閉じる


<<最初から読む

9 / 29ページ

薫風

五月の巻(おまけ)

07. 薫風


 薫風の季節とはよくいったもので、晴れ渡る空の下、流れる風は蒼々とした薫りを運んでくる。月一の漂着モノログに番外編を設け、少しでもネタを増やしてブログチックにしようと企てた千歳君は五月のとある日曜日、徒歩ではなく自転車を走らせ、河川敷の風を切っていた。この日、最高気温は二十五度。サイクリング日和である。

 おなじみの干潟も気になるが、他の水際はどうなってるんだろう、ゴミが流れてくる様子は目で追えるんだろうか、というちょっとした疑問が徐々に沸いて来る。実地調査はお手のもの。前職のおかげで習慣化(?)しただけのことはあって、労は厭わない。ひとまず櫻が通る橋までやって来た。干潟のある下流側ではなく、まずは上流側へ。一望して目に付くのは、ヨシの群生。青々と丈を伸ばし、風に靡いている。時折強く吹く風が作る襞が川を揺らしている。流れは穏やかだが、その水量は実に巨獏。一度ゴミを呑み込んだらそのまま東京湾まで押し出してしまう、そんな勢いを感じさせる。「漂着するゴミはほんのひと握りということか」 空の青とは違う青が彼の心理を占める。いわゆるブルーな気分てヤツ。荒川もおクサレ様状態だとブルーなはずだが、空に負けない青を湛え、悠々としている。「ここで沈鬱になっても仕方ない。まずはできることから!」 気持ちを切り替え、今度は下流側へ。片側二車線の道路橋は、反対側の歩道に回るのにいちいち橋の付け根まで行かないといけない。信号が変わるのも時間がかかる。「千住姉妹もここ通るのかな?」 ちょっと軽やかに自転車を漕ぎ出す千歳。干潟が見える位置まで来て停止。野鳥観察するには時季的には違和感ないが、橋の中央で双眼鏡を構える男はそうはいない。人がすれ違う度に集中力が途切れる感じだが、スコープの視界はしっかりと川面を捉え、動じない。漂流する人工物...「あ、袋?」 レジ袋らしきものをまず発見。今度は双眼鏡を外し、水面でキラと光るものを見つけると、それを覗いてみる。「ペットボトルか」 ヨシの束も時々流れている。そして「ウキ?」 双眼鏡はしっかり、浮き沈みする細長い物体をキャッチした。そのまま追っていくと、いつものゴミ箱干潟が現われた。かくして、そのウキは砂地に漂着し、ひとまず海行きを免れた。「プロセス、見たり!」 でも、デジカメで証拠を押さえた訳じゃないから、説得力に欠けるか。肉眼で干潟を眺めてみる。この眺めは千歳としては初めて。「すでに何となくゴミがたまりつつあるような...」 水位は高めなので、それほど多くは見受けられないが、双眼鏡で確認すると、いろいろと転がっているのがわかる。またしてもブルーになりかけた千歳だが、干潟の上、陸地の方へふと目を転じて一驚。「え、草刈り?」 業者風ではない。腰にタオルを巻いた一人の男性が草刈り機らしきもので、何かを刈っている。陸のヨシは上流側同様、結構な成長ぶりで、青く高くなっている。双眼鏡越しでその男性を追うも、ヨシに隠れてよくわからない。「ヨシを刈っている訳ではなさそうだ。行ってみるか」


 世間では団塊と呼ぶ世代のこの方、名は掃部清澄(かもん・きよすみ)と云う。荒川流域では知る人ぞ知る存在。守護神と呼ばれることもあるが、本人は意に介さない。ただ単に幼少の頃からの当地の原風景を保つなり、再生したりしたいだけ、という。そんな掃部さんの今日の作業は、ネズミホソムギなどイネ科植物の退治である。「こいつは何度も出てくるからなぁ」 ご本人はイネ科花粉症ではないが、この外来植物、放っておくとさんざ花粉を飛ばして、河川敷利用者などがとんだ受難に遭う。根絶やしにするのが一番だが、そこまでは手が回らない。行政関係者とも交渉した。だが、工事好きな割には、こういう地道な作業となると、下手に自然環境に手を出せないとかで煮え切らない。花粉が出てくる前に手を打つ必要から、自力でやってしまおう、と断行した訳である。「今日はこんなところか」 機械を止め、崖下を覗き込む。「何か前より片付いた気がするが」 干潟の再生も一大テーマで、ここも前から気になっていた掃部公。大潮がさらっていったか、程度に考え、帰り支度を始める。乗り入れ許可を受けてあるバイクの後ろには大きめの木箱が括り付けてあって、草刈り機も収納可。草刈り機の取っ手のところに「巡回中」と書いた布(タオル?)を結わえ、出発。頼まれて巡回している訳ではない。ボランタリーに河川敷を廻り、監視・観察・感受しているのである。本人曰く「三カン」。これに環境の環、関心・関知・関係の関を加えて、「五カン」活動だそうな。

 五カンおじさんが去った後、程なく千歳が到着。「ありゃ、入れ違い...」 辺りにはイネらしきものを付けた長い草が根元から刈られて幾重にも横たわっている。「これはいったい?」 漂着物ではないが、スクープっぽいので、ひととおり撮影し、佇む。漂着ウキは、干潟のヨシの根元に絡まったようで、浮き沈みなく安住している。そんなウキのことはすっかり失念中の千歳君。まだ遠くには行っていないはず。謎の男性を探すか否か... 浮き足立っている。

 水位がいよいよ高くなってきた。ウキも目に届かない。「今日は荒川の水面と、このイネを載せるとするか」 干潟ゴミは見送り、いったん引き返すことにした。自転車の速度でも十分目に留まる薄赤紫の花々。タンポポに代わって、河川敷の斜面を満たすのはシロツメならぬアカツメクサである。「この花も載せますか」 紫がかっているが赤だが、桜色にも見える。誰かさんを思い浮かべる彼。心のブルーは乾いた薫風に乗って、空の青に溶けていった。


 「文花さん、このイネみたいの何ですか?」 最新の漂着モノログを見ながら、チーフに問うてみる櫻。「河川敷を覆うイネ科植物ってのが問題になってるのは聞いたことあるけど...」 地場や旬の野菜は得意分野だが、この手の外来植物は明るくない。「外来種ですかね? それなら駆除されても仕方ないんだろうけど、何か悪さしそうには見えないし」 呟く櫻を脇目に、文花はしっかりモノログの存在を確認。

 「これはどの辺りの話?」

 「対岸の駅に向かう橋から下流を見た辺りです」

 「地域環境問題ネタになるかもね。私も調べてみる」

 千歳の追加取材の甲斐あって、ちょっとした動きにつながった。「更新頻度は月二回ってことかな」 帰ったら激励(?)を兼ねて千歳に一筆書き送るとしよう。それにしても今日の空は青いなぁ、と彼女は窓の外を眺める。でも、本当に青? 「櫻さん、大変! 空ちょっと黄色くない?」 文花が興奮気味に呼びかける。「あぁ、眼鏡越しだとよくわからなくて。ただの青空じゃないなぁ、とは思ったけど」 五月の空は澄んでいて、風も爽やか。だが、この季節、黄砂には要注意である。

 「韓国じゃ、黄砂で休校になることもあるんですってね」

 「じゃ当センターも今日は休館?」

 「あのねぇ」

 「あ、いらっしゃいませ」

 時にセンターを訪れる客があると、接客は櫻が担当。公務員にしてはなかなかのセンスと文花は評価する。公的な施設は今、良かれ悪しかれ民の力を採り入れようとする風潮のさなか。お役所体質を露呈する訳にはいかない。本来の設置目的とは別に、そうでないところを示すための試金石としてこうした施設はあるとさえ言える。サービス品質が問われる、利用者・来訪者を顧客と捉えることが第一歩... 役所側は過敏に指針を出してくるが、そもそも指針がないと云々という辺りがまだまだ体質改善していない証か。彼女にとっては自明の理であって、接客マニュアルなども無用。カウンター業務は今やお手のものである。櫻はもともと尽くすタイプ(蒼葉談)だが、前職でそのあたりの大切さを自分なりに会得したことも大きいようだ。引っ込み思案タイプの文花にとっても、櫻の存在は頼もしい。

 「何かこの人見たことあるような...」 CSRレポート(直訳:企業の社会的責任報告書)の最新版を物色しに来た一人の男性。棚を案内した後、後姿を一瞥して気付いた。「でも、いつどこで?」 その男性が千歳に頼まれた用件でここに来たことは知る由もない櫻。こうした世界は広いようで案外狭かったりするのである。

 

【参考情報】 黄砂と五月晴れ

 

[漂着モノログ  第一章  春] 終わり → [漂着モノログ  第二章  夏] に続く


現場研究員

六月の巻

08. 現場研究員


 五月の回は、雲行きが怪しくなる展開だったが、今日、六月三日は怪しい雲がだんだん遠ざかって行く感じ。明け方はまだ雨が残っていたようで、河川敷の路面は心なしか湿気ている。グランドのコンディションも必ずしも万全ではなさそうだが、少年野球チームが元気に試合中。今日は過去二回と勝手が違ってきそうだ。定刻十時。潮は退き気味。干潟も雨のせいか黒く湿っていて、毎度の如く、見本市状態である。背景が黒っぽい分、余計に目立つ。今回は特に満潮時のラインにヨシ束が押し寄せ、そこに細々したゴミが絡まっているのが目に付く。そして、その束がガードになって、崖に向かって軽量ゴミが留まっているのが特徴。ペットボトルや弁当容器が潮にさらわれることなく、安住してしまっている。ヨシ束を取り除いた後、大潮が来ることがあれば、川へ逆戻りしてしまう、ということか。ムムムと自問する千歳。人が近寄ってきても気付かない程、悩んでいるご様子。「千ちゃん、おい!」 業平(ごうへい)が声をかけてやっと振り返る。

 「おっと、失敬。よくぞお越しくださった」

 「ちっとも気付かないから、具合でも悪いのかって」

 「まぁ、見て頂戴よ」

 「一カ月でこうか」

 デジカメを取り出す千歳の傍らで、業平はケータイでピピとやっている。

 「そう言えば、データ入力ケータイってその後どうよ?」

 「似たような仕掛けがないか調べながら、仕様書は書き始めてるよ」

 「次回にでも、デモができればいいんだけどね」

 男二人で話す間を割って入るように自転車が突っ込んできた。

 「おはようございます!」

 「櫻姉さん、ご到着」

 業平らしい返しである。

 「蒼葉さんは?」

 「六月病で、欠席です」

 「へ、六月病?」

 「いえ、急に撮影の仕事が入っちゃったとかで」

 千歳の第一声が蒼葉だったのが気に入らなかったようで、少々冷ややかにはぐらかしてみる櫻。つい撮影なんて言ってしまったが、大丈夫なんだろか。すかさず業平が反応。

 「やっぱりモデルさんだったか」

 「あ、通販のカタログとかですよ。ファッションモデルだったら、何か別のことやってますって」

 妹に口止めされてたが、滑ってしまうものである。あわてて話題を変える。

 「今日はサプライズゲスト、来ないんですか」

 「予定日とか伏せてますからね。特に問合せメールも来ないし」

 モノログ上でクリーンアップ参加者を広く呼びかけていいものかどうか、これは櫻との相談事と決めているのだが、まだ話を切り出せずにいる。プライベートビーチ感覚で取り組みたい、というのが正直なところだが。

 「そうそう、私が来る前、何の話されてたんですか?」 今度は申し訳なさそうな口調。

 「例のケータイシステム、調子はどうって」

 「あぁ、蒼葉の友達もピピっと来たらしくて、渋谷でランチ中にもうその話題になってたんですって」

 「え、櫻さんが話す前にってこと?」

 「そうなの。だから彼女なりにもう何か考えてるかも」

 業平も乗り気。「じゃ、次回デモやれるかな」 プロセス管理ネタとなれば千歳の出番。「仕様書、お早めにね」


 十時十分過ぎ。雲が少しずつ晴れてきた。試合は続いていて、時折歓声が上がる。三人はようやく干潟に降り立った。

 「ゴミ袋、持って来ましたよ。あと、データカードと、これ!」

 「通行量調査とかで使うカウンタ?」

 「センターの備品なんですけど、借りて来ちゃいました」

 また「いいもの」を持って来たものである。「櫻さん、ご覧の通りなんですけど、今日の手筈はどうしましょう?」 一帯を見渡してしばらく考えてから「干潟が露出してるうちにできるだけ水際をやって、それからまた考えましょうか」 いつもながら、得心させられる。今日は今までになく遠浅に潟が拡がり、いつもは水没している辺りに護岸もどきの石が積んであることや、水際に接する崖地にカニの巣穴と思しきものが無数にあることが新たにわかった。崖下ではヨシの若茎が垂直を競い、逞しく天を目指している。「じゃオレ上流側」 前回カラスにしてやられた方向へ、業平はそそくさと急ぐ。「あの石の辺りは危ないでしょうから、僕が」と千歳が一歩進もうとした時、干潟に着地する軽やかな足音。「オー、サプライズ」 ここでも接客担当は櫻?

 「あのぉ、矢ノ倉さんから聞いたんですけど」

 「え、文花さんが」

 「今度、第一日曜日にこの辺に行くと発見があるかも、って」

 膝丈のパンツに長袖のチュニック、濡れても良さそうなスニーカー、フィールドを弁えたスタイルで颯爽と現われた一人の女性。「文花さん、また気を回してくれちゃって」 櫻の心境は複雑。業平はすでに没頭モードでこちらには気付かない。

 「漂着モノログの管理人、隅田さんって、貴女?」

 「いえ。私は文花さんの同僚で千住 櫻と言います」

 「あぁ、お噂はかねがね。地域事情にお詳しいとか...」

 「櫻さん、お知り合いですか」 遅れて千歳が間に入る。「あ、スミマセン。私、研究員をしている小松南実(みなみ)と申します」 名刺を手渡す。海洋環境関係がご専門らしい。名刺文化から遠ざかっている千歳だが、一応、オリジナル名刺は持っている。

 「隅田千歳です」

 「あ、私、名刺...」

 バッグを取りに行く櫻。そう言えば千歳とは名刺交換してなかった。ちょっと焦る。

 「モノログ、拝見しました。千歳さんててっきり女性だとばかり。ここがその現場だったんですね」

 「日時も場所も載せていないのによくわかりましたね」

 「えぇ、その矢ノ倉さんて、ちょっとした情報通なので」

 程なく「改めまして、千住です」 そしてやや冷めた感じで「千さんにも、ハイ」 面目なさそうに千歳も櫻に手渡す。業平はやっとこさ気が付いたようで、すでにペットボトル類であふれそうになっている自前のレジ袋を片手に三人のところに戻って来た。名刺交換会の最中とわかるや、彼もウエストポーチからガサゴソ出してきて「初めまして。本多業平です!」 南実に真っ先に渡している。千歳も櫻も業平の名刺は初見。名刺というのは誰かが出すと連鎖反応的に出てくるものだったりする。こういう場では必ずしも要らない気もするが、まぁいいか。

 ともあれ、お互いの名前と職業はわかった。自己紹介は後回し。今そこにあるゴミに気と目が向くばかりの四人。そういう点で一致していれば多くを語る必要はないだろう。潮はまだ退きつつある。

 「今日は築地標準で十二時半過ぎ。海面よりちょっと高いくらいになります」

 「小松さん、それって?」

 「潮時表で調べてきました。この辺りだと時間はずれるでしょうけど、海は今干潮に向かっている時間なので、まだ退いていくと思います」 三人「へぇー!」

 「千ちゃん、もしかしてその潮時表を調べてからクリーンアップする時間、決めた方がいいんじゃないの?」

 「漂着ゴミをしっかり片付けるってことならね」

 「ねぇ小松さん、次回七月一日ってどうですか?」

 名刺を入れていた潮時手帳(芝浦標準)をパラパラ繰って、「あ、今日と同じくらいで良さそうですよ。でも今まではたまたま干潮だった、ってことですか?」 専門家には頭が上がらない。千歳は「いやぁ、調べ方がわからなくて。まさか海と連動してるとは」と苦笑気味に答える。櫻も専門外なので、ただ相槌を打つばかり。なかなかゴミに手が回らない。すると次なるサプライズ。退潮のためか、魚が迷い込んできたのである。しかも図体がそれなり。

 「コイ?」

 「まさか」

 櫻もわからない。

 「詳しくはわからないけど、ソウギョだと思います。大陸魚、淡水魚ですね」

 「何でまた荒川に?」

 「中国が原産ですが、昔、蛋白源として活用するために川などに放流されたとか」

 櫻が突っ込む。

 「淡水魚ってことは海には出られない訳だから、海水が逆流して来るとどうなっちゃうの?」

 「海水を避けて遡上して来るうちに、迷い込んで打ち上がったり、てこともあるようです」 ソウギョは干潟に這い上がってきて、口をパクパクやっている。戻る気はないんだろうか?

 「業平君、ちょっと」

 「ハイハイ」

 デジカメに収めてから、男衆二人は魚を押し戻し始めた。ちょっとした手応え。こういう体験は得難いものがある。女性二人は心配そうに見つめる。

 「エサがほしかったのかな?」

 「いや、話をしたかったんじゃないの」

 千歳の切り返しも櫻並みになってきたか。無事水中に帰ったソウギョは、しばらく潜行した後、背鰭を見せつつ、バチャと音を立てて去って行った。魚なりに謝意を表したかったのだろう。

 時刻は早くも十時半。ゴミは前回以上と見受けるため、同じ四人でもまた時間がかかりそうだ。南実は心得があるようで、ソウギョがいた辺りのプラスチック系容器包装類を集め始めた。業平は南実の方を気にしつつも再び上流側を当たる。櫻は干潟の内側、ヨシ束が集中している辺、そして千歳は下流側の積石周辺。一応、エリアごとに分かれた恰好にはなったが、果たしてこれらを持ち寄って、分類・カウントするとなると... 少々気が遠くなりそう。どこかで見切りを付けた方がいいだろうか。

 初めて足を伸ばす下流側の奥干潟。水分をたっぷり含んでいるためか、足元が少々覚束(おぼつか)ない。腐食した空き缶が埋没していたり、自転車のサドルが刺さっていたり、潮の満ち干に関係なく、ただじっと時を重ねていたゴミがそこにはあった。これもスクープ系と撮影に余念ない千歳だったが、いや待てよ、他にもいろいろ押さえておいた方がいい品々があるのでは、と思いつく。まずは櫻のところへ。

 「ねぇ櫻さん、スクープ系って拾っちゃいました?」

 「いえ、袋類をどかすのに気を取られてて」

 「先に皆で一巡しながら、ひととおり撮影してから拾うのもアリかなって、急に思いついて」

 「本多さんはケータイで何かやってたし、小松さんも撮ってるみたい。私のところを押さえれば大丈夫でしょ」

 櫻さんも記念に一枚どう?と言い出しかけてグッとこらえる。

 「ありゃ、これって洗濯物干すやつじゃ?」

 「川で洗濯って、ちょっと時代が違いますよね」

 いつもの櫻節が聞けてホッとする千歳。

 「何か見つけたら声かけてくださいね」

 「じゃ今日は、千さんでお声かけします」

 「いや、それはちょっと」

 「スミマ千!にしますね。フフ」

 サドルをひとまず置いて、配置に戻る。穴はあれど、カニは出ず。人の気配を察したか、ゴミに懲りたか。積石の間にも何やらひっかかっているものがチラホラ。土嚢(どのう)や肥料の袋片が絡んでいるかと思えば、傘の柄のようなものも。ふとハエが唸っている一角があったので、何事かと覗き込むと、先のソウギョと同じくらいの大きさの魚の白骨が。「ウヒャー」 思わず音を上げる千歳に、水際沿いに下流の方へ来ていた南実がひと声。

 「どうしました?」

 「これもソウギョでしょうか」

 「あぁ、どこかで腐乱してしまって、ここに流れ着いたんでしょうね」

 櫻も動じない方だが、この南実さんも相当なものとお見受けした。

 「海に出ると、鳥やカメの遺骸に遭遇しますからね」

 「それはやっぱりゴミによる被害とか」

 「そうですね。親鳥がヒナに口移しでエサを与える鳥の場合、海面に浮いているプラスチックの雑貨なんかをそのまま... ヒナの胃の中は大変なことになります」

 十時四十五分。櫻が合図する。「スミマセン。皆さん、いったん集合!」

 「千住さんがリーダーなんですね」

 「えぇ。タイムキーパーもお願いしてます」

 二人そろって戻って来たのが引っかかるが、そこは千歳君。開口一番「いやぁ、白骨化ソウギョが見つかったもんで」 怪訝(けげん)そうな櫻に弁明する。

 「塩水にやられちゃったってこと?」

 「おそらく、この間の大雨で一時的に水質が悪くなって、窒息とか」

 業平も帰って来た。

 「あっちにも白骨あったよ。思わず合掌しちゃった」

 「川の汚れ=窒息って?」

 今日の櫻はいつになく突っ込みモード。南実曰く、水量が増して川底の汚濁が巻き上がると、有機物が放出される → するとそれを栄養源とするプランクトンが殖える → 水中の酸素が不足するので、魚に影響が出る、とそんな脈絡らしい。ソウギョは外来魚なので、いなくてもいいと言えなくはない。だが、ブラックバスやブルーギルとは訳が違う。この辺では川の主と言ってもいい。そんな風格ある魚が窒息死というのはいたたまれない気もする。「ブラックバスなんかは窒息しないんですかねぇ」 外来魚について詳しい口ではないが、ふとした疑問が突いて出た。

 「私のところでも地域ネタとして調べられそうだけど、ここはやはり小松さんかしら」

 「あ、わかりました。荒川の外来魚の実態ってことで調べてみます」

 いやはやまたしても話が拡がってきたような...

 この時、対岸では巡回中の掃部(かもん)公が、得意の草刈り機でイネ科植物をバサバサやろうとしているところだった。ヨシが結構な高さになっているので、川岸まで来ないと対岸の様子はわからない。「間違えないようにやらないと」 見極めながら一本一本刈り始める。この芝刈り音は何となく四人にも届き始めた。「何か音がするけど」 櫻がまず気付く。「貨物船でもないし、ジェットスキーでもないか」 千歳には思い当たるフシがあったが、姿が見えないことには言及しようがない。「では皆さんの収穫をひとまずここに」 いつしか地ならしした一画ができていて、一メートルほどの板切れが防波堤の如く挿し込んである。櫻の現場力、なかなかである。「予想はしてたけど、これほどの量とは!」 海の漂着物に慣れているはずの南実がこう言うんだから、これは尋常じゃないんだろう。「私、何となく分けてますんで、皆さん、引き続き収集の方、お願いします」 眼鏡がキラと光ったのは気のせいだろうか。太陽が顔をのぞかせて来た。絶妙なタイミングで反射するものである。三人が持ち場に着いた頃、掃部氏は川岸に。「おや、ゴミしろ(拾)いってか?」 千歳が顔を上げた時、一瞬草刈りおじさんが目に入ったが、貨物船がゴーとやって来て、隠してしまった。すぐにヨシの蔭に分け入ってしまった掃部公。視認しそびれてしまったが、「いやきっとこの間の...」 千歳は確信した。「キャー!」 水際で南実が叫ぶ。今度は千歳が駆けつけるも、その理由はすぐにわかった。船が通り過ぎた後の波の襲来に立ち竦んでいたのである。

 「ここは浜辺と同じなんですよ」

 「でも、こんなに小刻みに押し寄せて来るなんて」

 防水仕様だとは思うが、スニーカーは何となく波をかぶり、膝下には干潟の泥が。バケツの水を用意していないことに今頃気付く千歳。「あ、ペットボトル水、持って来たので」 膝下を軽く洗いながら、櫻と笑い合っている。こちらもつい頬が緩む。いい日和だ。

 十一時になった。干潟面は何とか拾い集めた感じ。残るは湾奥のエリア。ヨシ束より奥にたまっていた軽量系は櫻がそこそこ集めたが、ヨシ束そのものの処理は彼女だけではどうしようもない。

 「これを今やると収拾つかなくなるから、いったんここに集まった範囲で数えましょうか」

 「千住さん、私、目立つ分だけでもやります。研究対象なので」

 足元には吸殻が絡まったヨシ束が横たわっている。それをいくつか摘み上げて、慎重に別区画へ運び出す南実。彼女はスコップを持参していた。干潟を少し掘って、束をバサバサやって細かいゴミを落としていく。三人は顔を見合わせ、一様に「おぉ」と感嘆。

 「じゃ、こっちやってるね」

 「ハーイ」

 何かいい按配である。

 南実はさらに標本収集用と思しきチャック付きの透明袋を何枚か持ち合わせていた。吸殻などはさっさと袋に詰めていく。傍らでは三人であぁだこうだやっている。すると今度は「バケツ貸してください」ときた。ペットボトル水を注いで、軽く選り分けたプラスチック片だけを浮かべていく。珍しい光景なので、三人もやって来た。「こうやると小石とかは沈んでプラスチック素材だけ浮かぶんです」 百均系のプラスチック芝の欠片(かけら)も目に付くが、カラフルな粒状のものも浮遊している。櫻が手にしているクリップボードを指差して、

 「データカードにレジンペレットって項目ありますよね。それです」

 「へぇー、ペレットかぁ」

 櫻は妙に納得した様子。「これ、工業原料じゃん。何でまたこんなに」 業平は不思議そう。南実は「海にだけ漂着するんじゃないことが、これでハッキリしました!」と我が意得たりの態。千歳はただ畏(おそ)れ入るばかりである。「じゃこれも証拠写真てことで」と言うのがやっと。「今日とりあえず持ち帰って、数えておきます」 レンズ状の大粒ペレットは確かに魚の卵か何かに見える。櫻は「これ、生き物が間違えて食べちゃうってわかる気がする」と憂い顔。「あら、束にこんなものが」 南実が手にしたそれは、細長いウキ。

 「あ、それ双眼鏡で目撃したやつかも」

 「え、双眼鏡?」

 業平は事情がわからない。

 「そう言えばこの間のモノログに橋から目撃どうこうって書いてましたね」

 「えぇ、このウキ、上流から流れて来たんですよ。干潟に着いたらしいことは見届けたんですが」

 「じゃ記念にどうぞ」

 南実は本人肖像付きでの撮影を勧める。ウキ効果か、千歳はまた浮き足立っている。さすがにこのまま載せる訳にはいかないから、要トリミングかな。

 南実がヨシ束から選別した吸殻やプラスチック包装破片類も足し合わせて、データをはじき出していく。櫻が持って来たカチカチカウンタが威力を発揮。多少の誤差はあるだろうけど、実態調査としては十分な数字が得られた。

 ワースト1:食品の包装・容器類/百四十三、ワースト2:プラスチックの袋・破片/百二十七、ワースト3:タバコの吸殻・フィルター:七十四、ワースト4:フタ・キャップ/三十九、ワースト5:飲料用プラボトル(ペットボトル)/三十三、といったところ。発泡スチロール破片も多く三十前後。その次はプラスチックのストローか。ストローとセットになりそうな紙パック飲料は十ほど。必ずしもセットで捨てている訳ではない、ということか。そして前回同様、エアコンの配管被覆類がまた二十弱見つかった。

 「さて、他に変わったゴミを見つけた方!」 櫻は要領よくまとめに入っていく。分別しきれなかった「その他ゴミ」コーナーがいつしか出来上がっていた。四人で見遣りながら、まずは千歳が拾った一品「バット」、次いで業平は「トラロープ」、櫻「プラスチックのカゴ」 しりとりの始まり始まり。

 「ハイ、小松さん、ゴ」

 「え、何でしりとり?」

 「千ちゃんがモノログ書くのに使うんだって」

 「ゴ、そうだ、ごま油!」

 「え?」

 意表を衝かれた三人。確かにごま油のビンが転がっている。いつの間に?

 「隅田さん、ラ」

 「そういや落花生の袋がどこかに」

 すかさず業平「イ、色鉛筆」 櫻の番だが「ツ、ツ、続きはまた来月!」と、こんな感じで時は流れていく。他には、ビデオテープのケース、スリッパ、歯ブラシ、シャボン玉のストローなど。枕と布団のセットもあったが、さすがに搬出するのは断念した。

 十一時半を回った。ここでまたサプライズ。満載の袋を陸揚げしようとした矢先、近くのヨシ原に硬球がドサッ。試合はいつしか終わっていたが、ホームラン競争でもやっていたようで、特大の一発が飛び込んできたのである。少年野球も侮れない。ヨシは時折風で擦れる音を立てていたが、それとは別にギョシギョシと不思議な音をさせていた。そこへこの一球。「おぉコワ」 男二人がビビっている脇で、そのギョシギョシの主が飛び立って行った。「あの鳥、何て言ったっけ?」 櫻は空を見上げる。南実はボールを探しに走る。ヨシをギシギシやってたかと思うとすぐに出てきてヒョイと返球。二塁ベース手前まで飛んで行った。結構強肩だったりする。二塁手選手と監督らしき人が帽子をとって頭を下げる。「あの四人、袋持って出てきたけど、クリーンアップボランティアかな?」 この監督さん、実は某河川事務所の職員だったりするが、四人には知るべくもない。監督さんもチームを連れて引き上げ始め、今日のところはここまで。頃合よく洗い場が空いたので、いつもの如く、再選別に入る。缶は十程度、ペットボトルは拾ったうちの三分の一くらいが再資源化可能レベルと見た。今回は食品トレイも数枚いけそうだ。朝方の湿っぽさは今はなく、グランド脇の草地も着座可能。スーパー行きの品々を乾かす間、四人でしばし座談会と相成った。櫻が切り出す。

 「今日は小松さんのおかげで捗(はかど)ったし、勉強にもなったし」

 「いえいえ、こちらこそ。ありがとうございました」

 「それにしても文花さん、どうしてここがわかったのかしら」

 「最初にデータカードのことを聞かれました。で、しばらくして漂着モノログの話が来て。調べてる人がいるから行ってみたら、って」

 「あ、私、モノログ見ながら質問したからだ。でもちょっと垣間見ただけで、場所と日時まで見抜くとは!」

 「いえ、今日皆さんとお会いできたのは偶然ですよ。だってここまで自転車で一時間かかるなんて思わなかったし」

 南実はスポーツ派であり行動派、ということを裏付ける話である。河口の方から自転車で「遡上」してきた訳だ。電動アシスト車とは云え、やはりただ者ではなさそう。

 「矢ノ倉文花さんは、今は私と同じ職場ですが、小松さんにとっては元同僚ってことですかね?」 名刺を見てピンと来た櫻は、南実がやって来た経緯がいま一つ呑み込めていない男衆への説明を兼ね、フォローを入れる。

 「違う部署でしたが、先輩に当たります。大先輩と言った方がいいかな」

 「いずれ矢ノ倉さんにもおいで願いますか」

 何の気なしに千歳が発した一言は、「いや、それは...」 女性二人にとっては芳しいものではなかったようだ。二人して同じ台詞とはいったい? 業平がツッコミを入れそうでヒヤヒヤしたが、彼も何かを察したようで、黙っている。スーパー行きは放っておいて、その他のゴミを可燃・不燃に分ける作業に入る四人。

 「え、隅田さんとこに持って行くんですか?」

 南実は面食らった様子。

 「まぁ、今日は多めでしたけど、持ち運べる量ですし、いつでも出せるので」

 「そっか。それなら気軽にクリーンアップできますね。海ゴミだと、どこが運ぶ、どこが処分する、でモメ事になったりしますから」

 燃える・燃えないの区分が、南実の地元とはまた違うようで、それも彼女を当惑させた。

 「プラスチック、可燃なんですか?」

 「『サーマルリサイクル』だとか、もっともらしいことが書いてありましたが、せっかく分別(再資源化)意識が高まってきたところでそれはないだろう、と思ってはいます。形を成していないプラは仕方ないので可燃、それ以外の容器包装関係なんかは不燃、て感じで、少しばかり抵抗してますけど」

 「油に戻す取り組みを進めている自治体、増えてるのにねぇ」 櫻が一言。業平は会話を聞きながら、また何かを考えているようだ。すると程なく「データカード上で、各自治体の分別ルールを反映させてみると何かわかるかも?」 珍しく口数が少ない業平がここへ来て冴えたことを言う。

 「ここでの品目は、発生起源別ですからね。可燃・不燃は加味してないし、日本の生活実態とは違う面もあるし」

 「自治体ルールをテンプレートにして、それをダウンロードした上でデータカード画面を開く。そこに入れた数字は元のデータカードに反映されるとか...」 業平の調子が上がってきた。南実は「?」状態。千歳が簡単に解説すると「それができたら、スゴイかも」と目を丸くしつつ、「荒川版のデータカードもあって、品目には日常性を持たせてあるし、再資源化を促すような分類になってるんですけど、各自治体の分別ルールには対応していない。自治体ごとの可燃・不燃のゴミ実態を知る上では、確かにまずテンプレートありき、ですね」

 研究員ならではの説得力。櫻もすかさずひと押し。

 「あとは、テンプレートに載っていないその他のゴミをどう数えるか...」

 「なるほど、なるほど」

 業平の頭の中で仕様ができ上がってきた模様。

 「次回のデモは、当地の分別ルールに沿って、ってことでOK?」

 「俄然やる気になってきた!」

 太陽が完全に姿を現し、ちょうど天頂に来ている。スーパー行きの品々も乾いてきた。

 「それにしても、今回は吸殻が多かったね」

 「路上を追われた愛煙家が川岸でウサ晴らししてるんだろ」

 業平は今のところ断煙中。吸わないと落ち着かないのか、カリカリし出した。袋にさっさと放り込んではみたが、スーパーに持ち込むには目立つ大きさになってしまった。その袋一つを担ぎ、いつものRSBを引っ張り出す。結構サマになってるから可笑しい。南実は同じ方向なので、「本多さん、途中まで...」 業平は表情一変、カリカリもどこへやら。「じゃ、お二人さん、また!」

 

【参考情報】 2007.6.3の漂着ゴミ / 川魚の窒息 / プラスチック製容器包装


Soar Away

09. Soar Away


 「隅田さんと千住さんて、どういう関係なんですか?」 電動アシスト車をスロー運転でこぐ南実が並走する業平に問いかける。

 「いやぁ、本人に聞かないとわかりません。仲間というか、知り合いというか。千歳君は会社去る時に別れちゃったきり、というのは知ってるけど、その後は... でも何でまた?」

 「え、いや別に...」 タイミング的には良かったが、さすがの業平君も「そういう小松さん、彼氏は?」とは聞けなかった。だが南実の問いかけ、大いに気になる。スーパーは商業複合施設の中にあるので、ランチには事欠かない。「食事でも...」と言いかけたところで、「じゃ、この後も流域調査しますんで。ありがとうございました!」 あっさり交わされてしまった。「お気を付けて」と手を振って、姿が見えなくなったところで一服。片手にタバコ、もう片方の手にはふくらんだ四十五リットル袋。三十男の哀愁が漂う?


 もう一方の三十男は、心なしかご機嫌斜めの女性とともに、河川敷を歩いていた。シチュエーションは違うが、こちらも哀愁モード? ともあれよく拾い、よく動いたせいか、空腹感が増し、例のイネ科植物が、イネ→お米→ごはんとお節介な連想を高めてくれる。

 「イネがお米に見てきました」

 「お腹、空きましたね。今日もカフェめし、ってことで!」

 少しにこやかになったかな。

 「そうそう、このイネ、刈られてたんですよね」

 「今日も刈っている人を対岸で見かけました。でもすぐ見えなくなってしまって...」

 「文花さんが言うには、『ネズミホソムギ』だろうって」

 「ムギですか?」

 「名前しか聞かなかったんで何とも言えませんが、花粉症のもとになるとか」

 名前がわかれば、あとは調べるのみ。一応刈られていない群生も撮っておくとしよう。すると「千歳さん、私も撮って♪」 思いがけず櫻の写真を撮る機会を得て、ドギマギする千歳だったが、ファインダーを覗くと俄か写真家よろしく、被写体を冷静に捉えていることに気付く。イネと云っても絵にはなる。ネズミホソムギはあくまで背景の一部。証拠写真ではなく、ここはもう河川敷の櫻さん、でいいのである。「じゃ、ネズミって言いますから、後を続けてください」 「ギ」は「一足す一は二」の「に」に通じるものがあるので、一応、撮影時の口元を作る上では有効。「小僧って言いそうになっちゃった。ハハハ」 その笑顔もいつか撮りたい、そして眼鏡を外した櫻も、と千歳は思うのだった。

 前回同様、ゴミステーションで袋を分ける。サドルやらプラスチックカゴやらを詰めた大物袋は不燃のカートにポイ。これで肩の荷が下りた感じ。ウキは細長くて尖(とが)っているので、そのまま捨てるには忍びない。いったん持って帰ることにした。

 「すぐ戻ります。自転車置いて待っててください」 千歳の部屋にはまだ通してもらえない。櫻はちょっとアンニュイな面持ち。「眩しい!」 梅雨入りはまだまだ先になりそうだ。晩春の陽射しが降り注ぐ。


 十二時半をとうに回った。カフェめし店は結構な賑わいで、店員もフル稼働。いつものバイトのお姉さんは千歳と櫻に気付いているのかいないのか、今日はにこやかに接客中。千歳は週替り丼、櫻は週替りデニッシュのワンプレート。席に着いてから、交互に手を洗いに行く。なんだかんだで時すでに十三時。

 「で、櫻さん、今の職場は長いんでしたっけ?」 千歳にしては単刀直入な切り出しである。

 「いえ、元々は市の職員です。今はそのセンターに出向中というか... この先、どうなるかわからないんですけどね」

 「でもセンターの運営は、いわゆる『NPO法人』が請けてるんでしたよね」

 「文花さんが公募でやってきて、法人化に備えて事務局長みたいな感じで業務を切り盛りしてるんですけど、センターを運営するためにそのNPOを作ったみたいなところがあって、やりやすいんだかそうでないんだか。私にはその辺はよくわからなくて」

 先月と同じく、食事の手が止まり出している二人。「どこかで聞いたことはあります。法人格を持っていないと運営業務を受託できないとか」

 「委託先としての受け皿を役所が作った、ってことなんでしょうね。今はまだ事業委託って形になってますけど、来年度は指定管理者とか競争入札とか... 文花さんも時々困った顔してます」

 高校生風お姉さんがやって来た。「お代わり、お持ちしましょうか?」 先刻から食事は進まないもののアイスコーヒーは飲み進んでいたご両人。今日は愛想もいいし、気が利くのはなぜ? 「ごゆっくりどうぞ」 なみなみと注がれたお代わりが来た。店員に会釈しつつ、櫻が続ける。「地域振興の部署にいたので、顔なじみの方が多いのはいいんですけど、その役員会ってのが悩ましいというか、知ってる人だけについハイハイってなってしまって...」 言いよどむ櫻。法人格を取得するにあたっては、理事会となる。無茶を言う理事がいなければいいのだが。

 「地域振興ですか。市職員としては花形ですよね。何か理由あってセンターへ?」

 「そこそこ競争率が高い中、入庁できたのはよかったんですけど、いわゆる中堅職員が少ない折だったので、若手に結構しわ寄せが来てまして。私、つい頑張っちゃって、地域を駆けずり回ってたら、眩暈(めまい)がし出して。あ、食べないとまた眩暈が」

 「大丈夫ですか?」

 「ハハハ、六月病かな。いやクリーンアップデーは元気ですから、私」

 どこまでが冗談なのかしら。聞き手役に慣れている千歳でもちょっと戸惑う場面だった。空腹だったのを思い出し、箸を進める。それはそうと、今日のカルパッチョ丼て何物なのやら。妙味な一品である。ふとソウギョのことを思い出して、「ギョッ」とするも、我ながらシャレにならず、一人苦笑する千歳だった。

 「どうかしました?」

 「いえ、こっちも眩暈がしたもので、連鎖反応かなって」

 櫻はブルスケッタを美味しそうに頬張っている。一段落したところで、心地よいBGMが耳に入ってきた。

 「ピアノとストリングス、いい感じの曲ですね」

 「あぁ、この曲、機内チャンネルでかかってたのと同じだ」

 「へぇ、機内?」

 「確か『Soar Away』ってタイトルで、正に飛行機向きだなぁ、って。印象的だったんで、あとでネットで調べてCD買いましたよ」

 「千歳さんて、音楽お好きな方?」

 「えぇまぁ... ギター弾いてた時期もありましたが、最近はカラオケで歌うくらい、へへ」

 千歳としてはここで音楽談議に持ち込むのも悪くないと閃いたが、あくまで櫻の話を聞くのが主題と思い直し、話の続きを振る。インタビュアーとしての力量やいかに?

 「音楽の話はまたのお楽しみ、ってことで、よければさっきの話の続き、聞かせてもらえませんか?」

 「上司が見かねて、センター勤務の話を持って来てくれました。千住さんなら適応力あるから、打ってつけだろうって」

 「櫻さんの例は過剰適応の側面もあるでしょうけど、できる人に仕事が集中してしまうことの典型のようにも思えますね」

 「過剰適応、ですか?」

 「それだけ性に合っていた、そして周りもついつい櫻さんに頼ってしまった、とか」

 櫻はひと呼吸おいて「そうですね。でも、頑張り過ぎたというよりも、地域を盛り上げるというのはどういうことなのか、わからなくなっていた、というのも大きかったかも知れません」 千歳がCSR(Corporate Social Responsibility)に疑問を覚えたのと符合しそうな話である。役所が進める地域振興も、公共性第一とはいえ、何かに駆り立てられる要素があったのだろう。「ハコモノを作って、経済的に活性化させてどうの、という論調がどうにも納得できなくて。私は何かこう無形のもの、情動的なもの、そういう要素が地域にはまず欠かせないんじゃないかって、強く思うようになったんです」 さらに続けて「千歳さんのお話じゃないですけど、公務員にこそ成果主義という推進論と、それこそ成果優先にしたら、益々目に見える形や仕掛けばかりが先行してかえってコストアップになってしまうんじゃないかっていう慎重論と二面性があるなぁって...」 櫻の考え、なかなか含蓄がある。インタビュアーは思わず固唾を呑む。BGMは相変わらず、穏やかな音色の佳品が流れているが、二人の耳にはあまり届いていない。コーヒーを飲む手も止まったまま。

 「幸い、文花さんはそのあたりの心得がある人で、ソフト面重視。どうすれば良質な情報提供ができるか、どうすれば地域の皆さんに喜んでもらえるかって。今は基本的には二人であぁだこうだってやってます。ただ...」

 「法人運営の件ですか?」

 「それもあるけど、データベースソフトを今ひとつ使いこなせてないのが、ちょっとねぇ。千歳さん、お得意なんですよね?」

 地球環境問題云々に強い文花と、地域情報通の櫻との間で、うまく情報の連携がとれるようにしないと、お客が求める情報に総合性が持たせられないのではないかという、ちょっと高度なお悩みだった。大人向けの総合的な学習をめざすということか。「単に地球が危ないというよりも、具体的に近所の某でこんな異変が、といった情報が全体的な話とつながれば説得力も増すし、大手企業のCSR情報の他に、地元の会社でも同じような社会貢献事例があればそれもあわせて紹介することで社会的な機運も高まるとか。著名な団体が発信する情報と地元団体が発信する手書き情報なんかをデータベースで一体化させるのがまずは先決ですかね」 千歳はすっかり感服。こんなニーズがあったとは!

 またしてもスローフードな二人。十四時を過ぎたところで、ようやく食べ終え、二杯目のコーヒーもやっと半分ほどに。お若い店員さんは十四時上がりで、二人の席をひと目見て店を出て行った。

 「データベースについては何となくわかりました。あとはいかに生きた情報を早く伝えるか、ですね」

 「はぁ、するとwebで?」

 「まずデータベースで情報基盤を作り込んでから、それをwebに移して、その後のメンテはホームページで、てのはどうです?」

 具体的なプランはまたの機会ということにして、

 「遅番の日の方がいいですかね?」

 「じゃメールで日程調整しますか」

 櫻の顔がぐっと晴れやかになった気がした。よかった、よかった。

 五月三十日はゴミゼロの日だったけど、荒川のゴミゼロはいつになるやら、なんて他愛のない話をしつつ、戻る二人。明後日、六月五日は環境の日である。

 「センターでは何か催しとかされるんですか?」

 「環境負荷を減らすため、休館にします」

 「またぁ」

 「フフ。ちょっとしたゲストをお迎えして、講座を開きます。千歳さん、いらっしゃいます?」

 「あいにく別件の会合があって... そうだ、ちょっとまた待っててもらっていいですか?」

 千歳はあるCDを持って戻って来た。

 「さっきの曲が入ったCDです。お貸しします」

 「ありがとう! ございます♪」


 「『サロン・ド・カノン』、へぇー」 ご丁寧に売られている時と同じプラ包装がかぶせてある。「千さんらしい、というか。音楽に対する思い入れがそれだけあるってことかな」 橋の途中でジャケットを眺める櫻。どうにも危なっかしいが、今回は無事だった。


 千歳はウキを眺めつつ、仕様書をより手早く仕上げもらうべく、地元自治体の分別ルールとデータカード項目の対照表作りに入っていた。データカード全品に可燃・不燃の別などを加え、データカード以外の品目が分別ルールに載っていたら、それをさらに書き足してみる。発生源別というのが曖昧になってしまうが、家庭ゴミがどのくらい河川で散乱・漂着するものかを見るには、これでひとまず良さそうだ。小一時間ほどで表がまとまる。善は急げ、Go Hey!である。その後は引き続き、モノログの更新作業。と、その前に画像のチェックとトリミング... 千歳君の日曜日は盛り沢山。南実と櫻が写っている画像に目が留まる。「やっぱり櫻さんかな」 おやおや?


 家事を済ませた後、櫻は品目ごとの数字と再度にらめっこ。「データカード、コピーとっとかないと」 残り少ないカードの一枚に今日の成果を一応清書する。途中、思い出したようにカノンのCDをかけてみるのだったが... 『Soar Away』が流れる頃、櫻は夢見心地の状態。頭の中で、五月のツバメが滑空する。リラクゼーション効果が勝ったか、それともよく動き回ったためか、机に伏すようにうたた寝する姉君。妹君のご帰還はその後しばらくしてのことだった。

 「返事がないと思ったら、寝てましたか。何かイイ曲かかってるし...」 優しい(?)妹は、目覚ましをセットして、姉のお目覚めを待つことにした。夏至に向かって日脚は伸びるばかり。櫻姉が食卓に現れた午後六時、まだ外は明るかった。

 「あれ、蒼葉。いつ帰ってたの?」

 「二時間前だけど」

 「やだ、私、何時間寝てたんだろ」

 「今日もめいっぱい、だったとか?」

 「催眠効果があったみたいね、あのCD」

 CDの話、ピアノを弾く夢の話、しばし盛り上がる姉妹。

 「ところで蒼葉、もしかして灼けた?」

 「晩夏のファッションていう割には、半袖スタイルで屋外にいたから。急にあんなに晴れるなんてね」

 とはいえ、撮影がタイトだったせいか、お土産にちょっとしたお弁当を持たされたようで「じゃ、今夜はこれで」 しっかり二箱置いてある。さすがは愛妹。


 同じ頃、まだまだ元気な南実嬢は、暗くなる前にもう一箇所、干潟らしきところでの微細ゴミ調査を敢行しようとしていたが、潮も満ちている上、足元も手元も覚束なくなってきたので、やむなく退却することにした。「午前中に一箇所、午後は三箇所どまりか...」 二箇所目で運良くバケツを拾ったおかげで調査はスムーズにできた。反面、思いがけずいろいろなパターンの細々ゴミが浮かんで来るものだから、ジッパー袋が不足。五箇所目を調べる前に実はすでに袋は使い切っていたことに今気付いた。研究員としては不覚、と思いつつも、今日の収穫は何と言っても最初に集めたレジンペレット。これをまずはしっかり数えることが次につながる、と気持ちを引き締める南実研究員だった。ペダルの踏み込みにも力が入る。つい加速してしまい「キャ」。河川敷とは云え、ライトを点けるのはお忘れなく。


 その気になればPP、PEなどの成分ごとに分けられるのだが、データカード上はあくまでレジンペレットでひと括り。芝の欠片を取り除きながら、純粋にペレットの粒のみを数えていく。サンプルとして、二つ三つのヨシ束に付着していたものとその周りに筋状に落ちていた分を持って来たのだが、その数、実に六十三。六月三日の数合わせか?

 ケータイで撮影した画像をPCに移す。お三方の名刺に書いてあるアドレスを頼りに、早速メールを発信。儀礼的な文言はそこそこに、レジンペレットの報告、道中での調査の概況、添付画像の紹介など。このあたり、なかなか手際がいい。移動途中、昼食は適当に済ませていたが、夜はまだ。すでに八時を回っていたが、没頭するとそれどころではないようだ。漂着モノログをチェックしてみる。「隅田さん、早業だぁ」 だが、撮ってもらった写真がトリミングされていて、ウキだけの大写しになっているのが面白くない。あとはブログ文面の末尾に、Thanks toで三人のイニシャルが出ている程度。コメント投稿しようにも、受付機能を持たせてないから、まどろっこしさが募る。「これでさっき送った写真が載らなかったら、直接メールしちゃお」 南実がそんな風にモノログを観ていることなど、当の千歳君は知らぬ存ぜぬ、である。


 忘れちゃいけないのが業平君。南実にさっさと帰られてしまった居たたまれなさを引きずりながらの一人ランチは侘しいものがあった。千歳と櫻に付いてけばよかった、と思い返しつつも、そのやるせない思いを仕様書にぶつけること数時間。千歳からの対照表が届いてからは、益々熱が入り、こちらも夜の食事そっちのけ状態。ひと息ついて、メールをチェックしたのは深夜近く。南実からの同報メールが来ていてまずビックリ。そしてその添付画像の一つを見て「おぉ!」と感嘆符。そこには業平の勇姿(?)が写っていたのである。「これって隠し撮り?」 そわそわする業平。仕様書が一段落した後で良かったようで。


 六月三日の夜は更けていく。梅雨前線はまだ足踏みしていて、荒川流域には届いていない。

 

【参考情報】 ネズミホソムギ / Soar Away


荒川の目線

六月の巻(おまけ)

10. 荒川の目線


 月曜日は休館日なので、櫻が南実からのメールを見たのは火曜日のことだった。櫻の名刺にはセンター用のアドレスのみで、自宅用は記していない。「そっか、小松さんには自宅用の教えてなかったんだ」 メールの使い分けについて少々思案する櫻。南実は文花つながりでもあるので、基本的には職場からやりとりできればいいか、などと思いながら、添付画像を開いてみる。いつしか文花が傍に立っていて、

 「あら、その粒々の写真、何?」

 「あ、文花さん、日曜日はサプライズでしたよぉ。教えてくれればいいのに」

 「え?」

 「小松南実さん、来ましたよ。で、彼女の研究テーマの写真がこれ!」

 「ハハ。まさか本当に行くとはねぇ。でも少しは役に立ったでしょ?」

 「えぇ、おかげ様で」

 選り分けられた粒々を見ながら、よく見分けがつくものだと感心しつつも、ちょっと浮かない櫻。文花は逆に楽しそう。「さぁ、夜の準備しなきゃ」


 情報通の文花は、どこで聞き付けたのか環境の日に因んで、件の五カンおじさんをゲストに迎える手筈を整えていた。今回の講座は、地域交流型の催しとして試行的に行うもの。そのため、公的な広報等にはあまり出さず、ネットを介した口コミベースで何となく発信した程度。しかも、ゲスト講師の氏名は当日のお楽しみ、という。櫻ですら誰が出てくるのか聞かされていないというから、ある意味、仰天企画である。純粋な公的機関ではこうした企画は通らないだろう。実験的アプローチを許されたセンターの特性を弁えた、ちょっとした工夫だが、文花としては賭けでもあった。日時と会場以外にハッキリしているのは、タイトルだけ。「荒川の目線で地球環境を考える」とな。

 ワンフロアのセンターだが、講座を開くにはちょうど良い大きさのフリースペースがあって、三十人程度の席が設けられるようになっている。あえて事前申込制にはしなかったので、開始時間まで参加人数はわからない。だが、文花の読みはズバリで、この夜、二十五人が集まった。

 会社帰りにフラと立ち寄ってもらおうということで、開始は十九時。男女半々、年齢層もバラついた感じ。いい塩梅である。客席には初老の男性もチラホラいて、顔を見合わせたりはしているが、談笑するでもなくただ開講を待っている。定刻になり、文花が挨拶に立つ。この手のご挨拶はあまり得意としていないチーフだが、試験的な催しということで肩の力が抜けた感じで一言二言。受付で見守る櫻もひと安心。

 「これはこれは蒼葉さん、ようこそお越しくださいました」 開始直後、妹君も駆けつけて来た。

 「満員御礼ですかぁ。関係者席とかないの?」

 「あのねぇ」

 蒼葉はやはり目立つようで、男性客の視線を何となく集めながら奥の席に着いた。「それにしてもゲストスピーカーの方、まだいらっしゃらないようだけど...」 その点がちょっと引っかかる。

 「では、お待ちかね。今日の講師、掃部(かもん)清澄さんです」

 「え?」 櫻の目線の先には、客席からひょこと立ち上がった、初老男性の姿。スケッチブックのようなフリップを携えながら、前方へ。足取りはどことなく蟹股(がにまた)。厳格そうな面持ちとは裏腹にちょっと滑稽な印象。「またしてもサプライズ、か」 櫻は苦笑するしかなかった。

 「私、本名は掃部清と言いますが、欧米風に清・掃部とやりますと、清掃部になっちまうもんで、ペンネームを使うことにしまして...」 リングで綴じたフリップをパラパラやりながら、まずは名前の云われの紹介。客は一斉に大笑い。つかみを心得た人物である。「今日はあそこに突っ立っている役人さんに『酒呑んでるシマがあったら、こっち来て話聞かせろよ』とか言われたもので、仕方なく...」 またまた爆笑を誘う。櫻もすっかり引き込まれてしまった。しかし、突っ立っている役人さんて? その方を見遣る。「あ、須崎課長!」 櫻の元上司、須崎辰巳がいつの間にか奥の方に立っていて、苦笑いしている。ヒの発音がうまくできない掃部公。生粋の江戸っ子である。「皆さん、酒呑んでるヒマですからね。シマじゃないですよ」 辰巳のナイスフォローに一部から拍手が起こる。文花も思わず拍手。そして会場は一気に掃部ワールドへ。

 フリップは写真帖でもあった。荒川流域の春から夏にかけての季節の草花などが次々と出てくる。「これはカントウタンポポ、次はご存じツクシ... うまく調理すれば結構いけます。荒川の恵みですな」 櫻にも見覚えがある植物の数々。荒川流域にもともとあった在来種をこれ以上減らさない、それと並行して、すでに減ってしまった、または絶滅してしまった在来種を戻していく、その両方が大事、といった話に続き、「今の季節は、このネズミホソムギが大敵でして」 外来種の話題になった。これを駆除することが在来種を守ることにもつながるのだと言う。「それ、花粉症のもとなんですよね」 文花が思わずツッコミを入れる。トークショーのような感じになってきた。その時、一人の青年が遅れて受付に。

 「いらっしゃいませ」

 「スミマセン。まだ大丈夫スか?」

 「はい。こちらへお名前を」

 宝木八広(たからぎ・やつひろ)と筆を走らせる。縁起のいい名前である。実は千歳から話を聞いて駆けつけたのだが、この時の櫻にはそんな経緯は知りよう筈がない。だが「この間、CSRレポートを見にいらした方ですよね」ということは記憶していた。

 「あ、先日はどうも」

 「奥の席へどうぞ」

 青年の後姿を見ながら、まだ何かを思い出せずにいる櫻。この間、イネ科植物の話を聞き漏らしてしまったが、文花が「皆さんもネズミホソムギを見つけたら根こそぎ刈りましょうね」 なんて妙なまとめをしているのがふと耳に入り、「草を刈る、ってことは、もしかして」 櫻には思い当たるフシがあった。

 ヨシの写真が出てきた。「そんな外来種と陣取り合戦をしているのがこのヨシ。悪しではなく『良し』と覚えてください」 ヨシには二酸化炭素の吸収、水質の浄化、生き物の棲家、といった機能があることに触れながら「ヨシを見かけたら『ヨシヨシ』と可愛がってやってくださいな」 またまた笑いに包まれる。櫻も客席に入り、蒼葉の隣へ。蒼葉は目を見開いて、写真を見つめている。

 ヨシでは鳥の営巣も見られる。「このヨシゴイ 対 オオヨシキリは見ものでした」 ヨシゴイの方が大柄だが、鳴き声で分があるオオヨシキリがこの時は勝ったとか。縄張り争いの決着の瞬間を写真に収める力量、大したものである。「ちなみにオオヨシキリさんは、ギョシギョシと鳴きます。私はキヨシキヨシですが」 八広は櫻の近くの席にいた。遅れて来た彼は講師の本名は知らないはずだが、言い回しが面白いのか、大爆笑している。櫻はギョシギョシでハッとさせられた。ヨシから飛び立って行ったのは、オオヨシキリだったんだ!

 「ところで皆さん、バイオエタノールてぇのはどうなんでしょう?」 突如、燃料の話になる。トウモロコシなど食糧になるものを燃料にしてまで消費をせずにはいられない、人間の哀しき性癖はどうにも治らないといった嘆き節だった。「どうせなら、ヨシの枯れ枝を使えばよろしい」 現場でヨシ束を目の当たりにしている櫻にとっては、説得力のある話だった。使い道があるのなら、あの束の除去もビジネスモデルになるってこと? 「まだ実用化メドはハッキリしませんが、枯れても用途があるとなれば、万能ですな。だが、ヨシにとって大きな脅威があります。外来種の侵入以上に」 ヨシ原とその根元に押し寄せる人工物とゴミが大写しになっている一枚を示す。「外来種もゴミですが、これは正真正銘のゴミ。これじゃヨシはしとたまりもありません」 ひとたまりがうまく言えないがここはご愛嬌。「干潟で見たのと同じね」 蒼葉がポツリ。成長したヨシがプラスチックシートを突き破って、そのまま茎にまとっている例も出てきた。「こことは別のし潟(干潟)で最近クリーンアップをしている連中を見かけまして...」

 「姉さん、もしかして」

 「ということは千歳さんが見かけたのってやっぱり」

 思わず姉妹で目が合う。辰巳は「ひがた」とフォローしようとしたが、着席していたので、タイミングを逸してしまったようだ。

 「掃部さん、クリーンアップチームって、若手数人の?」 櫻は何となく嫌な予感はしていたが、案の定、文花がチャチャを入れてくれたりする。

 「いやぁ対岸からだったんで、よくわかんなかったけどさ、大橋の下流、数百メートルくらいかなぁ」

 「あ、わかりました。その話はまた」

 ホッとする姉妹。ここで話を振られたら、たちまち公然のスポットになってしまう。本日の進行役は涼しい顔して櫻の方を一瞥してニヤリ。「ったく、文花さんたら」 講師は話を継ぐ。「とにかく水際やヨシ原のゴミを片付けてくれる、というのはありがたいことです。川も悦ぶことでしょう」 こうしたゴミは社会の縮図、ゴミを通して社会の荒れ模様がわかる、再資源化できるものはゴミではないはずだが、人々の意識が資源をゴミ化させてしまっている等々、力説が続く。「なぜこんなゴミが、というちょっとした問いかけから全てが始まります。小さな一歩もやがては、大きな動きに。荒川も小さな水の集まりだけど、あのような流れになる訳で」 例の五つのカンがフリップに出てきた。「皆さんも、監・観・感・環・関を念頭に、地元の大自然、荒川へ行きましょう!」 大拍手とともに、掃部先生のお話はこれにて一旦終了。文花とのやりとりなどがあったせいか、予定時刻よりも押し気味。十九時四十分を回っていたが、盛会ならば申し分ないだろう。二十時には閉館しないといけないが、ここはチーフの裁量の範囲内。委託・受託の関係上、辰巳がいる中での時間延長は気が引けなくもなかったが、大目に見てもらうとしよう。「荒川を通した地球環境、いろいろと見えてきたと思います。ここで質疑応答、といきたいところですが、時間の都合上、ここでお開きとし、代わりに掃部さんを囲んで二十時までご自由に、というスタイルにします。どうも、ありがとうございました。もう一度、拍手を」 アドリブトークを織り交ぜられた余裕からか、文花にしては鮮やかなしめくくりだった。櫻はそんなチーフに対して、心から拍手を送っていた。


 八広は櫻の方を見て軽く会釈すると、そそくさと退席。櫻は思い出したように出口へ向かい「ありがとうございました」と声かけに回る。蒼葉は自発的に受付の片付けを始めた。半分ほど帰ったが、掃部先生の周りには、ちょっとした人垣ができていて、ガヤガヤやっている。

 「須崎さん、多少延長してもOKですよね」

 「ま、ここは矢ノ倉さんのご裁量でどうぞ。師匠を早々に追い立てる訳にもいかないし」

 「お話、通していただいて助かりました。お噂を聞く限り、おっかなびっくりだったんですけど、あんなに面白い方だったなんて」

 「昔はよく怒られましたよ。今はずいぶん円くなったかな」


 「じゃ、お姉様、私は先に失礼しますわ」

 「あ、ありがとね。またのお越しを」

 こういう場だと妹に対してもつい律儀になってしまう。時刻は二十時。先生はまだ数人と談話中。櫻はイスを片付けながら、耳を立てる。

 「この間、水際に立派な魚が打ち上がってて驚いちゃった...」 掃部氏と同年代と思しき女性が話しかける。写真帖を繰って、

 「こんな魚?」

 「あぁ、そうそう」

 「ソウソウ、ソウギョ」

 それは正しくソウギョだった。櫻は笑いをこらえつつ手を止め、話を聞く。「利根川水系では自然繁殖してるんだけど、荒川だとあんまりねぇ」 すかさず挙手する櫻。

 「先生、何で打ち上がってしまうんですか?」

 「おっと、お姉さん、ズバッと来たねぇ。魚の都合だから、俺にはわかんないけど、水温の変化とか、水が濁ったとか。とにかくソウギョに訊かねぇとな」

 「海水が来るのを避けて、ってことですか」

 掃部公の表情が変わる。

 「確か汽水域でも平気だから、それはないだろうけど、さすがに海には出られないんだな」

 「ありがとうございます!」

 残った数人は「へぇ」とか「ほぉ」とかまだやっている。文花は魚の写真を見て何となく固まっている様子。

 「千住さん、元気そうだね」

 「課長、受付通らないから、わかりませんでしたよ」

 「いやぁ、内輪みたいなもんだからね」

 どことなくぎこちなげな二人。櫻にとって辰巳は、元上司というよりも身元保証人のようなところが今はあるので、相応の振る舞いをしないといけない。辰巳はそのあたりを汲んで、余計な負荷をかけまいと、控えめに客席に紛れていたようだ。櫻へのちょっとした気遣いだが、本人にはどうもうまく伝わっていない模様。まぁ元気でやってるならいいか。

 ガヤガヤが済んで、清掃部おじさんと地域振興課長さんが一緒に出て行ったのは、二十時十五分。文花はまだ残るという。

 「文花さん、今日は環境デーなんだから、省エネしなきゃ。あまり残ってちゃダメですよ」

 「ハイハイ。でも忘れないうちに今日のことメモっとかないといけないから」

 顔がわかる範囲で本日の参加者宛に速報メールを打つんだとか。頭が下がる。


 市民メディア云々の編集会議が終わって、帰って来た千歳君。「八広君はちゃんと行ってくれたかな」 ケータイからの早打ちで、取り急ぎの報告メールは届いていた。「講師は掃部清さん? はぁ、何か変わったお名前で」 そのメールにかぶさるように、南実からの一報が届いていた。講座の件は後回し。「画像の転載、おそれいります。でも、隅田さんが撮ってくれた写真の方はどうしてウキだけなんでしょ?」と来た。クレームのようなそうでないような不可思議な文面。「肖像権の問題とかあるしなぁ」 お騒がせのウキは筆立てに収まっている。ブツブツやりながらも、早速返信。「クリーンアップの日程などを公開することになったら、いずれ関係者の写真を載せる機会も出てくるでしょう。それまでは非公開ってことで...」といった弁解モード。ちょっとトホホな気分である。「櫻さんと早く相談した方がいいかな」 トリミングしていない元の画像ファイルをやや小さめにリサイズして添付する。南実の反応やいかに?


 仕様書がようやく仕上がったGo Hey君は、ようやくいつものノリが戻ったようで「千ちゃんに送るのが筋だけど、この際だからCCで女性二人にも入れちゃおう!」 渾身の一作だが、あとは千歳マネージャー次第。彼のチェックを経て、櫻→弥生と渡ることになる。


 六月三日から五日まで、短期間ながら四人衆の間でメールのやりとりが活発になってきた。出遅れていた櫻だったが、六日に出勤すると早速三人に向け、同報でコメントを発信。南実には、写真の感想、文花との後日談、データカードにレジンペレットの数を加えて提出に備えていること、など。「ソウギョのことはまだいいかな。外来魚のことも調べてくれるって言ってたし」 掃部先生のことはひとまず伏せておく。業平には、仕様書の御礼方々、千歳と相談してからプログラマーに渡す旨など。そして千歳には「千さんが三日に目撃したと思われる人物と接触しました。詳細は今度いらした時に...」 ちょっと思わせぶりな一筆で締めくくる。


 たまたま出かける用件がなかった千歳は、櫻がメールを打っている時分、仕様書への赤入れを着々と進めていた。「ステップとしては、①サイトにアクセス、②自治体選択、③画面呼び出し、④必要事項&数値入力、⑤確認画面、⑥送信実行、で確かにいいんだろうけど、品目追加のところと、ずっと画面を開けとかないといけないってところが引っかかるねぇ...」 赤入れの手が止まったところへ、櫻メールが到着。「相談してからプログラマーさんに渡すって... でもいつ?」 とりあえずさっさとチェックして、櫻姉に送るとしよう。発砲(→泡)スチロールといったシャレにならない誤字は業平ならではか? その辺の校正も入れつつ、午後早々には、To:櫻職場、Cc:業平、南実自宅、Bcc:櫻自宅、といった振り分けで、チェックを無事クリアした仕様書案が発信された。


 午後は、ニュースレターの仕分けやらイベント情報の入力やら。六月はどうも情報量が増えるようだ。その合間にカウンター業務が入るものだから、ろくろくメールチェックできなかった櫻。早番だったので、明るいうちに帰宅できたのは幸いだった。「あ、仕様書の直し、もう届いてる」 相談するまでもなかったか、と思いつつも、Toが櫻で、同じく自宅宛がBccという千歳の配慮が嬉しく感じられた。「一応皆さんの意見云々てなってるけど、ケータイの世界は私ダメだし、ここは小松さん次第かな」 千歳からのメール末尾には「返信期限は八日までで良いですかね。櫻さん?」という一文が。一人で頷く櫻。優しい妹はいつもの調子で、

 「櫻姉!」

 「わぁ!」

 夕飯の時間なのであった。

 「あとで、桑川さんのアドレス教えてね」

 「お一つ千円です」

 「たく、誰に似たんだか」

 六月の夕べはまだまだ明るい。


 千歳、業平、櫻、再び千歳の順で三人から届いたメールに目を通す南実。日付は七日に変わる頃合だった。環境月間だと言うのに、自身の職場環境はどうも対象外のようで、残業続き。さすがの南実もおつかれモードだったが、櫻からのメール中、例の思わせぶりな一節を見て瞠目(どうもく)。「え、今度いらした時って?」 千歳からの返信メールも思っていた程の反応がなかったこともあって、余計にピリピリして来た。業平君の快作も空しく、南実の心中は「気になるなぁ」状態。アクティブな彼女のこと、きっと何か仕掛けてくるだろう。

 

【参考情報】 枯れヨシの活用策


漂着静物画

11. 漂着静物画


 梅雨入りしたはずが、低気圧が抜けるのが早かったとかで、梅雨明けのような晴天に見舞われた六月の日曜日。蒼葉にはこの間の掃部先生の大判写真が目に焼きついていて、ある衝動に駆られていた。「荒川の叫び、というか、何か描ければいいんだけど」 こちらはフリップではなく、れっきとしたスケッチブック。今日のところは水彩で、ということは決めていたが、題材は未定。櫻姉には内緒で朝早く出てきた。橋から見下ろす川面は東からの陽光を吸収して、旺盛に輝いている。「これをそのまま描いたら写生だしなぁ」とか言いつつも、しばし流れる川波と光を見送る蒼葉。より遠方には鉄道橋。上り寝台特急が走って行く。そしてその橋梁の下から小型貨物船が遡って来た。絵を描く上で、蒼葉の視力は十分過ぎる程である。それゆえ、目に映るものあれもこれもとなってしまうのが悩ましい。歩き出す蒼葉の横を高校生風のお嬢さんが自転車で通り過ぎた。「あ、ごめんなさい」 その一言は柔らかく、蒼葉の印象に残った。

 とにかく干潟の方へ行ってみることにした。三日に行き損なった分、思いはひとしお。「七月一日の下見も兼ねて、と」 前回はミミズに目を奪われてしまったが、今日は草花に目が行く。ネジバナの紅色、ミヤコグサの淡黄色が初夏を彩っている。野球の試合はお休み。辺りは静寂に包まれている。

 デニムのハーフパンツにリボンシャツ、この恰好なら動きやすい。干潟へはひと降りである。「いやぁ、またしても...」 周囲が静かな分、物言わぬ漂着物はその存在感を増し、袋状のものさえ重量感を醸している。慄然とする蒼葉。「千歳さんも最初は衝撃を受けたんだろな」 潮位が変化する前に、アウトラインだけでも描き止めようと、鉛筆を走らせる。向かって右側、ヨシ原に目が留まる。干潟に根を下ろすヨシの群れは、足元のゴミにはお構いなし。少しずつ高度を増す太陽に向かって競うように背筋を伸ばし、威勢がいい。

 「取り除けばもっと元気になるのかな」 流されてきたらしい一本の枝を手に、そろそろと下流側のヨシ群へ。あまりの数のカニの巣穴に恐々としながらも、プラスチック製の包装類やペットボトルなんかを根元からどかしていく。レジ袋を一つ除けると、新しい茎がいくつか顔をのぞかせた。「なーるほど」 ヨシヨシと心の中で呟きながら、再び配置に付く。干潟の奥地は、毎度の如くヨシの束で覆われているが、うまく平らにすれば砂地に直に置くよりはいい。折り畳み式のミニベンチをそこにセットして、本腰を入れる蒼葉。鳥の啼き声もヨシの擦過音も耳に入らない。時折、寄せてくる波の音にハッとする程度。広めの干潟と大きめのヨシ、水際には漂着物が誇張気味に配されていく。そして、別の一枚には習作らしき線画がいくつか描かれていく。

 印象派志向の蒼葉嬢だが、印象派画家で水彩作品があるのは「シニャックか、デュフィか」なんだそうで、手本が限られている分ちょっと描きにくそう。「あ、水...」 水彩用絵具と筆は持って来たが、うっかり水溶きの用具を忘れてしまった。すでに太陽は真上近くまで来ている。干潮はピークに。「あ、そうだ」 何を思ったか、近くにあった食品トレイを拾うと、退潮してしまった水際に駆け寄り、トレイを濯ぎ始めた。そしてそのまま川の水を掬う。「川を描くんだから、やっぱり同じ成分を使わなきゃ」 この辺りの機転は姉と似ている? 筆はと言えば、櫻曰く「庭に生えてた」例の一本。太めなので、まず大まかなところの彩色に使ってみる。筆はすでに川の水に馴染んでいた訳だから、違和感ないだろう。川の青はよく見ると悲痛な色を湛(たた)えている。要するにブルーなのである。

 空の青と対照を成す川の青。ヨシと干潟を力強く描くことで、その愁いあるブルーを少しでも清らかに見せようとするが、漂着物の現実がそれを妨げる。缶の銘柄などが目に入ると、つい筆が止まってしまう。そして小さく溜息。それでも上物の筆は、青、緑、グレーと穂先の色を変えながら、忠実に蒼葉の想いを紙に映していく。あくまでラフスケッチのつもりだったが、小筆に持ち替えると細部にも力が入っていく。現実は現実と受け止める。それは悲嘆にも通じるが、逆に幾許(いくばく)かの希望をも浮かび上がらせる。果たして、川の水を使った効果か否か、何かが乗り移ったようにその「水彩」は展開され、どことなく荒川の匂いを含む一枚が仕上がった。陰翳を伴っているが、印象派風の光を髣髴(ほうふつ)とさせている。ふと時計を見る。十三時半を回っていた。

 軽々と陸に上がり、今日は人気ない洗い場でトレイをひと漱(すす)ぎ。画面いっぱいの水彩画は日光浴。ミニベンチを置いて、ピクニックスタイルの昼食を一人でとる蒼葉。離れていても目立つお嬢さんは、河川敷道路を自転車で通過中の青年の目に止まった。「この間、センターで見かけた人かなぁ?」 今日はゆっくりめに走っている。彼は例の縁起のいい名前の持ち主。掃部先生の一言に触発されたか、地元の大自然にやって来たようだ。このあたり実に素直である。「も一回、橋から下流側を見てみっか」 話に出ていた干潟を探しているらしい。小休止後、青年は上流側へ去って行った。

 蒼葉は再び干潟へ下りる。習作のつもりで描いた線画にも、この際着色してみようと思ったようだ。潮が反復して来ていて、川の水は手近だった。またトレイでひと掬(すく)いしようとしたその時、見慣れない小型の透明チューブに出くわした。「あら、何か青い液体が...」 おそるおそる手にとって、チューブの一端を見てみるとCOD(D)と打ってある。「何かの試薬かなぁ」 時間が経っているので、正しい標本色ではないのだが、その深い青は彼女を大いに惹き付けた。現場経験が一度でもあれば抵抗感がなくなるようで、その辺に落ちていた空の小型ペットボトルにその青チューブを収容する。櫻姉経由で矢ノ倉チーフに聞けばわかるだろう、という手筈である。

 青の衝動とでも言おうか、その後の習作はいずれも青が基調になった。漂着物の数々も青をなぞってから、モノトーンをかぶせるような描き方。四人でわいわいと拾ったり数えたりした物体が、今は正に自然にとっての脅威のように重々しく映る。我ながらその切迫感に息を呑む。筆も震えた。動力船が通過する。程なく、海でのそれとは異なる間隔の細かい波が干潟に押し寄せてきた。そろそろ潮時のようだ。十五時近く、太陽は上流側の橋に架かる位置まで傾いている。波は規則的に続き、しばらくしてから平面に戻った。だが、蒼葉の心にはいつまでも波が残っているようだった。

 本来の仕事を終えた筆は、川の水から離れ、今は水道水を浴びている。筆の水を切る時、その突端に字が彫ってあることに気付いた蒼葉。「ン? K.K.だって。持ち主のイニシャルかも」 習作第二部が乾くのを待って、帰途に着く。画家の日曜日はこうして過ぎていく。


 「蒼葉ったら、ケータイも持たないでどこ行っちゃんたんだか...」と妹を案じつつも、姉は姉で一人の時間を閉ざされた空間で過ごしていた。姉妹の日常は平屋の戸建が舞台だが、庭には別棟(はなれ)があって、時には出番が回って来る。主用途はアトリエだが、アップライトのピアノも置いてある。画業に集中するために防音構造になっているが、それは音楽家にとっても好都合だったようで、ピアノも気兼ねなく弾けるという特典つき。ピアノに向かうこともなくなっていた櫻だったが、妹がいないのも手伝って、今日はここで缶詰になっている。例の機内チャネルの一曲を耳で憶え、ピアノ部分をアレンジしながら、一音一音確かめるように弾く。器用なものだ。

 空の想念を音で描く櫻、川の現実を水彩で描く蒼葉。青い広がりを持つものを「描く」という点で同じだが、アプローチは異なる。食事中の表情も対照的な姉妹。習作第一部とともに、大まかな状況報告を受け、ウンウンと頷く姉君だったが、波が収まらない妹君は、

 「私、隅田さんにメールする!」と、いつになく衝動的に一言。そして、「弥生のアドレスと交換てことで、いいでしょ。櫻姉さん」

 「ま、今のところ、モノログに新ネタ載ってないみたいだから、蒼葉からスクープが届けば、喜ぶとは思うけど」

 「何かこう、他の人にも広く知ってもらいたいな、ていうのがあって...」

 「でも、現場で写真撮ってないでしょ。ケータイ置いてっちゃうし」

 「これ、載せてくれないかなぁ」

 習作第二部を繰る。彩色した漂着物の数々は、蒼葉にしてはトーンが暗めなので、櫻も驚く。感想を述べるには及ばない。習作という域を超え、そのメッセージは鮮烈に伝わった。

 「ケータイで写せる?」

 「姉さんの職場まで持ってってスキャンする程じゃないものね。試してみる」

 かくして、更新ネタを取材し損ねていた千歳君に、思わぬ投稿が舞い込んでくることになった。

 「なんと写実的で重厚な...」 櫻が加わるようになってからというもの、千歳にとってのゴミ箱干潟は、むしろ明るく朗々としたイメージに彩られていた。だが、蒼葉が描き留めた「漂着静物画」は物言わぬ故の重く響くメッセージを伴い、彼の心をも波立たせた。三月のあの衝撃、初心を想起させて止まなかったのである。「そう、だからブログで発信しようって」 蒼葉の思い、届いたようである。

 「それにしても、こうなるとゴミじゃなくてアートだね」 川の水で溶いた隠れた青。それが哀感を滲ませる。缶、ライター、カップめんの容器、さらにはゲームソフトのケースまで... 低解像度ながら、千歳の手によってweb上で再現されていくモノの表情。漂着モノログの新展開、と言ったら大げさだろうか。

 静物画に目を奪われて、見落としかけた一節がある。蒼葉からのメールの末尾には、「p.s. 六月二十二日は、ローソクを持ってセンターへお越しください、とのことです」 「え、ローソクって?」 職場訪問の日程調整は済んでいたものの、特に持ち物などについては指示がなかったので、余計に不思議に思う千歳だった。


 蒼葉とはケータイがつながらなかったこともあり、時間を持て余し気味だった弥生嬢。設計仕様書が櫻から届いたのは一週間前だったが、ある程度構想は練ってあったため、比較的スピーディにプログラムは組めていた。今日は時間を埋め合わせるようにその追い込みに入っている。「二十二日、多分間に合うと思うけど、データをどこにストックしてもらうか、詰めないとね」 彼女は専門学校でこの手のプログラミングをマスターした後、そのスキルをより実社会的に応用させるための接点を求め、社会科学系の大学に中途編入した人物。舌鋒鋭い点も含め、気鋭の人(蒼葉談)である。かくいう蒼葉は、絵描き修行のためフランス留学した後、己の画業を模索する中で、通俗的でありながら批評性(いや風刺か)を備えた表現を深めることを思い立ち、弥生と同じ社会学科を選んだ次第。学業がどの程度、絵画に活かされようとしているのかは、未知数である。だが、一つのきっかけは掴(つか)めた、と言っていいだろう。

 

【参考情報】 パックテストでCODを測る



読者登録

冨田行一さんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について