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オリンピックについて考える

 今日、止められるか止められないのかの瀬戸際のタイミングで水道料金を支払った。これでようやく胸を張って堂々と風呂に入ることが出来る。そう思ったのもつかの間、今度はガス代の請求書が届いた。これは一体どういうことなのだろうか。電気代やら電話代やら家賃やら、気がつけば毎月のように請求されているような気がする。きっとなめられているのだ。それもこれも私がオリンピックに出たことが無いからだ。
 ここで正直に告白すると、私は三十を近くにして、恥ずかしながら未だにオリンピックに出場した事が一度もない。これではなめられてあたり前だろう。オリンピックに出たことの無い奴なんか、ちょっと脅せば家賃も光熱費も支払うに違いないと思われ、不当に搾取され続けるのだ。このままではいけない。私もオリンピックを目指す事にした。たった今!!
 オリンピックを目指すからには生半可な覚悟ではいけない。体を鍛え、アスリートとしての肉体を手に入れなければならない。そのためにはバイトなんかしている場合ではない。そんな事している暇があったら、二度寝かなんかして来るべき戦いの日々にそんなえて体力を蓄えなくてはならない。あとスタミナつけるために夕食は毎日ステーキにする必要があるだろう。夕食後はビールを飲みながらニコニコ動画で面白MADを見、精神を充実させるのだ。そんな過酷な日々に私は耐えられるのだろうか!? いや、耐えなければならない。私は人よりスポーツが苦手である。そんな私がオリンピックに出るために人以上の努力をせずして何をしよう? 風呂場の掃除でもするか? いや、そんな場合ではないのだ!!!
 私は今覚悟を決めた。これから先は修羅の道だ。「これから先は修羅の道だ!」実際に口に出して言ってみた。隣の住人から壁を叩かれた。それほどこの部屋は壁が薄いのだ。そんな不自由な生活もオリンピックに出るまでの辛抱だ!!
 一つだけ不安があるとするならば、私がいまいちオリンピックとか言うものを理解していない点にある。うっすらとスポーツが得意な人が集まってモキュモキュするくらいのイメージを持っている。あと谷選手。最低でも逆上がりくらいはマスターしておくべきだろう。よし、忙しくなってきた。
 あとはこの話を役所に通して、国から補助金を貰うだけだ。いくら不況とはいえ、未来のアスリートを育てるのに必要なお金を出し渋るような事はしないだろう。補助金を貰ったら何をしよう。そうだ!補助金でガス代を払おう!! そのくらいの自由はあっていいはずだ。
 そんなわけで、是非次のオリンピックには期待していて欲しい。

カルマ

 洗濯し、洗濯物を干し、それを取り込み、たたみ、収納する。それら全ての工程を終えてたとしても、数日後には、また洗濯をしなければならない。延々と終わることのない苦行。まるで賽の河原ではないか。

 人はどうして洗濯をするのであろう。まぁ、それは衣服が汚れるからであるが、ならばなぜ、洗濯という重い十字架を背負ってまで人は衣服を着るのか。本当に衣服は必要なのだろうか?
 では、アナタがスッポンポンで往来を行けばいい。人はそう言うかもしれない。だが、それは出来ない。怒られるからだ。何の因果か、今の社会では、スッポンポンで往来を行くと怒られるという仕組みになっている。
だから仕方なく服を着ている。そういう人も多いのではないかと思う。その結果、待ち受けているのが洗濯という終わらないディステニーである。なんということであろう。省エネが求められる現代において、これはあまりにもあれではないか。

 想像してほしい。誰もが生まれたままの姿で歩き回っている世界を。そこにはお洒落さんもダサい人もいない。変な英文が書かれたTシャツも、変な漢字が書かれたTシャツもない。洗濯から解放された人々は朗らかで、堂々とチンチンブラブラ、マンマンモジャモジャしている。差別も紛争もなく、ポロリもなければパンチラもない。
 いや、ちょっと待って、パンチラは、パンチラだけは、なんとか残してやってくれないだろうか? 僕はいいのだ、別にパンチラなどなくても。だが、パンチラがなくなると悲しむ人々は確実にいる。だから、その・・・せめてパンツとスカートだけでも穿いてはくれぬだろうか。いや、もっと言えばちゃんと衣服を着て欲しい。その方が、何かこう、色々と中身を想像できて良いではないか!!!

 そうして、衣服を着るということはつまり、洗濯をしなければならないと言うことである。洗濯をすることによって、パンチラという素晴らしいコンテンツが守られているのである。よし、洗濯をしよう。そうして、明日のロマンを守ろうではないか!!

 そんなことを、洗濯する前にいつも考える。そうこうする内に日が暮れていて、今日も洗濯するタイミングを失うのだ。

トータルフットボールの発展と日本的パスサッカーの歴史について

 私は、自らの半生をフットボールへの貢献に費やしてきたと自負している。若い時は暇さえあればフットボールだったし、三十になった今でもほぼ毎日フットボールである。土日や祝日は3回くらいフットボールの日もあるので、同年代の人と比べたらかなりのフットボーラーと言っても良いかも知れない。
 もはやフットボーラーなどという比較級ではなく、フットボーレスト・イン・マイ・ファミリー(※家族の中で最もフットボールである)すなわち最上級と言ってもいいんじゃないだろうか。
 バーレーンであんなことになり、惜しまれつつ代表を引退した後も、私はこの国のフットボールの発展のために力を尽くしてきた。その証拠に昨日も頑張りすぎて指が攣りそうになった。なので今日は軽めのフットボールにしようと思う。
 そんな私だからこそ見える部分がある。それはすなわち、この国のフットボールに足りない部分であり、その足りない部分さえ補えば、もうフットボール最強、霊長類ヒト科フットボーラー部門審査員特別賞も夢じゃないわけである。いわんや参加賞をやである。
 では、その足りない部分とは何か? それを説明する前にこの国におけるフットボールの歴史について説明せねばなるまい。
【むかし、むかし、ある所にお爺さんとお婆さんがいました。ある日お爺さんは山へ芝刈りに、お婆さんは川へ洗濯に行きました。お婆さんが川で洗濯をしていると、川上からある一人のフットボーラーが流れてきました。お爺さんとお婆さんは、そのフットボーラーに『キング・カズ』と名前を付けました・・・】
 こんな話を誰もが耳にしたことがあるだろう。この国におけるフットボールの起源として広く知られる逸話である。だがそれより前にフットボールは確かにあった。その証拠にこんな話がある。
【むかし男ありけり。野山に交じりて竹を取りつつよろずの事に使ひけり・・・】
 このよろずの事とは言わずもがなフットボールの事であろう。では、そもそもフットボールとはなんなのか・・・私はこの文章で何度も何度もフットボールと言っているが、本当にフットボールこのことが分かっているのか!? そう思われる方もいるだろう。なので、私自身、フットボールを今一度確認するために実際にフットボールってみた。
 結果、スッキリした。なんだか全部どうでもよくなってきた。十代の頃はこんな事無かったのに、年はとりたくないものである。

 全てのフットボーラーに幸あれ

夏の思い出

 安全ピンというから安全なのだと思ったら指を刺して痛かった。ここにも安全なんて無かった。なんというデンジャラスな世界だ。男は外に出たら確か7、8人くらいの敵がいると思えみたいな言葉があった気がするが、これでは7、8人どころの騒ぎではないだろう。男の世界とは、このようにベリーハードモードなのだ。
 でも僕はベリーイージーモードがいい。もっとフワフワッとした、マシュマロみたいな世界を生きたい。女性専用車両の中に僕一人混ざって、でも怒られない、むしろ褒められる。そんなシュガーな人生を送りたい。世の中とは、社会とは甘いものではないと人は言う。でも甘くったっていいじゃないか。みんながみんな辛党だとは限らないじゃない。甘党の人のことも考えてよ。それが本当のバリアフリーじゃないかしら。私なにか間違ってまして?
 例えばバイトに遅刻するでしょう。その時に怒られるんじゃなくて、ニッコリ笑って、「あら、もっと遅くってもよかったのに。なんならずっと来なくてもよかったのに」と言われたらどうでしょう。友人と食事をして財布を忘れた。詰られるじゃなしに「そんなことだろうと思ったよ。あ、ここは僕が払うから気にしないでいいよ。お金返さなくてもいいから、二度と僕の前に顔を出さないでね」と言われたらどうでしょう。人の足を踏んづけてしまい謝った時に「いいよいいよ。謝らなくて。謝ってもどうせ一生許さないから謝るなんて無駄なことしないでいいよ」と言われたらどうでしょう。多分泣くと思います。そんなこと言われるくらいなら、安全ピンで指の先を2、3回チクってやる方がいい。7、8人くらいの敵と戦い、ベリーハードな世界に身をさらした方が百万倍ましだ。
 とまぁ、こんな風にあえて危険な道を行く僕ですが、こんな僕にも子供時代はありまして、夏休みはいろんなところに連れて行ってもらったりしました。朝の十時くらいからテレビで『じゃりん子ちえ』が再放送やってて、それをみる度に夏を噛み締めていたものです。
 学生の頃、サークルの先輩達と思いつきで江ノ島に行って花火をしたりして遊んだりして、それも私の夏の思い出の一つであります。

経済学

 働きたくない。働いたら負けだと思っている。でも実際は働かないと色んな意味で負けてしまうので仕方なく働いている。こんな人は多いのではないだろうか。この怠け者めが。実を言うと私もわりとイヤイヤ働いているクチである。労働が辛い訳ではない。今の職場には満足している。ただ、働いているよりも綺麗な女性のオッパイを揉んだり美味しいラーメンなんかを食べている事の方がずっとずっと好きなのだ。人間生きている時間は限られている。楽しくない仕事をするよりも、楽しい事だけして生きていこうじゃないか。

 だが、ここに一つ問題がある。皆が人生を謳歌しようと一切の仕事を放棄したら、誰が私に美味しいラーメンを作ってくれるのだろうか。誰が私にオッパイを揉ませてくれるのだろうか。美味しいラーメンはチキンラーメンかなんかで我慢するとして、問題はオッパイだ。私がオッパイを揉めるのは、私にオッパイを揉ませるという仕事に従事している人がいるからオッパイを揉めるのだ。はっきり言おう。私は金銭を介さなければオッパイを揉む事が出来ないのだ。石橋英明とは、そういう男なのだ。

 だから私は働くのだ。労働で大事なのはギブアンドテイクで言えばギブではない。テイクなのだ。私は何をテイク出来るか、それが重要なのだ。オッパイをもませてくれる綺麗な女性はオッパイというテイクを与えてくれる。私はそれにたいして金銭というギブを与える。そうして経済は回っている。かつて外国の学者が言ったらしいのだが、「神の見えざる手」というのがあるらしいのだ。私も修行の果てに、いつしかその「神の見えざる手」を習得し、一段階上のプレイをプレイできるかも知れない。(ここで「プレイ」と聞いて卑猥な想像したものは人間性が卑猥なのだ。もちろん私は卑猥な意味で「プレイ」という言葉を使った。私は卑猥な人間だからだ。だがそれがどうした。はっきり言おう。石橋英明とはそういう人間なのだ。)

 そういうわけで、話をまとめよう。私はこの文章を書くに当たって缶ビールを1リットル程飲んだ。今フワフワしていて超気持ち良い。その結果書きあがった文章がこれである。これから数本文章を書く気でいる。それらが読者諸君の目に届くかどうかは現時点で分からないが、私は今大事な事を一つ学んだ気がする。仕事って言うのは、少なくとも酒を飲みながらするものでは無い。世の中にはお酒を飲むのがお仕事っていう人もいるが、そういう人に私は一言言いたい。
 お疲れ様です。お体にはお気をつけて。

 意外にいい文章っぽくまとまったので私は驚いている。では。

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