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憧れの頂へ

奥穂を後に不安定な岩場を下って行った。先を行く登山者はいない。このルートはちょっと違う、そう聞いていた。もしいるなら山歩きのプロになった気分で少し優越感に浸りながら山ちゃんの後に続く。馬の背にさしかかるといっそう尖った岩がゴロゴロしてくるから思わず四つん這いになって、そのまま馬の背の急な斜面を手がかり足がかりを探しながら下って行った。岩場の登下降は三点支持と良く言われるけれど、他に進む方法などないほどデコボコの岩の斜面は一歩づつ、一手づつ慎重に下りるしかない。しかもバランスを取り岩の出っ張りを見つけながら行くので、私が登山靴の三分の一ほどをかろうじて乗せている岩の遥か下がどうなっているか、なんて眺める余裕もなかった。おかげで恐怖心を殆ど感じずに済んだのは幸いだった。

不思議なもので、危ないと言われる岩場を通過する度に何か自信のようなものが自分の中に積み重なって行く。前を行く山ちゃんの辿ったルートをしっかり追いながら、岩の斜面を下り、登り、絶壁につけられた幅50cmほどのトラバース道を回り込み、また岩をよじ登り、鎖を頼りに下り、気がついたらロバの耳を越え、目の前に見上げるほど大きなジャンダルムが立ちはだかっている。岳沢側へ回り込み、ジャンダルムを横切るように慎重に反対側に行くと、山ちゃんの指示で荷物をデポしていとも簡単に頂に立った。夢の頂きは長年想像していたより細く狭かった。誰がいつここに持ってきたのか、女の子の風見鶏が無造作に置かれていたので、それを岩の間に倒れないように挟み、ジャンダルムと書かれた木の板と一緒に写真に収めてもらった。いつかビデオで見た山頂に立っている私、巨大な岩山の上でどこまでも連なる山々の稜線とそれらを包む大空を眺めていると、一歩踏み出すと風に乗って飛べるかも知れない、そう思った。

 
 

天狗の頭

さっきデポしたザックを担ぎ、今度は遥か遠く三角形の頂点のように見えている西穂の頭まで下る。下ると言っても、間にいくつもあるピークを越えなければいけない。一つの頂を目指す日帰り登山では、一旦頂上に立てば後は軽快な下りが待っていることが多いので、その日の登山は達成された感が強い。縦走はそうは行かない。山のピークからピークへ稜線を登り、下り、また登る。一刻一刻変わリ行く景色の中で大空をはばたく鳥や小刻みに風に揺れる小さな花たちと共に縦走がある。ピークだけを目指す山登りにはない贅沢な時間があるような気がする。

山ちゃんの助けを借りて、畳岩尾根をただひたすら下る。穂高連峰は他のどの山よりも岩塊の山、その中でもここだけはやはり別格で、ゴロゴロデコボコの大きな岩しかない。一歩間違ってバランスを崩したら確実にあの世に行ける。疲れて時々バランスが悪くなりながらようやく狭い天狗のコルへ下って休憩した。




いよいよあの逆層スラブの岩壁を持つ天狗へ登る。ここまで来ると岩の登下降がまったく恐くなくなった。天狗の頭で少し傾きを変えた笠ヶ岳を眺めると空は相変わらず深く青い。岩肌を上がってくる風で汗が蒸発してしまうのだろう、さすがに喉の乾きが強くなり水を飲むことが多くなった。頭から少し下ったところから始まる大きな一枚岩のような、良く見ると上へ上へと大きな岩が逆に覆いかぶさるように積み重なった斜面を、長い鎖を頼りに既に下りて待ってくれる山ちゃんのところへゆっくり慎重に下る。上からは、高度感にまったく恐怖を感じない夫が前向きで下りてきた。








西穂へ

疲れた足に次のピーク、間ノ岳の山頂が憎らしく立ちはだかる。それでも先に進むしかない。西穂まで行けば後は下り、小さなアップダウンはあっても慣れた道だから何とかなるだろう。持っていた水も少なくなってきた。全部を飲み干してしまいたい衝動を抑えながら、ガレ屑の山、間ノ岳を下った。それまでで一番嫌な下りだった。バランスを崩して転んだら一巻の終わり、アッと言う間に深い谷に呑み込まれてしまう。下りきった時には緊張と疲れで膝が笑い出す始末だった。

これが最後の登り、そう自分に言い聞かせて小さなピークを越え、トラバース道を行き、長い鎖場を登りきると目の前に西穂の頂が見えた。後少し、あの頂まで、残っていた力を振り絞るように相変わらず続く岩場を登って行った。西穂に辿り着いた。全身の力が抜けたみたいだった。少し残っていた水もなくなった。それでも体力のない私が奥穂から西穂まで縦走達成できた。山頂の岩に座り込んだら暫く立てそうもなかった。山ちゃんがこの縦走計画を立てるとき言った「西穂から奥穂は無理だよ」、この意味がようやく分かった。標高3200mの奥穂から2900mの西穂までいくつもピークを登りながら全体としては下りの縦走だから、逆コースと比べると気分的にも体力的にもどちらかと言うと負担が小さいからだ。

穂高連峰の中では一番低い標高、2900mの頂で遥か彼方の上空に聳えるジャンダルムや奥穂に別れを言って西穂を後にした。



息が切れて

とうとう水が一滴もなくなってしまった。西穂山荘まで後2時間、息苦しくなった。西穂と独標間も小さなピークのアップダウンが続く。疲れた足を一歩づつ前へ前へと進めるのに山ちゃんとの距離が開きだした。遅くて申し訳ないな、そう思っても息苦しさが増して体に酸素が入っていかない。3000m上空では良くあることだ、酸素が薄い上に心肺能力が低い私の体に酸素が回っていかない。今回は水不足からきているのはわかっていた。皆が水を飲み干した後で私だけが我がままを言っても仕方が無い。とうとう足が前に進まなくなった。ちょうど西穂山頂と独標の間付近だろうか。前を行く山ちゃんが気がついて戻ってきてくれた。私のザックを自分の大きなザックの上に乗せて固定すると、私と夫を残して先に山荘へ下ることになった。私には少し休んでからゆっくり下るように言い残して。山ちゃんはあっという間に見えなくなってしまった。残された私も最後の力を振り絞って下り始めた。ようやく西穂独標までやってくると後は本当に下るのみ、山荘は目前だ。

なんとか頑張って丸山へ下ってきた。標高が低くなったせいか幾分酸素が濃くなった気がした。それでもまだ息苦しくなんとか早く山荘へたどり着いて水が欲しい。気を紛らすように後ろの夫と話をしながら下りていると、向こうから山ちゃんが水をいっぱい入れたペットボトルを両手にやって来てくれた。このときばかりは山ちゃんが神様に見えた。一本は私に、もう一本は夫に渡してくれた。私が飲み干した一本のペットボトルを逆さにして、たった一滴の水を口に垂らす彼を見て、きっと自分が水を飲むことはさておいて、私たちの為に水を持って登り返してくれたのだろう。私って何てバカなんだろう、そんなことも気がつかなかった。

無事に山荘に着いた。食事は喉を通らなかったけれど、奥穂から西穂へ縦走達成した嬉しさが沸き上がってくる。なんとも言えない喜びを胸に、翌日は上高地へ下って、2日前に眺めた穂高の稜線を再び見上げて見た。前日に歩いた稜線は以前と変わらずそこにあったけれど、それまで経験したことのない誇らしさを持って対面すると気高い峰はよりいっそう輝きを増し、またいつか挑戦しよう、そう思わずにはいられない。

この本の内容は以上です。


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