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想い重なる立秋の週

八月の巻(おまけ)

20. 想い重なる立秋の週


――― 八月六日 ―――


 送られてきたプラスチック粒の画像を眺めつつ、珍しく浮かない顔をしている女性がいる。立秋の前日にはとうとう二十代最後の年令になる、というのが一因だが、誕生日にまた一人、というのがどうにも居たたまれず、今ひとつ元気がない。「出張パスってでも、行くんだったなぁ」 粒々を数えながら、ブツブツやっている。この際、メーリングリスト参加OKの返信と合わせて、直球をぶつけてみるか、と南実は思いを巡らすのであった。休み時間、職場からパタパタと返信する。その中にはこんな一文が紛れていた。「粒々の現物を引き取らせてください。八月七日、あの商業施設の近くに行く用事があります。夜って空いてますか?」

 千歳が大いにあわてたのは想像に難くない。この時点では櫻からの返事はまだ。当然のことながら、最新の櫻ブログも未見である。「まぁ、これをお渡しするだけなら...」 洗って乾燥させた粒やら小片を使用済み封筒に入れ直してサラサラ振っている。何ともお気楽な千さんであった。


――― 八月七日 ―――


 さすがに電動アシスト車を走らせる訳にも行かず、電車とバスを乗り継いでの参上である。何とか約束の十八時に間に合った。七夕からちょうど一カ月が経った今、その七夕飾りはとうになく、イベント広場は閑散としていた。そこに、リボンの付いたプルオーバーと長めのタイトスカートの女性が一人、落ち着かない様子で立っている。勝負服ともとれるが、あくまで通勤着の南実嬢なのであった。買い物客とはちょっと異なる装いなので、目立つことこの上ない。千歳はすぐに気付いたが、少々遅刻してしまった上、気後れも手伝って、遠巻きにしている。南実が時計を気にしているようなので、仕方なくトボトボとやって来て、自分で「スミマ千」と切り出す始末である。ヤレヤレ。

 強肩の南実は直球に加え、速球も投げてくる。軽く会釈するや否や、開口一番、「隅田さん、この店、どうですか? 私、おごりますから」と来た。広場に面したシーフードレストランが客を待ち受けている。「こんなはずじゃ...」 千歳は不承不承ではあったが、「ま、封筒だけ渡してお別れ、というのも無粋だし」と思い直したりして、とにかく葛藤を抱えたまま、席に着くことになった。

 どう注文したのかはよく覚えていない。ただ、シーフードというだけあって、貝柱やら小粒なイクラやら細かく切ったイカやらが入ったパスタが首尾よく出てきた。今日持って来たプラスチックの粒々と重なって見えてくるから困ったものである。ご丁寧にシソを刻んだのが盛ってあって、今度は人工芝の切片の如く映る。生き物が誤食してしまう、というのが妙にリアルに実感され、言葉を失う千歳。一方の南実はただ嬉々として、フォークをクルクル回しては、桜エビなんかを散らした和風パスタを頬張っている。何を話すでもなかったのだが、粒々の話が高じて、漂着ゴミを巡る最近の社会的な動き、人が立ち入れない場所(特に離島)でのゴミの惨状、さらには海洋法や関連法規の話題に至るまで、いつしか南実の独演場となっていた。インタビュアーに徹していた千歳は心得たもので、この調子のままお開きになればそれはそれで、と踏んでいた。だが、ふと我に返る。外出直帰とは言え、南実がわざわざここに来て、こうした席を設けたからには何かあるのでは?と今更ながら感知したのである。南実は「講義しに来たんじゃないのにぃ」と同じく我を取り戻すと、化粧直しのためか、あわてて席を外した。テーブルには、当の商業施設系列の通販カタログが置かれている。待合せの間に手にしていたのだろうが、降って沸いたような一冊である。千歳は興味本位でパラパラと繰っていたが、晩夏ファッションの特集ページで手が止まった。「蒼葉さん?!」 一昨日は不覚にも萌えモードになっていたが、今はちょっと違う。その見事な着こなしに目を奪われつつも、何かを訴えるような視線の方に釘付けになっていたのである。「そうだ、櫻さんと会う約束...」 ファッションモデルの訴求力というのはただならぬものがある。

 唇には淡い紅色。それだけでも、掃部(かもん)先生と一戦を交えたあのお嬢さんとは思えない変身ぶりである。南実が静々と戻って来た。着席すると咳払い一つ。お互い緊張が走る。

 「あの、前からお聞きしたかったんですけど、千住さんとはおつきあいされてるんですか?」

 「櫻さんはどう思っているかわかりませんけど、僕はそのつもりです」

 「そうなんだ...」

 通販カタログのモデルさんが彼を後押ししたのかは定かでないが、心の準備ができていたこともあって、自分でも驚くほどキッパリと言ってのけた千歳。ストレートをあっさり打ち返したような応答である。だが、手強さで定評のある南実はこれで引き下がったりはしない。

 「ま、いいや。また干潟には顔出しますから。それとメーリングリスト、早く作ってくださいね」


 こじつけのようだが、八月七日は「花の日」だとか。スーパーはまだ開いているが、専門店街にあるフラワーショップはそろそろ閉店時刻。前を通りがかると、その記念日にちなんでか、綺麗な赤い花のミニポットが特売扱いで残っていて、客の足を止める。

 「あ、サルビア」

 「今日ご馳走になっちゃったんで、ささやかですが、これでお返しさせてもらえますか?」

 「それはお礼? それともお詫び、ですか?」

 「え、いや...」

 「どっちにしても、ありがとうございます。この花は私にとって特別なんで」

 祝ってもらう立場でありながら自分で食事代を払うは、胸ときめく言葉どころかプチ失恋のような台詞を聞く羽目になるは... 誕生日にしては冴えない展開ではあったが、宵を一人で過ごさずに済んだこと、そして思いがけず誕生花をプレゼントしてもらえたこと、この二つは大きかった。誕生日であることを申告すればまた違うストーリーになったかも知れないが、今日のところはこれでよしとしなければ。受け取った封筒の方はもともと口実のようなもの。下手するとその粒々が誕生日プレゼントになってしまうところを回避できたのだから万々歳である。期せずして千歳は、また違う場面でポイントを稼ぐことになった。が、それが面映かったか、「じゃ、僕はここで買い物してから帰るんで」といつものマイバッグを手に、そそくさと去って行く。南実は薄笑いを浮かべると一言、「今は隅田さんの片思いってことじゃん」 まだチャンスはなくはない。それがわかると何となく火が付く南実嬢であった。サルビアの花言葉、それは「燃える想い」である。


――― 八月八日 ―――


 静かな想いを温めつつ、されどなかなか返事もできず、逡巡するうちに立秋を迎えてしまった。今日からは残暑見舞いに切り替わる。情報誌の編集を進めている櫻だが、ネタがちゃんとある割には、普段よりもペースが遅い。まだ八月病が癒えないのか、否、八月十九日のことで頭がいっぱいなのである。今日も猛暑日になりそうな予感。チーフは見かねて「櫻さん、大丈夫? 暑さのせい?」と声をかける。

 「あ、すみません。打ち水のこと書いてたら、かえってボーッとしちゃって」

 「打ち水が必要なのは櫻さんね。かけたげよっか?」

 「私よりも、野菜畑の方を心配してあげてくださいよ」

 「ハハ、こりゃ失敬」

 蛇足ながら、八月八日はハゼの日だったりするが、ズバリ「ハハ」なので笑いの日でもあるそうな。そんなちょっと笑える昼下がり、インターン生が現れ、さらなる笑いを誘う。

 「こんにちはぁ。もう溶けそう...」 いつもはチャキチャキしている弥生が言葉の通りフニャフニャになっている。スタッフ二名は笑いをこらえながら、声をそろえて「いらっしゃい」。この調子だといつもの弥生節は不発になりそうだが、「そうだ、櫻さん、メーリングリストの件!」と相変わらず鋭い切り込みよう。

 「まだ返事してないんだなぁ」

 「千さんきっと待ちくたびれてますよ。あ、今もピピって。千さんキターって感じ」

 「弥生ちゃんにはかなわないワ」

 ここでチーフが首を突っ込む。「メーリングリストって、隅田さんが呼びかけてる件?」

 「え、文花さんも」

 「あと、南実ちゃんもね」

 「そうなんだ... メーリングリストですもんね」

 誰が入る・入らないで参加の可否を決めるものでもないのだが、この話を聞いて、櫻は益々返事に悩むことになる。櫻を困らせないための発案だったのだが、どうもそうなっていない。千歳の想いもうまく届かないものである。

 「南実ちゃんで思い出した。メールしなきゃ」

 「どうかしたんですか?」 櫻にしては珍しく強い反応を示す。

 「あの娘、昨日が誕生日だったのよ。お祝いメールしそこなっちゃったから」

 いつものことながら、後輩思いの先輩なのであった。「あれで彼氏でもいれば、周りがいちいちお祝いメッセージを送る必要もないんでしょうけどね。きっと昨夕も一人よ」 自分のことはそっちのけ、まるで他人事である。

 チーフが私用メールを打っている間、櫻もあれこれ思案する。「てことは、自宅宛に小松さんからのメールも届くようになる... 何かドキドキしちゃうなぁ、でも」 先刻まではノラリクラリだったが、決然とした表情に一変する。弥生は再びピピと来たようだ。

 「データの送信先もメーリングリスト宛でいいですよね? 櫻さん」

 「え、デート?」

 「またまたぁ、トボけちゃって。誰とですか?」

 「フフ」 不敵な笑みがこぼれる。これまた蛇足ながら、二月二日はフフの日かと云うと、そうではない。櫻の浮き沈みは二月も八月も関係なし。日常茶飯事である。

 早番だった櫻は、女性二人をセンターに残して帰途を急ぐ。おなじみのセミは立秋など素知らぬ振りで賑やかに鳴く。「ちゃんと返事出すますよーだ。急かさないでよねっ」 いつもの櫻が戻って来た。


 「残念でした。今回は一人じゃなかったですよーだ」の一文の末尾には「あかんべー」の絵文字付き。小憎らしい後輩からのショートメールは夕刻になって届いた。「え、まさか」 文花は思いがけない返信に些か狼狽するも、「何だかドラマみたいになってきたわねぇ」と苦笑い。自分がその仕掛人であることがどうもわかっていない。やはり他人事のチーフであった。


 こうなってくると、櫻からの返事が早く着いたに越したことはない。文花からは探りメール、南実からは次の一手メールが届いてしまう。千歳が余計な動揺をする前に、想いが届けばいいのだが。だが、櫻が意を決したのが伝わったか、彼も一念発起して櫻ブログを開いていたのである。「これが櫻さんの想い、だったのか...」 八月病と題した記事の中には「発起人さんからお見舞いメールをいただきました。感謝感激、今日の天気は雨あられ? 私は思わず涙雨(!_!)」 千歳も思わず目が潤んできた。そこへ図ったように櫻からのメールが到着。千歳からの助言でメールソフトを入れ替えたのが奏功したらしく、差出人名はきちんと「千住 櫻」と表示されている。些細なことのようだが、彼にはそれがまた嬉しかった。タイトルは「残暑お見舞い申し上げます(^^)v」 本文を読む前にのぼせて来た。

 案の定、八月病で返事が遅れた云々という弁明に始まるも、「お気遣いいただき、誠におそれいります。今はおかげ様で元気です」と丁重な一節が添えられ、あとはメーリングリストの設定については弥生とも相談したこと、登録するアドレスは自宅用で構わないこと、などが淡々と綴ってある。そしてp.s.ながら実はこっちが本題の件については、「八月十九日、何が何でもお供します。時間と場所をご指示ください。By櫻姫」との返し。姫の写真を眺めながら、泣いたり笑ったりの千歳だったが、一日の終わりはやはり笑って締めたいもの。ハハの日とはよく言ったものである。


――― 八月十一日 ―――


 民営ではあるが、公設でもあるので、夏季休業を設けて悪い、ということもないだろう。環境情報センターが四日間の連続休館に入る前日の土曜日は、世間はすでにお盆休みということもあり、今のところ来訪者はゼロ。情報誌の発送手配はすでに終え、チーフはひと足早く休みに入っている。今日は一人ゆっくり、データのメンテナンスなどをしている櫻である。窓は閉め切ってあるがセミの声が喧々(けんけん)と入ってくる午後のひととき、たまには機材の点検でもするか、と席を立った時のことである。思いがけない客人がやって来た。若いお二人さんである。「あら、いらっしゃいませ」

 「あれ、櫻さんだけですか?」

 「文花さんはこの暑さでバテちゃいました。何ちゃって」

 「櫻さんはもう平気なんですか?」 眼鏡の少年が、眼鏡の女性に尋ねる。

 「え、えぇ。あ、五日は行けなくて、ゴメンナサイね。ま、私がいなくても大丈夫だったと思うけど」

 「千さん、何かアタフタしてた。『櫻さん、来ないかなぁ』とか言ってたし」

 「そ、そうだったんだ...」 不意の来客であわてている上に、乗っけからこういう話を聞かされては動揺するのも無理はない。

 六月の自由研究の方は千歳のフォローで無事まとまったことを聞き、ひと安心。となると、今日ここに二人して来たのはまた何故?

 「そう言えば小梅さん、お姉さんと旅行して来たのよね」

 「伊勢の親戚宅に行って来ました。青春18きっぷで」

 「え、普通列車で?」

 「自由研究の日、図書館でひと調べした後で、中の談話室で夏休みの予定について話してたんです。伊勢の話になったら、六月君が時刻表で調べてくれて、それで」

 「東海道線では乗り継ぎが多くなるけど、名古屋には午後二時台に着けばいい。名古屋からは快速列車に乗れば速いけど、接続が良くない上に、途中から18きっぷが使えない線に入っちゃうのが落とし穴なんだ。名古屋から伊勢方面までJRの普通列車で行くとちょっと遠回りだけど、時間的には大丈夫なのがわかったから、18きっぷを使ってこの行程でどうぞってね」

 「弥生ちゃんから話は聞いてたけど、さすがねぇ」

 「で、五回のうち四回分使ったんで、残った一回分を六月君に渡そうと思って」

 「それでわざわざ?」

 「あ、あと自由研究の御礼と思って。櫻さんにお土産です」

 小梅は、伊勢の名物、某餅を持って来ていた。粉飾だ偽装だと喧(やかま)しい折りである。この一品も賞味期限ギリギリではあったが、この際、どうこういうのは止そう。

 六月への御礼も兼ねているということなので、

 「ありがとう。じゃ三人で食べますか。残ったら弥生ちゃんに、ね」

 タイムリーなことに、ちょうどおやつの時間になっていた。

 「明日からここお休みなんですよね。櫻さんはどこか行くんですか?」

 「千さんとお出かけ?」

 「え? 六月君まで、そんなこと...」

 お土産の餅ではないが、赤くなっている。「いいじゃないか♪」と餅の宣伝フレーズが聞こえてきそうだが、

 「18きっぷ余ったらオイラ使うからさ」なんて、さらに余計なことを言うもんだから、「いいじゃ」到底済まない。赤面+膨れ面になってしまった。(これが本当の赤ふく状態? 決して笑えない。)

 「大人をからかうんじゃないのっ」 前にここで弥生にも同じように冷やかされたことを思い出した。年は離れていてもやはりきょうだいである。ま、ここは弥生嬢に免じて許して進ぜよう。

 「小梅さん、伊勢って言っても広いじゃない。志摩の方とか?(そういや、石島と伊勢志摩って似てるわね)」

 「鳥羽の手前、二見浦ってとこです。海の近く...」

 「あぁ夫婦(めおと)岩のある、あそこね」

 「海水浴場の方なんですけどね。漂着ゴミ、すごかったです」

 太平洋から伊勢湾に回り込んで来る漂流物よりも、湾に注ぎ込む河川などからのゴミの漂着が甚大らしい。袋に破片に、とにかくプラスチック類が目に付いた他、より大きめの発泡スチロール片、あとは黒の長細い筒なんかが結構散らばっていたそうな。さらに川が増水すると上流からの流木が海に流され、湾内の海岸に打ち寄せるというから一大事である。荒川の一(いち)干潟の比ではなさそうだ。


 「それにしても、六月君。一回分とは言っても、18きっぷは高額品よ。何かお返ししないとねぇ」 からかい半分で諭す櫻。すると、

 「ちゃんと特命受けてますんで」 若い二人は顔を見合わせ、ニコニコしている。毎度、微笑ましい限りだが、羨ましくもある。「若いっていいわねぇ」とか、内心呟いているが、これはほんのご冗談。十九日の予定はだいたい決まっていて、あとは当日を待つばかり。気持ちに余裕がある故の呟きだが、このお二人さんを見ていると、どうにもソワソワして来る。櫻にとっては、長く暑い夏季休業になりそうである。

 

【参考情報】 海ゴミ―拡大する地球環境汚染 / 八月八日 / 伊勢鉄道は別料金


咲く・love

21. 咲く・love


 待ちに待った旧七夕の日がやって来た。夏は何々の季節と言うが、四週間ぶりの再会となっては、何々も某もあったものではない。ただこの久々感とでも言うべき感覚は重要で、ドラマ的な心理を否応なく盛り上げる。待ち合わせは、センター下の図書館談話室。図書館でドキドキするシーンというのは学園モノでは一般的だが、まさかこの年になってそのシーンの当事者になるとは、である。約束の十四時まではまだ時間がある。談話室で一人黙々としているのは、本来バツの悪いものだが、己との対話だって談話のうちである。何を話そうか思案しつつ、ドキドキを楽しむ櫻であった。

 一刻も早く、という想いに押されて、千歳も定刻前に到着していた。ガラス張りのその一室に、目を閉じて深呼吸する一人の女性を見つけ、やはり胸高鳴るものを覚えるも、それが沈静するのを待つべく、何となくウロウロしているのであった。見方によっては不審者と思われても仕方ない。こういうシーンも学園モノにはありそうだが、彼の場合は退出させられる前に何とか次の行動に移ることができた。櫻は即座に席を立つ。

 「千歳さん!」

 さっきまで黙りこくっていた女性がいきなり声を上げたものだから、周囲の視線を集めることになる。千歳は「ハハ、参ったなぁ」とか言いながら、櫻に近寄ると、「お久しぶりです。櫻姫」 櫻は思わず飛びつきそうになったが、学園ドラマではないので、ブレーキをかける。今度は小声で「千歳、さん...」

 「外はまだ暑いので、ここで涼んでから行きますかね」

 櫻は放熱、いや放心状態。これが蒼葉の言っていた「ボー」なのか、と様子見しつつ、ゆったり構えることにした。ドキドキが収まるを確かめつつ、口を開く櫻。奥ゆかしい間合いである。

 「何か蒼葉があることないこと喋っちゃったみたいで、かえってご心配おかけしまして」

 「もう大丈夫ですよね。櫻ブログも絶好調のようだし」

 「ハハ。せっかく作ってもらったんですもの。あふれる想い、届けたい...です」

 その想いって?と聞き返したかったが、千歳もブレーキをかけてみる。蒼葉が見たらやきもきしそうなワンシーンである。

 「じゃ、今日はモノログネタの調査同行、よろしくお願いします」

 「てゆーか、デートでしょ。素直じゃないなぁ、千さんも。フフ」

 何とも返事のしようのない千歳はテレ笑い一つ、そそくさと先を急ぐ。春先に目撃し、その後も重点ゴミとして目を付けているバーベキュー関係の漂流ゴミの発生源を探るべく、橋よりも上流側にあるバーベキュー場を併設する公園へ、というのが今回のテーマ。五月に単身、調査しに行こうとしていたが、橋から掃部公を目撃して、干潟へ行ったりしたもんだから、その日は叶わず、以来ずっと棚上げになっていたのである。三カ月が経ち、今はシーズン真っ盛り。満を持しての現場偵察である。


 前日はぐっと気温が下がり、これじゃバーベキュー客も減か、とちょっと気を揉んだが、この日は一転して再猛暑となった。櫻はいつものクリーンアップスタイルとは似て非なる、あの晩夏のアウトドアファッションである。デニムのハーフパンツに、シャーリングのカットソー。暑いということもあるが、普段は長丈で隠している腕と脚が少々露わになっているのがポイントである。

 「今日の櫻さんのその衣装、もしかして『お上がり』とか」

 「あら、よくご存じで。どう? モデル並みでしょ」

 ここで下手に蒼葉と比較するのもどうかと思い、とにかく頷いて拍手を送る。二人とも自転車を手にしたまではいいが、なかなか走り出そうとせず、この調子。これはこれで微笑ましい光景である。

 小振りな麦藁帽を被り、多少なりとも日焼け対策を講じてはいるものの「まさかここまで晴れ上がるとはねぇ」と絶句する櫻。十四時半、日射はピーク。バーベキューの方は、読み通り、撤収組がチラホラ出始めた頃合いである。ひととおりの飲食が済んでからは、リバーバレー(?)に興じるグループ、キャッチボールをする男女、駆け足を競う親子、縁台将棋にギターの弾き語り、はたまたジャグリングの練習に余念がない諸兄など、広場では実に様々な過ごし方が展開されている。その一方で、まだダラダラと飲み食いを続けている若者グループも結構いて、そのラフな格好からして、半ば日光浴を楽しみながら、の様である。バーベキュー向けに用意されている囲いなども予め据え付けられているのだが、道具類は概ね自前で持ち込まれている。コンロや網も本格志向なら、テントやテーブルも立派なもの。レジャーシート組は少数で、デッキチェアでくつろぐスタイルが主流になっている。こうなると、バーベキューの方も気合いが入ったもので、焼肉・焼野菜のみならず、シーフード系のグリルあり、焼き鳥あり、さらには自家製ハムを燻しているところまである。どこかの屋台村に迷い込んだような趣である。当然のことながら、飲食に供される容器類、排出される袋類や生ゴミの量も並々ならぬこととなる。それらは傍らで数多(あまた)見受けられ、行く末が案じられて仕方ない。この人数にかかれば、一部が散乱・漂流することになるのも大いに納得となる。

 「最近のバーベキューって、何か凄まじいですね」

 「勿論楽しんでやってるんでしょうけど、いかに本格的にやるかって方にエネルギーが注がれてる感じもします」

 調査なのかデートなのか、定かではないが、少なくともレジャーに来た訳ではないこの二人は、批評家然、かつ漫然と広場を散策するのであった。

 幸い、今この時間に片付けている皆々は、その分別については怪しい面も散見されるものの、自分が出したものはきちんと持ち帰る、という一点において極めて真っ当である。犯人探しをするつもりはないが、何かしらの因果関係がここにありそうな以上、もうちょっと調べを進めたい。捨てられそうな場所に先回りすることにした。

 この辺りには自然地も干潟もない。ただ傾斜のある護岸が川と陸を隔てるばかりである。その斜めの護岸にちょっとした間隙があると、ヨシならまだしも、セイタカアワダチソウなんかがヒョロヒョロと根を下ろし、草陰を作ったりする。さらにはアレチウリなる厄介な外来植物が陸地にちょっとでも蔓延(はびこ)ってたりすると、それも忽ち護岸に侵入してきて、セイタカと連係した日には、そりゃあもう。人目が届きにくい恰好の一隅を作り出してしまうのである。これは推論だが、不届き者は、そのセイタカを目印に、根元に袋入りのゴミなんかを放置する。高潮になれば、川の水が護岸を洗うなんてのは訳ないことなので、そのゴミ袋も容易(たやす)く流されていく。干潟に生ゴミ入りのレジ袋が漂着するのは、こういう図式によるのではないか、と。事実、この日はそんな草陰において、飲食の不始末と思しき袋入りのゴミが見つかった。ペットボトルと使い捨てカップの詰め合わせである。初めてゴミ箱干潟を目にした時の衝撃を思い起こしながら、デジカメで記録する千歳。その脇で櫻は、露骨に積み棄ててあった炭の塊を発見し、

 「自然に還るってことなのかも知れないけど、これじゃあんまりね。公然というか平然というか、私が捨てました、って開き直ってる感じ」

 「スミに置けないって、こういうことを言うんですよ」

 「隅田さんたら、やだワ」

 どこまでが洒落なのかわからないお二人さんであった。そんなダジャレを冷やかすように、川面からパシャパシャ音がする。覗き込んでみるとハゼの群泳である。時折、体を跳ねつかせるものの、その魚影は黒く、何ハゼだかは識別できない。これもひとまず撮影し、別途、掃部先生に鑑定してもらうことにした。紙燈籠の件もあるし、どこかで先生とお目にかからないといけない。メーリングリストに先生も入れられればいいのだが。

 護岸上にはさらに、花火の棒が散らかってたり、カセット式コンロのガス缶が転がってたり、漂着ではなく、明らかにその場に放置されたと思われるゴミが見つかった。これでまたプロセスの一端が把握できた、という点では喜ばしいものの、大いなる悲哀も感じてしまう千歳なのであった。ポイ捨ても積もり流されまた積もり、その結果があの干潟なのである。今日は櫻以上に憂いな表情になっていることは自分でもわかっている。だが、しかし...

 「あーあ、千さんがブルーになっちゃった。心はいつもサクラ色、じゃなかったの?」

 「え、あぁ、失礼しました。発生原因がこれで少しわかったんだけど、じゃどうすれば防げるかなぁ、ってね」

 「捨てるのも人、拾うのも人、って清さん言ってた。ひとまず拾える分だけでも拾いましょ」

 さすがはリーダー、用意のいいことに大きめのレジ袋を持ち合わせていた。いっそアレチウリも引っこ抜いて帰りたいところだが、今日のところはこの護岸で目に付くゴミを片付けるのみである。広場の一角にある水場でひと休みしているカラスが居る。よく見ると、何かの食べ残しを嘴(くちばし)に挟んでいる。片付け係はここにもいるぞ、と言わんばかり。少女が一人その威張ったカラスに向かって「やい」とか「おい」とか、挑発しているから可笑しい。

 「あの子、度胸あるわね」

 「カラスも全く動じないねぇ」

 「小梅嬢はカラスが怖くて干潟に近寄れなかったって前に言ってたけど、それが普通よね。ああいう勇ましい子が増えると、カラス減るかしら?」

 十五時になった。カラスにとってはおやつのつもりだったんだろう。


 調査はこれで終了なのだが、デートの方はどうなんだろう。集めたゴミは千歳が持って帰るのはいいとしても、そのまま彼の宅へ、という訳にはまだいかない。お目にかかりたいとか言って誘い出しておきながら、ちゃんとプランを考えていなかった千歳君。管理するものではないけれど、こういうのもプロセスのうち、である。ちゃんと練っておかないと不可(いけ)ない。櫻はその辺を見透かしたように機転を働かせ、「私、初音さんとこ見て来ます。一応、店の外で待ってますね」ということになった。

 受験を控えていることもあり、初音は通常は十四時上がり。だが、この日は珍しく厨房設備を使ってパンケーキなどを作っていた。お客が少ないこともあるが、こういう店の使い方があってもいい。言わば店員特権である。

 「多く作り過ぎちゃったけど、ま、いっかぁ」と何セットか手にして厨房から出てくると、外から中の様子を窺う女性が目に留まる。「あ、櫻さん?」 櫻も気が付いたようで、手を振っている。姉という立場では同じ二人の対面である。こちらも四週間ぶりのこと。

 「初音さん、いないかなぁって、見てたんだ。よかったよかった」

 「今日はたまたま残ってたんスよ。もう帰ろかなって」

 「あら残念。あ、この間は伊勢名物、ありがとうございました」

 「いえいえ、本当はちゃんとお礼しないといけないのに、取って付けたみたいで。今日はお一人、ですか?」

 「いや、ある人と一緒だったんだけど、へへへ」

 ここで千歳が現れると、二人の関係がより公然となってしまうのだが、よく考えると、五月の回で初音にはしっかり認識されているのである。今更、どうこうでもあるまい。

 「隅田さん、でしょ。あ、そうそう、よければこれどうぞ」 セットの一つを取り出して、手渡す。

 「あら、パンケーキ。初音さん作ったの?」

 「私こういうの苦手なんスけど、お店で働いてるのに、手に職がつかないのももったいないな、と思って。ま、自由研究品です。添加物なし」

 「アツイうちにどーぞ!」とか言いながら、またしてもさっさと走って行ってしまった。袋くらいくれても良さそうだが、この店は原則、簡易包装である。「確かにホカホカね」

 初音とは対照的に、ノロノロと千歳が戻って来た。

 「どうしたんですか、その包み?」

 「ついさっき、初音嬢からもらったんですよ。ここに来た甲斐がありました」

 と言っても、これを持ち込んでお茶するのも気がひける。初音としてはここでどうぞ、ということだったのかも知れないが、作った本人がいないことにはちょっとねぇ。

 という訳で、店頭にあったフリーペーパーでもうひと包みして、センターに向かうことにした。カフェではなく、公的施設。やはりちょっと変わったデートである。


 休館日でもこうして施設を使えるというのは職員の特権である。邪魔が入らないようにと、櫻は中から施錠する。どうやら千歳に対しては、不信も何もないようだ。むしろ「これで二人きり、フフ」てな具合である。小悪魔復活、か。

 パンケーキを皿に載せ替え、冷蔵庫にキープしておいたアイスコーヒーを注ぐ。櫻にとってはちょっといい時間である。プラン不十分の千歳だったが、ここに来るのは想定内だったようで、ドギマギするでもなく、割と飄々としている。八広がお世話になっている情報コーナーを周回し、気になるCSRレポートをパラパラ繰ったり、勝手知ったる何とやら、である。櫻としては、センターを完全に私用で使うのもどうかと思い、打合せするような感じで、話を進めることを思いついた。光熱費に見合うだけの成果が得られればいい。

 「それじゃチーフに倣って、議題を書き出すとしますか」 櫻は話したいことが多々あるところ、それらを整理するように、ホワイトボードに書き並べていく。

 かくして、①これまでのクリーンアップデータの整理、②十月の定例クリーンアップに向けて、③メーリングリストの活用法、④その他... というのが挙がった。

 「他にございますか?」

 「あ、掃部先生との連絡のとり方、ってのお願いします」

 「まだありませんこと?」

 「櫻さんに聞きたいことがあるんですが、ひととおり終わってから、ですね」

 デート中の会話に議題も何もあったものではないのだが、これがこの二人の流儀。地域や環境に向ける視点が揃っている以上、こうした話題が何より楽しいようである。さて①の件だが、五月から八月まで、自由研究デーの分も含めると、これまでにすでに五回分のゴミデータが蓄積されている。清書したデータカードもあるが、途中からメールでデータが届くようになったので、今は表計算のファイルに全データが収めてある。横に集計すればすぐにでもこれまでの累計と総合順位が出せるのだが、「そのうちクイズを兼ねてメーリングリストに流そうと思って」なんだそうな。データカードに関しては発起人は櫻なので、ここはお任せ。楽しみに待つとしよう。

 次に②である。七夕デートの際、少々話題には上ったが、検討するのは今日が初めて。荒川での一斉クリーンアップの要領に合わせつつも、干潟特有の注意事項もあるだろうから、それをまとめてみてメーリングリストで協議しよう、ということがまず決まる。あとは一般参加者を募るかどうかだが、モノログの掲示板機能が有用である以上、それを使うのが妥当だろう、と相成った。逆を言うと、広く呼びかけることはしないが、モノログを見た人に限っては参加も可能、という募集形態に、ということである。なかなかの妙案である。「当日その場でボランティア保険の手続きしようとすると何かと大変だから、参加希望者には予め最寄の社会福祉協議会とかで加入してもらうように呼びかけましょう」 そんな話も含めて、これもメーリングリストに付されることに。

 ③については、①と②で十分に活用されそうな気はするが、櫻の意図としては「お互いまだ知らないこともあるだろうから、自己紹介し合うのもいいし、あとは連絡網機能として、流域とかで何か異変があったら知らせ合うとか、ね」 コーディネートに長ける櫻ならではの発案である。パンケーキはなかなか美味だったようで、二人ともペロリと平らげていたが、食べ終えたことを失念するくらいテンポ良く話し合っている。「あれ、いつの間に食べちゃったんだろ?」 実際のデートシーンでもこういうことはありがちか。


 「メーリングリスト参加者で、面識がない可能性があるのは、宝木氏と桑川さん・小松さんの組み合わせ、ですかね。彼はセンターには何度か顔出してるでしょうから、矢ノ倉さんとは面識ありますよね?」

 「あの、意外かも知れないけど、蒼葉と小松さんもお互い面識ないですよ」

 「さすがはリーダー。確かに自己紹介、必要ですね。そういや、業平も初対面の人いるかも知れない」

 めでたく開設の運びとなったメーリングリスト(higata@~)は、参加者の名前を記した案内と簡単なルールをセットにしたものを千歳がまず流したのに続き、八広から早々にモノログネタとしてこういうのはどうだ、というのが軽く流れ、さらに櫻からはご挨拶方々、センターの夏休み入り前日の来客記録と同休業案内が出され、といったところ。出足としてはまあまあだったのだが、お盆休みを挟んだこともあり、その後は早くも小休止状態になっていた。メーリングリスト管理人として、ここはテコ入れが必要との認識は持っている。一つ業平に自己紹介を振って、再点火させるとするか。

 「じゃ私は小松さんに水向けてみる」

 彼女からのメーリングリスト第一報が発信されるのに先んじてのひと振り。先手を打てば、手強い文面が来るのを少しは予防できるのではないか、という読みである。櫻も十分手強い。

 二人して、二杯目のアイスコーヒーを飲み終える。あとはその他の議題。ここまで来れば、フリーディスカッションでも良さそうな気がするが、「掃部先生、月に一度はここにいらっしゃいます。何か渡すものとかあれば、お預かりしますけど」と一応、追加議題に沿った話をしている。「メーリングリストを通じてチーフに聞いてみて、先生が来る日時がハッキリしたら、皆にも集まってもらいますか、ね」 higata@、なかなか使い勝手が良さそうである。

 業務連絡を兼ねた打合せはここまで。時間にして一時間弱。メールのやりとりだけでは埋まらないものである。ここで千歳はいつものようにバッグをゴソゴソやり出すと、

 「この場で演奏できないけど、お約束の自作曲、持って来ましたよ」

 「エ? メモリカードに」

 「対応するプレーヤーとかメモリオーディオがないと聴けないですよね。じゃ」

 円卓上のPCのスロットに挿し込んでみる。ここから聴けなくもないのだが、

 「データをアップロードしとくんで、このURLを打ってダウンロードしてみてください。ご自宅でじっくり、ね」

 とりあえず二曲分だそうな。ギターでアウトラインを作ってから、PCでリズムやらベースやらを打ち込んで、そこに再度ギターをかぶせ、あとはおまけの音色をPC音源でもって加えていったんだとか。キーボードで作った曲もあるのだが、あえてギター曲にした。メロディーラインは櫻に託そう、ということらしい。鍵盤で電子的に採譜して、そのデータを業平に渡すと、また違った楽曲になるとも言う。

 「で、タイトルは?」

 「ボーカルを入れられるように作ってはあるんですが、詞がないことにはタイトルも付けられないし。櫻さんのいつもの鋭い感性で付けてください」

 「了解です。ピアノで音を拾ううちに思いつく、かな」

 休業中はピアノの練習に励んでいたこと、だがあまりの暑さに今度こそバテ気味だったこと、といった話、国際イルカ年だというのに、迷いイルカが助けられなかったのはどうしたことだ、とか、ペルセウス座という割には思いも寄らない場所に流星が出てくるので、ろくに願い事ができなかったとか、話題は尽きない。まだまだ日は長い。彼と彼女の時間はゆっくり流れて行く。

 「千歳さん、聞きたいことがあるって、何ですか?」

 「あの、『咲く・ラヴ』って、何か特別な意味がおありなんでしょうか? ずっと気になってて」

 ひと呼吸おいてから、櫻はニヤリ。よくぞ聞いてくれました、とでも言いたげな風である。

 「そんな、わかってるくせにぃ。櫻さんて人がいて、誰かさんに想いを寄せてる訳ですよ。それをちょっとひねっただけ。原題はあくまで『さくらブログ』」

 「モノログからもリンク張っていいですか?」

 「だって、今日のバーベキュー場の件、千歳さん載せるでしょ。私もちょっと書こうかなって思ってるんで、ねぇ...」と俯き加減。だが、すぐに顔を上げると、「リンク張って、見る人が見たら『あ、この二人』ってなっちゃいますよ。私は構いませんけどね。エヘヘ」とのこと。これで晴れて相互リンク、となりそうだ。


 蒼葉には遠慮は要らない。だが、食事当番は守りたい。櫻の表情に憂いが浮かんできた。離れがたい旧七夕の織姫と彦星に容赦なく夕暮れが迫る。そして帰りを急かすように遠雷が響く。図書館はすでに閉館時間を過ぎ、暗くなっている。

 櫻に交際相手がいないことは先だっての蒼葉とのやりとりでわかっていた。だが、それを本人に聞いて確かめるほど野暮なことはない。千歳はドキドキしながらも、自転車を動かす。今日のところはここまで、か。

 櫻が彼を引き止めたのは、その時である。

 「ち、千歳さん、私も聞きたいことが、あります」

 次の瞬間、剛速球を投げ込んできた。南実を凌ぐ勢いである。

 「おつきあいしてる人っているんですか?」

 ちょっと考えて、彼は答える。

 「えぇ、いますよ」

 「エ、うそ?」

 「ここに、ね」

 櫻は俄かに信じられない様子だったが、

 「もう、意地悪ぅ。う、う...」

 泣き顔になってしまった。眼鏡越しだが、目が潤んでいるのがわかる。千歳は再び蒼葉の言葉を思い出す。泣き出しちゃうかも、とはこのことだったのか。櫻は眼鏡を外しかけたが、すぐ手を止めた。

 「今度はいつ逢えますか?」

 「九月二日じゃ、また先になっちゃいますね」

 「本気で泣いちゃいますよ」

 「近々、紙燈籠持って来ますから、その時、また」

 櫻はブレーキをかけるのを止めていた。日中の暑さは和らいでいたが、彼女は逆に熱くなっている。

 「じゃ、明後日! 千歳さん来るまで待ってます」

 「わかりました。櫻姫」

 姫はドキドキが収まらない。このままだと本当に彼に飛びつきそうだったが、意地悪な彼は自転車に跨り、走り出してしまった。

 「あぁ、ドキドキした。どうなるかと思った」

 どうやら彼にも事情があったらしい。櫻のあふれる想いへの処し方がわからなくなっていたのである。

 セミは鳴いているらしかったが、二人には届いていなかった。櫻も今頃になって気付く。

 「あーぁ、何か切ない。これで蜩(ひぐらし)だったら、もっと切なくなりそう」

 櫻の方もノロノロと走り始める。こらえていた涙が線になって頬を伝う。心地良い涙である。七夕の日、ヨシに吊るしたもう一枚の短冊に込めた願い... 今夕、それが叶った、そんな気がした。佳(よ)き哉(かな)、である。

 

【参考情報】 河川敷でのバーベキュー例 / アレチウリの脅威 / 少女 vs カラス / ボランティア保険は事前に


ある晩夏の日に

22. ある晩夏の日に


 千歳の呼びかけに応じて、業平からの自己紹介メールがhigata@に流れたのはその翌日。ちゃっかり自営ビジネスの宣伝つきである。よせばいいのに、アフィリエイト募集中なんてことまで出ている。こういうのが来ると、次は弥生が反応しそうだったが、その前に櫻からの先制メールが入って来た。「...管理人と相談して、皆さんに自己紹介をお願いすることになりました。次は小松さん、いかがでしょう?(行き違いがあったら、ご容赦ください)」 いつものことながら、簡潔かつ丁寧な一筆である。櫻としてはこれでひと安心のようだったが、燃える想いの南実には、この程度の水を向けられたくらいでは鎮静することはない。むしろ、逆に火が点いてしまったようだ。誕生日から二週間後、職場からhigata@に一本を投じる。ここしばらく仕事から離れていたこと、メーリングリストも今週からやっと見出したこと、大学院を出てからはずっと今の機関にいること、などが綴られ、ここまでは無難な感じ。だが、末尾に来てそれが転じる。導火線の如き一文が添えられていた。「隅田さま、八月七日はありがとうございました」 一読する限りでは、単なる御礼なのだが、千歳と櫻のもどかしい関係性を知るメンバーが多いこのメーリングリストにおいて、この発信は並々ならぬインパクトを持っていた。その一文があまりに端的なので、憶測を呼ぶという点でも効果大。higata@上のルールには、二人の関係をどうこうしてはならぬ、なんてことは決めていない。だが、このように横槍を入れるのにメーリングリストが使われる、てのは想定外であった。小松南実、二十九歳。二十代最後の一年を迎えた女性というのはかくも手強いものなのか。

 幸い、このメールは櫻の職場アドレスには届かないようになっている。だが、ドラマの仕掛人(演出家か)のあの女性のもとにはしっかり着いていた。

 「櫻さん、八月七日の夜って何してた?」

 「二週間前ですよね。部屋でボーとしてたら、妹に説教されたのを覚えてます。でも、その日がどうかしたんですか?」

 「隅田さんとは一緒じゃなかったのね」

 「えぇ。あ、思い出した。千歳さん、今日来るんだった♪」

 文花の問いかけが少し気になるところだったが、今はすっかり舞い上がっている。

 「まぁ、あの調子なんだから、私の出る幕じゃないわね」

 焚き付けるのが本分の演出家としては、らしからぬご発言である。七日の夜は一人じゃなかったことを南実はその日のうちに自己申告している。そして、その時のお相手の名前が今回公表された。文花の予感は見事的中していたのである。こうなると誰かに言わずにはいられない。だが、いくら今そこにいるからと言って、櫻に告げていいものか。いいはずがない。二女も三女も一女にとっては大事な存在である。大事な二人を争わせる訳には... かくして、クシャミを我慢している時と同じような、何とも不可思議な顔になっている。

 「あぁ、ウズウズする。叫びたいよ、私ゃ」

 センターの責任者たる人物、器量と度量が求められる。文花は一応兼備しているようである。


 蒼葉はケータイで南実からのメールを受信。お騒がせの一文を見つけて、蒼白している最中だった。長文メールだと、ここまで来るのに時間を要する。ケータイメールだと読むのも何だし、発信するにも手間がかかってしまう。もどかしさが募る。

 「この小松さんて何者なんだろ。とにかく千さんに真相を確認しなきゃ。あと、PC用のメールアドレスもこの際だから作ってもらお」

 蒼葉からhigata@宛に発信がされるのはしばらく先になりそう? いやどうだろう。


 櫻は今のところあまり浮き沈みなく、穏やかに過ごしている。ちょっぴりドキドキしてきたのは十八時になってからである。早番の文花は櫻を気遣ってか、定刻通りセンターを後にする。外に出ると、噂の人物がちょうど到着したところだった。この間のバーベキュー場偵察で、自身もバーベキュー状態になってしまった千歳君である。その日は気付かなかったが、日が経つにつれ、ヒリヒリしてきて自分でも痛々しい。

 「あら、隅田さん、ひと月ぶりね。また灼けた?」

 「どうも荒川は日光浴に適しているようで」

 「ま、色男ってのはそういうもんよ」

 「あの、櫻さんいらっしゃいますよね?」

 「待ちくたびれて、机で伏せてるわ。早く行ってあげて」

 千歳は約束通り、スチロール箱ごと紙燈籠を持って来ていた。すれ違いざま、チーフが呼び止める。

 「その箱、何? 残暑見舞い?」

 「えぇ、活きのいいヤツ(魚)を持って来ました。ご覧になります?」

 「ヤダ、遠慮しとく。でも、今の言い種(ぐさ)、誰かに似てる。そう、櫻さんそっくり!」

 「あ、矢ノ倉さんもそのうち自己紹介メール、お願いしますね。じゃ」

 引き止めたついでである。この際だから、お節介しておこう。

 「隅田さん、そのメールのことだけど、ちょっといい?」

 「あ、はい」

 「まだ見てないかも知れないけど、今日南実ちゃんから発信があってね。八月七日のこと、書いてあったんだけど...」

 文面について軽く説明する文花。千歳はさほど驚くこともなく、フンフンと頷くばかり。

 「そうですか。ま、あの日はレジンペレットを渡すだけ、と思ってお会いしたら、食事に誘われちゃって。正直、焦りました」

 「まぁ、そんなことだろうと思ったわ。櫻さんまだメール見てないみたいだから、先に事情を話しておいた方がいいかもね。こういうのって、後でわかるとショックだから」

 文花の恋愛経験が如何ほどのものかは不明だが、人生において数年は先輩なので、こういう助言も出るのだろう。これはお節介ではなく、千歳にとって実に有意義な示唆となった。

 「ありがとうございます。箱の中味は御礼代わりってことでご査収ください」

 「はいはい」

 文花はその場では受け流したが、ふと立ち止まる。「ご査収? 魚を?」


 千歳の足音が近づく。櫻のドキドキが高まってきた。カウンターの影に隠れてるんだから、なおさらである。

 「あれ? 櫻さん...」

 誰もいないセンターだが、照明は点いているし、空調も稼動中。櫻は出るに出られなくなっている。

 「接客担当の千住 櫻さん、いらっしゃいませんか? ご不在なら帰りますよ」

 「あー、ごめんなさい。ここです」

 カウンターから静々と立ち上がってきた。

 「いらっしゃいませ」

 「かくれんぼですか?」

 「いえ、眼鏡を落としちゃって。捜してたんです」

 本当はビックリさせようと隠れていたのだが、ここは失敗。言い訳としてはもっともなような、そうでないような。ドキドキはまだ続いている。

 「持って来ましたよ。お土産...ってほどでもないか」

 フタを開けると、例の紙燈籠が寝そべっている。さらに劣化が進んだ感じである。

 「はぁ、こんな風に溶けちゃうんですか」

 「拾った当初は、ちゃんと筒状になってたんですけどね。乾燥させなかったもんだから」

 「ハハ、今の私みたい」

 「へ?」

 要するに緊張が解けたことと、誰かさんといるとこんな感じになってしまう、ということを言いたかったようだ。だが、センターにいる間はどうしても敬語会話になってしまう。これは緊張云々とは別の話。忠実に接客している証しなのである。

 「いえ、何でもございません。じゃ、そのまま窓際に置いといてください。明日から日光浴させます」

 七夕の時に櫻が用意した水溶性短冊も、どうやら同じメーカーのものらしかった。

 「あの感じだと、あまり環境に良くなさそう。溶けて水に流れちゃえばいい、てもんじゃないんですね」

 「でも、どの程度の影響があるんでしょう?」

 「パックテストで調べてみましょうかね。文花さんにまた聞いてみます」

 「短冊ならOKだと思いますけど、ね」

 「雨に流れたか、風に溶けたか。川に迷惑がかからなかったのなら、いいですが。でも、私の願い、一つは叶いましたよ」

 さっきから、カウンターで対面する形で語り合っている。センターでの接客スタイルとしてはこれでいいのかも知れないが、この二人、今は彼氏と彼女のご関係ではなかったか。

 今度は千歳がドキドキする番が来た。

 「あの、小松さんからのメールって、今日ご覧になりました?」

 「いえ、まだ。自己紹介メール、ですよね」

 「僕もまだ見てないんで何とも言えないんですけど、櫻さんに先に話をしておこうと思って」

 八月七日は、南実と会っていたこと、すぐに帰るつもりだったが断り損ねて会食することになったこと... 文花に話したのと同じように事情を説明する。そして、

 「意中の人は櫻さんだって、その時、キッパリ申し上げました」

 「え? 二週間前にそんな風に?」

 「櫻さんがどう思ってるか、は別にして、とにかく正直なところを伝えたんです」

 「つまり、小松さんを振っちゃったんですね。彼女、モテ系なのに、あーぁ」

 櫻はすまし顔で、我関せずのような口ぶり。千歳は思いがけないリアクションに焦りを募らす。そう言えば、櫻からちゃんと返事を聞いてなかったような...

 「私が千さんを振っちゃったら、どうするの?」

 「紙燈籠みたいになっちゃうでしょうね」

 「ウソウソ。この間のお返しよ。フフフ」

 千歳は本当にフニャフニャになっていた。極度に緊張していたところ、一気に解放されたのだから仕方ない。櫻は笑いをこらえつつも、真顔で続ける。

 「正直に話してもらって、櫻はうれしうございます。私、千歳さんを信じます。でもちょっと悔しい」

 千歳の腕はよく灼けていて、皮が一部剥がれかけていた。その皮をペリペリとやり出したのだから、彼が面食らったのは言うに及ばず。四月に初めて会った時の櫻さんの印象は「面白い人だなぁ」だった。そんなことを今更ながら思い返してみる。

 一応、櫻はまだ勤務中。千歳は帰り支度を始める。だが、彼女は彼をそう易々とは帰させない。

 「八月七日って小松さんの誕生日だったんですってね。文花さん、お祝いがどうのって。今思い出しました」

 「そう、だったんだ...」

 千歳は少し心が動いた。南実の性格なら、自分の誕生日を堂々と明らかにしそうなものである。それをあえて伏せていた、というのが実に健気というか、意外な一面を見た気がしたのだ。

 「あら、本人言ってなかったの。まぁ、千さん善いことしたじゃない。一日一善、よね」

 櫻はすっかり余裕の構え。千歳は引っかかるものがあったが、気を取り直して、

 「そう言えば、櫻さんの誕生日っていつですか? 三月?」

 「千歳さんと初めて会った日は、二十代最後の週の初日でした。その五日後が三十路最初の日」

 「それはそれは。お祝いしそこなっちゃいましたね。失礼しました」

 「いいえ。二十代のうちに出逢えてよかったです。それで十分」

 改めて櫻への想いを認識する千歳。櫻と来れば「咲く」だが「萌え」も有り得る。境地としては蒼葉の時よりもピッタリ来るようだ。そんな彼の萌える想いを察してか、彼女ははぐらかすようにアナウンスを入れる。

 「今日はちょっとトーンダウンしちゃったけど、プラス千点かな。ちなみに十万点になりますと、いいものを進呈します。お楽しみに」

 櫻得意の「いいもの」は応用範囲が広い。楽しみではあるが、いったいいつの間にそんな査定が始まってたんだか。

 「私の場合、一日一千(いちせん)なんです。四月から七月までは七回お会いしたんで、七千点。で、一昨日からは毎日千点ずつにしました。今日で一万点ですよ」

 千歳はすっかり帰る気が失せている。見計らったように櫻はさらに一言。

 「今日この後、引き続き当館をご利用いただくと、さらに千点、どう?」

 「櫻さんには敵わないなぁ。ま、女性一人残して帰ったら、大幅減点になりそうだから、ね」

 いざという時は非常ベルを鳴らせば、一階の図書館から職員が駆けつけてくれることになっているのだが、彼氏に傍にいてもらえるなら、それに越したことはない。


 自己紹介メールをメーリングリストに流すのもいいが、この二人に限っては、お互いにちゃんと自己紹介しあった方がいいのではないか。それに気付いたご両人は、どちらからともなく、紹介を始め、気が付くと十九時を回っていた。

 「いけない、仕事しなきゃ」

 「じゃ、僕はPC借りて、作業してます」

 このタイミングで良かったのかどうなのか。二人が配置に戻った時、階下から早い足音が近づいて来た。確かに女性一人じゃ心細い。

 「櫻姉、いる?」

 駆け込んできたのは姉想いの妹である。

 「あら蒼葉、どしたの?」

 「もう、千さんたらひどいじゃない。八月七日のこと、知ってた?」

 「まぁまぁ。あちらにいらっしゃるから、お気が済むまでどーぞ!」

 「エッ? あ、千さん...」

 千歳はちょうどwebメールをチェックしていたところで、蒼葉からの一件(詰問メール)を正に開くところだった。本人が来れば話は早いが、メールのやりとりで済むなら、その方が心理的には楽とも言える。だが、この一件はそういう訳にはいかない。

 「蒼葉さん、こんばんは。五日はお世話様でした」

 櫻に続き、千歳も悠然としているので、かえって不審に思う蒼葉。今日の装いは、七日の南実によく似ている。それが彼を少しこわばらせるのだが、とにかく話を進めないといけない。今日はこれで三度目である。メーリングリストで何かあった時のフォローは、このように直截的な形でも行われる。管理人はツライ。

 「なぁんだ、そういうことだったの」

 「蒼葉さんから話を聞いてたから、勇気を出して言い切ることができたんだ。感謝してます」(と言いながらも、内心はちょっと複雑)

 「あ、ハハ。私、言い過ぎちゃったかな、って。でも、櫻姉、本当に元気になりました。逆八月病って感じ」

 円卓での座談は、こうして丸く収まった。続いて、蒼葉からのご要請の件に移る。ここにPCが置いてあるというのは実に好都合であった。

 「じゃ、aoba@でいいですか?」

 「いえ、aoba1010@がいいです」

 「はぁ、千と十?」

 「千住蒼葉ですから。1010。語呂合わせです」

 「これ、エルオーエルオー(lolo)と間違えないようにしないと」

 「私のこと知ってる人は間違えないと思うんで。迷惑メール対策にもなるし」

 こうして、蒼葉のPC用アドレスは即日設定され、メーリングリストにもこのアドレスで登録し直し、となった。

 「このwebメールを使えば、今すぐにでも送受信できますよ」

 「へぇ、さすがは千さん。姉さんの彼氏にしとくのもったいなかったりして」

 「何か言ったぁ?」

 「いいえ。ちゃんと姉さんの長所と短所をお伝えしてるとこですから」

 「余計なこと喋ったら承知しないわよ!」

 こんな具合で、晩夏の夜は更けていく。三人寄れば何とやら、か。

 「良くも悪くも、あのノリが姉さんなんです」


 櫻は彼と食事でも、と考えていたようだが、千歳の方はもともと早く帰るつもりだったから、案外素っ気ない。「もしかして、私、じゃましちゃった?」と蒼葉が気にかけるのももっともである。

 「あ、千歳さん、今度は曲のこと、相談させてくださいね」

 「そうだった。忘れてた」

 櫻は弁えたもので、今日は彼の想いなり生い立ちなり、いろいろと知ることができたので、これで十分と思い直していた。一昨日同様、自転車で反対側へ走り始める千歳。前回と違うのは、あわててその場から抜け出さずに済んでいることだろうか。これは櫻自身が想いを上手にコントロールできたことが大きいとも言える。妹の手前、というのもあったかも知れない。蒼葉はおじゃまどころか、実にさりげなく二人の想いを調整する役を担っているのであった。


 「姉さん、曲って?」

 「へへ、二人だけの秘密♪」

 「まぁ、お熱いこと。暑いのは残暑だけにしてほしいワ」

 その一曲を口ずさむ櫻。サビのところは、「届けたい・・・」とか歌っている。はてさて?


非日常

23. 非日常


 処暑も過ぎたし、さすがに猛暑日になることはなくなったが、まだまだ暑さが続く晩夏。大気もバランスをとらないとやってられなくなったか、空が暗くなるのに乗じて、黒々した雲がいつしか集い、空中打ち水大会が始まった。一般的には給料日の金曜夜、屋外で一杯やっている諸輩も多そうな時頃である。ビールの泡を消す程の勢いがありそうな驟雨。飛んだ冷や水になったに相違ない。荒川流域に暮らすhigata@の面々は、雨に降られることなく、それぞれの夜を過ごしていたが、断続的ながらも、時に激しさを増す雨に気もそぞろ。干潟最寄住民の千歳としては、その矢の如き雨粒を窓から眺め、「この調子で降り続くと、間違いなく水位は上がる。干潟もどうなることか...」と、プライベートビーチの心配が先に立つ。涼しくなって良さそうなものだが、この雨、ちょっと度が過ぎるきらいがある。強弱はあったものの、深夜にかけてなお止むことはなく、道路の一部が冠水するほどの降りようとなった。


 翌、八月最後の土曜日の朝。千歳は、双眼鏡やらデジカメやらをバッグに放り込んで、あわただしく外に出る。堤防がぬかるんでいる可能性はあったが、とにかく自転車で走り出した。荒川本流が視野に入る。彼は目を疑い、そして言葉を失った。

 向かって左方向、いつもの橋の脚に付されている水位を示す表示に対して、三から四の間を川が洗っている。いわゆる大潮の時でも二前後なので、明らかな増水である。そしてひと目でわかる濁流。曇りがちな空から時に太陽が顔を覗かす午前八時。橋の中央から流れを追ってみることにした。

 「あぁ、漂流ゴミが...」 昨夕の雨は、中流や上流にも降り注いだようで、様々な物体を運んでいる。枝葉や木片の塊が列を成しながら、蛇行しながら、流れる。それらに混じって、ペットボトル、空き缶、食品トレイ、発泡スチロール片といった定番ゴミの数々。よくよく見れば、サッカーボール、塗料缶、灯油を入れるポリタンク... 浮遊しやすいものが漂流するのはわかるが、重量がありそうな品々まで押し流されているから壮絶。一例としては、一升瓶、タイヤ、トタンの扉、といったところか。双眼鏡なしでも、こうした類は判別がつく。細々したものはさすがに肉眼では識別できないが、おそらく夥(おびただ)しい量が流れに乗っているものと思われる。「干潟でキャッチできればまだいい方、ということか」 デジカメは連写モード。ブツクサやりながらも、撮りまくっている。そこへクリーンアップスタイル風の娘さんがやって来て、停車した。いつものRSB(リバーサイドバイク)だが、今朝は徐行運転である。

 「隅田さん、だったり?」

 「おや、石島さん。お早う」

 「これって、ヤバくないですか。何かいろいろ流れちゃってるしぃ」

 千歳がここにいるのがごく当たり前のように、初音は飄然と話を始める。アラウンドサーティー女性との接し方は何とかなってきた千歳だったが、ティーンのお嬢さんとはどう会話したらいいのやら。撮影は中断、プチ苦悩状態に陥る。

 「てゆーか、どうしてここに?」 とりあえず、ティーン口調に合わせてみる。

 「昨夜(ゆうべ)って、チョー雨降ってたじゃないですか。こりゃ、洪水になるぞいって」

 橋には他にも濁流を見守る観衆がいたが、男女二人して、というのは彼等くらいである。この橋では様々な男女が共に歩いたり、またはすれ違ったり、時には離れて行ったり、多様なシーンが繰り広げられている。今日の千歳は、橋でバッタリのパターンだが、隣にいるのは櫻ではなく、ひと回り違いのお嬢さん。だが、姉という点では同じである。櫻も昔はこんな感じだったんだろうか、と目の前の現実からちょっと離れてみたりする。

 眼下では、畳と茣蓙が寄り添うように漂っている。有り得ないゴミのような気がするが、この流れを見ていると、不思議な気がしない。それがまた不思議である。非日常感覚に捉われている千歳なのだが、「今日の天気はどうなんだろ。また土砂降りとか?」 初音にとってはまたとない良好な質問が口を突いて出た。

 「今日はこの後、雲は晴れ、気温も上がります。ちなみに今は...」

 某お天気情報番組特製のデジタル温度計を取り出すと、「二十八度 マジ?」という塩梅。

 「何かお天気キャスターみたいだね」

 「えぇ、ちっとは勉強してるんで」

 太陽が少しは出ている分、初音の機嫌は悪くない。「雨だと不機嫌だったりして?」と千歳の勘が働く。そう、天候に気分が左右されるキャスターというのもアリなのである。


 撮影を再開しようとデジカメを構えると、堤防下の道路をバイクが一台走り行くのが見えた。双眼鏡を使わないと判然(ハッキリ)とはわからないが、おそらく干潟は水没中だろう。とにかくその干潟がある場所に向かっているのは間違いない。

 「あれきっと、掃部(かもん)さんだ。行ってみよう」

 「あ、ハイ」

 スローな千歳に対し、ここぞで速さが出る初音。自転車のタイプが違うとは言え、ちょっと差が開きすぎたか。

 「隅田さん、遅いスよ」

 「ハハ、三十代になるとダメだねぇ」

 もともと遅いのを誤魔化している。今は三十ちょうど、年甲斐のない千歳であった。

 道路が冠水するくらいだから、グランドも同等かそれ以上である。水の捌(は)けはどうなんだろう。浸み通った水が崖地からチョロチョロ湧き出ていたのは前回確認済みだが、この大水じゃ出口を塞がれたも同じ、捌けようがない。そんな水捌けを心配する人物がすでに先に到着していて、今は掃部公と問答している。

 「石島さんよぉ、非番とは言え、ここが現場だろ。グランドの心配より、川の心配が先でねぇの?」

 「治水事業のおかげでこんなもんで済んでる訳ですよ。これでも一応、様子を見に来て、大丈夫そうだったから、グランドをチェックしてるんで」

 「大丈夫とか言って、どうせ今だけだろ。そのうちこれじゃ危ねぇとか言い出す目算さ。余計なことしたら承知しねぇぞ」

 水を撥ねながら、自転車が二台現われた。先に着いた初音は目を丸くして、一喝!

 「何だ、親父ぃ。家族ほったらかして、こんなとこでチョロチョロと」

 これには当の親父さんは勿論、千歳も清も吃驚(びっくり)である。

 「あちゃー、石島の娘さんだったか。この前、小松のお嬢さんが言ってた通りだ」

 「お前こそ、何でここに? 勉強しなくていいのか」

 「川が心配だから見に来たのさ。そっちはどうせ、試合ができるかどうか、とか、そんなとこっしょ?」

 「何だ、娘さんの方がよほど河川事務所向きじゃねぇか」

 千歳は再び非日常状態になっていて、三人のやりとりを黙って聞いているばかり。掃部先生が招き寄せてくれなければ、時と川の流れるまま、だったかも知れない。

 「この青年は、ここのクリーンアップの発起人さんだ。石島、会ったことあんだろ?」

 「隅田川の隅田、千歳空港の千歳、隅田千歳と言います。初めまして、ですかね?」

 国土交通省関係者に対する挨拶だからと言う訳ではないが、川と空港を引用するあたり、さすがである。親父はそれが気に入ったらしく、

 「やぁ、何度か見かけてはいましたが、貴君が発起人とは。石島、湊です」

 と丁重な応対ぶり。

 「初音さんにはお店で、小梅さんにはこの干潟でお世話になってます。でも、干潟...」

 干潟と言ってはみたものの、案の定、すっかり水没してしまって、示しようがない。

 「ハハ、正にしがたねぇ、だな。上流からの土砂が運良く堆積すりゃ、しろくなると思うけどな」

 「え、白く?」

 「だから、し、ひ...」

 「広くなるんでしょ。先生」

 父vs長女のバトルが続きそうな雲行きではあったが、今はひとまず「水入り」。親子水入らず、とは言うものの、そうはいかないのが石島親子。父は長女の意外な人脈に驚きを隠せない。「掃部さんと初音がつるんだら... ヤバそうだなこりゃ」 川の心配が先でしょうに。

 荒川本流は濁々としていて、ヨシの浄化作用も無力に映る。それでも、カニの巣穴の上部に群生しているヨシは、背伸びするように己の上半分を気丈に出していて、存在を顕示するかのよう。ここのヨシ群は即ち、干潟の湾曲地形の一部も示すことになる。そのカーブが漂流ゴミをキャッチする構造になる訳だが、川面を見る限りでは目立ったゴミはかかっていない。ボード状の発泡スチロールが数枚、ペットボトルが数本、そのヨシ群にブロックされている程度である。すると、ここぞとばかりに、珍品が流れ着いてきた。

 どこかの工事現場から浚(さら)われて来たような特殊な工具や緩衝材、そして、

 「『不法投棄禁止 建設省』だとさ。手前がゴミになってんじゃ、世話ねぇな」

 薄ぺらな錆びた看板が引っかかった。やや遠くではあったが、それは清でもハッキリ読み取ることができたのである。

 「余計な工事に、余計な看板てか」

 「さすがにあそこじゃ回収できませんね。面目ない」

 話によると、これだけの水位でも、四メートルよりは下なので「レベル1」どまり、水防団が待機する段階に当たるとのこと。掃部公にも娘にも頭が上がらない石島氏だったが、ここは現場担当者として面目を保ちたいところ。

 「九十九年は、戦後三番目、六・三メートル(岩淵水門上)を記録。その時ほどじゃ、ありません」とは言っても、荒川畏るべし、には違いない。甘く見ては不可(いけ)ない。

 多少水位は下がったようだが、それでもなお川の水の一部が上陸していて、とても大丈夫なようには見受けられない。さすがにグランド外野までは浸食していないが、特大ホームランが出れば、あっさり着水&川流れ、だろう。ともあれ、コンディションは最悪。娘の予報を信じて、お天道様に水分の蒸発を促してもらうほかあるまい。

 「ま、こういうのって日頃の行いだから。今日は諦めて、たまには家事とか家族サービスとかしたら?」

 娘の説教が続く間、清は青年をつかまえて、

 「隅田君さ、今度は九月二日だろ。俺はちょっと出て来れねぇけど、ここがどんな具合になったか、あとで教えてくれねぇかな」

 「えぇ、お易い御用です。でも、清さん、連絡のとりようが...」

 「じゃ、例のセンターに寄るよ。あそこ夜も開いてるもんな。そうさな、九月最初の火曜とか」

 「そうそう、八月の定例クリーンアップで、水溶性の紙燈籠てのを拾ったんですよ。その鑑定、お願いできますか?」

 「ナヌ! 灯篭?」

 これで話はまとまった。チーフに照会しつつ、メーリングリストで呼びかければOKである。初音はメーリングリストに入っていないので、今、知らせる。九月二日についても尋ねると、「小梅と二人で来ます。あの子も心配してたから」 もともと参加する意向だったようだ。そして、「あ、そうだ」 長女は再び父親に噛み付く。

 千歳はさすがに恐々としてきて、「初音嬢くらいの娘は皆あんな調子なのか、それとも他に何か理由があるのか...」 昔の櫻はああじゃないよなぁ、とかまた勝手に推測しながら、親子のやりとりを見守る。

 「あのさ、ここからゴミが大量に出てきたら、事務所も何か手伝ってよ。そしたら少しは見直したげる」

 「ほぉ、初音が奉仕活動とはね。分別してグランドの詰所の脇に置いといてくれりゃ、翌日引き取るさ」

 「奉仕活動とは違うと思う。うまく言えないけど、社会勉強に近いな。じゃ、粗大ゴミ級もOK?」

 「ケガしないように、な」

 ちょっとイイ感じになったところで、先生がクレームを入れる。場の空気を読み損なったか。

 「おぅ、さっきの話の続きだ。もし、ここの崖とかが崩れかけてたとしても、下手な工事はするんじゃねぇぞ。自然が自力回復できなそうな場合に限って、天然・地場の材料とかを使って最低限のメンテをする、ってことだ」

 「はいはい。そんなに予算も付かないから、心配無用ですよ」

 「何言ってんだ。必要な予算はちゃんと付けんだよ」

 「そうだそうだ!」

 石島としては、干潟の安全面がちょっと気になるところではあった。娘二人がここに出入していることを知ったとなれば、親心(?)からしても尚更である。この際しっかり調査して、安全面を確保しつつ、ついでに親水型の水辺としてうまく整備すれば、憩いの場にもなるだろう、などと踏んでいる。性悪な人物では決してないのだが、どうもこの辺が役人気質というか、掃部公が警句を発する所以である。


 千歳はひととおりの撮影を終え、深呼吸。モノログ史上初となる、ひと月三本目のネタがこれで上がることになる。モノログを開設してからというもの、少しずつではあるがアクセス数は増え、記事の掲載責任というものも重くなってきている折り、載せるなら、より熟慮した上で、と思う。それには現場で、ある程度記事の構想を練るのがいいようだ。

 お天気お姉さんの言った通り、雲が晴れてきた。九時を回り、温度計は早くも三十度を超す辺りを窺っている。河川事務所の課長さんは、しばらく付近を巡回すると言う。同じく掃部公も巡回モードだが、むしろこの課長殿の動きを監視するのが目的のようだ。五カンのうちの一つ「監」の出番である。父親としては、娘の帰りが気がかりではあったが、千歳が途中まで一緒、というので喜々として送り出した。何かカン違いされている気がしなくもないが、まぁいいか。

 「そうそう、この間はパンケーキ、ありがとうございました。美味しかったよ」

 「そりゃどうも。たまたまです」

 「この後はお店?」

 「そうスね。でもまだ早いから、お客さん来るまでは修行でもします」

 父親との一見不仲な感じの理由などについて小インタビューしてみたい気持ちもあったが、さすがに躊躇われた。逆に初音が千歳に問う。

 「隅田さんは?」

 「対岸の図書館かな」

 「その二階、っしょ?」

 図星なのであった。

 さて、いつもの初音ならこの辺でまたダーッと去って行ってしまいそうだが、ちょっと違っていた。

 「じゃ、櫻さんによろしくお伝えください」

 と言い残し、ごく普通に手を振っているではないか。ギャップが激しいというか、「妹さんが顔色窺うってのわかる気がする」と独り言。

 ここは橋の手前、右に進んで川を越えれば櫻の職場。それは非日常から日常に戻ることを意味する。自分でもよくわからないが、心安らいできたのがその証左。本流では相変わらず、漂流ゴミのオンパレードが続いていたが、むしろ小気味よく見える。足取りは軽く、気付いたら図書館に着いていた。が、しかし、

 「いけね。センター開くの十時だった!」(開くの十時云々てどこかで聞いたような)


 図書館には、上階の開館時間が近づくのをドキドキしながら待っている青年(いや三十男)がいた。彼も彼女もケータイを持っていないので、お互い連絡がとれない。つまり、こういう時は不意打ちのようになってしまうのである。何も知らない櫻は、弥生とともにセンターへ。

 「で、次はいつお会いするんですか?」

 「さぁね。結構クールなのよね、千さんて。いついらっしゃるのやら?」

 「クールでいそがしい人をクールビズって言うんですよ。きっと」

 この時、階下でクシャミをする人物がいたかどうかは定かではない。

 「何かまたピピって来るんですけど、気のせいかしら」

 「ケータイってこういう時に使うのね。でもなぁ」

 十時を回った。階下からノロノロした足音が聞こえてきたと思ったら、

 「あ、千さんだ!」

 「エッ!」

 「二人にはケータイ要りませんね。ホホ」

 本日の来館者第一号が現われた。

 「おは、いや、こんにちは。あ、桑川さん」

 「いらっしゃいませ。今日はどうされました?」

 「聞くまでもないでしょが。櫻さんは?」

 「あぁ、八月病が再発しちゃって、お休みですよ」

 カウンターの影で笑いをこらえている女性が一人。今度こそビックリさせてやろう、と構えている。

 「櫻さんてね、かくれんぼ好きなんだよ、ね?」

 「あ...」

 不意に現われただけでもシャクなのに、小作戦まで見破られてしまっては、憎さ倍増である。「何よ、さんざ待たせといて、さ」 初音みたいな口調になっている。なかなか非日常から抜け出せない。

 「昨晩の雨、そっちは大丈夫でしたか?」

 「早番だったんで、何とか。チーフは大変だったでしょうけど、昨日はたまたまクルマだったから...」

 「その矢ノ倉さん、今日は?」

 「野菜畑がヤバイからシフトするって、連絡がありました。午後からじゃないスか?」

 弥生はツッコミというか、冷やかしを入れたくてウズウズしていたが、「大人をからかうんじゃありません」てのを思い出し、しばらく見守ることにした。

 「八時頃、荒川を見て来たら、とんでもないことになってて、それでね」

 デジカメからメモリを取り出すと、要領よくPCのスロットへ。PC画面は河川監視カメラのモニターに早変わり。スライドショー形式で流していくと、コマ送り映像を見ているかのようである。

 「えー? 信じらんない」

 「台風の時も川の氾濫がどうこうって中継で映るけど、それに近いかも」

 「あたし、行ってみる。千さん、自転車でしょ。貸して!」

 弥生は二人のおじゃまにならないように、という訳ではなかったが、なかなか的を得た行動に出た。これも学部の勉強のうち、いや今日は仕事のうち、かも知れない。


 「で、文花さんに何かご用?」

 「干潟で掃部さんと会ったんだ。九月最初の火曜にまた情報交換しようってことになって、それならセンターで、って訳。ここのご都合とかどうでしょうか?」

 「あ、そう。大丈夫だと思いますよ。チーフが来たら、伝えます。higata@に連絡してもらえばいいですよね」

 どうもご機嫌斜めの櫻である。日常と非日常の区別が愈々(いよいよ)つかなくなってきた。千歳は取り繕い方を模索しながらなので、ぎこちない。

 「ところで櫻さん、日焼けしちゃいましたか?」

 「え、ヤダ。そんなに目立ちます?」

 「いや、何かイイ感じだな、って思って」

 ポロシャツにガウチョパンツというスタイル。肌が出ているので、目に付いてしまうのである。おめかしして来なかった櫻ではあるが、普段着でも十分通用するようだ。モデルの姉、というだけのことはある。

 「まぁ、どこ見てんだか。赤くなっちゃったのは、千歳さんが顔見せないから、ヤキモキして、それでよ」

 「もしかして、減点になっちゃいました?」

 「知ーらない」

 三十どうしのご両人はやっぱり仲良しさんなのであった。


 千歳はメモリを挿し込んだまま、早速モノログのアップを始める。データベース情報をweb仕様で掲載するための例のプログラムの一件もある。弥生が戻ってきたら、進捗状況など話し合うとしよう。口実のような感じもあるが、好機を逃さないのが千歳流、プロセスマネジメントなのである。PCをパタパタやりながら待機する彼を見ながら、彼女は見透かしたように独り言一つ。「私に会いに来た、って何で言えないんだろう。フフ」

 図書館は夏休みの宿題にスパートをかける子どもたちで賑わう。その賑わいの一部はセンターにも流れ込んできた。「フリースペースに案内しますか」 席を立つ櫻。「皆さん、いらっしゃい。こちらへどうぞ!」 接客はお手のものだが、最近では子どもの相手も馴れてきたようだ。小梅と六月の自発的環境教育にヒントを得て、こども向けの環境情報コーナーをそのスペースの一角に作ってみたところ、これがなかなか好評だとか。だが、単に情報を置いてあるだけよりは相談員がいた方が何かと心強い。「来週は小梅さんに臨時で手伝ってもらおっかな。弥生・初音ラインに頼もう」 いいもの、ならぬ「いいこと」を思いついたようである。千歳は賑わいとは離れた場所にいるが、時折フリースペースの方を見遣って、驚いたような、怪訝そうな、何とも不可解な顔をしている。ふとカウンターにいる櫻と目が合って、都度表情を正す。作業をしているのか思ったら、そうではなかった。彼はこっそり彼女にメールを打っていたのである。その場で話をすれば良さそうなものだが、あくまで彼女が勤務中、ということに配慮してのことらしい。「18きっぷをキープしてあります。有効期間内でご都合つく日ありますか?」 詰まるところ、会う約束を先に作っておけば櫻をヤキモキさせずに済むだろう、そんな配慮もあるようだ。危うく「18きっぷが余ってまして...」と打つところだったが、彼は見事に書き換えた。進歩したものである。

 そんな訳で、このお二人さんが再会するのは、次の定期クリーンアップ、九月二日ということになる。(まるまる一週間、顔を見せない彼ってやっぱりクール?)

 

【参考情報】 増水時の漂流ゴミ

 

[漂着モノログ  第二章  夏] 終わり → [漂着モノログ  第三章  秋] に続く


あらすじ

 河原の桜を見に行った千歳だが、いつしか川辺にたどり着く。水際には干潟、そして多量のゴミ... その場で捨てられたものとは思えない。それらは漂流・漂着ゴミだった。そこで拾った一枚のキャッシュカードから、物語は動き始める。

 四月一日、キャッシュカードの主、櫻が登場。千歳と櫻の二人は初対面ながら意気投合し、クリーンアップを開始。千歳はその時の記録を新設したブログに掲載。「漂着モノログ」はここから始まる。

 五月六日、クリーンアップは二人から四人に。櫻はお約束の「いいもの」を持って現われる。調べ上げられたゴミの数々... 静かに何かを語りかけてくる。

 六月三日、2回目の調査型クリーンアップ。五月の回の三人のもとに、女性研究員が現われ、より充実した実地見聞が展開される。六月は環境月間。折々のイベントは出会いの場となっていく。

 七月一日、クリーンアップ参加者の年令層は広がり、干潟は「場」としての力を増していく。集う人々が互いに触発されていく流れは、夏休みの自由研究へとつながり、そこからまた新たな出会いやドラマが生まれていく。千歳と櫻の想いが形になっていくのもこの月から。

 八月五日、リーダー不在ながら、新メンバーの加勢もあり、何とかクリーンアップは終了。だが、櫻の不参加は波紋を呼び、それぞれの想いが動き出すことになる。川、干潟、ゴミへの想い、そして互いを想う気持ち。夏は長く、暑い...



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