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 ――仁、仁。ちょっと聞いてちょうだい。
 母親の、べっとりと耳に貼りつくような声に、仁は顔をしかめた。
 彼の返事を待たずに、母親は話しはじめる。いつものことだった。
 ――義姉さんったら、ひどいこというのよ。苦労知らずのお嬢様は金銭感覚も違うわねですって――わたしはただ周りに恥ずかしくないようにって……
 母親の口から滔々と流れ出る際限のない不平は、たわいのない愚痴をよそおっていても、にじむ毒の強さが、いつも彼を閉口させる。
 他人への批難以外の彼女の言葉を、仁はひとつも覚えていない。
 彼女の話の中では、母はいつも善良な被害者で、そのほかの人間はすべて、彼女へいわれなき悪意をぶつけてくる、恐ろしい怪物だった。
 わずかでも反論すれば、ますます歯止めが利かなくなる。自分で自分の言葉に興奮して泣き叫ぶことまであった。まあ、なんてことをいうの、どうしてそんなひどい子になったんだろう――そうよ、だいたいあんたは昔っから人の気持ちっていうものがわからない子だった――
 いつからか、聞き流すことばかりがうまくなった。母はあいづちさえ必要としていなかった。話しているあいだ、反論しない誰かが目の前にいさえすれば満足なのだ。
 人形でも目の前に置いて、それに向かって気のすむまで話していればいい。
 一度、口に出していったことがある。母親はヒステリーを起こして暴れ、彼は三針縫う傷を腕に負って、家の中は嵐に巻き込まれたような在り様になった。
 母の不平は、義姉のことから彼の担任の女性教師へとうつり、それからメディアに近ごろよく言動を取りあげられる女性議員に向かった。彼女の悪意は、わけても世の女という女に向いているようだった。その悪意が毒になって自分の体にしみこんでいく錯覚を、この頃よく覚えた。
 ――母さん、これ、見といて。
 姉の声がして、彼は顔を上げる。高校の制服を着崩した姉が、リビングの端末に、何かの書類を表示させているところだった。
 母はそれに返事をするどころか、一瞥もくれなかった。姉に話しかけられたことなどなかったように、まったく変わらないトーンで、彼に向かって話し続ける。
 ――そりゃあね、わたしも気の毒とは思うわよ、義兄さんのところは経営が大変だっていうし――だからって、そんないい方することないじゃない――
 彼はもう母親のことを見てはいなかった。その背後に立っている、姉を見つめていた。
 姉もまた、じっと彼を見ていた。恐ろしいほど感情のない眼つきだった。
 彼女がわかりやすい嫉妬や憎悪の色さえ、表情に出さなくなったのは、いつごろからだっただろう。
 ふっと踵を返した姉は、軽い足音を立てて、階段を上っていく。階上に姿を消す直前、一瞬だけ、その顔が振り返った。
 姉はうっすらと、微笑んでいた。敵意も、同情も、失望も、なにひとつそこには読みとれなかった。


 背中にいやな汗を掻いていた。
 ジンは呻いて、身じろぎをした。腕から伸びる点滴用のチューブがひきつれる。大げさなことだ――思わず苦笑が漏れる。中身はただの栄養剤だというのに、点滴に繋がれているというだけで、なにか自分が重病人にでもなったかのような気がする。
 息をつくだけで、体の節々が痛んだ。眼に汗が入る。白々とした天井が、ぼやけて滲む。
 いやに古い夢を見たのは、熱があるせいだ。
 体を起こすと、医療用ロボットがカメラアイを点滅させて、警告を発してきた。医師も看護師もあまりやってこないが、彼の体調は別室でモニタされているはずだった。
 病室は静まりかえっている。静寂がストレスになるということを、ジンは久しぶりに思いだした。
 このごろでは、朝から鳥の鳴き声で目が覚めることが多かった。少し前に、寮の裏庭に植えてあった背の高い木に、エトゥリオルが巣箱を取りつけた。ジンが見守る前で、作業を終えたエトゥリオルが喉を震わせて声を立てると、空を舞っていた小鳥が、まっすぐに滑空してきて、そのまま中に入った。
 あの鳥は、まだ居ついているだろうか。
 視線をずらせば、その先には小さな窓がある。リハビリテーションセンターと同じ、嵌め殺しのものだ。
 防疫上の理由だとわかってはいたけれど、その開きもしない小さな窓を見ていると、つい、別のものを連想してしまう。精神病棟の、自殺防止のための窓。
 妙なことを考えるのは、体調のせいだ。
 ジンは無理やり思考を止めて、眼を閉じる。ずいぶんと眠っていたはずなのに、すぐに眠気がさして、意識が頼りなく揺れる。また楽しくもない夢を見るような予感がした。


  ※  ※  ※


 ジンが医療センターに搬送されて、丸二日になる。
 エトゥリオルは医務室の前で、ひとり、途方に暮れていた。ジンのようすが訊けないかと思って、仕事がひけてからハーヴェイに会いに来てみたのだが、あいにくと医務室は無人だった。
 代わりに出てきたのは円筒形の医療ロボットで、そいつは合成音声の英語のあとに続けて西部公用語(セルバ・ティグ)で、どうされましたかと彼にたずねた。
 エトゥリオルは返答に窮した。口ごもって、ロボットのカメラ=アイと見つめ合う。ロボットが質問をもう一度繰り返して、ようやくエトゥリオルは、ハーヴェイに会いにきたのだと、英語で伝えた。
 医療ロボットは胴体側面に文章を表示させて、同時に音声でもその内容を読みあげた。医師不在につき、軽度の負傷については医療ロボットで対応中――緊急時は中央医療センターへ通報のこと。
 ご丁寧に通報ボタンまで表示させて、医療ロボットは所在なさげに動きを止めた。エトゥリオルの返事を待っているらしかった。
 エトゥリオルのほうは、もっと所在がなかった。どうやってこのロボットに引き取ってもらえばいいのかわからない。
 一体とひとりはいっとき途方にくれて、見つめ合ったまま立ちつくした。
「――リオ?」
 呼ばれて振り返ると、当のハーヴェイが廊下を歩いてくるところだった。ほっとしたようすのエトゥリオルと、足元の医療ロボットを見くらべて、ハーヴェイは笑った。
「ああ――医療センターに行ってたんだ。医者の数が足りないもんだから、未知の病気が見つかると、僕みたいな産業医までいちいち呼びつけられる」
 患者がうちの社員だからっていうわけじゃなくてねと、ハーヴェイは苦笑した。口調はいつものように明るくても、その顔が疲れていることに、エトゥリオルは遅れて気がついた。
「原因、まだわからないんですか」
「うん――これじゃないかっていう目星はついてきたんだけど、その先がなかなかね。……中でちょっと話していかないか。ジンの様子を聞きにきたんだろ」
 いって、ハーヴェイは医療ロボットの胴体に触れる。パネルに何かのコードを打ち込むと、ロボットはカメラ=アイを点滅させて、おとなしく引っ込んでいった。
 事務室に入ると、ハーヴェイはエトゥリオルに椅子をすすめて、自分は一度デスクに向かって、端末を立ち上げた。仕事が溜まっているのだろう。ざっと目を通してから、急ぐ案件はなかったのか、ディスプレイから視線を外した。
 落ち着かずに身じろぎしているエトゥリオルの様子をみて、ハーヴェイは笑ってみせる。
「そんなに心配しなくて大丈夫だよ。熱もそんなにすごく高いってわけじゃないし、症状自体は、大したことないんだ。治療法が見つかるよりも先に、自力で治しちまうんじゃないかな」
 エトゥリオルはじっと、ハーヴェイの眼を見た。その言葉を真に受けていいのか、それとも彼を安心させようとしてそういっているだけなのか、わからなかった。
「だいたいあいつは、たまに風邪くらい引いたほうがいいんだ。こんなことでもなけりゃ、自分の体も、機械か何かと思ってるようなやつだから」
「――でも、入院なんて」
 ああ、と納得したように、ハーヴェイはうなずく。「そうか、君らは入院なんていったら、もう生きるか死ぬかだものなあ」
 防疫といった概念自体が、トゥトゥにはなじまない。三日も閉じ込められて飛べずにいれば体調を崩す種族にとって、隔離という考え方はないのだ。
「本当に、大丈夫だよ。僕らはこっちの病原体については抗体をほとんどもたないから、たいしたことなくてもいちおう大事を取って、対抗手段が見つかるまで、なるべく感染が広がらないようにしてるだけなんだ。万が一にも重篤化したときに、薬の開発も何も間に合わなかったら、おおごとだからね」
 他にも何人か発症者が出ているけれど、いまのところ誰も、命にかかわるような重い症状はないと、ハーヴェイは説明した。
 話しながら微笑んではいたけれど、ハーヴェイのようすが、いつもとどこか違うような気がして、エトゥリオルは身じろぎをした。多忙で疲れているせいだろうか。
「だけど、まあ、隔離しても無駄になるかな」
 ふっと、ため息のように、ハーヴェイはいった。隈の浮いた目頭を揉んで、椅子に深く腰掛ける。「今日、また新しく感染者が出たそうだよ。まあ、このまま広がっちゃうだろうね」
「そんな……」
「――仕方ない部分なんだ。僕らはこの惑星にとって異物だし、自分たちの生まれ育った星を離れて暮らすっていうのは、そういうことだ」
 病気に罹って、そのたびに治して、抗体を作り上げていくしかないんだと、ハーヴェイはいった。旅行とでもいうならともかく、この先もずっとこの惑星で生きていくつもりなら、そうやって長い時間をかけて、適応していくしかないのだと。その話は、エトゥリオルにも理解できるような気がした。
「追いつかなくて死者が出ることもあるだろうけど――でも、それは本来、あたりまえのことだし、ね。へたに医療が進んだせいで、僕らは病気で死ぬっていうことから、遠ざかりすぎた」
 途中からは、ひとりごとのような口調だった。ハーヴェイは、ふっと、皮肉っぽく笑う。「出向組の連中には、僕がこんなこといってたなんて、教えないでくれよ。問題になっちまう。――何年かで地球に帰るつもりのやつらからしてみたら、そんなの医者の怠慢にしか聞こえないだろうし、たまった話じゃないだろうから」
 薄情だって叱られちまうといって、ハーヴェイはおどけてみせる。その顔も、声の調子も、たしかに笑っていたけれど、なぜかエトゥリオルには、彼が悲しんでいるように見えた。
「薄情だなんて」
 エトゥリオルが首を振ると、ハーヴェイは一瞬、ふっと影に落ち込むように、暗い眼をした。
「僕は薄情者さ。友人が病気で伏せっているときにまで、こんなことをいってるんだから」
 エトゥリオルはとっさに声を上げた。「ほんとうに薄情なひとだったら、そんな顔はしないと思います」
 いってしまってから、エトゥリオルは慌てて冠羽を揺らした。何をわかったようなことを、と自分で思った。
「――あの、すみません……僕」
 眼を丸くしているハーヴェイに、なにか言い訳をしようとして、エトゥリオルは口ごもった。
「いや――ありがとう」
 ハーヴェイはそういって、手のひらで顔をこすった。それからいっときして、ぽつりとつぶやいた。「なんだろうな、君にはどこか、話を聞いてもらいたくなるようなところがある……」
 ありがとう。もう一度いって、ハーヴェイは何度か目をしばたいた。エトゥリオルには、黙って首を振ることしかできなかった。


 ジンは大丈夫だよ。もし何か状況が変わったら、すぐ知らせるから。
 そういったハーヴェイは、少し仮眠をとったらまたセンターに戻るのだといった。
 心配する以外にできることが、驚くほど何もない。エトゥリオルは事務室を出て、とぼとぼと歩く。
 ジンが入院している医療センターへの行き方は、エトゥリオルにもなんとなくわかるが、面会は禁止といわれている。病原体を拾って持ち帰らないための措置だそうだ。
 エトゥリオルは肩を落として支社を出た。寮まではすぐだけれど、なんとなく一人の部屋に戻る気になれなくて、反対の方向に歩きだす。
 今日はちょっと風が強い。視線を上げて雲の流れをたしかめてから、エトゥリオルはふっと、不思議な気分になった。そういえば近ごろ、あまり空を見上げなくなった。
 マルゴ・トアフの街並みは、いつも驚くほどにぎやかだ。仕事帰りに食事をするもの、浮き立ったようすで買い物に出かけるもの、連れだってシアターに入ってゆくもの。ほかの町でも似たような光景は見られるが、トゥトゥは空から町を見下ろすから、看板も広告も、地上にはほとんど見られない。
 このごろエトゥリオルは、街中をとりとめもなく歩く習慣が身についた。賑わう中を歩いているだけで、なんとなく気が晴れるような気がする。
 エトゥリオルはふと気が向いて、初めての道に足を踏み入れた。メインストリートを逸れても、どの裏道にもそれなりの広さがあるし、それに、街灯が等間隔にきちんと整備されている。表示もあちこちにあって、道に迷う心配がない。
 いったいどこから運ばれてくるのか、土のにおいがしている。エトゥリオルは不思議に思って、あたりを見渡した。
 一般的なトゥトゥの町と違って、ここでは水や空気を通す特殊な樹脂で、地面を固めてある。地表にあまり土ぼこりが立たないのは、そのためだ。この町ではなにもかもが、歩いて暮らすひとびとにあわせて作られている。
「ねえ、ちょっと、そこの君」
 急に横合いから声がして、エトゥリオルは立ち止まった。聴き覚えのある声だった。
 振り向くと、塀の上に、テラ系の女性の顔が突き出していた。お下げからはみ出した金髪が風に踊って、あちらこちらに跳ねている。エトゥリオルは思い出した。いつか食堂で会った女性だ。レイチェル・ベイカー。
「僕、ですか?」
「そう。――きみ、ええと、エトゥリオル? 業務外で悪いんだけど、ちょっと手を貸してもらえないかしら。この風で、授粉前に花が落ちそうなのよ」
「あ、ええと――はい」
 素直に門に向かうと、塀の向こうには、畑が広がっていた。さきほどからの土のにおいは、これだったらしい。
 けっこうな広さがある。まだ種を植えられたばかりなのか、何も生えていない畝もあれば、採りごろを迎えて実の重さに耐えかねたように垂れる枝もある。女史の周囲では、農作業用ロボットが黙々と作業を進めていた。
 見れば彼女は手にビニールシートを持っている。エトゥリオルは駆け寄って、シートの一方を持った。
「助かるわ。この子たちだけじゃ追いつかなくて――ほんとうは、人間が手を貸さないでも勝手に育つ環境をつくるのが理想なんだけど、なかなか本職のようにはいかないわね」
 本職というのは、トゥトゥの農家のことだろう。ベイカー女史は日焼けした腕で、勢いよくシートを引いた。
 トゥトゥの農法は、地球のそれよりもずっと優れていると、女史は話した。地球では経済性ばかりを考えて、ひとつの土地で一斉に単一の作物をつくる農法が主流なのだと。
 それに対してトゥトゥは、かならず混栽をやる。その組み合わせが肝心で、一緒に植える作物同士や、周囲の生態系との相互の作用を緻密に把握することによって、農薬も化学肥料にもほぼ頼らずに土を肥やし、作物の育成を助け、病害を最低限に抑えてしまう。そういう技術は、地球でも研究はされているけれど、なかなか広がらないのだそうだ。
 一度計画を立てて、そのとおりに植えてさえしまえば、あとはひとの手をほとんどかけずに、安全性の高い作物が大量生産される。そういうトゥトゥのやり方を学んで向こうに伝えたいのだと、女史はいった。おいしい野菜を作ってみせると、前にいっていたけれど、それだけが目標ではないらしかった。
 作業の手を止めず、何度となく風にさえぎられながらの話だった。畑は、通りからのぞいたときの印象以上に広い。
「これだけぜんぶ、おひとりで管理されてるんですか?」
「いつもは三人なのよ。ひとりは交替で寮に帰して、もうひとりはちょうど出張中――あとは、この子たちね」
 いって、ベイカー女史は農作業ロボットたちを示した。さまざまな形の機械が働いている。いまは動いていないものも含めれば、かなりの数があった。
 はじめは話しながら手を動かしていたが、やがて作業に没頭して、黙りがちになった。
 それにしても、地道な作業だった。けれど、エトゥリオルは単純作業がきらいではない。頭を空にして、黙々と体を動かすのは、気持ちがいい。
 作業がひと段落するころ、自分をじっと見つめる女史の視線に気づいて、エトゥリオルは戸惑った。
「――あの、僕、なにか変なことをしましたか」
 女史は首を振って、にっこりと笑った。頬に泥がついていて、乱暴に手でぬぐったのか、筋になっている。
「あなた、トゥトゥにしては根気強いわ――珍しいタイプね」
 褒められて、エトゥリオルは困惑した。「そうですか?」
 ベイカー女史は、妙に嬉しそうにうなずいた。
「いいことよ」
 根気強い、という部分のことかとエトゥリオルは思ったが、女史は違うことをいっているらしかった。「変わりものっていうのは、重要な特質だわ」
 いって、女史はひとりでうんうんとうなずいている。
「――そう、でしょうか」
 あいまいに首をかしげたエトゥリオルに、女史はきっぱりとうなずく。
「大事なことよ。生物の群れとしては。――覆いはこんなもので大丈夫そうね。ちょっと温室で、お茶でもしていかない?」
 エトゥリオルはその誘いに乗った。
 女史の温室は、みごとなものだった。多様な作物が、のびのびと葉を茂らせている。背丈も葉の色つやも、そのあたりの畑ではなかなか見かけないような勢いだった。
 出された茶は、変わった味と香りをしていた。エトゥリオルが首をかしげると、ベイカー女史はがっかりしたように肩を落とす。「口にあわなかったかしら」
「いえ、おいしいです――初めて飲む味だったので、びっくりして」
「そうでしょう。ベイカー謹製、オリジナルブレンドよ――でもまあ、まだまだ改良の余地ありね。トゥトゥにも地球人にも美味しいものを、目下、模索中なのよね」
 いって、女史はにっこりと微笑んだ。
 一定のマイノリティを含むことが、群れ全体の生存確率を上げるというようなことを、レイチェル・ベイカーは滔々と語った。彼女が生物学者だという話を、エトゥリオルはようやく思い出した。
「――まあ、そんなふうにいうのは、強がりもちょっと、入ってるけどね。わたしもよく、変わりものっていわれるから」
 エトゥリオルはうなずきかけて、慌てて首を止めた。気を遣わなくてもいいのよといって、女史はくすくすと笑う。
「子どものころは、草木や動物とばっかりお話ししててねえ――まあ、小さい子どもなら、それもほほえましいで済むけど、あいにくと育っても、なかなか人間らしくならなくて」
 母親をずいぶん心配させたと、女史は笑って話した。
「大人になって、世間にあわせるということもそれなりに覚えたつもりだったけれど、でも、やっぱり駄目ね。こっちにきたら、自分がそれまでどれだけ無理してたのか、いやになるほどわかったわ」
 そういってから、ふっと、女史は真顔になった。「向こうでね、あなたのお仲間が鳥と話している映像を見たとき、すごく羨ましかった――それからわたしはずっと、ここに来たかったの。よく空想したわ。もし自分があの星で、トゥトゥとして生まれていたらどんなだっただろうなんて」
 懐かしむように目を細めて、女史は空を見上げる。温室のガラス張りの天井からは、星空がよく見える。
 まあ、そういうわけで、と女史はいった。
「ここまで来るような連中は、たいていご同類なのよね。まあ、あたりまえといえばそうなんだけど。地元で順風満帆に暮らしてたら、親類も友達もみんな捨てて、こんなおいそれと地球に帰れないような場所に移り住んだりなんて、なかなか思いきれないもの」
 そういうものかもしれないと、エトゥリオルは思った。自分がもし、当たり前に空を飛べる普通のトゥトゥだったら――たとえば恋人がいて、たくさんの友人がいたならば、この街で働こうとまでは思わなかったかもしれない。テラからヴェドにやってくるほどの距離ではないけれど、多くのトゥトゥにとって、マルゴ・トアフは縁遠い場所だ。
 だから、変わりものは大歓迎。そういって、女史は微笑む。
「だけど、ちょっと不思議な気もするのよ。ひとりひとりを見たら、わたしたちよりもトゥトゥのほうが、享楽的っていうか――失礼、言葉が悪くて申し訳ないんだけど、地道な苦労に耐えるとかって、好きじゃないように見えるのよ。でも歴史とか、社会全体のことを見たら、あなた方のほうが急な変化を嫌う傾向があって、わたしたちのほうがすぐ、短絡的に新しいものに飛びつくのよね」
 首をかしげて、ベイカー女史はいう。「社会学者の人たちが、とっくに論文でも書いてるかもしれないわね。こっちにきてから野菜の相手で毎日いそがしくて、すっかり報道なんか見なくなっちゃったわ」
「――いいですね」
 自分の口からとっさに言葉に、エトゥリオルは驚いた。女史が面白がるように首をかしげる。
「社会情勢に疎くなるのが?」
「ええと、うまく言えないんですけど……」
 考え考え、エトゥリオルは言葉を探す。「手で土に触って、天気と生き物を相手にする仕事が、かな」
「地に足のついた暮らし、っていうやつかしら」
 いって、ベイカー女史は笑う。「自分の仕事の成果が眼に見えるっていうのは、まあ、いいものね。そのかわり駄目なときも、はっきり眼に見えちゃうけど」
 そうかもしれないと、エトゥリオルは思った。
 すっかり暗くなった外を見て、ベイカー女史は肩をすくめた。「わたしは今日は、ここで泊まりこみ。あなたはそろそろ帰ったほうがいいんじゃないかしら?」
 いわれて、エトゥリオルも外を見た。たしかにもう遅い。寮には門限のたぐいはないが、地球人はトゥトゥよりも眠る時間が長いから、夜中にはなるべく大きな物音を立てないようにといわれている。
 女史は温室の出口までエトゥリオルを見送りながら、歯を見せて笑った。
「今日は手伝ってくれて、助かった。報酬は現物支給でね。そう遠くないうちに、とびきり美味しい野菜を届けにうかがうわ」


 寮に向かって歩くあいだ、マイノリティの意義というベイカー女史の言葉について、エトゥリオルは考えた。群れの生存率、という言葉は、彼にとっては新鮮だった。
 その生息域に最適化されすぎた群れは、環境の変化でたやすく絶滅する――群れに多様性が保たれるのは、生物としての本能だと、女史はいった。
 自分のようなものが生まれてくるのにも理由があるのだとしたら、とエトゥリオルは考える。群れからマイノリティをはじきだそうとする集団の力学は、どこから発しているのだろう。それもまた、生物が生き残るための知恵だろうか?
 寮について、すれ違うテラ系の知人と声をかけあいながら、エトゥリオルはまだそのことを考えていた。寮住まいのトゥトゥは、あまり彼に話しかけない。
 けれどそれも、お互い様だった。エトゥリオル自身にとっても、自分から声をかけるのには、トゥトゥよりもテラ人のほうが敷居が低い。自嘲して、エトゥリオルは自分の部屋に戻る。
 寮の食堂はまだ開いているが、食欲があまりなかった。もともと彼はあまり食べるほうではない。ふつうのトゥトゥは、一日に五回は食事を摂るけれど、飛ばないエトゥリオルは、そんなに食べてもエネルギーを使う場所がない。
 生まれてくる場所を間違えたのは、自分のほうだ。
 ヴェドで生まれたかったといった女史の横顔を思い出して、エトゥリオルはひとりうつむく。健康診断の日に医師からいわれた言葉と、あのときのいじけた気持ちが、まだときどきよみがえっては、胸の中をぐるぐる回っている。


  ※  ※  ※


「――本当に助かりました」
 ギイ=ギイは顔をしかめて、赤毛の医師を睨みつけた。彼は礼をいわれることが、好きではない。
「しつこい。医者が医療に手を貸して、礼なぞいわれる筋合いがどこにあるか」
 彼がそういうと、どういうわけだか、ハーヴェイは微笑んだ。
 なぜそこで笑うのか。テラ人の考えることはわからん――ギイ=ギイはふてくされて、そっぽを向く。
 彼がテラ人の間で発生した疫病について耳にはさんだのは、単なる偶然だった。先日の健康診断で診たO&W勤めのトゥトゥがひとり、彼の医院に通院している。診察の合間の世間話として、たまたまその話が出たのだった。
 患者が処方を受け取って帰って行ったあと、ギイ=ギイはいっとき考え込んだ。
 テラ人の体のことについては、彼は素人も同然だ。素人が医療の現場に口出しをするものではない。
 だがヴェドに存在する病原体への知識については、また別だ。
 トゥトゥが罹患する病原菌やウイルスが、テラ人の体にどう作用するかは、ギイ=ギイにはわからない。それでも顕微鏡を覗いてみれば、なにか貸せる知恵のひとつかふたつくらいは、あるかもしれないと思った。
 彼がO&Wとの間に交わした契約は、あくまで月に一度の健康診断だけだ。それもトゥトゥを相手にする仕事であって、テラ人の健康管理までは、本来、知ったことではない。
 だが、あのテラ人の医師は、マルゴ・トアフまで足を運ぶトゥトゥの医者が、なかなかみつからなかったともいっていた。それなら今ごろは下手をすると、テラ人ばかりで顔をつきあわせて、効率の悪い議論でも繰り返しているのではないか。
 そこで聞かなかったふりをできるなら、ギイ=ギイはそもそも医者にはならなかっただろう。
 幸いにも彼の医院には、若い医師たちが育ってきている。彼らにあとを任せてトラムに乗り込みながら、ギイ=ギイはふと、自分は年を取ったのだと思った。若いころなら、多少の距離ではトラムになど頼らなかったし、動く前にこんなごちゃごちゃした理屈を考えたりもしなかった。
「――それにしても、脆弱な種族だ」
 ギイ=ギイは吐き捨てる。テラ人の医学について、セルバ・ティグに翻訳された文献はさして多くないから、これまでに論文の記述に首をかしげることはあっても、違和感の正体まではわからなかった。だが実際に患者の容体を目の当たりにし、テラ人たちの口から治療方針について聞いて、ギイ=ギイは納得した。テラ人の肉体は、脆い。
 いったいどういう環境で育てばそうなるのだと、研究者たちを前に、ギイ=ギイは何度か怒鳴りそうになった。
「抗体の問題はわかるが、それを差し引いてもだ。ああいう乗り物に頼ってばかりおるから、あんたがたはそうまで弱くなるのではないか」
 今朝がた治療方針の目途が立つのを見届けて、医療センターからO&Wまで移動するとき、ギイ=ギイははじめ、自分で飛んでくるつもりだった。たいした距離ではないのだ。
 だが気まぐれを起こして、ハーヴェイのいうテラ人流の礼儀とやらに、つきあってみる気になった。彼は請われたとおりに彼らの自動車に乗り込み、そして愕然とした。
 テラ人の体格にあわせた車内は、トゥトゥにとってはやや窮屈ではあったが、そのことを差し引いても、それはひどく快適で便利な乗りものだった。
 気に食わん――ギイ=ギイは思う。乗り心地がいい、結構なことだ。移動が早い、それも結構だろう。乗っている人間は操縦のために頭も体も使う必要はなく、何もかもを機械が勝手にやってくれる。好きにするがいい、と思った。
 ちょっとした移動にまでいちいちこんなものに頼っているから、彼らは自分の体ひとつで生きる力を失ってゆくのではないか。
「――返す言葉がありません」
 ハーヴェイは苦笑して、それからふっと、何かを考えこむような仕草をした。いっとき迷うような間のあとに、赤毛の医師は真顔でいった。「僕らの会社は、航空機を作る企業です」
 ギイ=ギイは訝しく首を傾けた。そんなことは、とっくに聞かされている。今さら何をいうのかと思った。
「地球人がよけいな技術を持ち込んだから、トゥトゥの退化が進んだのだというメディアもありますが――どう思われますか」
 気にくわない質問だった。ギイ=ギイはハーヴェイを睨みつける。それでも医者のいうことか、とも思った。
 だがギイ=ギイは、若い医師の表情を見ていて、ひとつ気付いた。この地球人は、自分で心にもないことを、あえて口に出している。
 ますます気に食わんと、ギイ=ギイは思った。こいつは医者のくせに、まるで下世話な記者かなにかのようなやりくちではないか。
「馬鹿げた話だ」
 それでも彼は、乗せられる気になった。「飛べるようにならん子どもらなぞ、あんたらが接触してくるよりずっと昔から、常におった。それこそ私らの祖先がまだトリだったころからだ。たかだか二百年かそこらで、なにが退化か。――大体、そのせいで退化するほど、トゥトゥはあんた方の乗り物に頼りきってはおらんだろうが」
 ハーヴェイはいかにも恐れ入って拝聴していますという顔をしている。だがそれがポーズであることは、ギイ=ギイにも察しがついた。まったく、つくづく気に食わなかった。
 腹を見せない相手が、ギイ=ギイは嫌いだった。だがそれは同時に、ある意味で、医師としての資質なのかもしれなかった。正直で率直なだけでは、医者はつとまらない。
「まったくもって、つまらん話だ。どこにでも他人に責任をなすりつけたがる連中はおる」
 いってから、ギイ=ギイは顔をしかめる。「まあ、あんた方の飛行機は、私も好きではないが」
 ハーヴェイは間髪いれず、真顔でいった。「理由をお聞きしても?」
 やはり記者のようなやつだと、ギイ=ギイは呆れる。それからふと、思い直した。彼らはトゥトゥの率直な意見を耳にする機会に、恵まれていないのかもしれない。O&Wに雇われているトゥトゥはいるが、彼らは雇い主にものをいうには、どうしても気兼ねするだろう。
「危なっかしすぎるからだ」
 断じて、ギイ=ギイは顎をそらす。「あんた方は、発着場所を厳密に決めて、そのエリアにトゥトゥの立ち入りを禁じさえすれば、安全だという。だが若いトゥトゥはしばしば頭に血を上らせるものだ。オーリォの時期にもなれば、目立つ表示があったところで、知らんうちにうっかり迷いこむ連中が出ないとも限らん。まして鳥たちはどうだ。連中にいうことをきかせて、ここから先には入ってくるななどというわけにはいかんだろう。――鳥の嫌う音を出すか? だが、すべての鳥が嫌う音を出そうとすれば、その音はトゥトゥにも不快なものになるだろう……」
 ハーヴェイはうなずきながら、口を挟まずに聞いている。異論も反論も内心ではあるのかもしれなかったが、そうしたものを、何一つ外に出さない。
 若造めと、ギイ=ギイは鼻を鳴らす。若いのに小器用な人間というのは、可愛げがない。
 やはり自分は年を取ったと、ギイ=ギイは思った。若いころならこういうときに、わかっていてわざと話題に乗せられてやったりはしなかった。
「――だが、そいつが役に立つものでもあるのはわかっとる。輸送が早くなったことで、救われた命もある。災害のときに、あんたがたの飛ばした飛行機で救助された怪我人も、救援物資を受け取った連中もおるからな」
 ギイ=ギイ自身も、航空機の輸送のおかげで薬の到着が間に合った経験を、一度ならず持っていた。速度はときに、大きな力になる。
 憮然として、ギイ=ギイはいう。
「弊害があるのを承知でその恩恵を被っておきながら、何かあれば責任だけをなすりつけるようなやり口は、私は好かん」


   ※  ※  ※


 設計部の連中に聴かせてやりたい話だなと、ハーヴェイは思う。近ごろ、反対派の声が大きい。
 あいかわらずヴェド上の航空機は、大きな事故もないまま運用されている。それでも反対の声が減らない。何が彼らに、それほどまでに航空機を嫌わせるのか。
 機械の力に頼って空を飛ぶということに、抵抗があるのか。異星人の作ったものが、自分たちの飛べないような高い空を駆けることが、感情的に気に入らないのかもしれない。そういう表に出て来づらい感情の部分が理由なら、問題は根深い。
「まあ、若い連中は、飛行機に特別な抵抗もないようだ――いつかは良かれ悪しかれ、当たり前のものになるだろうさ。一度慣れた便利さというものは、そうそう捨てられるものではない」
 慰めのつもりなのか、ギイ=ギイはそんなふうにいって、窓の外を見た。つられてハーヴェイも、空を見上げる。高いところを、飛行機雲が流れている。
 このトゥトゥの医師が、怒っているように見せて、どこか面白がっていることに、ハーヴェイは気付いていた。
 器の大きな人物だと、ハーヴェイは思う。頑固で怒りっぽいようでいて、ほかのトゥトゥと話しているときにはあまり感じない、寛容さのようなものが垣間見える。
 彼が駆け付けてくれたことは、正直にいって、本当にありがたかった。ギイ=ギイの示唆がなければ、病因の特定も薬の製造方針が固まるのも、まだ遅れていたはずだ。
 病原は、トゥトゥの間ではそう珍しくもない細菌だった――トゥトゥに使われる薬が、地球人にそのまま投与できるわけではないが、彼の示した処方は、治療薬の開発の指針にはなった。
 環境が環境なので、地球上の諸国家で新薬の認可を受けるのに比べると、その類の手続きはずいぶんと簡略化されている。それでも充分な薬がそろうまでには時間がいるだろうが、ともかくなんとか治療方針の目途は立った。
 ギイ=ギイの見つめる窓の外が、薄暮に包まれ始めたことに、ハーヴェイは気付いた。つい長々と引きとめてしまった。
「お忙しいのではなかったですか」
「うちの病院には、頼りになる若いのがおるから、私が三日四日不在にしたくらいでは、たいして困らん」
 不機嫌をよそおっていた表情を緩めて、ギイ=ギイはいう。その声には、自慢げな響きがあった。「――いまの時期ならな。オーリォの頃ならそういうわけにもいかんが」
 ハーヴェイは首をかしげた。初夏になると、かなりの数のトゥトゥたちが北に向かうと聞いた。その分、医師の数が不足するにしても、患者の数もまた減るのではないかと、漠然と思っていたのだ。
 実際に、O&Wでもトゥトゥたちは夏季休暇に入るし、取引先の企業も、夏はあまりまともに動いていない。そういうと、ギイ=ギイは首を振った。
「もっと南のほうの連中が、このあたりにやってくるからな」
 ギイ=ギイの説明は簡潔だった。「オーリォの頃になると、頭に血を上らせた若いのの喧嘩が増える。――おかげで私は、もう三十年ばかり、まともに遠出しておらん」
 いいながらも、ギイ=ギイはそのことを、どこか誇りにしているようなふしがあった。そうした機微は自分たちにはわかりづらいなと思いながらも、ハーヴェイは医師の上機嫌につられて、つい微笑んだ。
「遠くまで旅に出る若者は、地球にもいますが――体ひとつで空を飛べたら、気持ちがいいでしょうね」
 医師はすぐには答えなかった。少し遠い目をして、黙り込んで、それからおもむろにいった。「オーリォか。あれはいいものだ」
 かつての日々のことを思い出しているのか、窓の外を見ながら、ギイ=ギイは目を細める。
 まだわれわれの祖先が渡りをしていた頃の、名残りというか、古くからの血なのだろうなと、ギイ=ギイはいった。
 あるいはその習慣こそが、地上に住まう彼らをして、いまだに空を飛びつづけさせている知恵なのかもしれないと、ハーヴェイは思う。
「いい風の吹く初夏の朝にな」
 口元をほころばせて、ギイ=ギイはいう。今日あたりに行くかと決めて、大空に舞い上がる。はじめのうちは思い切り羽ばたいて、力の限りに飛ぶけれど、やがて疲れてきたら、今度は上昇気流をうまくつかまえて、高度を稼ぎながら、休み休み滑空する。
「そうすると、どこまででも飛んでゆけるような気がするものだ――実際には、そう何日も飛び続けていられるものではないが」
 夜には降りて休み、朝を待ってまた旅立つ。そうしているうちに、ときどき鳥たちの群れにゆきあうこともあると、ギイ=ギイはいう。
 地球でもそうだが、鳥は、混群を作ることがある。何種類もの鳥が数羽ずつ、体を寄せ合って飛ぶのだ。そうすることで、天敵を避ける。
「トゥトゥを見かけると、連中はたいてい近寄ってくる。群れの中に大きい鳥がいるほうが、敵を遠ざけるのに有利だからな。連中、トゥトゥは飛んでいる鳥をそのまま捕まえて喰ったりはせんと、ちゃんと知っておる」
 そのことが嬉しくてしかたないというように、ギイ=ギイは嘴を反らす。
「ときどきわざとスピードを上げて、若い鳥たちをからかったりしながら、何日か休み休み飛んでゆくうちに、だんだん風が冷たくなってきて、体の中はかえって燃えるように熱くなる……」
 医師の語る空に、ハーヴェイはいっとき、思いを馳せた。
 それが実際には、見た目の優雅さに反して過酷な旅であることも、知識で知ってはいたけれど、それでも聞いていれば、やはりひどく羨ましいような気がする。
 トゥトゥからみたら、航空機はさぞ不自然で無粋なものだろうと、ハーヴェイはあらためてそのことを思った。速度は出るし、生身ではとても飛べない高いところをゆけるけれど、鳥を脅かさずに一緒に飛ぶことはできない。


  ※  ※  ※


 照明を絞った自室で、横になったまま、ジンは天井を見るともなく見つめていた。
 寝過ぎて、もう眠れる気がしなかった。ようやく退院できたのは有難いが、まだ数日は安静といいわたされている。
 熱もすっかり下がって、食事も常食に戻った。無視して出歩いてもいいくらいだったが、ご丁寧に、医療ロボットまでついてきている。老人の介助でもあるまいし、手を借りることもないのだが、規則で体調をモニタしなくてはならないといわれれば、断れなかった。
 大仰なことだと思う。故郷を離れて遠い惑星で暮らすというのは、そういうことだ。わかってはいても、やはり滑稽にしか思えない。何十回目かわからない苦笑を漏らして顎をさすると、無精髭が手のひらを刺した。
 ずっと空調の効いた屋内にいると忘れそうになるが、季節はもう秋も深まるころのはずだった。窓の外に視線を投げる。エトゥリオルの設置した巣箱が、ちょうどここの窓から見える。
 小鳥の姿はなかった。いまの時期は、もっと南のほうに渡ってしまうのかもしれない。
 また来年も来るだろうか。
 日はそろそろ暮れかかろうとしている。空を眺めていても、落ち着かなかった。こうまでずっと寝ていては、そのせいでかえって体調をどうにかしそうだ。
 かすかな電子音を立てて、部屋に備え付けの端末が、ランプをともらせる。メールの受信を知らせる合図だった。
 退院して部屋に戻ったときに、一度は確認している。置き去りにしてしまった仕事の簡単な進捗が入っていたのは、同僚の気遣いだろうが、アンドリューからのいたずらメールまで入っていた。
 またその類だろうか。顔をしかめて、ジンは立ち上がった。端末に歩み寄ってディスプレイを起動したところで、発信元を表す表示に、眼が釘付けになる。
 EA041JPの七ケタから始まる、長いコード。
 故郷からの通信だった。


   ※  ※  ※


 エトゥリオルは寮への道を急いでいた。手には籠を抱えている。中にはぎゅうぎゅうに詰め込まれた果物。
 ジンが退院したと聞いたのは、昼休みのことだ。ハーヴェイが内線で知らせてくれて、設計部は沸いた。まだ数日は自宅療養だけれど、もう会っても大丈夫だということだった。仕事が引けるなり、エトゥリオルは支社を飛びだした。
 多すぎただろうか? エトゥリオルは手の中の色とりどりの果物を見下ろして、不安になる。
 ちょっとした病気くらいでは病床につくということのないトゥトゥには、見舞いの品を持っていくという習慣がない。近くのショップで、テラ系の店員におっかなびっくり相談したら、これを薦められたのだが、そのまま真に受けてよかったのだろうか。テラ人はトゥトゥに比べたら、ずっと小食だ。
 映画の中ではどうだっただろう。いつかサムから教えてもらったテラの映画の中で、ヒロインを見舞う俳優は、両手にいっぱいの花束を抱えていたような気がする。やっぱりこれが普通なのだろうか。
 慣れないことをしているので、いちいち緊張している。ジンの部屋の前まで来て、エトゥリオルは一度深呼吸をした。
 部屋の扉に、小さな機械がついている。そっと手をかざすと、電子音がした。
 実のところ、人の部屋を訪ねるのは、エトゥリオルにとっては初めてのことだった。機械の操作は、入寮したときに教わっていたけれど、なんとなく緊張する。
 ふた呼吸ほどのあとに応答をしめすランプがついて、そのまま扉が開いた。照明を控えめにしてある――自分の部屋と同じ間取りだった。狭い玄関があって、そのまま部屋に続いている。
「――リオ?」
 ジンの声が、ひどくかすれているのに、エトゥリオルはどきりとした。
「あの、退院おめでとうございます」
 いいながら、その言葉が適切ではなかったような気がして、エトゥリオルはたじろいだ。
 痩せた――顔を見るなり、まっさきにそう思った。ジンは自分の足で立っていたが、まだ体調は戻りきっていないようだった。顔色がよくない。ハーヴェイはああいったけれど、やはり症状は軽くなかったのだ。
「迷惑をかけたな」
 エトゥリオルはぶんぶんと首を振った。それから、ジンのようすが、どこか上の空なことに気付いた。まだ具合が悪いのだろうか。
 不安になりながらも、手の中の果物のことを思い出して、エトゥリオルはおっかなびっくり差し出した。
「みんな心配してました。あの……これ」
「――ありがとう」
 いいながら、ジンは面食らったようだった。やはり変だったのだろうかと、おろおろしているエトゥリオルに気付いて、ジンは頬をゆるめる。「いや。ずいぶん豪勢だと思ったんだ」
 いくらかほっとして、エトゥリオルは気付いた。部屋に備え付けの端末が、起動している。
 まさか、もう仕事を始めているのだろうか。エトゥリオルの心配を察したのか、ジンは苦笑して首を振った。「仕事じゃない。姉からメールが来て……」
 いいながら、端末を振り返るジンの視線が、ふっと陰った。
「あ、お邪魔でしたか――」
 体調の戻りきらないところに長居するのは、気が引けた。家族からの通信だって、人前では再生しづらいだろう。出ていこうと身じろぎをしたエトゥリオルを、ジンは呼びとめた。
「――君も、いてくれないか」
 エトゥリオルは目を丸くした。家族からのメールなのに?
 まじまじと見上げると、ジンはいままで見せたことのないような、覚束ない表情をしていた。家族と折り合いが悪かったという、いつかのジンの話を、エトゥリオルは思いだす。
 病み上がりで、いつになく気が弱っているのかもしれなかった。実際、ジンはすぐに我に返ったように、瞬きをして首を振った。
「――いや。妙なことをいった。忘れてくれ」
「います。僕でよければ」
 反射的にそういって、エトゥリオルは自分の言葉の勢いに、自分で驚いた。
 ジンは目をしばたいて、それから、かすれた声でいった。「――ありがとう」


 テラ人用に調整されたディスプレイは、エトゥリオルには実は、ちょっと見づらい。首を傾けて、斜めに見るような姿勢になる。
 ジンがキーボードを叩くと、わずかなタイムラグのあとに、メールが開いた。
 映像はホログラフではなく、ディスプレイ上の平面画像だ。テラから通信を送るのにもそれなりの費用と手間がかかるというから、データ量を節約するためなのかもしれない。
 画面の中で微笑んでいたのは、女性だった。
 きれいな顔立ちをしている。少なくとも、エトゥリオルにはそう見えた。トゥトゥの美的感覚がどれほど彼らと近いかはわからないが、切れ長の目をした、肌のきれいな女性だった。まっすぐな黒髪を、肩の上で切りそろえている。
 目元がわずかに、ジンと似ているような気がした。地球ふうの化粧なのだろうか――こちらで見かけるテラ系の女性よりも、くっきりと赤く、唇を塗っている。
 やがて画像が、動き出す。女性は赤い唇を開いて、微笑んだまま話し出した。
 女性の言葉の内容は、エトゥリオルには聴き取れなかった。英語ではない――ジンの母国語なのだろう。椅子に深く腰掛けたジンの手が、ぴくりと揺れるのを、エトゥリオルは見た。
 女性は微笑を浮かべたまま、歌うようなリズムで、何かを話している。聞いているうちに、ざわりと羽が逆立って、エトゥリオルは身じろぎした。
 何をいっているのかはわからない。エトゥリオルにわかるのは、その楽しくて仕方がないというような微笑みと、そして、悪意に満ちた声音だけだ。
 ジンが一人でこのメールに向き合いたくなかった理由が、わかるような気がした。
 とっさに振り向くと、ジンの表情はこわばっていた。その視線は、画面にくぎ付けになっている。
「あの」
 思わず、エトゥリオルは声を上げた。「もう少し、体調が戻ってからのほうが――」
「いいんだ」
 ジンは掠れた声で遮った。視線は画面を見つめたままだ。
 その思いつめたような横顔を、エトゥリオルは途方に暮れて、ただ見守った。


   ※  ※  ※


『母さんが死んだわ』
 画面の中で、姉がいった。
 よく知っている表情だ。嫌になるほど記憶に焼きついているのと同じ、楽しげな微笑みだった。
 変わらない――ジンはまずそのことを思った。もう十年以上も会っていないというのに、姉は記憶の中とまるで変わっていないように見えた。
 母の死は、とっくに知っていた。ちょうどジンが入院する前に、向こうの弁護士から連絡があっていた。相続放棄の手続きのために返送した書類は、まだ向こうに着くまでには何か月もかかるだろうが、姉がそのことを知らないとも思えなかった。
 そもそもジンは、連絡先を家族の誰にも伝えていない。勤務先も教えたことはないが、調べることはできただろう。
 姉がそうまでして連絡を取ってきたことに、ジンは動揺していた。画面の中で、彼女は笑う。
『ひどいものだったわ。一日おきにみるみる痩せていって、最後には骨と皮みたいになって、個室でたくさんのチューブに繋がれて――もう麻酔もあんまり効かないみたいだった。最後の瞬間まで、世界中の何もかもを呪いながら死んでいったわ』
 姉の声は、楽しくて仕方がないという響きをしていた――何がそんなに楽しいのだろうと、ジンは思う。母の苦しむようすか。それとも弟を断罪することがだろうか。
『散々あんたを恨みながら死んでいったわ――可哀相な母さん、ずっと恥ずかしそうだった。そりゃあ、そうよね。母親がもう長くないっていうのに、一度も会いにも来ないで、さっさと宇宙に出ていくような息子じゃあね』
 エトゥリオルが急に、声を上げた。「あの――もう少し、体調が戻ってからのほうが」
「いいんだ」
 いって、ジンは苦笑した――つもりだった。唇が動いたかどうかはわからない。
 日本語だ。エトゥリオルには姉の話す中身は分かっていないだろう。それほど自分はひどい顔色をしているだろうかと、頭の隅で考えた。けれど意識のほとんどは、ディスプレイの中で歪む姉の微笑に向かっていた。
 母の死に際のようすを、姉は、歌うように滔々と語る。
 彼女が病床の母に最期まで付き添っていたのだということに、ジンは驚いていた。姉はいったいどういう思いで、自分を愛さなかった母親の面倒を見ていたのだろう。
 それが姉なりの、復讐だったのだろうか――そう思う自分と、その考えを疑いたがる自分がいた。本当に、ただそれだけだろうか。
 姉はふいに、初めて表情をゆがめた。口元の笑みが深まる。何かを嘲るように。
『あの女、死に際になって、ようやく私の名前を呼んだわ――初めてじゃないかしら?』
 それまで以上に、毒のある口調だった。
 可笑しくてならないというように、姉はいう。『馬鹿みたいだわ。――馬鹿みたい』
 通信はそこで、唐突に終わっていた。


   ※  ※  ※


 再生がおわり、画面が暗くなっても、しばらくジンは口を利かなかった。
 エトゥリオルは何度も口を開きかけては、言葉を飲み込んだ。
 ジンはひどい顔色をしていた。それでも、通信が終わったあとの画面を、じっと見つめている。身じろぎひとつせずに。まるで見つめ続けていれば、もう一度彼女がそこに戻ってくるとでもいいたげに。
「ジン」
 名前を呼んで、エトゥリオルは上司の腕を引いた。ジンはいっとき、反応らしい反応を見せなかった。
「――ジン」
 ほかにどうしようもなくて、エトゥリオルは繰り返し、彼の名前を呼んだ。何度目かで、ジンはようやく顔を上げて、エトゥリオルのほうを見た。
「すまない。気分のよくないものに突き合わせて」
 ふっと、現実に戻ってきたように、ジンはいう。
「そんなこと……」
 いいかけて、エトゥリオルは嘴を閉じた。画面越しに、悪意に中てられたような気がした。
 言葉はわからなくても、画面の向こうの女性が、ジンを傷つけたくて仕方がないというように、エトゥリオルには見えた。言葉を見つけられず、エトゥリオルは首を振る。
「大丈夫だ。――ありがとう」
 ふと小さく笑って、ジンが目頭を揉む。それから言葉を探しあぐねるように、いっとき黙っていた。
「――姉は、昔から、俺のことを憎んでいて」
 ようやく口を開いたジンは、また、暗くなったディスプレイを見つめていた。
 だけど多分、それだけのことを、俺もしてきたんだと、ジンはいった。
「家族とはもうとっくに縁を切ったつもりでいたし、いまさら連絡があるとも思ってなかったんだけどな。母親が死んだことを、人から聞いた時にも、ちっとも悲しいとも思わなかった」
 そういいながら、ジンはふらりと立ち上がって、端末に向かった。その手が、据え付けのデスクの引き出しから小さなディスクを取り出すのを、エトゥリオルはただ見ていた。
「だけど、妙なもので――どうしてだろうな。姉のことだけが、いまでも、どうしても憎いような気がするし」
 ジンはいいながら、メールをディスクに保存した。それから引き出しを漁って、適当な大きさのケースを見つけると、そのなかに、ディスクを慎重に収めた。そっと、大事なものを扱うように。
 エトゥリオルはわけもわからず、そのしぐさが、ひどく悲しいような気がした。
「彼女に責められるのだけが、いつまでも、怖いような気がする」
 エトゥリオルはジンの横顔を見上げる。姉のことが憎いといったジンの言葉は、彼の耳にはまるで違う風に聞こえた。
 彼女のことを愛していると――そういうふうに。
 その自分の考えを、エトゥリオルはおかしいと思った。ジンはひとこともそんなことをいっていないのに。
 手の中のディスクを見つめて、ジンはふっと、ため息のようにいった。
「――そうか、名前を、呼んだのか」





 部屋の端末を使って、前の日の主要な報道を簡単にさらうのが、エトゥリオルの日課になっている。
 空いた時間に携帯端末でチェックすることもできるが、彼にとっては目で読むよりも耳で聞く方が、情報が頭に入ってきやすい。それで目覚ましを兼ねて、決まった時間に記事を音声再生している。
 あらかじめキーワードを入れておけば、関心のある事件や報道を中心に、コンピュータが勝手に記事を組んで、順番に流してくれる。以前から似たような習慣を持ってはいたけれど、マルゴ・トアフに移ってきてから、少し変化があった。
 以前はトゥトゥの報道しかチェックしていなかったのが、テラ系の人々が運営している放送に重心がシフトした。それも、できるだけ選んで英語のほうを聞くようにしている。
 彼らの報道はたいてい、英語と西部公用語(セルバ・ティグ)と、どちらも選べるようになっている。社内では、少なくとも就業中は皆、セルバ・ティグで話すから、いまさら英語を勉強する必要があるかどうかは微妙なところだ。けれど、記事を書いた人間の母語で聞いた方が、より正確なニュアンスで理解できる――ような気がする。
 日によって流れる分量はもちろん違うけれど、おおむね羽をつくろい終えるころには、おおよその記事の概要くらいはつかめている。
 その朝、いつものようにニュースを聞き流していたエトゥリオルは、羽をつくろっていた嘴を止めて、顔をしかめた。
 航空機反対派の演説だった。添えられている名前は、どこかの大学の教授だかいう、高名なトゥトゥだ。トピックの途中で音声がセルバ・ティグに切り替わったのは、本人の話をそのまま録音したデータを記事に組み込んであるからだろう。
『――航空機の利便性は、理解できないことはない。しかし利便性だけを追求することの危うさを、今一度、顧みてほしい』
 すぐに止めようかとも思った。迷ったのは、飛行機を嫌う人たちの言い分も理解しなければ、それらの声に反論することさえできないという考えが、頭の隅にあったからだ。――そんな機会と勇気が、自分にあるかはわからないけれど。
『航空機だけではない。近年、テラ人よりもたらされた技術によってトラムの速度が上がり、安定性が上がった。それは一見、喜ばしいことのように思える。しかしトラムで旅をするトゥトゥが増えたことは、果たして本当に喜ぶべき事態だろうか』
 論者は声高に続ける。背景に雑音が入っている。どこかで行われた講演だか講義だかの、録音なのだろう。
『使わなければ、肉体というものは衰退する――生物はそもそも環境に適応するように出来ている。極北の孤島に住む、空を飛ぶことを忘れた陸生の鳥を、メディアを通じて見たことが、誰しも一度はあるだろう。空を飛ぶだけの強い翼を失うとき、それはわれわれのアイデンティティの喪失のときでもある――』
 再生を止めた。
 それでも案外、自分が平静でいられることを、エトゥリオルは意外に思った。けれど、それも当然なのかもしれない。過去にこうした論調の報道を見かけたことは、一度や二度のことではない。こんなことでいちいち傷ついていては、彼のような者にはきりがない。
 身支度を終えて、エトゥリオルは部屋を出る。社内で使うIDカードが、そのまま寮の部屋の鍵も兼ねている。
 ふっと、予感のように思う。さっきの記事と、演説の主の名前を、そのつもりはなくても、自分は忘れられないだろう。


   ※  ※  ※


 今日からジンが出勤する日だった。
 エトゥリオルが設計部に入ったときには、ジンはすでに自分の席についていた。ほかのエンジニアから小突かれながら、詫びたり、言い返したりしている。
 その表情は、思ったよりもずっと明るかった。エトゥリオルはほっとして、上司のもとに駆け寄る。
「おはようございます」
「おはよう。――先日は、すまなかった」
「いえ」
 エトゥリオルは首を振って、ジンの顔をまじまじと見た。痩せたのはまだ戻りきらなくても、その表情は、普段どおりに見えた。
 ためらって、エトゥリオルは言葉を飲み込む。気になることはいくつもあった。あのあとジンは、あのメールの入ったディスクをどうしただろう。姉というあのひとに、返事を送ったのだろうか。
 けれど、皆の耳のあるところで話すのは憚られる気がしたし、それに、ジンの落ち着いた表情を見ていると、過剰に心配されることを、彼は望まないだろうという気がした。
「――復帰早々、いいニュースよ、ジン」
 同僚のひとりが、そういいながら近づいてきた。その眼がいたずらっぽくきらきらしているのを見て、エトゥリオルは首をかしげる。
「なんだ」
「FMA202」
 噛み締めるようにゆっくりといって、彼女はにっこりと笑う。「改良設計。二年計画」
 わっと、周囲のエンジニアたちが湧いた。きょとんとして周りを見渡すエトゥリオルの肩を、アンドリューが小突いた。
「うちの持ってる小型貨物機だ。――新型の設計じゃないが、久しぶりに本業らしい仕事だな」
 一拍おいて、ようやくエトゥリオルは理解した。飛行機の、改良。航空設計部門の本務。
 盛り上がる周囲のひとびとを見ていても、すぐには実感がわかなかった。エトゥリオルは羽毛を膨らませたまま、まばたきを繰り返す。
 ――僕にもなにか、手伝わせてもらえるんだろうか?
 その考えがようやく頭に下りてきたのは、けっこうな時間が経ってからだ。
 エトゥリオルはどきどきする胸を押さえて、自分に言い聞かせた。まだわからない。なんせ自分はまだまだ下っ端だし、全員がその仕事にかかりきりになるとも限らない。なんせいま回ってきているような、飛行機本体ではない設備の一部だったり、そのほかのこまごました設計の仕事だって、なくなるわけじゃないのだ。
 だけど、ほんのちょっとくらいは、なにかさせてもらえるかもしれない。どきどきする胸を押さえて、エトゥリオルは思う。雑用でもいい。飛行機に、関わりたい。
 エトゥリオルはとっさに、ジンのほうを振り返った。
 どういうわけか、ジンはやけに浮かないような顔をしていた。


  ※  ※  ※


 ジンは顔をしかめて、端末とにらみ合っていた。画面に表示されているのは、航空機反対派の抗議文だ。会社から業務として回覧されてきたものではなくて、報道で流れたものだった。
 改良設計が決まって、一週間が経とうとしていた。
 昨夜、改良設計のチーム編成について、支社長からわざわざじきじきに呼びだされて、打診を受けていた。その場には設計部の部長も同席していた。上意下達でないのは、職場環境としてはまあ喜ばしいことかもしれないが、判断を任されたジンは、迷っていた。
 一晩が明けても、どう返答するか、決めかねていた。そこに視界に飛び込んできた記事だった。
「いやあ、参ったよ」
 アンドリューが頭をかいて、隣の席にどさりと荷物を置くのに、ジンは視線だけで振り返った。件の機体が運用される予定の空港を四か所、三日かけて回ってきたはずだった。滑走路や整備場の状況を見て、操縦士や空港従業員、現地の整備士たちの意見を吸い上げるのが目的だ。
「どうだった」
「いや、まあ、空港のほうはな。路面の状態なんかでいくつか気になることはあるけど、大きい問題はなさそうだ。それよりさ、飯がまずいのなんのって」
「――現地の店で食ったのか」
「そそ。最近、空港近くのちょっといい店だと、地球人でも食べられるメニューには、マークがついてるんだぜ」
 いって、アンドリューはわざわざそのマークを、端末のディスプレイに呼び出して見せる。「これこれ。――でもなあ、味はなあ。結局途中からは、持って行った携帯食だよ」
 ひとしきり食事の愚痴をこぼしたあとで、アンドリューはそのままのトーンで、急に話を変えた。
「それと向こうで、反対派のトゥトゥに絡まれた」
「――大丈夫だったのか」
 とっさにジンは体ごと振り向いた。アンドリューはいつものとおりへらへらしていて、特に怪我をしている様子はない。
「や、こっちの連中のほうがそのへん紳士的っつうか、理性的っつうかなあ。いきなりキレて掴みかかってくるような連中はさ、地球に比べたら、やっぱり少ないよ」
 アンドリューは苦笑する。「けどやっぱり、気分的には参るよな。わざわざ空港の前に座り込んでるんだぜ。そんなに嫌いかね、ヒコーキが」
 アンドリューは頬を掻いて、付け足す。「――違うな。俺らが、かな」
 ジンは端末の記事に視線を戻した。そうかもしれない。トゥトゥたちは技術にではなく、それを押し付けてくる異星人(エイリアン)に、反発しているのかもしれない。
 ジンはいっとき渋面で考えていたが、やがて目頭を揉んで、記事を閉じた。


  ※  ※  ※


「リオ、ちょっと話がある」
 ジンに手招きされたエトゥリオルは、首をかしげながらデスクを離れて、打ち合わせ用のブースに移動した。
 普段のちょっとしたミーティングや指示なら、デスクで済ませてしまう。わざわざ席を離れるということは、なにか込み入った話だろうかと、エトゥリオルは考えた。
 知らないうちに、なにか自分は失敗をしただろうか――エトゥリオルがつい不安になったのは、ジンの表情が険しかったからだ。
「すまないが」
 ジンはそんなふうに切り出した。「FMA202の改良設計のプランから、君は、外れることになった」
 エトゥリオルは二度瞬きをして、それからああ、とためいきを落とした。
 正直にいって、かなり落胆した。大きな仕事を任せてもらえるとは、自分でも思っていなかった。それでも、ほんのちょっとした雑用でもよかったのだ――飛行機に関われるかもしれないというだけで、胸がわくわくした。
 だけど、話はそう簡単ではないらしい。
 しかたがないと、エトゥリオルは思おうとした。航空機を動かすためのしくみというのが、一般の機械類にくらべてとんでもなく複雑だというのは理解していたし、ちょっとの間違いが人命に関わる性質のものでもある。自分はまだ半人前なのだし――
 そこまで考えて、顔を上げた。
 何に違和感を覚えたのか、エトゥリオルは自分で、すぐにはわからなかった。一拍遅れて、気付いた。外れることになったと、ジンはいった。
 それではなんだかまるで、もともと入ることになっていたかのような言い回しではないか。それとも、単なる言葉尻の問題だろうか? エトゥリオルは瞬きをする。
 ジンはかすかに目を伏せて、話を続けた。
「もともと、全員が今回のプランに関わるわけじゃないんだ。FMA202の原型は、ほかの航空会社も共同で開発した機体だから、よそのエンジニアとも一緒にチームを組むことになるし――」
 ジンはこんなに多弁だっただろうか?
 エトゥリオルは顔を上げて、じっとジンの顔を見た。一言、君はまだ経験が浅いからといえば、それだけで済むことだ。
「いま抱えているような、ほかの細々した業務だって、誰かがやらないといけないわけだし……いや」
 ジンは唐突に言葉を切って、がりがりと頭を掻いた。
 ひどい渋面だった。
 目を丸くするエトゥリオルと視線を合わせて、ジンはひと呼吸おいた。それから、いった。
「――正直にいう。俺の判断だ。支社長は君をチームに入れたがってる」
 エトゥリオルはいっぺんに羽を逆立てた。
「それなら、どうして――」
「支社としては、君を広告塔にしたいんだ。俺は、それが気に食わない」
 エトゥリオルはぽかんとした。
 いわれていることの意味が、すぐには飲み込めなかった。広告塔――宣伝? 自分が航空機の設計にかかわることが?
「近ごろ、反対派の報道が続いただろう。航空技術を、地球人が強引にトゥトゥに売りつけているっていうようなイメージを、O&Wとしては、払拭したいんだ。それには君の存在がアピールになると、支社長は思っている」
 ジンのいう話が頭にしみわたるのに、少し時間がかかった。渋面のまま、ジンはいう。「トゥトゥ自身が航空機を歓迎しているという絵を作りたいんだ。――引き受ければ、おそらく取材も来るだろう」
「かまいません」
 エトゥリオルは反射的に声を上げていた。
 本気だった。いまさらトゥトゥの報道に、どう記事を書かれたって、気にしないと思った。どうせ自分はトゥトゥとしては――
 ジンがいった。「メディアに姿を出せば、バッシングの矛先が君にまで向かう」
 反対派からしてみたら、エトゥリオルの姿は裏切り者のように映るだろうというようなことを、彼らしくない婉曲な言い回しで、ジンはいった。
「君が、同胞から不要の敵意を向けられるところを、俺は見たくない」
 エトゥリオルは息を吸い込んだ。
 ジンは渋面のまま、まっすぐにエトゥリオルの顔を見ている。視線をそらして、エトゥリオルは細く、震える息を吐いた。
 もし、自分がまだ半人前だから、とても機体には触らせられないといわれたのだったら――それならきっと、諦めがついた。またいつか機会があるかもしれないと、次を待つ気になれただろう。
 僕が、トゥトゥだから。
「トゥトゥが――」
 エトゥリオルは口を開いた。それは、自分でもはっきりわかるくらい、ひどくひきつれた声になった。
 ジンが眉を上げて、何かをいいかけた。それを遮って、エトゥリオルは続ける。
「彼らが飛べないやつはトゥトゥじゃないといって、あなた方が僕はトゥトゥだからというなら――僕はいったい、どこにいけばいいんです」
 いい終える前に、自分で耐えられなくなった。エトゥリオルは椅子を蹴立てて、駆けだした。
「リオ!」
 ジンが追いかけてくるのも、驚いたほかのスタッフが声をかけてくるのも、全て振りきって、エトゥリオルは走った。
 廊下を駆け抜ける。目を丸くして通りかかる社員が振りむくのがわかった。
 戻れ――まだ仕事中だ――そう忠告する自分の声も振りきるように、エトゥリオルは走り続けて、社屋を飛びだした。
 職場放棄はテラの社会では、どれくらい重い違反だろう?
 そんなことを冷静に考える自分が胸のどこかにいて、エトゥリオルは走りながら、ひとりで笑った。
 土ぼこりの舞わないマルゴ・トアフの歩道を、エトゥリオルは駆ける。いくあてはなかった――誰も知り合いのいないところがいい。
 吸い込む風が、冷たい。それなのに体の中はひどく熱かった。
 知らない路地に飛び込んで、何事かと驚く人々を避けながら、エトゥリオルはけっこうな距離を走った。
 気付いたときには、湖が目の前に開けていた。
 立ち止まって、エトゥリオルはとっさに、水面に見とれる。当たり前だけれどまだ太陽は高くて、風に細波だつ湖面が、銀の粒を捲いたように輝いている。広い――遠い対岸には、豊かな森が広がっている。
 こんなに大きな湖が、すぐ近くにあったなんて、これまでちっとも知らなかった。
 マルゴ・トアフという都市の名前を、エトゥリオルは思う。古い言葉で、水の町という意味だ。この湖が、由来になっているのだろう。空を飛ぶトゥトゥたちからすれば、一目瞭然に違いなかった。
 端末に連絡が入ったことを知らせる音がして、エトゥリオルはびくっとした。ポシェットからとっさに掴みだして、反射的に受信機能をオフにする。切った瞬間にはもうそのことを後悔していたけれど、もう一度、スイッチを入れる勇気は出なかった。
 強い風が吹いて、対岸の森がざわめく。
 湖畔には、ちらほらとトゥトゥやテラ人の姿があった。観光だろうか、この町で働く人々が、ちょっと休憩に来ているのだろうか。
 水辺にふらふらと近づいて、エトゥリオルはそこに移る自分の顔を見た。そこにいるのは、痩せっぽちで、子どもじみた顔をした、ひとりのトゥトゥだった。
 僕はほんとうに、まだ子どもなのかもしれないと、エトゥリオルは思った。オーリォを済ませていないというのは、ただ伝統と形式の問題ではなくて、自分の翼で空を飛んで北の地を目指さないかぎり、トゥトゥは言葉通りの意味で、精神的にも肉体的にも、大人になれないのかもしれない。
 水鏡の中で歪む自分の嘴を、羽毛を、エトゥリオルは見つめる。
 ジンに当たってしまったあとで、エトゥリオルははじめて、自分の気持ちに気付いた。
 彼は、テラ人になりたかったのだ。
 サミュエルやジンやハーヴェイや、借りた地球の本の中に出てくる登場人物たち――エトゥリオルは、彼らになりたかった。
 それが馬鹿げたことだというのは、誰にいわれなくても、自分でわかる。彼は、トゥトゥだ。どんなに半人前で、子どもじみていて、ほかのトゥトゥに仲間と認めてもらえなくても、それでも動かしようもなく、エトゥリオルはトゥトゥなのだった。
 また風が吹きつけて、湖面が乱れる。葉擦れの音が轟々と唸りを上げて、鳥たちが舞い上がる。
 銀色の光の乱舞する湖畔で、エトゥリオルは泣いた。人目を気にする余裕もなく、みっともなく声を上げて、子どものように泣いた。



10


 空が暗くなる頃になって、ようやくエトゥリオルは歩きだした。
 宵の口から風が強まったためか、湖畔にはすっかり人の気配がなくなっていた。湖面に映りこんだ半月が、風に吹きちぎられて千々に乱れている。
 戻るのには、勇気がいった。
 いったん頭が冷えてしまえば、馬鹿なことをしているという気持ちだけが残った。エトゥリオルはとぼとぼと歩きながら、羽をしぼませる。
 前にもこんなことがあった。ジンはただ心配してくれているのに、自分が勝手にそれをひがんで。
 湖をちょっと離れると、さっきまでの自然豊かな風景が嘘のように、整然と整えられたテラ人たちの都市が、目の前に広がる。
 マルゴ・トアフは広い。実際に暮らしてみて、異星人たちの人口の意外なほどの多さを、エトゥリオルは知った。
 トゥトゥは一般に、大きすぎる集団を嫌う傾向がある。O&Wのような巨大な会社もほとんどないし、各国の首都でさえ、ひとつの街に住むトゥトゥの人口は、ここよりもずっと少ない。
 ピュートゥのようなトゥトゥがテラ人を嫌うのも、もしかすると、そうしたところへの反発があるのかもしれない。ふっと、そういう考えが頭の隅をよぎった。
 そんなふうに考えてみるのは、初めてのことだった。彼らが地べた這いなんて憎まれ口をたたくのも、ただテラ系の人々を馬鹿にしているというだけではなくて、そこには強がりが含まれているのかもしれなかった。
 その広い街並みの、まっすぐな整った道を、ひたすら歩きながら、エトゥリオルは自分の足がどんどん重くなっていくのを感じた。
 メインストリートに近づくにつれて、人通りが増えてゆく。飲食店の前を通ると、人々のにぎやかな話し声が耳に飛び込んでくる。
 クビだっていわれたら、どうしよう。
 入社と同時に渡された就業規則という文書を、エトゥリオルは律義にすべて読んでいた。平易なセルバ・ティグで書かれたそれは、トゥトゥの一般的な企業で交わされるような契約にくらべると、ずいぶん細かく文章化されていた。
 その中には、無断欠勤と解雇についても記されていたように思う。あれはどれくらい厳密に適用されるものなのだろうか。
 ときどき弱気に負けて、足が止まった。そうすると、次の一歩を踏み出すまでに、また気力をふるい起さなくてはならなかった。
 もしO&Wではなくて、たとえば前にエトゥリオルがしていたような、トゥトゥの会社での半端仕事だったなら、そのまま辞めて、自分から逃げだすことも考えたかもしれない。トゥトゥは自分に合う仕事を探して、職を転々とするのが普通だ。
 けれどここは、そうではない。マルゴ・トアフの社会は、その規模にくらべて、意外なほど狭い。そのことを、エトゥリオルはすでに理解していた。企業同士の、横のつながりが強いのだ。
 母星を遥か遠く離れた異邦の地で商売をやっていくのには、協力関係が必須ということなのだろう。妙な辞めかたをしたら、ほかの会社で雇ってもらえないということも、充分に考えられた。
 それに――エトゥリオルは瞬きを繰り返す。彼は、O&Wで働きたかった。ほかではない、この会社で。
 その気持ちだけが、かろうじて足を前に押し出していた。
 社屋の前に着いたときには、すっかり夜も更けていた。
 時間も遅かったが、残業しているスタッフはいるかもしれない。ともかく一度、戻らなければならないと思った。
 事情を知らない顔見知りが声をかけてくるのに、気もそぞろに答えながら、エトゥリオルは廊下を歩く。もしクビになったらと思うと、ぎゅっと心臓が縮むような気がした。
 設計部の前まで来て、足が止まった。
 謝らなくてはならない。
 わかっていても、手がなかなか伸びなかった。ドアにつけられた小さな機械を、じっと見つめたまま、エトゥリオルはいっとき躊躇していた。
 通りかかった人が、怪訝そうに彼の方を見ては、声をかけづらそうにして通り過ぎる。三人目の姿が遠ざかったところで、ようやくエトゥリオルは覚悟を決めた。
 なんども深呼吸したあと、ようやくIDを通して設計部に入ると、中はまだ皓々と明るく、何人ものスタッフが残っていた。
 アンドリューがエトゥリオルに気付いて、笑顔で振り返る。「よう、大丈夫か」
「――すみませんでした」
 反射的に謝って、顔を上げると、残っていたスタッフがそれぞれに、気遣って声をかけてくれた。エトゥリオルを責める者はいなかった。それがかえって申し訳なくて、小さくなりながら、エトゥリオルは何度も頭を下げた。
「気にすんな。何を話してたか知らんが、まずジンが悪い」
 アンドリューが笑って断言するのに、エトゥリオルは必死でかぶりを振った。横から別の同僚が声をかけてくる。「ジンとは会えたの?」
 エトゥリオルは目を丸くして、羽毛を逆立てた。そのようすで、察しがついたらしい。周りにいたスタッフがそろって顔を見合わせた。
「なんだ、まだ会えてなかったのか。あいつ、変なところでトロいよなあ」
「もしかして、あのあと――」
「お前を探しにいったきり、戻ってないよ。いつまでうろうろしてるんだろうな――心配性なんだか何なんだか。お前だって、大の大人だってのになあ」
 怒ってもいいんだぜと、アンドリューはいったけれど、エトゥリオルは小さくなって首を振った。子どものようなことをしているのは、どう考えても自分のほうだ。
「連絡、なかったのか?」
 びくっとして、エトゥリオルはポシェットを探った。携帯端末は、湖畔で受信機能を切ったままだった。
 その薄っぺらい端末を、まるで爆弾かなにかのように、エトゥリオルはおっかなびっくり取り出した。そのしぐさをみた同僚たちから笑われても、恥ずかしく思う余裕は、エトゥリオルにはなかった。
 画面を開くと、何度も連絡の入った痕跡があった。ジンの個人端末のIDだ。
「過保護な母ちゃんみたいなやつだなあ」
 アンドリューがにやにやしながら覗き込んで、早く連絡してやれよといった。その軽い調子に助けられて、かろうじてエトゥリオルは、端末を取り落とさなくてすんだ。
『――リオか? いまどこにいる?』
 通話が繋がるなり、勢い込んで訊かれて、エトゥリオルは口ごもった。アンドリューが笑って、横から口をはさむ。「お前、いったいどこまで探しにいってんだよ」
 ――戻ったのか、と安堵したような声がして、エトゥリオルは縮こまった。
「ごめんなさい……」
『――無事ならいい』
 もう寮に戻れといって、ジンは通信を切った。ぶっきらぼうな調子だった。
「聞いたか、あの声」
 アンドリューが、腹を抱えて笑っている。ますますいたたまれなくなって、エトゥリオルは端末を握りしめた。
「――ほんとに、今日はごめんなさい。あの、僕、欠勤は……」
「休暇届を出しといたから、大丈夫よ」
 横から同僚が声をかけてくれるのに、エトゥリオルは頭を下げた。
「ご迷惑をおかけしました……」
 恥じ入るエトゥリオルを見て、皆が笑う。アンドリューがエトゥリオルの背中を叩いた。
「だいたいお前ら、ふたりとも真面目すぎるんだよ。そんなに堅苦しくやってたら、いちいち肩が凝るだろ」
 エトゥリオルは首をかしげる。凝るような肩は、トゥトゥにはない。気付いて可笑しくなったらしく、アンドリューはひとりでげらげら笑った。


 寮の廊下で、ジンを待っていた。
 待ち合わせたわけではないのだけれど、今日のうちに、ひとこと顔を見て謝りたかった。
 待つあいだ、何度も弱気がさして、くじけそうになった。ジンは怒っているだろう。まだ戻ってこないということは、かなり遠くまで探しにいってくれていたのではないか。
 ひとりでじっと黙っていると、次から次に自己嫌悪が襲いかかってきた。
 エトゥリオルはO&Wに入社した日のことを思い出す。あの日、自分に与えられたデスクを前にしたとき、何よりもまず、一人前の働きをできるようにならなくてはと思った。それだというのに、いつまでも周りに迷惑をかけては、心配ばかりされている。
「リオ? 待ってたのか」
 ジンの声がして、エトゥリオルは飛びあがった。
 とっさに逃げ出しそうになった。踏みとどまったのは、ジンの疲れた顔に気付いたからだ。
「――今日は、本当にすみませんでした」
 情けないほど、小さな声しか出なかった。
 いや、と首を振ってから、ジンは言葉を探すような顔をした。
 エトゥリオルのほうでも、謝るだけではなくて、ジンと話さなくてはならないことが、あるような気がした。けれど、待つ間にいくらでも時間はあったはずなのに、考えはうまくまとまらなかった。
 ジンがなにか、口を開こうとした。そのとき、軽快な足音が近づいてきた。
 顔を上げた二人は、山もりの野菜籠と、そこから生えた人の足を見た。
 籠には、何種類もの野菜が積み上げてある。トゥトゥが日常的に食べる種類のものばかりだ。よほどうまく詰めてあるのか、よく崩れないなと不思議になる高さだった。それだけの荷を抱えているのに、持ち主の足取りは軽い。
 ぽかんとする彼らの前を、一度は通り過ぎてしまってから、ベイカー女史は立ち止まった。視界を遮るほど山積みの荷物を抱えていたら、それは前方に立っている人間の顔にも気付かないだろう。
「ああ、ちょうどよかった。約束の報酬を持ってきたのよ」
 そうにっこりと笑って、女史はエトゥリオルに籠を差し出した。もう日も落ちてずいぶんになるというのに、またしてもなぜか、顔には泥がついている。いまのいままで農作業を続けていたのだろうか。
 とっさに手を伸ばして、籠を受け取ってしまってから、エトゥリオルはそれが先日の手伝いの礼だと、ようやく気がついた。「あ――わざわざありがとうございます」
「こちらこそ。また何かあったらよろしくね」
 女史はそこでようやくジンに気付いて、きょとんと首をかしげた。
「――あら? お取り込み中だったかしら?」
「いえ……」
 首を振ってから、堪えかねたように、ジンが吹き出した。
 彼が声を立てて笑うのを、エトゥリオルは初めて見たような気がした。
「失礼ね、人の顔を見て笑うなんて」
 ベイカー女史がふてくされてみせたあたりで、エトゥリオルもつられて、つい笑いだした。
 女史も、本気で気を悪くしているわけではなさそうだった。わざとらしく肩をすくめて怒ってみせてから、レイチェル・ベイカーは自慢の野菜を手のひらで示して、目を輝かせた。
「わたしにはあなたたちの味覚はわからないけど……」
 そう前置きして、女史は胸を張った。「検査結果の数字からしたら、きっとトゥトゥにも美味しくできてると思うのよ。今度、感想を聞かせてね」
 エトゥリオルが何度もうなずくと、満足したようににっこり笑って、女史は去って行った。弾むような、軽やかな足取りで。
「――それ、全部食うのか」
 ジンはまだ笑っていた。エトゥリオルは自分の手の中の籠を見おろす。たしかに、ものすごい量だった。
 ふつうのトゥトゥは大喰らいだから、ベイカー女史はそのつもりで持ってきてくれたのかもしれない。それにしても、小柄な彼女がよくもこれだけ抱えてきたなというような、ずしりとした重みがあった。
「ええと……食堂に持って行って、使ってもらおうかと思います」
 それがいいとうなずいて、ジンはようやく笑いをおさめた。そして、ふと改まって、真顔でいった。
「――リオ、君は、飛行機は好きか?」
 エトゥリオルは面食らった。いまさら何でそんなことを――ほとんどいいかけてから、気付いた。
 自分はそのことを、口に出していったことがない。
 ジンの前だけではない。誰の前でも、ずっといえなかった。そのことを、いまやっとエトゥリオルは自覚した。
 口に出すのが怖かったのだ。
 何が怖かったのか。自分の胸の内を、エトゥリオルは振り返る。不相応だと感じるからだろうか。トゥトゥが飛行機を好きだなんて、おかしなことだと、いつの間にか自分でも、思い込んでいたのだろうか。
 顔を上げて、エトゥリオルははっきりといった。
「好きです」
 ジンはいっときエトゥリオルの目を見返して、それからうなずいた。
「――わかった」
 それだけだった。それですべて話は終わったというように、ジンは話題を打ち切った。
「まだ、晩飯も食ってないんじゃないのか」
 いまのいままで空腹を感じる余裕はなかったけれど、いわれてみれば、そのとおりだった。エトゥリオルはうなずいて、それからジンも同じだろうということに、ようやく気がついた。
 社員食堂は、まだかろうじて開いている時間だ。ジンは野菜籠に視線を投げて、目の端でちらりと笑った。
「半分持つから、そいつを厨房にあずけて、飯にしよう」
 慌ててうなずいて、エトゥリオルはおっかなびっくり、籠の持ち手を差し出した。


   ※  ※  ※


 食事を終えて部屋に戻る途中、エトゥリオルの端末に、メールの受信を知らせる表示があった。
 画面を見るけれど、発信元には見慣れない署名があって、それもほとんど文字化けしている。画面に触れても、アクセスできない――携帯用の小型端末では閲覧できない、特殊な形式のデータということだ。部屋に戻らなければ、中身を見ることができない。
 コンピュータウイルスの類は、あまり心配していなかった。ものを持ち歩くことを嫌うトゥトゥたちは、積極的にネットワーク技術を活用したがるから、社会全体でセキュリティ対策が進んでいる。
 誰だろう――エトゥリオルは首をかしげる。
 ふつう、知り合いはたいていメールを送りつけるにせよ、話すにせよ、携帯している端末のほうに直接連絡をとってくる。こんな形でメールが届くというのは、そうそうないことだ。それに、この見慣れない形式。
 自分の部屋に戻ると、真っ先に端末に向かった。
 そこに表示されたデータにどきりとして、エトゥリオルは画面に見入った。私物の小型端末では文字化けしていた発信者名が、こちらではちゃんと表示されている。
 船籍番号EVS2-01002N。英語でそう書かれていた。


『やあ、リオ? 元気にしてる?』
 そういって、画面の向こうで笑っているのは、サミュエルだった。エトゥリオルはぽかんと口を開けて、映像に見入る。
『――なんだろう、これ、あらたまって喋るの、ちょっと恥ずかしいね』
 照れくさそうに頭を掻いて、サムはいう。背景には、宇宙船の内部なのだろう、見慣れない金属光沢のある壁が映っている。壁のいたるところにモニタがあって、何かの装置があって、パネルがある。喋っているサムの背後を、小型のロボットが通り過ぎて行った。あれは何をする機械なんだろう――
『まだまだ地球までの道のりは遠いんだけど、でも、そっちの太陽はもうちっともわからなくなった。縮尺図で見てても、なんかスケールが大きすぎて、あんまりぴんとこないけど――やっぱり早いね。クルーの人から、理屈を教えてもらったけど、難しくて、さっぱり。君ならもっと分かるのかな』
 後ろで誰かの抗議の声と、笑い声が混じる。画面には映っていないけれど、そばに人がいるのだろう。
 映像のなかのサムは、鼻をこすって、ちょっと笑う。
『君のほうは、もう仕事はすっかり慣れたころかな。いまどんなことしてる? 僕はまだ無重力に慣れないよ。よくいろんなところにぶつかってる。完全な無重力じゃないんだけど――なんか、遠心力を利用して、擬似的に低重力状態を作るんだって――でもやっぱり、体がふわふわしてる。ちょっとジャンプすると、すぐ天井に頭をぶつけるんだ。ほら』
 いって、サムは軽くその場でジャンプしてみせた。力を入れたようには見えなかったのに、彼の体は高く跳ね上がる――危なっかしく天井に手をついて、下りてくるときによろめいた。
『こんな感じ。そのうち慣れるだろうけど、でも地球は、そっちよりもちょっと重力が強いっていうから、どうかな。向こうに着いてからのほうが、苦労するかも』
 画面の向こうで、サムは微笑む。


 いつかまた、そっちに戻るつもりだけど、でも、みんなの話を聞いてたら、やっぱりけっこう大変みたいで――いまはほら、僕、うちの親のオマケみたいなもんだから、いろんなことをずいぶん免除してもらってるんだけど。本当は、宇宙船に乗るだけでも、なんか難しい資格がいるんだって。
 こういう船の乗組員になる資格に比べたら、乗客として乗るのはもうちょっと簡単だっていうけど、やっぱりけっこう、時間がかかるかもしれない――
 でも、かならず戻るよ。その前に、まずは地球をめいっぱい見物してくる。面白い風景があったら、向こうからメールする。
 メールっていえば、ほんとなら、こうやって通信を送るだけでも、お金がかかるんだって――思ったほど高くはないみたいなんだけど、僕、いまは自分で使えるお金なんて、ほとんど持ってないしさ。どうしようかと思ってたら、会社のひとが、こっそり支社あての通信と同送してくれるって――あれ、これ、このメールで言っちゃってよかったのかな。
 ――O&Wは情報管理がしっかりしてるから、プライヴェートの通信をのぞき見するようなふとどきな社員はいません、だって。社用便に私用メールを紛れ込ませちゃうふとどき者はいるみたいけど――ごめんなさい、感謝してます! ほんとだって!
 もう、友達あてのメールなんだから、ちょっとは遠慮してよ――うん、大丈夫。操作は覚えたよ。わかった。

 人が離れていく気配がする。いっとき後ろ頭を見せていたサムが、あらためて振りかえって、カメラに向かって微笑む。ちょっと緊張したような表情。

 あのさ、僕、ずっと君に、いわなきゃって思ってたことがあるんだ。
 リオ――君はさ、たぶん君が自分で思ってるより、ずっといいやつで、すごいやつなんだよ。だから、もっといつも堂々としてたらいいのにって――ごめん――ほんとはときどき、思ってた。だって君、いつもなんか遠慮して、小さくなってばっかりでさ。――君のそういうところ、いいところだとも、思うんだけど。君、ぜったいひとを見下したりしないもんな。
 ハイスクールでだって、君、皆から好かれてたのに――まあ、いやなやつもいたけど。だけど僕、君といっしょじゃない授業のときに、ほかのやつらが君の噂をしてるの、たくさん聞いたよ。――いい噂だよ、念のためにいっとくけど。
 そんなの、いまさら何って思うかもだけど、君、なんだかそういうこと、ちっとも気付いてないみたいに見えたから。
 いつか、いおういおうって思ってて――でも顔を見てたら、なんか恥ずかしくってさ。
 でも、よく考えたら、こんなふうに一方的にいうことじゃなかったかな。
 ――あんまり長い時間は無理だって、いわれてたんだった。地球についたら、またメールするよ。
 君も、もし都合がついたら、いつか返事をくれたらうれしい。――元気で、リオ。


 ひとりきりの部屋で、エトゥリオルはちょっと泣いた。
 今日、二度目の涙だと思って、誰も見ていないのに、自分で恥ずかしくなった。子どものころの泣きべそが、いまさらぶり返したみたいだった。


   ※  ※  ※


 翌朝、出勤するなり、エトゥリオルは大量の図面や仕様書を押しつけられた。
 アンドリューはじめ、何人ものエンジニアから、次から次にだった。ひとつひとつは難しい案件ではないし、たいした分量でもない。いまのエトゥリオルなら、ひとりでしっかりこなせる内容だ。
 目を白黒させながらデータを受け取って、エトゥリオルはいたたまれなくなった。昨日、ここを辞めることまでちらりと考えたのを、口に出してもいないのに、みんなに見透かされている気がした。
「お前らな……自分でやれよ」
 横で見ていたジンのほうが、途中で怒りだした。
「チームワークだろ? 手のあいてるやつにどんどん任せなきゃな」
 飄々というアンドリューに、ジンが顔をしかめて、何ごとか、耳打ちをした。
 アンドリューは眼を丸くして、口笛を吹いた。それからにやりと笑って、エトゥリオルに押しつけた仕事のいくつかを、引きとっていった。
 なんだろう?
 首をかしげながらも、なんだか訊きづらくて、エトゥリオルはまばたきをした。
 押しつけられた仕事で、午前中はやたらとあわただしかった。失敗のないようにという気持ちと、早く片付けたいという気持ちのあいだで目まぐるしく立ち働いていると、ほかのよけいなことを考えている暇がなかった。
 午後の始業から間もなく、設計部の部長が、ジンのデスクに近寄ってきた。
「――支社長の了解が出たよ」
 ジンがそっけなくうなずくと、部長はエトゥリオルのほうに向きなおって、目じりに皺を作って笑った。それから彼の翼のあたりを、ぽんと軽く叩いて、去っていった。
 普段はあまり親しく話す機会もない、偉いひとだ。そんな相手にとつぜん背中を叩かれて、エトゥリオルはおろおろした。周りを見渡しても、みな忙しそうにしていて、気付かない。アンドリューだけが、何か事情を知っているようで、エトゥリオルを見てちらりと笑った。
「リオ。ちょっといいか」
 ジンに呼ばれて、エトゥリオルは顔を上げる。真剣な顔が、そこにあった。
「昨日、あれからよく考えたんだ。もし、君さえ望むのなら、俺は――」
 ジンはそこで、一度、言葉を切った。


 それからジンが説明した内容を、エトゥリオルは即座に理解できなかった。
 言葉の意味をよく飲み込めないまま、その声は、エトゥリオルの耳を通り過ぎて行く。改良設計――操縦系の大幅な設計変更――テストパイロット。
 それらの単語の意味が、まともに彼の頭にしみこんできたのは、だいぶ経ってからだった。
 ジンは一呼吸おいて、いった。
「――俺は君に、空を飛ばせてやりたい」




11


 改良設計のプランに上ったFMA202という機体は、いつかフェスティバルの空に見たものだった。あの日サムと二人で見上げた、銀色の飛行機。


 大変だぞと、いろんなひとから念を押された。
 いまの飛行機には優秀な自動制御機能がついているから、事故はそうそうないが、それでも可能性はゼロではない。まして試作機のテストパイロットならなおさらだ。トゥトゥの飛ぶ空と違って、ずっと高いところを飛行するから、一度事故が起きれば危険も大きい。
 その上、航空機を嫌うトゥトゥからの視線は、厳しいものになるだろう。いわれのない中傷も受けるだろうし、悪くすれば嫌がらせを受けることだってあるかもしれない。
 ほんとうにそれでもやるのかと、誰かに訊かれるたびに、エトゥリオルは繰り返し、自分の胸の内をのぞきこんだ。
 いつかのフェスティバルの日、空を舞う銀色の機体を見上げたあのときから、いつか飛行機に乗って空を飛べたらと、心のどこかで思っていた。
 それはずっと、ただの夢想だったのだ。
 トゥトゥのパイロットはまだひとりもいないと聞いていたし、操縦士の訓練は大変だということも、知識としては持っていた。だからそのいつかというのは、やってくるかどうかもわからない、遠いいつかだった。おそらくはそんな機会はないだろうけれど、もしかしたら何かの間違いでそんな日がやってくるかもしれない。そういう距離の向こう側にある、甘いばかりの願望だ。
 それがただの夢ではなくなって、まだどこか実感がわかないような日々の中で、エトゥリオルは何度となく自問した。本当に、僕は空を飛びたいのかと。
 飛びたかった。
 子どものころ、みんなの舞う空をひとりで寂しく見上げていたころの感情を、いまでもよく覚えている。
 空を飛んだからといって、いまさら彼らの仲間に入れてもらえるとは、思っていなかった。ただあの空を、もう一度、どうしても飛びたかった。
 願っても叶わないことだからと、子どものころからずっと諦めて、押し殺してきたつもりの願いは、本当に死んではいなかった。そのことをエトゥリオルは、ようやく自分に対して認めた。


  ※  ※  ※


「あのね、ほんとはリオには内緒だったんだけど」
 同僚からそう耳打ちされたのは、エトゥリオルがテストパイロットになるための勉強を始めて、まもなくの頃だった。
「夏の終わりごろ、改良設計の話が来るちょっと前に、ジンがしばらく、ずっと残業ばっかりしてたでしょう。あれね、本当に忙しかったっていうのもあるんだけど。半分はね、操縦系とインターフェイスの改良設計の、シミュレーションをやってたのよ。トゥトゥのパイロットが乗るための――会社の命令も全然きてないのに、こっそりね」
 エトゥリオルは驚くあまり、テキストを表示した端末を、落っことしそうになった。彼女は小さく含み笑いを残して、自分の仕事に戻っていった。
 ――それが本当なら、ジンは彼が思うよりもずっと前から、エトゥリオルがいつか空を飛ぶ日のことを、考えていてくれたことになる。ただ、それが彼のためになるかどうか、判断しかねていただけで。
 何度もまばたきをしてから、エトゥリオルは首を回して、ジンの姿を探した。ジンは隅のブースで、他社の技術者と打ち合わせをしていた。
 本当にそれが自分のためのことだったと思うのは、うぬぼれだろうかと、エトゥリオルは考えた。それから首を振って、考えるのをやめた。いま彼がすべきことは、かけてもらった期待に応えることだけだ。


 何度となく、計測があった。骨格、姿勢ごとの筋肉と骨の動き、視覚や音に対する反応。
 地球人のために作られて改良されてきた操縦席は、座席もインターフェイスも、そのままではトゥトゥには扱えない。ひとつの装置や部品を置き換えれば、その周辺のあらゆるものに影響が出る。ときには重量バランスが変わって、機体そのものの形にも影響が出る。エトゥリオルが想像していたよりも、よほど大げさな改良になった。
 ひとつひとつの部品や装置や配置について、改良の方針を決め、アイデアを出し、検証し、ほかの要素と組み合わせてシミュレートしていく。彼が漠然と思い描いていたものと、実際の作業はずいぶん違っていた。なんというか――たとえば計算やシミュレーションはコンピュータがやるにしても、発案や検証については人間がするというぐあいに、もっと役割がわかれているものだと、エトゥリオルは勝手に思い込んでいた。
 実際にはそうではなかった。コンピュータが無数に発案し、自らそれを検討して、拠り分けた選択肢を人間に差し出す。それを人間が別の視点で検討し、戻す。エンジニアが何かを思いつけば、それを端末に入力し、コンピュータによって無数の類似パターンについて検証とシミュレーションが開始される。うまくいきそうだったら小型のモデルを作って、実験が進められる。
 そういうことの往復によって、驚くほど速やかに、多くのアイデアが試されてゆく。膨大な試行の反復と蓄積。
「本当は、小型のグライダーみたいなもののほうが、自分で空を飛ぶ感覚に、もっと近いと思ったんだが――」
 ジンがあるとき、ぽつりとそういった。端末の画面に、彼が呼びだして見せたのは、FMA202とはまるでフォルムの違う、小さくて軽そうな飛行機だった。画像で見るだけでは、それはいっそ、おもちゃのようにさえ見えた。
「こっちは地球と違って、風が強すぎる。シミュレーションはしてみたんだが、安全性を考えたら、運用は厳しい。――FMAじゃ、自分で飛んでいるという感覚は、あまり強くないかもしれないが」
 エトゥリオルは微笑んで、静かに首を振った。彼が乗りたかったのは、あの銀色の機体だ。けれどその感情は、うまく言葉にならなかった。


 小型機の操縦資格は、大型の航空機に比べれば、比較的容易に取れるらしかった。
 それでもエトゥリオルが勉強することは、山のようにあった。ただ機械を操作する方法を体で覚えればいいというのではない――万が一の機械の故障や誤動作に、パイロットは対処できなくてはならない。そのためには飛行機が空を飛ぶ仕組みを理解する必要があったし、装置や部品のひとつひとつの役割と、それが壊れたときの対処を、いちいち把握しなくてはならなかった。
 支社長は君を広告塔にしたがっているという、いつかのジンの言葉のとおり、支社としては本当なら、どんどん取材を入れて、エトゥリオルの存在をアピールしたいらしかった。
 それを、設計部のスタッフが上申して、待ったをかけてくれた。悪意による捻じ曲げられた報道はいくらでも予想されたし、周囲が落ち着かなければ、エトゥリオルの訓練にも差し支えが出てくる。
 それよりも改良設計がひと段落して、彼が完成した新型機で空を飛ぶときが来てからのほうが、宣伝効果も大きいはずだ――やや強引な説得ではあったけれど、支社長はその意見を呑んだ。定期的なプレスリリースはあったけれど、現場に記者が乗り込んでくるようなことは、ともかく差し止められた。
 計測、学習、シミュレータによる訓練、たび重なる健康診断、公的機関への許可申請。やることはいくらでもあった。改良設計そのもののプランが二年計画だったのは、考えようによっては、ちょうどよかったのかもしれない。


 春が来るころにはエトゥリオルの学習も、模擬装置を使ったシミュレーションが中心になっていた。
 よく晴れたある日の午前中、エトゥリオルはジンに連れられて、工場に向かった。よく行く、支社に隣接しているすぐそばの作業場のほうではなくて、少し離れた郊外にある、航空機専用の工場。
 大きな建物だった。中に足を踏み入れる前から、機械油のにおいがしていた。建物の中とは思えないような広大な空間を、さまざまな重機が忙しなく行き来している。
 整備場の真ん中に、銀色の飛行機が、堂々と横たわっていた。
 ぽかんと口を開けて、エトゥリオルはそれを見上げた。まだ出来上がってはいない――よく見れば、作業中の箇所を示すペイントが、いくつも目につく。
 それは飛ぶ姿から想像していたよりも、はるかに巨大な機械だった。
 ――これで、小型機なんだ。
 エトゥリオルはおそるおそる、機体に近づいた。
「触っても?」
 案内してくれていた作業員に訊くと、中年のテラ人は、にやりと笑ってうなずいた。
 促されて、エトゥリオルはそっと手を伸ばした。かぎづめの手が、機体の表面に触れて、かちりと小さく音がする。冷たく、頑丈な、鋼鉄の皮膚。
「おいおい、そんなにそろっと触らなくても大丈夫だよ。いくら君に腕力があっても、こいつを壊すのは簡単じゃないぜ」
 作業員に笑われた。エトゥリオルはきょろきょろして、それからもう一度、機体に触れる。手に返ってくる感触は、力強かった。
 これが、彼の相棒になるのだ。


   ※  ※  ※


 訓練が始まって半年が過ぎた。それは待ち遠しく、苦しくて、長いような短いような、奇妙な時間だった。
 季節は初夏を迎えていた。
 その日の朝、支社長がじきじきに設計部まで足を運んで、満面の笑みで、それを発表した。エトゥリオルの操縦許可証が、ようやく到着したのだ。
 操縦免許とは違う。免許を取るためには、これからさらに教官を隣に乗せた状態で、一定時間の操縦経験を積まなくてはならない。まずはその訓練飛行をするための、許可証だった。このあと、本物の免許を彼が手にするのは、まだまだ先のことになる。
 ただそれだけの許可が、ここまで遅くなったのにはわけがあった。マルゴ・トアフはエトゥリオルの目から見ればかなりの規模の都市だが、それでも彼ら地球人にとっては、小規模の居留地なのだ。各国の企業が身を寄せ合って、それを便宜的に国際機関の支局が統括しているという、不安定な都市。
 航空機の操縦に関する資格試験や認可の体制は、これまで、この街の中で独立して整えられてはこなかった。いまヴェド上で活躍しているパイロットはほとんど皆、地球で免許を取ってからこちらへ移住してきている。当然ながら、トゥトゥにはそのような免許制度はない。
 そのせいで、どの機関がどういう手順で許可証を発行して、それに誰が責任を負うのかということが、なかなかまとまらなかったそうだ。これ以上遅くなれば、試験飛行のスケジュール自体を、大幅に見直さなくてはならなくなるところだった。
 許可証が届いたときには、試作第一号機は、すでに完成していた。
 衛星の観測データと気象予報が念入りに何度もチェックされ、スケジュールの調整がなされた。
 エトゥリオルの初フライトは、その三日後に決まった。


  ※  ※  ※


 試験飛行場は、広かった。
 マルゴ・トアフの郊外、航空機メーカー各社の工場がずらりと並ぶその先に、その飛行場はある。
 自動車を降りて、エトゥリオルはその広々とした飛行場の、さまざまな方角に伸びた滑走路を見わたす。
 地球でならば、低空を飛ぶ航空機も多いらしいのだけれど、ヴェドではトゥトゥとの衝突が危険というので、離発着のためのごく限られたエリアの外では、一定以上の高度しか飛ぶことが許されていない。
 その離発着のための施設周辺には、かなりの範囲において、トゥトゥの飛行を禁じる区域が設定されている。間違っても彼らがうっかり飛びながら越境しないように、周辺ではアナウンスがされている。地上にも大きな目立つ標識が立っているし、ちょうどトゥトゥが飛ぶあたりの高度の前後には、うっとうしいほどの数のマーカーまで浮いている。
 ここから飛び立って、その区域のなかで決められた高度まで上がり、予定空域のフライトをこなして、戻ってくる。
 風は強すぎず、弱すぎず、一定の速度で吹いている。空は晴れ渡って、よく澄んでいた。見渡す範囲には、雲ひとつない。
「絶好のフライト日和だ」
 そういって、彼の教官はひとつ、気持ちよさそうに伸びをした。
 こういう飛行訓練のときには、訓練を実施する資格のある人間が、同乗しなくてはならないらしい。
 ヴェドに暮らすテラ人パイロットはけっこうな数がいるが、そういう指導をする資格のある人間はあまり多くなくて、だからかなり無理をいって、彼には予定を開けてもらっている。エトゥリオルが操縦免許の申請資格を獲得するまでの時間数を、これからこの人物に、助けてもらわなくてはならない。
 よろしくお願いしますといって、エトゥリオルは神妙に頭を下げた。
 通常の路線に使われている飛行場ではなく、あくまで試験用の設備だから、本物の管制はない。
 ただの小型機の操縦訓練というだけならば、本来は必要ないのだが、必然的に試作機のテストを兼ねての操縦になることから、この日は仮管制まで準備されていた。近くの建物から飛行がモニタされ、随時、無線で指示が飛んでくることになっている。
 もうじき訓練開始時刻だった。
 エトゥリオルは、飛行場の端に遠慮がちに停まっている試験機を見つめた。
 銀色の翼を輝かせて、それは、静かに出発を待っていた。
 空を仰ぐ。いつか兄の背に乗って飛んだ空を、エトゥリオルは思い出す。それから地上のごみごみした建物の隙間から、いつも見上げていた空を。




12


 エイッティオ=ルル=ウィンニイは子どものころから、何をやらせてもひとより器用なたちだった。
 頭の出来もよかったし、飛ぶのもとびきり速かった。曲芸飛行だって、彼よりうまくやれるやつはそういない。特段の努力をしたわけではない。初めから、彼にはほとんどのことが容易だったのだ。
 ひとの心の機微を汲むことにかけても、それは同様だった。優秀すぎるものは妬まれる。彼がそのことを理解したのは、かなり早い時期だ。だからエイッティオ=ルル=ウィンニイは、道化になった。
 陽気で目立ちたがりで、お調子者のエイッティオ=ルル=ウィンニイ。それが彼の評価になった。口さえ閉じておけばいい男なのに、いつも馬鹿げたことばかりいって、ひとを笑わせている。しょっちゅうくだらない悪戯を仕掛け、何の意味があるかわからないような冒険には率先して先頭をきる。
 当然のように、エイッティオ=ルル=ウィンニイは仲間たちから好かれた。何もかもが呆れるほど、彼にとっては簡単だった。簡単すぎた。
 道化の仮面の内側で、彼はいつも退屈していた。あっさりと彼の見せかけに騙される同胞たちを、いつも醒めた眼で見つめていた。ありとあらゆることがくだらなくて、馬鹿らしいとしか思えなかった。それだというのに、その仮面を脱ぐことも面倒で、彼はいつまでも道化であり続けた。
 その仮面と心との落差が、どこかににじみ出てしまうのかもしれない。オーリォを迎えると、彼の周りにはひっきりなしに女の子たちが集まってきたけれど、結局のところ、誰とも長続きしなかった。
 成人して働き口を見つけてからも、そうした彼の鬱屈は変わらなかった。仕事を覚えるのに何という苦労もなかったし、上司からも同僚からも、エイッティオ=ルル=ウィンニイは当然のように好かれて、可愛がられた。そしてそのことに、彼は深く失望した。
 何もかもがつまらなかった。
 所詮はそんなものだと諦めようとしたけれど、一年が経つころにはどうしようもなく、何もかもが嫌になっていた。
 二度目のオーリォの旅先から、エイッティオ=ルル=ウィンニイは戻らなかった。
 職場をクビになったことも、かつての仲間からあらぬ噂を立てられたことも、もうどうでもよかった。彼はふらふらと、無為にあちこちを飛び回った。そういう自分を、醒めた眼で見つめたまま。
 遊び呆けて丸一年もすれば、手持ちの金もすっからかんになった。それでエイッティオ=ルル=ウィンニイはふと気まぐれを起こして、両親のもとを訪ねてみる気になった。
 本気で困り果てていたわけではない。なんだかんだで要領のいい彼は、短期間の仕事くらいなら、いつでも見つけることができた。職や住まいを点々と変えるトゥトゥは、珍しくない。やろうと思えば、いくらでもやり直せる。
 だからそれはただ単に、嫌がらせのつもりだった。あまり彼に親らしいことをしてくれたことのない両親――彼のほうでも、ふたりに頼ったり甘えたりということをした記憶がほとんどなかったから、ある意味ではお互いさまだったのだが、ともかくこのときエイッティオ=ルル=ウィンニイは、彼らを困らせてやろうと思ったのだった。
 ふつうのトゥトゥは、独り立ちしてしまえば、めったなことでは親元に戻ったりしないものだ。まして金をたかるようなやつは、そういない。常識のある親だったら、一発はたいて追い出すだろう。ただでさえちょうど、次の子を育てるのに忙しく、もの入りな時期でもあるのだから。
 子ども時代、彼にあまり関心を払わなかった両親は、このときもやはり興味のなさそうな顔のまま、投げつけるようにして彼に金を与えた。
 皮肉に笑って金を受け取ったエイッティオ=ルル=ウィンニイは、足元に転がる毛玉に気付いた。白っぽい、ぼわぼわした毛の塊。
 よく見れば、そいつには小さな嘴と手足があった。
 これはもしかして自分の弟かと、エイッティオ=ルル=ウィンニイは目を丸くした。およそトゥトゥには見えない。どうひいき目に見ても、不格好な鳥のヒナだった。ちょっと足の先でつつくと、あっけなく転がってぴいぴい鳴いた。
 だというのに、すぐに立ち直って、よたよたと寄ってくる。それをまたつつく。毛玉は転がって、やっぱりぴいぴい鳴いて、それでも懲りもせずに、また彼のほうに近づいてくる。そうしてじっと、エイッティオ=ルル=ウィンニイを見上げる。
 彼はちょっとの間、面白がって弟を転がしていたけれど、それにもじきに飽きて、あっさり興味をなくした。
 エイッティオ=ルル=ウィンニイはその日のうちに再びあてのない旅に出て、それきり弟のことは、すっかり忘れていた。


   ※  ※  ※


 エイッティオ=ルル=ウィンニイは不機嫌に翼を揺らしていた。
 眼下には、のっぺりした路面が広がっている。無機的に固められ均された、阿呆のようにだだっ広い地面。
 滑走路、というのだそうだ。整然と引かれたラインに、点在するマーカー。その先、遠くに見えるのは、巨大な銀色の機体。
 この路面を、あの不格好な機械が走って、空に飛び立つのだという。
 大仰なことだ。エイッティオ=ルル=ウィンニイは胸のうちで、皮肉に笑う。どうして飛ぶのに、こんなに長い助走が必要なのか。
 だいたいあの機械の、不格好なことといったらどうだ。あんな単純な形の鉄の翼が、自在に風をとらえて羽ばたくとは、とても思えなかった。あんなもので空を飛んで、安全だなんて、エイリアンどもは本気でいっているのだろうか。
 初夏の陽射しは強い。胸のうちで散々に目の前の光景を罵りながら、エイッティオ=ルル=ウィンニイは陽炎のたつ滑走路を睨む。
 それが八つ当たりだというのは、自分でもわかっている。
 けっこうな数の航空機が、いまやヴェドの各地を行き交って、遥かな遠い土地からさまざまな荷物を運んでくる。それが彼らの生活にもたらすものは、少なくない。これまでに小さな機械トラブルはともかく、事故らしい事故があったという話も聞かない。
 だからただ単に、彼は個人的にその飛行機が気に食わなくて、難癖をつけているだけだ。自分でわかっていながら、エイッティオ=ルル=ウィンニイは胸中で罵るのをやめない。
 隣にはひとりの異星人が立って、やはり機体のようすを見守っている。弟の上司という男だ。しばらく黙りこんでいたが、ふと顔を上げて、エイッティオ=ルル=ウィンニイのほうを見た。
「――今日は風もいい具合だし、まだ訓練飛行だから、ベテランの操縦士が同乗する。心配はいらない」
 その言葉に、罵声を返しそうになって、エイッティオ=ルル=ウィンニイはぎりぎりのところで思いとどまった。
 翼を軽く広げて、エイッティオ=ルル=ウィンニイは笑顔を作る。
「いやあ、過保護だって、よくいわれるんですけどね。笑ってもらっていいですよ」
 いいながらも、心のうちでは吐き捨てていた。何が安全だ、あんな不格好なもので空を飛ぶのに、安全もへったくれもあるものか。
 けれど顔には出さなかった。あくまでにこやかに、エイッティオ=ルル=ウィンニイは翼を振る。
「――やっぱりね、俺らとしては、怖いんですよ。今回は、乗っているのが弟だからっていうのもあるんですけどね、それだけじゃなくて」
 訝しげにしている異星人を見下ろして、エイッティオ=ルル=ウィンニイは説明する。
「あなた方の飛行機が空を飛んでるのを、はじめて見かけたときにね、やっぱり思いましたよ。あんなところを飛ぶなんて、馬鹿じゃないのかって――いや、失礼」
 怒らせてもいいという気持ちが、どこかにあった。けれど異星人はわずかに眉を上げただけで、気を悪くするようすもなく話の続きを促した。テラ人の表情の細かい違いは、エイッティオ=ルル=ウィンニイにはわからない。ただ、じっと彼を見上げる男のようすは、ごく真剣なものに見えた。
 その態度を見て、エイッティオ=ルル=ウィンニイは気を変えた。首をかしげて、言葉を探す。
「理屈ではちゃんと、大丈夫なんだろうと思うんです。ただ、俺たちにとっては――なんていったらいいのかな。体が覚えてる感覚っていうか、そういうのがあって」
 少し、真面目に話してやってもいいかという気になっていた。いいながらエイッティオ=ルル=ウィンニイは、空を翼の先で示してみせる。
「ガキの頃にね、飛ぶ練習をして、ようやくよたよた飛べるくらいになるでしょう。その頃にね、何度か落っこちたり、風にあおられて危ない目にあったりするんですよ。そのときのことを、体が覚えてるんです――このくらいの高さまでだったら、何かの間違いでうっかり落っこちても、まあそうひどい怪我はしないで済むぞ、これ以上高くなると空気が薄くて飛ぶのが難しいぞ、っていうような」
 喋っているうちに、苛立ちがおさまっていくのを、エイッティオ=ルル=ウィンニイは感じた。もともと彼は、そういうタイプだ。喋れば喋るほど、自分の言葉にあおられて興奮するトゥトゥも少なくないが、彼の場合はどちらかというと、話しているうちにどんどん冷静になってくる。
「でも、あなたがたの飛行機は、それよりずっと高いところを、強引に飛んでいくでしょう。危なっかしいような強い風の中でも」
 一度言葉を切って、エイッティオ=ルル=ウィンニイは空を仰ぐ。よく晴れている――たしかにいい風だった。
「見てるとね、頭ではすごいなと思うんですけど――理屈じゃなくて、背中のここらへんが、ぞわぞわするんですよ。あんなところ飛べるはずがないぞ、死んじまうに決まってるだろう、って。――そうだな、そういう意味じゃ、エトゥリオルは向いているのかもしれません。あいつは高いところが、怖くないみたいだから」
 苦笑して、エイッティオ=ルル=ウィンニイは言葉を切った。彼を見上げる異星人は、いっとき考え込むような様子を見せて、それからうなずいた。
「俺はこんな仕事をしてるから、君らが飛行機を嫌う理由については、いろいろと考える機会が多い。異星人の技術っていうのに抵抗があるんだろうかとか、空を飛ぶのに機械の力を借りるのが嫌なんだろうかとか。だが、いくら考えても、実感としてはわからない――想像するしかないからな。そういう問題について、俺たちに本音のところで話してくれるトゥトゥは多くないし」
 ふっと言葉を切って、異星人は頬を撫でた。それからかすかに首を傾けて、いった。
「いま、君の話を聞いていて、思った。この星で飛行機が一般的になるまでには、まだかなりの時間がかかるんだろうな」
 落胆しているのだろうか――まじまじと見下ろしても、やはり異星人の表情は、よくわからなかった。エイッティオ=ルル=ウィンニイは嘴を掻く。
「――でも、飛んでるところを見てれば、やっぱり、羨ましいなとも思いますよ」
 いいながら、それがあながちただの慰めでもないことに、エイッティオ=ルル=ウィンニイは気付いた。それもまた、彼の本音だ。
「あんなふうなスピードで、空を思いっきり飛べたら、気持ちがよさそうだなっていうのも――やっぱりそれはそれで、あります」
 そのとき唐突に、遠くで低く、唸るような音がした。それが切れ目なく続き、じわじわと高まっていく。飛行の準備が始まっているのだろう。
 銀色の機体の脇で、いくつかのランプがともるのが見える。
「――俺は管制のほうに移動するよ。俺の眼では、ここからじゃ飛んでるところが、あまりよく見えないから」
 彼らの視力は、トゥトゥに比べればお粗末なものだと聞いていた。エイッティオ=ルル=ウィンニイはうなずいて、翼を振った。
「俺はもうちょっと、こっちにいます」
 そうかとうなずいて、異星人は去っていった。エイッティオ=ルル=ウィンニイはあらためて、滑走路の向こうの飛行機を見る。その巨大な機体と、まっすぐにのびる武骨な鉄の翼を。


  ※  ※  ※


 二度目に弟の顔を見たのは、最初のときから、一年半ほど経ってからだっただろうか。
 やはり金が尽きて両親のもとに顔を出したエイッティオ=ルル=ウィンニイは、弟の変化に目を丸くした。前のときには鳥のヒナにしか見えなかった毛玉は、ようやくいくらかトゥトゥらしい形になっていた。そして、とにかく騒々しかった。
 舌っ足らずにぴいぴい囀りながら、いつまでもエイッティオ=ルル=ウィンニイの足元にまとわりついてくる。最初はそれを面白がって、構ってやったりもしてみたけれど、あまりにも無心にまとわりついて来るものだから、途中からだんだんうっとうしくなってきた。
 帰ろうとするエイッティオ=ルル=ウィンニイを、引きとめようとして、弟はしつこく足元にしがみついてきた。それをあしらっているうちに、ふと彼は、意地の悪い気持ちになった。
 ちょっと脅かしてやろうかという気になったのだ。
 よく晴れて、ちょうど空を飛ぶのには絶好の日和だった。背中にちいさな弟をしがみつかせて、エイッティオ=ルル=ウィンニイは屋上に出た。
 ――しっかりつかまってろよ。
 いうと、弟は興奮したような顔で何度もうなずいた。
 風も強すぎず弱すぎず、近くを飛んでいるトゥトゥは多かった。それを横目に、屋上の縁を力強く蹴って、エイッティオ=ルル=ウィンニイは家の上空に舞い上がった。
 彼の背中に小さいかぎづめを喰いこませて、弟は歓声を上げた。やっぱりよしておけばよかったか――エイッティオ=ルル=ウィンニイはちらりとそう考えた。かえってうるさくてしかたがない。
 空を飛ぶといっても、たいした高さではない。軽く家の上空を一周して、すぐに戻ろうと思っていた。
 エトゥリオルがうっかり落っこちそうになって、びびって近寄ってこなくなれば、うっとうしくなくていいかもしれない――それくらいの、軽い気持ちだった。

 本当に落とすつもりはなかった。

 背中に食い込んでいたかぎづめの感触が、ふっと消えたその瞬間、エイッティオ=ルル=ウィンニイは自分でも意外なほど焦った。
 うっかり大けがでもさせてしまったら――落ち方が悪くて死んでしまったら。
 心臓が止まりそうになりながら急降下して、弟のもとに向かうと、エトゥリオルは屋上に転がったまま、きょとんとしていた。
 体重が軽いというのは、まったくもって、怪我から身を守るすばらしい資質なのだった。驚いたことにエトゥリオルには、怪我ひとつなかった。
 慌てているエイッティオ=ルル=ウィンニイを見て、弟はあろうことか、満面の笑顔になった。そしてひとの気も知らないで、はしゃいだようすで彼にせがんだ。もう一度、と。
 次は自分で飛べと、笑って言い聞かせながら、まだ冷や汗が出ていた。


 その日以来さすがにちょっとは気になって、たまに顔を見にいくと、エトゥリオルは会うたびにどんどん大きくなっていった。そして、それにもかかわらず、赤ん坊のときと同じように、エイッティオ=ルル=ウィンニイにやかましくまとわりついてきた。
 大きくなったとはいっても、どうも同じ年頃のトゥトゥよりは小柄なようで、体つきもなんだか痩せて貧相だった。
 そのうえどうやら、頭もあまりよくないようだった。知能が低いというのとは違うようなのだが、することがいちいち、どうしようもなく馬鹿っぽい。なんでもないようなことですぐ笑うし、すぐ泣く。
 兄がそうするようにわざと道化て見せているわけではなくて、なんというか、愚直なのだ。なんでもかんでもひとの話を真に受けて、疑うことを知らない。エイッティオ=ルル=ウィンニイに懐いてしつこくまとわりつくあたりが、その最たるものかもしれなかった。
 よくいえば、素直なのだろう。それにしても、あまりに単純な弟に、エイッティオ=ルル=ウィンニイは何度となく呆れた。こいつは本当に俺と同じ母親の卵から生まれたのだろうかとさえ思った。


 四歳になったエトゥリオルが、まだ飛べるようにならないと聞かされたとき、エイッティオ=ルル=ウィンニイはどきりとした。
 あのときには平気そうに見えたけれど、まさか落っことされたときの恐怖心が心の奥に残っていて、それが原因で飛べないんじゃないか。そんなふうに考えが向いて、どうにも落ち着かなかった。
 エイッティオ=ルル=ウィンニイよ、お前はそんなことで罪悪感を抱くような、繊細なタマだったか? そう呆れる自分が胸のうちにはいた。それでもその小さな刺は、どういうわけか、いつまでもちくちくと彼の胸の片隅を刺していた。
 それだから、エトゥリオルが病院に連れられていって、飛べない原因がわかったとき、エイッティオ=ルル=ウィンニイはまず何より先に、ほっとした。
 先天的な骨の障害が理由で、この先も生涯、飛べるようになる見込みはない――なんだ、それなら俺のせいじゃない。何も気に病むことはなかったじゃないかと。
 そう思ったあとで、むちゃくちゃに気がとがめた。


 そのあと、しばらく足が遠のいた。会わなくても罪悪感はずっと残っていて、エイッティオ=ルル=ウィンニイの中で、抜けない刺になった。
 どうしても気になって、二年ぶりに会いにいった。その二年間で弟は、ひどく卑屈な眼をするトゥトゥになっていた。
 ただでさえ痩せっぽっちの小さな体を、所在なさげにさらに縮めて、飛びまわっているほかの連中を、いつまでも羨ましそうに見上げている。それで我に返ると、いじけた眼つきをする。
 会いに行ったその日、エトゥリオルは彼の前で、べそべそ泣いた。
 ――僕も、エイッティオ=ルル=ウィンニイみたいだったらよかった。
 弟のその言葉を聞いて、彼は殴られたような衝撃を受けた。部屋の隅に小さく縮こまって、兄の目を見ないまま、エトゥリオルは繰り返した。
 ――兄さんみたいになりたかった。
 馬鹿をいえ、と思った。
 後にも先にも、あんなに激情に駆られたことはない。べそを掻いている弟の横で、エイッティオ=ルル=ウィンニイは、あろうことか、自分まで一緒になって泣いた。いじけて丸まった弟の背中を見て、こんな話があるものかと思った。
 馬鹿だ馬鹿だと思ってはいたけれど、いくらなんでもそんな馬鹿な言い分があるものか。なにが悲しくて、お前みたいなやつが、わざわざ俺なんかのようにならなきゃいけないんだ。
 お前ならもっと、ましなものになれるはずだろう。
 その日、エイッティオ=ルル=ウィンニイは生まれてはじめて、心の底から自分を恥じた。


   ※  ※  ※


 よく晴れた空の下、滑走路の向こうから、いま銀色の機体がゆっくりと、こちらに向かって走り出した。高まっていくエンジンの音。
 充分に加速したあとで、あの機体は一気に空まで飛び立って、ぐんぐん高度を上げてゆくのだという。トゥトゥの翼では及ばない、はるかな高い空へ。
 次は、自分で飛べ――いつか、ほんのちびだった弟にかけた言葉を、エイッティオ=ルル=ウィンニイは思い出す。
 不安だった。危ないことをするなといって、弟を殴ってでも引きとめたいような気持ちは、正直にいうと、いつでもあった。
 それでもエイッティオ=ルル=ウィンニイは、この日まで一度も、弟を止める言葉を口にしていない。
 彼の弟はいま、多大なる努力のはてに、あの中にいる。そうして兄には飛ぶことのできない遥かな高空に、これから向かうのだ。いつかの幼い日に交わした、約束のとおりに。
 止める言葉が、あるはずがなかった。
 空には雲ひとつない。風が力強く彼の背を押している。
 季節はちょうどオーリォにさしかかる頃だ。これほどいい日和なら、今日あたり旅立つトゥトゥも多いだろう。
 銀色の機体は、徐々に速度を上げて迫ってくる。エイッティオ=ルル=ウィンニイは食い入るように、弟の乗る飛行機を見つめる。





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