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C’est la vie.

八月の巻

18. C'est la vie.


 月が変わって、梅雨も明け、東京は連日の猛暑に見舞われている。クリーンアップ予定日の五日も高気圧の勢いそのままに、朝から強烈な日射が燦々。荒川は水をたっぷり擁しているので涼し気に見えるが、こうも高温だと湯水になっているのではあるまいか。上流からは低温の水が流れてくるはずだが、流すうちに茹(ゆだ)ってしまうんじゃ「たまらない」。さっさと海へ流したい、というのが川の本音だろう。南実からは今回見送りの連絡とともに、いつものように定刻の十時だと潮がまだ高いかも、との一報を事前に受けていたので、モノログ上にも臨時掲示板情報として、今日の開始は十時半と打っておいた。石島姉妹は家族で旅行中との報を桑川姉弟から聞いていたし、業平には別件でメール連絡しておいたので、この日はあわてて出かける必要もなかったのだが、そこは素直な千歳君。早めに現地で待っていれば、リーダーも早々に現われるだろう、という読みでそそくさと宅を出る。温水(ぬるみず)を流したい一心なのかどうかは不明だが、どうも流れが速い感じの荒川。その流速に比例するように、今日はノロノロではなく、軽快にペダルを漕ぐ千歳だった。


 時同じくして、千住姉妹はと言うと、どうもいつもと様子が違う。

 「櫻姉、ほんとに行かないつもり?」

 「バテちゃったみたい。千さんには八月病だって、言っといて。うぅ...」

 「はいはい。お大事に」

 確かに暑さ厳しい折り、わからなくもないのだが、夏風邪なのか、夏バテなのか、はたまた「何が八月病よ。恋わずらいでしょ」と姉想いの妹はあっさりと分析してみるも、特に心配する風でもなく、小気味良さげなのであった。姉の自転車を借り、颯爽と風を切る。橋に入ってからは速度を落とし、干潟を一望する。まだ誰の影も見当たらない。千歳は伸び盛りの草陰にいるので、彼女の視野には入らなくて当然である。徐行気味に走る蒼葉。その後を追うように路線バスが近づいてきた。車窓から干潟方向を眺めていた一人の少年は、ここで憧れのお姉さんを見つけて大慌て。「あ、蒼葉姉ちゃんだ!」 誰かさんみたいにおばさん呼ばわりしたりはしないが、姉ちゃんてのも考え物。ちょっと馴れ馴れしい気がしなくもない。

 自転車とバスは抜きつ抜かれつで並走していたが、六月が停留所を降り立った時には、お姉さんの自転車は彼方を走っていた。「どこ行くんだろ? 干潟に用があるとも思えないしぃ」 実姉が一緒ならケータイ一発で確認できるところ、その姉を振り切るように飛び出してきた手前、ちょっといたたまれない六月君なのであった。「一緒に来りゃよかったかなぁ。でも、プログラミングがどうとかでいそがしそうだったし...」 今日のクリーンアップはどうやら少人数になりそうである。

 干潟へ通じる細道の周辺は、掃部(かもん)先生が人知れず刈ってくれたらしくスッキリしていて、その切り口からは熱に煽られてか夏草の薫りが漂っている。そこへ新緑というか青葉というか、また違った色香を秘めた女性が乗り付けてきた。人には雰囲気というものがあるが、蒼葉の場合、それは人一倍強いようで、鈍いというかスローなあの人もすぐに気付いた。

 「あ、蒼葉さん!」 自転車は徐々に近づいてくる。「どーもっ!」

 時は十時十五分。ようやく潮が後退局面に入ってきた感じ。干潟から去ろうとする水の流れはやはり熱を帯びたようにまどろんでいる。もっと早く退いてくれてもいいのだが、本流の勢いとは裏腹にこの辺はどうもバテ気味のようである。

 「あれ、お姉さんは?」

 「もし本人が今日来なかったら、あとで事情をお話しします」

 「どこか具合でも?」

 「八月病... あ、いえ何でも、アハハ」

 退潮の動き同様、何ともまどろっこしい話し振りである。

 リーダーが来るのか来ないのかハッキリしない中ではあったが、ひとまず道具類の点検などを始める千歳。払底していたと思われた四十五リットル袋は、ベランダの収納庫に眠っていた分が発掘され、今回はバッチリ。小型バケツに二リットルの空ペットボトルにマイカップにデジカメ... 水筒代わりに使っている別のペットボトルには発泡性のミネラルウォーターを入れて来た。持って来ていないのは、クリップボード、受付台帳、太ペン、カウンタといったところ。蒼葉の方は、持ち主がわかった例のK.K.絵筆の他、鉛筆画に必要な道具類と簡単な画用紙、それと軍手、ケータイ。二人の持ち物を寄せ集めれば何とかなりそうな気はするが、道具以上に重要なのはコーディネート役、だろう。一抹の不安がなくもないが、「今日は参加人数も少ないし、十時半開始予定なので、今ある程度準備しておけば大丈夫かなって」 発起人は気楽に構えている。


 見慣れない三十男が向こうからやって来て、左に折れた。今日はサングラスをしていて、チョイ悪な印象。RSB(リバーサイドバイク)ライダーのあの人である。小六男子はちょっとビビったが、そのライダーの後にできた轍を追うようにグランド脇を歩いていく。外野ではカラスの小集団が羽を休めているが、熱吸収の良い己の黒さが恨めしいようで、どの個体も羽をジロジロ見るばかりで鳴き声ひとつ上げない。こういう光景も不気味ではある。開始時刻まではあと十分ほど。

 図らずも同じような格好をしている二人の男女を見て、業平君が後ろから声をかける。

 「あれ? いつもと違うご両人。ペアルックてか?」

 「あ、業平さん... ですよね? この間の掃部先生みたい。ハハ」

 サングラスをかけてる点が先生と共通ってだけで、風貌は全然違うのだが、こう言われちゃ笑うしかない。いつもながら漂着ゴミが押せ押せになっているのだが、まだ全容は掴みきれていない。先の自由研究クリーンアップで大袋などは回収しておいたので、幾分減ったような気はするものの現実は現実。ただそれを真に受けて沈鬱になっていても仕方ない。そう、笑う門には何とやら、である。だが、蒼葉に言わせるとズバリ「C`est la vie」なんだそうな。そこまで達観しなくても良さそうだが、「そういうものなのよ」と屈託ない。

 水も汲んできたし、ひとまず見通しも立ったことなので、三人で干潟へソロリソロリ。そこへ小六の彼が駆け下りてきた。

 「お、六月選手、来たね。一人?」

 「へへ、自由研究の続き、と思って... あ、蒼葉さんだぁ」(萌えモード?)

 「元気してた? でも、夏休みなのに鉄道旅行しなくていいの?」

 少年はすっかりのぼせたようになってしまって、言葉が出ない。前回の威勢の良さは影を潜め、俯き加減。千歳は「まぁ、そういうもんだ」(これもセラヴィの発想?)と自分を見ているように傍観している。業平はちょっかいを出すのかと思いきや、「少年、どーした? お姉さん、コワイかい?」と来た。助け舟を出しているようなそうでないような。

 「あれ、もしかして、Mr. Go Heyさんですか?」

 サングラスを額にずらしていたので、写真で見た人物とやっと一致した模様。先刻はビビったが、今は内心「なぁんだ、あの三枚目さんか」となる。少し正気に戻ったようだ。

 「一応、自己紹介しますか」 千歳は蒼葉から画用紙を一枚失敬して、太目の鉛筆で名前を走らせていく。千歳→蒼葉→六月→業平の順だったが、蒼葉から六月というところがポイント。鉛筆を受け取る時もドギマギ状態の少年は、「じゅ、18きっぷの旅はお盆が終わってから、ですね」というのがやっとこさだった。「そっか、あの桑川女史の弟さんかぁ。今日はお姉さん来ないの?」と業平は何の気なく尋ねていたが、蒼葉はちょっと不服なご様子。「弥生ちゃん来ると、業平さんタジタジでしょ!」 今日の人間模様も目が離せない。

 十時半を回った。水位が下がるのに引きずられるように、干潟を這う水の流れが目に留まる。流れを辿ると何たることか、崖地から滲(にじ)み出す細い水脈に行き当たった。晴天続きながら時に激しい雨が降ることが多かった八月。グランドなどに浸み込んだ雨水が出口を求めて、この干潟に注ぎ出してきた、ということらしい。ちょっとした湧水が幾重もあり、支流の態を成している。支流はやがて本流へと束になり、本物の荒川へと注ぐ。その紋様、そのうねりは小細工ながら実に精巧で、「生き物としての川」というのを認識させてくれる。四人はしばし細流(せせらぎ)を追っていた。そして、千歳はデジカメ、蒼葉はケータイでその模型を撮ろうとした時、毎回恒例のサプライズは起こったのである。


 「あぁ、ここだここだ」

 「八(ba)クン、待ってぇ」

 蒼葉よりも小柄だが、背丈はそろって同じくらいの男女が現れた。男の方は千歳がよく知る人物。女性の方もどこかで見たような見ないような...

 「隅田さん、やっと見つけましたよ。どうして教えてくれなかったんスか?」

 「手当出ないし、日曜くらいはゆっくり休んでもらおうかな、って」

 八クンと呼ばれていた彼、そう、あの宝木八広君である。いわゆる就職難の煽りで、正規の就職が叶わず、職業を聞かれれば今はフリーターと答えるしかない二十代中盤のこの青年。幸い、その多彩な職業経験が買われ、遍歴なんかを手記にしつつ、千歳が関わる市民メディアの小会社で編集の手伝いなどをしている。最近は千歳の記事のサポートに回ることが多く、独特のフットワークを活かして、自転車で走り回ったり、おなじみのセンターに顔を出したり、という日々。短髪、眼鏡、無精ヒゲ、が特徴である。そんな八広君の傍にいる時はデレデレ観のある彼女の方は、四人と顔を合わせるや否や、心なしか無愛想な相貌に。ここにやって来た面々の中では初めてとも言えるツンツン系キャラである。タンクトップにフリルブラウス、長めのティアードスカート、そして鋲入りのサンダル。これまでの女性達と違い、首、腕、腰などにチャラチャラと装飾品が多めなのがまた異色。弥生も初音もネイルアートは少しばかりしていたが、このお方は足の方もしっかりアートしていて、要するにちょっと突飛な印象な訳である。

 「こちら、奥宮舞恵(おくみや・まえ)さん。一応、彼女です」

 「一応って何よぉ。あ、皆さんヨロシク...」

 異色キャラにどう対処していいか、戸惑う三人+少年。接客係の櫻がいない分、負担が大きい。だが、千歳つながりではあるし、最地元でもあるので、

 「じゃ、受付名簿にお名前をどうぞ。名前が書いてあるのが今ここにいる四人です」

 と千歳が仕切り役を買って出て、場の空気を作る。新たに登場した強面(こわおもて)のお姉さんに面食らった六月だったが、彼氏の方には親近感を持ったようで、

 「宝木さんて、下の名前は何て読むんですか? 京成線のやひろと同じ?」

 「やつひろ、ってんだ。でも、八広なんてよく知ってんね」

 「この間、花火大会の時に久しぶりに乗って荒川を渡ったら、水際とかゴミだらけでした。ちなみに昔は八広駅じゃなくて『荒川』駅だったんですよ」

 てな感じで臆せずやっている。顔と名前を一致させる時、こんなエピソードを交えてだったら、よりしっかり覚えられるというもの。それにしても、八広が荒川だったとはねぇ。

 「何かおめでたい名前ですね。お宝に八で末広がり...」 蒼葉としては初対面かも知れないが、

 「あの、蒼葉さんて、六月五日、センターにいらっしゃいましたよね?」

 「え、あの日いらしてたんですか。こりゃ失礼しました」

 背丈の都合で、八広は蒼葉をちょっと見上げる感じになるが、その目線はどこかデレとしていて、正の彼女はそれをすかさず察知すると、

 「こら、八!」と、ハチ公呼ばわりで小突いたりしている。ま、仲のいい証拠だろう。


 「でも、この日この場所ての、何でわかったん?」

 「センターのページ見てたら、何やら『届けたい・・・』て新コーナーが出てて、その中をさらに見たら『漂着モノログ』のリンクが張ってあって... その掃部さんの講座に行って干潟の話聞いてたんで、ヒマを見つけては場所を探してたんスよ。で、モノログの写真見てピンと来て、あと今日十時半から、て載ってたから。それにしても、ヨシだか何だかが背高なもんだから、行き着くのに苦労しましたよ」

 「いつもの自転車じゃなかったんだ」

 「ルフロンと一緒にバスで」

 櫻のブログが動き出したのはわかっていたが、まさかセンターのホームページから辿れるようになっていたとは! 本人がそこまでやるとは思えないから、おそらくはお節介なあの女性(ひと)の仕業だろう。二人のやりとりが目に浮かぶようで、ニヤリとする千歳だったが、今日はあいにくそのブロガーご本人は不在。本当のところはわからない。

 「『届けたい・・・咲く・ラヴ・log』とか出てましたけど、あれってどなたのブログなんスか?」 レポートをまとめるのも相応レベルだが、それ以上に、コピーライティングのセンスを自負する八広としては、その秀逸なタイトルがまず印象深かったようだ。

 「ま、そのうちわかるよ。今日も本当は来るはずだったんだけどね」

 それにしても「咲く、ラヴ」って櫻さん、どうしちゃったんだろう?と不可解に思う千歳であった。開設したての時は出てなかったから、ここ数日の間に書き加えた、ということか。今日のお休みと何か関係があるのかどうなのか...

 お互いの紹介が済んだようなそうでないようなハッキリしないままだったが、画用紙に書いた名前はそれぞれ認識できたようなので、今は思い思いにバラつき気味。クリーンアップ開始前のウォーミングアップといったところか。少年はサングラスの三十男を連れて、前回の自由研究時の様子などを解説している。

 「銘柄調査とはよく考えたね」

 「でも、ラベルが剥がれてたりでメーカーがハッキリしないのも多くてさ。バーコードのところは結構無事なんだけど」

 「バーコードかぁ。ウーン」

 とまた何かを思いついそうな業平君である。この二人、どこか似ている気もする。

 蒼葉は鉛筆を片手に構図を練っているような素振り。三人とは付かず離れずの位置にいる。不意に八広のケータイが着信音とともに振動する。ドラムソロの着メロってのも珍しい。が、千歳には一本のストラップの方に気が向いた。確か某銀行のでは?

 「あのストラップ、銀行で配っている一品ですよね」

 「えぇ、私から彼に」

 これで千歳の疑問は解けた。同時にルフロンさんも何かを思い出したような顔つきになった。

 「隅田千歳さんでしたね?」

 「えぇ、三月に窓口で。いろいろいただいて、ありがとうございました」

 「あぁ、やっぱりあの時の...」

 窓口の時と同様、無愛想だった彼女だったが、これで少し表情が出てきた。世間は狭いというか、妙味で満ちているというか、とにかく仰天である。つい粗品についての礼を述べてしまったが、この行員さんにはもっと違った意味で御礼を言わなきゃいけないところだろう。櫻が今ここにいたら、サプライズを喜びそうな予感はあるが、話がややこしくなる可能性もある。今日不在なのは何かの思し召しということか。


 「間違い電話だった。人騒がせな」 その場を外していた八広が戻って来た。思いがけず舞恵が薄笑いしているので、珍しいこともあるもんだと訝ってみる。

 「そうそう、奥宮さんて何でルフロンなんですか?」

 「名前が『まえ』なんで...」

 「隅田さん、フランス語でね...」と八広が割って入ると、そこへフランス在住歴のある絵描きさんがさらに首を突っ込んで、画用紙にサラサラと綴り出す。

 「le front...男性名詞なんでle これでルフロン、ね?」

 楚々清々とした蒼葉に対し、その装飾品の様から錚々(そうそう)とした感じの舞恵。対照的な二人だが、実は同い年。にこやかに問いかけたものの、所作が気に入らなかったらしく、

 「東海道線の某駅の前にあるのと同じ」と軽く交わし、また無表情に。

 「ま、宝木君は別として、ここでは奥宮さんでいいですよね」 千歳は冷や汗。あぁ櫻さんがいてくれたら。


 何だかんだで十時四十五分になった。コーディネートというのは憚られるも、プロセス管理と言い換えれば、千歳の得意とするところ。要は流れというか段取りを組み立てて、その進行を円滑にすればいい、ということである。

 「では、皆さんそろったところで分担を決めましょう。六月君は自由研究の続きを兼ねて、飲料容器とフタ専門でいいかな。あとは男女一班で上流側と下流側ってことでお願いします。足りない道具はないですか?」

 軍手と袋の予備を新参のお二人に渡しつつ、

 「宝木氏、こういうの初めて?」

 「街頭ではやったことありますけど、川とか海は初めてス」

 「ぬかるみと波と、あと釣り針が落ちてることあるから、そういうのに気を付ければ大丈夫。奥宮さんもムリしないでね」 サンダルがちと気になる千歳。

 「あ、ハイ」 同じく足元を見遣る舞恵。彼女の立ち位置はさっきまで水が浸かっていた。そのまま佇んでいると、段々と凹んできたりする。その感触を楽しんでいるようだ。まぁいいか。

 千歳は初参加の二人を何となくフォローしつつ、記録係に徹することにした。いつものバッグは肩に担いだまま移動する。少年は、憧れのお姉さんとご一緒したかったが、干潟の奥に溜まっている各種容器に目を奪われ足が止まる。パッと見たところ、フタはあまり転がっていない感じだったが、前回のさばっていた巨大な草がなぎ倒されていて、あらゆる漂着物に手が届きやすくなっている。ここは小回りが利く男子の出番である。早々とポイポイやり始めた。千歳は現場の証拠写真を押さえる。


 期せずして同じ組になった蒼葉と業平。気乗りしている時は二人とも饒舌な口だが、なぜか今は黙々と除去作業に集中している。下流側は、まだ水位があって積石の方までは足が伸ばせない。カニの巣穴を覆っている大きめの袋ゴミを除けたり、埋没している腐食缶を引っこ抜いたり、淡々とこなしている。石の隙間が露出してきたのを見計らって、業平はさらに先へ。漂着物に対する嗅覚とでも言おうか、その勘は大したもの。早速、異物を発見した。

 「蒼葉さーん、これ見て」

 あわてて出てきたため、日焼け止め対策が十分でなかったモデルさんは、ヨシ群生の日影でゆっくり作業していたかったが、ちょっと気になるお兄さんにこう呼びかけられては行かない訳にはいかない。

 「え? 燈籠、ですか?」

 台座の方はすでに溶けかけていたが、蝋燭を囲む紙の筒はまだふやけている程度で、それが紙製の灯篭であることはひと目でわかる。蝋燭は溶けきったのか、それとも台座の一部とともに流れてしまったか?

 「荒川でも灯篭流しするんですね。流れきれずに漂着して、こうして原形をとどめてる、って。これは灯篭として本意なのかどうなのか」

 記録係がノソノソやって来た。「あ、紙燈籠?」

 「千ちゃん、これ知ってんの?」

 「今は灯篭流しって、すぐに回収するように指導されてんだってね。無粋かも知れないけど、できるだけ人目につかないところでボート出して網とかで掬うんだと。でも、これ見ると必ずしも掬いきれてない、ってことだね。ハハ」

 「救われない? フフ」 姉と同じような反応をする妹君。すかさず「そのまま溶かしちゃうと川が汚れるとか? CODでしたっけ」

 「へぇ、お二人ともよくご存じで」 業平は感心するばかり。

 「矢ノ倉さんに前に聞いたことがあって。でも、これ本当に溶けきるんでしょうかね?」

 「持って帰って、いずれ先生に聞いてみますか」

 当の掃部先生は、正にその灯篭の件で真相を確認中。ここより上流の某所で平和を祈念する音楽会と併催で灯篭流し行事が行われたはいいが、その回収が十分でなかった、というのを先生独自の地域ニュース網で聞きつけ、現物を捜し回っていたのである。彼等がいる干潟まではまだ到着しそうにない。

 「そうか、掃部先生も今日はいらっしゃいませんねぇ。来れば話早いのに」

 「K.K.」イニシャルの絵筆を手に、蒼葉は溜息。千歳は漂着時の様子を克明にデジカメに収め、それが終わると発泡水を呑み出した。業平はさらに下流側へ向かっている。

 「水、私にも」 それなら、とマイカップを渡そうとするが、すでに口をつけて飲んでいる。姉の上を行く小悪魔蒼葉。肘袖の白Tシャツにクロプトのデニム。すでに結構日灼けしていて、夏女風である。この大胆な感じは姉とはちょっと違う。フランス帰りゆえ、なのか。

 七夕の時はサラサラ程度で済んでいたが、今はザワザワする感じ。心理面もそうだが、実際にヨシ群が熱風を受けて音を立てているんだから仕方ない。まんまと効果音に躍らされてしまった。しかしこの風、何と表現したらいいのか、暑苦しいという以上にちょっとした不気味さを含んでいる。午前十一時。まだ遠方だが、入道雲が出てきた。着実に高さを増している。


 六月もヨシのザワザワを嫌って、下流ではなく上流側に歩を進める。水嵩の脅威はこの日も感じられ、崖地途中から生えるヨシには、根元ではなく中腹くらいにゴミが絡んでいる。少年の目線からはちょっと上に当たるが、その絡んだ一塊の中に何かの魚の白骨骨格が飛び込んできた。「わぁ!」

 容器包装系ゴミをガサガサやっていた無愛想姉さんは、集めた袋を彼氏に預けると、六月のもとに近寄ってきた。彼にとっては二重の恐怖か?

 「どったの、眼鏡君?」 六月は無言で指さす。さすがのルフロンも目が点。

 「八クン! HELP」

 デレデレならぬベタベタで彼氏にくっついている。ここのヨシ集落も三人を嘲笑(あざわら)うようにサワサワ、いやセラセラか。

 「モノログで見た通り。いろんなもんがあるんねぇ」 年長の方の眼鏡君はケロっとしている。こわばった顔をしていたルフロンさんだったが、少年に悟られないように表情を戻す。そのヨシの根元には百円ライターが一つ。まだ使えそうな一品である。

 「あ、ルフロン、ダメだよぅ」

 チャラチャラな上にスモーカーな舞恵嬢は、トートバッグの脇から舶来タバコを取り出すと、その漂着ライターを点火。見事、着火させ一服やり出した。

 「火が点かなかったら吸わなかったワ」 これでサングラスでもかけさせたら、チョイ悪姉さんてとこか。「暴発しなかったからよかったものの...」 彼氏は気が気でない。

 咥(くわ)えタバコの姉さんは、大風のせいで無残な姿になって棄てられてしまった傘の柄を拾い上げると、六月がポイポイ放り出して集まった空き缶の類をカンカン叩き始めた。泥砂の入り具合で音程が変わることがわかると、振ってみたり、並び替えてみたり、試行錯誤している。程なくカウベルのような響きを持った音階ができ、ちょっとした演奏が始まった。

 「へへん、眼鏡君、どうよ?」

 蒼葉に対しては「萌えー」な六月君だが、舞恵さんに対してはどうだろう。(まえー、じゃ芸が無いし) タバコの煙を見ていると正に「燃えー」な訳だが、何とも名状し難い。そのリズム感、テンポの良さには、鉄道の疾走感に通じるものが感じられ、ただ心地良い、そんなところだった。が、この時、同じ憧憬でもまた違った感情があることを知ったのは確か。小学生最後の夏休み。多感な少年はこうして大きくなっていくのである。

 タバコはさっきの紋様模型(消火用の湧き水ではないのだが)のところでもみ消され、付き人が差し出したケータイ灰皿で処理された。忠実な彼が時に「ハチ」と言われる所以である。

 

【参考情報】 湧水は干潟を通り川へ / 荒川駅 / 水溶性紙燈籠


八月病

19. 八月病


 千歳マネージャーはタイムキープに関してはあまり得意ではないらしく、ダラダラと撮影記録を続けている。もともとスローな彼だが、折からの暑さがダラダラを助長しているようだ。発泡水に手が行くも、フタを開けようとすると手が止まる、その繰り返し。こういう状態をアタフタとはよく言ったものである。「フタ... あら、結構出てきた?」 六月の自由研究の見通しが明るそうなのが救いである。

 十一時十五分。ようやく号令がかかり、各班が集めたゴミの品評&計数が始まる。研究員がいないので詳しいことは言えないが、ヨシ束をバサバサやる要領だけは心得ている千歳。微細ゴミは別枠だが、ひとまずバケツに漬けてみる。思わずプカプカ出てきたので焦る焦る。「ハハハ。この手のプラスチック片は後で数えますね」 再び冷や汗の千歳君。

 この手の束をはじめ、細かい漂着物が干潟の奥で鬩(せめ)いでいた訳だが、これは例の不詳背高草が倒れていたおかげ。大きくなり過ぎて、身が持たず倒伏してしまったとすると、実に自虐的。だが、倒れてなお、防波・防潮に身を捧げたとするなら、ご立派の一言に尽きる。

 「この前はこんなに大きくなかったよね。千さん?」 少年にまで千さん呼ばわりされてしまった。だが、悪い気はしない。「千さんてか、じゃ君は六さんだね」 もう一人、名前に数字がつく人物がいるが、後回し。だが、その八さんは「この流木もインパクトありますね。防波堤みたいだ」と口を挟んできた。確かに背高草と連係するように身を固定し、発泡スチロール片やらミニ納豆の容器やら、水位が増せばあっさり流れ出てしまいそうなゴミ達を巧みにブロックしている。防流堤とでも名付けて敬意を表するとするか。

 そんな流出を免れたプラスチック類を再分類しながら、品目別に各自カウントを開始。職業柄なのかどうかはいざ知らず、ルフロンは目算、いや目計算が速かった。カウンタ要らず、である。そんなこんなで少人数ではあったが、それに見合うような集計結果がまとまった。とりあえず画用紙にメモする。

 ワースト1:プラスチックの袋・破片/三十六、ワースト2:食品の包装・容器類/三十一、ワースト3:フタ・キャップ/二十三、ワースト4:飲料用プラボトル(ペットボトル)/二十一、ワースト5:袋類・袋片(農業用以外)/十九といった具合。七月一日には多々見つかった硬質プラスチック破片と紙パック飲料が数個程度に激減したのには千歳も業平もビックリだった。いったい何が原因なんだろう? 代わりと言っては何だが、今回は新たにガラス片や陶器片が二つ三つ見つかった。漂着物の変化に何らかの因果関係があるのかどうなのか、これは中長期で統計をとればわかること? ムムム。臨時リーダーは思いを新たにするのだが、それも束の間、頭が重いネタがあったことを思い出した。微細プラスチック(レジンペレットなど)である。これをしっかり数えると、おそらくワースト1になるところだが、今はひとまず置いといて、数え終わった分をデータ送信するとしよう。しかし次なる試練が。「あ、ケータイ画面、どうしよ」 櫻、南実、弥生... 三人の存在の大きさを痛感する千歳であった。

 「はいはい、千さん。私、やりますよ」 どうやら操作をマスターしたらしい蒼葉が手を挙げてくれた。設計者の業平は傍で同じように操作して再確認している。八広も業平とあぁだこうだやりながらカチカチやっていたが、「あれ? バッテリ切れ?」 振動着信とか間違い電話がいけなかったようで、中断せざるを得なくなってしまった。ガックリ。

 「ま、八クン、いつもあんな調子なので、ケータイで連絡とるの止めました。ついでにケータイそのものもいっか、て感じで」 ここにもケータイやめた?派がいた。意外な感じもするが、「メール打てば、すぐ返事くれるし、すぐ駆けつけてくれるし、フフ」 巷に聞くツンデレさんとはこういう人のことを言うのか、と千歳は妙なところに感心する。

 蒼葉はうっかり保留機能を使わず、主だった品目の数を入れたところで送信してしまった。

 「アハハ。じゃ続きは業平さん、お願い」

 「蒼葉さん、干潟二周」

 「ハーイ」

 本当に干潟を回り出したから、五人は唖然。少年はここぞとばかりに付いていく。

 生活雑貨の詳細をまだ打っていなかった。極太マジックペン、キーホルダー、舞恵が手にしていた傘の柄とその他のパーツ、そのあたりはまだわかる。だが、歯ブラシ、ワンパックの使い切り洗剤、電気シェーバー、さらには使い捨てコンタクトレンズの容器、なんてのまで出てきたもんだから、「こりゃ社会の縮図だわ。金融業としても何か考えないと」と企業人らしい一面を大いに触発することになる。業平は、その他品目の入力に移っている。この際だから、具体的な名前を打ち込もうということらしく、「ねりからし」とか「玉ネギ」とか親指で器用にやっているから可笑しい。「それにしても、そういう食べ物関係が見つかるってことは、やっぱり...」 橋よりも上流側にバーベキューができる公園があることを最近突き止めた千歳は、次の一手を画策し出した。ゴールをどう設定するかは模索中だが、プロセスマネジメントを応用しつつあるのは明らか。単なるゴミ拾いで終わらせないための何かが動き始めている。


 雑貨の数々からずっと撮影を続けていた千歳だったが、恒例のスクープ写真の段になると、目の色が変わった。鉄筋あり、砂利袋あり、工事でもする気か!とツッコミを入れたくなる品々が出てきたのである。気合十分のカメラマンに対し、肩の力を抜けとばかりに少年が近寄ってきた。「千さん、これも」 見れば美少女キャラのフィギュアである。この間のモビルスーツといい、どうしてこんな... 肩の力どころか腰砕けになってしまった千さんであった。

 「可燃じゃないし、不燃てのもね。どっちにしてもゴミにするにはしのびないねぇ」

 「へへ、これはね『萌えるゴミ』なのさ」 フィギュアを見ながら、一人で「萌えー」とか呟いている。これには一同大笑い。八広も大いに煥発されたらしく、コピーだか散文詩だか、ブツブツ唱え出した。「萌える春、燃える夏、季節もゴミも移り往く...」


 スクープ系の最たるものは「紙燈籠」だろう。だが、原形を保持するにはレジ袋ではちょっと心許(もと)ない。プラスチック製のカゴなどでも良さそうだが、網状なのでイマ一つ。そんな折り、ジェットスキーが通過し、その勢いで出来た断続的な中波がどこからか発泡スチロール製の箱状容器を運んで来た。偶然ではあるが、彼等にとってこれは必然。

 「上流の影に隠れてたのかな?」

 「要するにこれを使え、ってことだね」 傘の柄で手繰り寄せる。ちょうどいい大きさである。フタつき。中は空っぽ。これなら原状そのままに先生にお見せできそう。

 「前回は布団と枕がのさばってたんだけど、見なかった?」

 「誰かが再利用してるんじゃないスか?」

 それはさておき、七月の回で湾奥に追いやっていた木片が露わになっていて、無言の圧力をかけてくるのが気になる。業平と八広は、鉄筋を運んで来るや、先の防流堤を強化するように押し付け、さらに木片を杭状に打ち込み始めた。汗が光ってサマになっている。廃材を使った土木作業、こういう工法を環境配慮型と言いたい。

 そんな作業員を横目に、ルフロンがポツリ。

 「隅田さん、ここで千住さんのカード拾ったんスか?」

 「そうなんスよ。信じてもらえましたか」

 「いやぁ、これなら有り得ますね。今日はカバンも落ちてたし」

 拾得物として届けるのは気が引けるので、とりあえずそのままにしておいた通勤用と思しきカバンが実は見つかっていたのである。何かのトラブルに巻き込まれた果てだとしたら... 漂着物ではなく、遺失物。モノログ対象外なのだが、放置しておいていいものか。ちょっとした葛藤が生じる。

 「ところで、落とし主さんはどんな感じでした?」

 千歳は櫻のことをまるで知らない人のように聞く。釈然としない舞恵だったが、

 「あぁ、何か気優しそうな、でもちょっとドジっぽい方でしたねぇ。あと『拾われた方ってどんな感じでした?』って熱心に聞いてました」

 「え? そうだったんだ」

 「三十くらいの好人物でしたよ、ってお伝えしておきました。その後、千住さんから連絡あったんですよね?」

 「そうなんだ」ではなく「そうだったんだ」という千歳の言い回しから、ピンと来ていた行員は、

 「隅田さんたらヤダなぁ。千住さんとはもうお知り合いなんじゃないですかぁ?」

 つい本心というのが出てしまうものである。自分でネタ明かししてしまった以上、隠し通せる筈はない。結局、話は進んで、

 「ちなみに、その櫻さんの妹さんが蒼葉さん」

 「そうか彼女も千住さんだった」

 となる。

 二周どころか、その後も六月と楽しそうに何周もしている蒼葉嬢。そんなもう一人の千住さんを見つめる舞恵の表情からはいつしかツンツンはとれていた。余計なものを取り除いた干潟は、水の浄化然り、人の心のトゲや粗目も除去してくれるようである。


 収集数が少なかった割には、総じてスローペースだったため、すでに正午近くになっている。冗長ながら集計と記録を終え、袋詰めも済んだ。スーパー行きの品々はペットボトルが少数程度の見込み。あとはそれを洗いながらフタの調査をするばかり。レジンペレットの類が悩ましいが、取り急ぎバケツごと運び出す。ワイワイやりながら一斉に上陸する六人であった。干潟のヨシは心地良さげに風にそよいでいる。だが、この清々しい感じがかえって気味悪い。太陽が時々隠れるくらいに入道雲が肥大化してきた。西の雲は灰色の濃度を強くしている。今度は空模様が心配だ。

 そんな雲のことなどそっちのけ。新たに取り外した分を含め、ひととおり洗い終わったフタを両手いっぱいに持って来て広げて見せる六月。三十有数はある。ペットボトル付属のプラスチックフタは、天然果汁たっぷりのオレンジジュース、コーヒー飲料、乳酸菌飲料、スポーツドリンク、緑茶系などに加え、特定不能な無印のものがチラホラ。一方、ボトル缶付属の金属フタは、そば茶にスポーツドリンクに何かのアルコール飲料といった程度。メーカー名のみのものが多く、残念ながら銘柄の特定には至らなかった。いつ、どんな状況でポイ捨てされたのかは兎も角、少なからず河川敷利用者によって、こうした飲料が嗜好されている、ということはわかった。とりあえずノートに付けていく。あとは現物をそのまま提出すれば済む話ではあるが、

 「あ、証拠写真、撮ったっけ?」

 「大丈夫、ホラ」

 「ダイジョブ、グッジョブ!」

 千歳はこの大事な記録写真を弥生宛に送る旨、約束し、少年の肩を叩く。いい光景である。蒼葉は鉛筆をとり、そんな人物を描写すべく試みたが、どうにも空模様が気になっていけない。そんな女性画家を見て、八広は記憶を辿る。六月のある日曜日、正にこの辺りで見かけた女性、そして、モノログに載っていたあの印象深い漂着静物画...

 「蒼葉さんて、あの絵を描いた人スか? 隅田さんのモノログに出てた、その...」

 「あぁ、あの時は私、衝動に駆られてて。今見ると自分でもおどろおどろしくて」

 こんなにこやかな人があんな素描を、というのが俄かには信じ難い八広だった。内に秘める何か強烈なものがあるに相違ない、と察してみる。そして、今日受けた数々の刺戟を何らかの形で書き表したい、とやはり衝動を覚えるのであった。

 「あれは傑作ですよ。自分も何か載せてもらおっかな」

 八広はすっかりその気である。だが、千歳が彼にモノログや干潟のことを知らせなかったのは他でもない。筆の立つ八広のこと、きっといろいろ書いてよこすに違いない、それがわかっていたから、だったのである。漂着モノログのモノはあくまで「物」のつもりだが、千歳的には独りを意味する「mono」も兼ねていた。だが、こうなってくると、マルチログとかにした方がいいかも知れない。

 さて、フタの品評会の最中、業平は毎度の如く唸っていた。六月とちょっとした談議になったバーコードの一件が頭の中を駆け巡る。今日もこの後おじゃまする予定なので、再度チェックしようと思い立つ。そう、スーパー新鋭のバーコード一括読み取りレジのことである。問題は読み取った結果をどこに飛ばすか。「まずはPCにバーコードスキャナをくっつけるとこからやってみっか」 何ともマニアックな話ではあるが、銘柄調査がそれで叶うなら御の字か。

 ペットボトルも乾いたし、そろそろお腹も空いて来たし、「では皆さん、今日はこれにて解散します。ありがとうございました!」 終わりよければ何とやら。千歳にしては上出来だろう。業平は袋を担いでそそくさとRSB(リバーサイドバイク)に跨って走り去る。空が暗くなってきたので、急いだに越したことはない。アラウンド25のカップルは少年を連れて、干潟の方に戻って行く。舞恵のケータイ(今は撮影専用)で記念写真を撮ったりして、楽しそうにしている。が、しかし、

 「私ね、雨女なんだワ。早く帰らないとズブ濡れになっちゃうよ」

 「あ、本当だ。雨?」

 あわてて引き揚げる三人。方向は違えども、バスの停留所までは一緒である。自転車にゴミ袋を積む二人に軽く手を振りつつ走って行った。


 「六月君て、実のお姉さんより年上の人が好きみたいね。確かに変わり者だわ」

 解放されてホッとしていると見受けるも、淋しそうでもある。業平もとっとと帰っちゃうし...

 「今日は結局、櫻リーダー来ませんでしたね」

 「千さん、しっかり代役果たしてましたよ。姉さんがいなくても大丈夫でしょ?」

 「いや、櫻さんがいないと...」

 「フーン」

 徐行気味に走っていたが、徐々に雨脚が強くなってきたのでペダルを急ぐ。十二時半なのに早くも夕立とは! ゴミステーション行きは諦め、橋の下で雨宿りすることにした。

 「濡れちゃいましたね」

 「画用紙とか大丈夫ですか」

 白のTシャツがところどころ水気を含み、何とも艶(なまめ)かしい状態になっている。空が暗い上、場所が場所だけに暗め。ハッキリ見えない分、余計にドギマギする。一方の蒼葉は平然としたもので、せいぜい濡れた髪に手を当てる程度。やはり小悪魔である。

 「ねぇ千さん、櫻姉のこと、どう思います?」

 「どう、ってそりゃあ。クリーンアップ中は相棒だと思ってますけど」

 「相棒? それだけ?」

 「そうだ、蒼葉さんに言っておこうと思ってたんだ。桑川さんに二人はカップルだとか、言ったでしょ」

 「え、違うんですか? 当たらずも遠からず、でしょ」

 千歳にしてはハキハキやっている方だが、雨脚に呼応するように、さらに調子が強くなってきた。

 「そういう話は二人でゆっくり、と思ってたんだよ。周りがワイワイやり出すと櫻さんも迷惑だろうし」

 「そっか。千さんの前だと張り切っちゃうから知らないんだ。四月以降、何かボーっとしてること多いんですよ。見ていてわかるんです。ありゃ一目惚れに近いな、って」

 蒼葉も負けじと強めに応じる。姉のこととなると”C`est la vie”では済まないようだ。そのままピッチは上がり、姉君の近況などが次々と語られる。

 「以前の櫻姉なら、もっと熱を上げてると思います。失恋事件があって男性不信になっちゃって、億劫ていうか臆病になってるだけ」 とか、

 「でもね。千さんと会ってから、少しずつだけど元に戻って来たみたいなの。事件以降、パッタリ弾かなくなったピアノも弾き出したし... でも、もどかしくて」 だそうな。

 固唾を呑んでいた千歳だったが、水があるのを思い出し、発泡水をゴクリ。気が張っている彼だったが、水の方は気が抜けてる感じ。先のアタフタの一件はすっかり忘れている。

 「私、行けなかったからわからないけど、自由研究の日、何かあったんでしょ? 気疲れどうこうとか言ってたし。最初は夏風邪かと思ったけど、違った意味で熱中症とか。いや、恋わずらいかもね」

 「梅雨が明けてから、暑い日が続いたから、そのせいじゃ?」

 「千さん、鈍いのよ。姉さんの想い、少しは届いてるでしょ?」

 七夕のお誘いと当日の出来事、これまでの櫻の言動の数々...「咲く・ラヴ」の意味も何となくわかってきたような。だが、彼にも相応の事情がある。自分で背中は押せないのである。

 「このゴミを片付けたらお見舞いに伺う、ってんじゃダメでしょか?」

 彼としてはこれが精一杯。だが、その想いは妹には十分伝わった。

 「いや、そんな。泣き出しちゃうかも知れないから。アハハ」

 雨は小康状態になってきた。怨めしい雨ではあったが、おかげで思いがけない展開になってきた。クリーンアップに関しては課題解決型アプローチでプロセスが見えてきたところだが、それとはまた別のプロセスがここにあることに今更ながら気付く。よりデリケートで、機微・機転が求められる、そんなプロセス。

 「あ、そうそう、これまで眼鏡を外して見せたことあります?」

 「いえ、でもそれが何か?」

 「眼鏡っ娘、キライじゃないですよね... ふつつか者ですが、姉をよろしくお願いします」

 意味深ではあるが、事件とピアノと眼鏡といろいろリンクしているらしいことはわかった。それにしても、気疲れってのはいったい?

 「とにかくメールします。櫻さんによろしく!」

 「ハーイ」

 雨上がりの橋をスイスイと走っていく蒼葉。千歳も某少年同様、萌えー状態になりかけている。しばらく見送っていたが、手渡された燃える系のゴミ袋がやおらズシリと来て、目が覚める。「濡れた新聞紙、か」 これでも一応可燃である。全体量は少なかったので、四十五リットル袋二つに収まったが、ぎっしりと詰め込んである不燃ゴミに対し、可燃ゴミはその半分程と差がついた。プラスチックの容器類を不燃でなく再資源化扱いにして、隣市で処理してもらうことを思いついたのはこの時である。あとは燈籠を入れたスチロール箱、プラスチック粒を入れたレジ袋。一人で何とか持って行けそうだ。猛暑日一歩手前まで気温は上昇。雨で少し冷めたとは言え、なお三十度は超えている。荒川は雨で増水したせいもあるが、相変わらず勢いがいい。だが、温水(ぬるみず)と漂流ゴミを押し流すのは大仕事である。

 そんな流れを見ながら、一人黙考する千歳。気疲れで思い当たるのは、過剰適応と眩暈(めまい)の話...「櫻さん、まさかクリーンアップも気付かないうちに頑張り過ぎて、それで?」

 コーディネートというかリーダー役を今回やってみて、その大変さを実感した千歳は、恋わずらいというのは割り引くとして、彼女に何らかの負荷がかかっていたことを認識するに至った。こうなると居ても立ってもいられない。善は、いや「千は急げ!」である。


 今日は初音が不在ということもあるが、カフェめしはもとより、とにかく昼食そっちのけでPCに向かう。モノログにレポートを載せてからメールしてもいいのだが、お見舞いの一筆を送らないことにはどうにも落ち着かない。奥宮さんとのやりとりについては伏せておこう。出だしは、暑中お見舞いの一節、そして蒼葉から話は聞いたこと、今日は僭越ながらリーダー役を務めたが、その大変さがわかったこと、「これまで櫻さんに甘えてしまっていたようで」斯々(かくかく)、「もしかして、ご無理がたたっておつかれに」然々(しかじか)、ここまで一気にしたためて、ふと思いつく。参加or不参加とか、段取りとか、皆で連絡をとりやすくすればあれこれ気を回さなくても済むようになるんじゃ... 本文の結びは、「メーリングリストを作ろうと思うんですけど、どうでしょう?」 いよいよ末尾に来た。ひと想いに綴る。「p.s. 八月十九日は、旧七夕だそうです。櫻さん、当日のご予定は? 織姫様にお目にかかりたい彦星より」 なかなか小洒落た想いの託し方である。手書きじゃないのが惜しいが、「届けたい・・・」その一心が大事。彼女にきっと届くだろう。


 「櫻姉、ただいまぁ」

 まだ髪が潤っている妹を見て「どしたの、川にでも落ちた?」と寝ぼけたようなことを姉は云う。

 「短時間大雨に遭っちゃって。こっちも降ったんでしょう? そうそう、千さんにはちゃんと申し伝えましたから、ご安心を」

 「あぁ、ありがと」

 一人分の即席カフェめしをつつきながら、気のないお返事。ふと思い出したように、

 「今日の面々は?」

 「はい、この通り」

 蒼葉は画用紙を差し出す。

 「この奥宮さんて?」

 「宝木さんの彼女ですって。馴れ初めとかは聞かなかったけど」

 講座の受付で記名した時のことをハッキリ覚えていたので、宝木の方はすぐに思い出した。「奥宮」というのも思い当たるフシがあるようで、

 「気難しそうだけど、テキパキした感じ、とか?」

 「さぁ。千さんとはいろいろ話してたみたい」

 手強いあの人が今日は来なかったことがわかり、「なぁんだ」と気抜けしていた櫻だったが、今度はその一節が引っかかって憂い顔。

 「ま、早くメールチェックした方がいいと思うよ」

 「え、メール?」

 箸を置くや否や、自室に駆け込む姉君。十四時前、ちょうど千歳が送信を終えたところ。以心伝心、グッドタイミングである。

 「千歳、さん... うぅ」

 夏真っ盛りなのだが、暦の上ではあと三日で立秋。櫻の心には早くも感傷的な風が吹いていた。メーリングリスト、旧七夕... どう返事をしたものか。物思う夏、心昂(たか)ぶる夏、蝉が囃し立てるように鳴いている。


 八月の定期モノログはまだ着手できていない。次は弥生宛に自由研究ネタの画像を送りつつ一筆打つ。勿論メーリングリストの提案も添える。例のカウント画面からのデータ送信先はその後テストを繰り返し、今は千歳、櫻、弥生、業平の四人にしてあるが、メーリングリストを設定した暁には、データ送信先をメーリングリスト宛にしようという一計が浮かんでいた千歳は、その辺について開発者にお伺いを立てることを忘れなかった。

 さて、今日のデータは二回に分けてではあったが、蒼葉のケータイから確かに届いていた。いつもなら、このデータを確認した上でモノログの更新作業に入るところだが、今日は先送り。今度はメーリングリスト参加可否のメールの準備に勤しんでいる。お互いの連絡を円滑に、そして何より、自由研究の日のように不意の参加者の登場で櫻を困惑させないためにも、メーリングリストの開設が急がれる。こういうことに関しては器用な彼は、テンプレートで共通の文面をさっさと作ると、そこに個別に表示したい項目(本文冒頭の宛名表示、メーリングリスト登録予定アドレス、通信欄の三箇所)が自動挿入される機能を使って、BCCで同報メール(ちなみに標題は暑中見舞い)を送るのであった。受取人は恰も自分宛に届いたような形になるのがポイント。DMと同じである。送り先は、女性三人に男性二人。少人数なので、別にこんな凝った送り方をしなくても良さそうではあったが、発信時刻に時間差が生じると、特に先輩後輩のお二人さんが「私の方が先だった」とか思わぬ情報交換をする気がしたので、安全策を取ったという訳である。気を遣うのはマネージャーも同じ。気疲れしなければいいのだが。

 もう一人の女性のもとにはケータイメールが入る。「わぁ、千さんからだ」 今日は言い過ぎちゃったかな、と些か恐縮しつつ、メッセージを読む。文末には「メーリングリストの件は、まずはお姉さんに確認中です」とある。「そっか、ちゃんとメールしてくれたんだ。それにしても櫻姉、部屋にこもったきり出て来ないけど、大丈夫かな?」

 蝉は少々トーンを落とし、短くなってきた日脚を惜しむような鳴き方をしている。その声に応じるように溜息をつきながら、櫻はご自分のブログとにらめっこしていた。複合商業施設のレポートを皮切りに、自由研究デーの出来事、地域事情マッピングの可能性など、編集すれば情報誌になりそうなネタの他に、最近は日記風によしなし事を綴ることが増えていた。ブログとしては真っ当な話なのだが、書き綴ることで余計に想念が深まる、ということもあるようで、「橋から干潟を眺めていると、最初に訪れた日のことが鮮やかによみがえってきます」とか「クリーンアップの発起人さんには何かとお世話になってます」とか、誰かさんが見たら心動かされそうなことがすでに書いてあったりして、日に日にブログのサブタイトル通りの展開になっている。メールはもらったものの、お目にかからなかった分、想いは募る。この心理状態で返信すると、突拍子もないことになりそうなので、グッとブレーキをかけて、後日お返事することに決めた。まずはブログで心を鎮めよう、ということらしい。


 かくして「八月病」と題した短文が「咲くラヴ~」に掲載されるに至った。千歳はまだここ最近の櫻ブログは目にしていない。八広からの話を聞いて、見ずにはいられないというのが正直なところなのだが、怖いという気持ちも半分あった。「届けたい」櫻の想いとは裏腹に、まだ届いていない想いがブログには散らばっている。せっかく咲いても、それが人目に入らないうちに散ってしまっては儚いというもの...

 モノログからもリンクを張れば、古い言い方だが「相互リンク」になる。大して手間がかかる作業ではないのだが、どうやら先になりそうである。

 

【参考情報】 2007.8.7の漂着ゴミ


想い重なる立秋の週

八月の巻(おまけ)

20. 想い重なる立秋の週


――― 八月六日 ―――


 送られてきたプラスチック粒の画像を眺めつつ、珍しく浮かない顔をしている女性がいる。立秋の前日にはとうとう二十代最後の年令になる、というのが一因だが、誕生日にまた一人、というのがどうにも居たたまれず、今ひとつ元気がない。「出張パスってでも、行くんだったなぁ」 粒々を数えながら、ブツブツやっている。この際、メーリングリスト参加OKの返信と合わせて、直球をぶつけてみるか、と南実は思いを巡らすのであった。休み時間、職場からパタパタと返信する。その中にはこんな一文が紛れていた。「粒々の現物を引き取らせてください。八月七日、あの商業施設の近くに行く用事があります。夜って空いてますか?」

 千歳が大いにあわてたのは想像に難くない。この時点では櫻からの返事はまだ。当然のことながら、最新の櫻ブログも未見である。「まぁ、これをお渡しするだけなら...」 洗って乾燥させた粒やら小片を使用済み封筒に入れ直してサラサラ振っている。何ともお気楽な千さんであった。


――― 八月七日 ―――


 さすがに電動アシスト車を走らせる訳にも行かず、電車とバスを乗り継いでの参上である。何とか約束の十八時に間に合った。七夕からちょうど一カ月が経った今、その七夕飾りはとうになく、イベント広場は閑散としていた。そこに、リボンの付いたプルオーバーと長めのタイトスカートの女性が一人、落ち着かない様子で立っている。勝負服ともとれるが、あくまで通勤着の南実嬢なのであった。買い物客とはちょっと異なる装いなので、目立つことこの上ない。千歳はすぐに気付いたが、少々遅刻してしまった上、気後れも手伝って、遠巻きにしている。南実が時計を気にしているようなので、仕方なくトボトボとやって来て、自分で「スミマ千」と切り出す始末である。ヤレヤレ。

 強肩の南実は直球に加え、速球も投げてくる。軽く会釈するや否や、開口一番、「隅田さん、この店、どうですか? 私、おごりますから」と来た。広場に面したシーフードレストランが客を待ち受けている。「こんなはずじゃ...」 千歳は不承不承ではあったが、「ま、封筒だけ渡してお別れ、というのも無粋だし」と思い直したりして、とにかく葛藤を抱えたまま、席に着くことになった。

 どう注文したのかはよく覚えていない。ただ、シーフードというだけあって、貝柱やら小粒なイクラやら細かく切ったイカやらが入ったパスタが首尾よく出てきた。今日持って来たプラスチックの粒々と重なって見えてくるから困ったものである。ご丁寧にシソを刻んだのが盛ってあって、今度は人工芝の切片の如く映る。生き物が誤食してしまう、というのが妙にリアルに実感され、言葉を失う千歳。一方の南実はただ嬉々として、フォークをクルクル回しては、桜エビなんかを散らした和風パスタを頬張っている。何を話すでもなかったのだが、粒々の話が高じて、漂着ゴミを巡る最近の社会的な動き、人が立ち入れない場所(特に離島)でのゴミの惨状、さらには海洋法や関連法規の話題に至るまで、いつしか南実の独演場となっていた。インタビュアーに徹していた千歳は心得たもので、この調子のままお開きになればそれはそれで、と踏んでいた。だが、ふと我に返る。外出直帰とは言え、南実がわざわざここに来て、こうした席を設けたからには何かあるのでは?と今更ながら感知したのである。南実は「講義しに来たんじゃないのにぃ」と同じく我を取り戻すと、化粧直しのためか、あわてて席を外した。テーブルには、当の商業施設系列の通販カタログが置かれている。待合せの間に手にしていたのだろうが、降って沸いたような一冊である。千歳は興味本位でパラパラと繰っていたが、晩夏ファッションの特集ページで手が止まった。「蒼葉さん?!」 一昨日は不覚にも萌えモードになっていたが、今はちょっと違う。その見事な着こなしに目を奪われつつも、何かを訴えるような視線の方に釘付けになっていたのである。「そうだ、櫻さんと会う約束...」 ファッションモデルの訴求力というのはただならぬものがある。

 唇には淡い紅色。それだけでも、掃部(かもん)先生と一戦を交えたあのお嬢さんとは思えない変身ぶりである。南実が静々と戻って来た。着席すると咳払い一つ。お互い緊張が走る。

 「あの、前からお聞きしたかったんですけど、千住さんとはおつきあいされてるんですか?」

 「櫻さんはどう思っているかわかりませんけど、僕はそのつもりです」

 「そうなんだ...」

 通販カタログのモデルさんが彼を後押ししたのかは定かでないが、心の準備ができていたこともあって、自分でも驚くほどキッパリと言ってのけた千歳。ストレートをあっさり打ち返したような応答である。だが、手強さで定評のある南実はこれで引き下がったりはしない。

 「ま、いいや。また干潟には顔出しますから。それとメーリングリスト、早く作ってくださいね」


 こじつけのようだが、八月七日は「花の日」だとか。スーパーはまだ開いているが、専門店街にあるフラワーショップはそろそろ閉店時刻。前を通りがかると、その記念日にちなんでか、綺麗な赤い花のミニポットが特売扱いで残っていて、客の足を止める。

 「あ、サルビア」

 「今日ご馳走になっちゃったんで、ささやかですが、これでお返しさせてもらえますか?」

 「それはお礼? それともお詫び、ですか?」

 「え、いや...」

 「どっちにしても、ありがとうございます。この花は私にとって特別なんで」

 祝ってもらう立場でありながら自分で食事代を払うは、胸ときめく言葉どころかプチ失恋のような台詞を聞く羽目になるは... 誕生日にしては冴えない展開ではあったが、宵を一人で過ごさずに済んだこと、そして思いがけず誕生花をプレゼントしてもらえたこと、この二つは大きかった。誕生日であることを申告すればまた違うストーリーになったかも知れないが、今日のところはこれでよしとしなければ。受け取った封筒の方はもともと口実のようなもの。下手するとその粒々が誕生日プレゼントになってしまうところを回避できたのだから万々歳である。期せずして千歳は、また違う場面でポイントを稼ぐことになった。が、それが面映かったか、「じゃ、僕はここで買い物してから帰るんで」といつものマイバッグを手に、そそくさと去って行く。南実は薄笑いを浮かべると一言、「今は隅田さんの片思いってことじゃん」 まだチャンスはなくはない。それがわかると何となく火が付く南実嬢であった。サルビアの花言葉、それは「燃える想い」である。


――― 八月八日 ―――


 静かな想いを温めつつ、されどなかなか返事もできず、逡巡するうちに立秋を迎えてしまった。今日からは残暑見舞いに切り替わる。情報誌の編集を進めている櫻だが、ネタがちゃんとある割には、普段よりもペースが遅い。まだ八月病が癒えないのか、否、八月十九日のことで頭がいっぱいなのである。今日も猛暑日になりそうな予感。チーフは見かねて「櫻さん、大丈夫? 暑さのせい?」と声をかける。

 「あ、すみません。打ち水のこと書いてたら、かえってボーッとしちゃって」

 「打ち水が必要なのは櫻さんね。かけたげよっか?」

 「私よりも、野菜畑の方を心配してあげてくださいよ」

 「ハハ、こりゃ失敬」

 蛇足ながら、八月八日はハゼの日だったりするが、ズバリ「ハハ」なので笑いの日でもあるそうな。そんなちょっと笑える昼下がり、インターン生が現れ、さらなる笑いを誘う。

 「こんにちはぁ。もう溶けそう...」 いつもはチャキチャキしている弥生が言葉の通りフニャフニャになっている。スタッフ二名は笑いをこらえながら、声をそろえて「いらっしゃい」。この調子だといつもの弥生節は不発になりそうだが、「そうだ、櫻さん、メーリングリストの件!」と相変わらず鋭い切り込みよう。

 「まだ返事してないんだなぁ」

 「千さんきっと待ちくたびれてますよ。あ、今もピピって。千さんキターって感じ」

 「弥生ちゃんにはかなわないワ」

 ここでチーフが首を突っ込む。「メーリングリストって、隅田さんが呼びかけてる件?」

 「え、文花さんも」

 「あと、南実ちゃんもね」

 「そうなんだ... メーリングリストですもんね」

 誰が入る・入らないで参加の可否を決めるものでもないのだが、この話を聞いて、櫻は益々返事に悩むことになる。櫻を困らせないための発案だったのだが、どうもそうなっていない。千歳の想いもうまく届かないものである。

 「南実ちゃんで思い出した。メールしなきゃ」

 「どうかしたんですか?」 櫻にしては珍しく強い反応を示す。

 「あの娘、昨日が誕生日だったのよ。お祝いメールしそこなっちゃったから」

 いつものことながら、後輩思いの先輩なのであった。「あれで彼氏でもいれば、周りがいちいちお祝いメッセージを送る必要もないんでしょうけどね。きっと昨夕も一人よ」 自分のことはそっちのけ、まるで他人事である。

 チーフが私用メールを打っている間、櫻もあれこれ思案する。「てことは、自宅宛に小松さんからのメールも届くようになる... 何かドキドキしちゃうなぁ、でも」 先刻まではノラリクラリだったが、決然とした表情に一変する。弥生は再びピピと来たようだ。

 「データの送信先もメーリングリスト宛でいいですよね? 櫻さん」

 「え、デート?」

 「またまたぁ、トボけちゃって。誰とですか?」

 「フフ」 不敵な笑みがこぼれる。これまた蛇足ながら、二月二日はフフの日かと云うと、そうではない。櫻の浮き沈みは二月も八月も関係なし。日常茶飯事である。

 早番だった櫻は、女性二人をセンターに残して帰途を急ぐ。おなじみのセミは立秋など素知らぬ振りで賑やかに鳴く。「ちゃんと返事出すますよーだ。急かさないでよねっ」 いつもの櫻が戻って来た。


 「残念でした。今回は一人じゃなかったですよーだ」の一文の末尾には「あかんべー」の絵文字付き。小憎らしい後輩からのショートメールは夕刻になって届いた。「え、まさか」 文花は思いがけない返信に些か狼狽するも、「何だかドラマみたいになってきたわねぇ」と苦笑い。自分がその仕掛人であることがどうもわかっていない。やはり他人事のチーフであった。


 こうなってくると、櫻からの返事が早く着いたに越したことはない。文花からは探りメール、南実からは次の一手メールが届いてしまう。千歳が余計な動揺をする前に、想いが届けばいいのだが。だが、櫻が意を決したのが伝わったか、彼も一念発起して櫻ブログを開いていたのである。「これが櫻さんの想い、だったのか...」 八月病と題した記事の中には「発起人さんからお見舞いメールをいただきました。感謝感激、今日の天気は雨あられ? 私は思わず涙雨(!_!)」 千歳も思わず目が潤んできた。そこへ図ったように櫻からのメールが到着。千歳からの助言でメールソフトを入れ替えたのが奏功したらしく、差出人名はきちんと「千住 櫻」と表示されている。些細なことのようだが、彼にはそれがまた嬉しかった。タイトルは「残暑お見舞い申し上げます(^^)v」 本文を読む前にのぼせて来た。

 案の定、八月病で返事が遅れた云々という弁明に始まるも、「お気遣いいただき、誠におそれいります。今はおかげ様で元気です」と丁重な一節が添えられ、あとはメーリングリストの設定については弥生とも相談したこと、登録するアドレスは自宅用で構わないこと、などが淡々と綴ってある。そしてp.s.ながら実はこっちが本題の件については、「八月十九日、何が何でもお供します。時間と場所をご指示ください。By櫻姫」との返し。姫の写真を眺めながら、泣いたり笑ったりの千歳だったが、一日の終わりはやはり笑って締めたいもの。ハハの日とはよく言ったものである。


――― 八月十一日 ―――


 民営ではあるが、公設でもあるので、夏季休業を設けて悪い、ということもないだろう。環境情報センターが四日間の連続休館に入る前日の土曜日は、世間はすでにお盆休みということもあり、今のところ来訪者はゼロ。情報誌の発送手配はすでに終え、チーフはひと足早く休みに入っている。今日は一人ゆっくり、データのメンテナンスなどをしている櫻である。窓は閉め切ってあるがセミの声が喧々(けんけん)と入ってくる午後のひととき、たまには機材の点検でもするか、と席を立った時のことである。思いがけない客人がやって来た。若いお二人さんである。「あら、いらっしゃいませ」

 「あれ、櫻さんだけですか?」

 「文花さんはこの暑さでバテちゃいました。何ちゃって」

 「櫻さんはもう平気なんですか?」 眼鏡の少年が、眼鏡の女性に尋ねる。

 「え、えぇ。あ、五日は行けなくて、ゴメンナサイね。ま、私がいなくても大丈夫だったと思うけど」

 「千さん、何かアタフタしてた。『櫻さん、来ないかなぁ』とか言ってたし」

 「そ、そうだったんだ...」 不意の来客であわてている上に、乗っけからこういう話を聞かされては動揺するのも無理はない。

 六月の自由研究の方は千歳のフォローで無事まとまったことを聞き、ひと安心。となると、今日ここに二人して来たのはまた何故?

 「そう言えば小梅さん、お姉さんと旅行して来たのよね」

 「伊勢の親戚宅に行って来ました。青春18きっぷで」

 「え、普通列車で?」

 「自由研究の日、図書館でひと調べした後で、中の談話室で夏休みの予定について話してたんです。伊勢の話になったら、六月君が時刻表で調べてくれて、それで」

 「東海道線では乗り継ぎが多くなるけど、名古屋には午後二時台に着けばいい。名古屋からは快速列車に乗れば速いけど、接続が良くない上に、途中から18きっぷが使えない線に入っちゃうのが落とし穴なんだ。名古屋から伊勢方面までJRの普通列車で行くとちょっと遠回りだけど、時間的には大丈夫なのがわかったから、18きっぷを使ってこの行程でどうぞってね」

 「弥生ちゃんから話は聞いてたけど、さすがねぇ」

 「で、五回のうち四回分使ったんで、残った一回分を六月君に渡そうと思って」

 「それでわざわざ?」

 「あ、あと自由研究の御礼と思って。櫻さんにお土産です」

 小梅は、伊勢の名物、某餅を持って来ていた。粉飾だ偽装だと喧(やかま)しい折りである。この一品も賞味期限ギリギリではあったが、この際、どうこういうのは止そう。

 六月への御礼も兼ねているということなので、

 「ありがとう。じゃ三人で食べますか。残ったら弥生ちゃんに、ね」

 タイムリーなことに、ちょうどおやつの時間になっていた。

 「明日からここお休みなんですよね。櫻さんはどこか行くんですか?」

 「千さんとお出かけ?」

 「え? 六月君まで、そんなこと...」

 お土産の餅ではないが、赤くなっている。「いいじゃないか♪」と餅の宣伝フレーズが聞こえてきそうだが、

 「18きっぷ余ったらオイラ使うからさ」なんて、さらに余計なことを言うもんだから、「いいじゃ」到底済まない。赤面+膨れ面になってしまった。(これが本当の赤ふく状態? 決して笑えない。)

 「大人をからかうんじゃないのっ」 前にここで弥生にも同じように冷やかされたことを思い出した。年は離れていてもやはりきょうだいである。ま、ここは弥生嬢に免じて許して進ぜよう。

 「小梅さん、伊勢って言っても広いじゃない。志摩の方とか?(そういや、石島と伊勢志摩って似てるわね)」

 「鳥羽の手前、二見浦ってとこです。海の近く...」

 「あぁ夫婦(めおと)岩のある、あそこね」

 「海水浴場の方なんですけどね。漂着ゴミ、すごかったです」

 太平洋から伊勢湾に回り込んで来る漂流物よりも、湾に注ぎ込む河川などからのゴミの漂着が甚大らしい。袋に破片に、とにかくプラスチック類が目に付いた他、より大きめの発泡スチロール片、あとは黒の長細い筒なんかが結構散らばっていたそうな。さらに川が増水すると上流からの流木が海に流され、湾内の海岸に打ち寄せるというから一大事である。荒川の一(いち)干潟の比ではなさそうだ。


 「それにしても、六月君。一回分とは言っても、18きっぷは高額品よ。何かお返ししないとねぇ」 からかい半分で諭す櫻。すると、

 「ちゃんと特命受けてますんで」 若い二人は顔を見合わせ、ニコニコしている。毎度、微笑ましい限りだが、羨ましくもある。「若いっていいわねぇ」とか、内心呟いているが、これはほんのご冗談。十九日の予定はだいたい決まっていて、あとは当日を待つばかり。気持ちに余裕がある故の呟きだが、このお二人さんを見ていると、どうにもソワソワして来る。櫻にとっては、長く暑い夏季休業になりそうである。

 

【参考情報】 海ゴミ―拡大する地球環境汚染 / 八月八日 / 伊勢鉄道は別料金


咲く・love

21. 咲く・love


 待ちに待った旧七夕の日がやって来た。夏は何々の季節と言うが、四週間ぶりの再会となっては、何々も某もあったものではない。ただこの久々感とでも言うべき感覚は重要で、ドラマ的な心理を否応なく盛り上げる。待ち合わせは、センター下の図書館談話室。図書館でドキドキするシーンというのは学園モノでは一般的だが、まさかこの年になってそのシーンの当事者になるとは、である。約束の十四時まではまだ時間がある。談話室で一人黙々としているのは、本来バツの悪いものだが、己との対話だって談話のうちである。何を話そうか思案しつつ、ドキドキを楽しむ櫻であった。

 一刻も早く、という想いに押されて、千歳も定刻前に到着していた。ガラス張りのその一室に、目を閉じて深呼吸する一人の女性を見つけ、やはり胸高鳴るものを覚えるも、それが沈静するのを待つべく、何となくウロウロしているのであった。見方によっては不審者と思われても仕方ない。こういうシーンも学園モノにはありそうだが、彼の場合は退出させられる前に何とか次の行動に移ることができた。櫻は即座に席を立つ。

 「千歳さん!」

 さっきまで黙りこくっていた女性がいきなり声を上げたものだから、周囲の視線を集めることになる。千歳は「ハハ、参ったなぁ」とか言いながら、櫻に近寄ると、「お久しぶりです。櫻姫」 櫻は思わず飛びつきそうになったが、学園ドラマではないので、ブレーキをかける。今度は小声で「千歳、さん...」

 「外はまだ暑いので、ここで涼んでから行きますかね」

 櫻は放熱、いや放心状態。これが蒼葉の言っていた「ボー」なのか、と様子見しつつ、ゆったり構えることにした。ドキドキが収まるを確かめつつ、口を開く櫻。奥ゆかしい間合いである。

 「何か蒼葉があることないこと喋っちゃったみたいで、かえってご心配おかけしまして」

 「もう大丈夫ですよね。櫻ブログも絶好調のようだし」

 「ハハ。せっかく作ってもらったんですもの。あふれる想い、届けたい...です」

 その想いって?と聞き返したかったが、千歳もブレーキをかけてみる。蒼葉が見たらやきもきしそうなワンシーンである。

 「じゃ、今日はモノログネタの調査同行、よろしくお願いします」

 「てゆーか、デートでしょ。素直じゃないなぁ、千さんも。フフ」

 何とも返事のしようのない千歳はテレ笑い一つ、そそくさと先を急ぐ。春先に目撃し、その後も重点ゴミとして目を付けているバーベキュー関係の漂流ゴミの発生源を探るべく、橋よりも上流側にあるバーベキュー場を併設する公園へ、というのが今回のテーマ。五月に単身、調査しに行こうとしていたが、橋から掃部公を目撃して、干潟へ行ったりしたもんだから、その日は叶わず、以来ずっと棚上げになっていたのである。三カ月が経ち、今はシーズン真っ盛り。満を持しての現場偵察である。


 前日はぐっと気温が下がり、これじゃバーベキュー客も減か、とちょっと気を揉んだが、この日は一転して再猛暑となった。櫻はいつものクリーンアップスタイルとは似て非なる、あの晩夏のアウトドアファッションである。デニムのハーフパンツに、シャーリングのカットソー。暑いということもあるが、普段は長丈で隠している腕と脚が少々露わになっているのがポイントである。

 「今日の櫻さんのその衣装、もしかして『お上がり』とか」

 「あら、よくご存じで。どう? モデル並みでしょ」

 ここで下手に蒼葉と比較するのもどうかと思い、とにかく頷いて拍手を送る。二人とも自転車を手にしたまではいいが、なかなか走り出そうとせず、この調子。これはこれで微笑ましい光景である。

 小振りな麦藁帽を被り、多少なりとも日焼け対策を講じてはいるものの「まさかここまで晴れ上がるとはねぇ」と絶句する櫻。十四時半、日射はピーク。バーベキューの方は、読み通り、撤収組がチラホラ出始めた頃合いである。ひととおりの飲食が済んでからは、リバーバレー(?)に興じるグループ、キャッチボールをする男女、駆け足を競う親子、縁台将棋にギターの弾き語り、はたまたジャグリングの練習に余念がない諸兄など、広場では実に様々な過ごし方が展開されている。その一方で、まだダラダラと飲み食いを続けている若者グループも結構いて、そのラフな格好からして、半ば日光浴を楽しみながら、の様である。バーベキュー向けに用意されている囲いなども予め据え付けられているのだが、道具類は概ね自前で持ち込まれている。コンロや網も本格志向なら、テントやテーブルも立派なもの。レジャーシート組は少数で、デッキチェアでくつろぐスタイルが主流になっている。こうなると、バーベキューの方も気合いが入ったもので、焼肉・焼野菜のみならず、シーフード系のグリルあり、焼き鳥あり、さらには自家製ハムを燻しているところまである。どこかの屋台村に迷い込んだような趣である。当然のことながら、飲食に供される容器類、排出される袋類や生ゴミの量も並々ならぬこととなる。それらは傍らで数多(あまた)見受けられ、行く末が案じられて仕方ない。この人数にかかれば、一部が散乱・漂流することになるのも大いに納得となる。

 「最近のバーベキューって、何か凄まじいですね」

 「勿論楽しんでやってるんでしょうけど、いかに本格的にやるかって方にエネルギーが注がれてる感じもします」

 調査なのかデートなのか、定かではないが、少なくともレジャーに来た訳ではないこの二人は、批評家然、かつ漫然と広場を散策するのであった。

 幸い、今この時間に片付けている皆々は、その分別については怪しい面も散見されるものの、自分が出したものはきちんと持ち帰る、という一点において極めて真っ当である。犯人探しをするつもりはないが、何かしらの因果関係がここにありそうな以上、もうちょっと調べを進めたい。捨てられそうな場所に先回りすることにした。

 この辺りには自然地も干潟もない。ただ傾斜のある護岸が川と陸を隔てるばかりである。その斜めの護岸にちょっとした間隙があると、ヨシならまだしも、セイタカアワダチソウなんかがヒョロヒョロと根を下ろし、草陰を作ったりする。さらにはアレチウリなる厄介な外来植物が陸地にちょっとでも蔓延(はびこ)ってたりすると、それも忽ち護岸に侵入してきて、セイタカと連係した日には、そりゃあもう。人目が届きにくい恰好の一隅を作り出してしまうのである。これは推論だが、不届き者は、そのセイタカを目印に、根元に袋入りのゴミなんかを放置する。高潮になれば、川の水が護岸を洗うなんてのは訳ないことなので、そのゴミ袋も容易(たやす)く流されていく。干潟に生ゴミ入りのレジ袋が漂着するのは、こういう図式によるのではないか、と。事実、この日はそんな草陰において、飲食の不始末と思しき袋入りのゴミが見つかった。ペットボトルと使い捨てカップの詰め合わせである。初めてゴミ箱干潟を目にした時の衝撃を思い起こしながら、デジカメで記録する千歳。その脇で櫻は、露骨に積み棄ててあった炭の塊を発見し、

 「自然に還るってことなのかも知れないけど、これじゃあんまりね。公然というか平然というか、私が捨てました、って開き直ってる感じ」

 「スミに置けないって、こういうことを言うんですよ」

 「隅田さんたら、やだワ」

 どこまでが洒落なのかわからないお二人さんであった。そんなダジャレを冷やかすように、川面からパシャパシャ音がする。覗き込んでみるとハゼの群泳である。時折、体を跳ねつかせるものの、その魚影は黒く、何ハゼだかは識別できない。これもひとまず撮影し、別途、掃部先生に鑑定してもらうことにした。紙燈籠の件もあるし、どこかで先生とお目にかからないといけない。メーリングリストに先生も入れられればいいのだが。

 護岸上にはさらに、花火の棒が散らかってたり、カセット式コンロのガス缶が転がってたり、漂着ではなく、明らかにその場に放置されたと思われるゴミが見つかった。これでまたプロセスの一端が把握できた、という点では喜ばしいものの、大いなる悲哀も感じてしまう千歳なのであった。ポイ捨ても積もり流されまた積もり、その結果があの干潟なのである。今日は櫻以上に憂いな表情になっていることは自分でもわかっている。だが、しかし...

 「あーあ、千さんがブルーになっちゃった。心はいつもサクラ色、じゃなかったの?」

 「え、あぁ、失礼しました。発生原因がこれで少しわかったんだけど、じゃどうすれば防げるかなぁ、ってね」

 「捨てるのも人、拾うのも人、って清さん言ってた。ひとまず拾える分だけでも拾いましょ」

 さすがはリーダー、用意のいいことに大きめのレジ袋を持ち合わせていた。いっそアレチウリも引っこ抜いて帰りたいところだが、今日のところはこの護岸で目に付くゴミを片付けるのみである。広場の一角にある水場でひと休みしているカラスが居る。よく見ると、何かの食べ残しを嘴(くちばし)に挟んでいる。片付け係はここにもいるぞ、と言わんばかり。少女が一人その威張ったカラスに向かって「やい」とか「おい」とか、挑発しているから可笑しい。

 「あの子、度胸あるわね」

 「カラスも全く動じないねぇ」

 「小梅嬢はカラスが怖くて干潟に近寄れなかったって前に言ってたけど、それが普通よね。ああいう勇ましい子が増えると、カラス減るかしら?」

 十五時になった。カラスにとってはおやつのつもりだったんだろう。


 調査はこれで終了なのだが、デートの方はどうなんだろう。集めたゴミは千歳が持って帰るのはいいとしても、そのまま彼の宅へ、という訳にはまだいかない。お目にかかりたいとか言って誘い出しておきながら、ちゃんとプランを考えていなかった千歳君。管理するものではないけれど、こういうのもプロセスのうち、である。ちゃんと練っておかないと不可(いけ)ない。櫻はその辺を見透かしたように機転を働かせ、「私、初音さんとこ見て来ます。一応、店の外で待ってますね」ということになった。

 受験を控えていることもあり、初音は通常は十四時上がり。だが、この日は珍しく厨房設備を使ってパンケーキなどを作っていた。お客が少ないこともあるが、こういう店の使い方があってもいい。言わば店員特権である。

 「多く作り過ぎちゃったけど、ま、いっかぁ」と何セットか手にして厨房から出てくると、外から中の様子を窺う女性が目に留まる。「あ、櫻さん?」 櫻も気が付いたようで、手を振っている。姉という立場では同じ二人の対面である。こちらも四週間ぶりのこと。

 「初音さん、いないかなぁって、見てたんだ。よかったよかった」

 「今日はたまたま残ってたんスよ。もう帰ろかなって」

 「あら残念。あ、この間は伊勢名物、ありがとうございました」

 「いえいえ、本当はちゃんとお礼しないといけないのに、取って付けたみたいで。今日はお一人、ですか?」

 「いや、ある人と一緒だったんだけど、へへへ」

 ここで千歳が現れると、二人の関係がより公然となってしまうのだが、よく考えると、五月の回で初音にはしっかり認識されているのである。今更、どうこうでもあるまい。

 「隅田さん、でしょ。あ、そうそう、よければこれどうぞ」 セットの一つを取り出して、手渡す。

 「あら、パンケーキ。初音さん作ったの?」

 「私こういうの苦手なんスけど、お店で働いてるのに、手に職がつかないのももったいないな、と思って。ま、自由研究品です。添加物なし」

 「アツイうちにどーぞ!」とか言いながら、またしてもさっさと走って行ってしまった。袋くらいくれても良さそうだが、この店は原則、簡易包装である。「確かにホカホカね」

 初音とは対照的に、ノロノロと千歳が戻って来た。

 「どうしたんですか、その包み?」

 「ついさっき、初音嬢からもらったんですよ。ここに来た甲斐がありました」

 と言っても、これを持ち込んでお茶するのも気がひける。初音としてはここでどうぞ、ということだったのかも知れないが、作った本人がいないことにはちょっとねぇ。

 という訳で、店頭にあったフリーペーパーでもうひと包みして、センターに向かうことにした。カフェではなく、公的施設。やはりちょっと変わったデートである。


 休館日でもこうして施設を使えるというのは職員の特権である。邪魔が入らないようにと、櫻は中から施錠する。どうやら千歳に対しては、不信も何もないようだ。むしろ「これで二人きり、フフ」てな具合である。小悪魔復活、か。

 パンケーキを皿に載せ替え、冷蔵庫にキープしておいたアイスコーヒーを注ぐ。櫻にとってはちょっといい時間である。プラン不十分の千歳だったが、ここに来るのは想定内だったようで、ドギマギするでもなく、割と飄々としている。八広がお世話になっている情報コーナーを周回し、気になるCSRレポートをパラパラ繰ったり、勝手知ったる何とやら、である。櫻としては、センターを完全に私用で使うのもどうかと思い、打合せするような感じで、話を進めることを思いついた。光熱費に見合うだけの成果が得られればいい。

 「それじゃチーフに倣って、議題を書き出すとしますか」 櫻は話したいことが多々あるところ、それらを整理するように、ホワイトボードに書き並べていく。

 かくして、①これまでのクリーンアップデータの整理、②十月の定例クリーンアップに向けて、③メーリングリストの活用法、④その他... というのが挙がった。

 「他にございますか?」

 「あ、掃部先生との連絡のとり方、ってのお願いします」

 「まだありませんこと?」

 「櫻さんに聞きたいことがあるんですが、ひととおり終わってから、ですね」

 デート中の会話に議題も何もあったものではないのだが、これがこの二人の流儀。地域や環境に向ける視点が揃っている以上、こうした話題が何より楽しいようである。さて①の件だが、五月から八月まで、自由研究デーの分も含めると、これまでにすでに五回分のゴミデータが蓄積されている。清書したデータカードもあるが、途中からメールでデータが届くようになったので、今は表計算のファイルに全データが収めてある。横に集計すればすぐにでもこれまでの累計と総合順位が出せるのだが、「そのうちクイズを兼ねてメーリングリストに流そうと思って」なんだそうな。データカードに関しては発起人は櫻なので、ここはお任せ。楽しみに待つとしよう。

 次に②である。七夕デートの際、少々話題には上ったが、検討するのは今日が初めて。荒川での一斉クリーンアップの要領に合わせつつも、干潟特有の注意事項もあるだろうから、それをまとめてみてメーリングリストで協議しよう、ということがまず決まる。あとは一般参加者を募るかどうかだが、モノログの掲示板機能が有用である以上、それを使うのが妥当だろう、と相成った。逆を言うと、広く呼びかけることはしないが、モノログを見た人に限っては参加も可能、という募集形態に、ということである。なかなかの妙案である。「当日その場でボランティア保険の手続きしようとすると何かと大変だから、参加希望者には予め最寄の社会福祉協議会とかで加入してもらうように呼びかけましょう」 そんな話も含めて、これもメーリングリストに付されることに。

 ③については、①と②で十分に活用されそうな気はするが、櫻の意図としては「お互いまだ知らないこともあるだろうから、自己紹介し合うのもいいし、あとは連絡網機能として、流域とかで何か異変があったら知らせ合うとか、ね」 コーディネートに長ける櫻ならではの発案である。パンケーキはなかなか美味だったようで、二人ともペロリと平らげていたが、食べ終えたことを失念するくらいテンポ良く話し合っている。「あれ、いつの間に食べちゃったんだろ?」 実際のデートシーンでもこういうことはありがちか。


 「メーリングリスト参加者で、面識がない可能性があるのは、宝木氏と桑川さん・小松さんの組み合わせ、ですかね。彼はセンターには何度か顔出してるでしょうから、矢ノ倉さんとは面識ありますよね?」

 「あの、意外かも知れないけど、蒼葉と小松さんもお互い面識ないですよ」

 「さすがはリーダー。確かに自己紹介、必要ですね。そういや、業平も初対面の人いるかも知れない」

 めでたく開設の運びとなったメーリングリスト(higata@~)は、参加者の名前を記した案内と簡単なルールをセットにしたものを千歳がまず流したのに続き、八広から早々にモノログネタとしてこういうのはどうだ、というのが軽く流れ、さらに櫻からはご挨拶方々、センターの夏休み入り前日の来客記録と同休業案内が出され、といったところ。出足としてはまあまあだったのだが、お盆休みを挟んだこともあり、その後は早くも小休止状態になっていた。メーリングリスト管理人として、ここはテコ入れが必要との認識は持っている。一つ業平に自己紹介を振って、再点火させるとするか。

 「じゃ私は小松さんに水向けてみる」

 彼女からのメーリングリスト第一報が発信されるのに先んじてのひと振り。先手を打てば、手強い文面が来るのを少しは予防できるのではないか、という読みである。櫻も十分手強い。

 二人して、二杯目のアイスコーヒーを飲み終える。あとはその他の議題。ここまで来れば、フリーディスカッションでも良さそうな気がするが、「掃部先生、月に一度はここにいらっしゃいます。何か渡すものとかあれば、お預かりしますけど」と一応、追加議題に沿った話をしている。「メーリングリストを通じてチーフに聞いてみて、先生が来る日時がハッキリしたら、皆にも集まってもらいますか、ね」 higata@、なかなか使い勝手が良さそうである。

 業務連絡を兼ねた打合せはここまで。時間にして一時間弱。メールのやりとりだけでは埋まらないものである。ここで千歳はいつものようにバッグをゴソゴソやり出すと、

 「この場で演奏できないけど、お約束の自作曲、持って来ましたよ」

 「エ? メモリカードに」

 「対応するプレーヤーとかメモリオーディオがないと聴けないですよね。じゃ」

 円卓上のPCのスロットに挿し込んでみる。ここから聴けなくもないのだが、

 「データをアップロードしとくんで、このURLを打ってダウンロードしてみてください。ご自宅でじっくり、ね」

 とりあえず二曲分だそうな。ギターでアウトラインを作ってから、PCでリズムやらベースやらを打ち込んで、そこに再度ギターをかぶせ、あとはおまけの音色をPC音源でもって加えていったんだとか。キーボードで作った曲もあるのだが、あえてギター曲にした。メロディーラインは櫻に託そう、ということらしい。鍵盤で電子的に採譜して、そのデータを業平に渡すと、また違った楽曲になるとも言う。

 「で、タイトルは?」

 「ボーカルを入れられるように作ってはあるんですが、詞がないことにはタイトルも付けられないし。櫻さんのいつもの鋭い感性で付けてください」

 「了解です。ピアノで音を拾ううちに思いつく、かな」

 休業中はピアノの練習に励んでいたこと、だがあまりの暑さに今度こそバテ気味だったこと、といった話、国際イルカ年だというのに、迷いイルカが助けられなかったのはどうしたことだ、とか、ペルセウス座という割には思いも寄らない場所に流星が出てくるので、ろくに願い事ができなかったとか、話題は尽きない。まだまだ日は長い。彼と彼女の時間はゆっくり流れて行く。

 「千歳さん、聞きたいことがあるって、何ですか?」

 「あの、『咲く・ラヴ』って、何か特別な意味がおありなんでしょうか? ずっと気になってて」

 ひと呼吸おいてから、櫻はニヤリ。よくぞ聞いてくれました、とでも言いたげな風である。

 「そんな、わかってるくせにぃ。櫻さんて人がいて、誰かさんに想いを寄せてる訳ですよ。それをちょっとひねっただけ。原題はあくまで『さくらブログ』」

 「モノログからもリンク張っていいですか?」

 「だって、今日のバーベキュー場の件、千歳さん載せるでしょ。私もちょっと書こうかなって思ってるんで、ねぇ...」と俯き加減。だが、すぐに顔を上げると、「リンク張って、見る人が見たら『あ、この二人』ってなっちゃいますよ。私は構いませんけどね。エヘヘ」とのこと。これで晴れて相互リンク、となりそうだ。


 蒼葉には遠慮は要らない。だが、食事当番は守りたい。櫻の表情に憂いが浮かんできた。離れがたい旧七夕の織姫と彦星に容赦なく夕暮れが迫る。そして帰りを急かすように遠雷が響く。図書館はすでに閉館時間を過ぎ、暗くなっている。

 櫻に交際相手がいないことは先だっての蒼葉とのやりとりでわかっていた。だが、それを本人に聞いて確かめるほど野暮なことはない。千歳はドキドキしながらも、自転車を動かす。今日のところはここまで、か。

 櫻が彼を引き止めたのは、その時である。

 「ち、千歳さん、私も聞きたいことが、あります」

 次の瞬間、剛速球を投げ込んできた。南実を凌ぐ勢いである。

 「おつきあいしてる人っているんですか?」

 ちょっと考えて、彼は答える。

 「えぇ、いますよ」

 「エ、うそ?」

 「ここに、ね」

 櫻は俄かに信じられない様子だったが、

 「もう、意地悪ぅ。う、う...」

 泣き顔になってしまった。眼鏡越しだが、目が潤んでいるのがわかる。千歳は再び蒼葉の言葉を思い出す。泣き出しちゃうかも、とはこのことだったのか。櫻は眼鏡を外しかけたが、すぐ手を止めた。

 「今度はいつ逢えますか?」

 「九月二日じゃ、また先になっちゃいますね」

 「本気で泣いちゃいますよ」

 「近々、紙燈籠持って来ますから、その時、また」

 櫻はブレーキをかけるのを止めていた。日中の暑さは和らいでいたが、彼女は逆に熱くなっている。

 「じゃ、明後日! 千歳さん来るまで待ってます」

 「わかりました。櫻姫」

 姫はドキドキが収まらない。このままだと本当に彼に飛びつきそうだったが、意地悪な彼は自転車に跨り、走り出してしまった。

 「あぁ、ドキドキした。どうなるかと思った」

 どうやら彼にも事情があったらしい。櫻のあふれる想いへの処し方がわからなくなっていたのである。

 セミは鳴いているらしかったが、二人には届いていなかった。櫻も今頃になって気付く。

 「あーぁ、何か切ない。これで蜩(ひぐらし)だったら、もっと切なくなりそう」

 櫻の方もノロノロと走り始める。こらえていた涙が線になって頬を伝う。心地良い涙である。七夕の日、ヨシに吊るしたもう一枚の短冊に込めた願い... 今夕、それが叶った、そんな気がした。佳(よ)き哉(かな)、である。

 

【参考情報】 河川敷でのバーベキュー例 / アレチウリの脅威 / 少女 vs カラス / ボランティア保険は事前に


ある晩夏の日に

22. ある晩夏の日に


 千歳の呼びかけに応じて、業平からの自己紹介メールがhigata@に流れたのはその翌日。ちゃっかり自営ビジネスの宣伝つきである。よせばいいのに、アフィリエイト募集中なんてことまで出ている。こういうのが来ると、次は弥生が反応しそうだったが、その前に櫻からの先制メールが入って来た。「...管理人と相談して、皆さんに自己紹介をお願いすることになりました。次は小松さん、いかがでしょう?(行き違いがあったら、ご容赦ください)」 いつものことながら、簡潔かつ丁寧な一筆である。櫻としてはこれでひと安心のようだったが、燃える想いの南実には、この程度の水を向けられたくらいでは鎮静することはない。むしろ、逆に火が点いてしまったようだ。誕生日から二週間後、職場からhigata@に一本を投じる。ここしばらく仕事から離れていたこと、メーリングリストも今週からやっと見出したこと、大学院を出てからはずっと今の機関にいること、などが綴られ、ここまでは無難な感じ。だが、末尾に来てそれが転じる。導火線の如き一文が添えられていた。「隅田さま、八月七日はありがとうございました」 一読する限りでは、単なる御礼なのだが、千歳と櫻のもどかしい関係性を知るメンバーが多いこのメーリングリストにおいて、この発信は並々ならぬインパクトを持っていた。その一文があまりに端的なので、憶測を呼ぶという点でも効果大。higata@上のルールには、二人の関係をどうこうしてはならぬ、なんてことは決めていない。だが、このように横槍を入れるのにメーリングリストが使われる、てのは想定外であった。小松南実、二十九歳。二十代最後の一年を迎えた女性というのはかくも手強いものなのか。

 幸い、このメールは櫻の職場アドレスには届かないようになっている。だが、ドラマの仕掛人(演出家か)のあの女性のもとにはしっかり着いていた。

 「櫻さん、八月七日の夜って何してた?」

 「二週間前ですよね。部屋でボーとしてたら、妹に説教されたのを覚えてます。でも、その日がどうかしたんですか?」

 「隅田さんとは一緒じゃなかったのね」

 「えぇ。あ、思い出した。千歳さん、今日来るんだった♪」

 文花の問いかけが少し気になるところだったが、今はすっかり舞い上がっている。

 「まぁ、あの調子なんだから、私の出る幕じゃないわね」

 焚き付けるのが本分の演出家としては、らしからぬご発言である。七日の夜は一人じゃなかったことを南実はその日のうちに自己申告している。そして、その時のお相手の名前が今回公表された。文花の予感は見事的中していたのである。こうなると誰かに言わずにはいられない。だが、いくら今そこにいるからと言って、櫻に告げていいものか。いいはずがない。二女も三女も一女にとっては大事な存在である。大事な二人を争わせる訳には... かくして、クシャミを我慢している時と同じような、何とも不可思議な顔になっている。

 「あぁ、ウズウズする。叫びたいよ、私ゃ」

 センターの責任者たる人物、器量と度量が求められる。文花は一応兼備しているようである。


 蒼葉はケータイで南実からのメールを受信。お騒がせの一文を見つけて、蒼白している最中だった。長文メールだと、ここまで来るのに時間を要する。ケータイメールだと読むのも何だし、発信するにも手間がかかってしまう。もどかしさが募る。

 「この小松さんて何者なんだろ。とにかく千さんに真相を確認しなきゃ。あと、PC用のメールアドレスもこの際だから作ってもらお」

 蒼葉からhigata@宛に発信がされるのはしばらく先になりそう? いやどうだろう。


 櫻は今のところあまり浮き沈みなく、穏やかに過ごしている。ちょっぴりドキドキしてきたのは十八時になってからである。早番の文花は櫻を気遣ってか、定刻通りセンターを後にする。外に出ると、噂の人物がちょうど到着したところだった。この間のバーベキュー場偵察で、自身もバーベキュー状態になってしまった千歳君である。その日は気付かなかったが、日が経つにつれ、ヒリヒリしてきて自分でも痛々しい。

 「あら、隅田さん、ひと月ぶりね。また灼けた?」

 「どうも荒川は日光浴に適しているようで」

 「ま、色男ってのはそういうもんよ」

 「あの、櫻さんいらっしゃいますよね?」

 「待ちくたびれて、机で伏せてるわ。早く行ってあげて」

 千歳は約束通り、スチロール箱ごと紙燈籠を持って来ていた。すれ違いざま、チーフが呼び止める。

 「その箱、何? 残暑見舞い?」

 「えぇ、活きのいいヤツ(魚)を持って来ました。ご覧になります?」

 「ヤダ、遠慮しとく。でも、今の言い種(ぐさ)、誰かに似てる。そう、櫻さんそっくり!」

 「あ、矢ノ倉さんもそのうち自己紹介メール、お願いしますね。じゃ」

 引き止めたついでである。この際だから、お節介しておこう。

 「隅田さん、そのメールのことだけど、ちょっといい?」

 「あ、はい」

 「まだ見てないかも知れないけど、今日南実ちゃんから発信があってね。八月七日のこと、書いてあったんだけど...」

 文面について軽く説明する文花。千歳はさほど驚くこともなく、フンフンと頷くばかり。

 「そうですか。ま、あの日はレジンペレットを渡すだけ、と思ってお会いしたら、食事に誘われちゃって。正直、焦りました」

 「まぁ、そんなことだろうと思ったわ。櫻さんまだメール見てないみたいだから、先に事情を話しておいた方がいいかもね。こういうのって、後でわかるとショックだから」

 文花の恋愛経験が如何ほどのものかは不明だが、人生において数年は先輩なので、こういう助言も出るのだろう。これはお節介ではなく、千歳にとって実に有意義な示唆となった。

 「ありがとうございます。箱の中味は御礼代わりってことでご査収ください」

 「はいはい」

 文花はその場では受け流したが、ふと立ち止まる。「ご査収? 魚を?」


 千歳の足音が近づく。櫻のドキドキが高まってきた。カウンターの影に隠れてるんだから、なおさらである。

 「あれ? 櫻さん...」

 誰もいないセンターだが、照明は点いているし、空調も稼動中。櫻は出るに出られなくなっている。

 「接客担当の千住 櫻さん、いらっしゃいませんか? ご不在なら帰りますよ」

 「あー、ごめんなさい。ここです」

 カウンターから静々と立ち上がってきた。

 「いらっしゃいませ」

 「かくれんぼですか?」

 「いえ、眼鏡を落としちゃって。捜してたんです」

 本当はビックリさせようと隠れていたのだが、ここは失敗。言い訳としてはもっともなような、そうでないような。ドキドキはまだ続いている。

 「持って来ましたよ。お土産...ってほどでもないか」

 フタを開けると、例の紙燈籠が寝そべっている。さらに劣化が進んだ感じである。

 「はぁ、こんな風に溶けちゃうんですか」

 「拾った当初は、ちゃんと筒状になってたんですけどね。乾燥させなかったもんだから」

 「ハハ、今の私みたい」

 「へ?」

 要するに緊張が解けたことと、誰かさんといるとこんな感じになってしまう、ということを言いたかったようだ。だが、センターにいる間はどうしても敬語会話になってしまう。これは緊張云々とは別の話。忠実に接客している証しなのである。

 「いえ、何でもございません。じゃ、そのまま窓際に置いといてください。明日から日光浴させます」

 七夕の時に櫻が用意した水溶性短冊も、どうやら同じメーカーのものらしかった。

 「あの感じだと、あまり環境に良くなさそう。溶けて水に流れちゃえばいい、てもんじゃないんですね」

 「でも、どの程度の影響があるんでしょう?」

 「パックテストで調べてみましょうかね。文花さんにまた聞いてみます」

 「短冊ならOKだと思いますけど、ね」

 「雨に流れたか、風に溶けたか。川に迷惑がかからなかったのなら、いいですが。でも、私の願い、一つは叶いましたよ」

 さっきから、カウンターで対面する形で語り合っている。センターでの接客スタイルとしてはこれでいいのかも知れないが、この二人、今は彼氏と彼女のご関係ではなかったか。

 今度は千歳がドキドキする番が来た。

 「あの、小松さんからのメールって、今日ご覧になりました?」

 「いえ、まだ。自己紹介メール、ですよね」

 「僕もまだ見てないんで何とも言えないんですけど、櫻さんに先に話をしておこうと思って」

 八月七日は、南実と会っていたこと、すぐに帰るつもりだったが断り損ねて会食することになったこと... 文花に話したのと同じように事情を説明する。そして、

 「意中の人は櫻さんだって、その時、キッパリ申し上げました」

 「え? 二週間前にそんな風に?」

 「櫻さんがどう思ってるか、は別にして、とにかく正直なところを伝えたんです」

 「つまり、小松さんを振っちゃったんですね。彼女、モテ系なのに、あーぁ」

 櫻はすまし顔で、我関せずのような口ぶり。千歳は思いがけないリアクションに焦りを募らす。そう言えば、櫻からちゃんと返事を聞いてなかったような...

 「私が千さんを振っちゃったら、どうするの?」

 「紙燈籠みたいになっちゃうでしょうね」

 「ウソウソ。この間のお返しよ。フフフ」

 千歳は本当にフニャフニャになっていた。極度に緊張していたところ、一気に解放されたのだから仕方ない。櫻は笑いをこらえつつも、真顔で続ける。

 「正直に話してもらって、櫻はうれしうございます。私、千歳さんを信じます。でもちょっと悔しい」

 千歳の腕はよく灼けていて、皮が一部剥がれかけていた。その皮をペリペリとやり出したのだから、彼が面食らったのは言うに及ばず。四月に初めて会った時の櫻さんの印象は「面白い人だなぁ」だった。そんなことを今更ながら思い返してみる。

 一応、櫻はまだ勤務中。千歳は帰り支度を始める。だが、彼女は彼をそう易々とは帰させない。

 「八月七日って小松さんの誕生日だったんですってね。文花さん、お祝いがどうのって。今思い出しました」

 「そう、だったんだ...」

 千歳は少し心が動いた。南実の性格なら、自分の誕生日を堂々と明らかにしそうなものである。それをあえて伏せていた、というのが実に健気というか、意外な一面を見た気がしたのだ。

 「あら、本人言ってなかったの。まぁ、千さん善いことしたじゃない。一日一善、よね」

 櫻はすっかり余裕の構え。千歳は引っかかるものがあったが、気を取り直して、

 「そう言えば、櫻さんの誕生日っていつですか? 三月?」

 「千歳さんと初めて会った日は、二十代最後の週の初日でした。その五日後が三十路最初の日」

 「それはそれは。お祝いしそこなっちゃいましたね。失礼しました」

 「いいえ。二十代のうちに出逢えてよかったです。それで十分」

 改めて櫻への想いを認識する千歳。櫻と来れば「咲く」だが「萌え」も有り得る。境地としては蒼葉の時よりもピッタリ来るようだ。そんな彼の萌える想いを察してか、彼女ははぐらかすようにアナウンスを入れる。

 「今日はちょっとトーンダウンしちゃったけど、プラス千点かな。ちなみに十万点になりますと、いいものを進呈します。お楽しみに」

 櫻得意の「いいもの」は応用範囲が広い。楽しみではあるが、いったいいつの間にそんな査定が始まってたんだか。

 「私の場合、一日一千(いちせん)なんです。四月から七月までは七回お会いしたんで、七千点。で、一昨日からは毎日千点ずつにしました。今日で一万点ですよ」

 千歳はすっかり帰る気が失せている。見計らったように櫻はさらに一言。

 「今日この後、引き続き当館をご利用いただくと、さらに千点、どう?」

 「櫻さんには敵わないなぁ。ま、女性一人残して帰ったら、大幅減点になりそうだから、ね」

 いざという時は非常ベルを鳴らせば、一階の図書館から職員が駆けつけてくれることになっているのだが、彼氏に傍にいてもらえるなら、それに越したことはない。


 自己紹介メールをメーリングリストに流すのもいいが、この二人に限っては、お互いにちゃんと自己紹介しあった方がいいのではないか。それに気付いたご両人は、どちらからともなく、紹介を始め、気が付くと十九時を回っていた。

 「いけない、仕事しなきゃ」

 「じゃ、僕はPC借りて、作業してます」

 このタイミングで良かったのかどうなのか。二人が配置に戻った時、階下から早い足音が近づいて来た。確かに女性一人じゃ心細い。

 「櫻姉、いる?」

 駆け込んできたのは姉想いの妹である。

 「あら蒼葉、どしたの?」

 「もう、千さんたらひどいじゃない。八月七日のこと、知ってた?」

 「まぁまぁ。あちらにいらっしゃるから、お気が済むまでどーぞ!」

 「エッ? あ、千さん...」

 千歳はちょうどwebメールをチェックしていたところで、蒼葉からの一件(詰問メール)を正に開くところだった。本人が来れば話は早いが、メールのやりとりで済むなら、その方が心理的には楽とも言える。だが、この一件はそういう訳にはいかない。

 「蒼葉さん、こんばんは。五日はお世話様でした」

 櫻に続き、千歳も悠然としているので、かえって不審に思う蒼葉。今日の装いは、七日の南実によく似ている。それが彼を少しこわばらせるのだが、とにかく話を進めないといけない。今日はこれで三度目である。メーリングリストで何かあった時のフォローは、このように直截的な形でも行われる。管理人はツライ。

 「なぁんだ、そういうことだったの」

 「蒼葉さんから話を聞いてたから、勇気を出して言い切ることができたんだ。感謝してます」(と言いながらも、内心はちょっと複雑)

 「あ、ハハ。私、言い過ぎちゃったかな、って。でも、櫻姉、本当に元気になりました。逆八月病って感じ」

 円卓での座談は、こうして丸く収まった。続いて、蒼葉からのご要請の件に移る。ここにPCが置いてあるというのは実に好都合であった。

 「じゃ、aoba@でいいですか?」

 「いえ、aoba1010@がいいです」

 「はぁ、千と十?」

 「千住蒼葉ですから。1010。語呂合わせです」

 「これ、エルオーエルオー(lolo)と間違えないようにしないと」

 「私のこと知ってる人は間違えないと思うんで。迷惑メール対策にもなるし」

 こうして、蒼葉のPC用アドレスは即日設定され、メーリングリストにもこのアドレスで登録し直し、となった。

 「このwebメールを使えば、今すぐにでも送受信できますよ」

 「へぇ、さすがは千さん。姉さんの彼氏にしとくのもったいなかったりして」

 「何か言ったぁ?」

 「いいえ。ちゃんと姉さんの長所と短所をお伝えしてるとこですから」

 「余計なこと喋ったら承知しないわよ!」

 こんな具合で、晩夏の夜は更けていく。三人寄れば何とやら、か。

 「良くも悪くも、あのノリが姉さんなんです」


 櫻は彼と食事でも、と考えていたようだが、千歳の方はもともと早く帰るつもりだったから、案外素っ気ない。「もしかして、私、じゃましちゃった?」と蒼葉が気にかけるのももっともである。

 「あ、千歳さん、今度は曲のこと、相談させてくださいね」

 「そうだった。忘れてた」

 櫻は弁えたもので、今日は彼の想いなり生い立ちなり、いろいろと知ることができたので、これで十分と思い直していた。一昨日同様、自転車で反対側へ走り始める千歳。前回と違うのは、あわててその場から抜け出さずに済んでいることだろうか。これは櫻自身が想いを上手にコントロールできたことが大きいとも言える。妹の手前、というのもあったかも知れない。蒼葉はおじゃまどころか、実にさりげなく二人の想いを調整する役を担っているのであった。


 「姉さん、曲って?」

 「へへ、二人だけの秘密♪」

 「まぁ、お熱いこと。暑いのは残暑だけにしてほしいワ」

 その一曲を口ずさむ櫻。サビのところは、「届けたい・・・」とか歌っている。はてさて?



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