ぼっち論 留部このつき
「ぼっち」というのは辛いものです。「一人でいる」ということですから、当然です。ですが、本当に「ぼっち」は辛いものなのでしょうか。また、「ぼっち」だけが、辛いものなのでしょうか。少し、考えてみましょう。
例えば、今ここに迷子になってしまった人がいるとしましょう。その人は地図を持たず、携帯の電源は切れ、知り合いもいなければ、そもそもこの場に人気はありません。今ここでこの文字を読んでいるあなたと、今ここでこの文章を書いている私は「神」だということです。では質問です。この迷子の人は「ぼっち」だと言えるでしょうか。当然、言えると思います。言えない人はきっとこういう状況にあったことがありません。迷子というのは不安を煽るのです。
もう一人別の人を提示します。その人はマンションに一人暮らしをしています。疲れてヘロヘロの状態で帰ってきて、ドアを開けて、真っ暗な空間の中に虚しく「ただいま」と言ってみるも返事はない。当然です。独り暮らしなのですから。ペット禁止なので可愛い猫ちゃんがニャアニャアすり寄ってくることもなければ、ワンちゃんが「寂しかったのですよご主人様」って感じでつぶらな瞳を向けてくるわけでもありません。「あ、これで酷い風邪ひいたら孤独死するんじゃないかな」ってつい思ってしまって思わず涙がポロリ。不意にむせてしまってもう涙が止まらない。紛れもなくぼっちです。
このように「孤独を感じる」というのはとてもつらいことです。これで土砂降りになったり地震が来たりしたらもう立ち直れないかもしれません。
ですが、ここで大問題が浮上します。迷子の人は別に砂漠や山中で迷子になっているわけではありませんからそこら辺の民家に事情を伝えるという手段があります。人通りの多い道まで歩くという手段もあります。また、一人暮らしの人はネット環境が整っているでしょうから、SNSで承認欲求を満たそうと思えばいつでも満たせます。友人に電話するという方法もあります。彼らの抱く気持ちとは裏腹に「ぼっち」とは言い難いですね。この矛盾の答えは「視点」にあります。
視点というのは複雑怪奇な代物です。見方を変えると今まで見えてこなかったものが見えます。実に奇妙です。たったそれだけで良いなんて、なんてお手軽でステキなんでしょうか。通販番組顔負けのお買い得品です。一応書いておきますと、完全な客観というものは存在しないと言えます。人間が考えている限り「人間の思考」という枠から抜け出せませんから。個人の思考というのはそれだけちっぽけなものなのです。自然は雄大だということです。そもそも、全ての人間が同じ現実をみているかどうか、というのは疑問の余地があります。心理学が一定の効果を上げていることや、「共感できる」という感覚から見れば、ある程度の信頼はできます。
この「共感」が実におそろしい。共感は人の感覚を惑わします。「他者と完全に分かち合える」という錯覚を与えます。自分の中にしか存在しないはずなのに、共有していると思わせます。あくまでも世界は個々人の中でだけ存在しているのではないか、というとても大事かもしれない思いを、砕いてしまうものなのです。
こんなことを言い出して何が言いたいかというと、ぼっちを感じない視点や、リア充でいられる視点を持ち続けていれば、それはリア充なんですね。また、俗世を捨てるというのも立派な「非ぼっち」です。現実の別の視点を見る術を身につければ「ぼっち」ではなくなるのです。
リア充というのは人生において、ある意味最強です。何故なら今言ったような「視点」を全く考える必要がありません。現状で満ち足りているのですから。素敵なことですね。きっと幸せなんでしょう。僕は違うと思いますが。満ち足りていることは怠慢を招きます。経済が発展しなくとも、個人の心は常に成長し続けなければなりません。リア充は充実しているように思わせておいてその実、おおきなおおきな落とし穴があるのです。
視点を考えなくても良いと言うことは裏を返せば無用な共感が必要ないということなのです。このことが恐ろしい。不可視かつ強力無比の、いわば「結界」を築き上げるのです。結界の効力は基本的に結界内の規則を違反した者に課せられますが、真価は結界の外は世間ではないという錯覚を与えることにあります。内輪ネタ、ナショナリズム、いじめなどはこの錯覚の表れでもあるのです。
リア充を爆破したり、憧れたりする気持ちはとてもよく分かります。ただ、相応の辛さを、いかなる時でもいかなる場所でも課せられているのです。それが、人間なのです。ぼっちだから楽だとか、リア充だから楽だとか、そういうことはありません。
例えば、今ここに迷子になってしまった人がいるとしましょう。その人は地図を持たず、携帯の電源は切れ、知り合いもいなければ、そもそもこの場に人気はありません。今ここでこの文字を読んでいるあなたと、今ここでこの文章を書いている私は「神」だということです。では質問です。この迷子の人は「ぼっち」だと言えるでしょうか。当然、言えると思います。言えない人はきっとこういう状況にあったことがありません。迷子というのは不安を煽るのです。
もう一人別の人を提示します。その人はマンションに一人暮らしをしています。疲れてヘロヘロの状態で帰ってきて、ドアを開けて、真っ暗な空間の中に虚しく「ただいま」と言ってみるも返事はない。当然です。独り暮らしなのですから。ペット禁止なので可愛い猫ちゃんがニャアニャアすり寄ってくることもなければ、ワンちゃんが「寂しかったのですよご主人様」って感じでつぶらな瞳を向けてくるわけでもありません。「あ、これで酷い風邪ひいたら孤独死するんじゃないかな」ってつい思ってしまって思わず涙がポロリ。不意にむせてしまってもう涙が止まらない。紛れもなくぼっちです。
このように「孤独を感じる」というのはとてもつらいことです。これで土砂降りになったり地震が来たりしたらもう立ち直れないかもしれません。
ですが、ここで大問題が浮上します。迷子の人は別に砂漠や山中で迷子になっているわけではありませんからそこら辺の民家に事情を伝えるという手段があります。人通りの多い道まで歩くという手段もあります。また、一人暮らしの人はネット環境が整っているでしょうから、SNSで承認欲求を満たそうと思えばいつでも満たせます。友人に電話するという方法もあります。彼らの抱く気持ちとは裏腹に「ぼっち」とは言い難いですね。この矛盾の答えは「視点」にあります。
視点というのは複雑怪奇な代物です。見方を変えると今まで見えてこなかったものが見えます。実に奇妙です。たったそれだけで良いなんて、なんてお手軽でステキなんでしょうか。通販番組顔負けのお買い得品です。一応書いておきますと、完全な客観というものは存在しないと言えます。人間が考えている限り「人間の思考」という枠から抜け出せませんから。個人の思考というのはそれだけちっぽけなものなのです。自然は雄大だということです。そもそも、全ての人間が同じ現実をみているかどうか、というのは疑問の余地があります。心理学が一定の効果を上げていることや、「共感できる」という感覚から見れば、ある程度の信頼はできます。
この「共感」が実におそろしい。共感は人の感覚を惑わします。「他者と完全に分かち合える」という錯覚を与えます。自分の中にしか存在しないはずなのに、共有していると思わせます。あくまでも世界は個々人の中でだけ存在しているのではないか、というとても大事かもしれない思いを、砕いてしまうものなのです。
こんなことを言い出して何が言いたいかというと、ぼっちを感じない視点や、リア充でいられる視点を持ち続けていれば、それはリア充なんですね。また、俗世を捨てるというのも立派な「非ぼっち」です。現実の別の視点を見る術を身につければ「ぼっち」ではなくなるのです。
リア充というのは人生において、ある意味最強です。何故なら今言ったような「視点」を全く考える必要がありません。現状で満ち足りているのですから。素敵なことですね。きっと幸せなんでしょう。僕は違うと思いますが。満ち足りていることは怠慢を招きます。経済が発展しなくとも、個人の心は常に成長し続けなければなりません。リア充は充実しているように思わせておいてその実、おおきなおおきな落とし穴があるのです。
視点を考えなくても良いと言うことは裏を返せば無用な共感が必要ないということなのです。このことが恐ろしい。不可視かつ強力無比の、いわば「結界」を築き上げるのです。結界の効力は基本的に結界内の規則を違反した者に課せられますが、真価は結界の外は世間ではないという錯覚を与えることにあります。内輪ネタ、ナショナリズム、いじめなどはこの錯覚の表れでもあるのです。
リア充を爆破したり、憧れたりする気持ちはとてもよく分かります。ただ、相応の辛さを、いかなる時でもいかなる場所でも課せられているのです。それが、人間なのです。ぼっちだから楽だとか、リア充だから楽だとか、そういうことはありません。