいと思うようになったのは、いつごろからですか」
「二年ほど前に、初めて近くで飛行機が飛んでいるのを見かけて、それからです。そのときは、いつか自分が乗せてもらえるなんて、思ってもいなかったんですけど」
「ああいう機械を使って空を飛ぶことに、抵抗はありませんでしたか」
 それまでと変わらない穏やかなトーンのまま、記者はその言葉を投げかけてきた。エトゥリオルが質問を素直に受けとめることができたのは、彼女の声に、皮肉や追及の色がなかったからかもしれない。
「いいえ――僕がこうだからかもしれませんが」
 いって、エトゥリオルは翼を不器用に振った。傷はずいぶんよくなってはいたけれど、やはり動かそうとすると、まだ少し痛んだ。
「生まれつきなんです。自分がいつか空を飛べるなんて、ずっと、思っても見なかったから」
 思ったより平静にそのことを話せる自分に気付いて、エトゥリオルは微笑んだ。
 支社の立場のためにというよりも、自分の素直な思いを話そうと決めていた。恩知らずなことかもしれない。けれどおそらく、彼がいくら積極的に支社をかばうような言動をとっても、聴く方はそれを、エトゥリオルが雇われている立場だからだと考えるだろう。
「飛行機というものは、ずいぶん高いところを飛びますね。そのことは、怖くはありませんでしたか? 危険だとは?」
 エトゥリオルは首をかしげて、言葉を探す。
「飛んでいるときは夢中で、怖いっていうのは、あんまり思わなかったです。――結果的には、こんなことになってしまったんですけど」
 いいながら、エトゥリオルは冠羽を垂らした。「どれだけ安全に気を遣ってあっても、危険はゼロではないというのは、口をすっぱくしていわれてました。だからいろんな不測の事態を想定して、訓練もたくさんしました――だけど、あのひとが突っ込んできたのが見えたときは、本当に怖かった」
 正直な気持ちだった。よくあのとき手が動いたなと思うと、いまでもひやりとする。
「禁止区域に入り込んだトゥトゥに、腹を立てていますか」
 この質問にも、エトゥリオルは首をかしげた。
「わかりません。話したこともないひとですし……どういう事情があったのかわかりませんが、とにかく、怪我がなくてよかったです。腹が立つっていうなら――」
 エトゥリオルは眼をしばたいた。「もし僕に、もっと操縦の技術があれば、機体も壊さずに済んだのかもしれません。それは、すごく悔しいです」


   ※  ※  ※


 会社側の人間がその場にいては公正な取材に見えないからと、他の者は席をはずしていたけれど、取材記録はあとでO&Wにも提供された。
 設計部の自分のデスクでファイルを再生しながら、ジンは眼を閉じる。休日だ。さっきまで何人か同僚が出てきていたが、いまは彼ひとりだった。
 記者の発言は、比較的、エトゥリオルに好意的なように感じられた。ジンの耳にもそう聞こえるのだから、反対派のトゥトゥからしてみたら、なおさらかもしれない。地球人に肩入れした報道だといって、かえって反発を覚える者もいるだろう。
『あんな事故があっても、まだ航空機に乗りたいと思いますか?』
『乗りたいです』
 即答してから、エトゥリオルは言葉を足した。『その、決めるのは会社の偉い人だと思うので、僕が希望しても、飛ばせてもらえるかわからないですけど』
 僕は、ひとりじゃ飛べないから――エトゥリオルのその言葉は、不思議なくらい落ち着いていた。
『ずっと、僕はどこでも一人前のトゥトゥとして扱ってもらえなくて。なんでこんな体に生まれたんだろうって、いつもいじけてました。だけど、この街で働いてみて、やっと少し、わかってきた気がするんです』
『というと?』
『飛べないから、とかだけじゃなくて。そんなふうにいじけてばっかりでいる僕が、一人前の大人として、見てもらえるはずがなかったんです。いつも拗ねて、僻んでばっかりいて、自分だけが仲間はずれのひとりぼっちだって、ずっと思ってました。自分のことだけでいっぱいいっぱいで、周りのひとたちのことが、ぜんぜん見えてなくて――それじゃ立派な大人だなんて、思ってもらえるはずがないんだって。そういうことが、ちょっとずつわかってきて』
 エトゥリオルの口調は、言葉を探してつっかえることはあったけれど、ずっと穏やかなままだった。記者は口をはさまず、黙って話に耳を傾けている。
『拗ねるのをやめたら、いろんな人たちから助けてもらえるようになりました。飛行機を作って飛ばすのって、すごくたくさんの人が関わってて。いろんな人たちの手を借りて、それでやっと、あの日初めて空を飛べたんです』
 エトゥリオルはそこで一度、言葉を切った。それからひと呼吸おいて、はっきりといった。
『許されるなら、また飛ばせてほしい――飛びたいです』


 再生が終わる。
 ジンは眼を開けて、自分の手の中を見た。
 手のひらに乗っているのは、広報室から預かったディスクだ。中を見るための端末は、センターにあるものを借りられるはずだった。
 フロアのセキュリティをチェックして、ジンはオフィスを出る。


   ※  ※  ※


 どうするか迷ったんだが、とジンは切り出した。
「――支社あてで届いた抗議のたぐいについては、広報のほうで処理している。だけど、君を名指ししてのメールまで、会社の判断で君に黙って削除するのも、違うだろうという話になった」
 病室には二人だった。もうエトゥリオルの退院も間近だ。エイッティオ=ルル=ウィンニイは少し前に、自分の暮らす街に戻って行った。オーリォの時期ももう終わる。そろそろ彼には彼の仕事が始まるはずだ。
「支社あてに来ているほうも、賛否両論といったところだ――この中にも、ろくでもない誹謗中傷の類も、おそらく混じっているだろうと思う。セキュリティチェックはしているが、中はまだ誰も見ていない」
 ジンは顔をしかめていった。「君がいいというなら、そういうものだけでも、先にチェックして除けたいんだが――」
「見たいです」
 エトゥリオルが即答すると、ジンは深く、ため息を落とした。
 ジンの眉間のしわを見て、エトゥリオルは思わず笑う。「過保護だって、みんなにいわれませんでしたか」
「いつもはな。――メールのことについては別だ。それくらい、支社に届いた方も、ひどかったんだ。中には応援の声もあったんだが……それも、あとで見せる」
 ジンは来客用の椅子にどかりと腰をおろして、小型端末をベッドの脇に置いた。
「初めから結論ありきで報道を見ると、こういうことになるんだなと思ったよ――地球でも似たようなものは見てきたが、偏見っていうのは、どこにでもあるんだな」
「僕、大丈夫です」
 エトゥリオルはいった。強がりのつもりはなかった。何を読んでも傷つかないとはいわないけれど、もうきっと、耐えられないことはないと思えた。
 ジンがいっときためらって、それから短く息を吐いた。
「君がこれを読んでいるあいだ、俺もここにいていいか」
 エトゥリオルは眼を丸くして、それから微笑んだ。いつかと逆だなと思ったのだった。
「ありがとうございます」


 映像や音声データではなくて、文字だけのメールがほとんどだった。こうしたものは、より匿名性が高い手段のほうが書きやすいのかもしれない。
 事前にいわれていたとおり、誹謗中傷のたぐいもいくつもあった。彼らの眼に映るエトゥリオルは、異星人の手先で、トゥトゥとしての誇りを持たない裏切り者なのだろう。
 以前のエトゥリオルなら、傷つかないですむように心を閉ざして、そうした声を自分の中から遮断していたかもしれない。いまは少し違う。内容に納得はできなくても、そういう価値観があるという事実を、受け止められる。彼らは彼らで、自分は自分だという、言葉にすればたったそれだけのことが、ようやく腑に落ちたような気がした。
 応援のメッセージも、思いのほかにあった。会ったこともない相手からの励ましを、エトゥリオルは不思議な気分で読んだ。それから、飛行機に興味を持ったらしい、若いトゥトゥからの声も。
 一通のメールを開いたとき、エトゥリオルは画面の前で、固まった。ジンが振り返って、怪訝そうに眉をひそめる。
「――俺も見てもいいか?」
 エトゥリオルはかろうじて、その言葉にうなずいた。
 それはひとりの、トゥトゥの少年からのメールだった。
 自分もエトゥリオルと同じ障害を持っているという文面から、メッセージは始まっていた。
 ぼくもいつか、飛行機にのって空を飛べますかと、そこには書かれていた。
 長いあいだ黙りこんで、エトゥリオルはずっと、画面を見つめていた。日が落ちて、静かにジンが病室を出ていったあとも、いつまでも。


   ※  ※  ※


 よく晴れていた。空の端に、わずかに雲がたなびいている。
 滑走路には、あの日のように陽炎こそ立ってはいなかったけれど、春先のいまごろにしては、温かい日になりそうだった。
 FMA21Xはかなりの悪天候でも飛べる機体ではあるけれど、訓練飛行でそんな危険は冒さない。天気とスケジュールがあうのを待っていたら、思いのほかに時間がかかってしまった。
「さて。ようやく仕切り直しだな」
 教官が笑ってそういった。エトゥリオルはうなずきかえしながら、あらためてこのテラ人への感謝の念を覚える。あの日、エトゥリオルの無茶な操縦のおかげで機外に放り出されたというのに、快く訓練の続きを引きうけてくれた。
 エトゥリオルは振り返って、滑走路を見渡す。訓練飛行場の端、仮管制のあるビルの屋上から、エイッティオ=ルル=ウィンニイが翼を振っている。
 エトゥリオルはいたたまれなくなって、嘴を下げた。前のときがあんなことになったから、心配してくれているのはわかるのだけれど、さすがにこの年になって保護者つきというのは、ちょっと恥ずかしかった。
「――僕、小型機の操縦資格を無事にとれたら、次の目標ができました」
 笑われるかもしれないけど、と前置きして、エトゥリオルはいう。
 もしも、まだ自分が生きているうちに、トゥトゥが空の旅行を楽しむような日が来たら。そのときは、旅客機のパイロットをやりたい。
 口に出しながら、現実的ではないだろうかと、エトゥリオルは思う。だけど考えてもみれば、もともと空を飛ぶこと自体、彼にとっては途方もないような話だった。
「笑やしないさ。だけど――旅客機か。あれはけっこう、難しい。小型機と違って、時間がかかるぞ」
 うなずいて、エトゥリオルは笑った。「どっちにしても、旅客便が運航できるほど、飛行機に乗りたがるトゥトゥが増えるのは、まだずっと先でしょうから」
 彼はそういったけれど、支社の方にときおり、飛行機に乗ってみたいというトゥトゥの声が、寄せられるようになっていた。
 事故の報道があったのをきっかけに、そういう意見が増えるというのも、なんだか妙な話だけれど、それだけトゥトゥの社会で、これまで航空機の存在が黙殺されてきたということだろう。大きく報道されたことで、反対の意見も増えたけれど、興味を持つものも出てきた。
「まあ、まずは目の前のことからひとつずつ、だな。――そろそろ行くか」
 教官の言葉に、エトゥリオルは力強くうなずく。「ええ」
 滑走路に降り立つと、目の前には銀色の機体があった。機械油のにおいを胸いっぱいに吸いこんで、エトゥリオルは空を見上げる。
 いい風が吹いている。




奥付



マルゴ・トアフの銀の鳥


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著者 : 朝陽遥
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