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愛と呼ばないで


プロローグ――2005年3月

 春の嵐とも言える強風が、朝から吹き続けていたことは覚えている。
 その日は「箱庭」の、高等部の卒業式だった。卒業証書を貰い、謝恩会を終えた日の夜に、こんなことをする姉を、翠(みどり)は正気とは思えなかった。
「お姉ちゃん! こんなこと止めようよ! 今ならお父さんもお母さんも、許してくれるって!」
 暖かさを含む強い南風に煽られ、髪やスカートの裾を巻き上げながら、翠が叫ぶ。
 家の門を出た所で、大きなキャリーバッグ一つを持った姉は、翠へと振り返る。そして、妹の言葉には従うことなく、悲しげに首を振るだけだった。
「ごめんね、翠。もう限界なんだ」
「何言ってんのよ! とにかく戻ろうよ!」
 まったく要領の悪い姉だ、と翠は呆れながらも、何とか姉を引き留めようと声を振り絞った。だが、持病の喘息の発作が出つつあり、すぐそこに苦しさが迫っている。
「翠、もう会えないと思うけど、体を大事にするんだよ! 無理したら、あんたはすぐ寝込むんだから!」
 姉は精一杯の笑顔を顔に浮かべ、強風に負けないように手を振る。そして翠に背を向けると、キャリーバッグを引いて、駅の方向へと歩いていった。
「お姉ちゃん!」
 やっとのことで振り絞った翠の声も、すべて風の中に掻き消されていく。その微かな声の欠片を耳にしながら、姉は振り返ることなく、足を前へと進めていった。
 後悔はない。というよりも、これからは後悔など、一つもしない生き方をしよう、と心に誓っていた。
 誰の顔色も窺うことなく、自分の気持ちに素直に生きる。これまで開くことのできなかった、大きな翼をはためかせ、自分の力で歩む。そんなこれからの日々こそが、本当の私の人生。そして、本当の私の生きる道だ、と。
 そう思いながら、豪邸の建ち並ぶ中を歩いていくと、一つの街頭の下に人影が見えた。
 風に巻き上げられる髪を耳にかけ、目を凝らす。すると、オレンジ色の明かりの中に、あの男の姿がはっきりと見えてきた。
 思わず怯み、立ち止まると、男は無言でこちらへと近寄ってくる。その顔は不思議なほどに無表情だった。そして目の前で立ち止まると、男はその顔に、いつものように軽蔑と、憎悪を混ぜ合わせた表情を浮かべていく。
「家を出て、どうする気だよ」
 風の中に響く、男の低い声に、思わず息を呑む。だが、拳を強く握り締め、男から目を離すことなく、「あんたに関係ない」と呟いた。
 すると男は、「何言ってんだよ。関係あるだろう?」と、苦しげに笑いながら答える。
「何せ俺は、お前の婚約者だからな」
「だから、もう関係ない!」
 彼女は風を弾き飛ばさんばかりの大声を上げ、男を睨みつける。
「私はもう、この『箱庭』から出ていくの! だからあんたとは関係ない! それに、あんたは私のことが嫌いでしょ?」
 すると男は一瞬、ぴくり、と眉を動かした。その時だけは、十代の青年らしい彼の表情も、長年の苦しみを堪えた老人のように見えてしまう。
「あんたは私のことを嫌いなんだから、私がいなくなれば丁度いいじゃない! 私と結婚しなくて済むんだから!」
 彼女の言葉に、彼の顔が更に悲しげに歪んでいく。だが、すぐに男はいつものように不適に微笑み、ははは、と声を上げた。
「おい、アイ」
 彼女のことを「アイ」と呼ぶのは、この男だけだった。怒りが募り、彼女は男の胸に拳をぶつけながら叫ぶ。
「その呼び方は止めて、って、何度も言ってるじゃない!」
 すると男は、彼女の手を取り、顔を近づけた。突然のことに驚いた彼女は、顔を背けることも忘れて、思わず息を止める。いつもとは違う、切羽詰まった彼の表情を目の中に映し込み、その視線を受け止めていた。
「俺から逃げ出すのであれば、もう二度と、俺の前に現れるな」
 微かに震えた声で告げると、男は彼女の手を離し、街灯の先にある暗闇の中へと消えていった。


1.2002年4月

 耳を澄ませば、遠くから鈴の転がるような、明るいはしゃぎ声が聞こえてくる。続けて、桜色の背景が広がっていく中に、ぽつりぽつりと、揃いの紺色のブレザーを着た少女たちが現れてきた。
 首元のリボンが水色であることを見ても、彼女たちは、「箱庭」の高等部の学生だろう。桜の花びらが舞う中を、人形劇に出てくるパペットのように、己の立場を弁えて、楽しそうに振る舞っている。
 それぞれの顔には、誂えられた笑顔の仮面が、いつものように付けられていた。「楽しそうな女子学生」という演技を続けるための、大切な仮面だ。そんな少女たちの、その裏にある本当の表情など、誰も知ろうとはしない。
 それでも彼女たちは、こうしてずっと演じ続けるのだ。彼女たちを愛する者たちのために。
 そう言えば、自分だってこの中にいたはずだった、とマリは思い出した。自分の立場を踏み外さぬように、仮面を外さぬように、と、まるでそれが人生の命題であるかのように、生きてきたはずだったではないか。
 だけど、いつからだっただろう? そんなことに何の意味も見出さなくなってしまったのは。
 そんなマリの自問自答を打ち消すように、少女たちは明るい声を上げ続けている。その中には、妹の翠の声も混じっている。
「お姉ちゃん、どうしてそこにいるの? こっちにおいでよ!」
 そして、翠らしき人影が目の前に現れ、こちらへと手を伸ばす。だが、その手を取る訳にはいかない。
 ごめんね、翠。私はもう違うんだ。「箱庭」から自ら抜け出した人間は、もうそこには戻れないんだよ。そして、戻りたい気持ちさえ、これっぽっちも残ってはいないんだ。
 そう叫び、声を嗄らしていると、不意に黒い影が近くへと迫ってくる。何かと思い、その影のある方へと振り向くと、そこにはあの男の姿があった。
「アイ」
 いつものように、その呼び名でマリを呼ぶと、急に周りの景色が暗くなっていく。
「もう二度と、俺の目の前に現れるな」
 あの時と同じ言葉が響くと同時に、辺りから少女たちの声が消え、目の前が真っ暗になっていった。



「マリさん! マリさん! 起きてください! そろそろ開店の時間ですよ!」
 エタニティの香りと共に、体を揺す振られ、マリは重い瞼をゆっくりと持ち上げていく。
 やっとのことで開いた目へと飛び込んできたのは、さっきまで見ていた、あの「箱庭」の世界ではない。ベージュ色の壁と、グレーのロッカーに囲まれた、いつもの控え室の風景だ。様々な香水の匂いが溢れる部屋の中では、色とりどりのドレスに身を包んだキャバクラ嬢たちが、夜の蝶としての羽ばたきを待っている。
 そんないつもの見慣れた景色の中に、自分がいることに安心し、マリは腰掛けていた椅子の背凭れに寄り掛かる。そして額に手を当てて、ふう、と息を吐き出した。
「大丈夫ですか、マリさん」
 マリを起こしたスミレが、花を散りばめた盛り髪を揺らして、心配そうに顔を覗き込んでくる。マリはすぐさま笑顔を作り、「うん、大丈夫! 起こしてくれて、助かったよ」と、スミレの肩を優しく叩いた。
「珍しく高校の頃の夢を見ちゃってさ」
 開店前だと言うのに、疲れた表情を見せるマリに、スミレが「え? 高校?」と高い声を上げる。
「マリさんって東京出身ですよね? 高校は何処だったんですか?」
「桜庭学院」
 マリの即答に、控え室にいたキャバクラ嬢たちが皆、彼女へと視線を集め、ざわめき始める。
「マリさーん! いくら何でも冗談が過ぎますよ。いつも下ネタバリバリの、ナンバーワンキャバ嬢が、あの桜庭出身って! マジでないわ!」
「それなら、マリさんが超お嬢様、ってことになっちゃうじゃないですか!」
 若いキャバクラ嬢たちの、笑いを混ぜ合わせた声に反応して、マリも「そうなのよー。私、実はお嬢様育ちでさ」と、冗談めかして答える。
「家には執事やお手伝いさんがいたので、箸より重いものを持ったことがございませんの!」
 マリがわざとらしく、おほほ、と笑うと、近くにいた巨乳が自慢のミカが、携帯電話をいじりながらツッコミを入れる。
「今は水割り用の氷入れを、五個ぐらいは片手で持ってるくせにー!」
「でも昔は違ったのでございますのよ! 実は、親が決めた婚約者もいましたのよ!」
「やだぁ! マリさん、ウケるー!」
 キャバクラ嬢たちがそれぞれに、マリの言葉をジョークだと解釈し、笑いを見せると、マリも「でしょー! ウケるよねー!」と、いたずらっぽく笑う。
「これ、私の鉄板ネタなの。『マリちゃん、学校は何処の出身?』『桜庭学院です』。もうこれで、スベリ知らずよ!」
 小学校から大学までの一貫教育で知られ、良家の子女ばかりが集まる桜庭学院に、キャバクラ嬢が在籍していたなど、誰が信じるだろうか。やはりここは、隠れ蓑とするには素晴らしい場所だ、とマリは安心して、息を吐き出す。
「それにしても、マリさんにしては珍しいですね。開店前に居眠りしてるなんて」
 ロッカーに凭れて、煙草を吸っていたエリカに声を掛けられ、マリは「んー、ちょっと疲れててさ」と、背伸びをしながら答える。
「昨日、篠田さんとのアフターが二時までで、結婚式に出るために七時には起きたもんだから、寝不足なんだよねぇ」
「うわっ! 超ハードじゃないですか!」
 エリカが苦いものを口にしたかのように、露骨に顔を歪める。客に対してはいつもクールに澄ましていることが多い、彼女のあからさまな表情。これを客が見たらどう思うか、とマリは滑稽に思いながら、「まぁね」と肩を竦める。
「だから今日は同伴はなし、なんだけどね」
 するとスミレが再び、横から口を挟んでくる。
「その結婚式って、友達のですか? それとも親戚の?」
「友達。ほら、ガード下にあるビアバーの、カウンターにいた女の子が結婚したんだよ」
 今日の結婚式で見た、新郎と新婦の姿を思い出し、マリは不意に頬を緩ませる。
「幸せそうだったなぁ。人の幸せな姿を見るのって、いいモンだよねぇ」
 純白のウェディングドレスに身を包んだ新婦の姿は、幸せそのものを体現しているかのようだった。それは、決して自分には手に入れられないものであろうことは、マリは十分に分かっている。
 あの類の幸せに、手を伸ばしてはいけないのだ。さっき見た夢の中で、翠の手を掴む訳にはいかなかったのと同じように。
 普通の幸せを捨て、諦めてこそ、今の自由がある。それを忘れないように、とマリは心で唱えていると、入店して半年のルイが、こちらへと顔を近づけてきた。
「睡眠不足はダメですよぉ、マリさん! お肌が荒れてますぅ!」
 舌っ足らずな声を上げながら、ルイはわざと膨れっ面をして見せた。小太りなマルチーズのように丸まったその顔は、健康そのもののように、キラキラと輝いている。
「あら、そんなルイちゃんは、今日はやけにお肌がツヤツヤじゃない? もしかして昨日のお休みは、彼とヤリまくり?」
 マリがにやついた笑顔を向けると、ルイはまんざらでもなさそうに、「いやーん! マリさんったらぁ!」と体をくねらせる。
「もちろんですぅー! 彼ったら、もう激しくってぇ!」
 ルイの、のろけ話に付き合うと、何時間あっても足りないことを知ってはいるが、マリはあえて、彼女の話に耳を傾ける。年若い後輩の話を聞くことも、キャバクラ嬢としてベテランの域に達しているマリの、仕事の一つでもあるからだ。
 マリがこのキャバクラ、「ミラージュ」に入店して、既に四年が経っている。人の入れ替わりの激しいこの業界で、長期間同じ店で勤務を続けるのは珍しいことだとは知りながら、マリは長々とこの店での勤務を続けていた。そして「『ミラージュ』のナンバーワンキャバ嬢」としての地位を、確固たるものとしていたのだ。
「おーい、時間だぞ!」
 キャバクラ嬢たちの話し声が響く中に、ノックの音と、店長の黒瀬の声が聞こえてきた。すると、キャバクラ嬢たちは皆、「はーい」と甘い声で返事をし、気怠い足取りで控え室を出ていく。
 最後にマリが出てくると、ドアの横で立っていた黒瀬は、目を細めることなく笑顔を浮かべ、マリの背中を叩く。
「今日も頼んだぞ、マリ姉さん」
 六歳も年上のおっさんに、「姉さん」呼ばわりされる筋合いはない、とは思いながらも、マリは「はいはい」と適当に返事をする。
 すると黒瀬は、制服とも言うべき黒服に包まれた腕を組み、「おい、マリ」と声を掛ける。そしてじっと、マリの顔を見つめた。
「お前、肌荒れてないか?」
「あー。今日は、ちょっと寝不足でね」
「おいおい、気をつけろよ。若くねぇんだから」
 二十六歳の自分が、キャバクラの世界において、既に年増の部類に入っていることは、マリも重々承知だった。だが、それを自覚するのと、人に年増扱いされるのでは、話が違うだろう。
 その腹立ちまぎれに、マリは店へと続く通路を歩きながら、「あら、若くないのはお互い様でしょ?」と呟く。
「店長もさ、老け込んでアソコが勃たなくなる前に、さっさと彼女と結婚しちゃいなよ」
 その言葉に、一瞬真顔になった黒瀬は、すぐさま顔に皺を寄せて、くく、と笑う。
「さすがはマリだな」
 こんな戯れ言ごときで、「さすが」などと言われたくはない。
「あらそう? とりあえず誉め言葉として、その言葉を受け取っておくわ」
 こんなことを平気で言える大人になってしまうなど、あの「箱庭」にいた頃の自分は、考えもしなかっただろうに。マリは複雑な気持ちを抱えたまま、背後の黒瀬に振り返ることなく、ホールへと進んでいく。
 それでも黒瀬は、頼もしそうな視線をマリの背中に向け、オールバックに整えた髪を撫で付けた。
「その調子で、今日も頼むぜ。早速三番テーブルに、山内さんが来てるからな」
「え? 山内さんが?」
 マリは思わず歩みを止めて振り返ると、黒瀬が驚きの表情を見せた。
「山内さんが、どうかしたのか?」
「あの人、今日誕生日だったはずなんだけど」
 そうだ。今朝、起き抜けに、山内へと誕生日を祝うメールを送ったのだ。間違いない。
 マリは大きく目を見開くと、ボーイの加藤がホール近くにいるのを見つけ、突然早足になった。
「店長! ちょっと加藤ちゃんを借りていい?」
「ああ、別にいいけど」
 黒瀬の返事を聞くや否や、マリは加藤の前へと駆け寄った。
「加藤ちゃん、ごめん! お使い、頼めるかな?」
「は、はい! 大丈夫ですけど」
 マリは加藤に簡単に用件を伝え、ハンドバッグから一万円札を取り出し、手渡す。
「で、私が合図したら、それを持ってきてくれる?」
「は、はい。分かりました。了解っす!」
 軽くウエーブのかかった髪を揺らすように、加藤は頷くと、裏口に向かって走り出していった。急いで外へと出ていく彼の後ろ姿を見送り、マリはほっとしたようにため息をつく。そして、通路の途中にある鏡を覗き込んだ。
 素顔が分からないほどに、徹底的にメイクされた自分の顔を見て、さっき夢で見た、仮面を被った少女たちの姿を思い出した。よく考えたら、このメイクも、仮面なのかもしれない、と。
 あの桜の舞い散る「箱庭」では、「いい子」の仮面を付けることを拒否した自分が、厚化粧という仮面を喜んで装着し、「マリ」という仮の姿を晒していることが、不思議でならない。
 いや、不思議に思いながらも、こうして平然と「マリ」でいられるのだから、ここが自分の生きるべき世界、ということなのだろう、とマリは思った。このキャバクラこそが、私の住み処なのだ、とマリは気合いを入れ直し、仮面が剥がれないように、と願いを込める。
 そしてホールへと一歩足を踏み入れれば、その彼女の顔は仮面ではなく、「マリ」そのものの顔となっていく。
 ホールの中は、開店直後だと言うのに、かなりの賑わいとなっていた。殆どのテーブルに客が入り、それぞれにキャバクラ嬢たちがついて、笑顔を振り撒いていた。
 質のいいキャバクラ嬢が多いことで有名な、この「ミラージュ」には、目当てのキャバクラ嬢に会いたくて、やって来る客が殆どだった。だがそれだけでなく、そんなキャバクラ嬢たちのレベルの高さを見込んで、接待に用いる客も少なくない。
 そんな人々がざわめく中を、マリはゆったりと歩いていく。背筋を伸ばし、シャンデリアの放つ光の粒を、露出した肌に感じながら笑みを零す。それはまるで、あの頃、彼女がバレエの舞台で踊っていた様子によく似ていた。
 空を飛ぶかのようなグランジュテに、軽快なピルエット。そんな技を決めることはないものの、この「ミラージュ」は、まさにマリの舞台であり、彼女こそがこの場のプリマ・バレリーナだった。
 彼女がホールの中を歩む姿を、店じゅうの客やキャバクラ嬢たちが、憧れと欲望の眼差しで見つめる。その視線を一身に受けることが、マリにとっての何よりも快感だった。
 もったいぶるほどのスローな歩みを、やっとのことで四番テーブルのソファの横で止めると、マリはそこに腰掛ける山内の肩に触れた。
「山内さん、いらっしゃい! お誕生日おめでとう!」
「マリちゃん!」
 こちらへと振り向いた山内の顔には、疲労の色が見える。目の下にもクマがあり、顔色もあまり良くはなかった。
「今朝はメールありがとうな! あのメールを見たら、何だかマリちゃんに会いたくなったんだよ」
 実業家らしからぬ、無邪気な山内の表情を見て、マリもにっこりと微笑む。あんなのはただの業務用メールなのに、と思いながらも、マリは「本当? 嬉しい!」と肩を竦めて喜びを表した。そして山内の隣へと腰掛けながら、ヘルプでついている、後輩のキャバクラ嬢のサクラに目で合図をする。
「そんなに喜んでくれるなら、毎日『お誕生日おめでとう!』って送っちゃおうかな?」
「おいおい、そんなに歳を取らせないでくれよ!」
「そうだよねぇ。毎日誕生日だったら、半年後には百歳になっちゃうもんねぇ」
 そんな他愛もない会話を交わしながらも、マリは既に空いている山内のグラスを手に取り、水割りを作る準備をしていく。そして、その際の一つ一つの仕草にも、マリは決して手を抜かない。
 グラスに氷を入れる時の指の動き。酒を注ぐ時の手のライン。煙草に火を点けるために、ライターを差し出す動きの滑らかさ。その全てが美しく見えるように、と常に考えている。
 幼い頃に、祖母から茶道を叩き込まれたお陰もあり、マリの所作は滑らかで、美しかった。男というのは、こうして下心満載で女と相対している時でさえ、その女の些細な仕草をよく見ているものなのだ。
 マリは水割りを作り終え、グラスを山内の前へと差し出すと、山内はそっとマリの胸へと手を伸ばしてきた。
 キャバクラ嬢の体に触りたがる男はごまんといる。この山内だって毎度のことなのだ、とマリはそれを軽やかな身のこなしでかわし、行き場をなくした山内の手を握り締めた。そして、彼の顔を上目遣いで見つめる。
「こうやって誕生日にも来てくれるのは嬉しいけど、ご家族とはお祝いしないの?」
 優しげに尋ねるマリに、山内は気まずそうな顔をして、「いや、家のことはいいんだよ」と小さな声で答え、水割りのグラスを受け取る。その言葉に、マリは笑顔を崩すことはなかったものの、やっぱりな、と心の中で舌打ちをした。
 マリの贔屓客の一人である山内は、IT関連の事業を展開する、ベンチャー企業の社長だ。「俺が日本を変えてみせるよ」というのが彼の口癖で、一回りほど年齢の離れたマリに、仕事上の自慢話をするのが常だった。
 そんな山内が最近、妻との関係が芳しくないであろうことは、彼の言葉の端々からマリは気づいてはいたのだ。
 山内のような客は、幸せな家庭があってこそなのに、とマリは思いながら、ちらりと控え室に続く通路の方へと目を遣る。するとそこに加藤が戻って来ていて、マリに向けて指でOKサインを出している。
 よし、とマリは頷くと、突然大きな声を上げた。
「ハッピーバースデー! 山内さーん!」
 それと同時に、バーステーケーキを持ったボーイの加藤が、マリのいるテーブルへとやって来た。将棋盤ほどはありそうな、スクエアタイプのケーキが目の前へと置かれると、その上に灯るキャンドルの炎を見ながら、山内は目を丸くした。
「マ、マリちゃん! これ、どうしたんだ?」
「せっかく誕生日に来てくれたんだから、お祝いしなきゃ、って思ったの!」
 その言葉を聞き、ゴルフ焼けした顔を赤くして照れる山内の横で、マリは不意に立ち上がり、店じゅうに響く声を上げる。
「みなさーん。お楽しみのところ、申し訳ありません! 今日は私の大好きな山内さんの、お誕生日なんです! 是非みなさんでお祝いしてくださーい!」
 そして続けざまに「Happy Birthday To You」を歌い始めると、店内の客やキャバクラ嬢たちが、手拍子しながら一緒に歌い出す。汗をかいても、落ちず、崩れず、よれないメイクを施した顔を、マリは心から嬉しそうに綻ばせて、山内を見ながら歌い続ける。
「ハッピーバースデー、山内さーん!」
 皆で歌い終えると、マリは再びソファに座り、そっと山内の肩に触れた。
「ほら、早くロウソクを消して! 山内さんは二十歳だよね? だからロウソクも二十本しか点いてないから!」
 本当のところ、山内は三十九歳になったのだ。そんなマリお得意の冗談に、山内はもちろん、ヘルプのサクラや、テーブル横で跪く加藤、そして店じゅうの者が皆、楽しげに笑い出す。
 すると、最初は照れくさそうだった山内も、乗せられるように、ロウソクを吹き消した。
「おめでとう! 山内さん!」
 そう言って、マリは山内に抱きつくと、彼の頬にキスをした。皮脂でギラついたオヤジ肌にキスすることも、仕事と思えば辛くはない。マリの真っ赤なキスマークを頬につけて、満足げな山内は、鼻息を荒くして、横に控えていたボーイの加藤に声を掛ける。
「おい、ケーキに合う酒って何だ?」
 その言葉を聞き逃さず、マリは山内を抱き締めたままで、加藤へと視線を向ける。加藤もそれに応じるように、小さく頷くと、山内へと向き直した。
「そうですねぇ」
 もったいぶるように小首を傾げた後、加藤は何かを思いついたかのように、目を見開く。
「やはり、シャンパンでしょうかね? ロゼが合うと思いますよ」
「よし、マリちゃん!」
 山内は上機嫌な様子で、マリの肩へと手を回し、強く引き寄せる。細身の体を、柳のようにしならせて山内へと寄せると、マリは上目遣いで山内を見た。その視線に、スケベ心を刺激されながら、山内は「今日はシャンパンを、みんなが飲めるだけ頼んでやる!」と大声で叫んだ。
「いいか! 今、この店にいる、みんなの分のシャンパンだぞ! 今日は俺の誕生日なんだから、みんなと祝おう! 今すぐ持って来い!」
 すると、おお、と、地鳴りのような歓声がホールに響く。その声の主である、客やキャバクラ嬢たちは皆、驚きと喜びを混ぜ合わせた顔をしていた。
「ありがとう! 山内さん!」
 マリも思わず笑顔になり、山内へと寄せていた体を、更に密着させ、擦り付ける。そして山内の胸を撫でるように手を沿わせながら、バーカウンターの近くにあるレジへと目を遣った。そこでホールの隅々にまで目を光らせている黒瀬と視線を合わせ、お互いに頷き合う。すると黒瀬は、「毎度あり」と言わんばかりにほくそ笑みながら、電卓をわざとらしく叩き始めた。
 そのうちに、数人のボーイによって、店じゅうの客とキャバクラ嬢に、山内からのシャンパンが振る舞われていく。そして皆に感謝の言葉を掛けられていくと、山内は疲れた表情を明るいものへと変えていった。
 よかった。これならば大丈夫。
「やり手の若手経営者」としての顔を取り戻した山内を見て、マリはほっとしていた。たとえここで金を落としてくれるにしても、客にとっても何らかの利点がなくては、とマリは接客の時にいつも考えているからだ。
 すっかり元気になった山内は、いつものように仕事自慢をマリへと繰り広げ、満足げに店を後にしようとした時、マリも見送りのために、彼と一緒に外へと出た。
 露出の多いドレスでは、もう夜風が冷たい季節になったことを実感しながら、マリは「ねぇ、山内さん。これ」と、山内に小さな紙袋を手渡す。
「ん? 何だ、これ」
 山内が不思議そうな顔で紙袋を覗き込むと、そこには、赤い包装紙に包まれた箱が入っていた。
「それね、豊洲にできたショッピングモールで売られてる、最近話題のスイーツなの。この前、山内さんにプレゼントしようと思って、買っておいたんだ! だから、これ、奥さんに持っていってあげてよ」
「えっ? よ、嫁に?」
「そう! 奥さんに!」
 妻の話題を出されて、驚きの様子を見せる山内の緊張を解そうと、マリは優しげに目を細め、彼の耳元に唇を寄せた。
「山内さん、最近奥さんが冷たい、って言ってたじゃない? だから、今日はこれを奥さんに渡して、『一緒に誕生日を祝おう』って言ってみて!」
 山内はまだ腑に落ちない様子で、マリと紙袋を何度も見返している。その様子を苦笑いしながら見て、マリは山内の手を取り、両手で強く握り締めた。
「そして、ちゃんと奥さんに、『いつもありがとう。こうして俺が何事もなく、三十九歳の誕生日を迎えられたのも、お前のお陰だ』って言ってあげるの! そしたら、絶対に奥さんも喜ぶって!」
「マ、マリちゃん!」
 山内は一瞬で顔をくしゃくしゃにし、泣き出しそうな顔になると、思わずマリに抱きついた。
「マリちゃんは本当にいい子だなぁ! 俺が独身だったら、さっさと嫁にしてるぞ!」
「はいはい、ありがとう! 生まれ変わったら、結婚しようね!」
 赤子をあやすように山内の背中を撫でると、マリは山内の手をゆっくりと解いて、彼の顔を真正面から見た。
「山内さん、いい? くれぐれもこのお菓子、貰い物だなんて言っちゃダメだよ! 自分で買った、って言ってね!」
「ああ! 分かった! ありがとうよ!」
「お礼なんていいの! また来てくれるだけでいいんだからね!」
 山内がこちらへと何度も振り返り、手を振りながら去っていくのを、マリはお辞儀をして見送る。
 近くにある大きなビルの角を曲がって、やっと山内の姿が見えなくなる。するとドアの近くで控えていたボーイの加藤が、「さすがマリさんだなぁ」と、感嘆のため息を漏らした。
「キャバ嬢が、お客の奥さんの心配までするなんて、普通じゃ考えられないっすよ!」
「はぁ? 普通のことだよ、普通!」
 さっきまでの愛嬌が何処かに行ってしまったかのように、マリは表情を渋いものに変え、眉間に皺を寄せた。客が去ってしまえば、冷たい夜風が一気に身に染みてくる。思わず軽くくしゃみをし、体の震えを抑えるように、マリは自分の肩を抱き締めた。
 これからは、使い捨てカイロを貼っておかなくてはいけない時期だ、と思いながら、星の見えない夜空を見上げる。
「家庭を持ってる男が、自分の誕生日に、わざわざキャバクラに来なくたっていいんだよ! 家庭があるなら、誕生日ぐらい、家で祝うモンでしょ? それだけ、奥さんと上手くいってない、って証拠だからね!」
「でも、いいじゃないですか。奥さんと上手くいってないなら、うちに通う回数も増えそうだし」
「違うの! 山内さんみたいな人は、幸せな家庭があってナンボなの!」
 マリは決して、客を不幸にはしたくなかった。たとえ、客を自分に入れ込ませたとしても、家庭内の不和や破産などといった、身の破滅へと引きずり込むことは、マリの望みではない。
 このキャバクラという場所は、浮き世の憂さを晴らすために存在している、別世界なのだ。そのために、この別世界で金を使い、元気になってもらう。そして必死に働いて、またここに憩いに来ればいい――それが一番、マリにとっても、客にとっても、ギブ・アンド・テイクの理想の形のように思えていたのだ。
「ああいうおっさんはね、バリバリ働いて、幸せな家庭で日々癒やされればいいの! そしてその反動で、はしゃぎたい時や、気晴らししたい時に、ここに来て、金を落としてくれりゃあいいの! ああいう人に対しては、それが一番効率的な金の巻き上げ方なんだよ! 覚えておきな!」
 さっきの山内のように、疲労の色を見せていたにもかかわらず、ここで過ごすことによって、明るく元気になってもらうこと。それこそが自分の役目だと、マリは思っていた。その役目を全うしていれば、売り上げは自然と付いてくるものなのだ。
 堂々と自分の信条を述べるマリの姿を、加藤は尊敬と感心の入り交じった視線で見つめていた。彼女の細身の体からは、表現しがたい強いオーラが出ているようにさえ思える。それは、他のキャバクラ嬢からは感じることのないものだった。男の加藤から見ても、「カッコいい」と思えるような、凛々しさが彼女にはあったのだ。
「そう言えば、さっき山内さんに渡してたお菓子ですけど」
 加藤はマリに見惚れながら、ぽつりと呟く。
「本当にわざわざ、山内さんのために買っておいたんですか?」
「まさか!」
 マリは肩を竦め、ふん、と鼻を鳴らす。
「私のロッカーの中には、いざって言う時のために、賞味期限の長い和洋菓子の買い溜めがあるの!」
 すげぇな、と加藤が感心していると、マリが「あ、そうだ」と何かを思い出したように、加藤の肩をポン、と叩いた。
「加藤ちゃん。お使いありがとうね」
 山内のバースデーケーキを買って来てもらったことに対して、マリが労うと、「いえ。これぐらいのことなら」と加藤はくすぐったそうにはにかんだ。そして、ポケットから五千円札と小銭を取り出して、マリへと差し出す。
「これ、ケーキのお釣りです」
「ん? 要らないよ! それ、加藤ちゃんが取っておいて。お駄賃ってことで!」
 マリの言葉に、嬉しさを感じながらも、驚きの方が上回ってしまい、「えっ! こ、こんなに?」と、加藤は上擦った声を上げた。
「いいの、いいの。取っておきなって!」
 客に見せる笑顔とは別の、リラックスした微笑みを、マリは加藤へと向ける。ボーイに優しくしておくことは、このキャバクラの世界では、とても大切なことだ、とマリは思っていた。
 ボーイは下働きのような存在でありながらも、客と接する機会も多い。客をテーブルへと案内するのも、飲み物をテーブルへと持ってくるのも、ボーイの役目だ。
 常日頃から、マリは加藤を始めとするボーイたちへと、心遣いを欠かさなかった。そのせいもあり、ボーイたちは皆、マリの客をとても手厚くもてなしてくれている。マリのような売れっ子になると、指名客をテーブルに長時間待たせることが多い。そんな時にボーイが客に上手く声掛けをしてくれるだけで、待ち時間を過ごす客の心持ちも変わるのだ。
「じゃあ、そろそろ戻ろうか」
 マリが告げると、加藤は両手で重いドアを開ける。そこから店内へと戻っていくと、黒瀬がこちらへと寄ってきて、すぐさま声を掛けた。
「おーい、マリ! 十二番テーブルで坂田さんがお待ちだよー」
「はーい」
 その時、加藤が閉めようとしていたドアの隙間から、突風が吹き抜けた。それが勢いよく店の中へと入り、マリのドレスの裾を巻き上げる。その風を全身で感じながら、彼女は思わずあの時のことを思い出した。

 それは、家を飛び出した、あの春の夜のことだ。
 あの日の夜も、こんな風に強い風が吹いていた。膨らみ始めていた桜の蕾をちぎり取りそうな突風の中で、マリを引き止めようとしていた翠の姿が、ふと頭に浮かんでくる。
 それを必死で掻き消そうと、マリは頭を振る。しかし、かえってその面影は鮮明になっていき、あの男の姿まで、はっきりと浮かび上がってきた。
 ダメだダメだ、とマリは自分を奮い立たせ、入口近くにある大きな姿見を覗き込む。その中に映る、「マリ」という自分の姿を確認し、安心して、姿見に背を向けた。
 今のこの姿が、私の仮面。そしてここが私の舞台であり、私の生きる場所なんだ。
 そう心で呟き、全ての思い出を消し去ろうと、颯爽と五番テーブルへと進んでいった。


2.2004年5月

 翌日の夕方、マリはいつものように、馴染みの美容師に栗色の髪を巻きおろしにしてもらい、美容室を出た。
 今日は睡眠時間もたっぷり取れたので、化粧ノリもいい。そして、ここに来る前に変えてもらったネイルも、ボルドー色をベースに可愛くできた。そのお陰で上機嫌のマリは、お気に入りのロングブーツを見せびらかすように、ゆっくりと「ミラージュ」へと向かって足を進めていた。
「ミラージュ」の入るビルの裏へと辿り着くと、従業員用の出入口の重いドアを開け、体を滑り込ませる。そして薄暗い通路を抜け、事務室へと入っていった。
「店長、おはようございます!」
「おう!」
 煙草を咥えながら机に向かっていた黒瀬は、右手を挙げて答える。
 黒瀬は既に黒服に着替えているものの、ネクタイを付けてはおらず、髪も整えてはいない。下ろされたままの前髪を、うざったそうに掻き上げては、難しそうな顔をしている。そして細身の体をパソコンに向け、ただでさえも悪い目つきを、更に恐ろしいほど鋭くして、画面に見入っていた。
 タイムカードを押すために、マリが事務所の奥へと入っていくと、黒瀬はこちらへと顔を向ける。
「マリ、今日は日野さんから予約が入ったぞ。七時半から接待で行くから、よろしく頼むって」
「はーい。日野さん含めて何人?」
「五人」
「じゃあ、ヘルプは四、五人でいいかな」
 事務室の壁に貼られた、キャバクラ嬢の出勤表に目を遣りながらマリが呟くと、黒瀬が「あ、そうだ」と、酒焼けに近い、しゃがれ声を上げた。
「カオルもつけるから、お前指導してやってくれよ」
 カオルと言うのは、黒瀬がスカウトし、最近入店したキャバクラ嬢だ。「お嬢様っぽい所が、オヤジ客にウケそうだろ?」などと、自分が既にオヤジであることを棚に上げて、黒瀬が自慢げに話していたものだった。
「うーん、カオルちゃんかぁ」
 まだ入店したてということもあり、カオルはまだ接客の一つ一つがぎこちない。マリの贔屓客の中でも、一、二を争うほどの上客である日野に、そんな素人に毛の生えたレベルの子をつけていいものか、と、マリはつけ睫毛に囲まれた目を瞬かせた。しかも、接待ともなれば、粗相は許されないだろう。
「カオルちゃん、大丈夫かな? 日野さんのお連れさんに、ご迷惑かけなきゃいいけど」
「そこら辺は、お前が何とかしてやってくれよ」
「酷いなぁ。自分でスカウトして来ておいて、結局は人頼みなの?」
 すると黒瀬は、煙草の煙と共に、はは、と声を上げる。
「そりゃそうさ。マリ大明神様のご指導には、敵わねーもん」
 また「神様扱い」かよ、とマリは呆れたようにため息をつく。
 何かと言うと、「マリ大明神様」だの「女神マリ様」などと、黒瀬はマリを神様のように扱うことが多い。それがマリの機嫌を取るためなのか、それとも黒瀬の癖なのかは、マリにも分からない。
 ただ言えることは、この黒瀬は、キャバクラ嬢の扱いに長けている、ということだ。
 それは長年、多くのキャバクラ店を店長として渡り歩き、それぞれを一流店にしてきただけはある、ということだろう。この「ミラージュ」が、凡百のキャバクラと違い、高い料金設定でも客足が絶えず、良い評判を保っていられるのも、黒瀬の努力の賜物だろう、とマリも納得はしていた。
 そんな黒瀬は、何かと言うとこちらを持ち上げてくる。その代わりに、キャバクラ嬢の間で起きた揉め事などの対処を、全てマリに押しつけてくるのだ。
 今度は「新人教育料」や「揉め事解決料」をせびってやろうか。そう思って腕を組み、マリは黒瀬を睨みつける。だが、黒瀬はそれを気にすることなく、煙草の灰を灰皿に落としながら、話を続けた。
「それに、下手に俺が指導するより、売れっ子のお前に指導してもらう方が、説得力あるんだよ」
 それは確かにそうだ、とマリは納得した。どんなに優秀な店長とはいえ、実践をこなしてきた、キャバクラ嬢の指導に勝るものはない。
「そりゃ、私もミユキさんに、いろいろ教えてもらったけどさ」
 マリがぽつりと呟くと、黒瀬は一瞬体を震わせ、目を見開いた。そしてそのまま、表情を固まらせていく。口に咥えた煙草が、じりじりと音を立てて灰になっていくが、それをも気にする様子もない。感情の読み取れない顔のままで、黒瀬はマリを見つめていると、突然、「なぁ、マリ」と声を上げた。
「お前は、ミユキみたいになるなよ」
「大丈夫だよ」
 マリはあえて、元気な声で即答する。そうしないと、黒瀬が心配するであろうことを知っているからだ。
 ミユキは、マリがこの「ミラージュ」に入店した頃に、ナンバーワンだったキャバクラ嬢だ。ゴージャスな美人で、何人ものVIP客が付いていたものだったが、三年前のある日、突然失踪してしまったのだ。
 あの時の黒瀬の酷い落ち込み様は、今でもマリの脳裏に焼きついている。自分の店の売れっ子を失った、という単純なものではなく、何か別の感情をミユキに抱いていたのではないか、と勘ぐりたくなるほどの様子だったのだ。
 何にせよ、自分はミユキのようにはならない、とマリには自信があった。
 妻子ある男性と駆け落ちしたのではないか、と言われているミユキのように、全てを捨てて、ここから逃げ出す気にもならない。そしてマリには、もう既に捨てるものなど残ってはいなかった。
「おはようございまーす!」
 事務室の前の通路から、いくつもの可愛らしい声が重なって聞こえてきた。数人のキャバクラ嬢が事務室へと入り、タイムカードを押しながら、マリと黒瀬に挨拶をしていく。その列の最後にいたスミレが、「おはようございます!」と頭を下げた後、じっとマリの顔を見た。
「あ! マリさん、今日は肌もいい感じじゃないですか!」
「うん。今日は睡眠時間たっぷり取ったからねー」
「じゃあ、桜庭の夢も見なかった、ってことですね!」
 目を細めて、冗談っぽく言うスミレに、マリは「そうそう」と頷きながら答える。
「桜庭学院出身で、婚約者もいるお嬢様の夢は、もう見なかったよ」
 そう言うと、スミレはもちろん、他のキャバクラ嬢たちも、「やだー! マリさん、ウケるんですけどー!」と笑い転げている。
 唯一事情を知らない黒瀬は、「何だ? その桜庭がどうの、ってのは?」と不思議そうにしていた。しかし、キャバクラ嬢同士の戯れ合いだろうと思い、それ以上は追求しようとしなかった。
 マリはそんな黒瀬の態度にほっとしながら、スミレに「スミレちゃん、ちょっと」と声を掛け、手招きする。
「何ですか?」
 跳ねるようにこちらへと歩いてきたスミレに、マリは耳打ちをした。
「今日、日野さんの接待の予約が入ったの。だからヘルプお願いね。で、カオルちゃんもヘルプで入る予定だから、くれぐれも気をつけておいて!」
「了解です!」
 スミレはにっこりと笑い、敬礼するように手を額に当てる。
「日野さんかぁ! また景気よく、お金を使ってくれるといいなぁ」
 スミレが嬉しそうにはしゃぐのを見ていると、いつもマリは、妹の翠を思い出さずにはいられなかった。彼女のこういった現金な所や、笑顔の雰囲気が、とても翠に似ているような気がしていたのだ。
「要領が悪いんだから、お姉ちゃんは!」
 翠は幼い頃から、そう言って、いつも姉であるマリを笑っていた。
 あれは高校二年の頃だったろうか、とマリはふと思いを馳せる。
 親に内緒でアルバイトをしていたのがバレてしまい、父に殴られたマリの頬を、翠が氷嚢で冷やしてくれていた時のことだ。「要領が悪い」としか言いようのない、姉の行動に呆れ、翠は深いため息を漏らしていた。
「何でわざわざバイトなんかするの? 大体、うちは金持ちなんだし、お小遣いだって、たくさん貰ってるじゃない!」
 だがマリは、ベッドに腰掛けたままで、「でも、仕方ないの!」と、強い視線を翠へと向け、反論する。
「私はこの家を出るために、お金を貯めたいんだから!」
「だーかーらー、それが要領の悪さだって言ってんの! 大学を出たら、この家からは出られるんだから!」
「それを待てないから、高校を卒業したら出ていこうとしてるんじゃない!」
 何かと言うと、自分たちの思うがままにしようとする父と母に、マリはいつの頃からか、反発するようになっていた。
 小学校から桜庭学院に入れられ、勉強や作法、様々な習い事を強制的にやらされていたことには、まだ我慢ができたものの、最終的な進路まで親に決められるとなれば、マリは黙っていられなかったのだ。
「私は、人と話したり、人を助ける仕事をしたいだけなんだよ」
 長い髪を耳にかけながら呟くと、翠も負けじと「じゃあ、医者だっていいんじゃない?」と言い返す。
「患者さんと話すし、病気の人を助けられるよ」
「そうじゃないの! そうじゃなくて、もっと人を幸せにするような仕事がいいの!」
 マリは視線を横へと向け、部屋に飾ってある、いくつかの写真へと目を遣る。それは、バレエの発表会やコンクールの時のものばかりだった。
 自分が舞台に立ち、風を切ってターンをしたり、大空を飛ぶかのようにジャンプをしたりすると、観客が皆、楽しそうに微笑んでくれる。あの時のように、多くの人を喜ばせる仕事に就きたい――それがマリの、長年思い続けていた、密かな願いだった。
「だったら、それはそれで、とりあえずお父さんとお母さんの言うことを聞いて、大学を出ておいてさ、その後で好きなことをやればいいのに。私はそれで十分だけどなぁ」
 その言葉通り、翠は実際にソツがなく、とても要領のいいタイプだった。何かと言うと、反発しがちなマリに比べると、翠は父と母にとっても、かなりの「いい子」だった。
 しかし、父や母の見えない場所では、翠はしっかり遊びまくっていた。「友達の家で勉強してくる」と称して、ボーイフレンドの家で放課後の殆どを過ごしたり、合コンに参加したりもしている。
 同じ父母の間に生まれた姉妹であるにもかかわらず、そういった要領の良さを、マリは持ち合わせてはいなかった。
「それができないから、出ていきたいって思ってるの!」
 頬がまだジンジンと痛むのを感じながら、やっとのことで口を動かしてマリが叫ぶと、翠が困惑に近い表情を浮かべ始める。
「ねぇ、本当にお姉ちゃんって、『桜庭ガール』なの? 『桜庭ガール』なら、もっと人生を快適に、気楽に生きなきゃ!」
 マリや翠が在籍していた桜庭学院に通う子供たちのことを、世間では「桜庭ボーイ」「桜庭ガール」と呼んでいた。
 それは、国会議員や企業の重役クラス以上、そして医者、弁護士、といった、社会的地位の高い家庭の子息ばかりが集う、一貫校出身者への敬称でもあり、また、蔑称でもあった。
 桜庭学院に通う子供の親たちは、競い合うように学院へ多額の寄付をし、そんな親の期待に応えようと、子供たちも「いい子」として振る舞う。それが、桜庭に通う家庭の、一般的な風景だった。
 そんな桜庭学院の世界のことを、生徒や学生たちは自嘲的に「箱庭」と呼んでいた。人工的な箱庭のような世界で、それぞれが与えられた「いい子」を演じる。そのくせ、親や教師の見ていない所では、金に飽かして、羽目を外して遊び回っている、というのが現実だった。
 例えば、マリの友人である、大企業の社長令嬢は、パッと見は「ザ・お嬢様」というような物静かなタイプだ。だがその裏で、毎夜クラブ通いをしている、と生徒の中では有名だった。風紀委員で、日々校則違反の取り締まりをしていた、ある国会議員の息子などは、酒や煙草はもちろん、怪しげな薬にまで手を出している、と噂が流れたりしたものだった。
 そんな裏表を使い分けることこそが、「桜庭ボーイ」「桜庭ガール」と呼ばれる、「箱庭」出身の人間の処世術なのだ。
 それは、上手にこの世を渡っていくための、大切な処世術。なのに、それを身に付けることを拒否したかのような姉を見て、翠はボブスタイルの髪を揺らしながら、大きくため息をついた。
「だけどさ、お姉ちゃんは、みんなに羨ましがられているんだよ」
「えっ! な、何で?」
 戸惑いを見せるマリから、翠は氷嚢を一端外し、頬の赤みを確かめる。大分腫れが引いたことに安心して、マリの顔をじっと見つめた。
「お姉ちゃんは、バレエが上手いしさ。あのジャンプなんて、本当に空に飛んでいきそうだもん。それに、恭介先輩とも婚約したんだし」
 その言葉に、マリは表情を固まらせる。あの男の名前を聞いただけで、ぞっとしてしまうのは、やはり幼い頃から、散々あの男に罵倒され続けたせいだろう。
「でも、恭介と婚約したことだって、私は全然嬉しくないんだよ!」
 恭介がいつもマリへと向ける、ぞっとするような冷めた表情を思い出し、マリは肩を竦めた。
「だってあいつ、『お前と婚約するくらいなら、雌豚とでも婚約した方が、マシだった』って、私に言ったんだから!」
「えーっ! そんなこと、恭介先輩が言うなんて、信じられない!」
 信じられないのは、こっちの方だ、とマリは反論したかった。しかし、恭介の本性を暴いた所で、信じてもらえないことは分かっているので、マリは口をひたすら噤む。
 目の前では、翠がうっとりした視線を天井へと向け、「だってさー、恭介先輩はいつも優しいしー」と、甘えたような声を上げていた。
「この前だって、私がちょっと成績が落ちたって言ったら、勉強を教えてくれたんだよ。すっごく分かりやすかったし、優しく教えてくれたんだから! そんな恭介先輩が、そんなこと言うはずないよ!」
「言うの! あいつ、私にはそういうことを言うんだよ!」
 マリと同い年で、小学校の頃からずっと一緒だった恭介は、何かあるとマリに暴言を浴びせ、軽蔑したような視線を向ける。翠と同様に、マリを「要領の悪い女」呼ばわりをし、「そんなお前を見ていると、こっちまで要領が悪くなる」と、いつもマリを罵っていた。
 だが恭介は、日常は「成績優秀で文武両道の好青年」という完璧な仮面を被り、マリ以外の人間には、その裏側にある本当の顔など、決して見せはしないのだ。陰では、夜な夜な遊び回り、複数の女と同時に交際をするような、とんでもない奴なのに、とマリは急に悲しくなる。
 代々、国内有数の大病院グループを経営する家の、跡取りとして生まれた彼は、それにふさわしい仮面を付ける術を、幼い頃から身につけていた。それはまさに、「桜庭ボーイ」の真骨頂と言えるだろう。
 たとえ親が決めたとは言え、そんな裏表が激しく、しかも自分を嫌っている男と、何故婚約しなければならなかったのか。
 そう考えると、頬に残る痛みと相まって、心も体も辛くなり、マリは思わず涙を零しそうになった。
「でもさ、恭介先輩っていう、みんなの憧れの的と婚約したんだから、お姉ちゃんは少しぐらいうぬぼれてみたら? うちのクラスの、恭介先輩のファンの子なんて、婚約したことを聞いた時、寝込みそうになってたんだからね!」
「でも、そんなの、親が決めたことだよ! 私の意志じゃない!」
「意志じゃなくても、何でもいいの! とにかくお姉ちゃんは恵まれてる、ってこと!」
 恵まれてる、という言葉に、違和感を覚え、マリは反射的に翠を睨みつける。
 誰もが羨むような裕福な家庭に生まれ、自分もまた、そんな家庭の主になるように育てられたことは、確かに恵まれているだろう。
 だが、マリはそんな「箱庭」の世界に、馴染むことができなかった。何でも言うなりにさせ、自由を奪う親に対し、がむしゃらに反抗し、自由を求めていたのがマリだった。大きな翼を持ちながらも、それを羽ばたかせることもできず、手枷足枷で「箱庭」の中に縛られている――この自分の育ってきた環境に、マリはそんなイメージしか持てなかったのだ。
「だーかーらー! 手枷足枷なんて、お父さんとお母さんに従って、大学を出たら、いくらでも外せるんだからさー! 本当に要領悪いよねぇ、お姉ちゃんって!」
 そうやってマリを笑っていた翠も、もう大学を卒業しただろう、と思い、マリはため息をつく。自分とは違い、きちんと「いい子」を演じられる妹ではあったが、喘息持ちだったことを、今更ながら思い出した。季節の変わり目になると苦しげに咳込んでいたものだったが、今は大丈夫だろうか。
 そして、ごめんね、と心の中で呟いた。結婚する相手までも、高校の時から決められていた、姉である自分が、あの家を飛び出したのだ。そのせいで、あの家における義務が翠一人に押しつけられているかもしれない、と思うと、急に気が重くなった。
 それでも、もう後戻りはできないのだ。そして、後悔も何一つ、感じてはいない。
「おい、マリ。今日も頼んだぞ。月末も近いし、店のノルマを今日で一気に達成させる勢いでいけよ」
 黒瀬の言葉で、マリは我に返り、咄嗟に笑顔を作る。
「はいはい! じゃあ、戦闘準備してきまーす」
 そう言ってスミレと共に事務室を出ると、隣の控え室に入り、自分のロッカーを開ける。そこにかけてあるドレスの中から、今日着るパープルのドレスを取り出すと、着替えをしながら、予約を入れてくれた日野のことを考える。
 日野は、システム開発会社の専務で、いつもこの店を使っては、大金を落としてくれる上客だった。接待というならば、ケチケチせずに、いつも以上に金を使ってくれるだろう。
 では、こちらとしては、彼から金を引っ張り出すことを考えるのみだ。それが自分の、キャバクラ嬢としての仕事だ、とマリは必死で自分に言い聞かせた。

3.2003年12月

「マリさん、二十番テーブルに、日野様がいらっしゃいました」
 客がトイレに行っているのを見計らい、六番テーブルについていたマリの許に加藤がやって来て囁く。
 開店直後からこのテーブルにいる客は、既に二時間近くも滞在している。もうそろそろ帰る頃合いだろう、と思っていたマリは、「分かった」と頷いた。
「もう少しでこのお客様が帰ると思うから、何とかヘルプで繋いでおいて」
「分かりました」
 トイレから戻ってきた客は、マリの予想通り、すぐに店を後にした。その客を見送った後、マリは加藤に案内され、ホールの奥にある、VIP席とも言える二十番テーブルへと向かう。
 コの字になった大きなソファには、数人のヘルプのキャバクラ嬢と日野の部下たちが、交互に席に着いているのが見える。そして角になった部分には、日野の姿があった。いつもならば、上座とも言えるソファの中央に座っているはずなのに、と思い、マリはソファの中央へと視線を移す。そこには、見知らぬ若い男が座っていた。
 これが接待客なのだろうか、と予想しつつ、マリは日野が正面に見える所へと足を進めて立ち止まると、頭を下げた。
「日野さん、お待たせして申し訳ありません」
 すると日野は、眼鏡の奥からマリを見て、にっこりと笑う。
「やぁ、マリちゃん。相変わらず売れっ子で何よりだよ」
「いえいえ。私もここでは古株ですから、皆さん『もう辞めるんじゃないか』って、気が気じゃないみたいで、会いに来てくださるだけなんですよ」
「ははは! そんなことはないだろう! みんな、心からマリちゃんに会いたいから来ているんだよ!」
 日野の高笑いを聞きながら、マリはテーブルとソファの間をすり抜け、日野の隣に腰を下ろす。ヘルプとしてついていたキャバクラ嬢たちと、目配せを交わしながら、上座にいる男へと静かに視線を向けた。そして一瞬で、その男の値踏みをする。
 恐らく、歳はマリとそうは違わないだろう。二十代半ばから、後半、といった所だ。鼻筋の通った、綺麗な顔立ちをしている男だ、と思わず唸った。硬そうな髪を、嫌みのないツーブロックにしているのも、清潔そうで好感が持てる。

 そして、その男が身に付けているものへと目を移すと、スーツやネクタイ、腕時計から靴まで、全てが上質なものだった。
 特に時計。あれは確か、ハリー・ウィンストンの限定品だったはずだ。こんな高価なものを身に付けられる、ということは、かなりの稼ぎがあるか、それとも実家が金持ちなのか。その、どちらかだろう。
 つまり、接待客、とは言うものの、かなりの大口の相手に違いない、とマリは素早く判断し、日野へと顔を向ける。
「日野さん、こちらのハンサムな方を、ご紹介していただけませんか?」
 そう言って、マリが男の方へと手を差し出すと、「ああ、そうだ。紹介が遅れたな」と、日野は自分の右の方にいる男へと体を向けた。
「こちらは、我が社との契約をご検討いただいている方なんだ。この方のご実家は、全国にいくつも大病院を経営なさっていてね、お父様がその理事長をなさっているんだよ」
「まぁ! そうですか! はじめまして。ようこそいらっしゃいました」
 マリが座ったままで、その男へと挨拶をする。スミレとヒカルを両脇にしたその男は、端正な顔立ちの中で一際目立つ、美しい形をした大きな瞳をマリへと向けた。そしてすぐさま、「はじめまして」と挨拶をしながら、ハリウッドスターのような、完璧な笑顔を見せた。
「日野さんから、ここには素敵な女性がいらっしゃると伺っておりましたので、楽しみにしてきたんですよ」
 柔らかな口調で、淀みなく言葉を繰り出すその態度に、マリは見覚えがあるような気がした。だが、いつ、何処で見たのかは全く思い出せず、必死で記憶の糸を手繰り寄せようと、その男へと視線を向け続ける。男もそんなマリの視線に応えるように目を細め、唇を円やかにカーブさせて微笑んだ。
 その笑顔には、一分の隙もなかった。優秀なビジネスマンが見せる愛想笑いにも似ていたが、それよりももっと徹底しているもののように、マリには思えた。
 決して相手に嫌な感じを与えず、ひたすら温かみのある表情を周りに照らし出す様子は、若いながらも並の男ではないように思えて、マリの心には警戒のサイレンが鳴り始める。だが、それ以上に、何かがマリの心の中に引っかかっていた。
 奇妙な不安が湧き上がってくるのを隠しつつ、マリは目の前にある、日野の空いたグラスを手に取る。
「いずれ、この方がお父様の跡を継がれて、理事長となられる予定なんだ。そのために、商社に勤めていらっしゃったのを退職されて、今はご実家の経営の勉強をなさっているんだよ」
 まるで己の自慢のように話す日野を見ながら、マリはグラスに氷を入れていく。

「お若いのに、それはご立派な方なんですね!」

 ありきたりのお愛想をしながら、マリは頭の中に、更なる不安を積み重ね始めていた。
 見覚えのある風貌に加えて、総合病院の経営者の家系、という何処かで聞いたことのある経歴に、嫌な予感しか覚えない。
 マリはグラスにブランデーを注ぎつつ、上座にいる男へと、微かに目を向ける。するとそこには、マリへと注ぐ男の視線があった。どうやら男は、ずっとマリを見ていたようだった。
 ソファに深く腰掛けて脚を組み、グラスを傾けながら、優しい眼差しをこちらへと向けている。両隣にいるスミレとヒカルが話し掛ければ、品のある物腰で頷いたり、楽しげに微笑んだりしているものの、彼はマリへと眼差しを向けることを忘れていない。
 よく見れば、そんな態度も、記憶の中にある一人の男に結びつくような気がした。恐ろしいほど整ったルックスに、硬そうな髪の感じ。そして、仮面のような、あの笑顔。
 全てがあの男の記憶へと集約していきそうになるが、マリは必死でそれを打ち消そうと、笑顔を作る。
 あの男のはずはないだろう。きっと、他人の空似だ。
 自分にそう信じ込ませようと、マリは何度も繰り返し心の中で唱える。だが、マドラーでグラスの中を掻き混ぜれば、自分の心までもがぐるぐると回り出すのを感じていた。
「ご実家が病院っていうことは、お医者さんなんですか?」
 隣で接客をしていたスミレの問いに、男は「いいえ。違うんです」と、首を振って答える。
「うちは代々、病院の経営だけを主にしているんですよ。患者様はもちろん、医師や看護師、そして事務員までも、快く過ごせる病院を作ることに、明治時代から尽力してきたんです」
「そうそう! そうなんだよ!」
 日野が男の言葉に反応し、興奮したかのように声を上げる。
「『藤本メディカルセンター』って知ってるだろう? あそこや、日本全国にある系列の病院の経営をなさっているんだよ、この藤本さんのご実家は!」
 藤本、という日野の言葉に、マリの鼓動が一気に跳ね上がる。どくん、と鳴る心臓の音を全身で感じ、思わず目を見開いた。
 間違いない。絶対にあいつだ。
 そう思いながらも、マリは決してその感情を表には出さず、微笑みだけを浮かべ、男へと向ける。そして、彼の喉仏の近くに目を遣った。そこに小さなホクロが二つ並んでいるの見て、絶望的な気分になった。
 それでも何とか視線を上げ、男の顔を見つめる。彼の母親によく似た、この男の端正な顔立ちは、確かに思い出の中のあいつのものだった。幼い頃より、マリへと嫌悪感を露わにし、最後には「もう二度と、俺の前に現れるな」と告げた、あの男の、完全体とも言える「仮面」を付けた姿だ。
 そして一瞬で、この男の記憶が、マリの頭の中へと蘇り、溢れ返ってくる。
 この男と初めて会ったのは、桜庭学院の小学部の入学式でだった。そして高等部の卒業式の日にマリが家を出る時まで、この男はずっと、マリを嫌い続けていた。そしてマリにとっても、この男は嫌いな相手でしかなく、一番会いたくない人間でもあったのに。
 それなのに今、こうしてマリの目の前に、この男が現れてしまったのだ。
「藤本」と呼ばれたその男から、マリが目を離すことができずにいると、男が不思議そうな顔をして、「どうしました?」とマリに尋ねる。
 まずい、と思い、マリは微笑みを強めると、「いえ、失礼しました」と頭を下げた。
「知人が以前、藤本さんのご実家の病院にお世話になったことを、思い出したものですから」
 マリの咄嗟の嘘に、男は「そうでしたか」と頷き、苦笑いをした。
「よかった。こちらをじっと見られていたので、僕が何かしたのかと思いましたよ。まるで、珍しい鳥でも見つけたかのように、こちらを見ていらっしゃったものですから」
 鳥、という言葉を聞いて、マリは高校生の時に、この男――恭介の実家に、家族で招待された時のことを思い出していく。
「こういう鳥って、飛べないんだよ。何でか知ってるか?」
 マリにしか見せない、彼特有の冷めた表情を湛え、あの時、恭介はマリに尋ねたのだ。
 恭介の父の趣味で飼われている、観賞用の鳥が入ったゲージが並ぶ部屋で、マリは恭介と二人きりで鳥を見ていた。その中でも、特に大きく美しい羽を持つ鳥の前で立ち止まると、恭介はその言葉を口にした。
 マリには答えが分からず、無言で首を振った。すると恭介は、ふん、と鼻を鳴らし、目の前のゲージへと手を伸ばす。
「鑑賞用の鳥は、逃げても飛んでいけないように、羽を切るんだ。後ろの辺りにある、風切り羽っていう所を」
 その部分をマリに指差して教えると、恭介は「俺たちは所詮、この鳥と同じだ」と呟いた。
「どういうこと?」
 恭介の話が腑に落ちないマリは、眉を顰めて恭介に尋ねる。すると、ゆっくりと恭介はマリへと視線を向け、感情の籠もらない声を出す。
「羽を持ちながらも、何処にも飛んでいけず、狭い『箱庭』の中で、飼い主を喜ばせるためだけに存在してる」
「飼い主、って」
 マリが尋ねようとするものの、恭介はそれを遮るように話し続けた。
「俺たちの飼い主の願いはこうだ。『自分たちの言いなりで生きろ。そして、いい血統のオスやメスと結婚して、繁殖しろ』ってな。ならば、それに従う以外に、何ができるって言うんだ? 鑑賞用の鳥は、ちゃんと鳥籠の中で大人しくしているのが筋ってもんだよ」
「あんた、それ本気で言ってるの?」
 マリは思わず視線を強め、無表情の恭介を睨みつける。
「私は、鑑賞用なんて嫌。ちゃんと自分の羽で、空を飛ぶ鳥じゃなきゃ、嫌だ」
 すると恭介は、唾しぶきを飛ばさんばかりに、「バーカ!」とマリに向かって叫んだ。
「もう俺たちは羽を切られた鳥なんだぜ? 生まれた時からな! 何処かへ逃げたくても、何処に行けるはずもないんだ」
 それはマリも実感はしていた。社会的地位や名誉のある親に守られて、こうして生きてきた子供が、その庇護なしで生きていくのは、容易なことではないだろう。
 だがそれでも、マリは諦めたくなかったのだ。「箱庭」以外の所へ出ていくことも、大空を自由に飛び回ることも。その気持ちをなくすまいと、ずっと自分を励まし続けていたのだから。
 恭介の放つ、負の力を帯びた雰囲気に負けないように、と心を奮い立たせて、マリは彼を見て、強い言葉を口にする。
「たとえそうだとしても、私は必死で飛びたい」
 決死の覚悟を決めたかのような、彼女の様子に、恭介は一瞬怯んだかのよう見えた。が、彼はすぐに、表情を怒りに塗れたものへと変えていく。
「なら、飛べなくするまでだ。どんな方法を使ってでも」
 この時の恭介の体には、まるで煉獄の炎を纏ったかのように、憤怒の思いが溢れていた。何故あの時、恭介がそんなに怒っていたのか、マリには今でも分からない。
 だが、その後に、親たちから告げられたことを考えれば、彼の怒りは、そのことが原因だったような気もするのだが。
「藤本さん、聞いてくださいよ!」
 大きな声と共に、ぽん、と日野に肩を叩かれ、マリの目の前に広がっていた、過去の面影が消えていく。
「このマリちゃんはね、キャバクラ嬢ではあるものの、銀座や六本木の高級クラブのホステスにも負けないと、私は思っているんですよ!」
 妙に誇らしげ語る日野を見て、マリは咄嗟に「もう! 日野さんったらお上手ですね!」と、声を上げて笑う。すると日野は、「いやいや、本当だよ」と、酔いが回ったかのような口調で答えた。
「こうして冗談を言っても、そこはかとなく気品が漂うしね。さぁ、是非、藤本さんの隣に行って、お相手をしてくれよ!」
 嫌だ。あいつの隣になど、行きたくない。
 頭の中にある本当の自分が、そう絶叫していた。しかし隣にいる日野は、必死の形相で「頼んだよ、マリちゃん」と、小声で囁く。
「藤本クリニック系列の病院での、会計システムの契約がかかっているんだ。何とか、彼を上手く持ち上げてくれ! 頼む!」
 その言葉に、マリは歯を食い縛る。そして自分の中にあるプロ意識を掻き集め、振り絞れるだけ絞ると、にっこりと笑った。
「分かりました」
 マリはスミレと目配せを交わすと、二人で同時に立ち上がった。ゆっくりと歩みを進め、スミレと入れ替わるように、男の隣の席に腰掛ける。そんな移動の間じゅうも、男はマリから目を離そうとしない。そしてマリが、「よろしくお願い致します」と頭を下げた後も、じっとマリを見ていた。
 男の視線に当てられたように、マリは次第に体が痺れていくのを感じていた。だが、この男に、正体を見破られる訳にはいかない、と何とか自分を奮い立たせる。
 そう、私は「マリ」なのだから。全てを捨てて逃げ出し、厚化粧という仮面を被った自分に、この男が気づくはずなどない、と。
 心の中にある、本当の自分を完全に閉じ込め、マリは男の前に置かれたグラスへと目を遣る。ウィスキーの水割りが入っているようだが、酒があまり進んでいない。
「よろしかったら、他のお飲み物を用意しましょうか?」
 マリが問い掛けると、男は驚いたように目を丸くする。
「実は、他の飲み物をお願いしようか、と思っていた所なんです。よく分かりましたね」
 男は相変わらずマリの顔を優しい眼差しで見つめながら、「できればワインがいいかな。赤のね」と、大きな瞳を輝かせる。
 この男が、こんな笑顔を自分に向けるとは、とマリは滑稽に感じながらも、「では今、ワインリストをお見せしますね」と、ボーイを呼び、ワインリストを持ってくるように指示した。
 ボーイが素早く持ってきたリストを、マリが開いて手渡すと、男はリストに目を走らせながら、一言呟いた。
「マリさんは、バレエをなさってはいませんでしたか?」
「え?」
「歩いている時も、座っている時も、とても背筋が伸びている。腕を伸ばしても、指先までピンと真っ直ぐで綺麗なので、ふと、そう思ったんですよ」
 思いも寄らない質問に、マリは「い、いえ。バレエはやっていません」と答える。すると男は、「そうでしたか」と、急にしょんぼりとした表情になった。
「僕の幼馴染みに、バレエを習っていた女の子がいたんです。その子の仕草に、マリさんの仕草が似ていたものですから」
 そう言って、男はワインリストから顔を上げると、マリへと視線を向ける。そして大きな瞳を更に広げるようにして、マリの顔に見入った。その視線のあまりの強さに、マリは仰け反りそうになる。背中の筋肉を強ばらせて、表情をも固めてしまいそうになっているマリを、男は凝視し続けていた。
「そういえば、仕草だけじゃなく、顔も何となく似ているなぁ」
 そりゃそうだろう。それは私だもん。
 マリは心で苛立ったように呟くが、そんなことはおくびにも出さない。とにかく、こいつにバレないように、とひたすらにこやかな表情を男へと向けていた。
 すると男も、頬を緩めてにっこりと微笑み、リストにある銘柄を一つ指差して、ボーイに注文する。そしてリストを手渡すと、再びマリに温かな視線を向けた。
「マリさんを見ていると、あの子のことを思い出しますね。何だか、懐かしい感じだ」
 懐かしいもへったくれもない、とマリは微笑みながらも、脳内で毒づく。私としては、こいつのことなど、忘れたい思い出でしかないのに、と。
「では、その幼馴染みだった方も、美人だったのですね。私みたいに」
 苦し紛れにマリが冗談めかして答えると、男は、ははは、と軽やかな笑い声を上げた。その様子を見て、男がマリを気に入っていると思ったのか、日野が嬉しそうにニコニコとしている。
 気楽そうな日野を見て、マリは内心恨みたくもなったが、これは仕事だ、と瞬時に割り切る。この道に進んだのは自分の選択で、たまたまこいつが客として、ここに来てしまっただけなのだから。
 だからこそ、この男に見つかることなく、仕事を全うしなくては、とマリが気合いを入れていると、ボーイがワインを持ってきた。ワインのコルクを抜くボーイの姿を見ながら、男は「その、マリさんに似ている幼馴染みのことですけどね」と脚を組み直して、マリを見る。
「実は、ただの幼馴染みじゃなかったんです」
「えっ!」
 いや、驚くことじゃない。確かにただの関係ではなかったのだ、こいつとは。だがマリは、あのことを口に出されるのでは、と思わず両手を股の上で握り締める。
 すると男は、しれっとした表情で、マリの予想していた言葉を口にした。
「その幼馴染みとは、婚約までしたんですよ」
 マリは一瞬顔をひきつらせたものの、すぐに仮面のような笑顔を取り戻し、「まぁ、そうでしたか!」と、わざとらしく驚いてみせた。
 悔しい、とマリは自分を責めた。いくら自分のことを言われているとはいえ、妙に浮き足立って、こんなことしか言い返せない自分に腹が立つ。次第に焦りの気持ちがせり上がってくるのを感じながら、マリがワインの入ったグラスを手渡すと、男は「ありがとう」と微笑む。
「申し訳ないですね。僕のこんな話を聞いても、面白くないでしょう?」
「いえ。初めていらっしゃったお客様のお話は、どんな話題でも新鮮で面白いですよ!」
 こうしてソツなく答えることができ、マリは何とか落ち着きを取り戻せそうだった。それに、この男は恐らく、自分の正体に気づいてはいない。その確信が、マリに安心感を与え、キャバクラ嬢としての意識を取り戻させようとしていた。
 男はワインを一口飲むと、マリにもワインを勧める。
「マリさんも一杯、いかがです?」
「よろしいんですか? では、少しだけいただきます」
 笑顔のマリが持ったワイングラスに、男は慣れた手つきでワインを注いでいく。
 それはマリにとって、奇妙な感覚だった。幼い頃からマリに嫌悪の目を向け、そしてマリ自身も嫌っていた男と、こうして和やかに会話をし、酒を飲むなど、考えもしなかったことだったのだ。
 婚約者だったと言っても、お互いの親が決めた間柄だったこともあり、いつもお互いに反発し合っていた記憶しかない。そして、常にマリへと向けられていた、この男の放つ憎悪に近い表情も、今は見なくて済んでいる。
 このまま時間が過ぎて、ここで楽しく過ごし、帰ってもらえれば十分だ――マリはそう思い、ワインに口を付け、「美味しい!」と叫ぶ。
「これ、美味しいですね! こんな高級なワインは久しぶりなので、悪酔いしないように気をつけないと」
「悪酔いされても、マリさんなら、きっと楽しい悪酔いでしょうね」
 そう言って微笑む、この男の仮面の表情にも次第に慣れてきて、マリは、ふふふ、と笑う。
「それが大変なんですよ! 私が悪酔いすると、だれかれ構わず、近くにいる男性を好きになってしまうんです」
 うん、調子が出てきた、とマリはほっとしながらワインを飲む。こういったネタを言うことこそが、キャバクラ嬢としての真骨頂、とマリは完全に「マリ」となり、男を見つめる。すると男は、嬉しそうな表情をしながら、「ねぇ、マリさん」と呟いた。
「申し訳ありませんが、僕のつまらない話をもう一つ、してもいいですか?」
「ええ、どうぞどうぞ! どんなつまらなさか、興味がありますね」
 マリの言葉に、男は肩を竦めるようにして笑うと、急に表情を真剣なものへと変え、マリの顔をじっと見つめた。
「マリさんは、小谷彰教授、という方をご存知ですか?」
 突然出されたその名前に、マリは思わず体を、びく、と震わせる。
 何故、今ここで、その名を出すのか、とマリは目を見開いた。その目に映る男の表情からは、何の感情も意図も読み取れない。仮面のような優しい笑みが、ただそこにあるだけだった。
「い、いえ。存じませんけど」
 口籠もりながらマリが答えると、男はマリから目を逸らし、正面へと顔を向けた。
「小谷教授は、桜庭学院大学の医学部の教授で、脳外科を専門にしていらっしゃる方なんです。ご自身が素晴らしい医師であるだけでなく、優秀なお弟子さんをたくさん輩出して、日本の医学界の権威、とまで言われている方なんですよ」
「そうですか」
 マリは相槌を打ちながら、男の横顔へと視線を注いでいた。美しい鼻筋が、顔の上に影を落としているのを見ながら、男の次の言葉を待っている。
「その小谷教授には、二人の娘さんがいらっしゃって、美人姉妹、なんて言われて有名なんです。それでね、この前、小谷教授にお会いして、娘さんたちのことを伺ったんです」
 男がそこで話を切り、ワイングラスを傾ける。マリはそんな男の様子を見ながら、えも言われぬ不気味な何かが、自分へと迫ってきているように感じていた。
 ドレスの下では、うっすらと体が汗ばみ始めている。これは明らかに冷や汗だ、とマリは感じ、顔だけは必死で笑顔を取り繕いながら、男の様子を眺めていた。
「そしたら、下の娘さんの翠ちゃんは、お父様の跡を継がれるべく、現在研修医として勉強中とのことで、小谷教授は大変喜んでいらっしゃいました。彼女が、自分と同じ道を進んでくれたことが、嬉しくて仕方ない、という感じでしたね」
 男は手に持っていたワイングラスを、静かにテーブルへと置く。そして大きく息を吐き出し、ソファの背凭れに寄りかかった。
「だけどね、不思議なことに、小谷教授は上の娘さんのことになると、口を噤むんです。それでも何とか聞き出してみると、上の娘さんは、海外でボランティア活動をしていて、日本に帰ってくる予定はない、なんておっしゃる」
 男は困ったかのように首を振ると、こちらへと顔を向ける。その顔には、笑顔の仮面が付けられていたものの、それが次第に別なものへと変わっていくのに、マリは気づいていた。
「で、その海外にいるはずの人間が、どうしてここにいるんだ?」
 これまでとは全く異なる、男の低く響く声に、マリは息を呑む。
 目の前にいたはずの、ハンサムで穏和な青年は、いつの間にか、マリのよく知る、憎しみの意識をこちらへとぶつける男へと変わっていた。
「あら、何のことです?」
 マリが笑顔を崩さずに答えると、男はふん、と鼻で笑う。
「しらばっくれたって、無駄だぞ、アイ」
 久しぶりに聞く、その呼び名に、マリは思わず体を大きく震わせた。
 自分を「アイ」と呼ぶのは、この男だけだった、と今更思い出しながら。



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