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 幼いころ、エトゥリオルはいつか自分も空を飛べるようになることを、疑ってもいなかった。
 ひと一倍熱心に、彼は飛ぶ練習を重ねた。他の子どもらがそうするのと同じように、屋上のへりに足でしっかりしがみついて、くりかえし羽ばたきの練習をした。段差から飛び降りながら翼を動かしてもみたし、年長のトゥトゥが手本としてやってみせるように、助走をつけて翼を広げようとしてみたりもした。
 けれど彼の翼の動きは、どれだけ練習を重ねたところで、ごく弱々しいものにしかならず、体が浮き上がるような兆候は、いつまでたっても見られなかった。
 そもそもほかのトゥトゥが滑空をするときのように、すばやくまっすぐに翼を広げるというだけのことさえ、彼には満足にやれなかったのだ。時間さえかければなんとか広げることはできるのだけれど、それは赤ん坊のトゥトゥといい勝負の、緩慢な翼の動きにしかならなかった。
 近所の同い年の子どもらは、ひとりまたひとりと飛ぶことを覚えてゆき、やがてエトゥリオルだけが、最後まで取り残された。
 楽しそうに飛びまわる友人たちを、ひとり地上から羨ましく見上げるのが、エトゥリオルの日常になった。
 飛べないこと以上に、その仲間はずれのさびしさが辛かった。昨日までは同じように空を見あげて悔しそうにしていた友人が、あるとき魔法のようにこつを掴んで、危なっかしく、けれどたしかに自らの意思で、空へ飛び立ってゆく。
 そうなれば、すぐに彼らは空の上での遊びに夢中になる。地上からいつまでもひとり飛び立てない、どんくさい友達のことを、いっときのあいだ気遣いはしても、そういつまでも人の心配ばかりはしていられない。
 満足がゆくまで空を飛びまわって、やがて戻ってきた彼らは、エトゥリオルの姿を見て、ばつの悪そうな顔をする。その瞬間がつらくて、だんだんエトゥリオルのほうから、彼らと距離を置くようになった。


  ※  ※  ※


 自分の机をもらえた。
 それはエトゥリオルにとって、大事件だった。
 たかが机だ。自分でも、頭ではそう思う。トゥトゥがよく使う軽くて分解しやすい製品ではなくて、合金と樹脂の組み合わせの、重くて頑丈なデスクだというのは、珍しい経験かもしれない。それでも机はしょせん机だ。
 しかもテラ人の体にあわせて作られたデザインだから、彼にはあまり使いやすくもない。椅子ははじめからトゥトゥ用のものを用意してもらったけれど、引き出しの位置が邪魔だったり、広すぎて奥の方まで手が届かなかったりする。座り心地のいい席かといわれると、返答に詰まる。
 けれど、そんなことはどうでもよかった。
 自分だけの席が、オフィスにある。毎日、出勤したらその席について、彼に与えられた端末に向かって仕事をする。
 それは彼にとって、人生で初めてのことだった。
 舞いあがるあまり、デスクを前にした瞬間、エトゥリオルは固まった。あまりにも長いあいだ立ちつくしたまま固まっていたので、初日から上司を困惑させてしまった。


 出勤初日のその朝、会社のロビーで――地上階のほうの入り口だった――面接のときの人事部長が、にこやかに出迎えてくれた。その横に、ひとりの異星人が立っていた。
 知っている顔だった。フェスティバルの日、メインストリートでぶつかった異星人。エトゥリオルがこれまでに見たことのあるテラ人と比べて、背が高く、痩せていて、そして無愛想だった。
 今日から彼が、君の上司になる。そういって紹介されたその人は、ジン・タカハラと名乗った。
 そっけない感じで伸ばされた手は、指が長く、関節が目立って、なんとなくごつごつとしていた。
 彼らに握手の習慣があるというのは、サムから教わって知っていた。あわてて中肢(て)をさしだしたエトゥリオルは、見た目とは違う異星人の手の柔らかさに、ちょっと戸惑った。
「あの――なんてお呼びしたらいいですか」
 おそるおそる、エトゥリオルがそう訊ねたのは、どうやらテラ人の多くが上司を呼ぶときに、役職や敬称を使い分けているらしいということに、気付いていたからだ。周囲で雑談しながら歩く人々もそうだし、サムから借りた小説や映画の中でも、そうした風潮は垣間見られた。
 そこまではわかるのだけれど、どんなふうに使い分けたらいいのかが、エトゥリオルにはぴんとこない。敬称というもの自体が、そもそもトゥトゥにはなじみがないのだ。
 トゥトゥのあいだでも役職はもちろんあるが、役職で相手を呼んだりしたら、まずまちがいなく侮辱だといって怒られる。トゥトゥはなによりも先に、まずその名をもつひとりのトゥトゥであって、名もなき誰かではない、というわけだ。
 けれど、テラでは違う。彼らの会社で働かせてもらうのだから、彼らのルールにあわせるべきだ。エトゥリオルはそう考えた。
 けれどジンは、あっさりといった。「ジンでいい。――それが君たちの流儀だろう?」
 やっぱりそっけない口調だった。エトゥリオルは困惑して、眼をしばたいた。
「え――だけど、その、失礼にあたりませんか?」
「俺は、君たちの名前についての考え方を聞いたとき、とても感銘を受けたし、羨ましい話だと思った」
 間髪いれずジンはそういって、それから軽く首をかしげた。「――ただ、たしかに君のいうとおりだ。相手と場合によっては、失礼だと思われるかもしれない」
 エトゥリオルが慌ててうなずくと、ジンは少し考えてから、教えてくれた。
「そうだな。よく知らない相手には、とりあえずファミリーネーム……あとのほうの名前だな、それの前にミスタを付けて呼べば、たいてい失礼にはならないだろう。女性ならミズ」
「ミスタ・タカハラ、というふうに?」
「そうだが、頼むから、俺にはやめてくれ。ミスタ、なんていうがらじゃない」
「わかりました。――ジン」
 エトゥリオルがそういうと、ジンは小さくうなずいて、それから少し、ためらうような間をおいた。
「君の英語のほうが、俺の西部公用語(セルバ・ティグ)よりよほど流暢だし、こちらにあわせてもらうほうが、合理的なんだろうが……」
 ジンはこちらの言葉で、そう切り出した。英語で話すときと、声質ががらりと違う。サムもそうだったけれど、本来は発音できない声域を、機械でカバーしているのだ。
「しかし俺は、こっちの言葉をなるべく早く、マスターしなきゃならない。言葉を覚えるのには、とにかく使うのが早道だと思う。勉強につきあうと思って、君たちの言葉で話してくれないか」
 そんなふうにいうわりに、彼が話すのは、きちんとしたセルバ・ティグだった。ところどころイントネーションに違和感はあったけれど、通じないところも、文法的に間違っているところもない。
 本当に練習の必要があるのかとは思ったけれど、いわんとすることは納得できた。エトゥリオルは素直にうなずいて、自分もセルバ・ティグに切り替えた。
「わかりました」
「――もしかして、あらためて英語を勉強してきてくれたんじゃないのか」
 その言葉を聞いて、エトゥリオルはやっと、ジンが言い出しにくそうにしていた理由に気がついた。彼の努力を無駄にしたのではないかと、気にしてくれたのだろう。
「いえ――ええと、機械をさわる仕事だと聞いたので、関係のありそうな言葉を、少しだけ。だけどもとからサムに教わっていましたし、あらためてというのは、そんなに」
 言葉を選びながらそういうと、ジンはうなずいて、すまないといった。
 エトゥリオルは、上司への印象を改めた。よく笑うサムと違って、なんだか表情は少ないし、ぶっきらぼうな話し方をするひとだなと思っていたけれど、そういうことではないのかもしれない。
「しかし、正直にいって、言葉はなんとかなると思うんだが……八進法に慣れるのには、手間取りそうだ」
 その言葉に、エトゥリオルはジンの手を見た。テラ人の、十本の指。そういえば、サムも数学が苦手そうにしていた。こちらで育ったサミュエルでさえそうなのだから、来たばかりの彼からしたら、なおさらだろう。
 ここだといってジンが足をとめたのは、大きな扉の前だった。金属製の扉はきっちり閉ざされていたが、彼が壁の機械に手をかざすと、触れもしないのに、かすかな音を立てて開いた。
「君にもあとで、IDカードを渡す。俺たちは小さなチップにして手に埋め込んでしまうんだが――君は、そうだな、紐を通して首からでも下げておくといい」
 うなずきながら足を踏み入れると、なかには広々とした事務室があった。
 ゆったりとした間隔で、デスクや作業台がいくつもならんでいる。その上には、何に使うのかわからない道具の数々。デスクの数よりも、機械類のほうがずっと多い。壁際にはエトゥリオルにとっては見たこともないような、大型のコンピュータがたくさん並んでいる。
「ここで仕事をすることになる。といっても、実際は、工場のほうといったりきたりだな。――いまちょうどほかの連中が出払ってるが、午後には戻るらしいから、そうしたら皆に紹介しよう」
 そういいながら、ジンは入り口のそばのデスクを指し示した。ごく何気ない、あたりまえの仕草だった。
「君の机は、それだ」
 エトゥリオルは、その場で固まった。たっぷり呼吸五つ分は、動けなかったと思う。
 言葉も出てこなかった。
 頑丈そうな、真新しい感じのする机だ。どうやって搬入したのかと思うような大きさの、エトゥリオルの何倍も重さのありそうな、どっしりした事務用デスクだった。そして何より重要なことに、ほかにたくさん並んでいるものと、同じデザインだった。
 みんなと同じ、机。


「――座ったらどうだ」
 いわれて我に返ったエトゥリオルは、恐る恐る椅子を引いて、そっと腰を下ろした。そうすると、視線の高さにディスプレイがあった。
 彼用の机で、彼用の椅子で、彼用の端末なのだ。
 嬉しかった。ものすごく、嬉しかった。
 役に立たないといけない。まずなによりまっさきに、そう思った。
 なんせ自分は、まだ見習いなのだ。仕事が決まってからあわててちょっと勉強をしてきただけの、専門の訓練を受けたこともない、右も左もわからないような素人だ。
 それなのにまっとうな一人前であるかのように迎えてくれた彼らに、それだけの価値のある人材だと認めてもらえるように、頑張らなくてはならない。
 何を頑張ったらいいのかさえ、まだわかってもいなかったけれど、とにかくこのとき、その思いだけが、エトゥリオルの頭を占めていた。
「もともと、俺の専門は飛行機の、機体のほうの設計なんだが――どうやらここでは、なんでもかんでもやらされるらしい」
 人手が足りないのだと、ジンはいった。
 トゥトゥの言葉で「設計」といった、彼の声の響きを、エトゥリオルはふしぎな感慨とともに聞いた。あの飛行機のような機械を、設計して、実際に動くように組み立てる。それはどんな途方もない作業だろう?
「しかし、そうはいっても、俺自身がまだ復帰したばかりで、まともに仕事にならないんだ――悪いが今日は、とりあえず端末に入っている資料を眺めていてくれ。詳しいことは後回しにして、だいたいこういう感じの仕事だっていうのを、ざっと見てくれればいい」
 いわれてディスプレイを見ると、エトゥリオルの視線を拾って、インターフェイスが勝手に立ちあがった。
 端末自体は見慣れない大きなものだったけれど、ディスプレイの形やインターフェイスは、エトゥリオルも触ったことのある、トゥトゥの大手メーカー製品だった。
 もしかして、自分にあわせてわざわざ用意してくれたのだろうか? 驚いたエトゥリオルがそのことをいうと、ジンはあっさりと首を振った。
「いや。コンピュータ製品の基本性能は、こっちのもののほうがいいからな。使い道によっては善し悪しがあるらしいが、コストパフォーマンスまで考えたらな」
 俺はまだ、慣れなくて戸惑ってるがと付け足して、ジンは自分の端末に視線を投げた。いわれてみれば、そちらもどうやらトゥトゥの製品のようだった。ただ、ディスプレイの形状がまったく違う――トゥトゥと彼らはものの見え方が違うというから、彼らにあわせて改良してあるのだろう。
 エトゥリオルは驚きすぎて、言葉もなかった。
 なんせ相手は、異星人だ。はるか遠くの星系から、はるばるやってきた人たちで――宇宙を旅する手段も、空を飛ぶ飛行機も、速度の出る上に安定して動くトラムも、そのほかトゥトゥの手元にはいまだなかった重機や建築方法やその他の構造物を、はるばるこの星に持ち込んだのは、彼らテラ人なのだ。
 対してトゥトゥは、自分たちの惑星の月にさえ、いまだに自力で行ったことがない。そのトゥトゥの作った製品のほうが、彼らの持つコンピュータよりも性能がいいなんて、どうやったら信じられるだろう?
 そういうと、ジンはあっさり首を振った。「求められてきた技術の方向性が違うっていうことだろう。――誤解があるかもしれないが、もともと俺たちのほうが、君らの文明から学ぶために、こっちに来てるんだ」
 二度驚いて、エトゥリオルは羽毛を逆立てた。信じられないような話だと思った。
「俺からしてみたら、むしろ、不思議に思える。これだけの技術力があるのに、どうして君たちの知識と技術が、航空や宇宙の分野にはあまり向かなかったのか……」
 途中で言葉をきって、ジンはわずかに目を細めた。「だが、まあ、なんとなくわかるような気もする。――飛べない俺たちのほうが、空への憧れが強かったんだろう」
 どきりとして、エトゥリオルは顔を上げた。ジンはディスプレイに表示された図面を、じっと見つめている。
 エトゥリオルもつられて、その図面を眺めた。それの外形は、あの日の空に見上げた飛行機のものと、よく似ているように見える。
 ――これが、飛行機の設計図なんだ。
 ふしぎな感慨とともに、エトゥリオルはその図面を見た。書かれている数字や記号の意味も、いまはまだ、さっぱりわからなかったけれど。
 ――空に憧れて、どうしても飛びたくて、それで、あんな飛行機を作ってしまうんだ。
 図面を見つめるジンの真剣なまなざしを見て、同じだと、エトゥリオルは思った。
 このひとたちと自分は、きっと、同じだ。


  ※  ※  ※


 五歳の誕生日をまもなく迎えようかというころになっても、エトゥリオルは飛べるようにならなかった。どんなに発育の遅い子でも、いいかげん自由に空を飛び回っている年齢だった。
 いくらなんでもおかしいというので、両親に手を引かれて病院にいった。住んでいる街のちいさな医院ではなく、トラムにのって、隣まちの大病院へ。
 わざわざ足を運んだわりに、検査自体は、簡単なものだったと思う。少なくとも、まだ子どもだったエトゥリオルが、退屈を持て余して騒ぐほどの暇もなかったのはたしかだ。
 検査機器にうつった画像を眺めて、医師はいっとき黙り込んだ。そこにはトゥトゥの骨格が映し出されていた――それが自分の体の骨を透かして見ているのだということをエトゥリオルが理解したのは、少し遅れてからだった。
 長い沈黙に、彼ら家族がすっかり不安でいっぱいになるころ、医師はようやく、重い口を開いた。
 ――竜骨、というのです。
 そういって、医師はこつこつと、中肢(て)で自らの胸を叩くそぶりをみせた。続いて画像の真ん中のあたりを、そして最後にエトゥリオルの胸元を、指してみせた。
 ――こっちが、平均的なトゥトゥの骨格。
 そういって医師がディスプレイに表示させた写真は、さっき見せられたばかりの画像とは、似ても似つかないように見えた。三角の、大ぶりで、頑丈そうな骨。
 ――この骨が、飛ぶための筋肉を支え、ほかの骨と骨を、しっかりと繋ぎとめておるのです。おわかりになるでしょうか。
 医師は淡々と説明を続けた。いわれている言葉の内容ではなく、その声のため息のような響きに、エトゥリオルは不安をつのらせた。
 ――一般に、なかなか飛ぶのが上達しない子というのは、体重が重すぎるか、筋力が足らんのです。あるいはただ単純に、体を動かすこつを呑みこむのが、ちょっとばかり遅いか。そういうのは、とにかく時間はかかっても、努力で解決できる。
 そこで少しためらってから、医師は思いきるようにいった。
 ――だが、お子さんの場合は……たとえ筋肉をつけたところで、それを支えるだけの骨がなくては。
 その言葉を聞きながら、つないだ父親の手がかたくこわばったのを、エトゥリオルはよく覚えている。
 帰り道、父親は、もう手をつないではくれなかった。彼が見上げると、視線をひどく彷徨わせて、やがてばさりと羽を鳴らした。そうしてひとり、先に飛んでいってしまった。
 そのぐんぐん遠ざかる背中を見送りながら、エトゥリオルは何度も父親の名前を呼んだ。どうやら自分が飛べるようにならないらしいということよりも、置いていかれる恐怖のほうが、そのときにはずっと強かった。


   ※  ※  ※


 ――地べた這いどうし。
 いつか背中で聞いたその言葉が、ディスプレイの図面を見つめるエトゥリオルの胸に、ふとよみがえる。
 あのとき、その言葉が耳に飛び込んできた瞬間、エトゥリオルは悔しかった。悔しくて、恥ずかしくて、その場から逃げ出したかった。いなくなってしまいたいとさえ思った。
 いまは、どうだろう。
 複雑で精巧な、飛行機の図面――読み方もわからないその表示を、エトゥリオルはじっと見つめつづけた。目に残像が残るほど、いつまでも。




 その日は朝から、天気が荒れ気味だった。
 雨はさしてひどくもなかったが、風がある。空を見上げると、雲が渦巻きながら流れてゆくのがわかる。
 それでもこれくらいの風雨だったら、大人のトゥトゥは平気で飛ぶ。彼らの羽毛は水をはじくし、よほどの嵐でもなければうまく風をつかまえて、危なげなく飛行することができる。
 トラムのいいところは、天候に関係なく運行できるところだ。エトゥリオルは雨をふるい飛ばしながら、ステーションに向かう。
 テラ人たちが使っている傘のことを思い出して、いいなと思う。ポシェットを濡らさないための防水カバーはあるけれど、トゥトゥ自身が濡れないための道具というものは、ほとんどない。
 仕事の帰りにひとつ、買ってこようかと、エトゥリオルは考える。けれどこうして行き帰りに、トゥトゥしか周りにいない場所で、異星人の真似をして傘をさせば、空から見ても目立つだろう。その度胸が、自分にあるだろうか。
 彼がマルゴ・トアフで働き始めて、そろそろひと月半が経とうとしている。季節は盛夏を迎えて、吹きつける雨粒は生温かい。毎日ステーションまで歩くのにも、ずいぶん慣れはしたけれど、それでもやっぱり、時間がかかる。
 エトゥリオルは毎朝、早い時間に家を出る。もう少しステーションに近い地区に越せればいいのだけれど、家移りするには貯金が心もとなかった。
「エトゥリオル!」
 大声で呼ばれて、エトゥリオルは羽毛を逆立てた。頭上から、ばさばさと音を立てて、大柄なトゥトゥが舞い降りる。雨が跳ねて、エトゥリオルの顔にかかった。
 知った顔だった。エトゥリオルはとっさに微笑んで、尾羽を下げる。
「ピュートゥ……おひさしぶりです」
 世話になった相手だった。家具の修理を請け負う小さな会社を持っていて、エトゥリオルのことを気にかけて、ときどき半端仕事をまわしてくれていた。
「よう、元気にしてたか」
 ピュートゥは笑って翼を打ち鳴らしたが、すぐに真顔になった。「なあ。お前、マルゴ・トアフで働いてるって聞いたが、本当か」
 険しい語調だった。エトゥリオルは返答に詰まって、冠羽を揺らす。
 テラ人をよく思わないトゥトゥは少なくない。年配のトゥトゥには特に、そういう傾向がある。あらためてそういう話をしたことはなかったけれど、ピュートゥもそういうひとりなのだろう。
 迷ったけれど、嘘をつくのもいやだった。何も悪いことをしているわけではないのだから。エトゥリオルは覚悟をきめて、うなずいた。「はい、先月から」
「馬鹿野郎」
 大声だった。エトゥリオルが身を竦めるのを見て、ピュートゥはばつの悪いような顔になる。翼を二度鳴らして、少し声を落とした。
「なんだってお前、あんなけったくそ悪いところで――いや、事情はわかるが。それにしたって、働く場所はもうちっと選べよ。金に困ってるんだったら、また俺のところでもなにか……」
「違うんです」
 彼にしては珍しいことに、エトゥリオルは途中で話を遮った。「そういうことじゃないんです」
 自分で思っていたよりも、ずっと強い語調になった。ピュートゥが驚いて目を白黒させているのに気付いて、エトゥリオルは我に返る。
「――すみません、心配してくださってるのに」
 エトゥリオルは小さくなって、弁解した。「だけど、あの、お金のために嫌々とか、そういうのじゃないんです。まだ僕、見習いなんですけど、仕事も面白いし、それに職場の方々も、みんないいひとたちで、よくしてもらってます」
 ピュートゥはきつく顔をゆがめた。「馬鹿、いいやつらなわけがあるもんか。お前、ひとがいいにしても限度ってものがあるだろうよ」
「そんなんじゃ……」
「そうじゃなきゃ、お前、騙されてるんだ。わかってんのか、お前。あいつら星(くに)に帰れば年がら年じゅう殺し合いばっかりしてるような猿どもだぞ」
 吐き捨てられて、返答に詰まった。テラで過去に起きた凄惨な戦争や大量殺戮の話は、彼も耳にしたことがないわけではない。それはトゥトゥの社会ではあり得ないような規模のもので――だけど、とエトゥリオルは思う。彼の会ったことのあるテラ系の人々はみな、そんなふうな野蛮な種族には、とても思えなかった。
 いっとき言葉を探してから、エトゥリオルはいった。「彼らは、攻めてきたりはしませんよ」
「わかるもんか、あの地べた這いども」
 エトゥリオルがびくりと体をこわばらせたことに、ピュートゥは気付かない。強い語調のまま、彼は続ける。「だいたい連中、こっちじゃ大人しくしてるように見えるがな、ああやって害のなさそうなふりをして、経済侵略を仕掛けてきてるんだよ」
 年々市場に増えてゆくテラ系企業の製品をさして、ピュートゥはそんなふうにいった。
 エトゥリオルは反論しようとして、やめた。自分が何をいったって、彼が耳を貸すようには思えなかった。なんたって自分はピュートゥにとって、半人前の未熟なトゥトゥにすぎないのだ。
 ピュートゥは恩のある相手だけれど、それ以上話を聞き続けるのがつらくなって、エトゥリオルは尾羽を下げた。
「あの、ごめんなさい。僕、もう行かなくちゃ。トラムの時間があるんです」
 ピュートゥはまだ何かいいたげな顔をしていたけれど、強引に引き留めまではしなかった。エトゥリオルは彼に背を向けて、小走りになる。
 雨にぬかるんで歩きづらい路地を、エトゥリオルは急いだ。
 ひどくみじめな気持ちだった。ひとに恥じることをしているつもりはないのに、小さくなって逃げ出す自分がみっともなくて、いやだった。
 背中から、声だけが追いかけてきた。「困ったら、相談しろよ。力になれることがありゃ……」
 エトゥリオルは振り返らなかった。走りながら、胸の内だけで叫んだ。――あなたたちには、わからない。
 叫んだ直後には、自己嫌悪で死にそうになった。


  ※  ※  ※


 O&Wの社員食堂は、味がいいことで有名だ。
 一般の利用客にも開放されているものだから、ともすれば近隣のオフィスビルから他社の従業員が、わざわざ食事だけ摂りに来る。
 社員寮の食堂についても同じく好評で、その理由の半分は、もちろん料理人が優秀であるからなのだが、もう半分は、同社の農業部門が頑張っているからだ。
 航空機の会社に、なぜ農業部門があるのか。
 そもそもはるか別の星系にまで進出してくるような大企業には、さまざまな分野の子会社を系列に持つ巨大グループが多い。というよりも、中小規模の会社には、ヴェドまで進出してくるような体力がない。
 必然的に、各分野の人材はいつでも不足している。しかし、ヴェドに存在するふたつの地球人街には、いまやそれなりの人口がある。こちらに骨を埋めるつもりの人々はもちろんのこと、一時出向中の人間でさえ、一年や二年ですぐに帰るわけではない。彼らもそれぞれに生活を送らなければならない。
 つまり、求められる事業の幅広さに対して、企業の数自体が多くない。各企業の経営多角化は、避けられない宿命のようなものだ。かくしてO&Wはトースターも発電機も作るし、合金タワシもイモも作る。
 そのO&Wの農業部門には、ひとり、名物の女性研究員がいる。
 レイチェル・ベイカー。彼女は生物学系のさまざまな分野でいくつもの博士号を取得しており、地球にいたころには米国某有名大学の研究員として、多くの論文を発表していた。その美貌もあいまって、学会では非常に目立つ存在だった。
 才媛として名高い彼女は、ジンにとっては、同じ大学の先輩でもある。


 社員食堂はいつものごとく、大変な賑わいを見せている。ジンは支払いを済ませたトレイを持って、空席を探そうと振り返った。
 すぐ近くの席に、エトゥリオルがいた。ひとりで食事をしている。
 声をかけるかどうか、ジンは迷った。
 ひとりというのは、別に珍しくない。ややすると四六時中仲間とつるんでいないと不安になりがちなテラ系人類と違って、トゥトゥはひとりで食事をとりたがる者のほうが、むしろ圧倒的に多い。文化的背景というよりも、進化のルーツの問題かもしれない。
 そういう知識もジンは持っていたし、なにより食事どきまで上司の顔を見ているのでは、エトゥリオルも息が詰まるだろう。そこまで考えが及びはしたのだけれど、しかし、このときはちょうど、彼に話があった。
 三秒迷って、ジンはエトゥリオルの向かいに立った。
「ここ、いいか」
 エトゥリオルは少し驚いたように目を丸くしたけれど、すぐに微笑んで、どうぞといった。トゥトゥの微笑みは、このごろジンにも見分けがつくようになってきている。
「部長からさっき、話があったんだが――」
 エトゥリオルの皿を眺めながら、ジンは切り出した。トゥトゥと地球人では食べ物が違う。O&Wの社員食堂は味がいいことで有名だが、それは地球人にとっての話であって、必ずしもトゥトゥにとってはそうではないことも、ジンは聞いていた。なんせ料理人が地球人ばかりだ。
「――それ、うまいのか」
 自分で切り出した話を中断してまで、つい、ジンは訊いた。エトゥリオルのスプーンに乗っている食べ物の色が、あまりに奇抜な外観だったので。
 エトゥリオルは困ったように首をかしげて、微笑んだ。言葉よりも明確な回答だった。
「トゥトゥの料理人が来てくれたらいいんだがな」
 ぼやいて、ジンは話を再開した。「今度、社員寮に空きが出るんだそうだ。俺が入っているのと同じ所で、寮の食堂も調理師は地球系ばかりだから、飯は期待できないだろうが――だからってわけじゃないと思うんだが、入寮しているトゥトゥの社員は、そんなに多くない。が、ほかにもいないでもない」
 いいながら、ジンは、エトゥリオルが目を丸くして羽毛をふくらませているのに気がついた。冠羽がぴんと立っている。
 ちょっとためらって、ジンは続きを口にする。
「もし希望するなら、入れるそうだが……」
 そのことをエトゥリオルに薦めていいものかどうか、ジンは迷っていた。しかしエトゥリオルは、嬉しそうだった。地球人の目からみてもすぐにわかるくらい、とても嬉しそうだった。
「あの。すごく、助かります。もしご迷惑にならないのだったら」
 本人が喜んでいるところに水を差すのも、気が引けた。それでも黙っておけなくて、ジンは付け足した。
「迷惑なんていうことはない。だけど、会社のすぐ近くの寮ってのも、いいことばかりじゃないぞ。どうしても会社と寮の往復だけになって息が詰まるし――飯の味もそうだが、君らにとってここは、まだあまり暮らしやすい街じゃないかもしれない」
 なんせ、その辺の店で売っている品のほとんどが、テラ人の生活にあわせたものだ。この町で暮らすトゥトゥは、まだあまり多くない。
 けれどエトゥリオルは、すぐに首を振った。「かまいません」
 それでもジンはまだ、ためらった。
 エトゥリオルは本当に喜んでいるように見える。仕事中にも、楽しそうに働いているように、ジンの目には映る。
 しばらく迷って、ジンはいった。「――無理をしていないか?」
「無理、ですか?」
 きょとんとしたように首をかしげて、エトゥリオルは聞き返してくる。ジンは小さくうなずきかえして、注意深く部下の表情を見守った。
 異星人に囲まれて働いているというだけでも、大小のストレスはあるだろう。寮に移ってくれば、ますますエトゥリオルの生活は、トゥトゥの社会から切り離されてしまう。
 それはほんとうに、彼にとっていいことなのか。
 考え過ぎだろうか。エトゥリオルのきょとんとしたようすをみて、ジンは自嘲する。がらにもない余計な口出しをしているという自覚はあった。
 目を丸くしたまま、エトゥリオルは首を振った。
「無理なんて。――寮、入れてもらえるなら、ほんとうに助かります。いまのところから通うのに、けっこう時間がかかってるので」
 ジンはうなずいた。そうまでいわれたら、それ以上かさねて反対するのも忍びなかった。それに、入ってみて合わなかったら、越せば済むことだ。
「わかった。――伝えておく」


   ※  ※  ※


 エトゥリオルは浮かれていた。嬉しさのあまり、食事の残りもうまく喉を通らないような気がした。
 ジンは味のことを気にしていたけれど、食事がまずいというのは、実のところ、大した問題ではなかった。もともとトゥトゥには、テラ人ほどじっくり食べものを味わう習慣がない。好き嫌いはもちろんあるけれど、そもそもほとんどが丸呑みなのだ。
 暮らしが不便というのも、エトゥリオルにとっては、この街に限った話ではない。トゥトゥの町で、曲がりくねった路地を延々と歩いて買い物に行くことが、すでに彼にとっては苦労だった。
 それより、エトゥリオルにとっては社員寮という言葉の響きが、嬉しくてしかたがなかった。まだ見習い期間は残っているけれど、寮の話は、彼にここにいていいのだといってくれているように聞こえた。
 それに――この町に住めるなら、今朝のようなこともなくなる。
 今朝のことを思い出して、エトゥリオルは顔をくもらせかけた。それから慌てて瞬きを繰り返した。暗い顔をしていたら、またジンから無理をしていると思われてしまう。
「食べ物っていえば」
 話を変えようと、エトゥリオルは顔を上げた。「テラからこっちにやってくるのって、すごく時間がかかるんですよね。一年半でしたっけ。その間の食べ物って、どうするんです?」
「ああ、食いものはかなり大量に積みこんでくるな。こっちと一緒で、向こうでも宇宙港は月にあるんだが、月面プラントで作られた保存食が、航海中の主な食糧になる」
 ジンはいいながら、苦笑を洩らした。「いちおう味はいろいろあるんだが、さすがに途中でうんざりしたな――船内にもいちおう小さなプラントがあって、そこでも野菜なんかの栽培はするんだが、それで賄える量なんか知れてるし、何かあっても途中じゃ補給のしようがないから」
 食糧の問題があるがために、たくさんの物資を運んでくるよりも、ひとを一人連れてくるほうがずっとコストがかかるのだと、ジンはいった。そうまでして、遥かな星の海を渡ってひとがやってくるということを、あらためてエトゥリオルは思う。
 サミュエルのことを考えて、胸が痛む。もうじきサムは、地球に向かって旅立ってしまう。いつかまたやってくるにしても、何年も先のことになるだろう。
 向こうについたら手紙を送るよと、サムはいうけれど、手紙――データをやりとりするだけでも、往復で一年ちかい時間がかかるのだという。
「――もっと、近かったらよかったのに」
 思わずそうつぶやくと、ジンは首をかしげた。「そうかな」
 エトゥリオルが見上げると、ジンは思ったよりもずっと真剣な表情をしていた。
「あんまり簡単にやってこれる距離だと、今度は侵略だなんだと、物騒な話も心配しないといけなくなるだろう?」
 今朝のピュートゥの言葉を思い出して、エトゥリオルはどきりとした。これまでに彼が出会ったテラ人たちは、みな、友好的に見えた。それでも、もしもっと地球が近かったら、彼らは攻め込んでくるのだろうか?
 エトゥリオルの不安には気付かないようすで、ジンは首をかしげる。
「その点、これだけ遠ければ、戦争をするにも大勢で移住するにも、まずコストが大きすぎて馬鹿らしいし――この先どれだけ技術が進んでも、かかる時間はたいして短縮される見込みがないらしいからな。遠くてかえってよかったんじゃないかと、俺は思うよ」
 でも――いいかけて、エトゥリオルは言葉を呑みこむ。この話を続けるのが、怖いような気がした。そのかわりに、彼はぜんぜん違うことを口に出した。「すごく優秀なひとしか来れないんだって、ハーヴェイさんから聞きました」
 眉を上げて、ジンは呆れたような顔になった。
「自分でいうんだから、あいつも大概いい性格をしてるよな……」
 いわれてみればそうだ。エトゥリオルは思わず笑ってしまって、ごまかすように嘴を掻いた。
「それは大げさだが、そうだな――まあ、なんせ人ひとり連れてくるのには、さっきもいったように、金がかかるからな。希望すれば誰でも来れるってわけにはいかないな」
「みなさん、希望して来られるんですよね」
「たいていはそうだ。会社の命令で仕方なく、っていうやつもいるだろうが――」
 ふっと遠い目をして、ジンはいった。「俺は来たかった。もとはといえば、むこうの報道で見た君らの姿に憧れたのが、最初だったな。こっちへの移住を希望したのも、飛行機を作りたいと思ったのも」
 エトゥリオルは目を丸くして、スプーンを取り落とした。そんなに驚かなくてもいいだろうといって、ジンは肩をすくめる。
「あとは、向こうの水があわなかったんだ。家族とも折り合いが悪かったし」
 ジンがプライベートの話をするのは、珍しかった。皮肉っぽく笑って、半ばひとりごとのように、彼はいった。「ちょっとでも故郷から遠いところに行きたかった。まあ、地球を発つころには、さすがにそんなのは子どもじみた逃避だって、自分でもわかってはいたんだが――それでも正直にいうと、清々したな」
 エトゥリオルはその言葉に、とっさに同意しそうになった。彼もまた、成人して家族のもとを離れる瞬間、何よりもまず先に、ほっとしたのだった。そしてそのことに、いつもどこかで、小さな罪悪感があった。
 そのことを、ほとんど口に出しかけてから、エトゥリオルは言葉を呑みこんだ。軽々しく、他人にわかるなどといわれたくはないだろうと、そういう気がして。
「――だけど、犬を置いてきたのだけが、つらかったな」
 それだけを英語で、ジンはいった。意識してのことではないだろう。思わず口からこぼれたというふうだった。
「犬……、向こうの動物ですか?」
「ああ。生き物を連れてくるのは、制限が厳しいから――仕方のないことなんだが。野生化してこっちの生態系を崩しでもしたら、おおごとだし」
 わかってはいるんだが、といいながらも、ジンの表情はどこか、寂しそうだった。犬というのがどういう動物かはわからないけれど、いい友人だったのだろうと、エトゥリオルは思った。
「君たちは、動物を飼ったりはするのか。その、家畜とかではなくて」
 訊かれて、エトゥリオルは首をかしげた。「飼う、というのかわかりませんが、鳥の巣箱を作ったりはしますね。やってくる鳥の好きな樹を、庭に植えたり……」
 へえ、と相槌をうって、ジンは頬をゆるめた。「いいな、それ」
「年中そこにいてくれるわけじゃありませんけど、去年と同じ鳥がやってきたりすると、やっぱり嬉しいです」
「社員寮の裏庭にも、来るかな。こんな都市の真ん中でも」
「来るかもしれませんね」
 エトゥリオルは微笑む。それはとてもいい考えのような気がした。寮に入ったら、巣箱を作ってみよう。社員寮には、手ごろな樹があるだろうか。


   ※  ※  ※


 社員食堂の中が、かすかにざわついた。
 ジンは思わず食事の手を止めて、顔を上げた。喧嘩とか非常事態とか、そういう悪い緊張感ではない。しかし明らかに、その場の雰囲気が変わった。
 周囲を見渡したジンは、大股で歩くひとりの女性に気がついた。
 麦わら帽子というものを、彼は、ものすごく久しぶりに目にした。
 すっぴんの頬にはそばかすと、なぜか、乾いた泥。整えればおそらく綺麗なはずの金髪は、帽子からはみ出して、あちこち跳ねている。けれど本人にはそうしたことを、ちっとも気にするそぶりがない。
 袖まくりしたTシャツにジーンズ、足元ははき古したスニーカー。首にはタオルをひっかけて、その白さが眩しい。両手には山盛りの野菜籠を抱えていた。
 いまどきちょっと見かけない、古典的な農家のおばちゃんスタイルだった。
 野菜を盛った籠まで、資料映画の中に出てきそうな、植物の蔓で編んだやつだ。中にはどうやら芋と、トマトそっくりの何かと、何だか見ただけでは見当のつかない根菜が、絶妙なバランスで積まれている。
 貨物運搬用のカートが、自動制御でぴったり彼女のあとについてきていて、そこにも野菜が山積みになっている。いっそ全部カートに積めばいいようなものなのに、なぜわざわざ彼女は両手いっぱいに、みずから野菜を抱えているのか?
 その答えは、彼女の表情にありそうだった。じつに嬉しそうな、自分の作品を自慢してみんなにみせびらかす子どものような、笑顔。
 にこにこと満面の笑みを浮かべたまま、その女性は足早に、食堂を横切って行く。
 間近に通り過ぎる彼女の顔を見た瞬間、ジンは茫然とした。
 知っている顔だった。といっても、知人ということではない。記憶違いでなければ、昔、なんどとなく報道で目にした顔だ。
 最初はまさかと思った――化粧をしなければ女は別人に見える。けれど、彼女がこちらに移住したという話は、たしかにきいたことがあった。
 ぽかんとして、ジンはその背中が厨房に消えていくのを、口を開けたまま見送る。その向かいで、エトゥリオルは彼が何に驚いているのかよくわからないふうに、首をかしげている。周囲のほかの社員たちは、慣れたふうに食事に戻るか、面白がるように笑っている。
「もしかして、お前、彼女を見るのは初めてか」
 隣の席で飯を食っていた同僚が、面白がるように話しかけてきた。
「ベイカー女史……か? いまのが?」
 なぜジンが驚いているのかというと、彼が知っているレイチェル・ベイカーは、常に一部の隙もない完璧なメイクと華麗なスーツで武装した、名高き才媛だったからだ。報道の中で見かける彼女は、いつだってカメラに理知的な微笑みを向けていた。
 報道や彼女の著作に添えられた略歴で、何度も目にしたことのある女史と、さっき大股に通り過ぎて行った女の子どものようなバラ色の頬が、ジンの中で、結びつかなかった。
 おもむろに腕を組んで、同僚はいう。
「こっちにきて野生化した、代表例だな」
 さっきの話を盗み聞きしていたらしい。とっさに笑いをこらえて妙な顔になったジンに、エトゥリオルが不思議そうに首をかしげた。


 いっときして、女史は厨房から出てきた。来た時と同じように、ずかずかと大股で歩いていく。
 まだ茫然としているジンに気付いて、女史は足をとめた。
「見ない顔ね。あなた、新顔?」
 泥だらけの顔のなかで、眼だけが知性の光を帯びて、楽しげにきらきらしている。
 まさか彼女は、支社に所属する何百人からの社員、全員の顔を覚えているのだろうかと、ジンは眉を上げた。覚えているかもしれない。そう思えるくらいには、彼女は堂々たる話しぶりをしていた。
「――あなたの大学の後輩です、博士。お会いできて光栄です」
「そんな噂を聞いた気がするわ。あなた、エンジニアのひとでしょ……ええと、ジン・なんとか」
「タカハラです」
 ジンがいうと、女史はにっこり微笑んだ。「花形じゃないの。がんばってね」
 はい。返事をするジンの後ろに視線を向けて、女史はにっこりと微笑む。
「じゃあ、あなたが設計部門に採用になったっていう子ね。エトゥリオル、で発音は合ってるかしら?」
 エトゥリオルが目を白黒させながら、どうにか挨拶をする。ほんとうに彼女は、すべての社員を把握しているらしかった。
 ジンは女史の農家スタイルに、不躾と思いながら、つい視線を向けてしまう。
「植物学の研究をされているのかと……思ってました」
「わたしもね、来たときはそのつもりだったんだけど――でも、実際に来てみたら、ごはんがまずかったのよ」
 レイチェル・ベイカーはきっぱりといった。非常に真剣な表情だった。「ものすごく、まずかったの。許されざることだわ」
「……そうですか」
 何と答えたらいいかわからずに、ジンは間の抜けた相槌をうった。けれどその途方にくれたようすを、女史は気にするふうもなく、力いっぱいうなずいた。
「何はなくても、まずはおいしいごはんが、すべての基本だと思うの」
 空になった野菜籠を抱きしめて、女史は力説する。「わたしのプライドにかけて、かならずこの地でおいしい野菜をつくって、みんなの食卓を豊かにしてみせる。――期待しててね」
 女史は不敵に笑って踵をかえすと、来た時とおなじく、勢いよく去っていった。
「なんだか、かっこいいひとですね」
 エトゥリオルが、まじめな調子でそういった。
「――そうだな」
 ジンはうなずいた。女史の言動に思わずあっけにとられてしまったが、実際のところ、彼女のような人材がいてくれるからこそ、この異郷で地球人たちが暮らすことができているのだった。
 トゥトゥの作る野菜のほとんどは、地球人にとって、食べられるものではない。うまいとかまずいとかいう問題ではなく、消化できないのだ。
 作物のほうの改良だけではなくて、人体のほうへのアプローチ――人工の消化酵素を体内に入れることの研究も、少しずつ進んできてはいる。しかしなにせ人体実験を要する研究というものには、とにかく時間がかかる。
 食べ物の問題は、テラ系人類がこの星で活動するうえで、大きな制約になってもいるのだ。ふたつの移民街の外に出て、トゥトゥの街で暮らす地球人がほとんどいないのも、この問題が最大の障害になっているからだった。
 農業部門は、苦労が多いはずだ。地球から植物を持ち込むことにはとんでもなく制限が厳しいし――その点、月面プラントのほうがまだやりやすいはずだ――許可が下りても、その植物がこちらの風土で育つとは限らない。いまあるものに品種改良を重ねて、安全性を確認するための、途方もない検査と実験の積み重ね。大変な仕事のはずだった。
 そのはずだというのに――女史の活き活きとした笑顔を思って、ジンは感じ入った。
「彼女には、こっちのほうが水があうんだろうな」
 そう呟いた自分の声が、思いがけず羨ましそうな響きをしていて、ジンは苦笑した。
 自分にとってはどうだろうか――ジンは考える。
 まだわからない。同僚には恵まれていると思うし、暮らしにも、我慢できないほどの不自由を感じたことはない。地球に戻りたいと思ったことは、この二か月で実のところ、一度もなかった。それは彼女のように、こちらの水があっているからだろうか?
 そういうことではないだろう、と思った。彼はただ、故郷から逃げてきただけだ――このままでは。
 自分が惑星ヴェドにやってきた意味を、見出せる日がいつかやってくるだろうかと、ジンは思った。


   ※  ※  ※


「……じゃあ、寮の話は伝えておく。今日はこれで上がってくれ」
「はい。お疲れさまでした」
 帰ってゆくエトゥリオルの背中を見送って、ジンはわずかに眉をひそめた。
 エトゥリオルの足取りは、心なしかいつもより軽い。社員寮に入るのが、そんなに嬉しいのだろうか。ただ通勤が近くなるというだけの理由で?
「難しい顔をしてるわね」
 同僚から肩をたたかれて、ジンは椅子を回した。
「そんな顔、してたか?」
「まあ、もとからあんたは辛気臭い顔をしてるけどさ」
 笑われて、ジンは顔をこする。「悪かったな」
「なんかトラブルがあるんなら、早めに相談しなさいな。何ごとも問題の共有が基本よ。小さなことでも、ね。――リオがどうかしたの?」
「お、なんだ。問題発生か?」
 もうひとりの同僚が、椅子を滑らせて寄ってくる。これはいい同僚に恵まれたと喜ぶ場面だろうかと、ジンは首をかしげた。ふたりの面白がるような顔からすると、ただ単に物見高いだけかもしれない。
「トラブル、っていうわけじゃないんだが」
 ジンは言葉を濁した。
 ――よかったらリオと呼んでもらえますか。
 あるときエトゥリオルは、そういった。
 はじめは皆、驚いた。なんせふつうのトゥトゥは、名前を正確に呼ばれることについて、非常に強いこだわりがある。
 けれど最近では皆が、その言葉に甘えている。たしかに彼の名前は、地球人にとって、正しく発音するのが難しいのだった。
 サムを通じてニックネームの文化に共感したというエトゥリオルの言い分には、納得できるものがあったし、本人がそれでいいというのなら、ジンが文句をいう筋合いはない。
 それでもジンには、どこか気になる。
「こっちのやりかたにあわせようと、努力してくれているのはわかるんだが……」
 ほんとうにそれで、いいのか。
 口に出してみて、ジンはようやく、自分が何にひっかかっていたのか、わかったような気がした。
 種族間の相互理解は、望ましいものであるはずだ。けれど現状、トゥトゥには地球人を嫌うものも少なくない。いずれその垣根が低くなってゆくことは期待されても、それは今日明日のことではないだろう。
 いまこの時代を生きるエトゥリオルが、無条件に地球人に肩入れすること、生活の多くを地球人のやりかたにあわせるということが、彼にとって、いいことなのか。周囲のトゥトゥ――エトゥリオルの家族や知人の、彼を見る目はどうなのか。
 エトゥリオルは家族の話をしない。トゥトゥはそもそも一般的に、成人して自立すれば、家族とは距離を置く。エトゥリオルが特別ということではないのかもしれないが――
「過保護なやつだな」
 笑い飛ばされて、ジンは視線を上げた。
「そう見えるか」
「見えるね。リオだっていい大人だぜ」
 いわれてみれば、たしかにそうなのだった。ジンは頭を掻く。
 エトゥリオルの嬉しそうな後ろ姿を思い出せば、考え過ぎだろうかという気がした。そもそも、自分だって故郷になじめずにこんなところまで流れてきたくちで、ひとのことをとやかくいえた立場ではない。
 それに――昼間に見たベイカー女史の活き活きした顔を、ジンは思い出す。エトゥリオルだって、同じことなのかもしれない。もしトゥトゥの社会よりもこっちのほうが水が合うというのなら、それはべつに、悪いことではないのかもしれない。
 考えこむジンの肩を叩いて、同僚が笑う。
「お前ら二人とも真面目すぎて、見てるこっちの肩が凝りそうだよ。もうちょっと気楽にやれよ――ってことで、これよろしく」
 端末に送られてきたデータをちらりと見て、ジンは眉を上げた。
「なんだ、これ」
「息抜きにはちょうどいいだろ。俺、いまちょっと別件で忙しいんだわ」
 ファイルを開けば、そこには仕様書が入っていた。
 トラムの客席周りで使う、小型ヒーターの改良案件だった。
「――いくら専門外はないったってなあ」
 肩を落として、ジンはぼやく。本分とはいわなくても、せめて飛行機の設備の仕事をしたい。
「馬鹿。大事だろう、暖房は」
 わざとらしい真顔で諭されて、ジンはため息をついた。相談していたつもりが、体よく仕事を押しつけられただけだった。
 くすくす笑いながら、もうひとりの同僚が横から覗き込んでくる。
「それ、リオにやらせてみたら?」
 ジンは眉を上げて反論しかけて、それから呑みこんだ。エトゥリオルは皆の雑用を手伝いながら、どんどん知識を吸収している。もっと先のつもりでいたが、そろそろ実際に、何か触らせてみてもいいかもしれない。
 ジンはファイルの中身を検討した。それほど難しい仕事ではないし、なにより納期にはかなり余裕がある。「そうだな……教えてみるか」
「あの子、ほんと覚えが早いよね。ついこの間まで素人だったなんて思えないな」
 ジンはうなずいて、頭の中で予定を組み始めた。何からまず覚えさせるべきか。
「あんた、もっと褒めてやりなよ。あの子、比べる相手がいないんだから、あんたに褒められないと、自信がつかないよ。自分がどれだけすごくて、周りに期待されてるかってこと」
 ジンがとっさに反論しようとした、その口を封じるように、追い打ちがきた。「ちゃんと褒めているつもりだって、いま思っただろ。忠告しておくが、お前の褒めかたは、わかりづらい」
 憮然として、ジンはうなずいた。
「――気をつける」





 O&Wの屋上で、エトゥリオルはじっと空を見上げている。  まだ昼どきだというのに、思いがけずたくさんのトゥトゥが、そこらじゅうを飛び交っている。休憩時間を使っての買い物か、昼までのシフトなのか、あるいは混みあう社員食堂をさけて、外に食べに出かけるところだろうか。  今日は風が穏やかだった。高空には真っ白な雲の塊が、ゆっくりと流れている。  この頃にしては涼しく、空気はからりと乾燥していた。飛ぶのには絶好の日和だろう。誰もが気持ちよさそうに、のびのびと羽ばたいている。  真っ白な羽色をしたトゥトゥの女性が、いま上昇気流をとらえて、目を疑うほど高い空にのぼってゆく。  エトゥリオルは一度だけ、空を飛んだことがある。  ようやく物ごころついたばかりの、幼い時分の話だ。まだ自分が大人になっても飛べないなんて、思ってもみなかった頃。その日、兄の背中にしがみついて、エトゥリオルは空にのぼった。  トゥトゥひとり背中にのせて飛ぶなんて、いまにして思えば無茶な話だ。だけどそのころ、エトゥリオルはまだほんとうに小さくて、体重なんて紙のようなものだった。  ――しっかりつかまってろよ。  彼の兄はそういって、翼の付け根にエトゥリオルをしがみつかせた。  幼児のあんがい鋭いかぎづめに悲鳴を上げながらも、兄は二階の玄関から飛び立った。力強く羽ばたいた大きな翼は、すぐに上昇気流を捉えた。そうして彼らは家の上空を、ゆったりと二度、旋回した。  たいした高さではなかったはずだけれど、小さかったエトゥリオルにとっては、その空は、はるかな高みに思えた。上から見下ろす街並みは、砂色の小さな建物がぎゅうぎゅうにひしめき合っている。周りを飛ぶトゥトゥたちの色とりどりの翼が、ときどき視界の端を横切って行った。  着陸寸前、目を回したエトゥリオルがあぶなっかしく転げ落ちて、家の屋上でバウンドする結果になっても、兄弟はけろりとしたものだった。とりわけ落っことされたエトゥリオルのほうは。  心配して集まってきた周りの大人たちからこっぴどく叱られても、エトゥリオルはどこ吹く風で、兄にもう一度とせがんだ。  次は自分で飛べといって、兄は笑った。  その夜、エトゥリオルは興奮のあまり、なかなか寝付けなかった。それがたった一度、彼が自分の体で空を感じた、最初で最後の飛行の記憶。   ※  ※  ※  こわれるのは一瞬だった。  手の中できらきらと光を弾く小さな部品を、エトゥリオルは茫然と見つめた。金属光沢のなかにかすかに透けて見える、おそろしいほど微細な、緻密な回路。そのなかに、肉眼で見てはっきりとわかるほどの、亀裂が入っていた。  ほかの機械のパーツから流用できるような、汎用性のある部品だったらよかった。工場に在庫があって、すぐに取り換えのきくものなら。  その小さな小さな回路は、よりによって、今回の試作品のためにこのひと月をかけて、一から作り上げたやつだった。新しく作った部品のなかで、いちばん手間ひまと材料費のかかった、大事な部品のはずだった。 「――僕、」  言い訳をする勇気さえ、途中でしぼんで消えた。  社内規定としての試用期間は終わったけれど、エトゥリオルは実質上、まだ見習いから半歩も外に出ていない。給料をもらいながらも、仕事の何から何までを教えてもらっている身分だった。この部品だって、自力で作り上げたわけではなくて、手順をひとつひとつ教わりながら図面を引いて、何度も試算して点検してもらって、ようやくOKが出た。三日前に工場に回して、今朝しあがってきたものだった。  工場のロボットが、図面に沿って自動でどんどん作ってくれるような部品もあるけれど、いまエトゥリオルの手の中にあるものは試作第一号、プロトタイプだ。熟練の作業員がていねいに時間をかけて仕上げてくれた。よりによってほかの部品でなくて、なぜこれだったのか。  設計のときにも試算のときにも、慎重になって、どこかに間違いがないか、見落としがないかと、何度も確かめた。それなのに。 「――大丈夫か」  肩をゆさぶられて、はっとした。 「僕、あの――ごめんなさい、」  それ以上の言葉がつっかえて、出てこなかった。自分の努力をふいにしただけなら、まだいい。この部品ひとつ作るのに、みんなのどれだけの労力がかかっていたか。 「気にしなくていい。まだ納期には余裕がある。いまから作り直してもじゅうぶん間に合う――それより、こっちの図面を頼んでいいか。その間に、工場に連絡をいれておくから」  ジンは淡々とそういったけれど、エトゥリオルはすぐに返事ができなかった。何時間もの労力をふいにされて、怒っていないはずがあるだろうか。 「――はい」  それでもかろうじてうなずいたのは、わかっていたからだ。謝ったところで何になる。謝って部品が元に戻るわけではない。  受け取ったチップを端末に読みこませて、データを開く。キーを叩く手が、震えた。  通話を終えたジンが、振り返った。 「本当に気にしなくていい。俺の説明も足りなかったんだ」  エトゥリオルは息を吸って、反論を呑みこむ。そういうジンは、近ごろ本当に忙しくしていて、いまも、いくつもの仕事を並行して進めているはずなのだった。このところ、休日に寮にいたためしがないし、夜も遅くまで残っていた。  ほかのスタッフが、心配そうに視線を投げてきているのがわかった。エトゥリオルは体を縮めて、なんとか図面に集中しようとする。  無理だった。気持ちがすぐに、あの一瞬に戻る。手の中であっけなくひびの入った部品。緩衝材をかぶせる前の、むき出しに近い回路。不注意のつもりさえなかった。  キーを叩く、かぎづめの指を見つめて、エトゥリオルは震える息を吐く。  彼はトゥトゥとしては、かなり手先が器用なほうだ。自分でもそう思っていたし、それは嘘ではないはずだった。けれど、テラ人のやわらかく繊細な手とは、はじめから違う――  それを言い訳にしようとしている自分に気付いて、胸が苦しくなった。そんなことははじめからわかっていた。テラ人がそうする何倍も、自分は注意をはらわないといけなかった。それに、トゥトゥの企業だって精密部品は扱う。何の言い訳にもならない。 「リオ」  呼ばれて、びくりとした。ジンが作業の手を止めて、彼のほうに向き直っていた。 「落ち込むな。君はまだ新米で――俺だってこっちじゃそうだが、とにかく、失敗くらいして当たり前だ。そういう可能性もわかっていて、部品を触らせているんだ。この手の精密機器を扱う仕事は、君は、はじめてなんだろう?」 「――はい」 「新人っていうのは失敗するものだ。それでも知識だけで覚えて頭でっかちになるよりも、実物をさわりながら覚えていったほうがちゃんと身につく。だからリスクを承知の上で、どんどん作業を任せるんだ。誰だって何度も失敗しながら仕事を覚えていく。君が特別に不器用なわけじゃない」  慰められていることが、かえっていたたまれなかった。エトゥリオルはうつむいて、自分のかぎづめを見た。まだ少し、ふるえていた。 「失敗した人間に出来る挽回っていうのは、次はどうやったら失敗しないか、考えることだけだ。……これでもう、覚えただろう? ああいう部品を扱うときに、どこに気をつけたらいいのか」 「――はい」  うなずいたけれど、顔は上がらなかった。ジンの短いため息を、エトゥリオルの耳は拾った。 「休憩にしよう」 「え……」 「昼休みにはちょっと早いが、社食はもう開いてる。いったん仕事から離れて、まずはしっかり飯を食って、外の空気でも吸ってこい。そのあいだに気分を切り替えろ。――上の空で作業したって、よけいな失敗が増えるだけだ」  一から十まで、もっともだと思った。エトゥリオルはうなずいて、立ち上がった。みんなの顔を見られないまま、もう一度だけ声に出して謝って、フロアを出た。  食事なんかとても喉を通らないと思ったけれど、とにかく社員食堂にいった。受け取った料理を無理やりぜんぶ口のなかに入れて、ひといきで呑みこんだ。この上、ずるずる落ち込んだままミスを増やせば、なおさら皆に合わせる顔がないと思った。ジンのいうとおりだ。  エトゥリオルはいわれたとおりに屋上に出て、よく晴れた空を見あげた。この頃にしてはめずらしく陽射しが穏やかで、乾いた風が気持ちよかった。夏がもうじき終わるということに、このときはじめて気付いた。  空の端にうっすらとかすむ月を目で追って、エトゥリオルは目をしばたく。サムは三日前に、宇宙港に向かうシャトルに乗り込んでいった。今頃は月面のはずだ。そろそろ地球に向けて出発するころだろうか。  サムは笑顔でシャトルに乗り込んでいったけれど、その背中を見送りながら、エトゥリオルは泣きそうだった。次に会えるのは何年先だろう――テラはあまりに遠い。  それでここ数日、エトゥリオルは気落ちしていた。けれど、そのせいで集中力を欠いたのだとは思いたくなかった。仕事中には気をそらさずに、作業に没頭していたつもりだった。  だからこそ、失敗が痛い。  空を舞う同胞たちを眺めて、気持ちよさそうだなと、エトゥリオルはぼんやり考えた。  屋上の端に近づいて、エトゥリオルは、翼を動かす真似をした。どんなに力を入れても、冗談のようにのろのろとしか動かない、役立たずの翼。  わかっているのに、ときどき無意識に試してしまう。あるとき急に奇跡が起きて、翼が動くようになっているなんて、そんなことはあり得ない。   ※  ※  ※  言葉がきつい。人の気持ちがわからない。  人生の中で、何度おなじことをいわれてきたかわからない。ジンは階段を上りながら、がりがりと頭を掻いた。こっちに来てからエレベータは使わない習慣が身についた。たかだか三階建てのオフィスだし、近ごろ仕事がおしていて、運動不足がひどい。  気がふさいでいた。間違ったことをいったつもりはなかったけれど、間違っていなければいいというものでもない。  ものには言い方というものがあるのだし、相手を見て言葉を選ぶことぐらい、いいかげん出来るようにならないといけない年齢だ。自分でも、わかってはいる。頭では。  ――お前はものの言い方がきつい。  まずその場にいた同僚から怒られて、あとで話を聞いたハーヴェイにまで、追加で説教された。だいたいお前の顔は怖いんだし――  ジンは憮然とする。面相が悪いのは自分のせいではない。  いや、どうだろう。人間性が顔つきに出ているのかもしれない。歩きながら、思わずジンは自分の顔をこすった。  態度がきついのも、性根が曲がっているのも、自覚はある。人付き合いが下手なことも。気に食わない上司に皮肉を飛ばすくらいの性格の悪さは、もういまさら矯正するつもりもないが、部下のメンタリティに配慮しないというのは、また別の話だ、と思う。  反省はしている。しかし、どう対処したらいいのかはわからなかった。  たとえばハーヴェイなら、どうだろうか。生真面目な部下が失敗して青褪めていたら、冗談めかして笑い飛ばしてしまうだろう。それからさりげなく、重要なことだけを注意する。  ジンは気の利いた冗談をいう自分を想像しようとして、すぐに諦めた。人には向き不向きというものがある。  ため息が出る。過去にも部下を持った経験はないことはないが、どいつもこいつも日がな一日機械のことばっかり考えていて、頭のねじの一本も二本も飛んだようなやつらだった。神経が細いどころか、神経があるのかどうかも怪しいような連中。  数式やロジックが相手なら、怖いことはない。ユーモアを交えて軽口をたたくとか、気のきいた励まし方をするとか、そういうことこそが、彼にとっては難敵だった。いい年をして――と、自分でも思う。思うが、なおらない。  どう声をかけるか決めきれないまま、屋上のドアの前に来てしまった。  ため息をひとつ。ドアを開けるべく、IDをかざす。かすかな電子音がして、ロックが外れる。  屋上に出たジンは、すぐにはエトゥリオルの姿を見つけきれなかった。  外の空気を吸ってこいといったが、その通りにしたのかどうかはわからない。階段に向かったという目撃情報があったので、咄嗟にここだと思ったのだが、あるいは階下に降りて、中庭あたりにいるかもしれなかった。  O&Wの屋上は広々としている。地球のオフィスビルなら、転落防止の柵でも設けてあるところだが、トゥトゥは屋上をあたりまえのように玄関や通用口として使うから、そうした設備は作れない。彼らが飛び立ちやすいように、そのままだ。  風が吹きつけて、ジンは顔をしかめた。屋上という場所が、彼は好きではない。いやな思い出があるのだった。  ジンは物ごころついてからずっと、家族の誰とも折り合いが悪かったが、姉がその中でも極めつけだった。ありとあらゆるものを嫌っていて、人を傷つけることがなにより楽しくてしかたがない、そういう女だった。  その姉が、一度、飛び降り自殺のまねごとをした。  はじめはたしかに、まねごとだったのだと思う。当時の姉の恋人が、泡を食って止めに駆け寄ったときに、彼女のなかで、何かのスイッチが入ってしまったのだろう。姉は楽しくてしかたがないというように笑ったまま、ほんとうに屋上から身を投げた。  先端医療の力というものを、あれほど感じたこともなかった。およそ頭蓋の中身さえ無事なら、ほとんどの体のパーツは再生してしまう――ぐちゃぐちゃに見えた姉は命を取り留めて、三か月後にはもとの彼女と見分けのつかない姿で、家に戻った。  帰宅した姉と、眼が合った瞬間のことを、彼はいまでも覚えている。怯えるジンに気付くと、姉は笑った。楽しくてしかたがないという笑みだった。飛び降りた瞬間に浮かべていたのと、まったく同じ――  首を振る。思いだして気分のいい記憶ではなかった。  給水塔を回り込んで、ジンはぎょっとした。  見慣れたまっしろな羽毛に、きれいな模様の茶斑。後ろ姿でも、見間違えようがなかった。  エトゥリオルは、屋上のへりに立っていた。あと半歩でも身を乗り出せば、まっさかさまに落ちようかという、ぎりぎりのところに。 「――おい!」  とっさに声が出た。驚かせると危ないだとか、そういうことを考える余裕はなかった。   ※  ※  ※  ぼんやりと空を見上げていたエトゥリオルは、背後に誰かの気配を感じた。誰だろう、ここから飛び立つつもりなら、僕がここにいたら邪魔になるかな――考えたのは、そんなことだった。 「おい!」  それはジンの声だった。その切迫した響きに驚いて、エトゥリオルはとっさに振り返った。  ジンは蒼白な顔をして、そこにいた。伸ばされたかけた手の意味がわからなくて、エトゥリオルは目をしばたいた。  風が吹きつける。どこか空の高いところで、誰かの笑い声がしている。  呼吸ふたつぶんほど考えて、ようやく察しがついた。どういう誤解をされたのかということに。 「――あ」  ほとんど同時に、ジンもまた自身の誤解に気付いたようだった。普段はあまり慌てることのない上司が、珍しく動揺しているのが可笑しいような気がして、エトゥリオルは微笑んだ。 「いや――その、悪い、」 「いえ」  エトゥリオルは首を振った。何でもないように笑えたと、自分では思う。  ジンは何度か言葉を呑みこんで、それから真剣な顔で、頭を下げた。 「――すまない。つい何でも、とっさに自分たちの感覚でものを考えてしまう」 「そんな」  エトゥリオルはもう一度首を振った。「心配してくださったんでしょう? ――ありがとうございます」  空を飛べないのがあたりまえの彼らの感覚では、高いところから身を乗り出している人を見かけたら、とっさに心配するのが普通なのだろう。ジンの言葉におそらく、嘘はない。そう自分に言い聞かせながら、エトゥリオルは屋上のへりからさりげなく離れる。 「そろそろ休憩、終わりですよね。――戻ります」  ああ――まだ慌てたような声の相槌を、背中で聞いて、足早にならないように、エトゥリオルは歩いた。  IDカードをかざして、ドアを開ける。急がないように気をつけて、ゆっくりと階段を下りた。ジンの足音は、すぐには追いかけてこない。ほっとして、エトゥリオルは眼をしばたく。  階段には窓がない。扉を閉めてしまえば、外が晴れていることもわからない。できれば誰も上がってこなければいいと願いながら、エトゥリオルは薄暗い階段を、一歩ずつ踏みしめる。  この状況で心配されるトゥトゥなんて、僕ぐらいのものだろうなと考えて、エトゥリオルは小さく笑った。  いちいちそんなふうに考えてしまう自分が、みじめだった。



 設計畑には変人しかいない、というのは赴任半月めのときのジンの言だ。その言葉の客観的な真偽と他人事ぶりはさておいて、ヴェド支社の設計部にくせの強い人間が多いのは間違いない。
 エンジニアのアンドリューは、その筆頭だ。お気に入りの音楽がないと仕事が出来ないといって、勤務時間中にもかたときも私物のイアホンを外さない。
 彼はいついかなるときも――仕事中も移動中も風呂に入っているときも、睡眠中でさえ、彼のお気に入りの音楽を聴きつづけている。それでたまには静寂が恋しくなったりはしないのかと、周囲が不思議になるくらいなのだが、どうもそういうことはないようだ。
 いま彼が配置されているこの設計部は、作業音楽とは縁がないが、BGMが慣習になっている職場にいたときは、選曲が気に入らないといって、わざわざ専用のノイズキャンセラを作って自分の耳に届く音を消していた。その上からお気に入りの音楽を聴くのだ。
 ノーミュージック、ノーライフ。けっこうなポリシーだ。上司にどれだけ叱責されようが嫌味をいわれようが、アンドリューにちっともこたえるそぶりはなく、近ごろではもうなんだか皆がどうでもよくなって、見て見ぬふりを通されている。
 彼にいわせれば労働歌の文化は、地球人類がまだ猿だった太古の昔から連綿と受け継がれてきた、じつに理にかなったシステムなのだそうだ。曰く、みなが同じようにしないのが理解しがたい。
 ノリのいい音楽で常に気分を上げていくのが、能率的な作業遂行の秘訣――表だって同意を得られることはあまりないが、アンドリューはそのようなことは気にしない。
 その論が正しいかはさておき、彼がそのBGMのせいで人の話を聞き逃したり、音楽に熱中しすぎて手を止めたりしているようすは、特にみられない。それどころか彼は非常に腕のいいエンジニアで、これまでに上げてきた実績には、上司を黙らせるくらいの力は十分にある。
 彼のどこが筆頭扱いされるほど変なのかというと、そのイアホンが見た目だけの飾りで、実機能としてはまるきり役に立っていないというあたりだろうか。
 アンドリューの本当の音楽スピーカーは、外科的手術で側頭に埋め込まれた再生装置で、これは脳に直接信号を送る形で音楽を再現するので、外にはいっさい騒音を漏らさない。
 つまり、そのお飾りのイアホンさえ装着していなければ、アンドリューが音楽を聴きながら仕事をしているなんていうことは、周囲にはわからないし(本人がノリノリで歌いだしたりリズムをとったりしなければの話だが)、そうすれば上司とのあいだにいらない波風を立てることもない。
 それなのになぜ、わざわざ古式ゆかしき外観のイアホンを耳からのぞかせて、いかにもいま俺は音楽を聴いてるぜ! というファッションを、彼は貫いているのか。
 そのほうが気分が出るから、だそうだ。もう慣れ切ってしまって、同僚は誰もいまさらいちいちつっこまない。


 そのアンドリューが、珍しくインプラントの音楽再生装置を停止して、皆にも聞こえるように音楽をかけていた。古い戦争ムービーにでも小道具として出てきそうな、古色蒼然たるラジカセ――にそっくりの見た目をよそおった、最新式の音楽プレイヤーを持ち込んでいる。
 そんな趣味的なシロモノを、いったいどこから持ってきたのかというと、どうも自分で組み上げたらしい。工場から余った部品をがめているところを、複数の社員から目撃されている。
 フロアじゅうに響き渡る大音量だった。終業時刻は過ぎたとはいえ、まだほとんどのスタッフが残業している。
 そういう状況で、まっさきにうるさいといって怒りだしそうなジンが、これまた珍しいことに、手を止めて音楽に聴き入っている。
 それも無理もないくらい、美しい歌声だった。
 独唱だ。楽器の伴奏はないのだが、ときおり何か低い、ゆったりとした汽笛のような音が混じる。それがメロディーを、ふしぎと邪魔せずに調和している。
 歌い手の音域は非常に広い。トゥトゥの歌声だ。
「――いい歌だな」
 再生が終わったところで、ジンが思わずというふうに呟いた。その肩に、アンドリューが嬉しそうに腕をまわす。
「お前に音楽を理解する心があるっていうのは、嬉しい驚きだな」
 いって、アンドリューはジンの肩をばんばん叩く。無駄に力が強い。ジンがよろけてもちっとも気にせず、彼はふと気付いたように首をかしげる。
「そういやお前、せっかくこっちに来たのに、仕事仕事でまだほとんど遊んでないだろ」
「誰のせいだ?」
 呆れて、ジンは半眼になる。なんだかんだと面倒な仕事を押しつけてくるのは、たいていアンドリューだ。
「お前の要領が悪いだけだろ。遊ぶ時は遊ぶ、働くときは働く。オンオフの切り替えが大事なんだよ。ちょっとくらい休んで、小旅行にでもいってきたらどうだ?」
 アンドリューはいい考えだというように、自分の言葉に何度もうなずいている。
「――旅行っていったってなあ」
 ぼやくジンに、アンドリューは首をひねる。それからああ、と声を上げた。
「そうか、まだ出られないのか、お前」
 ジンは肩をすくめた。
 地球から移住してきた人間は、半年間は、移民街の外には出られない。それはトゥトゥの国家のどこかから要望があったというわけではなく、地球人の側が自発的に定めた、防疫のための条約だ。
 潜伏期間がもっと長い病気もないとは言い切れないが、航海中の期間もあるし、それに血液検査をはじめとするヘルスチェックは、到着前後に何度も重ねられている。現実的な妥協点として、半年――惑星ヴェドの暦でいう半年だから、およそ二〇〇日の線が引かれている。
 地球人の罹患する病気が、トゥトゥにも感染するという可能性は低いが、ウイルスや病原菌がトゥトゥの生態にあわせて変異する可能性は、捨てきれない――その逆もありうるように。
「まあ、マルゴ・トアフの中にも遊ぶ場所はあるさ。トゥトゥの歌に興味が出たなら、市民ホールに行ってみるといい。――ああ、ちょうど今日あたりが狙い目だぜ」
 端末のカレンダーをチェックして、アンドリューがいう。
「コンサートでもあるのか?」
「市民コンサートだけどな。こっちまで来てくれるプロの歌い手はなかなかいないが、アマチュアでも、じゅうぶん聴く価値はあるよ」
 アンドリューの言い分には説得力があった。なんせトゥトゥの音楽というのは、地球でもおおいに人気を呼んでいる。
 音楽データや絵画の複写のような情報商品は、地球との交易品目として、最大ベースのものになっている。というのも、星系間で品物をやりとりするのには、かなりの費用と時間がかかるからだ。そこまでのコストをかけても交易する価値のある商品というのは、あまり多くない。
 極端な話、こちらで発明した最新技術で作り上げた商品があったとして、それを地球まではるばる輸送しても、届いたときには向こうでは、とっくに時代遅れになっている可能性さえある。
 それに比べて、データのやりとりならば、ずっと早くできる。早いといっても時間はかかるが、ものを送るよりはずいぶんましだし、費用も安価で済む。実際のところジンも、地球にいたときに、何度かトゥトゥの楽曲を買って聴いたことがあった。
「だいたいトゥトゥって、歌うのが好きだよな。工場のやつらなんか、しょっちゅう歌いながら手を動かしてるしさ」
 嬉しそうにいうアンドリューには、トゥトゥの生歌が聴きたいがためにヴェド勤務を希望したという逸話がある。しかしそのためにエンジニアになったというのがどこまで本気なのかは、本人しか知らない。
 それほど音楽が好きならば、エンジニアなどせずに音楽業界で働いていてもよさそうなものだが、商業音楽の傾向と彼の嗜好には、ずれがあるらしかった。
「データならネットで買えるけど」ラジカセもどきをこつこつと叩いて、アンドリューは笑う。「でも、生で聴くとやっぱりぜんぜん違うぜ」
「そうだな……行ってみるかな」
 顔を上げて、ジンは隣の席を振り返る。「リオ、君も行かないか」
 驚いたエトゥリオルは、羽毛を膨らませて、きょろきょろ首を回した。
「僕、ですか?」
「君もこのごろ、ほとんど職場との往復になってるだろう?」
 エトゥリオルは何度かまばたきをして、それから頭を下げた。
「――ありがとうございます。お供します」
 その仰々しい言い回しが可笑しかったらしく、アンドリューが吹きだす。「お供、ねえ」
 周りで話を聞いていたほかのエンジニアたちまで、つられて笑いだす。なにを笑われているのかわからずに、エトゥリオルはきょろきょろと彼らの顔を見渡して、首をかしげた。


  ※  ※  ※


 夕暮れ時のマルゴ・トアフのステーションは、光に満ちていた。数えきれないほどの案内灯、照明、店の看板を彩るライト。
 この時間にトラムを下りてくるのは、出張や旅行から帰ってくる地球人が多い。逆にいまからトラムに乗り込むのは、自宅に戻るのだろう、トゥトゥの労働者たちだ。
 そんな流れに逆らうように、ひとりのトゥトゥがいま、ホームに降り立った。
 背が高い。体つきは引き締まって、どちらかというと細身なほうだが、骨格が大きい。羽色は腹側では真っ白で、背中や翼に入った斑は、オレンジがかった鮮やかな褐色をしている。その模様がまた華麗だった。トゥトゥ的にいうなら、いかにも女にモテそうな外見だ。
 鼻歌まじりに、彼は階段を上る。あちらこちらに気をとられながらの、いかにも気まぐれな足取りだが、そうして歩く姿が妙にさまになっている。すれ違うトゥトゥに振り向かれても、他人の視線を気にする様子はない。注目されるのに慣れているのだ。
 二階に出て、ロータリーから飛び立つ前に、彼は暮れなずむマルゴ・トアフの街並みを睥睨する。楽しそうに、その眼がきらめく。
「さて、異星人(エイリアン)の租界と聞いたから、どんな魔窟かとおもいきや。どうしてなかなか、楽しそうな街並みじゃないか」
 ポシェットを探って、彼は端末を取りだす。最新式の、とびきり薄くて頑丈なやつだ。画面に表示された地図は、一般的なトゥトゥの街のものよりも、ずっと表示が詳細だった――空から目標を探すことに長けているトゥトゥは、そもそもあまり地図の正確さいうものにこだわらない。
 端末を戻して、彼はふたたび街を見下ろす。
「ふむ。あのへんかな」
 歌うように独り言を漏らしながら、ロータリーの端へ。石畳を蹴爪で力強く蹴って、彼は大空に舞い上がった。大きな翼が、易々と風をとらえて高度を上げる。
 エイッティオ=ルル=ウィンニイはゆったりと羽ばたいて、マルゴ・トアフの空を旋回する。


  ※  ※  ※


 車窓から眺める夕暮れどきのメインストリートは、フェスティバルのときほどではないけれど、おおいににぎわっていた。ジンは目を細めて、喧騒を見やる。
 空を見上げれば、駅のほうに向かって飛んでゆくトゥトゥたちの姿。地上には地球人たちが目立っている。足早に帰るもの、いかにも残業中の買い出しといったふうのもの、仕事が引けて浮かれているのか、楽しそうにそこらの商業ビルを冷やかしているものも少なくない。
 ショーケースに並ぶさまざまな日用品、インテリア、衣料品。トゥトゥの羽毛を手入れするためのオイルと、人間用のヘアクリームが、同じ棚でいっしょくたに陳列されている。違法すれすれのインプラント改造ツールに、はてには何に使うのかよくわからないトゥトゥの民芸品まであった。雑多な商品のならぶ通りに、ちらほらと飲食店の看板も混じっている。
「ずいぶん賑わってるな」
「普通だよ。毎日毎晩飽きもせずにそこまで仕事漬けなのは、お前くらいだ」
 笑ってそういうハーヴェイも、半分は社屋に住みついているようなものだ。残業をさぼって無駄口を叩きにきたところで、出掛けようとするジンとエトゥリオルに気付いて、いい口実を見つけたといわんばかりに、そのままついてきた。
「ま、ようやく息抜きをする気になったのは、いいことだけど――こっちの音楽に興味が出たなら、いつか東部に行ってみたらいい」
「東部?」
「そう。クジラの歌が聴ける」
「――クジラがいるのか」
「地球の鯨類とはだいぶ違うけどね。大型の海洋哺乳類がいるよ。トゥトゥはよくいろんな生き物と合唱するけど、東のほうはとくに盛んなんだよ」
「アンドリューが再生してたのが、それですよ」
 エトゥリオルが口をはさんだ。歌声の後ろで響いていた音を思いだして、ジンは納得した。汽笛のような、ゆったりした低音。
 ハーヴェイが首をひねって、エトゥリオルのほうを振り返った。「鳥とも、よくいっしょに歌ったりするよな――あれって、どうやってるんだい。捕まえて訓練してるって感じじゃないよな」
「どうでしょう。そのときのステージで呼んでみて、来てくれた鳥と歌うんじゃないでしょうか」
「呼んだら来てくれるんだ?」
「そうですね――こんな感じで」
 エトゥリオルは喉を複雑に震わせて、いつもの話し声とは違う、高い音を立てる。「鳥の種類によって、呼び声が違うんです。いつも来てくれるとは限らないけど……」
 へえ、と感心したような声を上げて、ハーヴェイが目を輝かせる。
 ジンは車窓から、空に視線を向ける。今日は雲が多い。低いところを、何か黒っぽい鳥が飛んでいるのが見える。さすがに車中の声を聞きつけて舞い降りてくることはないようだった。
「そういえば、声で思いだしたんだけど、君らの名前って、産声なんだって?」
「あ、そうですね。第一声がそのまま名前になります。だけど、それって西部だけの風習らしいです」
「ああ、やっぱりそうなんだ。それでかな、似たような響きの名前が、けっこう多いよね――いや、ごめん、君たちの耳にははっきり聴き分けられるんだろうけど」
 ハーヴェイはばつの悪いような顔をしたが、エトゥリオルは笑って首を振った。
「いえ。似た名前のやつなんて、腐るほどいますよ。昔なんかは、生後三日以内に声を立てなかった子は、みんな名無しだったらしいし……」
 言葉を切って、エトゥリオルはくすりと笑う。「名前っていえば、笑い話が残ってるんですよ。ずっと昔の王様なんですけど、伝説があって。殻から出るのを待たないうちから、産まれおちて羽が乾くまでずっと、延々と声を上げ続けたんだとか」
 ハーヴェイが小さく吹き出す。「そりゃまた、周りは迷惑だったろうね」
「童歌にもなってます。そっちの方は誇張が入ってるらしいんですけど、とんでもなく長い名前だったのは本当で、公文書にも残ってるそうです」
「典礼とか、公式行事とか、いちいち大変だっただろうなあ」
 ハーヴェイはいって、くつくつと笑った。名前を正確に発音することが礼儀とされるトゥトゥの社会だ。途中で噛んだりしたら、目も当てられない。
「そこまでじゃないんですけど、うちの兄なんかも、名前が長くて。よくほかの人から面倒がられてます」
「あ、お兄さんがいるんだ。――あれ、でもトゥトゥって、あんまり兄弟といっしょに暮らしたりしないんじゃなかったっけ」
「そうですね。うちの場合はちょっと、兄が特殊で」
 トゥトゥは普通、子育てがひと段落して子どもがひとり立ちするまでは、次の卵を抱かない。子どものほうでも、育ってしまえばさっさと家を出て、そのあとはめったに親を頼ることもないから、兄弟の顔さえ知らない場合もめずらしくない。
「兄はなんていうか――いつまでもふらふらしてて、落ち着かなくて。とっくに家は出てるんですけど、僕がいるときも、しょっちゅう戻ってきてました」
「へえ――ああ、着いた」
 車が速度を落として、建物の前庭に入る。マルゴ・トアフにある車は、基本的に交通局の管理する無人タクシーばかりだ。自家用車というものがないから、当然ながら駐車場もない。次々に人を下ろしては、無人の車が去っていく。
 やってくる車の多さに、ジンは驚いた。市民コンサートだと聞いていたから、もっと小規模な催しだと思っていた。
「――本格的だな」
 ジンの呟きに、エトゥリオルがどぎまぎしたようすでうなずいた。人の多いところが苦手なのか、落ち着かないようすで冠羽をぴくぴく揺らしている。
 その様子を見て、ジンは口を開きかけた。言葉をさがして、ためらう。
 先日の屋上での一件を、あらためて謝りたかったけれど、ここ数日、ゆっくり話すタイミングをつかめなかった。アンドリューの話をいいきっかけと思って、連れ出してはみたものの、無理に付き合わせてしまったような気がして、いまさら気が咎めていた。
「おおい、入るよ」
 さっさと入場券を買ったハーヴェイが、二人に手を振る。
 開きかけた口を閉じて、ジンは歩きだす。コンサートが終わってからにしよう。


 一曲目と二曲目は市民合唱団による混声合唱で、七人のトゥトゥが舞台に並び、きれいなハーモニーを聴かせた。
 会場には音響設備もあるのだろうけれど、そうしたものが使われているような様子はない。そのままの声だけで充分なのだ。
 セミプロだという話が周囲の聴衆から漏れ聞こえてきたけれど、それも納得できる歌声だった。アドリブが入って、ときおり奔放に脱線するのに、それが全体にぴたりと調和している。
 コンサートホールは何百人と収容できそうな、りっぱなものだ。そこに、満席とはいかないが、けっこうな人数の観客が入っている。それだけの客席が、おおいに拍手でわいた。
「――たしかに、聴きに来る価値はあるな」
 ジンが思わずそういうのに、エトゥリオルが熱心にうなずいた。
 合唱団が挨拶をして、舞台のそでにひっこんだ。その直後、ふっと照明が落ちて、観客席にとまどうようなざわめきが起きた。
 舞台の上にスポットライトがともる。
 さきほどはそういう演出はなかった。何事かと舞台に注目する人々の視線を受けて、スポットライトが、軽やかに躍りだす。
 唐突に、大きな羽ばたきが響いた。
 舞台のそでから、ひとりのトゥトゥが躍り出る。まさしく躍り出る、というかんじだった。大きく翼を打ち鳴らして、飛びながら姿を現したのだ。
 派手な色をしたトゥトゥだ。胸元は純白だが、頭や背中はオレンジに近い褐色をしている。翼の先にいくほどその色があざやかに濃くなって、美しい模様の斑が入っている。
 舞台は、歌うには充分すぎるほど広いけれど、自由に飛びまわるには当然ながら狭い。その狭い舞台の上を、器用に飛びまわりながら、トゥトゥは歌い出す。
 朗々たる美声だった。
 はじめは驚いていた人々も、徐々に笑顔になって、このパフォーマンスを楽しみはじめる。途中からは、手拍子まで起こりはじめた。
 調子に乗ったトゥトゥの歌い手は、歌声を響かせながら、客席の上にまで躍り出る。抜け落ちた羽がひらひらと舞うのを、客席の地球人の子どもが、喜んでキャッチしている。
「ずいぶん派手だな……」
 歌を邪魔しないように、ジンは小声で呟いた。それから隣で、エトゥリオルがなぜかがっくりとうなだれているのに気がついた。
「――リオ?」
 エトゥリオルは頭を胴体にめりこまんばかりに縮めて、小さくなっている。トゥトゥのジェスチャーは、必ずしも地球人のそれと一致しないが、彼が何かいたたまれない様子でいるということは、ジンの目にも明らかだった。
「すみません――」
 エトゥリオルは縮こまったまま、唐突に謝った。ハーヴェイが振り向いて、怪訝そうな顔になる。
 なにを謝られているのかわからなくて、地球人ふたりが顔を見合わせる。エトゥリオルはうなだれたまま、消え入りそうな声でいった。
「……兄です」


  ※  ※  ※


 ステージが終わると、歌い手は袖に引っ込まずに、そのままばさばさと翼を鳴らしながら客席に飛び込んできた。
 ハーヴェイはとっさに軽くのけぞったけれど、エトゥリオルの兄は危なげなく客席のあいだを縫って、ふわりとそばの通路に降り立った。
「よう、元気にしてたかエトゥリオル!」
 席を立ったエトゥリオルが、胸ぐらをつかまんばかりの勢いで兄に詰め寄るのを見て、ハーヴェイは目を丸くする。
「こんなところで何やってるんだよ!」
 叫んでしまってから、周囲の視線を集めてしまっていることに気付いたようすで、エトゥリオルは羽毛を逆立てた。「とにかく、出るよ! ――すみません、すみません」
 周囲の観客に何度も頭を下げながら、エトゥリオルは兄の腕をぐいぐいひっぱってゆく。
「何って、可愛い弟がちゃんとやってるかどうか、心配になって見に来たんじゃないか……あ痛てて、乱暴にひっぱるなって、ハゲるだろ!」
 騒々しく出ていく兄弟を、いっときあっけにとられて見守ったあとで、ハーヴェイは我にかえった。
「――俺たちも出ようか」
「そうだな……」
 追いかけてホールを出るまでに、ふたりは点々と落ちている羽根を何枚もみかけた。
 ロビーの隅のほうで、兄弟は引き続き騒いでいた。
「心配することなかったか。ずいぶん元気そうじゃないか、弟よ」
「――たったいま元気じゃなくなったよ! なにやってんだよもう!」
 そこでようやく追いかけてきた二人の姿に気付いたらしく、エトゥリオルは顔を上げる。「なんていうか、すみません……」
「いや、謝らなくても。楽しそうなお兄さんじゃないか」
「似てない兄弟だな」
 口々に勝手なことをいう二人に、エイッティオ=ルル=ウィンニイはいまやっと気付いたようすで、大きく翼を広げて挨拶した。
「あ、どうもどうも、弟の上司の方です? こいつちゃんとお役に立ててます?」
 もちろんとうなずきながら、ハーヴェイはこんなに愛想のいい――というか調子のいいトゥトゥもなかなか珍しいなと思い、思っただけで口には出さなかった。ジンはいつものように、愛想にかける態度ではあったが、真面目な顔で即答した。「いつも助けられてる」
 それを聞いたエトゥリオルが、羽を膨らませて固まってしまう。弟の様子を見たエイッティオ=ルル=ウィンニイは、おお、こいつさては照れているなといって、大きく笑った。
 ハーヴェイもつられて、くすりと笑った。「――だけど、すごいな。噂をすれば影って、ほんとなんだなあ」
「あ、そういう格言、こっちにもありますよ」
 エイッティオ=ルル=ウィンニイはそういいながら、ははーんという顔をして、顎をさすった。
「エトゥリオルよ、職場のひとと仲がいいのは素晴らしいことだが、いい年をして身内の自慢話をするのは、あまり格好のいいことじゃないぜ?」
「なんで自慢だと思うんだよ。名前の話をしただけだよ」
「ああ、俺の美声は生まれつきだっていう話か」
「エイッティオ=ルル=ウィンニイは生後三日から口が減らないっていう話だよ! だいたい、僕の顔を見に来たんなら、なんでこんなところで歌ってるのさ……」
「それはお前が悪い」
 断言されて、エトゥリオルがひるむ。エイッティオ=ルル=ウィンニイは真面目な顔になって、懇々と弟にいい諭した。
「弟よ、まめに知らせをよこすのはいいが、お前はいつも肝心なところが抜けている。肝心の住所が書いてなかったぞ」
「前もって連絡すればいいじゃないか」
「馬鹿だなあ、お前。いきなり来て驚かせるのがいいんじゃないか」
 きっぱりといって、エイッティオ=ルル=ウィンニイは翼を振る。「まあ、会社の場所はわかったから、そっちに行ってみるつもりだったんだけどな。トラムに乗り遅れて、着いたのが夕方だったんだよ。いちおう会社の前までは行ってみたんだが、どうも終業時間は過ぎてるようだったし」
 ひとまずどこかに泊まって、明日にでも出なおすつもりで、人通りの多いほうに飛んできたのだと、エイッティオ=ルル=ウィンニイはいった。
「だけど、ここの前を通りかかったら、なんだか楽しそうなことをやってるし、受付で訊いたら、飛び入りでもいいっていうから、これは俺の出番だろうと思ったのさ。まさかお前がいるとは思わなかったが」
 これも血の絆というやつだろうかなあといって、エイッティオ=ルル=ウィンニイはうんうんとうなずいた。
 エトゥリオルが、がっくりとうなだれる。「なんていうか、色々とすみません……」
「だから、別に謝らなくても」
 エトゥリオルのようすが珍しくて、ハーヴェイは笑った。「せっかくだから、君、明日は仕事休んで、お兄さんと一緒にあちこち見物して回ったら? まだあんまりこっちの観光もしてないんだろ」
「いえ、そういうわけにはいきません」
 エトゥリオルがきっぱりと首を振るのに、エイッティオ=ルル=ウィンニイが残念そうな顔をする。「なんだ、真面目なやつだなあ」
「っていうか、いやです」
「弟よ!?」
「仲がいいなあ」
 笑って、ハーヴェイは首をかしげた。「ええと――エイッティオ=ルル=ウィンニイ?」
 呼びかけると、エイッティオ=ルル=ウィンニイは面白がるような顔をした。
「はいはい、なんでしょう」
「まだ宿が見つかってないんだったら、社員寮に泊まられたらいいですよ。どんなところで弟さんが暮らしてるのか、一度見ておかれたら安心でしょう。許可、取っておきます」
「おお、ありがとうございます!」
 嬉しそうにいって、エイッティオ=ルル=ウィンニイはエトゥリオルの背中を抱く。「弟よ、今夜は久々に語り明かそうじゃないか!」
「いやだよ、明日も仕事なのに」
 げんなりしたようすで、エトゥリオルがうなだれる。エイッティオ=ルル=ウィンニイは気にした様子もなく、弟の背中をばんばん叩いた。


   ※  ※  ※


 車を停めて、二人を寮の前でおろしてから、ジンとハーヴェイはそのまま社屋に戻った。無理をして時間を作りはしたけれど、ふたりとも仕事は山積している。
 日はとうに落ちているけれど、支社の廊下は浩々と明るい。部署によっては遠方の取引先や空港と連絡を取る都合から、深夜まで交代で人が詰めている。
「いやー、リオはあんな顔もするんだなあ。すごいな、家族って」
 ハーヴェイが感慨深げにいうのに、ジンはうなずいた。その顔を覗き込んできて、ハーヴェイは笑う。「お前、羨ましそうな顔してるぜ」
「そうか?」
 自分の顔を手でこすって、ジンは苦笑した。「……そうだな。たしかに、羨ましいな」
 ハーヴェイは目を丸くして、足を止めた。
 つられて立ち止まったジンが、怪訝な視線を向けると、ハーヴェイは感慨深げにため息をついた。
「お前、変わってないようで、やっぱり変わったよなあ。十年って長いな」
「うるさいな。お互い様だろう」
 顔をしかめて、ジンは手を振った。気にするようすもなく、ハーヴェイはにやりと笑う。「リオは、元気が出たようじゃないか」
「――落ち込んでたの、わかったか」
「そりゃ、わかるよ。お前なあ、耳タコだと思うけど、もっとなんでも気楽にやれよ。ユーモアって大事なんだぜ? リオも真面目なんだから、二人とも真面目くさった顔を突き合わせてたら、息抜きってもんができないだろう」
 しかつめらしい顔で、ハーヴェイがいう。ジンは憮然としながらも、うなずいた。「アンドリューからも言われた」
「まあ、気の利いたことをいうお前は気色悪いけどな」
「どっちだよ……」
 ぼやいて、ジンは窓に視線を投げる。そこからちょうど、寮の灯りが見えている。
 ふと、ジンは微笑んだ。いまごろは兄弟で、また騒々しく喧嘩の続きをしているだろうか。


   ※  ※  ※


 エイッティオ=ルル=ウィンニイはなかなか眠ろうとしなかった。眠る姿勢で寝床に座ったまま、ひっきりなしに弟に話しかける。まるで合宿中の学生のようなテンションだ。
「いやあ、それにしてもこんなところで働いてるっていうから、心配してたけど、エイリアンにしてはなかなか、気のいい連中みたいじゃないか」
 エトゥリオルはむっとして口をはさみかけたが、エイッティオ=ルル=ウィンニイは慣れた呼吸で先を封じた。「いい勤め先が見つかってよかったなあ、お前」
 しみじみした口調だった。
「――うん」
 素直にうなずいて、エトゥリオルは窓の外に視線を向けた。ここからカンパニーの社屋が見える。まだ窓の奥に、照明がのぞいている。
 ジンは仕事に戻って行った。
 本当は忙しいはずなのに、市民コンサートを口実に、時間を取ってくれた。たぶん、エトゥリオルが落ち込んでいたのを気にして。
 その気遣いが嬉しかったけれど、それ以上に、申し訳なかった。まだ戦力にならない自分がくやしくもあった。
「あの赤毛のほう、俺の名前、きっちり呼んだなあ。もうちょっとで噛みそうだったけど」
 エイッティオ=ルル=ウィンニイは、上機嫌な調子でそういった。
 エトゥリオルは自分の羽をひっぱって、ちょっとためらってから、いった。「仕方ないんだよ――だいたい、喉のつくりが違うんだから」
「知ってる」エイッティオ=ルル=ウィンニイはあっさりうなずく。「それなのに頑張って発音したから、いいやつそうだなと思ったんだよ」
 エトゥリオルは、とっさに反応に困った。困って、いった。
「――そんなにいちいち心配してくれなくていいよ」
「お、生意気いうようになったなあ。昔は俺が会いに行くたびに、足元をちょろちょろつきまとって、べったりへばりついてきてたのに」
「そんなチビの頃の話なんか、不可抗力だろ」
 嘴を下げて、エトゥリオルは憮然とする。エイッティオ=ルル=ウィンニイは笑って聞き流した。
「お前、あいつらの会社で何してんの」
 エトゥリオルは答えるのを、わずかにためらった。前に送ったメールのなかでも、仕事の中身はぼかしていたのだった。
 けれど結局、エトゥリオルは答えた。
「機械をつくる仕事」
「機械、ね」
 エイッティオ=ルル=ウィンニイは繰り返した。その声に、皮肉の響きはなかったけれど、エトゥリオルは逡巡した。いっときためらってから、付け足した。「飛行機とか。――まだ、作ったことないけど」
 兄がどういう反応をするか、エトゥリオルは固唾をのんで待った。エイッティオ=ルル=ウィンニイの顔を見られずに、背を向けて窓の方を向いたまま、じっと黙っていた。
「飛行機か」
 エイッティオ=ルル=ウィンニイのあいづちは、あっさりしたものだった。その声には、批難の調子は感じとれない。
 エトゥリオルはいっときそのままじっとしていたけれど、結局、がまんできずに兄のほうを振り返った。
「――反対する?」
「なんで?」
 エイッティオ=ルル=ウィンニイはそういって、笑い飛ばした。「でかいものを作るのって、面白そうじゃないか」
 またいっとき黙り込んで、エトゥリオルは翼をぴくぴくさせた。
「――怒るかと思った」
 エイッティオ=ルル=ウィンニイは、小さく首をかしげた。それからふっと、真面目な調子でいった。「まあ、世間の風当たりは強いよな」
 それでも、だからやめろとは、エイッティオ=ルル=ウィンニイはいわなかった。そのかわりに翼を伸ばして、エトゥリオルの背中を、軽く叩いた。
「頑張れ」
「――うん」
 それきり、エイッティオ=ルル=ウィンニイは話すのをやめた。
 兄がほんとうに眠ってしまったのか、寝た振りをしているのか、エトゥリオルにはわからなかった。
 そのままいっとき眠ろうとせずに、エトゥリオルは窓の外を見ていた。
 自動車が裏手の道を通りかかるらしい、かすかな走行音がする。夜行性の鳥の羽ばたきが、窓の外を横切って行った。





 ハーヴェイがジンと知り合ったのは、大学の教養課程でのことだ。
 ジンは周囲から浮きに浮いていた。飛び級を重ねて入学したのはハーヴェイ自身も同じことだったが、東洋人は若く見られるから、ジンは講堂の中でひとりだけ、まるきり子どものように見えた。それでいて優秀なのは飛びきりだったから、よく目立ったし、人の妬みも買った。
 似たりよったりの状況にあったハーヴェイのほうはというと、社交というものに心血を注ぐ父親を見て育ったこともあって、人の嫉妬をかわしてそつなく振る舞うことに慣れていた。
 けれど、ジンはそうではないようだった。言葉も文化も違うところからひとりでやってきたためか、あるいは生来の性分か、とにかく口数が少なく、愛想がない。それで面白いように敵を作っていた。
 もっとも、本人は向けられる悪意にも素知らぬ顔をしていたから、やはり口下手なのはもとからの性分で、その手のやっかみには慣れていたのかもしれない。
 つるむようになったのは、ハーヴェイの起こした気まぐれだ。年の近い同期生が少なかったこともあるが、あまりにも周囲と衝突を起こすので、見ているうちにだんだん面白くなってきた。本人は他人に興味のないようすで、積極的に関わろうともしていないのに、周りのほうでほうっておかない。しょっちゅう絡まれて、そうなるとうまくあしらえずに衝突する。それで、ついおせっかいを焼いて仲裁をするくせがついた。
 話す機会が増えてわかったのは、ジンが馬鹿だということだ。
 適当に答えておけばいい場面で嘘がつけない。そのくせ、いわなくていいことはいう。愛想笑いができない。不機嫌になればすぐ顔に出る。融通がきかず、人の話を真に受けすぎる。
 要は、真面目すぎるのだ。それで馬鹿を見る。
 そのよく出来たおつむを、もうちょっと別のことにも使ったらどうだと、三日にいっぺんは思った。二度に一度は本人に向かっていったが、ジンは面倒くさそうな顔をするだけで、一向に態度を改めなかった。そうやって周りとぶつかってばかりいるほうが、よほど面倒だろうに。
 馬鹿だ馬鹿だと思ってはいたが、その馬鹿さに救われていたのが自分のほうだと気付いたのは、卒業してメディカル・スクールに進んだ後、会う機会も少なくなってからのことだ。


   ※  ※  ※


 O&Wカンパニーの社屋は広い。
 従業員三百人規模の会社といえば、地球でなら珍しくもなんともないが、ヴェドにそれだけの社員を置いている企業は、指折り数えるほどしかない。そのO&Wの社屋には、もしここが地球の大都市圏であれば、千人かそこらは詰めているような、尋常でない広さがある。条例によって高層ビルは作れないから、そのぶん横にだだっ広い。
 そうした空間の余裕は、O&Wに限ったことではなく、おおむねどの企業も、ゆったりとしたオフィスを持っている。これはマルゴ・トアフのある地方が、もともとトゥトゥにとってそれほど魅力的な土地柄でなかったというのもあるが、あるいは彼らが土地に関して気前がいいことの、ひとつの証左でもあるかもしれない。
 トゥトゥは旅が好きなだけではなく、移住も気楽にどんどんやる。気に入らない土地に、無理をしてまで住み続けたりはしない。ナワバリ意識がそれほど強くないのは、どこにいってもともかく生きてはいける、彼らの強靭さに由来するものかもしれない。トゥトゥは生物として、強い種族だ。地球人類とは比べものにならないほど。
 その気前のいい彼らのおかげでだだっ広い社屋の、ゆったりとした廊下を、ハーヴェイは足早に歩く。来客を出迎えるためにロビーまでいったら、相手の姿がなかったのだ。
 同僚とぶつかりそうになりながら角を曲がったところで、ハーヴェイはほっと息をついた。目当ての人物が、廊下の先を歩いていた。
 壮年の、風采のいいトゥトゥだ。西部の伝統で、医師であることをしめす刺青を嘴の横に入れている。体格がよく、羽がつやつやしており、またそうした要素以上に、表情やしぐさの醸し出す印象が大きい。どっしりした歩き方には、まさしく威風堂々といった趣きがある。
 すれ違う社員が、トゥトゥも地球人もひとしく驚いて、振り返っている。注目を浴びながら、そんなことは気にも留めないように、医師は泰然と背筋を伸ばして歩いている。
 ハーヴェイは見習って自らも背筋を伸ばし、足を速めて医師に近づいた。
「ロビーにお迎えに上がったらお姿がないので、慌てました」
 医師は足を止めて、じろりとハーヴェイをにらんだ。
「出迎えはいらんといったつもりだが。こんな場所で道に迷うほど、耄碌(もうろく)してはおらん」
 その声は太く、眼光は鋭かった。「あんた方はそれが礼儀というが。それでは礼儀なんだか、ひとを馬鹿にしとるんだか、ちっともわからん」
 苦笑を噛み殺して、ハーヴェイは頭を下げる。「お気を悪くされたなら、申し訳ありません」
 医師は一拍ののちに眼を細めて、嘴を上に向けた。笑ったのだとハーヴェイが気付いたのは、少し遅れてからだった。
「いや。こちらも大人げのないことをいった。――あんたが連絡をくれた医師だな。ギイ=ギイだ」
「ハーヴェイ・トラストです。――遠くから、ありがとうございます」
 名乗り返して、ハーヴェイは医師の横を歩く。背後に従うように歩かれるのが、トゥトゥにとってはあまり気持ちのいい習慣でないというのは、ハーヴェイも知っていた。
 医師を応接室に通して、ハーヴェイはあらためて礼をいった。「――感謝します。これまでなかなか、ここまで足を運んでくださる方がみつからなくて」
 ハーヴェイは当然ながら、地球人を相手にした医師資格しか持たない。彼も前任者も、そのことに危機感を抱きつつも、トゥトゥの医療を本格的に学ぶ時間までは取れずにいた。日々の業務に追われる中で、合間に時間を作ってトゥトゥの医学書や文献に目を通すのがせいぜいだ。
 中央医療センターの医師たちも、その点は似たようなものだ。おかげでこれまでずっと、トゥトゥの従業員には、助成を出してほかの町で健康診断を受けてもらうことしかできなかった。
「ですが、あなたのような高名な方においでいただけるとは、正直なところ、思っていませんでした」
 ハーヴェイは世辞でも追従でもなく、真面目にいった。ギイ=ギイは名の知れた医師だ。彼の論文を、ハーヴェイはいくつも読んだことがある。
 腕のいい医者であればもちろん助かるが、ギイ=ギイのように名の知れ渡った大御所が、まさか自ら乗りこんでくるとは思わなかった。
 なぜだろうと、ハーヴェイは内心で首をかしげていた。ここは救急医療の現場でもなければ、難しい病気を抱えた患者が大勢いる場所というのでもない。さしあたって求めていたのは、健康診断医だ。報酬も破格というほどではないし、異星人嫌いのトゥトゥもまだ多い中で、地球系企業から引き受ける仕事が、たいした名誉になるとも思えなかった。
「――先日、トラムを利用した」
 医師は出された茶のにおいを嗅ぎながら、おもむろにいった。話の転換についてゆけないハーヴェイを気にも留めず、ギイ=ギイは続ける。
「年は取りたくないものだ。昔ならさっさと自分で飛んでいたような距離だというのに――まあ、それはいい。乗り合わせた車両で、急患が出たのだ。テラ系の女だった。私の目の前で急に倒れて、意識はあったが、唇が真っ青になっておった。同じ車両に、テラ系の医者はおらなんだ」
 医師のかぎづめに力がこもっているのを、ハーヴェイは見た。湯呑みを割るのではないかと心配になるような手つきだった。
「幸いにも、大事には至らんかったようだが――その場に居合わせておきながら、何もできなんだ。どういう処置をするべきなのかもわからん、命の危険があるのかどうかも見分けがつかん。――この私が、だ」
 医師は湯呑をテーブルに叩きつけると、怨念のこもった口調でいった。「屈辱である」
 ハーヴェイは思わず口元をほころばせた。なるほどこれは、噂にたがわない立派な人物なのだろうと思った。
 医師はいっときそのまま不機嫌そうに押し黙っていたが、やがて煮えたぎるような口調でいった。
「空いた時間に、そちらの職分の邪魔にならん範囲でけっこうだ。応急処置なりと、ご教示賜りたい」
 いい終えて、医師はじっとハーヴェイを見つめた。
 この眼を知っている、とハーヴェイは思った。馬鹿がつくほど真面目で融通のきかない人間の眼。専門分野のうちで自分の知らないことのあるのが許せない、頑固者の眼だ。
 破願して、ハーヴェイは頭を下げた。
「――こちらこそ、勉強させてください」


   ※  ※  ※


 エトゥリオルは出勤して廊下にジンの顔を見つけるなり、恐縮しきって頭を下げた。
「昨日はすみません……」
 並んで歩きながら、ジンは首を振る。「いい兄貴じゃないか」
「――はい」
 エトゥリオルは素直にうなずいた。ジンが意外そうな顔をしたことに、エトゥリオルは気付かない。うつむいて歩きながら、話を続けた。「昨日は、兄がいつまでも親のすねをかじっているようなことをいいましたけど――本当は、そういうふりをして、僕の様子を見に来てくれていたんです」
 エトゥリオルはいいながら、翼をわずかに動かす。
「僕がこうだから……心配してくれてるんです。過保護すぎるって、よくひとから笑われるんですけど」
「――いいな」
 微笑んで、ジンはいう。エトゥリオルは反応に困って、首をかしげた。
 設計部のフロアに辿りつくと、打ち合わせ用の机の上に、アンドリューが手足を伸ばして寝こけていた。エトゥリオルは困惑して、隣の上司の顔を見上げる。そこで、ジンの目元の隈に気付いた。
 寮にも帰らずに、徹夜で働いていたのではないか。
 エトゥリオルは反射的に、謝ろうとした。けれどそれを遮るようなタイミングで、ジンがぽつりといった。「俺には君たちが、羨ましい」
 その眼は、どこか遠くを見ていた。
 いつだか家族と不仲だといっていた、ジンの言葉を、エトゥリオルは思いだした。家族構成をたしかめたことはなかったが、兄弟がいるのだろうか。彼らはトゥトゥと違って、兄弟と一緒に育つことが多いと聞いていた。
 エトゥリオルは訊くのをためらい、ジンもすぐには話を続けなかった。
 静かなオフィスに、機械の作動音と、アンドリューの鼾だけが響いている。いっときして、ようやくジンが口を開いた。
「俺はとにかく、自分の家族が好きになれなくてな。それでさっさと奨学金をもらって留学したし――最初の就職先も、故郷から少しでも遠い場所をと思って選んだんだ。あとからO&Wに移ったのも、先々こっちに来れるっていう条件があったからだった」
 微苦笑を浮かべながら、ジンはいった。それは、過去の自分の幼さを笑っているように、エトゥリオルの眼にはうつった。
「いい家族じゃなかったが、俺のほうにも問題があった。家族に愛される努力も、愛する努力もしなかったしな。それに、昔から人間自体が、どうも好きになれなくて――報道で見聞きする君たちの話にやたらに憧れたのも、そういうことがあったからかもしれない」
 ジンは自分のデスクについて、書類をディスプレイに表示させたが、ふと思い直したように、その表示を図面に切り替えた。それはいつか見た、航空機の図面だった。
「俺は勝手に、君らの姿に理想を重ねてたんだろう。だが実際に来てみれば、トゥトゥにだって、いいやつもいやなやつもいるし――考えてみれば、そんなのは当たり前のことなんだけどな。どこに行ったって、俺自身の問題が解決しないかぎりは、同じことだ」
 そこまでいって、ジンは視線を図面から外し、エトゥリオルのほうに向きなおった。
「俺はどうも、ひとの心の機微っていうものが――いや、そういうことじゃないな」
 嘆息をついて、ジンは一度、言葉を切った。それから頭を下げた。「この間は、すまなかった」
 エトゥリオルはびっくりして、羽毛を逆立てた。すぐに言葉が出てこなかった。
「――ミスをしたのは僕です」
 いって、エトゥリオルはうつむいた。昨夜、おそらくは徹夜で片付けたのだろう作業だって、自分の失敗のフォローがなければ、おそらくもう少し早く済んだ。
「そういうことじゃない。俺の思い込みで、君を傷つけた」
 エトゥリオルは言葉につまった。違う、と思った。ジンが何かをしたわけじゃない。勝手に傷ついたのは、自分のほうだ。勝手にひがんで――
 そういおうと思った。けれど言葉は喉の奥につっかえて、どうしても出てこなかった。
「――屋上、好きなんです」
 そのかわりに、エトゥリオルはいった。「昔、小さいころに一度だけ、エイッティオ=ルル=ウィンニイの背中に乗せてもらって、空を飛んだことがあります」
 そうか、とジンはいった。それから迷って、何かをいいかけた。
 そのときほかのスタッフが、そろってオフィスに入ってきて、ジンは言葉を飲み込んだ。もう始業時間だ。
 エトゥリオルは頭を下げて、端末に向き直った。今度こそ自分に任された仕事を、きっちりやりとげなくてはならない。


『覚えてるとは思うけど、午後から健康診断だからね』
 ハーヴェイから念押しの内線があったのは、昼休みの直前のことだ。
 食事を終えて廊下を歩きながら、エトゥリオルの足取りは重かった。医者というものに、あまりいい思い出がない。
 健康診断。ふしぎな制度だと、エトゥリオルは思う。トゥトゥの企業ではふつう、そういうことはやらない。
「失礼します」
 医務室に入るのは、初めてだった。その隣の、ハーヴェイの事務室になら行ったことがあるが、入社してからこっち、怪我も病気もしていない。
 漠然と想像していたより、医務室は広かった。たくさんの機械が並んでいるのは、今日が健康診断の日だからだろうか、それともいつもこうなのだろうか。
 机の前に、立派な風采のトゥトゥが座っている。その嘴に医師であることを示す刺青があるのを見て、エトゥリオルは足を止めた。先に入っていたトゥトゥの作業員が、医師と向かい合って問診を受けている。
「入って入って」
 ハーヴェイに手招きされて、エトゥリオルはおっかなびっくり中に足を踏み入れる。どうやら基本的な計測はハーヴェイと、助手らしいもうひとりの地球人が担当して、そのあとにトゥトゥの医師が、問診をしているようだった。
 エトゥリオルは血を抜かれ、よくわからない機械に乗せられて、何だか見当もつかない数値を計られた。いつか自分の骨格の画像を見せられたときのことを思い出して、つい顔がひきつる。
「うん、あとは問診だけだね。――リオ? そんなに緊張しなくてもいいのに」
 ハーヴェイに笑われて、エトゥリオルはなんとか微笑みを返した。
「すみません、こういうの慣れなくて……」
 医師の前に座るとき、エトゥリオルはやっぱり緊張した。どうしても落ち着きなく身じろぎしてしまう。
 医師は、なぜかハーヴェイが差し出すカルテも受け取らずに、いっときエトゥリオルの顔を凝視していた。エトゥリオルがますます委縮して小さくなるのを、じっと見つめたあとで、おもむろに医師は口を開いた。
「リオというのが、君の名前かね」
 鋭い声だった。エトゥリオルはびくりとして、羽毛を逆立てた。ハーヴェイが医師の隣で、しまったという顔をした。
 一瞬、嘘をつこうかと思ったが、エトゥリオルはすぐに思い直した。ハーヴェイの手のカルテが視界に入ったからだ。どうせすぐにばれる。
「――エトゥリオルです」
 医師はゆっくりと瞬きをして、顎を引いた。その仕草から漏れだす怒りの気配に、エトゥリオルはとっさにその場から逃げ出したくなった。けれど医師は彼にではなく、ハーヴェイのほうを振り返って、怒声を発した。
「即刻やめてもらいたい。そちらの文化だか伝統だかを悪くいうのは本意ではないが、トゥトゥにはトゥトゥの流儀というものがある」
「――僕のほうから頼んだんです!」
 エトゥリオルは慌てて叫んだ。医師は首を戻して、じろりとエトゥリオルをにらむと、無言で顎をそらして、説明を求めた。
 しどろもどろになって、エトゥリオルは説明した。テラ系の友人が出来て、彼らのニックネームの習慣が羨ましかったこと、彼らと親しくなりたかったこと。医師は押し黙ったまま、彼の言い分を最後まで聞いて、それからいった。
「こういうことは、君ひとりの問題ではない」
 もう怒鳴ってはいなかったが、医師の声はまだあきらかに怒っていた。エトゥリオルは体を縮める。
「君がそれでよくとも、彼らがそれに慣れて、当たり前のように感じるようになっては、ほかのトゥトゥが迷惑をする。悪くすれば、無用の軋轢を生むかもしれん。違うかね」
 ぴしゃりといわれて、エトゥリオルはうつむく。謝るべきだという自分と、謝ってはいけないという自分が、胸の中でせめぎ合っていた。
 反論が喉のところまでせり上がっていた。自らの名前を誇り重んじるトゥトゥの伝統が、悪いとはいわない。だけどそれなら、自分を誇れないトゥトゥはどうしたらいい。
 黙り込んだエトゥリオルの代わりに、ハーヴェイが頭を下げた。
「僕らが安易でした。気をつけます」
 エトゥリオルはぱっと顔を上げた。ハーヴェイと眼があう。彼は首を振って、申し訳なさそうな顔をした。エトゥリオルにもわかっていた。医師のいうことが正論であることも、この頑固な医師の前では、とりあえず謝っておいたほうがいいのだということも。
 医師は首を振って、気をとりなおしたように問診を始めた。
 自分の震えるかぎづめを見つめたまま、エトゥリオルは質問に答えた。頭の中を言い訳めいた言葉がぐるぐると回っていた。健康に関していくつものことを訊かれたが、エトゥリオルは自分が何を答えているのか、よくわかってもいなかった。


   ※  ※  ※


 ハーヴェイはほっと息をついて、計測器具を片付け始めた。半日かからずに、全員の健康診断が終わった。トゥトゥの社員の数は、まだそれほど多くない。
「――やれ。すっかり嫌われてしまったな」
 ひと仕事おえたギイ=ギイが、ふっと、そんなふうにこぼした。見れば、苦笑している。その横顔には、もう怒りの気配はなかった。
「エトゥリオルのことですか」
 ハーヴェイが訊くと、医師はうなずいて、軽く羽を広げた。
「委縮させたかったわけではないのだが」
 ギイ=ギイは渋面になった。その表情に、よく言動を誤解される友人のことを思い出して、ハーヴェイは思わず微笑んだ。「ええ、わかります」
 エトゥリオルは問診が終わると、ほとんど逃げ出すように診察室を出て行った。ハーヴェイは罪悪感を覚える。自分の不注意のせいで、気の毒なことをしてしまった。
「たかだか呼び名の問題と、あんたがたは思うかもしれんが、そうしたところから、自意識というものは変容するのだ」
 ギイ=ギイは重ねていう。ハーヴェイはうなずいて、もう一度詫びた。
「そういえば、すぐお分かりになったんですね」
 リオというのが彼の本名ではないと、カルテを見る前に、医師は看破した。ハーヴェイが訊くと、医師は首を振った。
「医療関係者のあいだでは、有名な子だ」
 その答えに、ハーヴェイは驚いた。医師は窓の外を見て、つぶやくようにいった。「飛べないトゥトゥというのは、そう多くはないのだ」
 ハーヴェイは返答に迷った。先天性な欠陥で飛べない子どもが、近年、徐々に増えているという報道記事を、眼にしたことがあったからだ。
 ギイ=ギイは彼の戸惑いを察したように、ふと神妙な顔つきになった。
「ほんの百年ほど前には、早いうちに飛べないと分かれば、その子どもは殺されていた――野蛮な話だと思うかね」
 ハーヴェイはうなずきも、首を振りもしなかった。
 トゥトゥの文化や社会性は、むしろ地球のそれよりも、よほど洗練されている。科学技術にしたところで、総合すれば地球の方がいくらか進んでいるにせよ、そう極端に差があるわけではない。
 これほどまでに進んだ文明をもつ種族が、飛べなければ子どもを殺してしまうという風習を、つい最近まで残していたというのは、ハーヴェイには納得のしがたい話だった。野生の鳥ならば、そういうものだろうが――自力で生きられない雛の面倒を、いつまでも見続ける親鳥はいない。
「僕らの故郷にも、かつて似たような風習がありました。僕らには、あなた方を批難する権利はないと思います」
 ハーヴェイはためらって、言葉を足した。「ただ、エトゥリオルを見ていると……飛べないというだけで、なぜそこまでしなくてはならないのか、とは思います」
 ギイ=ギイは眼を金色に光らせて、うなずいた。
「そこに、どうもあんたがたの誤解があるようだ。飛べなければトゥトゥには生きている価値がないというのではない――そもそも飛べなければ、普通のトゥトゥは、弱って死んでしまうものなのだ」
 医師はそういって、かぎづめの手を組んだ。「三歳から四歳のあたりで、トゥトゥの体は作り変わる。代謝量が変わり、内臓の大きさが変わり、筋肉のつき方が変わる。五歳以降のトゥトゥの体は、そもそも飛ぶことを前提にできておる。翼に怪我でもしてひと月も飛ばないでおれば、すっかり内臓が委縮して、弱って死んでしまう……」
 医師は言葉を切って、翼を鳴らした。「それが長年の常識だった――いや、いまでもほとんどの子が、そうなのだ」
 ギイ=ギイはため息とともに続けた。まず育ちあがらんとわかっている子を、そうとわかって育てろというのもまた、親にとっては酷な話だと。
「だが、近年になって、彼のような子が、ちらほら出てきた――飛べないまま育って、そのまま成人するトゥトゥが」
 医師はいって、カルテを眺めた。いたって健康そうにしているにもかかわらず、トゥトゥの標準的な数値を逸脱した、エトゥリオルの診断結果を。
「――勉強不足でした」
 ハーヴェイは恥じ入った。折に触れて、トゥトゥの医学に関する文献も、少しずつ読んできたつもりだった。それなのに肝心なことを知らなかった。
 無理もない、あまり書きたがるもののいないことがらだからと、ギイ=ギイはいった。
「報道はいつも、彼らのような子の増加を、トゥトゥの退化だという。文明に浴しすぎて飛べなくなった、発展の落とす影だと」
 ギイ=ギイは苦々しくいって、首を振る。「そういう側面も、あるかもわからん。だが、見ようによっては、進化なのかもしれんのだ――トゥトゥが樹上で生きることを捨てて、地上に住みかを構えるようになってから、何百万年も経ったいまになって、ようやく、空を飛ばずとも生きられる子が出てきた」
 ギイ=ギイは半ばひとりごとのように続けた。
「だからこそ、彼のようなトゥトゥには、矜持を持ってもらいたい。――トゥトゥの尊厳を、ないがしろにしてもらいたくはないのだ」




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