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上高地から横尾へ

いよいよ憧れのジャンダルムへ。前夜車の中では期待感と緊張感であまり眠れなかった。ようやく眠りについたのは瞬いていた星たちが消え、空が薄らと水色に変わるころだった。こんな体調で今日は3000mの稜線に立つ穂高岳山荘まで登らなくてはいけない。南岳から大キレットを越えて以来の一気登り、以前読んだ新田次郎の孤高の人が脳裏をかすめた。今回もできるだろうか? 明日のジャンダルム登頂へ向けて気持ちを引き締めた。

もう何度訪れたことか、いつものように上高地のかっぱ橋から見上げる穂高連峰、奥穂から西穂へ伸びる稜線を見上げた。明日はあそこを歩いている私...観光客や登山者で賑わうかっぱ橋を後にまずは横尾まで、11kmの道程へ出発した。梓川に沿ったこの道は長い。途中仰ぎ見る明神岳、ケショウヤナギの老木、道の脇に咲く花、梓川を渡ってくる風、いつもと同じでも何かが違っていた。



横尾は槍への道と涸沢への道の分岐点、ここでしっかりと休憩を取った。森林限界を越え岩肌を見せる前穂の岩壁が高く聳え威嚇してくるみたいだった。

ここ横尾が登山のスタート地点のようなもの、槍ヶ岳を望む槍沢へ向かう者たち、私たちのように穂高に囲まれた母なる大地、涸沢へ向かう者たちが緑に覆われた道へそれぞれ吸い込まれて行く。私もザックを背負い山ちゃんの後に続いた。

穂高へ一気登り

横尾から左に屏風岩を見上げながらその岩壁を巻き込むように本谷橋までやったきた。これからが急登の連続だというのに、疲れて暑い。橋の下に下りてタオルを冷たい水に浸し首に巻いてみた。涸沢へはここからがキツい、途中でモレーンに建つ涸沢ヒュッテの鯉のぼりが見えてくると、何故か目標は余計遠くなり息が切れる。例年ならお花畑の沢沿いの道がこの年は固くなった雪渓を行くことになった。滑ることに極端に恐怖心のある私、軽アイゼンをつけ雪の上を慎重に登ってようやく涸沢に到着だった。涸沢に来るといつも涸沢小屋まで頑張り一息入れることにしている。鉛のように重たくなった足取りで小屋下の階段を一段一段上がると見慣れたテラス、この後の岩場の急登に備えてここでは大休止した。



小屋の裏手に回り込むように登山道はつけられている。ナナカマドの灌木帯をジグザグに登って行くと、突然開けた斜面はスキー場のスロープのように下から上がってくる大雪渓だった。予想はしていたけれどこんなに雪が残っているなんて思っていなかった。滑って転んだら下まで止まらないだろうな...

ザイテングラートに取り付いた。なんと辺りはお花畑だった。以前に山の本で見た景色、キンポウゲやチングルマ、ハクサンイチゲなど大好きな花に夢中になってしまった私。上を見るとまだまだ大きな岩が重なり、その先の穂高岳山荘が見えない。もう一踏ん張り、先を行く山ちゃんに続いて3000mの稜線目指して頑張った。


奥穂へ

前夜穂高岳山荘では混んでいたにもかかわらず何とか個室が取れた。長い縦走を控え、睡眠不足が命取りになることもあるだろう。小さな物音でも夜中に目が覚めてしまう私にとって、この夜の個室は本当に嬉しかった。

遥か雲海の彼方から太陽が昇ってきた。まるで計算されたように全てが一番のコンディションで一日が始まった。もうすっかり慣れてしまった山荘上の2つの梯子を登って高度を上げて行った。奥穂の頂へ回り込むと目の前に突然現れるジャンダルム、私もいつかあの頂へ行ってみたい..そう思い続けてきた。今日はこれからあそこへ。



もうすでに山頂にはたくさんの登山者が景色を楽しんでいる。これからつり尾根を前穂に向かう人、山荘に戻って下る人、それぞれが抱えきれないほどの感動を胸にしまい、それぞれの道へ。私はあの夢の頂きへ。今まで経験したことのない期待感と緊張感で胸がしめつけられる思いがあるけれど、先頭を行く山ちゃんの後に私が続き、私の後ろからは夫が続き、私たちは奥穂を後に、まだ誰もいないルートを歩き出した。


憧れの頂へ

奥穂を後に不安定な岩場を下って行った。先を行く登山者はいない。このルートはちょっと違う、そう聞いていた。もしいるなら山歩きのプロになった気分で少し優越感に浸りながら山ちゃんの後に続く。馬の背にさしかかるといっそう尖った岩がゴロゴロしてくるから思わず四つん這いになって、そのまま馬の背の急な斜面を手がかり足がかりを探しながら下って行った。岩場の登下降は三点支持と良く言われるけれど、他に進む方法などないほどデコボコの岩の斜面は一歩づつ、一手づつ慎重に下りるしかない。しかもバランスを取り岩の出っ張りを見つけながら行くので、私が登山靴の三分の一ほどをかろうじて乗せている岩の遥か下がどうなっているか、なんて眺める余裕もなかった。おかげで恐怖心を殆ど感じずに済んだのは幸いだった。

不思議なもので、危ないと言われる岩場を通過する度に何か自信のようなものが自分の中に積み重なって行く。前を行く山ちゃんの辿ったルートをしっかり追いながら、岩の斜面を下り、登り、絶壁につけられた幅50cmほどのトラバース道を回り込み、また岩をよじ登り、鎖を頼りに下り、気がついたらロバの耳を越え、目の前に見上げるほど大きなジャンダルムが立ちはだかっている。岳沢側へ回り込み、ジャンダルムを横切るように慎重に反対側に行くと、山ちゃんの指示で荷物をデポしていとも簡単に頂に立った。夢の頂きは長年想像していたより細く狭かった。誰がいつここに持ってきたのか、女の子の風見鶏が無造作に置かれていたので、それを岩の間に倒れないように挟み、ジャンダルムと書かれた木の板と一緒に写真に収めてもらった。いつかビデオで見た山頂に立っている私、巨大な岩山の上でどこまでも連なる山々の稜線とそれらを包む大空を眺めていると、一歩踏み出すと風に乗って飛べるかも知れない、そう思った。

 
 

天狗の頭

さっきデポしたザックを担ぎ、今度は遥か遠く三角形の頂点のように見えている西穂の頭まで下る。下ると言っても、間にいくつもあるピークを越えなければいけない。一つの頂を目指す日帰り登山では、一旦頂上に立てば後は軽快な下りが待っていることが多いので、その日の登山は達成された感が強い。縦走はそうは行かない。山のピークからピークへ稜線を登り、下り、また登る。一刻一刻変わリ行く景色の中で大空をはばたく鳥や小刻みに風に揺れる小さな花たちと共に縦走がある。ピークだけを目指す山登りにはない贅沢な時間があるような気がする。

山ちゃんの助けを借りて、畳岩尾根をただひたすら下る。穂高連峰は他のどの山よりも岩塊の山、その中でもここだけはやはり別格で、ゴロゴロデコボコの大きな岩しかない。一歩間違ってバランスを崩したら確実にあの世に行ける。疲れて時々バランスが悪くなりながらようやく狭い天狗のコルへ下って休憩した。




いよいよあの逆層スラブの岩壁を持つ天狗へ登る。ここまで来ると岩の登下降がまったく恐くなくなった。天狗の頭で少し傾きを変えた笠ヶ岳を眺めると空は相変わらず深く青い。岩肌を上がってくる風で汗が蒸発してしまうのだろう、さすがに喉の乾きが強くなり水を飲むことが多くなった。頭から少し下ったところから始まる大きな一枚岩のような、良く見ると上へ上へと大きな岩が逆に覆いかぶさるように積み重なった斜面を、長い鎖を頼りに既に下りて待ってくれる山ちゃんのところへゆっくり慎重に下る。上からは、高度感にまったく恐怖を感じない夫が前向きで下りてきた。









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