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六月の巻(おまけ)

荒川の目線

六月の巻(おまけ)

10. 荒川の目線


 月曜日は休館日なので、櫻が南実からのメールを見たのは火曜日のことだった。櫻の名刺にはセンター用のアドレスのみで、自宅用は記していない。「そっか、小松さんには自宅用の教えてなかったんだ」 メールの使い分けについて少々思案する櫻。南実は文花つながりでもあるので、基本的には職場からやりとりできればいいか、などと思いながら、添付画像を開いてみる。いつしか文花が傍に立っていて、

 「あら、その粒々の写真、何?」

 「あ、文花さん、日曜日はサプライズでしたよぉ。教えてくれればいいのに」

 「え?」

 「小松南実さん、来ましたよ。で、彼女の研究テーマの写真がこれ!」

 「ハハ。まさか本当に行くとはねぇ。でも少しは役に立ったでしょ?」

 「えぇ、おかげ様で」

 選り分けられた粒々を見ながら、よく見分けがつくものだと感心しつつも、ちょっと浮かない櫻。文花は逆に楽しそう。「さぁ、夜の準備しなきゃ」


 情報通の文花は、どこで聞き付けたのか環境の日に因んで、件の五カンおじさんをゲストに迎える手筈を整えていた。今回の講座は、地域交流型の催しとして試行的に行うもの。そのため、公的な広報等にはあまり出さず、ネットを介した口コミベースで何となく発信した程度。しかも、ゲスト講師の氏名は当日のお楽しみ、という。櫻ですら誰が出てくるのか聞かされていないというから、ある意味、仰天企画である。純粋な公的機関ではこうした企画は通らないだろう。実験的アプローチを許されたセンターの特性を弁えた、ちょっとした工夫だが、文花としては賭けでもあった。日時と会場以外にハッキリしているのは、タイトルだけ。「荒川の目線で地球環境を考える」とな。

 ワンフロアのセンターだが、講座を開くにはちょうど良い大きさのフリースペースがあって、三十人程度の席が設けられるようになっている。あえて事前申込制にはしなかったので、開始時間まで参加人数はわからない。だが、文花の読みはズバリで、この夜、二十五人が集まった。

 会社帰りにフラと立ち寄ってもらおうということで、開始は十九時。男女半々、年齢層もバラついた感じ。いい塩梅である。客席には初老の男性もチラホラいて、顔を見合わせたりはしているが、談笑するでもなくただ開講を待っている。定刻になり、文花が挨拶に立つ。この手のご挨拶はあまり得意としていないチーフだが、試験的な催しということで肩の力が抜けた感じで一言二言。受付で見守る櫻もひと安心。

 「これはこれは蒼葉さん、ようこそお越しくださいました」 開始直後、妹君も駆けつけて来た。

 「満員御礼ですかぁ。関係者席とかないの?」

 「あのねぇ」

 蒼葉はやはり目立つようで、男性客の視線を何となく集めながら奥の席に着いた。「それにしてもゲストスピーカーの方、まだいらっしゃらないようだけど...」 その点がちょっと引っかかる。

 「では、お待ちかね。今日の講師、掃部(かもん)清澄さんです」

 「え?」 櫻の目線の先には、客席からひょこと立ち上がった、初老男性の姿。スケッチブックのようなフリップを携えながら、前方へ。足取りはどことなく蟹股(がにまた)。厳格そうな面持ちとは裏腹にちょっと滑稽な印象。「またしてもサプライズ、か」 櫻は苦笑するしかなかった。

 「私、本名は掃部清と言いますが、欧米風に清・掃部とやりますと、清掃部になっちまうもんで、ペンネームを使うことにしまして...」 リングで綴じたフリップをパラパラやりながら、まずは名前の云われの紹介。客は一斉に大笑い。つかみを心得た人物である。「今日はあそこに突っ立っている役人さんに『酒呑んでるシマがあったら、こっち来て話聞かせろよ』とか言われたもので、仕方なく...」 またまた爆笑を誘う。櫻もすっかり引き込まれてしまった。しかし、突っ立っている役人さんて? その方を見遣る。「あ、須崎課長!」 櫻の元上司、須崎辰巳がいつの間にか奥の方に立っていて、苦笑いしている。ヒの発音がうまくできない掃部公。生粋の江戸っ子である。「皆さん、酒呑んでるヒマですからね。シマじゃないですよ」 辰巳のナイスフォローに一部から拍手が起こる。文花も思わず拍手。そして会場は一気に掃部ワールドへ。

 フリップは写真帖でもあった。荒川流域の春から夏にかけての季節の草花などが次々と出てくる。「これはカントウタンポポ、次はご存じツクシ... うまく調理すれば結構いけます。荒川の恵みですな」 櫻にも見覚えがある植物の数々。荒川流域にもともとあった在来種をこれ以上減らさない、それと並行して、すでに減ってしまった、または絶滅してしまった在来種を戻していく、その両方が大事、といった話に続き、「今の季節は、このネズミホソムギが大敵でして」 外来種の話題になった。これを駆除することが在来種を守ることにもつながるのだと言う。「それ、花粉症のもとなんですよね」 文花が思わずツッコミを入れる。トークショーのような感じになってきた。その時、一人の青年が遅れて受付に。

 「いらっしゃいませ」

 「スミマセン。まだ大丈夫スか?」

 「はい。こちらへお名前を」

 宝木八広(たからぎ・やつひろ)と筆を走らせる。縁起のいい名前である。実は千歳から話を聞いて駆けつけたのだが、この時の櫻にはそんな経緯は知りよう筈がない。だが「この間、CSRレポートを見にいらした方ですよね」ということは記憶していた。

 「あ、先日はどうも」

 「奥の席へどうぞ」

 青年の後姿を見ながら、まだ何かを思い出せずにいる櫻。この間、イネ科植物の話を聞き漏らしてしまったが、文花が「皆さんもネズミホソムギを見つけたら根こそぎ刈りましょうね」 なんて妙なまとめをしているのがふと耳に入り、「草を刈る、ってことは、もしかして」 櫻には思い当たるフシがあった。

 ヨシの写真が出てきた。「そんな外来種と陣取り合戦をしているのがこのヨシ。悪しではなく『良し』と覚えてください」 ヨシには二酸化炭素の吸収、水質の浄化、生き物の棲家、といった機能があることに触れながら「ヨシを見かけたら『ヨシヨシ』と可愛がってやってくださいな」 またまた笑いに包まれる。櫻も客席に入り、蒼葉の隣へ。蒼葉は目を見開いて、写真を見つめている。

 ヨシでは鳥の営巣も見られる。「このヨシゴイ 対 オオヨシキリは見ものでした」 ヨシゴイの方が大柄だが、鳴き声で分があるオオヨシキリがこの時は勝ったとか。縄張り争いの決着の瞬間を写真に収める力量、大したものである。「ちなみにオオヨシキリさんは、ギョシギョシと鳴きます。私はキヨシキヨシですが」 八広は櫻の近くの席にいた。遅れて来た彼は講師の本名は知らないはずだが、言い回しが面白いのか、大爆笑している。櫻はギョシギョシでハッとさせられた。ヨシから飛び立って行ったのは、オオヨシキリだったんだ!

 「ところで皆さん、バイオエタノールてぇのはどうなんでしょう?」 突如、燃料の話になる。トウモロコシなど食糧になるものを燃料にしてまで消費をせずにはいられない、人間の哀しき性癖はどうにも治らないといった嘆き節だった。「どうせなら、ヨシの枯れ枝を使えばよろしい」 現場でヨシ束を目の当たりにしている櫻にとっては、説得力のある話だった。使い道があるのなら、あの束の除去もビジネスモデルになるってこと? 「まだ実用化メドはハッキリしませんが、枯れても用途があるとなれば、万能ですな。だが、ヨシにとって大きな脅威があります。外来種の侵入以上に」 ヨシ原とその根元に押し寄せる人工物とゴミが大写しになっている一枚を示す。「外来種もゴミですが、これは正真正銘のゴミ。これじゃヨシはしとたまりもありません」 ひとたまりがうまく言えないがここはご愛嬌。「干潟で見たのと同じね」 蒼葉がポツリ。成長したヨシがプラスチックシートを突き破って、そのまま茎にまとっている例も出てきた。「こことは別のし潟(干潟)で最近クリーンアップをしている連中を見かけまして...」

 「姉さん、もしかして」

 「ということは千歳さんが見かけたのってやっぱり」

 思わず姉妹で目が合う。辰巳は「ひがた」とフォローしようとしたが、着席していたので、タイミングを逸してしまったようだ。

 「掃部さん、クリーンアップチームって、若手数人の?」 櫻は何となく嫌な予感はしていたが、案の定、文花がチャチャを入れてくれたりする。

 「いやぁ対岸からだったんで、よくわかんなかったけどさ、大橋の下流、数百メートルくらいかなぁ」

 「あ、わかりました。その話はまた」

 ホッとする姉妹。ここで話を振られたら、たちまち公然のスポットになってしまう。本日の進行役は涼しい顔して櫻の方を一瞥してニヤリ。「ったく、文花さんたら」 講師は話を継ぐ。「とにかく水際やヨシ原のゴミを片付けてくれる、というのはありがたいことです。川も悦ぶことでしょう」 こうしたゴミは社会の縮図、ゴミを通して社会の荒れ模様がわかる、再資源化できるものはゴミではないはずだが、人々の意識が資源をゴミ化させてしまっている等々、力説が続く。「なぜこんなゴミが、というちょっとした問いかけから全てが始まります。小さな一歩もやがては、大きな動きに。荒川も小さな水の集まりだけど、あのような流れになる訳で」 例の五つのカンがフリップに出てきた。「皆さんも、監・観・感・環・関を念頭に、地元の大自然、荒川へ行きましょう!」 大拍手とともに、掃部先生のお話はこれにて一旦終了。文花とのやりとりなどがあったせいか、予定時刻よりも押し気味。十九時四十分を回っていたが、盛会ならば申し分ないだろう。二十時には閉館しないといけないが、ここはチーフの裁量の範囲内。委託・受託の関係上、辰巳がいる中での時間延長は気が引けなくもなかったが、大目に見てもらうとしよう。「荒川を通した地球環境、いろいろと見えてきたと思います。ここで質疑応答、といきたいところですが、時間の都合上、ここでお開きとし、代わりに掃部さんを囲んで二十時までご自由に、というスタイルにします。どうも、ありがとうございました。もう一度、拍手を」 アドリブトークを織り交ぜられた余裕からか、文花にしては鮮やかなしめくくりだった。櫻はそんなチーフに対して、心から拍手を送っていた。


 八広は櫻の方を見て軽く会釈すると、そそくさと退席。櫻は思い出したように出口へ向かい「ありがとうございました」と声かけに回る。蒼葉は自発的に受付の片付けを始めた。半分ほど帰ったが、掃部先生の周りには、ちょっとした人垣ができていて、ガヤガヤやっている。

 「須崎さん、多少延長してもOKですよね」

 「ま、ここは矢ノ倉さんのご裁量でどうぞ。師匠を早々に追い立てる訳にもいかないし」

 「お話、通していただいて助かりました。お噂を聞く限り、おっかなびっくりだったんですけど、あんなに面白い方だったなんて」

 「昔はよく怒られましたよ。今はずいぶん円くなったかな」


 「じゃ、お姉様、私は先に失礼しますわ」

 「あ、ありがとね。またのお越しを」

 こういう場だと妹に対してもつい律儀になってしまう。時刻は二十時。先生はまだ数人と談話中。櫻はイスを片付けながら、耳を立てる。

 「この間、水際に立派な魚が打ち上がってて驚いちゃった...」 掃部氏と同年代と思しき女性が話しかける。写真帖を繰って、

 「こんな魚?」

 「あぁ、そうそう」

 「ソウソウ、ソウギョ」

 それは正しくソウギョだった。櫻は笑いをこらえつつ手を止め、話を聞く。「利根川水系では自然繁殖してるんだけど、荒川だとあんまりねぇ」 すかさず挙手する櫻。

 「先生、何で打ち上がってしまうんですか?」

 「おっと、お姉さん、ズバッと来たねぇ。魚の都合だから、俺にはわかんないけど、水温の変化とか、水が濁ったとか。とにかくソウギョに訊かねぇとな」

 「海水が来るのを避けて、ってことですか」

 掃部公の表情が変わる。

 「確か汽水域でも平気だから、それはないだろうけど、さすがに海には出られないんだな」

 「ありがとうございます!」

 残った数人は「へぇ」とか「ほぉ」とかまだやっている。文花は魚の写真を見て何となく固まっている様子。

 「千住さん、元気そうだね」

 「課長、受付通らないから、わかりませんでしたよ」

 「いやぁ、内輪みたいなもんだからね」

 どことなくぎこちなげな二人。櫻にとって辰巳は、元上司というよりも身元保証人のようなところが今はあるので、相応の振る舞いをしないといけない。辰巳はそのあたりを汲んで、余計な負荷をかけまいと、控えめに客席に紛れていたようだ。櫻へのちょっとした気遣いだが、本人にはどうもうまく伝わっていない模様。まぁ元気でやってるならいいか。

 ガヤガヤが済んで、清掃部おじさんと地域振興課長さんが一緒に出て行ったのは、二十時十五分。文花はまだ残るという。

 「文花さん、今日は環境デーなんだから、省エネしなきゃ。あまり残ってちゃダメですよ」

 「ハイハイ。でも忘れないうちに今日のことメモっとかないといけないから」

 顔がわかる範囲で本日の参加者宛に速報メールを打つんだとか。頭が下がる。


 市民メディア云々の編集会議が終わって、帰って来た千歳君。「八広君はちゃんと行ってくれたかな」 ケータイからの早打ちで、取り急ぎの報告メールは届いていた。「講師は掃部清さん? はぁ、何か変わったお名前で」 そのメールにかぶさるように、南実からの一報が届いていた。講座の件は後回し。「画像の転載、おそれいります。でも、隅田さんが撮ってくれた写真の方はどうしてウキだけなんでしょ?」と来た。クレームのようなそうでないような不可思議な文面。「肖像権の問題とかあるしなぁ」 お騒がせのウキは筆立てに収まっている。ブツブツやりながらも、早速返信。「クリーンアップの日程などを公開することになったら、いずれ関係者の写真を載せる機会も出てくるでしょう。それまでは非公開ってことで...」といった弁解モード。ちょっとトホホな気分である。「櫻さんと早く相談した方がいいかな」 トリミングしていない元の画像ファイルをやや小さめにリサイズして添付する。南実の反応やいかに?


 仕様書がようやく仕上がったGo Hey君は、ようやくいつものノリが戻ったようで「千ちゃんに送るのが筋だけど、この際だからCCで女性二人にも入れちゃおう!」 渾身の一作だが、あとは千歳マネージャー次第。彼のチェックを経て、櫻→弥生と渡ることになる。


 六月三日から五日まで、短期間ながら四人衆の間でメールのやりとりが活発になってきた。出遅れていた櫻だったが、六日に出勤すると早速三人に向け、同報でコメントを発信。南実には、写真の感想、文花との後日談、データカードにレジンペレットの数を加えて提出に備えていること、など。「ソウギョのことはまだいいかな。外来魚のことも調べてくれるって言ってたし」 掃部先生のことはひとまず伏せておく。業平には、仕様書の御礼方々、千歳と相談してからプログラマーに渡す旨など。そして千歳には「千さんが三日に目撃したと思われる人物と接触しました。詳細は今度いらした時に...」 ちょっと思わせぶりな一筆で締めくくる。


 たまたま出かける用件がなかった千歳は、櫻がメールを打っている時分、仕様書への赤入れを着々と進めていた。「ステップとしては、①サイトにアクセス、②自治体選択、③画面呼び出し、④必要事項&数値入力、⑤確認画面、⑥送信実行、で確かにいいんだろうけど、品目追加のところと、ずっと画面を開けとかないといけないってところが引っかかるねぇ...」 赤入れの手が止まったところへ、櫻メールが到着。「相談してからプログラマーさんに渡すって... でもいつ?」 とりあえずさっさとチェックして、櫻姉に送るとしよう。発砲(→泡)スチロールといったシャレにならない誤字は業平ならではか? その辺の校正も入れつつ、午後早々には、To:櫻職場、Cc:業平、南実自宅、Bcc:櫻自宅、といった振り分けで、チェックを無事クリアした仕様書案が発信された。


 午後は、ニュースレターの仕分けやらイベント情報の入力やら。六月はどうも情報量が増えるようだ。その合間にカウンター業務が入るものだから、ろくろくメールチェックできなかった櫻。早番だったので、明るいうちに帰宅できたのは幸いだった。「あ、仕様書の直し、もう届いてる」 相談するまでもなかったか、と思いつつも、Toが櫻で、同じく自宅宛がBccという千歳の配慮が嬉しく感じられた。「一応皆さんの意見云々てなってるけど、ケータイの世界は私ダメだし、ここは小松さん次第かな」 千歳からのメール末尾には「返信期限は八日までで良いですかね。櫻さん?」という一文が。一人で頷く櫻。優しい妹はいつもの調子で、

 「櫻姉!」

 「わぁ!」

 夕飯の時間なのであった。

 「あとで、桑川さんのアドレス教えてね」

 「お一つ千円です」

 「たく、誰に似たんだか」

 六月の夕べはまだまだ明るい。


 千歳、業平、櫻、再び千歳の順で三人から届いたメールに目を通す南実。日付は七日に変わる頃合だった。環境月間だと言うのに、自身の職場環境はどうも対象外のようで、残業続き。さすがの南実もおつかれモードだったが、櫻からのメール中、例の思わせぶりな一節を見て瞠目(どうもく)。「え、今度いらした時って?」 千歳からの返信メールも思っていた程の反応がなかったこともあって、余計にピリピリして来た。業平君の快作も空しく、南実の心中は「気になるなぁ」状態。アクティブな彼女のこと、きっと何か仕掛けてくるだろう。

 

【参考情報】 枯れヨシの活用策


漂着静物画

11. 漂着静物画


 梅雨入りしたはずが、低気圧が抜けるのが早かったとかで、梅雨明けのような晴天に見舞われた六月の日曜日。蒼葉にはこの間の掃部先生の大判写真が目に焼きついていて、ある衝動に駆られていた。「荒川の叫び、というか、何か描ければいいんだけど」 こちらはフリップではなく、れっきとしたスケッチブック。今日のところは水彩で、ということは決めていたが、題材は未定。櫻姉には内緒で朝早く出てきた。橋から見下ろす川面は東からの陽光を吸収して、旺盛に輝いている。「これをそのまま描いたら写生だしなぁ」とか言いつつも、しばし流れる川波と光を見送る蒼葉。より遠方には鉄道橋。上り寝台特急が走って行く。そしてその橋梁の下から小型貨物船が遡って来た。絵を描く上で、蒼葉の視力は十分過ぎる程である。それゆえ、目に映るものあれもこれもとなってしまうのが悩ましい。歩き出す蒼葉の横を高校生風のお嬢さんが自転車で通り過ぎた。「あ、ごめんなさい」 その一言は柔らかく、蒼葉の印象に残った。

 とにかく干潟の方へ行ってみることにした。三日に行き損なった分、思いはひとしお。「七月一日の下見も兼ねて、と」 前回はミミズに目を奪われてしまったが、今日は草花に目が行く。ネジバナの紅色、ミヤコグサの淡黄色が初夏を彩っている。野球の試合はお休み。辺りは静寂に包まれている。

 デニムのハーフパンツにリボンシャツ、この恰好なら動きやすい。干潟へはひと降りである。「いやぁ、またしても...」 周囲が静かな分、物言わぬ漂着物はその存在感を増し、袋状のものさえ重量感を醸している。慄然とする蒼葉。「千歳さんも最初は衝撃を受けたんだろな」 潮位が変化する前に、アウトラインだけでも描き止めようと、鉛筆を走らせる。向かって右側、ヨシ原に目が留まる。干潟に根を下ろすヨシの群れは、足元のゴミにはお構いなし。少しずつ高度を増す太陽に向かって競うように背筋を伸ばし、威勢がいい。

 「取り除けばもっと元気になるのかな」 流されてきたらしい一本の枝を手に、そろそろと下流側のヨシ群へ。あまりの数のカニの巣穴に恐々としながらも、プラスチック製の包装類やペットボトルなんかを根元からどかしていく。レジ袋を一つ除けると、新しい茎がいくつか顔をのぞかせた。「なーるほど」 ヨシヨシと心の中で呟きながら、再び配置に付く。干潟の奥地は、毎度の如くヨシの束で覆われているが、うまく平らにすれば砂地に直に置くよりはいい。折り畳み式のミニベンチをそこにセットして、本腰を入れる蒼葉。鳥の啼き声もヨシの擦過音も耳に入らない。時折、寄せてくる波の音にハッとする程度。広めの干潟と大きめのヨシ、水際には漂着物が誇張気味に配されていく。そして、別の一枚には習作らしき線画がいくつか描かれていく。

 印象派志向の蒼葉嬢だが、印象派画家で水彩作品があるのは「シニャックか、デュフィか」なんだそうで、手本が限られている分ちょっと描きにくそう。「あ、水...」 水彩用絵具と筆は持って来たが、うっかり水溶きの用具を忘れてしまった。すでに太陽は真上近くまで来ている。干潮はピークに。「あ、そうだ」 何を思ったか、近くにあった食品トレイを拾うと、退潮してしまった水際に駆け寄り、トレイを濯ぎ始めた。そしてそのまま川の水を掬う。「川を描くんだから、やっぱり同じ成分を使わなきゃ」 この辺りの機転は姉と似ている? 筆はと言えば、櫻曰く「庭に生えてた」例の一本。太めなので、まず大まかなところの彩色に使ってみる。筆はすでに川の水に馴染んでいた訳だから、違和感ないだろう。川の青はよく見ると悲痛な色を湛(たた)えている。要するにブルーなのである。

 空の青と対照を成す川の青。ヨシと干潟を力強く描くことで、その愁いあるブルーを少しでも清らかに見せようとするが、漂着物の現実がそれを妨げる。缶の銘柄などが目に入ると、つい筆が止まってしまう。そして小さく溜息。それでも上物の筆は、青、緑、グレーと穂先の色を変えながら、忠実に蒼葉の想いを紙に映していく。あくまでラフスケッチのつもりだったが、小筆に持ち替えると細部にも力が入っていく。現実は現実と受け止める。それは悲嘆にも通じるが、逆に幾許(いくばく)かの希望をも浮かび上がらせる。果たして、川の水を使った効果か否か、何かが乗り移ったようにその「水彩」は展開され、どことなく荒川の匂いを含む一枚が仕上がった。陰翳を伴っているが、印象派風の光を髣髴(ほうふつ)とさせている。ふと時計を見る。十三時半を回っていた。

 軽々と陸に上がり、今日は人気ない洗い場でトレイをひと漱(すす)ぎ。画面いっぱいの水彩画は日光浴。ミニベンチを置いて、ピクニックスタイルの昼食を一人でとる蒼葉。離れていても目立つお嬢さんは、河川敷道路を自転車で通過中の青年の目に止まった。「この間、センターで見かけた人かなぁ?」 今日はゆっくりめに走っている。彼は例の縁起のいい名前の持ち主。掃部先生の一言に触発されたか、地元の大自然にやって来たようだ。このあたり実に素直である。「も一回、橋から下流側を見てみっか」 話に出ていた干潟を探しているらしい。小休止後、青年は上流側へ去って行った。

 蒼葉は再び干潟へ下りる。習作のつもりで描いた線画にも、この際着色してみようと思ったようだ。潮が反復して来ていて、川の水は手近だった。またトレイでひと掬(すく)いしようとしたその時、見慣れない小型の透明チューブに出くわした。「あら、何か青い液体が...」 おそるおそる手にとって、チューブの一端を見てみるとCOD(D)と打ってある。「何かの試薬かなぁ」 時間が経っているので、正しい標本色ではないのだが、その深い青は彼女を大いに惹き付けた。現場経験が一度でもあれば抵抗感がなくなるようで、その辺に落ちていた空の小型ペットボトルにその青チューブを収容する。櫻姉経由で矢ノ倉チーフに聞けばわかるだろう、という手筈である。

 青の衝動とでも言おうか、その後の習作はいずれも青が基調になった。漂着物の数々も青をなぞってから、モノトーンをかぶせるような描き方。四人でわいわいと拾ったり数えたりした物体が、今は正に自然にとっての脅威のように重々しく映る。我ながらその切迫感に息を呑む。筆も震えた。動力船が通過する。程なく、海でのそれとは異なる間隔の細かい波が干潟に押し寄せてきた。そろそろ潮時のようだ。十五時近く、太陽は上流側の橋に架かる位置まで傾いている。波は規則的に続き、しばらくしてから平面に戻った。だが、蒼葉の心にはいつまでも波が残っているようだった。

 本来の仕事を終えた筆は、川の水から離れ、今は水道水を浴びている。筆の水を切る時、その突端に字が彫ってあることに気付いた蒼葉。「ン? K.K.だって。持ち主のイニシャルかも」 習作第二部が乾くのを待って、帰途に着く。画家の日曜日はこうして過ぎていく。


 「蒼葉ったら、ケータイも持たないでどこ行っちゃんたんだか...」と妹を案じつつも、姉は姉で一人の時間を閉ざされた空間で過ごしていた。姉妹の日常は平屋の戸建が舞台だが、庭には別棟(はなれ)があって、時には出番が回って来る。主用途はアトリエだが、アップライトのピアノも置いてある。画業に集中するために防音構造になっているが、それは音楽家にとっても好都合だったようで、ピアノも気兼ねなく弾けるという特典つき。ピアノに向かうこともなくなっていた櫻だったが、妹がいないのも手伝って、今日はここで缶詰になっている。例の機内チャネルの一曲を耳で憶え、ピアノ部分をアレンジしながら、一音一音確かめるように弾く。器用なものだ。

 空の想念を音で描く櫻、川の現実を水彩で描く蒼葉。青い広がりを持つものを「描く」という点で同じだが、アプローチは異なる。食事中の表情も対照的な姉妹。習作第一部とともに、大まかな状況報告を受け、ウンウンと頷く姉君だったが、波が収まらない妹君は、

 「私、隅田さんにメールする!」と、いつになく衝動的に一言。そして、「弥生のアドレスと交換てことで、いいでしょ。櫻姉さん」

 「ま、今のところ、モノログに新ネタ載ってないみたいだから、蒼葉からスクープが届けば、喜ぶとは思うけど」

 「何かこう、他の人にも広く知ってもらいたいな、ていうのがあって...」

 「でも、現場で写真撮ってないでしょ。ケータイ置いてっちゃうし」

 「これ、載せてくれないかなぁ」

 習作第二部を繰る。彩色した漂着物の数々は、蒼葉にしてはトーンが暗めなので、櫻も驚く。感想を述べるには及ばない。習作という域を超え、そのメッセージは鮮烈に伝わった。

 「ケータイで写せる?」

 「姉さんの職場まで持ってってスキャンする程じゃないものね。試してみる」

 かくして、更新ネタを取材し損ねていた千歳君に、思わぬ投稿が舞い込んでくることになった。

 「なんと写実的で重厚な...」 櫻が加わるようになってからというもの、千歳にとってのゴミ箱干潟は、むしろ明るく朗々としたイメージに彩られていた。だが、蒼葉が描き留めた「漂着静物画」は物言わぬ故の重く響くメッセージを伴い、彼の心をも波立たせた。三月のあの衝撃、初心を想起させて止まなかったのである。「そう、だからブログで発信しようって」 蒼葉の思い、届いたようである。

 「それにしても、こうなるとゴミじゃなくてアートだね」 川の水で溶いた隠れた青。それが哀感を滲ませる。缶、ライター、カップめんの容器、さらにはゲームソフトのケースまで... 低解像度ながら、千歳の手によってweb上で再現されていくモノの表情。漂着モノログの新展開、と言ったら大げさだろうか。

 静物画に目を奪われて、見落としかけた一節がある。蒼葉からのメールの末尾には、「p.s. 六月二十二日は、ローソクを持ってセンターへお越しください、とのことです」 「え、ローソクって?」 職場訪問の日程調整は済んでいたものの、特に持ち物などについては指示がなかったので、余計に不思議に思う千歳だった。


 蒼葉とはケータイがつながらなかったこともあり、時間を持て余し気味だった弥生嬢。設計仕様書が櫻から届いたのは一週間前だったが、ある程度構想は練ってあったため、比較的スピーディにプログラムは組めていた。今日は時間を埋め合わせるようにその追い込みに入っている。「二十二日、多分間に合うと思うけど、データをどこにストックしてもらうか、詰めないとね」 彼女は専門学校でこの手のプログラミングをマスターした後、そのスキルをより実社会的に応用させるための接点を求め、社会科学系の大学に中途編入した人物。舌鋒鋭い点も含め、気鋭の人(蒼葉談)である。かくいう蒼葉は、絵描き修行のためフランス留学した後、己の画業を模索する中で、通俗的でありながら批評性(いや風刺か)を備えた表現を深めることを思い立ち、弥生と同じ社会学科を選んだ次第。学業がどの程度、絵画に活かされようとしているのかは、未知数である。だが、一つのきっかけは掴(つか)めた、と言っていいだろう。

 

【参考情報】 パックテストでCODを測る


夏至の夜は長く

12. 夏至の夜は長く


 「それにしても、この青色、不思議ねぇ」 蒼葉が拾ってきたチューブは、櫻から文花の手に渡ったが、ひと調べするのに多少時間がかかったようで、金曜日になってようやくこの一言。

 「と、言いますと?」

 「これ、低濃度CODを測るパックテストなんだけど、緑がかった青にはなっても、こんな群青色みたいにはならないんだとかって」

 「化学的酸素要求量でしたっけ。化け学だけに、中で突然変異が起こったとか?」

 「パックテストを使った一斉調査が三日にあったから、その関係だとは思うけど、それでもそんなに日数経ってないしねぇ」

 時間経過で変色する可能性はある。それにしても腑に落ちない、ということのようだ。だが、櫻としてはその標本色の真贋の程よりも、「せっかくの調査も、調査用品がゴミになってしまってはいただけないですね」という思いの方が強かった。

 「ちょっと取扱が難しいから、うっかり落としちゃうこともあるんでしょ。このチューブの素材を生分解性にすれば、そういううっかりも少しは救われるかも知れないけど」

 何はともあれ、女性画家さんの作品に力を与えるきっかけにはなったんだから、良しとしたいところである。文花は証拠写真を撮ってから、パックテストの穴を塞ぐ。「じゃ、可燃ゴミに出しとくね」と席を立つ。そこへ現われた一人の男性客。「あ、いらっしゃいませ!」

 アシスタント(?)の八(やつ)広(ひろ)君には足を運ばせておいて、自身は今日が初来場。約束の午後六時にはちょっと早かったが、隅田千歳君、センターにお出ましである。

 ヒラヒラが目立つボリュームワンピースに透かし柄のニットという、フェミニンな着こなしのチーフにまず目が行き、櫻への挨拶がひと呼吸遅れる。「こんにちは、というか今晩は、というか、とにかく来ました。よろしくお願いします」 早々に舞い上がっている。データベース作業、大丈夫なんだろか。

 「隅田さんですね。矢ノ倉文花です。今日はわざわざすみません」 濃青のチューブを持ったまま、名刺を差し出す。千歳もマイバッグをガサゴソやって、一枚取り出し、

 「初めまして。櫻さんからいろいろ聞いてます。情報源チーフだって」

 「あら、そんな...」 櫻はカウンターで立ったまま、ちょっと拍子抜け。「じゃ、隅田様、こちらへ」 えらく慇懃(いんぎん)な口調で案内する。

 文花に会釈してから、開架式の棚のある方へ。情報閲覧用のノートPCを置いた円卓にはイスが複数あって、簡単な打合せができるようになっている。「櫻さん、挨拶し損なっちゃって、すみません。見違えちゃったもので」 文花の格好にもドキリとしたが、それ以上に櫻の服装の方がインパクト大だったのは言うまでもない。クリーンアップ向きのジーンズ+長袖シャツではなく、濃紺のカットソーに白のロングスカート。髪を部分的に束ねているのがこれまで見慣れている櫻だが、今日は束ねることなく、肩までかかるシャギー風。

 「え、私、普段はこうなんですよ」 毎度の如く、表情が急変する櫻嬢。すっかりにこやかになった。千歳君もその辺のご機嫌加減がわかってきたのか、本心が出やすくなったのか、照れ笑いは相変わらずだが、セリフ回しが上手くなったのは確かである。櫻の普段着は実はもうちょっとラフ。千歳が来るのに備え、蒼葉のアドバイスを受けつつ、グレードを上げていたのだが、「今日はおめかししました」とはあえて言わなかった。セリフ回しに関してはまだまだ櫻の方が上手らしい。

 文花は、自家製野菜を洗い場でひと洗いして、マイ包丁でザクザクやっている。その間、円卓の二人は、PC画面を見ながら早速打合せ中。

 「なるほど、確かにテーブルはできてますね。でも...」 データベースソフトを開いて、関係団体の名簿に当たる基礎情報をチェックする。元になるデータはあるものの、住所の表記がマチマチだったり、団体名に法人格の名称が入っていたりいなかったり、このままではソフトの機能を使いこなせないことを彼はまず見抜く。

 「団体情報が出ているホームページから引っ張ってきたり、表計算ソフトで入れ込んでたものを無理やりインポートしたもので」

 「じゃ、バックアップとってから加工してみますね」

 櫻が目をパチクリさせている間、千歳は適度に解説を交えつつ、ソフト特有の機能を使って混在しているデータを切り分けていく。

 「これで住所部分は、都道府県とそれ以外に分かれました」

 次の十分程で、財団・社団・NPO法人などの法人格の部分を分離。基礎情報の形は整った。ニンジンとキュウリをスティック状にして、冷蔵庫に入れ終えた文花がここで同席。

 「基礎情報はこのテーブルでメンテします。あとは、その団体がどんな情報を持っているか、のテーブルを別に作ります」

 「そっか、一つのテーブルに全てを入れる必要はないんだ」

 文花という名前の割には何故か理系のチーフは、早くも構造的に理解したようで、テーブルとテーブルをリンクさせれば済むことを悟る。こうなると話は早い。

 各団体がどんな情報媒体を持っていて、どんなトピックや催事情報を載せているか、これをメンテするためのフォームを作り出す千歳。櫻も食い入るように画面を見つめつつ、時に「この項目はプルダウンで選べるとうれしいかも」と注文を入れるようになっていた。機転が利くという彼女の本分もあるが、これはやはり具体的に「こうしたい」というのがハッキリしている故だろう。団体名がうまく表示できるようになったので、「で、この名前をプルダウン項目として引用すれば、団体名を選んでから入力できるようになります。一から団体名を入れなくて済むから、それだけでも速くなるでしょう」 データ入力画面の団体名の枠の▼をクリックすると、基礎情報の中でメンテしておいた各団体の名称が一覧表示で出るようになった。

 「データベースソフトって、こういう使い方ができたのね」 文花はこれで十分といった口調で感心中。だが、櫻はなおも追加コマンドを申し入れる。「じゃ、あとは検索ボタンと印刷ボタンをお願いします」 デザイン画面を二人で指差しながら、マンツーマン状態のご両人。チーフは微笑ましいやら、羨ましいやらの心境で、帰り支度を始める。

 「データの入力がひと区切りついたら、団体の基礎情報とそのトピック情報なんかを連結させて、一つの表なりデータシートにすればいい訳です」 千歳君の実践講座、小一時間で終了。即効性のあるものをその場で作り込んでしまう技量、大したものである。

 「それじゃあとはその連結させたものをエクスポートして、webに?」

 「そうですね。しばらくはそれで試してみて、いずれは逆にメンテはwebで、ってのもいいかも知れません。その辺りのプログラミングは僕にはできませんが」

 「とにかく今回はこれでメドが立ちました。ありがとうございましたっ♪」

 そこへ「櫻さん!」 チーフが呼んでいる。

 「じゃ、この野菜スティックと、あと会議費でピザでもとって」

 「あ、それはどうも。じゃ、ちょっと」

 円卓に戻る櫻。

 「千歳さん、苦手な食べ物ってあります?」

 「いえ、特に。飴がダメなくらいです」

 「飴ですか? まぁいいや、では!」


 「ねぇ文花さん、得意のケータイで注文してくださいよ。ケータリング専用ケータイでしょ?」

 「まぁ私の場合、通話用よりも情報操作用だからね。で、隅田さん、大丈夫って?」

 「この半分ずつ組み合わせられるのがいいかも」

 「はいはい」

 意外とちゃっかりしている櫻。割と気前のいい文花。この二人の組み合わせもなかなかである。文花はキャンペーンとやらでおまけで付いてくるアイスもしっかりオーダーに組み入れていた。こういうお節介(?)は大歓迎である。

 「それにしても、イイ人見つけたわねぇ、櫻さん♪」

 「エッ? いやそんな、ハハハ」

 ここで下手に、まだちゃんと交際している訳じゃないとか言おうものなら、何をしてくれるかわからないので、言葉を濁して交わす櫻。うまくごまかせたかどうか。

 「じゃ隅田さん、ごゆっくり。またよろしくお願いします」と目配せして去っていくチーフ。午後七時過ぎ。変則シフトでのご帰宅である。夏至とは云え、さすがに暗くなってきた。窓の外、夜の帳(とばり)の色合いが櫻の濃紺に重なる。


 二人になったところで、いつになくドギマギする千歳君。「今日まだお時間ありますか?」という櫻の一言で、益々緊張が高まる。声が震えがち。

 「え、えぇ、ローソクの謎も知りたいし」

 「フフ。そうなんですよ、ローソク... まぁ今日はキャンドルですね」

 千歳はまだ当惑気味。そんな千歳を見て、悦に入る櫻。めかしこんでいる分、余計に小悪魔みたいに映る。「そうだ、コーヒー淹(い)れますね」 席を立ったその時、千歳にとってはサプライズなゲストが登場。学生さん? ボレロ、チュニック、デニムパンツ、若くてチャーミングな感じの女性が駆け込むように入ってきた。

 「あ、弥生ちゃん、いらっしゃいませ!」

 「只今参上! ちょっと遅くなっちゃったけど」

 ドギマギが収まらないうちにこのサプライズ。千歳はノートPCの前で固まっている。

 「千さんですよね。初めまして!」

 「ハハ。よくご存じで。あなたはもしかして...」

 「桑川弥生です。設計仕様書、ありがとうございました」

 「五月六日に話が進んでたっていうのを聞いて、ビックリしましたよ。何かビビッと来たとか」

 「アンテナ高いもんで。キャッチし過ぎて困ることもありますが」

 才気煥発というか、お若くも頼もしい人人材が現われたものである。不意に漂着モノログがツッコミを受ける展開になり、今度はタジタジな千歳君。ブログにしては更新頻度が少ない、コメントスパム防止策をとって投稿を受け付けるようにすべき、などなど。内心冷や汗状況のところへ小悪魔さんがコーヒーポットを持って戻って来た。

 「弥生ちゃん、千歳さんまで口撃対象にしちゃって」

 「だって、こういう話できる人、少ないんだもん」

 ひとまずツッコミはここで収まった。櫻が救いの女神に見える千歳だった。

 「で、桑川さんには、例のケータイ画面の件でお越しいただきました」

 まだ開館時間中とはいえ、お客が来るでもないだろうから、このまま二人でどう過ごしたらいいものか、と思案していた彼は、ホッとするやら、肩透かしにあったような、の態。心中察するに余りある。だが、このタイミングで一席セットするあたり、さすがは櫻である。マネージャーは気を取り直して一言、

 「次回、デモができればと思ってるんですけど」

 「えぇ、今日はデモに備えて、データをストックする先のwebサーバの設定を、と思って」

 千歳が持っているドメインの中に、ディレクトリを分けて、弥生が入れるようにFTP設定することにした。

 「通常のCGIは動きますから」

 「了解。あとはサイトのアドレスですね。例の/wreckage/にしますか?」

 「テスト用だったら、多少ヘンテコなのでもいいと思うけど」

 櫻は先を見越したようで、

 「ま、国際的なデータカードを画面化したってことなら、英語名の方がいいかもね」

 コーヒーを啜る。カフェめし店のと似ているがより深みがある感じ。フェアトレード系のコーヒー豆をブレンドしたものだそうな。

 「文花さんのオススメです。淹れ方もいろいろ指導を受けまして」 飲み方も一言あるようで、ブラックで飲むのがベストだとか。だが、三人そろって何も入れない派だったので、先刻からしっかりベストな状態を堪能している。

 「ブラックと言えば、今日はブラックイルミネーションデーとかって?」

 「そうそう、東京タワーも単に消灯するだけなのに、逆説的な言い回しして」

 千歳は薄々とキャンドルの意味がわかってきた気がした。夏至に消灯って、聞いたことがある。

 「消灯じゃないけど、今日は架線事故で午前中電車停まっちゃって、とんだ災難でしたよ」

 「架線? 河川?」 千歳はとぼけたようなことを聞く。

 「さいたま新都心あたりで、架線が溶けて切れちゃって、停電ですって。埼京線も煽りを受けて、遅れる遅れる。講義に遅刻しちゃいました」

 「そんなに大停電だったんだ」 櫻は驚いた様子。弥生は飄々と「夜になってからの事故だったら、今日はキャンドルナイトってことで済んだかもね」 何ともシュールなジョークである。笑いごとではないが、一理ある。

 「ブラックジョーク、か」 千歳がポツリ。櫻と弥生は笑いをこらえている。「千さん、1,000点!」 弥生は自分が発した一言がまた可笑しかったようで、しばらくククとやっている。「笑ったらお腹空いちゃったぁ」

 十九時四十五分、宅配ピザが到着。「え、アイスも?」 ミニカップはちゃんと三つある。さすがチーフである。Mサイズながら、三人で食べるにはちょうどいい大きさの半々ピザが届いた。

 「シーフード系とこっちは野菜たっぷりversionね」

 「わぁ、美味しそう。ラッキー!」

 「千歳さんには本当は謝金をお渡ししなきゃいけないんでしょうけど、今日はこれでいいですか?」

 「あ、そんな謝金だなんて。逆にこんなご馳走してもらっちゃって」

 何とも低姿勢な千歳君。弥生は謝金が引っかかっている様子。

 「千さん、何かお仕事されたんですか?」

 データベースソフトで加工した連結データをwebに載せる話、その後はwebでデータ入力・加工して、そのまま掲載する仕掛けにしたいこと、などを説明。

 「そうか桑川さんなら、プログラム作れるんだ」

 「規模が大きくなるかも知れませんね。まぁ、謝金次第ですが... 何ちゃって」

 櫻はセンターのドアを閉め、「キャンドルナイト実施中(20:00~)」という簡素な表札を貼り出しに行った。コーヒーの残りを注いで、円卓の中央に細長いキャンドルを一つ立てる。センターの非常用の備品のようだが、まぁ使い切る訳ではないので、OKなんだろう。

 「千歳さん、キャンドルは?」

 「こんなので良かった?」 それは蜜蝋でできたキャンドルだった。二千年問題に備えて、非常用として買ったものだが、どこかの環境イベントの出店で見つけた一品、というのが彼らしい。めでたく点灯デビューである。

 「あと、そうだ。暗くする前に...」 ノートPCのディスクトレーを開ける櫻。「これ、かけますね」

 多少冷めても味わいのあるコーヒーと、熱々のピザ、それに歯ごたえのある棒状の野菜。長さの違う二本のキャンドルの灯りを囲んで、三人で静かに語らう。「このスティックも美味しい」「自家製有機農法だそうだから」「へぇ、文花さんがねぇ」 卓上ではピアノとストリングスを中心にした心地良い楽曲が流れ、キャンドルの炎を揺らす。何とも趣深い夏至の夜である。ピザというのは概して手元や口元がペタペタになるので、明るい中で食すると品行が露わになってしまい、特に出逢って間もない男女がシェアするには不向きなメニューとされていたりする。だが、今日は暗い中なので関係なし。強いて苦言を呈するなら、オニオンとイカが同じように白光りして得体が知れないことくらいか。自分で何を食べているのかが近づけてみないとわからないところがキャンドルナイトの楽しみの一つとも言える。

 「ところで私、二人の間にいるんですけど、いいんですか?」 ピザをいち早く食べ終えた弥生は二人をからかうように質問する。

 「大人をからかうんじゃなーいの」 櫻は妹をたしなめるような調子で一言呟いて、アイスを取りに行った。

 「え、千さん、櫻さんて彼女でしょ?」

 思わず吹き出しかけて、キャンドルライトを消しそうになった。何でそういう話に? 「蒼葉ちゃんがそんなようなこと言うから」 炎を前にしながら、冷や汗が出てくる千歳君。

 「ま、蒼葉さんには今度ちゃんと言っておくから、また彼女に聞いてみて」

 「はぁ」

 櫻は呆れたような、でもどことなく愉快そうな顔をして、ミニカップを並べていく。

 「お好きなのどーぞ!」

 「レディファーストでお二人から」

 「弥生ちゃんは罰として、苦いヤツね」 眼鏡に炎が反射して、ちとコワイ。でも、今夜の櫻はいつもと感じが違う。つい見とれる千歳。

 弥生には抹茶、櫻はアズキ、千歳には、

 「千歳さん、これでいいですか?」 ハッとする彼、見つめる彼女。カスタードだった。「やったぁ」 どうやら彼の好物だったらしい。櫻は嬉しそう。弥生は抹茶味を舌に塗り込めながら「やっぱりこの二人、そういう関係じゃん」と思うしかなかった。大人の味とはこういうものか。

 CDはランダムでかけていて、三十分経ったところで、櫻が暗譜した曲になった。弥生はおとなしく耳を傾けている。「では、本日のキャンドルナイトはこれにて終了」

 「Soar Away」を聴き終えたところで、お開きとなった。

 蛍光灯が眩しい。スイッチを入れて戻って来た櫻だったが、小娘さんがすかさず、

 「櫻さん、口紅はみ出てる!」 ここでの口紅とはつまり、ピザソースのことである。

 「え、ヤダ」 洗い場に走って行く。滑稽ではあるが、エレガントな櫻嬢。弥生も親しみを込めてツッコミを入れているのがわかる。

 引き際を弁えている弥生嬢はひと足先に帰途に。今度は本当に照明を落として、施錠する櫻。千歳は先に下りて、建物入口で待っている。センターは二階、一階は図書館。図書館も閉館時間になったようで、一部を残して灯りは消えている。

 今回は二人とも自転車。帰る方向は真逆なので、建物を出るとすぐに手を振らないといけない。

 「じゃ、千歳さん、これお返しします。いろいろとありがとうございました」

 「いえいえ、楽しい時間を過ごさせてもらいました。こちらこそ感謝×2です」

 櫻は何か言い足りなさそうだったが、「じゃまた!」とさっさとペダルを踏んで街灯の列の向こうに消えてしまった。彼は「ま、次は七月一日。一週間ちょっとか」とサバサバした面持ちで、橋の方向へゆっくりこぎ出す。CDはご丁寧に小さな袋に入れられている。ちょっとしたメッセージと一緒に。


 六月三日に撮らせてもらった櫻の写真は、しっかりプリントアウトしてあって、今日渡すつもりだったのだが、舞い上がっていたせいか、失念してしまった。ま、またメールする時にでも、備忘を兼ねて一筆入れておくとするか、と思い直し、袋からCDを取り出す。名刺サイズのメッセージカードが一片、滑ってきた。「おぉ!」

 「またいらしてくださいね。スタッフ一同(?) 心よりお待ち申し上げております。ところで、七月七日は七夕ですが、川の日でもあります。千歳さん、当日のご予定は? さくら」との走り書き。千歳が外で待っている間に書いたのだろうか、筆跡が生々しい感じ。前半は櫻流の社交辞令だが、後半は? 櫻の想いの一端を感じずにはいられない千歳だった。何となく紅潮しているのが自分でもわかる。まだキャンドルに照らされているかのようである。「七日、何時にどこにしたものか...」 いつしか心の中では笹の葉が想起され、音を立て始めた。想いがサラサラと移ろっていく。

 「櫻姉、遅いじゃん!」 一人キャンドルナイトを実践中だった蒼葉は、退屈しきった声で姉の帰り端に一言浴びせた。濃いめの茶髪がキャンドルに灯されて金色に見える。妹ながら、つい溜息が出てしまう。「へへ、ちょっとね。あ、このキャンドルも使う?」 千歳に要否を確認しそびれてしまった一本を差し出す。姉妹で銘々ローソクを立て、見張り番をすることにした。終了予定の二十二時まであと二十分。

 「蒼葉はいつからキャンドルとにらめっこしてたの?」

 「九時からだけど。本当は真っ暗にしておいて、姉さんが帰ってきたら灯して驚かそうと思ったんだけどね」

 キャンドルナイトの違う愉しみ方を知っている妹君。でもそれじゃ、夏を涼むためのどこかのアトラクションである。苦笑いしつつも、言葉少なの姉君。「そう言えば、千さんに掃部先生の話、しそびれちゃったなぁ。でもきっとメールが来るだろうから、その時でいいか」 そんなことを心で呟いて、また薄笑い。

 「櫻姉? 大丈夫?」 今日の出来事を聞きたくて仕方ない蒼葉だったが、ノロけられてもフォローできないから、控えることにした。「まぁ、いずれ自分から話してくれるでしょ」 よく出来た妹である。


 「隅田さんのこと気になるのわかる気がする。私が聞いてもいいけど、南実ちゃんだったら自分で聞けるでしょ?」 ケータリング注文用ケータイで、珍しくメール機能を使っている矢ノ倉さん。帰りの電車内での一コマである。南実にしては仕掛けが遅い観もあるが、遠回しながら確実な線を狙って、情報屋の先輩に探りを入れてもらった、という訳である。文花は千歳と面会してから返信するつもりだったので、夏至当夜になってようやくの一報。二十二日に向けて日は伸びていったが、人の気も長くなるかというと、そうでもない。南実はきっとシビレを切らしていただろう。その辺を見越した上で、あえて短文メールを打ってはぐらかす。後輩思い(?)でもあるチーフである。

 

【参考情報】 キャンドルナイト