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 O&Wの屋上で、エトゥリオルはじっと空を見上げている。  まだ昼どきだというのに、思いがけずたくさんのトゥトゥが、そこらじゅうを飛び交っている。休憩時間を使っての買い物か、昼までのシフトなのか、あるいは混みあう社員食堂をさけて、外に食べに出かけるところだろうか。  今日は風が穏やかだった。高空には真っ白な雲の塊が、ゆっくりと流れている。  この頃にしては涼しく、空気はからりと乾燥していた。飛ぶのには絶好の日和だろう。誰もが気持ちよさそうに、のびのびと羽ばたいている。  真っ白な羽色をしたトゥトゥの女性が、いま上昇気流をとらえて、目を疑うほど高い空にのぼってゆく。  エトゥリオルは一度だけ、空を飛んだことがある。  ようやく物ごころついたばかりの、幼い時分の話だ。まだ自分が大人になっても飛べないなんて、思ってもみなかった頃。その日、兄の背中にしがみついて、エトゥリオルは空にのぼった。  トゥトゥひとり背中にのせて飛ぶなんて、いまにして思えば無茶な話だ。だけどそのころ、エトゥリオルはまだほんとうに小さくて、体重なんて紙のようなものだった。  ――しっかりつかまってろよ。  彼の兄はそういって、翼の付け根にエトゥリオルをしがみつかせた。  幼児のあんがい鋭いかぎづめに悲鳴を上げながらも、兄は二階の玄関から飛び立った。力強く羽ばたいた大きな翼は、すぐに上昇気流を捉えた。そうして彼らは家の上空を、ゆったりと二度、旋回した。  たいした高さではなかったはずだけれど、小さかったエトゥリオルにとっては、その空は、はるかな高みに思えた。上から見下ろす街並みは、砂色の小さな建物がぎゅうぎゅうにひしめき合っている。周りを飛ぶトゥトゥたちの色とりどりの翼が、ときどき視界の端を横切って行った。  着陸寸前、目を回したエトゥリオルがあぶなっかしく転げ落ちて、家の屋上でバウンドする結果になっても、兄弟はけろりとしたものだった。とりわけ落っことされたエトゥリオルのほうは。  心配して集まってきた周りの大人たちからこっぴどく叱られても、エトゥリオルはどこ吹く風で、兄にもう一度とせがんだ。  次は自分で飛べといって、兄は笑った。  その夜、エトゥリオルは興奮のあまり、なかなか寝付けなかった。それがたった一度、彼が自分の体で空を感じた、最初で最後の飛行の記憶。   ※  ※  ※  こわれるのは一瞬だった。  手の中できらきらと光を弾く小さな部品を、エトゥリオルは茫然と見つめた。金属光沢のなかにかすかに透けて見える、おそろしいほど微細な、緻密な回路。そのなかに、肉眼で見てはっきりとわかるほどの、亀裂が入っていた。  ほかの機械のパーツから流用できるような、汎用性のある部品だったらよかった。工場に在庫があって、すぐに取り換えのきくものなら。  その小さな小さな回路は、よりによって、今回の試作品のためにこのひと月をかけて、一から作り上げたやつだった。新しく作った部品のなかで、いちばん手間ひまと材料費のかかった、大事な部品のはずだった。 「――僕、」  言い訳をする勇気さえ、途中でしぼんで消えた。  社内規定としての試用期間は終わったけれど、エトゥリオルは実質上、まだ見習いから半歩も外に出ていない。給料をもらいながらも、仕事の何から何までを教えてもらっている身分だった。この部品だって、自力で作り上げたわけではなくて、手順をひとつひとつ教わりながら図面を引いて、何度も試算して点検してもらって、ようやくOKが出た。三日前に工場に回して、今朝しあがってきたものだった。  工場のロボットが、図面に沿って自動でどんどん作ってくれるような部品もあるけれど、いまエトゥリオルの手の中にあるものは試作第一号、プロトタイプだ。熟練の作業員がていねいに時間をかけて仕上げてくれた。よりによってほかの部品でなくて、なぜこれだったのか。  設計のときにも試算のときにも、慎重になって、どこかに間違いがないか、見落としがないかと、何度も確かめた。それなのに。 「――大丈夫か」  肩をゆさぶられて、はっとした。 「僕、あの――ごめんなさい、」  それ以上の言葉がつっかえて、出てこなかった。自分の努力をふいにしただけなら、まだいい。この部品ひとつ作るのに、みんなのどれだけの労力がかかっていたか。 「気にしなくていい。まだ納期には余裕がある。いまから作り直してもじゅうぶん間に合う――それより、こっちの図面を頼んでいいか。その間に、工場に連絡をいれておくから」  ジンは淡々とそういったけれど、エトゥリオルはすぐに返事ができなかった。何時間もの労力をふいにされて、怒っていないはずがあるだろうか。 「――はい」  それでもかろうじてうなずいたのは、わかっていたからだ。謝ったところで何になる。謝って部品が元に戻るわけではない。  受け取ったチップを端末に読みこませて、データを開く。キーを叩く手が、震えた。  通話を終えたジンが、振り返った。 「本当に気にしなくていい。俺の説明も足りなかったんだ」  エトゥリオルは息を吸って、反論を呑みこむ。そういうジンは、近ごろ本当に忙しくしていて、いまも、いくつもの仕事を並行して進めているはずなのだった。このところ、休日に寮にいたためしがないし、夜も遅くまで残っていた。  ほかのスタッフが、心配そうに視線を投げてきているのがわかった。エトゥリオルは体を縮めて、なんとか図面に集中しようとする。  無理だった。気持ちがすぐに、あの一瞬に戻る。手の中であっけなくひびの入った部品。緩衝材をかぶせる前の、むき出しに近い回路。不注意のつもりさえなかった。  キーを叩く、かぎづめの指を見つめて、エトゥリオルは震える息を吐く。  彼はトゥトゥとしては、かなり手先が器用なほうだ。自分でもそう思っていたし、それは嘘ではないはずだった。けれど、テラ人のやわらかく繊細な手とは、はじめから違う――  それを言い訳にしようとしている自分に気付いて、胸が苦しくなった。そんなことははじめからわかっていた。テラ人がそうする何倍も、自分は注意をはらわないといけなかった。それに、トゥトゥの企業だって精密部品は扱う。何の言い訳にもならない。 「リオ」  呼ばれて、びくりとした。ジンが作業の手を止めて、彼のほうに向き直っていた。 「落ち込むな。君はまだ新米で――俺だってこっちじゃそうだが、とにかく、失敗くらいして当たり前だ。そういう可能性もわかっていて、部品を触らせているんだ。この手の精密機器を扱う仕事は、君は、はじめてなんだろう?」 「――はい」 「新人っていうのは失敗するものだ。それでも知識だけで覚えて頭でっかちになるよりも、実物をさわりながら覚えていったほうがちゃんと身につく。だからリスクを承知の上で、どんどん作業を任せるんだ。誰だって何度も失敗しながら仕事を覚えていく。君が特別に不器用なわけじゃない」  慰められていることが、かえっていたたまれなかった。エトゥリオルはうつむいて、自分のかぎづめを見た。まだ少し、ふるえていた。 「失敗した人間に出来る挽回っていうのは、次はどうやったら失敗しないか、考えることだけだ。……これでもう、覚えただろう? ああいう部品を扱うときに、どこに気をつけたらいいのか」 「――はい」  うなずいたけれど、顔は上がらなかった。ジンの短いため息を、エトゥリオルの耳は拾った。 「休憩にしよう」 「え……」 「昼休みにはちょっと早いが、社食はもう開いてる。いったん仕事から離れて、まずはしっかり飯を食って、外の空気でも吸ってこい。そのあいだに気分を切り替えろ。――上の空で作業したって、よけいな失敗が増えるだけだ」  一から十まで、もっともだと思った。エトゥリオルはうなずいて、立ち上がった。みんなの顔を見られないまま、もう一度だけ声に出して謝って、フロアを出た。  食事なんかとても喉を通らないと思ったけれど、とにかく社員食堂にいった。受け取った料理を無理やりぜんぶ口のなかに入れて、ひといきで呑みこんだ。この上、ずるずる落ち込んだままミスを増やせば、なおさら皆に合わせる顔がないと思った。ジンのいうとおりだ。  エトゥリオルはいわれたとおりに屋上に出て、よく晴れた空を見あげた。この頃にしてはめずらしく陽射しが穏やかで、乾いた風が気持ちよかった。夏がもうじき終わるということに、このときはじめて気付いた。  空の端にうっすらとかすむ月を目で追って、エトゥリオルは目をしばたく。サムは三日前に、宇宙港に向かうシャトルに乗り込んでいった。今頃は月面のはずだ。そろそろ地球に向けて出発するころだろうか。  サムは笑顔でシャトルに乗り込んでいったけれど、その背中を見送りながら、エトゥリオルは泣きそうだった。次に会えるのは何年先だろう――テラはあまりに遠い。  それでここ数日、エトゥリオルは気落ちしていた。けれど、そのせいで集中力を欠いたのだとは思いたくなかった。仕事中には気をそらさずに、作業に没頭していたつもりだった。  だからこそ、失敗が痛い。  空を舞う同胞たちを眺めて、気持ちよさそうだなと、エトゥリオルはぼんやり考えた。  屋上の端に近づいて、エトゥリオルは、翼を動かす真似をした。どんなに力を入れても、冗談のようにのろのろとしか動かない、役立たずの翼。  わかっているのに、ときどき無意識に試してしまう。あるとき急に奇跡が起きて、翼が動くようになっているなんて、そんなことはあり得ない。   ※  ※  ※  言葉がきつい。人の気持ちがわからない。  人生の中で、何度おなじことをいわれてきたかわからない。ジンは階段を上りながら、がりがりと頭を掻いた。こっちに来てからエレベータは使わない習慣が身についた。たかだか三階建てのオフィスだし、近ごろ仕事がおしていて、運動不足がひどい。  気がふさいでいた。間違ったことをいったつもりはなかったけれど、間違っていなければいいというものでもない。  ものには言い方というものがあるのだし、相手を見て言葉を選ぶことぐらい、いいかげん出来るようにならないといけない年齢だ。自分でも、わかってはいる。頭では。  ――お前はものの言い方がきつい。  まずその場にいた同僚から怒られて、あとで話を聞いたハーヴェイにまで、追加で説教された。だいたいお前の顔は怖いんだし――  ジンは憮然とする。面相が悪いのは自分のせいではない。  いや、どうだろう。人間性が顔つきに出ているのかもしれない。歩きながら、思わずジンは自分の顔をこすった。  態度がきついのも、性根が曲がっているのも、自覚はある。人付き合いが下手なことも。気に食わない上司に皮肉を飛ばすくらいの性格の悪さは、もういまさら矯正するつもりもないが、部下のメンタリティに配慮しないというのは、また別の話だ、と思う。  反省はしている。しかし、どう対処したらいいのかはわからなかった。  たとえばハーヴェイなら、どうだろうか。生真面目な部下が失敗して青褪めていたら、冗談めかして笑い飛ばしてしまうだろう。それからさりげなく、重要なことだけを注意する。  ジンは気の利いた冗談をいう自分を想像しようとして、すぐに諦めた。人には向き不向きというものがある。  ため息が出る。過去にも部下を持った経験はないことはないが、どいつもこいつも日がな一日機械のことばっかり考えていて、頭のねじの一本も二本も飛んだようなやつらだった。神経が細いどころか、神経があるのかどうかも怪しいような連中。  数式やロジックが相手なら、怖いことはない。ユーモアを交えて軽口をたたくとか、気のきいた励まし方をするとか、そういうことこそが、彼にとっては難敵だった。いい年をして――と、自分でも思う。思うが、なおらない。  どう声をかけるか決めきれないまま、屋上のドアの前に来てしまった。  ため息をひとつ。ドアを開けるべく、IDをかざす。かすかな電子音がして、ロックが外れる。  屋上に出たジンは、すぐにはエトゥリオルの姿を見つけきれなかった。  外の空気を吸ってこいといったが、その通りにしたのかどうかはわからない。階段に向かったという目撃情報があったので、咄嗟にここだと思ったのだが、あるいは階下に降りて、中庭あたりにいるかもしれなかった。  O&Wの屋上は広々としている。地球のオフィスビルなら、転落防止の柵でも設けてあるところだが、トゥトゥは屋上をあたりまえのように玄関や通用口として使うから、そうした設備は作れない。彼らが飛び立ちやすいように、そのままだ。  風が吹きつけて、ジンは顔をしかめた。屋上という場所が、彼は好きではない。いやな思い出があるのだった。  ジンは物ごころついてからずっと、家族の誰とも折り合いが悪かったが、姉がその中でも極めつけだった。ありとあらゆるものを嫌っていて、人を傷つけることがなにより楽しくてしかたがない、そういう女だった。  その姉が、一度、飛び降り自殺のまねごとをした。  はじめはたしかに、まねごとだったのだと思う。当時の姉の恋人が、泡を食って止めに駆け寄ったときに、彼女のなかで、何かのスイッチが入ってしまったのだろう。姉は楽しくてしかたがないというように笑ったまま、ほんとうに屋上から身を投げた。  先端医療の力というものを、あれほど感じたこともなかった。およそ頭蓋の中身さえ無事なら、ほとんどの体のパーツは再生してしまう――ぐちゃぐちゃに見えた姉は命を取り留めて、三か月後にはもとの彼女と見分けのつかない姿で、家に戻った。  帰宅した姉と、眼が合った瞬間のことを、彼はいまでも覚えている。怯えるジンに気付くと、姉は笑った。楽しくてしかたがないという笑みだった。飛び降りた瞬間に浮かべていたのと、まったく同じ――  首を振る。思いだして気分のいい記憶ではなかった。  給水塔を回り込んで、ジンはぎょっとした。  見慣れたまっしろな羽毛に、きれいな模様の茶斑。後ろ姿でも、見間違えようがなかった。  エトゥリオルは、屋上のへりに立っていた。あと半歩でも身を乗り出せば、まっさかさまに落ちようかという、ぎりぎりのところに。 「――おい!」  とっさに声が出た。驚かせると危ないだとか、そういうことを考える余裕はなかった。   ※  ※  ※  ぼんやりと空を見上げていたエトゥリオルは、背後に誰かの気配を感じた。誰だろう、ここから飛び立つつもりなら、僕がここにいたら邪魔になるかな――考えたのは、そんなことだった。 「おい!」  それはジンの声だった。その切迫した響きに驚いて、エトゥリオルはとっさに振り返った。  ジンは蒼白な顔をして、そこにいた。伸ばされたかけた手の意味がわからなくて、エトゥリオルは目をしばたいた。  風が吹きつける。どこか空の高いところで、誰かの笑い声がしている。  呼吸ふたつぶんほど考えて、ようやく察しがついた。どういう誤解をされたのかということに。 「――あ」  ほとんど同時に、ジンもまた自身の誤解に気付いたようだった。普段はあまり慌てることのない上司が、珍しく動揺しているのが可笑しいような気がして、エトゥリオルは微笑んだ。 「いや――その、悪い、」 「いえ」  エトゥリオルは首を振った。何でもないように笑えたと、自分では思う。  ジンは何度か言葉を呑みこんで、それから真剣な顔で、頭を下げた。 「――すまない。つい何でも、とっさに自分たちの感覚でものを考えてしまう」 「そんな」  エトゥリオルはもう一度首を振った。「心配してくださったんでしょう? ――ありがとうございます」  空を飛べないのがあたりまえの彼らの感覚では、高いところから身を乗り出している人を見かけたら、とっさに心配するのが普通なのだろう。ジンの言葉におそらく、嘘はない。そう自分に言い聞かせながら、エトゥリオルは屋上のへりからさりげなく離れる。 「そろそろ休憩、終わりですよね。――戻ります」  ああ――まだ慌てたような声の相槌を、背中で聞いて、足早にならないように、エトゥリオルは歩いた。  IDカードをかざして、ドアを開ける。急がないように気をつけて、ゆっくりと階段を下りた。ジンの足音は、すぐには追いかけてこない。ほっとして、エトゥリオルは眼をしばたく。  階段には窓がない。扉を閉めてしまえば、外が晴れていることもわからない。できれば誰も上がってこなければいいと願いながら、エトゥリオルは薄暗い階段を、一歩ずつ踏みしめる。  この状況で心配されるトゥトゥなんて、僕ぐらいのものだろうなと考えて、エトゥリオルは小さく笑った。  いちいちそんなふうに考えてしまう自分が、みじめだった。



 設計畑には変人しかいない、というのは赴任半月めのときのジンの言だ。その言葉の客観的な真偽と他人事ぶりはさておいて、ヴェド支社の設計部にくせの強い人間が多いのは間違いない。
 エンジニアのアンドリューは、その筆頭だ。お気に入りの音楽がないと仕事が出来ないといって、勤務時間中にもかたときも私物のイアホンを外さない。
 彼はいついかなるときも――仕事中も移動中も風呂に入っているときも、睡眠中でさえ、彼のお気に入りの音楽を聴きつづけている。それでたまには静寂が恋しくなったりはしないのかと、周囲が不思議になるくらいなのだが、どうもそういうことはないようだ。
 いま彼が配置されているこの設計部は、作業音楽とは縁がないが、BGMが慣習になっている職場にいたときは、選曲が気に入らないといって、わざわざ専用のノイズキャンセラを作って自分の耳に届く音を消していた。その上からお気に入りの音楽を聴くのだ。
 ノーミュージック、ノーライフ。けっこうなポリシーだ。上司にどれだけ叱責されようが嫌味をいわれようが、アンドリューにちっともこたえるそぶりはなく、近ごろではもうなんだか皆がどうでもよくなって、見て見ぬふりを通されている。
 彼にいわせれば労働歌の文化は、地球人類がまだ猿だった太古の昔から連綿と受け継がれてきた、じつに理にかなったシステムなのだそうだ。曰く、みなが同じようにしないのが理解しがたい。
 ノリのいい音楽で常に気分を上げていくのが、能率的な作業遂行の秘訣――表だって同意を得られることはあまりないが、アンドリューはそのようなことは気にしない。
 その論が正しいかはさておき、彼がそのBGMのせいで人の話を聞き逃したり、音楽に熱中しすぎて手を止めたりしているようすは、特にみられない。それどころか彼は非常に腕のいいエンジニアで、これまでに上げてきた実績には、上司を黙らせるくらいの力は十分にある。
 彼のどこが筆頭扱いされるほど変なのかというと、そのイアホンが見た目だけの飾りで、実機能としてはまるきり役に立っていないというあたりだろうか。
 アンドリューの本当の音楽スピーカーは、外科的手術で側頭に埋め込まれた再生装置で、これは脳に直接信号を送る形で音楽を再現するので、外にはいっさい騒音を漏らさない。
 つまり、そのお飾りのイアホンさえ装着していなければ、アンドリューが音楽を聴きながら仕事をしているなんていうことは、周囲にはわからないし(本人がノリノリで歌いだしたりリズムをとったりしなければの話だが)、そうすれば上司とのあいだにいらない波風を立てることもない。
 それなのになぜ、わざわざ古式ゆかしき外観のイアホンを耳からのぞかせて、いかにもいま俺は音楽を聴いてるぜ! というファッションを、彼は貫いているのか。
 そのほうが気分が出るから、だそうだ。もう慣れ切ってしまって、同僚は誰もいまさらいちいちつっこまない。


 そのアンドリューが、珍しくインプラントの音楽再生装置を停止して、皆にも聞こえるように音楽をかけていた。古い戦争ムービーにでも小道具として出てきそうな、古色蒼然たるラジカセ――にそっくりの見た目をよそおった、最新式の音楽プレイヤーを持ち込んでいる。
 そんな趣味的なシロモノを、いったいどこから持ってきたのかというと、どうも自分で組み上げたらしい。工場から余った部品をがめているところを、複数の社員から目撃されている。
 フロアじゅうに響き渡る大音量だった。終業時刻は過ぎたとはいえ、まだほとんどのスタッフが残業している。
 そういう状況で、まっさきにうるさいといって怒りだしそうなジンが、これまた珍しいことに、手を止めて音楽に聴き入っている。
 それも無理もないくらい、美しい歌声だった。
 独唱だ。楽器の伴奏はないのだが、ときおり何か低い、ゆったりとした汽笛のような音が混じる。それがメロディーを、ふしぎと邪魔せずに調和している。
 歌い手の音域は非常に広い。トゥトゥの歌声だ。
「――いい歌だな」
 再生が終わったところで、ジンが思わずというふうに呟いた。その肩に、アンドリューが嬉しそうに腕をまわす。
「お前に音楽を理解する心があるっていうのは、嬉しい驚きだな」
 いって、アンドリューはジンの肩をばんばん叩く。無駄に力が強い。ジンがよろけてもちっとも気にせず、彼はふと気付いたように首をかしげる。
「そういやお前、せっかくこっちに来たのに、仕事仕事でまだほとんど遊んでないだろ」
「誰のせいだ?」
 呆れて、ジンは半眼になる。なんだかんだと面倒な仕事を押しつけてくるのは、たいていアンドリューだ。
「お前の要領が悪いだけだろ。遊ぶ時は遊ぶ、働くときは働く。オンオフの切り替えが大事なんだよ。ちょっとくらい休んで、小旅行にでもいってきたらどうだ?」
 アンドリューはいい考えだというように、自分の言葉に何度もうなずいている。
「――旅行っていったってなあ」
 ぼやくジンに、アンドリューは首をひねる。それからああ、と声を上げた。
「そうか、まだ出られないのか、お前」
 ジンは肩をすくめた。
 地球から移住してきた人間は、半年間は、移民街の外には出られない。それはトゥトゥの国家のどこかから要望があったというわけではなく、地球人の側が自発的に定めた、防疫のための条約だ。
 潜伏期間がもっと長い病気もないとは言い切れないが、航海中の期間もあるし、それに血液検査をはじめとするヘルスチェックは、到着前後に何度も重ねられている。現実的な妥協点として、半年――惑星ヴェドの暦でいう半年だから、およそ二〇〇日の線が引かれている。
 地球人の罹患する病気が、トゥトゥにも感染するという可能性は低いが、ウイルスや病原菌がトゥトゥの生態にあわせて変異する可能性は、捨てきれない――その逆もありうるように。
「まあ、マルゴ・トアフの中にも遊ぶ場所はあるさ。トゥトゥの歌に興味が出たなら、市民ホールに行ってみるといい。――ああ、ちょうど今日あたりが狙い目だぜ」
 端末のカレンダーをチェックして、アンドリューがいう。
「コンサートでもあるのか?」
「市民コンサートだけどな。こっちまで来てくれるプロの歌い手はなかなかいないが、アマチュアでも、じゅうぶん聴く価値はあるよ」
 アンドリューの言い分には説得力があった。なんせトゥトゥの音楽というのは、地球でもおおいに人気を呼んでいる。
 音楽データや絵画の複写のような情報商品は、地球との交易品目として、最大ベースのものになっている。というのも、星系間で品物をやりとりするのには、かなりの費用と時間がかかるからだ。そこまでのコストをかけても交易する価値のある商品というのは、あまり多くない。
 極端な話、こちらで発明した最新技術で作り上げた商品があったとして、それを地球まではるばる輸送しても、届いたときには向こうでは、とっくに時代遅れになっている可能性さえある。
 それに比べて、データのやりとりならば、ずっと早くできる。早いといっても時間はかかるが、ものを送るよりはずいぶんましだし、費用も安価で済む。実際のところジンも、地球にいたときに、何度かトゥトゥの楽曲を買って聴いたことがあった。
「だいたいトゥトゥって、歌うのが好きだよな。工場のやつらなんか、しょっちゅう歌いながら手を動かしてるしさ」
 嬉しそうにいうアンドリューには、トゥトゥの生歌が聴きたいがためにヴェド勤務を希望したという逸話がある。しかしそのためにエンジニアになったというのがどこまで本気なのかは、本人しか知らない。
 それほど音楽が好きならば、エンジニアなどせずに音楽業界で働いていてもよさそうなものだが、商業音楽の傾向と彼の嗜好には、ずれがあるらしかった。
「データならネットで買えるけど」ラジカセもどきをこつこつと叩いて、アンドリューは笑う。「でも、生で聴くとやっぱりぜんぜん違うぜ」
「そうだな……行ってみるかな」
 顔を上げて、ジンは隣の席を振り返る。「リオ、君も行かないか」
 驚いたエトゥリオルは、羽毛を膨らませて、きょろきょろ首を回した。
「僕、ですか?」
「君もこのごろ、ほとんど職場との往復になってるだろう?」
 エトゥリオルは何度かまばたきをして、それから頭を下げた。
「――ありがとうございます。お供します」
 その仰々しい言い回しが可笑しかったらしく、アンドリューが吹きだす。「お供、ねえ」
 周りで話を聞いていたほかのエンジニアたちまで、つられて笑いだす。なにを笑われているのかわからずに、エトゥリオルはきょろきょろと彼らの顔を見渡して、首をかしげた。


  ※  ※  ※


 夕暮れ時のマルゴ・トアフのステーションは、光に満ちていた。数えきれないほどの案内灯、照明、店の看板を彩るライト。
 この時間にトラムを下りてくるのは、出張や旅行から帰ってくる地球人が多い。逆にいまからトラムに乗り込むのは、自宅に戻るのだろう、トゥトゥの労働者たちだ。
 そんな流れに逆らうように、ひとりのトゥトゥがいま、ホームに降り立った。
 背が高い。体つきは引き締まって、どちらかというと細身なほうだが、骨格が大きい。羽色は腹側では真っ白で、背中や翼に入った斑は、オレンジがかった鮮やかな褐色をしている。その模様がまた華麗だった。トゥトゥ的にいうなら、いかにも女にモテそうな外見だ。
 鼻歌まじりに、彼は階段を上る。あちらこちらに気をとられながらの、いかにも気まぐれな足取りだが、そうして歩く姿が妙にさまになっている。すれ違うトゥトゥに振り向かれても、他人の視線を気にする様子はない。注目されるのに慣れているのだ。
 二階に出て、ロータリーから飛び立つ前に、彼は暮れなずむマルゴ・トアフの街並みを睥睨する。楽しそうに、その眼がきらめく。
「さて、異星人(エイリアン)の租界と聞いたから、どんな魔窟かとおもいきや。どうしてなかなか、楽しそうな街並みじゃないか」
 ポシェットを探って、彼は端末を取りだす。最新式の、とびきり薄くて頑丈なやつだ。画面に表示された地図は、一般的なトゥトゥの街のものよりも、ずっと表示が詳細だった――空から目標を探すことに長けているトゥトゥは、そもそもあまり地図の正確さいうものにこだわらない。
 端末を戻して、彼はふたたび街を見下ろす。
「ふむ。あのへんかな」
 歌うように独り言を漏らしながら、ロータリーの端へ。石畳を蹴爪で力強く蹴って、彼は大空に舞い上がった。大きな翼が、易々と風をとらえて高度を上げる。
 エイッティオ=ルル=ウィンニイはゆったりと羽ばたいて、マルゴ・トアフの空を旋回する。


  ※  ※  ※


 車窓から眺める夕暮れどきのメインストリートは、フェスティバルのときほどではないけれど、おおいににぎわっていた。ジンは目を細めて、喧騒を見やる。
 空を見上げれば、駅のほうに向かって飛んでゆくトゥトゥたちの姿。地上には地球人たちが目立っている。足早に帰るもの、いかにも残業中の買い出しといったふうのもの、仕事が引けて浮かれているのか、楽しそうにそこらの商業ビルを冷やかしているものも少なくない。
 ショーケースに並ぶさまざまな日用品、インテリア、衣料品。トゥトゥの羽毛を手入れするためのオイルと、人間用のヘアクリームが、同じ棚でいっしょくたに陳列されている。違法すれすれのインプラント改造ツールに、はてには何に使うのかよくわからないトゥトゥの民芸品まであった。雑多な商品のならぶ通りに、ちらほらと飲食店の看板も混じっている。
「ずいぶん賑わってるな」
「普通だよ。毎日毎晩飽きもせずにそこまで仕事漬けなのは、お前くらいだ」
 笑ってそういうハーヴェイも、半分は社屋に住みついているようなものだ。残業をさぼって無駄口を叩きにきたところで、出掛けようとするジンとエトゥリオルに気付いて、いい口実を見つけたといわんばかりに、そのままついてきた。
「ま、ようやく息抜きをする気になったのは、いいことだけど――こっちの音楽に興味が出たなら、いつか東部に行ってみたらいい」
「東部?」
「そう。クジラの歌が聴ける」
「――クジラがいるのか」
「地球の鯨類とはだいぶ違うけどね。大型の海洋哺乳類がいるよ。トゥトゥはよくいろんな生き物と合唱するけど、東のほうはとくに盛んなんだよ」
「アンドリューが再生してたのが、それですよ」
 エトゥリオルが口をはさんだ。歌声の後ろで響いていた音を思いだして、ジンは納得した。汽笛のような、ゆったりした低音。
 ハーヴェイが首をひねって、エトゥリオルのほうを振り返った。「鳥とも、よくいっしょに歌ったりするよな――あれって、どうやってるんだい。捕まえて訓練してるって感じじゃないよな」
「どうでしょう。そのときのステージで呼んでみて、来てくれた鳥と歌うんじゃないでしょうか」
「呼んだら来てくれるんだ?」
「そうですね――こんな感じで」
 エトゥリオルは喉を複雑に震わせて、いつもの話し声とは違う、高い音を立てる。「鳥の種類によって、呼び声が違うんです。いつも来てくれるとは限らないけど……」
 へえ、と感心したような声を上げて、ハーヴェイが目を輝かせる。
 ジンは車窓から、空に視線を向ける。今日は雲が多い。低いところを、何か黒っぽい鳥が飛んでいるのが見える。さすがに車中の声を聞きつけて舞い降りてくることはないようだった。
「そういえば、声で思いだしたんだけど、君らの名前って、産声なんだって?」
「あ、そうですね。第一声がそのまま名前になります。だけど、それって西部だけの風習らしいです」
「ああ、やっぱりそうなんだ。それでかな、似たような響きの名前が、けっこう多いよね――いや、ごめん、君たちの耳にははっきり聴き分けられるんだろうけど」
 ハーヴェイはばつの悪いような顔をしたが、エトゥリオルは笑って首を振った。
「いえ。似た名前のやつなんて、腐るほどいますよ。昔なんかは、生後三日以内に声を立てなかった子は、みんな名無しだったらしいし……」
 言葉を切って、エトゥリオルはくすりと笑う。「名前っていえば、笑い話が残ってるんですよ。ずっと昔の王様なんですけど、伝説があって。殻から出るのを待たないうちから、産まれおちて羽が乾くまでずっと、延々と声を上げ続けたんだとか」
 ハーヴェイが小さく吹き出す。「そりゃまた、周りは迷惑だったろうね」
「童歌にもなってます。そっちの方は誇張が入ってるらしいんですけど、とんでもなく長い名前だったのは本当で、公文書にも残ってるそうです」
「典礼とか、公式行事とか、いちいち大変だっただろうなあ」
 ハーヴェイはいって、くつくつと笑った。名前を正確に発音することが礼儀とされるトゥトゥの社会だ。途中で噛んだりしたら、目も当てられない。
「そこまでじゃないんですけど、うちの兄なんかも、名前が長くて。よくほかの人から面倒がられてます」
「あ、お兄さんがいるんだ。――あれ、でもトゥトゥって、あんまり兄弟といっしょに暮らしたりしないんじゃなかったっけ」
「そうですね。うちの場合はちょっと、兄が特殊で」
 トゥトゥは普通、子育てがひと段落して子どもがひとり立ちするまでは、次の卵を抱かない。子どものほうでも、育ってしまえばさっさと家を出て、そのあとはめったに親を頼ることもないから、兄弟の顔さえ知らない場合もめずらしくない。
「兄はなんていうか――いつまでもふらふらしてて、落ち着かなくて。とっくに家は出てるんですけど、僕がいるときも、しょっちゅう戻ってきてました」
「へえ――ああ、着いた」
 車が速度を落として、建物の前庭に入る。マルゴ・トアフにある車は、基本的に交通局の管理する無人タクシーばかりだ。自家用車というものがないから、当然ながら駐車場もない。次々に人を下ろしては、無人の車が去っていく。
 やってくる車の多さに、ジンは驚いた。市民コンサートだと聞いていたから、もっと小規模な催しだと思っていた。
「――本格的だな」
 ジンの呟きに、エトゥリオルがどぎまぎしたようすでうなずいた。人の多いところが苦手なのか、落ち着かないようすで冠羽をぴくぴく揺らしている。
 その様子を見て、ジンは口を開きかけた。言葉をさがして、ためらう。
 先日の屋上での一件を、あらためて謝りたかったけれど、ここ数日、ゆっくり話すタイミングをつかめなかった。アンドリューの話をいいきっかけと思って、連れ出してはみたものの、無理に付き合わせてしまったような気がして、いまさら気が咎めていた。
「おおい、入るよ」
 さっさと入場券を買ったハーヴェイが、二人に手を振る。
 開きかけた口を閉じて、ジンは歩きだす。コンサートが終わってからにしよう。


 一曲目と二曲目は市民合唱団による混声合唱で、七人のトゥトゥが舞台に並び、きれいなハーモニーを聴かせた。
 会場には音響設備もあるのだろうけれど、そうしたものが使われているような様子はない。そのままの声だけで充分なのだ。
 セミプロだという話が周囲の聴衆から漏れ聞こえてきたけれど、それも納得できる歌声だった。アドリブが入って、ときおり奔放に脱線するのに、それが全体にぴたりと調和している。
 コンサートホールは何百人と収容できそうな、りっぱなものだ。そこに、満席とはいかないが、けっこうな人数の観客が入っている。それだけの客席が、おおいに拍手でわいた。
「――たしかに、聴きに来る価値はあるな」
 ジンが思わずそういうのに、エトゥリオルが熱心にうなずいた。
 合唱団が挨拶をして、舞台のそでにひっこんだ。その直後、ふっと照明が落ちて、観客席にとまどうようなざわめきが起きた。
 舞台の上にスポットライトがともる。
 さきほどはそういう演出はなかった。何事かと舞台に注目する人々の視線を受けて、スポットライトが、軽やかに躍りだす。
 唐突に、大きな羽ばたきが響いた。
 舞台のそでから、ひとりのトゥトゥが躍り出る。まさしく躍り出る、というかんじだった。大きく翼を打ち鳴らして、飛びながら姿を現したのだ。
 派手な色をしたトゥトゥだ。胸元は純白だが、頭や背中はオレンジに近い褐色をしている。翼の先にいくほどその色があざやかに濃くなって、美しい模様の斑が入っている。
 舞台は、歌うには充分すぎるほど広いけれど、自由に飛びまわるには当然ながら狭い。その狭い舞台の上を、器用に飛びまわりながら、トゥトゥは歌い出す。
 朗々たる美声だった。
 はじめは驚いていた人々も、徐々に笑顔になって、このパフォーマンスを楽しみはじめる。途中からは、手拍子まで起こりはじめた。
 調子に乗ったトゥトゥの歌い手は、歌声を響かせながら、客席の上にまで躍り出る。抜け落ちた羽がひらひらと舞うのを、客席の地球人の子どもが、喜んでキャッチしている。
「ずいぶん派手だな……」
 歌を邪魔しないように、ジンは小声で呟いた。それから隣で、エトゥリオルがなぜかがっくりとうなだれているのに気がついた。
「――リオ?」
 エトゥリオルは頭を胴体にめりこまんばかりに縮めて、小さくなっている。トゥトゥのジェスチャーは、必ずしも地球人のそれと一致しないが、彼が何かいたたまれない様子でいるということは、ジンの目にも明らかだった。
「すみません――」
 エトゥリオルは縮こまったまま、唐突に謝った。ハーヴェイが振り向いて、怪訝そうな顔になる。
 なにを謝られているのかわからなくて、地球人ふたりが顔を見合わせる。エトゥリオルはうなだれたまま、消え入りそうな声でいった。
「……兄です」


  ※  ※  ※


 ステージが終わると、歌い手は袖に引っ込まずに、そのままばさばさと翼を鳴らしながら客席に飛び込んできた。
 ハーヴェイはとっさに軽くのけぞったけれど、エトゥリオルの兄は危なげなく客席のあいだを縫って、ふわりとそばの通路に降り立った。
「よう、元気にしてたかエトゥリオル!」
 席を立ったエトゥリオルが、胸ぐらをつかまんばかりの勢いで兄に詰め寄るのを見て、ハーヴェイは目を丸くする。
「こんなところで何やってるんだよ!」
 叫んでしまってから、周囲の視線を集めてしまっていることに気付いたようすで、エトゥリオルは羽毛を逆立てた。「とにかく、出るよ! ――すみません、すみません」
 周囲の観客に何度も頭を下げながら、エトゥリオルは兄の腕をぐいぐいひっぱってゆく。
「何って、可愛い弟がちゃんとやってるかどうか、心配になって見に来たんじゃないか……あ痛てて、乱暴にひっぱるなって、ハゲるだろ!」
 騒々しく出ていく兄弟を、いっときあっけにとられて見守ったあとで、ハーヴェイは我にかえった。
「――俺たちも出ようか」
「そうだな……」
 追いかけてホールを出るまでに、ふたりは点々と落ちている羽根を何枚もみかけた。
 ロビーの隅のほうで、兄弟は引き続き騒いでいた。
「心配することなかったか。ずいぶん元気そうじゃないか、弟よ」
「――たったいま元気じゃなくなったよ! なにやってんだよもう!」
 そこでようやく追いかけてきた二人の姿に気付いたらしく、エトゥリオルは顔を上げる。「なんていうか、すみません……」
「いや、謝らなくても。楽しそうなお兄さんじゃないか」
「似てない兄弟だな」
 口々に勝手なことをいう二人に、エイッティオ=ルル=ウィンニイはいまやっと気付いたようすで、大きく翼を広げて挨拶した。
「あ、どうもどうも、弟の上司の方です? こいつちゃんとお役に立ててます?」
 もちろんとうなずきながら、ハーヴェイはこんなに愛想のいい――というか調子のいいトゥトゥもなかなか珍しいなと思い、思っただけで口には出さなかった。ジンはいつものように、愛想にかける態度ではあったが、真面目な顔で即答した。「いつも助けられてる」
 それを聞いたエトゥリオルが、羽を膨らませて固まってしまう。弟の様子を見たエイッティオ=ルル=ウィンニイは、おお、こいつさては照れているなといって、大きく笑った。
 ハーヴェイもつられて、くすりと笑った。「――だけど、すごいな。噂をすれば影って、ほんとなんだなあ」
「あ、そういう格言、こっちにもありますよ」
 エイッティオ=ルル=ウィンニイはそういいながら、ははーんという顔をして、顎をさすった。
「エトゥリオルよ、職場のひとと仲がいいのは素晴らしいことだが、いい年をして身内の自慢話をするのは、あまり格好のいいことじゃないぜ?」
「なんで自慢だと思うんだよ。名前の話をしただけだよ」
「ああ、俺の美声は生まれつきだっていう話か」
「エイッティオ=ルル=ウィンニイは生後三日から口が減らないっていう話だよ! だいたい、僕の顔を見に来たんなら、なんでこんなところで歌ってるのさ……」
「それはお前が悪い」
 断言されて、エトゥリオルがひるむ。エイッティオ=ルル=ウィンニイは真面目な顔になって、懇々と弟にいい諭した。
「弟よ、まめに知らせをよこすのはいいが、お前はいつも肝心なところが抜けている。肝心の住所が書いてなかったぞ」
「前もって連絡すればいいじゃないか」
「馬鹿だなあ、お前。いきなり来て驚かせるのがいいんじゃないか」
 きっぱりといって、エイッティオ=ルル=ウィンニイは翼を振る。「まあ、会社の場所はわかったから、そっちに行ってみるつもりだったんだけどな。トラムに乗り遅れて、着いたのが夕方だったんだよ。いちおう会社の前までは行ってみたんだが、どうも終業時間は過ぎてるようだったし」
 ひとまずどこかに泊まって、明日にでも出なおすつもりで、人通りの多いほうに飛んできたのだと、エイッティオ=ルル=ウィンニイはいった。
「だけど、ここの前を通りかかったら、なんだか楽しそうなことをやってるし、受付で訊いたら、飛び入りでもいいっていうから、これは俺の出番だろうと思ったのさ。まさかお前がいるとは思わなかったが」
 これも血の絆というやつだろうかなあといって、エイッティオ=ルル=ウィンニイはうんうんとうなずいた。
 エトゥリオルが、がっくりとうなだれる。「なんていうか、色々とすみません……」
「だから、別に謝らなくても」
 エトゥリオルのようすが珍しくて、ハーヴェイは笑った。「せっかくだから、君、明日は仕事休んで、お兄さんと一緒にあちこち見物して回ったら? まだあんまりこっちの観光もしてないんだろ」
「いえ、そういうわけにはいきません」
 エトゥリオルがきっぱりと首を振るのに、エイッティオ=ルル=ウィンニイが残念そうな顔をする。「なんだ、真面目なやつだなあ」
「っていうか、いやです」
「弟よ!?」
「仲がいいなあ」
 笑って、ハーヴェイは首をかしげた。「ええと――エイッティオ=ルル=ウィンニイ?」
 呼びかけると、エイッティオ=ルル=ウィンニイは面白がるような顔をした。
「はいはい、なんでしょう」
「まだ宿が見つかってないんだったら、社員寮に泊まられたらいいですよ。どんなところで弟さんが暮らしてるのか、一度見ておかれたら安心でしょう。許可、取っておきます」
「おお、ありがとうございます!」
 嬉しそうにいって、エイッティオ=ルル=ウィンニイはエトゥリオルの背中を抱く。「弟よ、今夜は久々に語り明かそうじゃないか!」
「いやだよ、明日も仕事なのに」
 げんなりしたようすで、エトゥリオルがうなだれる。エイッティオ=ルル=ウィンニイは気にした様子もなく、弟の背中をばんばん叩いた。


   ※  ※  ※


 車を停めて、二人を寮の前でおろしてから、ジンとハーヴェイはそのまま社屋に戻った。無理をして時間を作りはしたけれど、ふたりとも仕事は山積している。
 日はとうに落ちているけれど、支社の廊下は浩々と明るい。部署によっては遠方の取引先や空港と連絡を取る都合から、深夜まで交代で人が詰めている。
「いやー、リオはあんな顔もするんだなあ。すごいな、家族って」
 ハーヴェイが感慨深げにいうのに、ジンはうなずいた。その顔を覗き込んできて、ハーヴェイは笑う。「お前、羨ましそうな顔してるぜ」
「そうか?」
 自分の顔を手でこすって、ジンは苦笑した。「……そうだな。たしかに、羨ましいな」
 ハーヴェイは目を丸くして、足を止めた。
 つられて立ち止まったジンが、怪訝な視線を向けると、ハーヴェイは感慨深げにため息をついた。
「お前、変わってないようで、やっぱり変わったよなあ。十年って長いな」
「うるさいな。お互い様だろう」
 顔をしかめて、ジンは手を振った。気にするようすもなく、ハーヴェイはにやりと笑う。「リオは、元気が出たようじゃないか」
「――落ち込んでたの、わかったか」
「そりゃ、わかるよ。お前なあ、耳タコだと思うけど、もっとなんでも気楽にやれよ。ユーモアって大事なんだぜ? リオも真面目なんだから、二人とも真面目くさった顔を突き合わせてたら、息抜きってもんができないだろう」
 しかつめらしい顔で、ハーヴェイがいう。ジンは憮然としながらも、うなずいた。「アンドリューからも言われた」
「まあ、気の利いたことをいうお前は気色悪いけどな」
「どっちだよ……」
 ぼやいて、ジンは窓に視線を投げる。そこからちょうど、寮の灯りが見えている。
 ふと、ジンは微笑んだ。いまごろは兄弟で、また騒々しく喧嘩の続きをしているだろうか。


   ※  ※  ※


 エイッティオ=ルル=ウィンニイはなかなか眠ろうとしなかった。眠る姿勢で寝床に座ったまま、ひっきりなしに弟に話しかける。まるで合宿中の学生のようなテンションだ。
「いやあ、それにしてもこんなところで働いてるっていうから、心配してたけど、エイリアンにしてはなかなか、気のいい連中みたいじゃないか」
 エトゥリオルはむっとして口をはさみかけたが、エイッティオ=ルル=ウィンニイは慣れた呼吸で先を封じた。「いい勤め先が見つかってよかったなあ、お前」
 しみじみした口調だった。
「――うん」
 素直にうなずいて、エトゥリオルは窓の外に視線を向けた。ここからカンパニーの社屋が見える。まだ窓の奥に、照明がのぞいている。
 ジンは仕事に戻って行った。
 本当は忙しいはずなのに、市民コンサートを口実に、時間を取ってくれた。たぶん、エトゥリオルが落ち込んでいたのを気にして。
 その気遣いが嬉しかったけれど、それ以上に、申し訳なかった。まだ戦力にならない自分がくやしくもあった。
「あの赤毛のほう、俺の名前、きっちり呼んだなあ。もうちょっとで噛みそうだったけど」
 エイッティオ=ルル=ウィンニイは、上機嫌な調子でそういった。
 エトゥリオルは自分の羽をひっぱって、ちょっとためらってから、いった。「仕方ないんだよ――だいたい、喉のつくりが違うんだから」
「知ってる」エイッティオ=ルル=ウィンニイはあっさりうなずく。「それなのに頑張って発音したから、いいやつそうだなと思ったんだよ」
 エトゥリオルは、とっさに反応に困った。困って、いった。
「――そんなにいちいち心配してくれなくていいよ」
「お、生意気いうようになったなあ。昔は俺が会いに行くたびに、足元をちょろちょろつきまとって、べったりへばりついてきてたのに」
「そんなチビの頃の話なんか、不可抗力だろ」
 嘴を下げて、エトゥリオルは憮然とする。エイッティオ=ルル=ウィンニイは笑って聞き流した。
「お前、あいつらの会社で何してんの」
 エトゥリオルは答えるのを、わずかにためらった。前に送ったメールのなかでも、仕事の中身はぼかしていたのだった。
 けれど結局、エトゥリオルは答えた。
「機械をつくる仕事」
「機械、ね」
 エイッティオ=ルル=ウィンニイは繰り返した。その声に、皮肉の響きはなかったけれど、エトゥリオルは逡巡した。いっときためらってから、付け足した。「飛行機とか。――まだ、作ったことないけど」
 兄がどういう反応をするか、エトゥリオルは固唾をのんで待った。エイッティオ=ルル=ウィンニイの顔を見られずに、背を向けて窓の方を向いたまま、じっと黙っていた。
「飛行機か」
 エイッティオ=ルル=ウィンニイのあいづちは、あっさりしたものだった。その声には、批難の調子は感じとれない。
 エトゥリオルはいっときそのままじっとしていたけれど、結局、がまんできずに兄のほうを振り返った。
「――反対する?」
「なんで?」
 エイッティオ=ルル=ウィンニイはそういって、笑い飛ばした。「でかいものを作るのって、面白そうじゃないか」
 またいっとき黙り込んで、エトゥリオルは翼をぴくぴくさせた。
「――怒るかと思った」
 エイッティオ=ルル=ウィンニイは、小さく首をかしげた。それからふっと、真面目な調子でいった。「まあ、世間の風当たりは強いよな」
 それでも、だからやめろとは、エイッティオ=ルル=ウィンニイはいわなかった。そのかわりに翼を伸ばして、エトゥリオルの背中を、軽く叩いた。
「頑張れ」
「――うん」
 それきり、エイッティオ=ルル=ウィンニイは話すのをやめた。
 兄がほんとうに眠ってしまったのか、寝た振りをしているのか、エトゥリオルにはわからなかった。
 そのままいっとき眠ろうとせずに、エトゥリオルは窓の外を見ていた。
 自動車が裏手の道を通りかかるらしい、かすかな走行音がする。夜行性の鳥の羽ばたきが、窓の外を横切って行った。





 ハーヴェイがジンと知り合ったのは、大学の教養課程でのことだ。
 ジンは周囲から浮きに浮いていた。飛び級を重ねて入学したのはハーヴェイ自身も同じことだったが、東洋人は若く見られるから、ジンは講堂の中でひとりだけ、まるきり子どものように見えた。それでいて優秀なのは飛びきりだったから、よく目立ったし、人の妬みも買った。
 似たりよったりの状況にあったハーヴェイのほうはというと、社交というものに心血を注ぐ父親を見て育ったこともあって、人の嫉妬をかわしてそつなく振る舞うことに慣れていた。
 けれど、ジンはそうではないようだった。言葉も文化も違うところからひとりでやってきたためか、あるいは生来の性分か、とにかく口数が少なく、愛想がない。それで面白いように敵を作っていた。
 もっとも、本人は向けられる悪意にも素知らぬ顔をしていたから、やはり口下手なのはもとからの性分で、その手のやっかみには慣れていたのかもしれない。
 つるむようになったのは、ハーヴェイの起こした気まぐれだ。年の近い同期生が少なかったこともあるが、あまりにも周囲と衝突を起こすので、見ているうちにだんだん面白くなってきた。本人は他人に興味のないようすで、積極的に関わろうともしていないのに、周りのほうでほうっておかない。しょっちゅう絡まれて、そうなるとうまくあしらえずに衝突する。それで、ついおせっかいを焼いて仲裁をするくせがついた。
 話す機会が増えてわかったのは、ジンが馬鹿だということだ。
 適当に答えておけばいい場面で嘘がつけない。そのくせ、いわなくていいことはいう。愛想笑いができない。不機嫌になればすぐ顔に出る。融通がきかず、人の話を真に受けすぎる。
 要は、真面目すぎるのだ。それで馬鹿を見る。
 そのよく出来たおつむを、もうちょっと別のことにも使ったらどうだと、三日にいっぺんは思った。二度に一度は本人に向かっていったが、ジンは面倒くさそうな顔をするだけで、一向に態度を改めなかった。そうやって周りとぶつかってばかりいるほうが、よほど面倒だろうに。
 馬鹿だ馬鹿だと思ってはいたが、その馬鹿さに救われていたのが自分のほうだと気付いたのは、卒業してメディカル・スクールに進んだ後、会う機会も少なくなってからのことだ。


   ※  ※  ※


 O&Wカンパニーの社屋は広い。
 従業員三百人規模の会社といえば、地球でなら珍しくもなんともないが、ヴェドにそれだけの社員を置いている企業は、指折り数えるほどしかない。そのO&Wの社屋には、もしここが地球の大都市圏であれば、千人かそこらは詰めているような、尋常でない広さがある。条例によって高層ビルは作れないから、そのぶん横にだだっ広い。
 そうした空間の余裕は、O&Wに限ったことではなく、おおむねどの企業も、ゆったりとしたオフィスを持っている。これはマルゴ・トアフのある地方が、もともとトゥトゥにとってそれほど魅力的な土地柄でなかったというのもあるが、あるいは彼らが土地に関して気前がいいことの、ひとつの証左でもあるかもしれない。
 トゥトゥは旅が好きなだけではなく、移住も気楽にどんどんやる。気に入らない土地に、無理をしてまで住み続けたりはしない。ナワバリ意識がそれほど強くないのは、どこにいってもともかく生きてはいける、彼らの強靭さに由来するものかもしれない。トゥトゥは生物として、強い種族だ。地球人類とは比べものにならないほど。
 その気前のいい彼らのおかげでだだっ広い社屋の、ゆったりとした廊下を、ハーヴェイは足早に歩く。来客を出迎えるためにロビーまでいったら、相手の姿がなかったのだ。
 同僚とぶつかりそうになりながら角を曲がったところで、ハーヴェイはほっと息をついた。目当ての人物が、廊下の先を歩いていた。
 壮年の、風采のいいトゥトゥだ。西部の伝統で、医師であることをしめす刺青を嘴の横に入れている。体格がよく、羽がつやつやしており、またそうした要素以上に、表情やしぐさの醸し出す印象が大きい。どっしりした歩き方には、まさしく威風堂々といった趣きがある。
 すれ違う社員が、トゥトゥも地球人もひとしく驚いて、振り返っている。注目を浴びながら、そんなことは気にも留めないように、医師は泰然と背筋を伸ばして歩いている。
 ハーヴェイは見習って自らも背筋を伸ばし、足を速めて医師に近づいた。
「ロビーにお迎えに上がったらお姿がないので、慌てました」
 医師は足を止めて、じろりとハーヴェイをにらんだ。
「出迎えはいらんといったつもりだが。こんな場所で道に迷うほど、耄碌(もうろく)してはおらん」
 その声は太く、眼光は鋭かった。「あんた方はそれが礼儀というが。それでは礼儀なんだか、ひとを馬鹿にしとるんだか、ちっともわからん」
 苦笑を噛み殺して、ハーヴェイは頭を下げる。「お気を悪くされたなら、申し訳ありません」
 医師は一拍ののちに眼を細めて、嘴を上に向けた。笑ったのだとハーヴェイが気付いたのは、少し遅れてからだった。
「いや。こちらも大人げのないことをいった。――あんたが連絡をくれた医師だな。ギイ=ギイだ」
「ハーヴェイ・トラストです。――遠くから、ありがとうございます」
 名乗り返して、ハーヴェイは医師の横を歩く。背後に従うように歩かれるのが、トゥトゥにとってはあまり気持ちのいい習慣でないというのは、ハーヴェイも知っていた。
 医師を応接室に通して、ハーヴェイはあらためて礼をいった。「――感謝します。これまでなかなか、ここまで足を運んでくださる方がみつからなくて」
 ハーヴェイは当然ながら、地球人を相手にした医師資格しか持たない。彼も前任者も、そのことに危機感を抱きつつも、トゥトゥの医療を本格的に学ぶ時間までは取れずにいた。日々の業務に追われる中で、合間に時間を作ってトゥトゥの医学書や文献に目を通すのがせいぜいだ。
 中央医療センターの医師たちも、その点は似たようなものだ。おかげでこれまでずっと、トゥトゥの従業員には、助成を出してほかの町で健康診断を受けてもらうことしかできなかった。
「ですが、あなたのような高名な方においでいただけるとは、正直なところ、思っていませんでした」
 ハーヴェイは世辞でも追従でもなく、真面目にいった。ギイ=ギイは名の知れた医師だ。彼の論文を、ハーヴェイはいくつも読んだことがある。
 腕のいい医者であればもちろん助かるが、ギイ=ギイのように名の知れ渡った大御所が、まさか自ら乗りこんでくるとは思わなかった。
 なぜだろうと、ハーヴェイは内心で首をかしげていた。ここは救急医療の現場でもなければ、難しい病気を抱えた患者が大勢いる場所というのでもない。さしあたって求めていたのは、健康診断医だ。報酬も破格というほどではないし、異星人嫌いのトゥトゥもまだ多い中で、地球系企業から引き受ける仕事が、たいした名誉になるとも思えなかった。
「――先日、トラムを利用した」
 医師は出された茶のにおいを嗅ぎながら、おもむろにいった。話の転換についてゆけないハーヴェイを気にも留めず、ギイ=ギイは続ける。
「年は取りたくないものだ。昔ならさっさと自分で飛んでいたような距離だというのに――まあ、それはいい。乗り合わせた車両で、急患が出たのだ。テラ系の女だった。私の目の前で急に倒れて、意識はあったが、唇が真っ青になっておった。同じ車両に、テラ系の医者はおらなんだ」
 医師のかぎづめに力がこもっているのを、ハーヴェイは見た。湯呑みを割るのではないかと心配になるような手つきだった。
「幸いにも、大事には至らんかったようだが――その場に居合わせておきながら、何もできなんだ。どういう処置をするべきなのかもわからん、命の危険があるのかどうかも見分けがつかん。――この私が、だ」
 医師は湯呑をテーブルに叩きつけると、怨念のこもった口調でいった。「屈辱である」
 ハーヴェイは思わず口元をほころばせた。なるほどこれは、噂にたがわない立派な人物なのだろうと思った。
 医師はいっときそのまま不機嫌そうに押し黙っていたが、やがて煮えたぎるような口調でいった。
「空いた時間に、そちらの職分の邪魔にならん範囲でけっこうだ。応急処置なりと、ご教示賜りたい」
 いい終えて、医師はじっとハーヴェイを見つめた。
 この眼を知っている、とハーヴェイは思った。馬鹿がつくほど真面目で融通のきかない人間の眼。専門分野のうちで自分の知らないことのあるのが許せない、頑固者の眼だ。
 破願して、ハーヴェイは頭を下げた。
「――こちらこそ、勉強させてください」


   ※  ※  ※


 エトゥリオルは出勤して廊下にジンの顔を見つけるなり、恐縮しきって頭を下げた。
「昨日はすみません……」
 並んで歩きながら、ジンは首を振る。「いい兄貴じゃないか」
「――はい」
 エトゥリオルは素直にうなずいた。ジンが意外そうな顔をしたことに、エトゥリオルは気付かない。うつむいて歩きながら、話を続けた。「昨日は、兄がいつまでも親のすねをかじっているようなことをいいましたけど――本当は、そういうふりをして、僕の様子を見に来てくれていたんです」
 エトゥリオルはいいながら、翼をわずかに動かす。
「僕がこうだから……心配してくれてるんです。過保護すぎるって、よくひとから笑われるんですけど」
「――いいな」
 微笑んで、ジンはいう。エトゥリオルは反応に困って、首をかしげた。
 設計部のフロアに辿りつくと、打ち合わせ用の机の上に、アンドリューが手足を伸ばして寝こけていた。エトゥリオルは困惑して、隣の上司の顔を見上げる。そこで、ジンの目元の隈に気付いた。
 寮にも帰らずに、徹夜で働いていたのではないか。
 エトゥリオルは反射的に、謝ろうとした。けれどそれを遮るようなタイミングで、ジンがぽつりといった。「俺には君たちが、羨ましい」
 その眼は、どこか遠くを見ていた。
 いつだか家族と不仲だといっていた、ジンの言葉を、エトゥリオルは思いだした。家族構成をたしかめたことはなかったが、兄弟がいるのだろうか。彼らはトゥトゥと違って、兄弟と一緒に育つことが多いと聞いていた。
 エトゥリオルは訊くのをためらい、ジンもすぐには話を続けなかった。
 静かなオフィスに、機械の作動音と、アンドリューの鼾だけが響いている。いっときして、ようやくジンが口を開いた。
「俺はとにかく、自分の家族が好きになれなくてな。それでさっさと奨学金をもらって留学したし――最初の就職先も、故郷から少しでも遠い場所をと思って選んだんだ。あとからO&Wに移ったのも、先々こっちに来れるっていう条件があったからだった」
 微苦笑を浮かべながら、ジンはいった。それは、過去の自分の幼さを笑っているように、エトゥリオルの眼にはうつった。
「いい家族じゃなかったが、俺のほうにも問題があった。家族に愛される努力も、愛する努力もしなかったしな。それに、昔から人間自体が、どうも好きになれなくて――報道で見聞きする君たちの話にやたらに憧れたのも、そういうことがあったからかもしれない」
 ジンは自分のデスクについて、書類をディスプレイに表示させたが、ふと思い直したように、その表示を図面に切り替えた。それはいつか見た、航空機の図面だった。
「俺は勝手に、君らの姿に理想を重ねてたんだろう。だが実際に来てみれば、トゥトゥにだって、いいやつもいやなやつもいるし――考えてみれば、そんなのは当たり前のことなんだけどな。どこに行ったって、俺自身の問題が解決しないかぎりは、同じことだ」
 そこまでいって、ジンは視線を図面から外し、エトゥリオルのほうに向きなおった。
「俺はどうも、ひとの心の機微っていうものが――いや、そういうことじゃないな」
 嘆息をついて、ジンは一度、言葉を切った。それから頭を下げた。「この間は、すまなかった」
 エトゥリオルはびっくりして、羽毛を逆立てた。すぐに言葉が出てこなかった。
「――ミスをしたのは僕です」
 いって、エトゥリオルはうつむいた。昨夜、おそらくは徹夜で片付けたのだろう作業だって、自分の失敗のフォローがなければ、おそらくもう少し早く済んだ。
「そういうことじゃない。俺の思い込みで、君を傷つけた」
 エトゥリオルは言葉につまった。違う、と思った。ジンが何かをしたわけじゃない。勝手に傷ついたのは、自分のほうだ。勝手にひがんで――
 そういおうと思った。けれど言葉は喉の奥につっかえて、どうしても出てこなかった。
「――屋上、好きなんです」
 そのかわりに、エトゥリオルはいった。「昔、小さいころに一度だけ、エイッティオ=ルル=ウィンニイの背中に乗せてもらって、空を飛んだことがあります」
 そうか、とジンはいった。それから迷って、何かをいいかけた。
 そのときほかのスタッフが、そろってオフィスに入ってきて、ジンは言葉を飲み込んだ。もう始業時間だ。
 エトゥリオルは頭を下げて、端末に向き直った。今度こそ自分に任された仕事を、きっちりやりとげなくてはならない。


『覚えてるとは思うけど、午後から健康診断だからね』
 ハーヴェイから念押しの内線があったのは、昼休みの直前のことだ。
 食事を終えて廊下を歩きながら、エトゥリオルの足取りは重かった。医者というものに、あまりいい思い出がない。
 健康診断。ふしぎな制度だと、エトゥリオルは思う。トゥトゥの企業ではふつう、そういうことはやらない。
「失礼します」
 医務室に入るのは、初めてだった。その隣の、ハーヴェイの事務室になら行ったことがあるが、入社してからこっち、怪我も病気もしていない。
 漠然と想像していたより、医務室は広かった。たくさんの機械が並んでいるのは、今日が健康診断の日だからだろうか、それともいつもこうなのだろうか。
 机の前に、立派な風采のトゥトゥが座っている。その嘴に医師であることを示す刺青があるのを見て、エトゥリオルは足を止めた。先に入っていたトゥトゥの作業員が、医師と向かい合って問診を受けている。
「入って入って」
 ハーヴェイに手招きされて、エトゥリオルはおっかなびっくり中に足を踏み入れる。どうやら基本的な計測はハーヴェイと、助手らしいもうひとりの地球人が担当して、そのあとにトゥトゥの医師が、問診をしているようだった。
 エトゥリオルは血を抜かれ、よくわからない機械に乗せられて、何だか見当もつかない数値を計られた。いつか自分の骨格の画像を見せられたときのことを思い出して、つい顔がひきつる。
「うん、あとは問診だけだね。――リオ? そんなに緊張しなくてもいいのに」
 ハーヴェイに笑われて、エトゥリオルはなんとか微笑みを返した。
「すみません、こういうの慣れなくて……」
 医師の前に座るとき、エトゥリオルはやっぱり緊張した。どうしても落ち着きなく身じろぎしてしまう。
 医師は、なぜかハーヴェイが差し出すカルテも受け取らずに、いっときエトゥリオルの顔を凝視していた。エトゥリオルがますます委縮して小さくなるのを、じっと見つめたあとで、おもむろに医師は口を開いた。
「リオというのが、君の名前かね」
 鋭い声だった。エトゥリオルはびくりとして、羽毛を逆立てた。ハーヴェイが医師の隣で、しまったという顔をした。
 一瞬、嘘をつこうかと思ったが、エトゥリオルはすぐに思い直した。ハーヴェイの手のカルテが視界に入ったからだ。どうせすぐにばれる。
「――エトゥリオルです」
 医師はゆっくりと瞬きをして、顎を引いた。その仕草から漏れだす怒りの気配に、エトゥリオルはとっさにその場から逃げ出したくなった。けれど医師は彼にではなく、ハーヴェイのほうを振り返って、怒声を発した。
「即刻やめてもらいたい。そちらの文化だか伝統だかを悪くいうのは本意ではないが、トゥトゥにはトゥトゥの流儀というものがある」
「――僕のほうから頼んだんです!」
 エトゥリオルは慌てて叫んだ。医師は首を戻して、じろりとエトゥリオルをにらむと、無言で顎をそらして、説明を求めた。
 しどろもどろになって、エトゥリオルは説明した。テラ系の友人が出来て、彼らのニックネームの習慣が羨ましかったこと、彼らと親しくなりたかったこと。医師は押し黙ったまま、彼の言い分を最後まで聞いて、それからいった。
「こういうことは、君ひとりの問題ではない」
 もう怒鳴ってはいなかったが、医師の声はまだあきらかに怒っていた。エトゥリオルは体を縮める。
「君がそれでよくとも、彼らがそれに慣れて、当たり前のように感じるようになっては、ほかのトゥトゥが迷惑をする。悪くすれば、無用の軋轢を生むかもしれん。違うかね」
 ぴしゃりといわれて、エトゥリオルはうつむく。謝るべきだという自分と、謝ってはいけないという自分が、胸の中でせめぎ合っていた。
 反論が喉のところまでせり上がっていた。自らの名前を誇り重んじるトゥトゥの伝統が、悪いとはいわない。だけどそれなら、自分を誇れないトゥトゥはどうしたらいい。
 黙り込んだエトゥリオルの代わりに、ハーヴェイが頭を下げた。
「僕らが安易でした。気をつけます」
 エトゥリオルはぱっと顔を上げた。ハーヴェイと眼があう。彼は首を振って、申し訳なさそうな顔をした。エトゥリオルにもわかっていた。医師のいうことが正論であることも、この頑固な医師の前では、とりあえず謝っておいたほうがいいのだということも。
 医師は首を振って、気をとりなおしたように問診を始めた。
 自分の震えるかぎづめを見つめたまま、エトゥリオルは質問に答えた。頭の中を言い訳めいた言葉がぐるぐると回っていた。健康に関していくつものことを訊かれたが、エトゥリオルは自分が何を答えているのか、よくわかってもいなかった。


   ※  ※  ※


 ハーヴェイはほっと息をついて、計測器具を片付け始めた。半日かからずに、全員の健康診断が終わった。トゥトゥの社員の数は、まだそれほど多くない。
「――やれ。すっかり嫌われてしまったな」
 ひと仕事おえたギイ=ギイが、ふっと、そんなふうにこぼした。見れば、苦笑している。その横顔には、もう怒りの気配はなかった。
「エトゥリオルのことですか」
 ハーヴェイが訊くと、医師はうなずいて、軽く羽を広げた。
「委縮させたかったわけではないのだが」
 ギイ=ギイは渋面になった。その表情に、よく言動を誤解される友人のことを思い出して、ハーヴェイは思わず微笑んだ。「ええ、わかります」
 エトゥリオルは問診が終わると、ほとんど逃げ出すように診察室を出て行った。ハーヴェイは罪悪感を覚える。自分の不注意のせいで、気の毒なことをしてしまった。
「たかだか呼び名の問題と、あんたがたは思うかもしれんが、そうしたところから、自意識というものは変容するのだ」
 ギイ=ギイは重ねていう。ハーヴェイはうなずいて、もう一度詫びた。
「そういえば、すぐお分かりになったんですね」
 リオというのが彼の本名ではないと、カルテを見る前に、医師は看破した。ハーヴェイが訊くと、医師は首を振った。
「医療関係者のあいだでは、有名な子だ」
 その答えに、ハーヴェイは驚いた。医師は窓の外を見て、つぶやくようにいった。「飛べないトゥトゥというのは、そう多くはないのだ」
 ハーヴェイは返答に迷った。先天性な欠陥で飛べない子どもが、近年、徐々に増えているという報道記事を、眼にしたことがあったからだ。
 ギイ=ギイは彼の戸惑いを察したように、ふと神妙な顔つきになった。
「ほんの百年ほど前には、早いうちに飛べないと分かれば、その子どもは殺されていた――野蛮な話だと思うかね」
 ハーヴェイはうなずきも、首を振りもしなかった。
 トゥトゥの文化や社会性は、むしろ地球のそれよりも、よほど洗練されている。科学技術にしたところで、総合すれば地球の方がいくらか進んでいるにせよ、そう極端に差があるわけではない。
 これほどまでに進んだ文明をもつ種族が、飛べなければ子どもを殺してしまうという風習を、つい最近まで残していたというのは、ハーヴェイには納得のしがたい話だった。野生の鳥ならば、そういうものだろうが――自力で生きられない雛の面倒を、いつまでも見続ける親鳥はいない。
「僕らの故郷にも、かつて似たような風習がありました。僕らには、あなた方を批難する権利はないと思います」
 ハーヴェイはためらって、言葉を足した。「ただ、エトゥリオルを見ていると……飛べないというだけで、なぜそこまでしなくてはならないのか、とは思います」
 ギイ=ギイは眼を金色に光らせて、うなずいた。
「そこに、どうもあんたがたの誤解があるようだ。飛べなければトゥトゥには生きている価値がないというのではない――そもそも飛べなければ、普通のトゥトゥは、弱って死んでしまうものなのだ」
 医師はそういって、かぎづめの手を組んだ。「三歳から四歳のあたりで、トゥトゥの体は作り変わる。代謝量が変わり、内臓の大きさが変わり、筋肉のつき方が変わる。五歳以降のトゥトゥの体は、そもそも飛ぶことを前提にできておる。翼に怪我でもしてひと月も飛ばないでおれば、すっかり内臓が委縮して、弱って死んでしまう……」
 医師は言葉を切って、翼を鳴らした。「それが長年の常識だった――いや、いまでもほとんどの子が、そうなのだ」
 ギイ=ギイはため息とともに続けた。まず育ちあがらんとわかっている子を、そうとわかって育てろというのもまた、親にとっては酷な話だと。
「だが、近年になって、彼のような子が、ちらほら出てきた――飛べないまま育って、そのまま成人するトゥトゥが」
 医師はいって、カルテを眺めた。いたって健康そうにしているにもかかわらず、トゥトゥの標準的な数値を逸脱した、エトゥリオルの診断結果を。
「――勉強不足でした」
 ハーヴェイは恥じ入った。折に触れて、トゥトゥの医学に関する文献も、少しずつ読んできたつもりだった。それなのに肝心なことを知らなかった。
 無理もない、あまり書きたがるもののいないことがらだからと、ギイ=ギイはいった。
「報道はいつも、彼らのような子の増加を、トゥトゥの退化だという。文明に浴しすぎて飛べなくなった、発展の落とす影だと」
 ギイ=ギイは苦々しくいって、首を振る。「そういう側面も、あるかもわからん。だが、見ようによっては、進化なのかもしれんのだ――トゥトゥが樹上で生きることを捨てて、地上に住みかを構えるようになってから、何百万年も経ったいまになって、ようやく、空を飛ばずとも生きられる子が出てきた」
 ギイ=ギイは半ばひとりごとのように続けた。
「だからこそ、彼のようなトゥトゥには、矜持を持ってもらいたい。――トゥトゥの尊厳を、ないがしろにしてもらいたくはないのだ」




 ――仁、仁。ちょっと聞いてちょうだい。
 母親の、べっとりと耳に貼りつくような声に、仁は顔をしかめた。
 彼の返事を待たずに、母親は話しはじめる。いつものことだった。
 ――義姉さんったら、ひどいこというのよ。苦労知らずのお嬢様は金銭感覚も違うわねですって――わたしはただ周りに恥ずかしくないようにって……
 母親の口から滔々と流れ出る際限のない不平は、たわいのない愚痴をよそおっていても、にじむ毒の強さが、いつも彼を閉口させる。
 他人への批難以外の彼女の言葉を、仁はひとつも覚えていない。
 彼女の話の中では、母はいつも善良な被害者で、そのほかの人間はすべて、彼女へいわれなき悪意をぶつけてくる、恐ろしい怪物だった。
 わずかでも反論すれば、ますます歯止めが利かなくなる。自分で自分の言葉に興奮して泣き叫ぶことまであった。まあ、なんてことをいうの、どうしてそんなひどい子になったんだろう――そうよ、だいたいあんたは昔っから人の気持ちっていうものがわからない子だった――
 いつからか、聞き流すことばかりがうまくなった。母はあいづちさえ必要としていなかった。話しているあいだ、反論しない誰かが目の前にいさえすれば満足なのだ。
 人形でも目の前に置いて、それに向かって気のすむまで話していればいい。
 一度、口に出していったことがある。母親はヒステリーを起こして暴れ、彼は三針縫う傷を腕に負って、家の中は嵐に巻き込まれたような在り様になった。
 母の不平は、義姉のことから彼の担任の女性教師へとうつり、それからメディアに近ごろよく言動を取りあげられる女性議員に向かった。彼女の悪意は、わけても世の女という女に向いているようだった。その悪意が毒になって自分の体にしみこんでいく錯覚を、この頃よく覚えた。
 ――母さん、これ、見といて。
 姉の声がして、彼は顔を上げる。高校の制服を着崩した姉が、リビングの端末に、何かの書類を表示させているところだった。
 母はそれに返事をするどころか、一瞥もくれなかった。姉に話しかけられたことなどなかったように、まったく変わらないトーンで、彼に向かって話し続ける。
 ――そりゃあね、わたしも気の毒とは思うわよ、義兄さんのところは経営が大変だっていうし――だからって、そんないい方することないじゃない――
 彼はもう母親のことを見てはいなかった。その背後に立っている、姉を見つめていた。
 姉もまた、じっと彼を見ていた。恐ろしいほど感情のない眼つきだった。
 彼女がわかりやすい嫉妬や憎悪の色さえ、表情に出さなくなったのは、いつごろからだっただろう。
 ふっと踵を返した姉は、軽い足音を立てて、階段を上っていく。階上に姿を消す直前、一瞬だけ、その顔が振り返った。
 姉はうっすらと、微笑んでいた。敵意も、同情も、失望も、なにひとつそこには読みとれなかった。


 背中にいやな汗を掻いていた。
 ジンは呻いて、身じろぎをした。腕から伸びる点滴用のチューブがひきつれる。大げさなことだ――思わず苦笑が漏れる。中身はただの栄養剤だというのに、点滴に繋がれているというだけで、なにか自分が重病人にでもなったかのような気がする。
 息をつくだけで、体の節々が痛んだ。眼に汗が入る。白々とした天井が、ぼやけて滲む。
 いやに古い夢を見たのは、熱があるせいだ。
 体を起こすと、医療用ロボットがカメラアイを点滅させて、警告を発してきた。医師も看護師もあまりやってこないが、彼の体調は別室でモニタされているはずだった。
 病室は静まりかえっている。静寂がストレスになるということを、ジンは久しぶりに思いだした。
 このごろでは、朝から鳥の鳴き声で目が覚めることが多かった。少し前に、寮の裏庭に植えてあった背の高い木に、エトゥリオルが巣箱を取りつけた。ジンが見守る前で、作業を終えたエトゥリオルが喉を震わせて声を立てると、空を舞っていた小鳥が、まっすぐに滑空してきて、そのまま中に入った。
 あの鳥は、まだ居ついているだろうか。
 視線をずらせば、その先には小さな窓がある。リハビリテーションセンターと同じ、嵌め殺しのものだ。
 防疫上の理由だとわかってはいたけれど、その開きもしない小さな窓を見ていると、つい、別のものを連想してしまう。精神病棟の、自殺防止のための窓。
 妙なことを考えるのは、体調のせいだ。
 ジンは無理やり思考を止めて、眼を閉じる。ずいぶんと眠っていたはずなのに、すぐに眠気がさして、意識が頼りなく揺れる。また楽しくもない夢を見るような予感がした。


  ※  ※  ※


 ジンが医療センターに搬送されて、丸二日になる。
 エトゥリオルは医務室の前で、ひとり、途方に暮れていた。ジンのようすが訊けないかと思って、仕事がひけてからハーヴェイに会いに来てみたのだが、あいにくと医務室は無人だった。
 代わりに出てきたのは円筒形の医療ロボットで、そいつは合成音声の英語のあとに続けて西部公用語(セルバ・ティグ)で、どうされましたかと彼にたずねた。
 エトゥリオルは返答に窮した。口ごもって、ロボットのカメラ=アイと見つめ合う。ロボットが質問をもう一度繰り返して、ようやくエトゥリオルは、ハーヴェイに会いにきたのだと、英語で伝えた。
 医療ロボットは胴体側面に文章を表示させて、同時に音声でもその内容を読みあげた。医師不在につき、軽度の負傷については医療ロボットで対応中――緊急時は中央医療センターへ通報のこと。
 ご丁寧に通報ボタンまで表示させて、医療ロボットは所在なさげに動きを止めた。エトゥリオルの返事を待っているらしかった。
 エトゥリオルのほうは、もっと所在がなかった。どうやってこのロボットに引き取ってもらえばいいのかわからない。
 一体とひとりはいっとき途方にくれて、見つめ合ったまま立ちつくした。
「――リオ?」
 呼ばれて振り返ると、当のハーヴェイが廊下を歩いてくるところだった。ほっとしたようすのエトゥリオルと、足元の医療ロボットを見くらべて、ハーヴェイは笑った。
「ああ――医療センターに行ってたんだ。医者の数が足りないもんだから、未知の病気が見つかると、僕みたいな産業医までいちいち呼びつけられる」
 患者がうちの社員だからっていうわけじゃなくてねと、ハーヴェイは苦笑した。口調はいつものように明るくても、その顔が疲れていることに、エトゥリオルは遅れて気がついた。
「原因、まだわからないんですか」
「うん――これじゃないかっていう目星はついてきたんだけど、その先がなかなかね。……中でちょっと話していかないか。ジンの様子を聞きにきたんだろ」
 いって、ハーヴェイは医療ロボットの胴体に触れる。パネルに何かのコードを打ち込むと、ロボットはカメラ=アイを点滅させて、おとなしく引っ込んでいった。
 事務室に入ると、ハーヴェイはエトゥリオルに椅子をすすめて、自分は一度デスクに向かって、端末を立ち上げた。仕事が溜まっているのだろう。ざっと目を通してから、急ぐ案件はなかったのか、ディスプレイから視線を外した。
 落ち着かずに身じろぎしているエトゥリオルの様子をみて、ハーヴェイは笑ってみせる。
「そんなに心配しなくて大丈夫だよ。熱もそんなにすごく高いってわけじゃないし、症状自体は、大したことないんだ。治療法が見つかるよりも先に、自力で治しちまうんじゃないかな」
 エトゥリオルはじっと、ハーヴェイの眼を見た。その言葉を真に受けていいのか、それとも彼を安心させようとしてそういっているだけなのか、わからなかった。
「だいたいあいつは、たまに風邪くらい引いたほうがいいんだ。こんなことでもなけりゃ、自分の体も、機械か何かと思ってるようなやつだから」
「――でも、入院なんて」
 ああ、と納得したように、ハーヴェイはうなずく。「そうか、君らは入院なんていったら、もう生きるか死ぬかだものなあ」
 防疫といった概念自体が、トゥトゥにはなじまない。三日も閉じ込められて飛べずにいれば体調を崩す種族にとって、隔離という考え方はないのだ。
「本当に、大丈夫だよ。僕らはこっちの病原体については抗体をほとんどもたないから、たいしたことなくてもいちおう大事を取って、対抗手段が見つかるまで、なるべく感染が広がらないようにしてるだけなんだ。万が一にも重篤化したときに、薬の開発も何も間に合わなかったら、おおごとだからね」
 他にも何人か発症者が出ているけれど、いまのところ誰も、命にかかわるような重い症状はないと、ハーヴェイは説明した。
 話しながら微笑んではいたけれど、ハーヴェイのようすが、いつもとどこか違うような気がして、エトゥリオルは身じろぎをした。多忙で疲れているせいだろうか。
「だけど、まあ、隔離しても無駄になるかな」
 ふっと、ため息のように、ハーヴェイはいった。隈の浮いた目頭を揉んで、椅子に深く腰掛ける。「今日、また新しく感染者が出たそうだよ。まあ、このまま広がっちゃうだろうね」
「そんな……」
「――仕方ない部分なんだ。僕らはこの惑星にとって異物だし、自分たちの生まれ育った星を離れて暮らすっていうのは、そういうことだ」
 病気に罹って、そのたびに治して、抗体を作り上げていくしかないんだと、ハーヴェイはいった。旅行とでもいうならともかく、この先もずっとこの惑星で生きていくつもりなら、そうやって長い時間をかけて、適応していくしかないのだと。その話は、エトゥリオルにも理解できるような気がした。
「追いつかなくて死者が出ることもあるだろうけど――でも、それは本来、あたりまえのことだし、ね。へたに医療が進んだせいで、僕らは病気で死ぬっていうことから、遠ざかりすぎた」
 途中からは、ひとりごとのような口調だった。ハーヴェイは、ふっと、皮肉っぽく笑う。「出向組の連中には、僕がこんなこといってたなんて、教えないでくれよ。問題になっちまう。――何年かで地球に帰るつもりのやつらからしてみたら、そんなの医者の怠慢にしか聞こえないだろうし、たまった話じゃないだろうから」
 薄情だって叱られちまうといって、ハーヴェイはおどけてみせる。その顔も、声の調子も、たしかに笑っていたけれど、なぜかエトゥリオルには、彼が悲しんでいるように見えた。
「薄情だなんて」
 エトゥリオルが首を振ると、ハーヴェイは一瞬、ふっと影に落ち込むように、暗い眼をした。
「僕は薄情者さ。友人が病気で伏せっているときにまで、こんなことをいってるんだから」
 エトゥリオルはとっさに声を上げた。「ほんとうに薄情なひとだったら、そんな顔はしないと思います」
 いってしまってから、エトゥリオルは慌てて冠羽を揺らした。何をわかったようなことを、と自分で思った。
「――あの、すみません……僕」
 眼を丸くしているハーヴェイに、なにか言い訳をしようとして、エトゥリオルは口ごもった。
「いや――ありがとう」
 ハーヴェイはそういって、手のひらで顔をこすった。それからいっときして、ぽつりとつぶやいた。「なんだろうな、君にはどこか、話を聞いてもらいたくなるようなところがある……」
 ありがとう。もう一度いって、ハーヴェイは何度か目をしばたいた。エトゥリオルには、黙って首を振ることしかできなかった。


 ジンは大丈夫だよ。もし何か状況が変わったら、すぐ知らせるから。
 そういったハーヴェイは、少し仮眠をとったらまたセンターに戻るのだといった。
 心配する以外にできることが、驚くほど何もない。エトゥリオルは事務室を出て、とぼとぼと歩く。
 ジンが入院している医療センターへの行き方は、エトゥリオルにもなんとなくわかるが、面会は禁止といわれている。病原体を拾って持ち帰らないための措置だそうだ。
 エトゥリオルは肩を落として支社を出た。寮まではすぐだけれど、なんとなく一人の部屋に戻る気になれなくて、反対の方向に歩きだす。
 今日はちょっと風が強い。視線を上げて雲の流れをたしかめてから、エトゥリオルはふっと、不思議な気分になった。そういえば近ごろ、あまり空を見上げなくなった。
 マルゴ・トアフの街並みは、いつも驚くほどにぎやかだ。仕事帰りに食事をするもの、浮き立ったようすで買い物に出かけるもの、連れだってシアターに入ってゆくもの。ほかの町でも似たような光景は見られるが、トゥトゥは空から町を見下ろすから、看板も広告も、地上にはほとんど見られない。
 このごろエトゥリオルは、街中をとりとめもなく歩く習慣が身についた。賑わう中を歩いているだけで、なんとなく気が晴れるような気がする。
 エトゥリオルはふと気が向いて、初めての道に足を踏み入れた。メインストリートを逸れても、どの裏道にもそれなりの広さがあるし、それに、街灯が等間隔にきちんと整備されている。表示もあちこちにあって、道に迷う心配がない。
 いったいどこから運ばれてくるのか、土のにおいがしている。エトゥリオルは不思議に思って、あたりを見渡した。
 一般的なトゥトゥの町と違って、ここでは水や空気を通す特殊な樹脂で、地面を固めてある。地表にあまり土ぼこりが立たないのは、そのためだ。この町ではなにもかもが、歩いて暮らすひとびとにあわせて作られている。
「ねえ、ちょっと、そこの君」
 急に横合いから声がして、エトゥリオルは立ち止まった。聴き覚えのある声だった。
 振り向くと、塀の上に、テラ系の女性の顔が突き出していた。お下げからはみ出した金髪が風に踊って、あちらこちらに跳ねている。エトゥリオルは思い出した。いつか食堂で会った女性だ。レイチェル・ベイカー。
「僕、ですか?」
「そう。――きみ、ええと、エトゥリオル? 業務外で悪いんだけど、ちょっと手を貸してもらえないかしら。この風で、授粉前に花が落ちそうなのよ」
「あ、ええと――はい」
 素直に門に向かうと、塀の向こうには、畑が広がっていた。さきほどからの土のにおいは、これだったらしい。
 けっこうな広さがある。まだ種を植えられたばかりなのか、何も生えていない畝もあれば、採りごろを迎えて実の重さに耐えかねたように垂れる枝もある。女史の周囲では、農作業用ロボットが黙々と作業を進めていた。
 見れば彼女は手にビニールシートを持っている。エトゥリオルは駆け寄って、シートの一方を持った。
「助かるわ。この子たちだけじゃ追いつかなくて――ほんとうは、人間が手を貸さないでも勝手に育つ環境をつくるのが理想なんだけど、なかなか本職のようにはいかないわね」
 本職というのは、トゥトゥの農家のことだろう。ベイカー女史は日焼けした腕で、勢いよくシートを引いた。
 トゥトゥの農法は、地球のそれよりもずっと優れていると、女史は話した。地球では経済性ばかりを考えて、ひとつの土地で一斉に単一の作物をつくる農法が主流なのだと。
 それに対してトゥトゥは、かならず混栽をやる。その組み合わせが肝心で、一緒に植える作物同士や、周囲の生態系との相互の作用を緻密に把握することによって、農薬も化学肥料にもほぼ頼らずに土を肥やし、作物の育成を助け、病害を最低限に抑えてしまう。そういう技術は、地球でも研究はされているけれど、なかなか広がらないのだそうだ。
 一度計画を立てて、そのとおりに植えてさえしまえば、あとはひとの手をほとんどかけずに、安全性の高い作物が大量生産される。そういうトゥトゥのやり方を学んで向こうに伝えたいのだと、女史はいった。おいしい野菜を作ってみせると、前にいっていたけれど、それだけが目標ではないらしかった。
 作業の手を止めず、何度となく風にさえぎられながらの話だった。畑は、通りからのぞいたときの印象以上に広い。
「これだけぜんぶ、おひとりで管理されてるんですか?」
「いつもは三人なのよ。ひとりは交替で寮に帰して、もうひとりはちょうど出張中――あとは、この子たちね」
 いって、ベイカー女史は農作業ロボットたちを示した。さまざまな形の機械が働いている。いまは動いていないものも含めれば、かなりの数があった。
 はじめは話しながら手を動かしていたが、やがて作業に没頭して、黙りがちになった。
 それにしても、地道な作業だった。けれど、エトゥリオルは単純作業がきらいではない。頭を空にして、黙々と体を動かすのは、気持ちがいい。
 作業がひと段落するころ、自分をじっと見つめる女史の視線に気づいて、エトゥリオルは戸惑った。
「――あの、僕、なにか変なことをしましたか」
 女史は首を振って、にっこりと笑った。頬に泥がついていて、乱暴に手でぬぐったのか、筋になっている。
「あなた、トゥトゥにしては根気強いわ――珍しいタイプね」
 褒められて、エトゥリオルは困惑した。「そうですか?」
 ベイカー女史は、妙に嬉しそうにうなずいた。
「いいことよ」
 根気強い、という部分のことかとエトゥリオルは思ったが、女史は違うことをいっているらしかった。「変わりものっていうのは、重要な特質だわ」
 いって、女史はひとりでうんうんとうなずいている。
「――そう、でしょうか」
 あいまいに首をかしげたエトゥリオルに、女史はきっぱりとうなずく。
「大事なことよ。生物の群れとしては。――覆いはこんなもので大丈夫そうね。ちょっと温室で、お茶でもしていかない?」
 エトゥリオルはその誘いに乗った。
 女史の温室は、みごとなものだった。多様な作物が、のびのびと葉を茂らせている。背丈も葉の色つやも、そのあたりの畑ではなかなか見かけないような勢いだった。
 出された茶は、変わった味と香りをしていた。エトゥリオルが首をかしげると、ベイカー女史はがっかりしたように肩を落とす。「口にあわなかったかしら」
「いえ、おいしいです――初めて飲む味だったので、びっくりして」
「そうでしょう。ベイカー謹製、オリジナルブレンドよ――でもまあ、まだまだ改良の余地ありね。トゥトゥにも地球人にも美味しいものを、目下、模索中なのよね」
 いって、女史はにっこりと微笑んだ。
 一定のマイノリティを含むことが、群れ全体の生存確率を上げるというようなことを、レイチェル・ベイカーは滔々と語った。彼女が生物学者だという話を、エトゥリオルはようやく思い出した。
「――まあ、そんなふうにいうのは、強がりもちょっと、入ってるけどね。わたしもよく、変わりものっていわれるから」
 エトゥリオルはうなずきかけて、慌てて首を止めた。気を遣わなくてもいいのよといって、女史はくすくすと笑う。
「子どものころは、草木や動物とばっかりお話ししててねえ――まあ、小さい子どもなら、それもほほえましいで済むけど、あいにくと育っても、なかなか人間らしくならなくて」
 母親をずいぶん心配させたと、女史は笑って話した。
「大人になって、世間にあわせるということもそれなりに覚えたつもりだったけれど、でも、やっぱり駄目ね。こっちにきたら、自分がそれまでどれだけ無理してたのか、いやになるほどわかったわ」
 そういってから、ふっと、女史は真顔になった。「向こうでね、あなたのお仲間が鳥と話している映像を見たとき、すごく羨ましかった――それからわたしはずっと、ここに来たかったの。よく空想したわ。もし自分があの星で、トゥトゥとして生まれていたらどんなだっただろうなんて」
 懐かしむように目を細めて、女史は空を見上げる。温室のガラス張りの天井からは、星空がよく見える。
 まあ、そういうわけで、と女史はいった。
「ここまで来るような連中は、たいていご同類なのよね。まあ、あたりまえといえばそうなんだけど。地元で順風満帆に暮らしてたら、親類も友達もみんな捨てて、こんなおいそれと地球に帰れないような場所に移り住んだりなんて、なかなか思いきれないもの」
 そういうものかもしれないと、エトゥリオルは思った。自分がもし、当たり前に空を飛べる普通のトゥトゥだったら――たとえば恋人がいて、たくさんの友人がいたならば、この街で働こうとまでは思わなかったかもしれない。テラからヴェドにやってくるほどの距離ではないけれど、多くのトゥトゥにとって、マルゴ・トアフは縁遠い場所だ。
 だから、変わりものは大歓迎。そういって、女史は微笑む。
「だけど、ちょっと不思議な気もするのよ。ひとりひとりを見たら、わたしたちよりもトゥトゥのほうが、享楽的っていうか――失礼、言葉が悪くて申し訳ないんだけど、地道な苦労に耐えるとかって、好きじゃないように見えるのよ。でも歴史とか、社会全体のことを見たら、あなた方のほうが急な変化を嫌う傾向があって、わたしたちのほうがすぐ、短絡的に新しいものに飛びつくのよね」
 首をかしげて、ベイカー女史はいう。「社会学者の人たちが、とっくに論文でも書いてるかもしれないわね。こっちにきてから野菜の相手で毎日いそがしくて、すっかり報道なんか見なくなっちゃったわ」
「――いいですね」
 自分の口からとっさに言葉に、エトゥリオルは驚いた。女史が面白がるように首をかしげる。
「社会情勢に疎くなるのが?」
「ええと、うまく言えないんですけど……」
 考え考え、エトゥリオルは言葉を探す。「手で土に触って、天気と生き物を相手にする仕事が、かな」
「地に足のついた暮らし、っていうやつかしら」
 いって、ベイカー女史は笑う。「自分の仕事の成果が眼に見えるっていうのは、まあ、いいものね。そのかわり駄目なときも、はっきり眼に見えちゃうけど」
 そうかもしれないと、エトゥリオルは思った。
 すっかり暗くなった外を見て、ベイカー女史は肩をすくめた。「わたしは今日は、ここで泊まりこみ。あなたはそろそろ帰ったほうがいいんじゃないかしら?」
 いわれて、エトゥリオルも外を見た。たしかにもう遅い。寮には門限のたぐいはないが、地球人はトゥトゥよりも眠る時間が長いから、夜中にはなるべく大きな物音を立てないようにといわれている。
 女史は温室の出口までエトゥリオルを見送りながら、歯を見せて笑った。
「今日は手伝ってくれて、助かった。報酬は現物支給でね。そう遠くないうちに、とびきり美味しい野菜を届けにうかがうわ」


 寮に向かって歩くあいだ、マイノリティの意義というベイカー女史の言葉について、エトゥリオルは考えた。群れの生存率、という言葉は、彼にとっては新鮮だった。
 その生息域に最適化されすぎた群れは、環境の変化でたやすく絶滅する――群れに多様性が保たれるのは、生物としての本能だと、女史はいった。
 自分のようなものが生まれてくるのにも理由があるのだとしたら、とエトゥリオルは考える。群れからマイノリティをはじきだそうとする集団の力学は、どこから発しているのだろう。それもまた、生物が生き残るための知恵だろうか?
 寮について、すれ違うテラ系の知人と声をかけあいながら、エトゥリオルはまだそのことを考えていた。寮住まいのトゥトゥは、あまり彼に話しかけない。
 けれどそれも、お互い様だった。エトゥリオル自身にとっても、自分から声をかけるのには、トゥトゥよりもテラ人のほうが敷居が低い。自嘲して、エトゥリオルは自分の部屋に戻る。
 寮の食堂はまだ開いているが、食欲があまりなかった。もともと彼はあまり食べるほうではない。ふつうのトゥトゥは、一日に五回は食事を摂るけれど、飛ばないエトゥリオルは、そんなに食べてもエネルギーを使う場所がない。
 生まれてくる場所を間違えたのは、自分のほうだ。
 ヴェドで生まれたかったといった女史の横顔を思い出して、エトゥリオルはひとりうつむく。健康診断の日に医師からいわれた言葉と、あのときのいじけた気持ちが、まだときどきよみがえっては、胸の中をぐるぐる回っている。


  ※  ※  ※


「――本当に助かりました」
 ギイ=ギイは顔をしかめて、赤毛の医師を睨みつけた。彼は礼をいわれることが、好きではない。
「しつこい。医者が医療に手を貸して、礼なぞいわれる筋合いがどこにあるか」
 彼がそういうと、どういうわけだか、ハーヴェイは微笑んだ。
 なぜそこで笑うのか。テラ人の考えることはわからん――ギイ=ギイはふてくされて、そっぽを向く。
 彼がテラ人の間で発生した疫病について耳にはさんだのは、単なる偶然だった。先日の健康診断で診たO&W勤めのトゥトゥがひとり、彼の医院に通院している。診察の合間の世間話として、たまたまその話が出たのだった。
 患者が処方を受け取って帰って行ったあと、ギイ=ギイはいっとき考え込んだ。
 テラ人の体のことについては、彼は素人も同然だ。素人が医療の現場に口出しをするものではない。
 だがヴェドに存在する病原体への知識については、また別だ。
 トゥトゥが罹患する病原菌やウイルスが、テラ人の体にどう作用するかは、ギイ=ギイにはわからない。それでも顕微鏡を覗いてみれば、なにか貸せる知恵のひとつかふたつくらいは、あるかもしれないと思った。
 彼がO&Wとの間に交わした契約は、あくまで月に一度の健康診断だけだ。それもトゥトゥを相手にする仕事であって、テラ人の健康管理までは、本来、知ったことではない。
 だが、あのテラ人の医師は、マルゴ・トアフまで足を運ぶトゥトゥの医者が、なかなかみつからなかったともいっていた。それなら今ごろは下手をすると、テラ人ばかりで顔をつきあわせて、効率の悪い議論でも繰り返しているのではないか。
 そこで聞かなかったふりをできるなら、ギイ=ギイはそもそも医者にはならなかっただろう。
 幸いにも彼の医院には、若い医師たちが育ってきている。彼らにあとを任せてトラムに乗り込みながら、ギイ=ギイはふと、自分は年を取ったのだと思った。若いころなら、多少の距離ではトラムになど頼らなかったし、動く前にこんなごちゃごちゃした理屈を考えたりもしなかった。
「――それにしても、脆弱な種族だ」
 ギイ=ギイは吐き捨てる。テラ人の医学について、セルバ・ティグに翻訳された文献はさして多くないから、これまでに論文の記述に首をかしげることはあっても、違和感の正体まではわからなかった。だが実際に患者の容体を目の当たりにし、テラ人たちの口から治療方針について聞いて、ギイ=ギイは納得した。テラ人の肉体は、脆い。
 いったいどういう環境で育てばそうなるのだと、研究者たちを前に、ギイ=ギイは何度か怒鳴りそうになった。
「抗体の問題はわかるが、それを差し引いてもだ。ああいう乗り物に頼ってばかりおるから、あんたがたはそうまで弱くなるのではないか」
 今朝がた治療方針の目途が立つのを見届けて、医療センターからO&Wまで移動するとき、ギイ=ギイははじめ、自分で飛んでくるつもりだった。たいした距離ではないのだ。
 だが気まぐれを起こして、ハーヴェイのいうテラ人流の礼儀とやらに、つきあってみる気になった。彼は請われたとおりに彼らの自動車に乗り込み、そして愕然とした。
 テラ人の体格にあわせた車内は、トゥトゥにとってはやや窮屈ではあったが、そのことを差し引いても、それはひどく快適で便利な乗りものだった。
 気に食わん――ギイ=ギイは思う。乗り心地がいい、結構なことだ。移動が早い、それも結構だろう。乗っている人間は操縦のために頭も体も使う必要はなく、何もかもを機械が勝手にやってくれる。好きにするがいい、と思った。
 ちょっとした移動にまでいちいちこんなものに頼っているから、彼らは自分の体ひとつで生きる力を失ってゆくのではないか。
「――返す言葉がありません」
 ハーヴェイは苦笑して、それからふっと、何かを考えこむような仕草をした。いっとき迷うような間のあとに、赤毛の医師は真顔でいった。「僕らの会社は、航空機を作る企業です」
 ギイ=ギイは訝しく首を傾けた。そんなことは、とっくに聞かされている。今さら何をいうのかと思った。
「地球人がよけいな技術を持ち込んだから、トゥトゥの退化が進んだのだというメディアもありますが――どう思われますか」
 気にくわない質問だった。ギイ=ギイはハーヴェイを睨みつける。それでも医者のいうことか、とも思った。
 だがギイ=ギイは、若い医師の表情を見ていて、ひとつ気付いた。この地球人は、自分で心にもないことを、あえて口に出している。
 ますます気に食わんと、ギイ=ギイは思った。こいつは医者のくせに、まるで下世話な記者かなにかのようなやりくちではないか。
「馬鹿げた話だ」
 それでも彼は、乗せられる気になった。「飛べるようにならん子どもらなぞ、あんたらが接触してくるよりずっと昔から、常におった。それこそ私らの祖先がまだトリだったころからだ。たかだか二百年かそこらで、なにが退化か。――大体、そのせいで退化するほど、トゥトゥはあんた方の乗り物に頼りきってはおらんだろうが」
 ハーヴェイはいかにも恐れ入って拝聴していますという顔をしている。だがそれがポーズであることは、ギイ=ギイにも察しがついた。まったく、つくづく気に食わなかった。
 腹を見せない相手が、ギイ=ギイは嫌いだった。だがそれは同時に、ある意味で、医師としての資質なのかもしれなかった。正直で率直なだけでは、医者はつとまらない。
「まったくもって、つまらん話だ。どこにでも他人に責任をなすりつけたがる連中はおる」
 いってから、ギイ=ギイは顔をしかめる。「まあ、あんた方の飛行機は、私も好きではないが」
 ハーヴェイは間髪いれず、真顔でいった。「理由をお聞きしても?」
 やはり記者のようなやつだと、ギイ=ギイは呆れる。それからふと、思い直した。彼らはトゥトゥの率直な意見を耳にする機会に、恵まれていないのかもしれない。O&Wに雇われているトゥトゥはいるが、彼らは雇い主にものをいうには、どうしても気兼ねするだろう。
「危なっかしすぎるからだ」
 断じて、ギイ=ギイは顎をそらす。「あんた方は、発着場所を厳密に決めて、そのエリアにトゥトゥの立ち入りを禁じさえすれば、安全だという。だが若いトゥトゥはしばしば頭に血を上らせるものだ。オーリォの時期にもなれば、目立つ表示があったところで、知らんうちにうっかり迷いこむ連中が出ないとも限らん。まして鳥たちはどうだ。連中にいうことをきかせて、ここから先には入ってくるななどというわけにはいかんだろう。――鳥の嫌う音を出すか? だが、すべての鳥が嫌う音を出そうとすれば、その音はトゥトゥにも不快なものになるだろう……」
 ハーヴェイはうなずきながら、口を挟まずに聞いている。異論も反論も内心ではあるのかもしれなかったが、そうしたものを、何一つ外に出さない。
 若造めと、ギイ=ギイは鼻を鳴らす。若いのに小器用な人間というのは、可愛げがない。
 やはり自分は年を取ったと、ギイ=ギイは思った。若いころならこういうときに、わかっていてわざと話題に乗せられてやったりはしなかった。
「――だが、そいつが役に立つものでもあるのはわかっとる。輸送が早くなったことで、救われた命もある。災害のときに、あんたがたの飛ばした飛行機で救助された怪我人も、救援物資を受け取った連中もおるからな」
 ギイ=ギイ自身も、航空機の輸送のおかげで薬の到着が間に合った経験を、一度ならず持っていた。速度はときに、大きな力になる。
 憮然として、ギイ=ギイはいう。
「弊害があるのを承知でその恩恵を被っておきながら、何かあれば責任だけをなすりつけるようなやり口は、私は好かん」


   ※  ※  ※


 設計部の連中に聴かせてやりたい話だなと、ハーヴェイは思う。近ごろ、反対派の声が大きい。
 あいかわらずヴェド上の航空機は、大きな事故もないまま運用されている。それでも反対の声が減らない。何が彼らに、それほどまでに航空機を嫌わせるのか。
 機械の力に頼って空を飛ぶということに、抵抗があるのか。異星人の作ったものが、自分たちの飛べないような高い空を駆けることが、感情的に気に入らないのかもしれない。そういう表に出て来づらい感情の部分が理由なら、問題は根深い。
「まあ、若い連中は、飛行機に特別な抵抗もないようだ――いつかは良かれ悪しかれ、当たり前のものになるだろうさ。一度慣れた便利さというものは、そうそう捨てられるものではない」
 慰めのつもりなのか、ギイ=ギイはそんなふうにいって、窓の外を見た。つられてハーヴェイも、空を見上げる。高いところを、飛行機雲が流れている。
 このトゥトゥの医師が、怒っているように見せて、どこか面白がっていることに、ハーヴェイは気付いていた。
 器の大きな人物だと、ハーヴェイは思う。頑固で怒りっぽいようでいて、ほかのトゥトゥと話しているときにはあまり感じない、寛容さのようなものが垣間見える。
 彼が駆け付けてくれたことは、正直にいって、本当にありがたかった。ギイ=ギイの示唆がなければ、病因の特定も薬の製造方針が固まるのも、まだ遅れていたはずだ。
 病原は、トゥトゥの間ではそう珍しくもない細菌だった――トゥトゥに使われる薬が、地球人にそのまま投与できるわけではないが、彼の示した処方は、治療薬の開発の指針にはなった。
 環境が環境なので、地球上の諸国家で新薬の認可を受けるのに比べると、その類の手続きはずいぶんと簡略化されている。それでも充分な薬がそろうまでには時間がいるだろうが、ともかくなんとか治療方針の目途は立った。
 ギイ=ギイの見つめる窓の外が、薄暮に包まれ始めたことに、ハーヴェイは気付いた。つい長々と引きとめてしまった。
「お忙しいのではなかったですか」
「うちの病院には、頼りになる若いのがおるから、私が三日四日不在にしたくらいでは、たいして困らん」
 不機嫌をよそおっていた表情を緩めて、ギイ=ギイはいう。その声には、自慢げな響きがあった。「――いまの時期ならな。オーリォの頃ならそういうわけにもいかんが」
 ハーヴェイは首をかしげた。初夏になると、かなりの数のトゥトゥたちが北に向かうと聞いた。その分、医師の数が不足するにしても、患者の数もまた減るのではないかと、漠然と思っていたのだ。
 実際に、O&Wでもトゥトゥたちは夏季休暇に入るし、取引先の企業も、夏はあまりまともに動いていない。そういうと、ギイ=ギイは首を振った。
「もっと南のほうの連中が、このあたりにやってくるからな」
 ギイ=ギイの説明は簡潔だった。「オーリォの頃になると、頭に血を上らせた若いのの喧嘩が増える。――おかげで私は、もう三十年ばかり、まともに遠出しておらん」
 いいながらも、ギイ=ギイはそのことを、どこか誇りにしているようなふしがあった。そうした機微は自分たちにはわかりづらいなと思いながらも、ハーヴェイは医師の上機嫌につられて、つい微笑んだ。
「遠くまで旅に出る若者は、地球にもいますが――体ひとつで空を飛べたら、気持ちがいいでしょうね」
 医師はすぐには答えなかった。少し遠い目をして、黙り込んで、それからおもむろにいった。「オーリォか。あれはいいものだ」
 かつての日々のことを思い出しているのか、窓の外を見ながら、ギイ=ギイは目を細める。
 まだわれわれの祖先が渡りをしていた頃の、名残りというか、古くからの血なのだろうなと、ギイ=ギイはいった。
 あるいはその習慣こそが、地上に住まう彼らをして、いまだに空を飛びつづけさせている知恵なのかもしれないと、ハーヴェイは思う。
「いい風の吹く初夏の朝にな」
 口元をほころばせて、ギイ=ギイはいう。今日あたりに行くかと決めて、大空に舞い上がる。はじめのうちは思い切り羽ばたいて、力の限りに飛ぶけれど、やがて疲れてきたら、今度は上昇気流をうまくつかまえて、高度を稼ぎながら、休み休み滑空する。
「そうすると、どこまででも飛んでゆけるような気がするものだ――実際には、そう何日も飛び続けていられるものではないが」
 夜には降りて休み、朝を待ってまた旅立つ。そうしているうちに、ときどき鳥たちの群れにゆきあうこともあると、ギイ=ギイはいう。
 地球でもそうだが、鳥は、混群を作ることがある。何種類もの鳥が数羽ずつ、体を寄せ合って飛ぶのだ。そうすることで、天敵を避ける。
「トゥトゥを見かけると、連中はたいてい近寄ってくる。群れの中に大きい鳥がいるほうが、敵を遠ざけるのに有利だからな。連中、トゥトゥは飛んでいる鳥をそのまま捕まえて喰ったりはせんと、ちゃんと知っておる」
 そのことが嬉しくてしかたないというように、ギイ=ギイは嘴を反らす。
「ときどきわざとスピードを上げて、若い鳥たちをからかったりしながら、何日か休み休み飛んでゆくうちに、だんだん風が冷たくなってきて、体の中はかえって燃えるように熱くなる……」
 医師の語る空に、ハーヴェイはいっとき、思いを馳せた。
 それが実際には、見た目の優雅さに反して過酷な旅であることも、知識で知ってはいたけれど、それでも聞いていれば、やはりひどく羨ましいような気がする。
 トゥトゥからみたら、航空機はさぞ不自然で無粋なものだろうと、ハーヴェイはあらためてそのことを思った。速度は出るし、生身ではとても飛べない高いところをゆけるけれど、鳥を脅かさずに一緒に飛ぶことはできない。


  ※  ※  ※


 照明を絞った自室で、横になったまま、ジンは天井を見るともなく見つめていた。
 寝過ぎて、もう眠れる気がしなかった。ようやく退院できたのは有難いが、まだ数日は安静といいわたされている。
 熱もすっかり下がって、食事も常食に戻った。無視して出歩いてもいいくらいだったが、ご丁寧に、医療ロボットまでついてきている。老人の介助でもあるまいし、手を借りることもないのだが、規則で体調をモニタしなくてはならないといわれれば、断れなかった。
 大仰なことだと思う。故郷を離れて遠い惑星で暮らすというのは、そういうことだ。わかってはいても、やはり滑稽にしか思えない。何十回目かわからない苦笑を漏らして顎をさすると、無精髭が手のひらを刺した。
 ずっと空調の効いた屋内にいると忘れそうになるが、季節はもう秋も深まるころのはずだった。窓の外に視線を投げる。エトゥリオルの設置した巣箱が、ちょうどここの窓から見える。
 小鳥の姿はなかった。いまの時期は、もっと南のほうに渡ってしまうのかもしれない。
 また来年も来るだろうか。
 日はそろそろ暮れかかろうとしている。空を眺めていても、落ち着かなかった。こうまでずっと寝ていては、そのせいでかえって体調をどうにかしそうだ。
 かすかな電子音を立てて、部屋に備え付けの端末が、ランプをともらせる。メールの受信を知らせる合図だった。
 退院して部屋に戻ったときに、一度は確認している。置き去りにしてしまった仕事の簡単な進捗が入っていたのは、同僚の気遣いだろうが、アンドリューからのいたずらメールまで入っていた。
 またその類だろうか。顔をしかめて、ジンは立ち上がった。端末に歩み寄ってディスプレイを起動したところで、発信元を表す表示に、眼が釘付けになる。
 EA041JPの七ケタから始まる、長いコード。
 故郷からの通信だった。


   ※  ※  ※


 エトゥリオルは寮への道を急いでいた。手には籠を抱えている。中にはぎゅうぎゅうに詰め込まれた果物。
 ジンが退院したと聞いたのは、昼休みのことだ。ハーヴェイが内線で知らせてくれて、設計部は沸いた。まだ数日は自宅療養だけれど、もう会っても大丈夫だということだった。仕事が引けるなり、エトゥリオルは支社を飛びだした。
 多すぎただろうか? エトゥリオルは手の中の色とりどりの果物を見下ろして、不安になる。
 ちょっとした病気くらいでは病床につくということのないトゥトゥには、見舞いの品を持っていくという習慣がない。近くのショップで、テラ系の店員におっかなびっくり相談したら、これを薦められたのだが、そのまま真に受けてよかったのだろうか。テラ人はトゥトゥに比べたら、ずっと小食だ。
 映画の中ではどうだっただろう。いつかサムから教えてもらったテラの映画の中で、ヒロインを見舞う俳優は、両手にいっぱいの花束を抱えていたような気がする。やっぱりこれが普通なのだろうか。
 慣れないことをしているので、いちいち緊張している。ジンの部屋の前まで来て、エトゥリオルは一度深呼吸をした。
 部屋の扉に、小さな機械がついている。そっと手をかざすと、電子音がした。
 実のところ、人の部屋を訪ねるのは、エトゥリオルにとっては初めてのことだった。機械の操作は、入寮したときに教わっていたけれど、なんとなく緊張する。
 ふた呼吸ほどのあとに応答をしめすランプがついて、そのまま扉が開いた。照明を控えめにしてある――自分の部屋と同じ間取りだった。狭い玄関があって、そのまま部屋に続いている。
「――リオ?」
 ジンの声が、ひどくかすれているのに、エトゥリオルはどきりとした。
「あの、退院おめでとうございます」
 いいながら、その言葉が適切ではなかったような気がして、エトゥリオルはたじろいだ。
 痩せた――顔を見るなり、まっさきにそう思った。ジンは自分の足で立っていたが、まだ体調は戻りきっていないようだった。顔色がよくない。ハーヴェイはああいったけれど、やはり症状は軽くなかったのだ。
「迷惑をかけたな」
 エトゥリオルはぶんぶんと首を振った。それから、ジンのようすが、どこか上の空なことに気付いた。まだ具合が悪いのだろうか。
 不安になりながらも、手の中の果物のことを思い出して、エトゥリオルはおっかなびっくり差し出した。
「みんな心配してました。あの……これ」
「――ありがとう」
 いいながら、ジンは面食らったようだった。やはり変だったのだろうかと、おろおろしているエトゥリオルに気付いて、ジンは頬をゆるめる。「いや。ずいぶん豪勢だと思ったんだ」
 いくらかほっとして、エトゥリオルは気付いた。部屋に備え付けの端末が、起動している。
 まさか、もう仕事を始めているのだろうか。エトゥリオルの心配を察したのか、ジンは苦笑して首を振った。「仕事じゃない。姉からメールが来て……」
 いいながら、端末を振り返るジンの視線が、ふっと陰った。
「あ、お邪魔でしたか――」
 体調の戻りきらないところに長居するのは、気が引けた。家族からの通信だって、人前では再生しづらいだろう。出ていこうと身じろぎをしたエトゥリオルを、ジンは呼びとめた。
「――君も、いてくれないか」
 エトゥリオルは目を丸くした。家族からのメールなのに?
 まじまじと見上げると、ジンはいままで見せたことのないような、覚束ない表情をしていた。家族と折り合いが悪かったという、いつかのジンの話を、エトゥリオルは思いだす。
 病み上がりで、いつになく気が弱っているのかもしれなかった。実際、ジンはすぐに我に返ったように、瞬きをして首を振った。
「――いや。妙なことをいった。忘れてくれ」
「います。僕でよければ」
 反射的にそういって、エトゥリオルは自分の言葉の勢いに、自分で驚いた。
 ジンは目をしばたいて、それから、かすれた声でいった。「――ありがとう」


 テラ人用に調整されたディスプレイは、エトゥリオルには実は、ちょっと見づらい。首を傾けて、斜めに見るような姿勢になる。
 ジンがキーボードを叩くと、わずかなタイムラグのあとに、メールが開いた。
 映像はホログラフではなく、ディスプレイ上の平面画像だ。テラから通信を送るのにもそれなりの費用と手間がかかるというから、データ量を節約するためなのかもしれない。
 画面の中で微笑んでいたのは、女性だった。
 きれいな顔立ちをしている。少なくとも、エトゥリオルにはそう見えた。トゥトゥの美的感覚がどれほど彼らと近いかはわからないが、切れ長の目をした、肌のきれいな女性だった。まっすぐな黒髪を、肩の上で切りそろえている。
 目元がわずかに、ジンと似ているような気がした。地球ふうの化粧なのだろうか――こちらで見かけるテラ系の女性よりも、くっきりと赤く、唇を塗っている。
 やがて画像が、動き出す。女性は赤い唇を開いて、微笑んだまま話し出した。
 女性の言葉の内容は、エトゥリオルには聴き取れなかった。英語ではない――ジンの母国語なのだろう。椅子に深く腰掛けたジンの手が、ぴくりと揺れるのを、エトゥリオルは見た。
 女性は微笑を浮かべたまま、歌うようなリズムで、何かを話している。聞いているうちに、ざわりと羽が逆立って、エトゥリオルは身じろぎした。
 何をいっているのかはわからない。エトゥリオルにわかるのは、その楽しくて仕方がないというような微笑みと、そして、悪意に満ちた声音だけだ。
 ジンが一人でこのメールに向き合いたくなかった理由が、わかるような気がした。
 とっさに振り向くと、ジンの表情はこわばっていた。その視線は、画面にくぎ付けになっている。
「あの」
 思わず、エトゥリオルは声を上げた。「もう少し、体調が戻ってからのほうが――」
「いいんだ」
 ジンは掠れた声で遮った。視線は画面を見つめたままだ。
 その思いつめたような横顔を、エトゥリオルは途方に暮れて、ただ見守った。


   ※  ※  ※


『母さんが死んだわ』
 画面の中で、姉がいった。
 よく知っている表情だ。嫌になるほど記憶に焼きついているのと同じ、楽しげな微笑みだった。
 変わらない――ジンはまずそのことを思った。もう十年以上も会っていないというのに、姉は記憶の中とまるで変わっていないように見えた。
 母の死は、とっくに知っていた。ちょうどジンが入院する前に、向こうの弁護士から連絡があっていた。相続放棄の手続きのために返送した書類は、まだ向こうに着くまでには何か月もかかるだろうが、姉がそのことを知らないとも思えなかった。
 そもそもジンは、連絡先を家族の誰にも伝えていない。勤務先も教えたことはないが、調べることはできただろう。
 姉がそうまでして連絡を取ってきたことに、ジンは動揺していた。画面の中で、彼女は笑う。
『ひどいものだったわ。一日おきにみるみる痩せていって、最後には骨と皮みたいになって、個室でたくさんのチューブに繋がれて――もう麻酔もあんまり効かないみたいだった。最後の瞬間まで、世界中の何もかもを呪いながら死んでいったわ』
 姉の声は、楽しくて仕方がないという響きをしていた――何がそんなに楽しいのだろうと、ジンは思う。母の苦しむようすか。それとも弟を断罪することがだろうか。
『散々あんたを恨みながら死んでいったわ――可哀相な母さん、ずっと恥ずかしそうだった。そりゃあ、そうよね。母親がもう長くないっていうのに、一度も会いにも来ないで、さっさと宇宙に出ていくような息子じゃあね』
 エトゥリオルが急に、声を上げた。「あの――もう少し、体調が戻ってからのほうが」
「いいんだ」
 いって、ジンは苦笑した――つもりだった。唇が動いたかどうかはわからない。
 日本語だ。エトゥリオルには姉の話す中身は分かっていないだろう。それほど自分はひどい顔色をしているだろうかと、頭の隅で考えた。けれど意識のほとんどは、ディスプレイの中で歪む姉の微笑に向かっていた。
 母の死に際のようすを、姉は、歌うように滔々と語る。
 彼女が病床の母に最期まで付き添っていたのだということに、ジンは驚いていた。姉はいったいどういう思いで、自分を愛さなかった母親の面倒を見ていたのだろう。
 それが姉なりの、復讐だったのだろうか――そう思う自分と、その考えを疑いたがる自分がいた。本当に、ただそれだけだろうか。
 姉はふいに、初めて表情をゆがめた。口元の笑みが深まる。何かを嘲るように。
『あの女、死に際になって、ようやく私の名前を呼んだわ――初めてじゃないかしら?』
 それまで以上に、毒のある口調だった。
 可笑しくてならないというように、姉はいう。『馬鹿みたいだわ。――馬鹿みたい』
 通信はそこで、唐突に終わっていた。


   ※  ※  ※


 再生がおわり、画面が暗くなっても、しばらくジンは口を利かなかった。
 エトゥリオルは何度も口を開きかけては、言葉を飲み込んだ。
 ジンはひどい顔色をしていた。それでも、通信が終わったあとの画面を、じっと見つめている。身じろぎひとつせずに。まるで見つめ続けていれば、もう一度彼女がそこに戻ってくるとでもいいたげに。
「ジン」
 名前を呼んで、エトゥリオルは上司の腕を引いた。ジンはいっとき、反応らしい反応を見せなかった。
「――ジン」
 ほかにどうしようもなくて、エトゥリオルは繰り返し、彼の名前を呼んだ。何度目かで、ジンはようやく顔を上げて、エトゥリオルのほうを見た。
「すまない。気分のよくないものに突き合わせて」
 ふっと、現実に戻ってきたように、ジンはいう。
「そんなこと……」
 いいかけて、エトゥリオルは嘴を閉じた。画面越しに、悪意に中てられたような気がした。
 言葉はわからなくても、画面の向こうの女性が、ジンを傷つけたくて仕方がないというように、エトゥリオルには見えた。言葉を見つけられず、エトゥリオルは首を振る。
「大丈夫だ。――ありがとう」
 ふと小さく笑って、ジンが目頭を揉む。それから言葉を探しあぐねるように、いっとき黙っていた。
「――姉は、昔から、俺のことを憎んでいて」
 ようやく口を開いたジンは、また、暗くなったディスプレイを見つめていた。
 だけど多分、それだけのことを、俺もしてきたんだと、ジンはいった。
「家族とはもうとっくに縁を切ったつもりでいたし、いまさら連絡があるとも思ってなかったんだけどな。母親が死んだことを、人から聞いた時にも、ちっとも悲しいとも思わなかった」
 そういいながら、ジンはふらりと立ち上がって、端末に向かった。その手が、据え付けのデスクの引き出しから小さなディスクを取り出すのを、エトゥリオルはただ見ていた。
「だけど、妙なもので――どうしてだろうな。姉のことだけが、いまでも、どうしても憎いような気がするし」
 ジンはいいながら、メールをディスクに保存した。それから引き出しを漁って、適当な大きさのケースを見つけると、そのなかに、ディスクを慎重に収めた。そっと、大事なものを扱うように。
 エトゥリオルはわけもわからず、そのしぐさが、ひどく悲しいような気がした。
「彼女に責められるのだけが、いつまでも、怖いような気がする」
 エトゥリオルはジンの横顔を見上げる。姉のことが憎いといったジンの言葉は、彼の耳にはまるで違う風に聞こえた。
 彼女のことを愛していると――そういうふうに。
 その自分の考えを、エトゥリオルはおかしいと思った。ジンはひとこともそんなことをいっていないのに。
 手の中のディスクを見つめて、ジンはふっと、ため息のようにいった。
「――そうか、名前を、呼んだのか」





 部屋の端末を使って、前の日の主要な報道を簡単にさらうのが、エトゥリオルの日課になっている。
 空いた時間に携帯端末でチェックすることもできるが、彼にとっては目で読むよりも耳で聞く方が、情報が頭に入ってきやすい。それで目覚ましを兼ねて、決まった時間に記事を音声再生している。
 あらかじめキーワードを入れておけば、関心のある事件や報道を中心に、コンピュータが勝手に記事を組んで、順番に流してくれる。以前から似たような習慣を持ってはいたけれど、マルゴ・トアフに移ってきてから、少し変化があった。
 以前はトゥトゥの報道しかチェックしていなかったのが、テラ系の人々が運営している放送に重心がシフトした。それも、できるだけ選んで英語のほうを聞くようにしている。
 彼らの報道はたいてい、英語と西部公用語(セルバ・ティグ)と、どちらも選べるようになっている。社内では、少なくとも就業中は皆、セルバ・ティグで話すから、いまさら英語を勉強する必要があるかどうかは微妙なところだ。けれど、記事を書いた人間の母語で聞いた方が、より正確なニュアンスで理解できる――ような気がする。
 日によって流れる分量はもちろん違うけれど、おおむね羽をつくろい終えるころには、おおよその記事の概要くらいはつかめている。
 その朝、いつものようにニュースを聞き流していたエトゥリオルは、羽をつくろっていた嘴を止めて、顔をしかめた。
 航空機反対派の演説だった。添えられている名前は、どこかの大学の教授だかいう、高名なトゥトゥだ。トピックの途中で音声がセルバ・ティグに切り替わったのは、本人の話をそのまま録音したデータを記事に組み込んであるからだろう。
『――航空機の利便性は、理解できないことはない。しかし利便性だけを追求することの危うさを、今一度、顧みてほしい』
 すぐに止めようかとも思った。迷ったのは、飛行機を嫌う人たちの言い分も理解しなければ、それらの声に反論することさえできないという考えが、頭の隅にあったからだ。――そんな機会と勇気が、自分にあるかはわからないけれど。
『航空機だけではない。近年、テラ人よりもたらされた技術によってトラムの速度が上がり、安定性が上がった。それは一見、喜ばしいことのように思える。しかしトラムで旅をするトゥトゥが増えたことは、果たして本当に喜ぶべき事態だろうか』
 論者は声高に続ける。背景に雑音が入っている。どこかで行われた講演だか講義だかの、録音なのだろう。
『使わなければ、肉体というものは衰退する――生物はそもそも環境に適応するように出来ている。極北の孤島に住む、空を飛ぶことを忘れた陸生の鳥を、メディアを通じて見たことが、誰しも一度はあるだろう。空を飛ぶだけの強い翼を失うとき、それはわれわれのアイデンティティの喪失のときでもある――』
 再生を止めた。
 それでも案外、自分が平静でいられることを、エトゥリオルは意外に思った。けれど、それも当然なのかもしれない。過去にこうした論調の報道を見かけたことは、一度や二度のことではない。こんなことでいちいち傷ついていては、彼のような者にはきりがない。
 身支度を終えて、エトゥリオルは部屋を出る。社内で使うIDカードが、そのまま寮の部屋の鍵も兼ねている。
 ふっと、予感のように思う。さっきの記事と、演説の主の名前を、そのつもりはなくても、自分は忘れられないだろう。


   ※  ※  ※


 今日からジンが出勤する日だった。
 エトゥリオルが設計部に入ったときには、ジンはすでに自分の席についていた。ほかのエンジニアから小突かれながら、詫びたり、言い返したりしている。
 その表情は、思ったよりもずっと明るかった。エトゥリオルはほっとして、上司のもとに駆け寄る。
「おはようございます」
「おはよう。――先日は、すまなかった」
「いえ」
 エトゥリオルは首を振って、ジンの顔をまじまじと見た。痩せたのはまだ戻りきらなくても、その表情は、普段どおりに見えた。
 ためらって、エトゥリオルは言葉を飲み込む。気になることはいくつもあった。あのあとジンは、あのメールの入ったディスクをどうしただろう。姉というあのひとに、返事を送ったのだろうか。
 けれど、皆の耳のあるところで話すのは憚られる気がしたし、それに、ジンの落ち着いた表情を見ていると、過剰に心配されることを、彼は望まないだろうという気がした。
「――復帰早々、いいニュースよ、ジン」
 同僚のひとりが、そういいながら近づいてきた。その眼がいたずらっぽくきらきらしているのを見て、エトゥリオルは首をかしげる。
「なんだ」
「FMA202」
 噛み締めるようにゆっくりといって、彼女はにっこりと笑う。「改良設計。二年計画」
 わっと、周囲のエンジニアたちが湧いた。きょとんとして周りを見渡すエトゥリオルの肩を、アンドリューが小突いた。
「うちの持ってる小型貨物機だ。――新型の設計じゃないが、久しぶりに本業らしい仕事だな」
 一拍おいて、ようやくエトゥリオルは理解した。飛行機の、改良。航空設計部門の本務。
 盛り上がる周囲のひとびとを見ていても、すぐには実感がわかなかった。エトゥリオルは羽毛を膨らませたまま、まばたきを繰り返す。
 ――僕にもなにか、手伝わせてもらえるんだろうか?
 その考えがようやく頭に下りてきたのは、けっこうな時間が経ってからだ。
 エトゥリオルはどきどきする胸を押さえて、自分に言い聞かせた。まだわからない。なんせ自分はまだまだ下っ端だし、全員がその仕事にかかりきりになるとも限らない。なんせいま回ってきているような、飛行機本体ではない設備の一部だったり、そのほかのこまごました設計の仕事だって、なくなるわけじゃないのだ。
 だけど、ほんのちょっとくらいは、なにかさせてもらえるかもしれない。どきどきする胸を押さえて、エトゥリオルは思う。雑用でもいい。飛行機に、関わりたい。
 エトゥリオルはとっさに、ジンのほうを振り返った。
 どういうわけか、ジンはやけに浮かないような顔をしていた。


  ※  ※  ※


 ジンは顔をしかめて、端末とにらみ合っていた。画面に表示されているのは、航空機反対派の抗議文だ。会社から業務として回覧されてきたものではなくて、報道で流れたものだった。
 改良設計が決まって、一週間が経とうとしていた。
 昨夜、改良設計のチーム編成について、支社長からわざわざじきじきに呼びだされて、打診を受けていた。その場には設計部の部長も同席していた。上意下達でないのは、職場環境としてはまあ喜ばしいことかもしれないが、判断を任されたジンは、迷っていた。
 一晩が明けても、どう返答するか、決めかねていた。そこに視界に飛び込んできた記事だった。
「いやあ、参ったよ」
 アンドリューが頭をかいて、隣の席にどさりと荷物を置くのに、ジンは視線だけで振り返った。件の機体が運用される予定の空港を四か所、三日かけて回ってきたはずだった。滑走路や整備場の状況を見て、操縦士や空港従業員、現地の整備士たちの意見を吸い上げるのが目的だ。
「どうだった」
「いや、まあ、空港のほうはな。路面の状態なんかでいくつか気になることはあるけど、大きい問題はなさそうだ。それよりさ、飯がまずいのなんのって」
「――現地の店で食ったのか」
「そそ。最近、空港近くのちょっといい店だと、地球人でも食べられるメニューには、マークがついてるんだぜ」
 いって、アンドリューはわざわざそのマークを、端末のディスプレイに呼び出して見せる。「これこれ。――でもなあ、味はなあ。結局途中からは、持って行った携帯食だよ」
 ひとしきり食事の愚痴をこぼしたあとで、アンドリューはそのままのトーンで、急に話を変えた。
「それと向こうで、反対派のトゥトゥに絡まれた」
「――大丈夫だったのか」
 とっさにジンは体ごと振り向いた。アンドリューはいつものとおりへらへらしていて、特に怪我をしている様子はない。
「や、こっちの連中のほうがそのへん紳士的っつうか、理性的っつうかなあ。いきなりキレて掴みかかってくるような連中はさ、地球に比べたら、やっぱり少ないよ」
 アンドリューは苦笑する。「けどやっぱり、気分的には参るよな。わざわざ空港の前に座り込んでるんだぜ。そんなに嫌いかね、ヒコーキが」
 アンドリューは頬を掻いて、付け足す。「――違うな。俺らが、かな」
 ジンは端末の記事に視線を戻した。そうかもしれない。トゥトゥたちは技術にではなく、それを押し付けてくる異星人(エイリアン)に、反発しているのかもしれない。
 ジンはいっとき渋面で考えていたが、やがて目頭を揉んで、記事を閉じた。


  ※  ※  ※


「リオ、ちょっと話がある」
 ジンに手招きされたエトゥリオルは、首をかしげながらデスクを離れて、打ち合わせ用のブースに移動した。
 普段のちょっとしたミーティングや指示なら、デスクで済ませてしまう。わざわざ席を離れるということは、なにか込み入った話だろうかと、エトゥリオルは考えた。
 知らないうちに、なにか自分は失敗をしただろうか――エトゥリオルがつい不安になったのは、ジンの表情が険しかったからだ。
「すまないが」
 ジンはそんなふうに切り出した。「FMA202の改良設計のプランから、君は、外れることになった」
 エトゥリオルは二度瞬きをして、それからああ、とためいきを落とした。
 正直にいって、かなり落胆した。大きな仕事を任せてもらえるとは、自分でも思っていなかった。それでも、ほんのちょっとした雑用でもよかったのだ――飛行機に関われるかもしれないというだけで、胸がわくわくした。
 だけど、話はそう簡単ではないらしい。
 しかたがないと、エトゥリオルは思おうとした。航空機を動かすためのしくみというのが、一般の機械類にくらべてとんでもなく複雑だというのは理解していたし、ちょっとの間違いが人命に関わる性質のものでもある。自分はまだ半人前なのだし――
 そこまで考えて、顔を上げた。
 何に違和感を覚えたのか、エトゥリオルは自分で、すぐにはわからなかった。一拍遅れて、気付いた。外れることになったと、ジンはいった。
 それではなんだかまるで、もともと入ることになっていたかのような言い回しではないか。それとも、単なる言葉尻の問題だろうか? エトゥリオルは瞬きをする。
 ジンはかすかに目を伏せて、話を続けた。
「もともと、全員が今回のプランに関わるわけじゃないんだ。FMA202の原型は、ほかの航空会社も共同で開発した機体だから、よそのエンジニアとも一緒にチームを組むことになるし――」
 ジンはこんなに多弁だっただろうか?
 エトゥリオルは顔を上げて、じっとジンの顔を見た。一言、君はまだ経験が浅いからといえば、それだけで済むことだ。
「いま抱えているような、ほかの細々した業務だって、誰かがやらないといけないわけだし……いや」
 ジンは唐突に言葉を切って、がりがりと頭を掻いた。
 ひどい渋面だった。
 目を丸くするエトゥリオルと視線を合わせて、ジンはひと呼吸おいた。それから、いった。
「――正直にいう。俺の判断だ。支社長は君をチームに入れたがってる」
 エトゥリオルはいっぺんに羽を逆立てた。
「それなら、どうして――」
「支社としては、君を広告塔にしたいんだ。俺は、それが気に食わない」
 エトゥリオルはぽかんとした。
 いわれていることの意味が、すぐには飲み込めなかった。広告塔――宣伝? 自分が航空機の設計にかかわることが?
「近ごろ、反対派の報道が続いただろう。航空技術を、地球人が強引にトゥトゥに売りつけているっていうようなイメージを、O&Wとしては、払拭したいんだ。それには君の存在がアピールになると、支社長は思っている」
 ジンのいう話が頭にしみわたるのに、少し時間がかかった。渋面のまま、ジンはいう。「トゥトゥ自身が航空機を歓迎しているという絵を作りたいんだ。――引き受ければ、おそらく取材も来るだろう」
「かまいません」
 エトゥリオルは反射的に声を上げていた。
 本気だった。いまさらトゥトゥの報道に、どう記事を書かれたって、気にしないと思った。どうせ自分はトゥトゥとしては――
 ジンがいった。「メディアに姿を出せば、バッシングの矛先が君にまで向かう」
 反対派からしてみたら、エトゥリオルの姿は裏切り者のように映るだろうというようなことを、彼らしくない婉曲な言い回しで、ジンはいった。
「君が、同胞から不要の敵意を向けられるところを、俺は見たくない」
 エトゥリオルは息を吸い込んだ。
 ジンは渋面のまま、まっすぐにエトゥリオルの顔を見ている。視線をそらして、エトゥリオルは細く、震える息を吐いた。
 もし、自分がまだ半人前だから、とても機体には触らせられないといわれたのだったら――それならきっと、諦めがついた。またいつか機会があるかもしれないと、次を待つ気になれただろう。
 僕が、トゥトゥだから。
「トゥトゥが――」
 エトゥリオルは口を開いた。それは、自分でもはっきりわかるくらい、ひどくひきつれた声になった。
 ジンが眉を上げて、何かをいいかけた。それを遮って、エトゥリオルは続ける。
「彼らが飛べないやつはトゥトゥじゃないといって、あなた方が僕はトゥトゥだからというなら――僕はいったい、どこにいけばいいんです」
 いい終える前に、自分で耐えられなくなった。エトゥリオルは椅子を蹴立てて、駆けだした。
「リオ!」
 ジンが追いかけてくるのも、驚いたほかのスタッフが声をかけてくるのも、全て振りきって、エトゥリオルは走った。
 廊下を駆け抜ける。目を丸くして通りかかる社員が振りむくのがわかった。
 戻れ――まだ仕事中だ――そう忠告する自分の声も振りきるように、エトゥリオルは走り続けて、社屋を飛びだした。
 職場放棄はテラの社会では、どれくらい重い違反だろう?
 そんなことを冷静に考える自分が胸のどこかにいて、エトゥリオルは走りながら、ひとりで笑った。
 土ぼこりの舞わないマルゴ・トアフの歩道を、エトゥリオルは駆ける。いくあてはなかった――誰も知り合いのいないところがいい。
 吸い込む風が、冷たい。それなのに体の中はひどく熱かった。
 知らない路地に飛び込んで、何事かと驚く人々を避けながら、エトゥリオルはけっこうな距離を走った。
 気付いたときには、湖が目の前に開けていた。
 立ち止まって、エトゥリオルはとっさに、水面に見とれる。当たり前だけれどまだ太陽は高くて、風に細波だつ湖面が、銀の粒を捲いたように輝いている。広い――遠い対岸には、豊かな森が広がっている。
 こんなに大きな湖が、すぐ近くにあったなんて、これまでちっとも知らなかった。
 マルゴ・トアフという都市の名前を、エトゥリオルは思う。古い言葉で、水の町という意味だ。この湖が、由来になっているのだろう。空を飛ぶトゥトゥたちからすれば、一目瞭然に違いなかった。
 端末に連絡が入ったことを知らせる音がして、エトゥリオルはびくっとした。ポシェットからとっさに掴みだして、反射的に受信機能をオフにする。切った瞬間にはもうそのことを後悔していたけれど、もう一度、スイッチを入れる勇気は出なかった。
 強い風が吹いて、対岸の森がざわめく。
 湖畔には、ちらほらとトゥトゥやテラ人の姿があった。観光だろうか、この町で働く人々が、ちょっと休憩に来ているのだろうか。
 水辺にふらふらと近づいて、エトゥリオルはそこに移る自分の顔を見た。そこにいるのは、痩せっぽちで、子どもじみた顔をした、ひとりのトゥトゥだった。
 僕はほんとうに、まだ子どもなのかもしれないと、エトゥリオルは思った。オーリォを済ませていないというのは、ただ伝統と形式の問題ではなくて、自分の翼で空を飛んで北の地を目指さないかぎり、トゥトゥは言葉通りの意味で、精神的にも肉体的にも、大人になれないのかもしれない。
 水鏡の中で歪む自分の嘴を、羽毛を、エトゥリオルは見つめる。
 ジンに当たってしまったあとで、エトゥリオルははじめて、自分の気持ちに気付いた。
 彼は、テラ人になりたかったのだ。
 サミュエルやジンやハーヴェイや、借りた地球の本の中に出てくる登場人物たち――エトゥリオルは、彼らになりたかった。
 それが馬鹿げたことだというのは、誰にいわれなくても、自分でわかる。彼は、トゥトゥだ。どんなに半人前で、子どもじみていて、ほかのトゥトゥに仲間と認めてもらえなくても、それでも動かしようもなく、エトゥリオルはトゥトゥなのだった。
 また風が吹きつけて、湖面が乱れる。葉擦れの音が轟々と唸りを上げて、鳥たちが舞い上がる。
 銀色の光の乱舞する湖畔で、エトゥリオルは泣いた。人目を気にする余裕もなく、みっともなく声を上げて、子どものように泣いた。




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