閉じる


試し読みできます

東京

 2012年・秋。
 屋根のドームが戦前の姿に修復された東京駅の、昼下がりの東海道在来線長距離列車ホーム。
 人もまばらなホームに、その列車は停車していた。
 ブドウ色2号という茶色の艶を見せる光沢塗装に金帯が走る豪華列車である。
 私はその列車のドアをくぐった。
「では、楽しい旅を」というアテンダントの迎える声に会釈しながら車内に入ると、分厚い絨毯が敷かれ金色の真鍮飾りに飾られた豪華な車内に迎えられる。

 号車と個室の番号を確かめて、今宵の宿となる個室に荷物をおいて、早速ロビーカーに陣取った。
 同じようにお年を召したご夫婦が、寄り添ってロビーカーの大きな窓から、停車中の東京駅の風景を見ている。

 これから列車は東京を出ると、上野に一時停車して東北本線を北上するのだ。その途中は京浜東北線の線路を経由する。
 その間、東北上越長野新幹線と並走する。
 加速力ではいくらハイパワー機関車を専用機としても、あくまでも客車列車、E5系のような新世代新幹線には到底敵わないが、クルーズトレインの旅は急ぐ旅ではない。
 移動することそのものを楽しむ、ゆったりとした旅だ。

 ちなみにこのファンタジアコーストエクスプレスを、先代のブラウンコーストエクスプレスの増備更新車両として組成する時、JR東海区間を通過するにあたっての問題が生じた。
 JR東海は電車と同じ操縦系と操縦応答性能を要求したのだ。
 その結果ブラウンコーストエクスプレスとともに更新を電車で行おうという話があったらしい。「周遊電車」計画である。
 しかしそれでも北急HDの選択は、高度列車運転システムによって電車並みの操縦応答性を実現した客車列車の増備だった。
 これまでEF510・BCE塗装機がBCEに使われてきたが、大出力2車体交直流機EH510の導入と操縦システムの更新によってBCEとFCEの両編成の同時運用が可能になった。
 またFCEには電源展望車としてカハフ25、「フェアリードーム・オブ・ファンタジア」というドームカーが連結されている。それをこのロビー車に来るときに通ったのだが、巨大なアクリルドームは素晴らしく展望が良く、胸のすくような見晴らしであった。そのドームカーのドーム部の下が発電室となっていて編成全体のサービス電源を供給するのだ。

 機関車側のロビーカーではアップライトピアノの自動演奏の中、モニターには車内案内のビデオが流され、アテンダントクルーが旅の案内をしている。
 外では出発セレモニーとして弦楽カルテットが生演奏を披露し、車内のピアノとのアンサンブルを描いている。
 そのロビーカーの車端部、回転椅子と大きな展望窓の向こうには銀色の飾り帯もりりしいEF510 601が出発合図を待っている。

 私のとった個室はツインDX、2人用B寝台である。カメラマンとともに使い、ちょっとした取材の打ち合わせなら個室内で他の乗客に迷惑をかけずに静かにできるので便利だと思ったのだ。
 今はもう荷物をおいて、出発前の車内の様子を取材している。
 東京駅もエキナカ開発のためにどんどん狭くなったが、それでも北急HDはクルーズトレインロビーというこの列車乗客専用の待合室をホームに用意している。なかなか贅沢な趣向である。
 そこでのホームホステスと呼ばれるクルーによって、チェックインにドリンクサービスに荷物預かりと行き届いたサービスが行われているのを拝見した。
 そしてこのロビーカーもそうだが、この列車の内装には、どこか昭和のいちばん鉄道がよかった頃の雰囲気が演出されているように思う。
 もちろん私の世代で良かった頃というとJR発足直後、JR各社が新たなサービス向上を競った頃なので、もっとお年の方はそれ以前の昭和の鉄道全盛期を思われるかもしれない。
 なにしろ私が懐かしい列車というと113系などのセミクロスシートを思ってしまうのだが、先輩は50系客車普通列車とL特急というし、その先輩は蒸気機関車と旧式客車、電車特急・急行というから、鉄道好きも世代はどんどん形を変えて重なっていくのだなと思う。


 ロビーカーの車内を見ると、ウェルカムドリンクのワインを何度もおかわりしている青年が目についた。
 私もすこし唇を濡らす程度に味わったワインは確かに絶品であった。本格的なソムリエ資格者がクルーのなかに配置されているというだけのことはある。
 そのとき、英語で私を呼ぶ声が聞こえた。振り返ると、なんと10年前、当時のBCE同乗ルポを書いた時に少年だったミリアム君であった。
 あまりの奇遇にびっくりしてしまったが、聞いてみるとあれからあと彼は大学在学中にITベンチャーを立ち上げ、私も名前を知っているSNSというウェブサービスの会社を創立、そして当時不仲だった両親を仲直りさせ、そしてともにまた日本の周遊列車の旅を楽しむことにしたのだという。
 すっかり大人になった彼に5年の月日を、そして私が5歳年老いたことを実感してしまった。
 ちなみにあの時のチーフアテンダントだった彼女は乗務配置からおりて、北急のアテンダント養成所で後進の育成にあたっているという。
 思えば世の中はいろいろ変わった。周遊列車もこの第2編成「ファンタジアコースト」が就役し、第1編成「ブラウンコースト」と同時に2編成体制で列車周遊旅行を販売している。

試し読みできます

発車

 高らかにメロディーホーンを鳴らした専用機関車・EF510のインバータの音とともに、列車は走りだした。

 1991年、ブルートレインがまだその本数が減りながらも走っていたころ、北急電鉄グループにより建造されたクルーズ列車、それが「ブラウンコーストエクスプレス(BCE)」だった。
 当時は寝台列車どころか、鉄道そのものが斜陽と言われていた頃だった。
 自由形Nゲージ鉄道模型と言うかたちで船出したクルーズトレイン。
 しかしその先駆性ゆえに、その旅路は決して順調ではなかった。
 それでも彼らは、経験と工夫を積み重ね、当初11両編成であった編成は3両を追加して14両編成となり、また2009年には第2編成としてこの「ファンタジアコーストエクスプレス(FCE)」が誕生した。
 その旅路の中、鉄道に対する夢、寝台列車に対する夢を発信し続けた彼らとは別に、実在の鉄道会社も動き始めた。
 そして、現実にJR九州「クルーズトレイン ななつ星」が誕生することとなった。

 今、万感の思いを込めて、ホーンが鳴る。
 今、万感の思いを込めて、発車合図が出される。
 2012年、1991年から21年走り続けたブラウンコーストエクスプレスと、そしてその姉妹として作られたファンタジアコーストエクスプレス。
 その旅が、また始まる。

 思えば私はずっとこうして「銀河鉄道999」の物語に憧れてきた。
 子供が読むものとしてはキツイところもあるが、大人になった今だからこそ、しみじみとわかる気がすることも多い。
 そして、その999の最後、メーテルと鉄郎が別々の道に進んだことが、今だからよく分かる。
 それも歳をとったせいだろうか。

試し読みできます

大宮

 列車は東京から京浜東北線を進んだあと、上野から東北本線へ転線する。
 そして京浜東北線や山手線の列車と並走する。
 途中駅の混雑を、ゆったりとした揺れの客車から見る。
 混雑の中の人々がみな、珍しそうにこのブドウ色に金線の走る周遊列車を見つめている。

 その列車が大宮を過ぎた頃、車内が慌ただしくなった。
 どうしたのかと聞くと、あのワインおかわりの青年が酔い潰れたらしい。
 救急車を手配するかという話だったが、アテンダントの判断ではそこまで意識レベルが下がっていないので、彼のとっている個室で休ませながら水分を補給させることとしたらしい。
 彼の部屋はというと、なんとインペリアルスイート、かつて夢空間デラックススリーパーの最高の個室だった。
 ともあれ彼の無事を確認して安心したところ、青年は私を呼んだ。
 黙っていられないので話を聞いて欲しいという。
 なぜか傾聴ボランティアになってしまったのだが、話を聞いてしまった。
 この部屋は、本当は彼の愛する奥さんとの旅のために予約したものだという。
 プライベートだとは思ったが、聴き続けた。

 彼の知らないうちにできた彼女の借金。
 ちょうど彼の仕事は震災対策の仕事で、多忙を極めていた。
 奥さんはその間に、すこしずつ借金をふくらませていた。
 彼はそれでも頑張って借金の処理をし、それどころか新たに仕事を増やしたことが実を結び、再出発をしようと、この旅に誘った。
 だが、彼女は一緒に東京駅まで来て、突然「さよなら」、と言って、新幹線に乗って青森へ行ってしまったらしい。
 彼も必死に夫婦の危機を回避しようと頑張っていたが、その奥さんのさよなら、という言葉に、もう抗う力も失っていた。
 ただ、「道中でお弁当買って食べるといい」と彼女に千円札を渡そうとして、それを拒絶され、そこで彼は心がすっかり折れてしまったらしい。
 そして力なくFCEに乗車し、ロビーカーでワインを浴びるように飲んだ。
 東京駅での思わぬ別れのことを話したあと、彼は個室でむせび泣いた。
 個室のダブルベッドにならんだ二人用の寝具が、眼に辛かった。
 アテンダントもそばについて、じっと話を聞いていた。
 あれほど高くにあった日が傾き、薄暗くなってきた。場所は黒磯の近くだろうか。
 そろそろご夕食のお時間ですが、いかがなさいます? と彼女は腕時計を見て聞いた。
 食欲がわかない、とても食べる気持ちになれない、と彼は青ざめた顔でなんとか答えた。
 ではご予約のフルコースはキャンセルして、懐石弁当をルームサービスいたします、それとシェフにおかゆを作らせますので、少しでもお召し上がり下さい、と彼女は言って礼をした。
 なにかございましたらすぐにルームサービスのボタンをお押し下さいませ、クルーが駆けつけますので、と言った。

 人生ってなんなんでしょうね、とアテンダントの背中を見送って、扉が閉まると彼は口にした。
 私にもわかりません、と私は答えるのがやっとだった。
 彼女は借金をした。僕の実家からも借金をした。それでも僕は彼女との生活に安らぎを感じていた。
 でも、この世に安らぎ以上のものなんて、あるんでしょうか。
 僕の一生で一番安らいだ季節が、こんな事で終わるなんて。
 私は答えようがなかった。
 携帯にかけても彼女は携帯切っているらしく、出ないんです。
 もう終わりです。
 彼は少し震えていた。
 身体が痛い。
 大丈夫ですかというと、大丈夫じゃないです、と彼は言った。
 7年間の結婚がこれで終わりだなんて。
 なにも言いようがない。


 そのなか、3両ある食堂車について、「第2組のディナーのご案内でございます」との放送が流れた。

 老夫婦が通りかかった。
「大丈夫ですか」
 と聞く二人に、なんとか、と私は答えた。
 しかしその二人もまた、表情にかげりがあった。

 そこで彼が大丈夫ですといったので、私は「気をつけてくださいね」といって、ロビーカーにうつった。

 老夫婦はロビーカーから暮れなずむ東北路の風景を眺めていた。
 最期の旅です、と二人は言った。
 子供もいない年金ぐらしの我々がこんな旅を出来るはずがないと思いませんか、と言われ、私はどきりとした。
 我々、癌なんです。同じ年で結婚し、同じ物を食べて、同じことで楽しくすごしてきた。
 だけど、癌は私達を必ず引き裂く。
 こんなに愛しているのに。
「まさか」
 私は口にしていた。
「大丈夫ですよ。昭和の生まれはそこまでヤワではありません」
 私はその言葉に救われた。
「でも、私達は長く生き過ぎました。
 もう十分です」
「そんなことありませんよ。まだまだ」
「まだまだこうして崩壊する年金制度で、今を働く若者から養ってもらって平然としていられるほど、我々は恥知らずでもないのです。
 私たちは福島に住んでいました。例の事故を起こした原発の近くです。
 でも、私達は声高に電力会社も国も責める気にはなれない。
 もっと困っている地域があるのに、私達の地域に優先的に有形無形の社会資本が与えられた。
 直接の支援もあった。
 そして私は、あの原発の建設をあの立地地域の町の議員として、満場の賛成で迎えた。
 そうしなければ、常磐炭田の没落で何もなくなる私達の街を救う方法はなかった。
 豊かな海なんて言いながら、その実崩壊した林業のせいで磯焼けが始まり、漁業も存続が危うかった。
 それを支えてくれたのが原発の立地交付金だった。
 私たちはそれを渋々のポーズで受け取りながら、内心それが途絶えるのを恐れていました。
 その交付金で、もう過疎でとっくの昔に閉校になって当たり前の学校、閉鎖になって当たり前の病院、そして渡る人のいない立派な橋、通る人もいない立派な道路を、そして住人も少なくなった家を維持してきた。
 それらが地震で壊れ、放射能に汚染された。
 正直、とても復旧を声高には言えない。
 私たちはそんな中、避難所から仮設住宅に移りました。
 でも、覚悟を決めました。
 まだ立って歩けるうちに、この列車に乗ろうと。
 それから後のことはまた別の話です。
 こういう旅もあってもいいじゃないですか」
 微笑む二人に、私は答える言葉がなかった。

 列車はそのまま北上していく。
 ディナー営業の終わった食堂車では、パブタイム営業が始まった。
 私はそのにぎやかな談笑の様子をカメラマンとともに取材する。
 11号車の平屋食堂車では和の雰囲気が、12号車のダブルデッカー食堂車ではモダンなイタリアンの雰囲気が演出されている。
 そして13号車は一人がけのソファの並ぶラウンジカーとなっていて、ここでも軽食飲食ができる。
 最後尾14号車は個室と最後尾3方向がすべて展望できる展望食堂車になっている。
 ちょうど子供連れがその一番後ろのパノラマの席で楽しそうに飲食していたので、話をして、撮影のお願いをして写真に収めた。よく聞くと中国から参加した実業家一家という。中国人ではあるが、保有する資産はアジア全域に分散しているという。今風のアジアの富裕層である。

試し読みできます

青森 

 青森に差し掛かった頃、カメラマンと話をした。
 この取材をどっちの名前で出す? という話だった。
 カメラマンは「めんどくさいからあなただけの名義でお願いします」と事も無げに言った。
 私もそれはできない、これは君の仕事でもあるんだから、と答えた。
 すると彼はカメラの手入れに目を向け、私に目を向けずに、
「もうあの私怨に満ちたあの編集部が嫌なんですよ、うんざりなんですよ!」と彼は吐き捨てた。
 私はその答えを予期していた。
 予期していたけど、悲しかった。
 出版不況という負け戦の中で、私の出入りしている編集部も、例によって私怨と、大人げない「大人版いじめ」、パワーハラスメントの巣窟になっていた。
 呆れるほど幼稚ないじめが横行するなか、編集長もデスクもまたまともな対策ができず、ライターも見限って次々と去っていった。
 それに代わってやってきたライターもライターだった。
 中には良い文章を書くものもいるのだが、その他に、取材先から以降の出入りを完全に禁止されるようなとんでもない言葉を使うものがいて、そのたびに編集長はおろおろと定見のない対応をした。
 それにあきれて、まともな他のライターは次々と去っていった。
 私は泣きたかったが、彼は平然と踵を返し、「青函トンネル通過中のドームカーの写真撮ってきます」と去っていった。
 その後ろ姿を、私は追わなかった。
 いい歳こいた私が半べそのような顔になっているのが、個室の鏡に写っていた。

 列車は青森信号所を経て、津軽海峡線に入っていく。


 青函トンネル内でもFCEでは携帯電話が使えるようになっている。
 そして、それはドームカーに私が向かう途中だった。
 そう、あの一人でダブルベッドの部屋にいた彼の大声が、廊下に聞こえたのだ。
 聞いてしまった。
 彼が彼の奥さんではなく、その奥さんに無理に借金をさせたものと口喧嘩しているのだった。

 なんだろうとアテンダントもやってきた。
 彼が絶叫したとき、アテンダントが「お客様!」と声をかけた。
 彼はすみません、と荒い息を整えながらドアを開けた。
「離婚することにしました」
 彼はそう言った。
「彼女のために僕が一生懸命水を汲んでも、彼女のコップには底がないんです。
 彼女の喉が渇いていて、私がそれを癒そうといくら水を汲んでも、彼女の喉には一滴も入らないんです。
 そして、彼女を騙し、裏切ったそいつを、彼女は選んだんです。
 もう終わりです。
 そいつと僕との間で、彼女は板挟みで苦しかったんだと思います。
 だから、私は手を離すしかない。
 彼女を愛しているから。
 彼女に、本当に幸せになって欲しいから」
 彼はかけたメガネに飛沫が飛び散るほど泣いていた。
「私は彼女を幸せにしていると思っていた。していく道を選べていると思っていた。
 とんでもない勘違いだった」
「自分を責めちゃいけないよ」
 私はそう言いながら、その私もまたこの旅でのカメラマンとの行き違いの苦しみに悶えていた。

 列車は五稜郭についた。ここからはスーパーDFと俗称される専用ディーゼル機関車DF200 600による牽引になる。
 時刻は真夜中だった。
 アテンダントに促されて、我々は編成の後尾側、ドームカーにうつった。
 電球色のフットランプがさり気なく照らすドームカーのドーム席からは、皮肉というか、なにか悔しいほど残酷に美しい夜空が見えた。
 深い青、銀に鋭く光る星々、そして金色に輝く月。
「2人でこれを見たかった。それを楽しみに頑張ってきたのに」
 彼は消耗した声で言った。
「なにかお飲み物でも」
 とアテンダントが促し、私はとても酔える心境ではなかったけれど喉が渇いていたので、スポーツドリンクありますかと聞くと、彼女はございますよ、と答えた。
 彼にも、と私が言うと、2つですね、と彼女は確認し、もう一人のアテンダントに取りに行かせた。
 カメラマンが夢中になって写真を撮っている。


 私はいつから、何事にも夢中になれなくなったのだろう。
 どんな楽しいことがあっても、この楽しさのあとには必ず、と思う程度には私は大人になっていた。
 ミリアム君が「子どもでいさせて欲しい」といったあの10年前の旅を思い出した。
 我々は、もう少年でいることはできないのだ。
 かといって、「さよならも愛の一つ」とも思えない。
 ただ身体が苦しく、痛く、身悶えするのみだった。
 アテンダントが飲み物を持ってきてくれて、僕と彼で飲んだ。
 ミリアム君がドームカーのデッキで何か早口で電話していた。
 そして、ドームに上がってきた。
 どうしたときくと、彼のSNSサービスの会社も思わぬ危機に陥っているとのことだった。
 顧客情報の漏洩の可能性が出ているのだった。
 可能性では済まない! と叱咤したのだが、国際電話の向こうではその状況の危機がよく分かっていないらしい。
 ともかく実態調査と顧客へのお詫びを、と部下に命じてドームに来たという。
 どうやら情報を持ちだしたのは、ミリアムが今の会社をおこすもとになった鉄道模型のサークル以来からの仲間らしい。
 彼の表情もその裏切りにまた険しかった。
 そして、あの老夫婦も夜空を見上げていた。
 スーパーDFのホイッスルが鳴り、列車は札幌へ向けて走りだす。
 あまりにも無慈悲に美しい夜空を見上げるドームカーをつれて、列車は動き出した。

 そして、夜がさらにふける頃、ひとり、またひとりとドームカーをあとにして、みな個室に入っていった。
 その途中、食堂車では朝食の準備が進んでいた。
 夜行列車の乗務員は夜を徹して働く。
 そのためになかなか人員確保が難しいのだが、北急HDはそれをやりくりして確保しているという。


 個室に戻った。私のとったツインの個室は2段ベッドと上下の大きな窓を備え、壁際にはコンソールがあってそこにテレビとしても使える多機能モニタと空調や照明のコントローラーが備えられている。
 その隣には隣の個室につながる扉になっていて、2つの個室をつないで4人個室にすることもできるようになっている。扉には上段寝台に上がるためのはしごも備えられている。はしごも真鍮の金色が艶めいて美しい。
 また上段寝台の隣、通路側にはクローゼットがあり、荷物などを収めることができる。通路の上のスペースを有効に活用してあるのだ。
 そしてトラベルセット。これにもこの列車、ファンタジアコーストの紋章があしらわれている。
 そして寝間着が薄い浴衣ではなくガウンなところがまた他の寝台列車と一線を画するものだ。B寝台個室であるのにもかかわらずである。
 シャワーはこのB・シングルAクラスの部屋の場合、連結されている5号車のシャワーカーを使うことになるが、SA寝台個室にはそれぞれの個室にシャワールームが、さらにSSA寝台個室にはバスタブまであるユニットバスが備えられている。豪華である。

 列車はさらに進んでいく。窓の外はほとんど闇であるが、若干の列車の室内の明かりで少しだけ線路際の下草が走り、遠くに心細気な民家の明かりが見える。
 そしてそのなか、鮮やかに時々輝くのが飲料の自動販売機である。人も通ることも稀のようなこんなひなびたところにも自動販売機があるのだ。不思議なものだが、日本全国でなぜかよく見る夜行列車の夜の車窓風景である。

 走り抜けるそれをすこし見たあと、私は室内の制御盤の調光ダイヤルを回して、個室内の灯りを暗くした。
 藍色の空が映った。星も多く輝いている。これをみると、やはり旅に出た気がする。
 そして列車が速度を落とし始める。青函線の信号所だ。すこし左右に揺れたと思ったら、反対側に2車体のごついシルエットのEH500と、それに連なる長いコンテナ貨車の列が現れ、流れていく。
 コンテナ貨車にはコンテナがびっしり積まれている。青函線はこうして北海道と本州を結ぶ輸送の大動脈なのだが、青函線といっても青函トンネル付近は新幹線規格の複線だが、それに取り付ける青森や函館からの線路はローカル線の単線である。しかも現在北海道新幹線として新青森から函館までの工事が進んでいるのだが、そのせいでもスペースがなく、列車はこうして行き違いのための運転停車を繰り返す。
 これから北海道新幹線が開通したとしても、この状況は良くなるのか悪くなるのかわからない。トンネル内での新幹線と在来線の高速でのすれ違いは危険だということで新幹線が在来線並みの速度制限で走ることになると言われもするし、それを避けるために在来線列車を減らそうにも貨物列車は在来線規格である。
 そこでJR北海道苗穂工場が在来線の貨物列車を新幹線規格で作った筒状の列車のなかに納めて走るシステムを考えて試作し実験したりしているが、あまり芳しい話を聞かない。
 寂しいことだが、それだけ苦労しているなかで、こんな優雅な、ある意味不要不急な寝台列車がそういう時期に残れるかどうかというと心配になる。とくに周遊列車のほうは、車両を線路を持っている各会社にお願いして走らせているので、いつ「もうやめましょう」と言われるかわからない。事実、JR東海からは「機関車牽引の列車はやめましょう」と北急周遊列車部は言われ、その結果稀な機関車と客車双方に電車並みの制御システムを詰むことになり、周遊列車専用機関車のEH510などを用意することになった。これら専用機関車はワンハンドルマスコンで制御し、階段払いと呼ばれる電車と同じブレーキングが可能となっている稀なものである。
 それでもなお周遊列車の灯を消したくない、という北急電鉄の意志は強固なものだろう。しかし北海道の鉄道事情を考えると、また大きな課題を背負ってしまうのだろうなと心配になる。
 せめて、新幹線の運転を夜は停止し、その間にこれまでの北斗星やカシオペア、トワイライトエクスプレスとともにこのクルーズトレインも、運転させてもらえないものだろうか、と思う。
 寝台列車ファンとしては、どうしてもそう思ってしまうのだ。

 客車の周期の長い心地良い揺れの中、私は疲れていたせいか、個室の寝台に横になって目を閉じると、ふっと眠気が頭を満たし、眠っていた。
 最後に、遠くに牽引機関車のホイッスルが聞こえた気がした。

試し読みできます

札幌

 朝を迎えたのは札幌に近づいた頃だった。
 列車は食堂車で朝食を供しながら、このまま札幌で運転停車だけして、北海道を北上する。
 朝食は宿の朝食として基本的なオムレツと焼き魚、ご飯かパン、お味噌汁かスープという定番ものだが、実に美味しい。聞くと卵はすべて北急系列の農業法人が採卵したものであり、他の食材も北急HDが設立した農業法人や契約した農家が工夫と研究を重ねて栽培・収穫したものらしい。確かに旨みと味わいが普段のレストランのものと桁が違う深みである。
 朝食が終わる頃、列車は札幌を離れ、西へ向かう。札幌に通勤通学する列車と逆方向に進む。通勤通学の風景を寝台列車から見るのは、若干の後ろめたい優越感を感じてしまう。私の場合はいつもそうだ。
 また、朝食の時間となってもドアが閉ざされたままの個室もある。長距離の行程でしかもこれから車内販売の飲食がふんだんに用意されるのだから、早起きして食堂車の朝食に合わせずにのんびりと寝坊して、たっぷり寝てから途中駅から積み込まれる北海道の駅弁を食べてもかまわないのだ。
 何気ないが、思えばなんとも贅沢なものである。

 札幌近郊は開発が進んでいたものの、北上するとすっかりローカル線で、途中後続の振り子気動車特急を先行させるために何度も退避する。
 そして、一般型のDF200が牽引するコンテナ列車と行き違う。
 高い青空は本州の夏空と違い、どこか乾いた清らかさがある。それをドームカーから見上げながら、人々は軽食や飲み物を楽しんでいる。食堂車は昼食の準備をする。

 その間、ラウンジカーで私はバーテンに注文をし、彼が用意する間に外の風景を見つめていた。
 このラウンジカーの前には旅客用DF200が連結され、その後ろに展望窓があり、回転椅子があってそこで子供たちが間近に見る機関車に興奮している。
 それを子供たちの両親らしき人々がカメラに収めている。いい記念になるだろう。特にこのファンタジアコーストは4人個室車両が多いため、よりファミリーユースに適しているように思う。
 展望窓はほぼ床面から天井まであり、晩夏の日差しが眩しく入る。それに比べてその窓のそばの空調吹き出し口からの吹き出しが静かですんでいるのは、北海道の夏らしい爽やかさだろうか。よく見ると天井の換気口からからっとした気持ちのいい風が入ってくる。
 バーテンが飲み物をくれた。私はお酒も飲むが、しかしそれより甘味を好む。頼んで作ってもらったフルーツパフェを持って、ロビーのソファに座る。
 ゆったりとしたソファに背を預け、車窓をぼうっと眺める。
 時折流れていく林の中にぽっかりと池があり、日差しを反射してきらめいている。
 私はこの旅のことを記録しなければならないが、でもいろいろなことがあっても、やはり旅は旅だ。
 ふんだんにある時間を贅沢に使う。やはり周遊列車の旅の本義はこれなんだろうといつも思う。

 列車はその後網走で乗客を降ろし、折り返し整備に入り、その間乗客の我々は世界遺産の知床湿原をゆく釧路湿原ノロッコ号に移乗したり、網走を観光し、みな網走の宿に投宿する。本来は流氷が名物なので夏はシーズンオフと思われるかもしれないが、夏の北海道もまたいいものである。特に今回のクルーズはオホーツクの花火大会と日程があっているため、夜もまた楽しみなのである。
 また夕食の秋味、鮭や北海道の豪快な豚肉料理、カニなども楽しみである。
 以前に乗車したときは小樽での寿司であったが、北急はこうして周遊地域とタイアップし、観光資源の発掘も行なってきた。
 特に釧路湿原ノロッコ号の夏の運転もJR北海道釧路支社の協力も得たという。

 列車は釧路についた。長い運転が、ここで一息つく。
 14両編成とはいえ乗車定員の少ないFCEの乗客の殆どがノロッコ号に乗り換えることができた。
 これから機関車DE10の牽引する5両編成の展望客車のノロッコ号で塘路駅までゆっくりとした旅となる。
 その間、FCEは専用の釧路基地へ引き上げて車内清掃、リネン取り替え、汚物抜き取りなどを行い、明日の釧路発に備えるのだ。


読者登録

米田淳一さんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について