目次
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パンドラの書庫
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パンドラの書庫「暗黒神話」遠藤玄三
パンドラの書庫「金田一少年の事件簿」大友宗麟
パンドラの書庫「学校の怪談R」まつばらきのこ
パンドラの書庫「UFOと宇宙人のなぞ」イエス曖昧
パンドラの書庫「臓物大展覧会」留部このつき
トラウマカタログ さうじ
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アギギボゴゴギの研究 獣狩男
アギギボゴゴギの研究 獣狩男
アギギボゴゴギの研究 獣狩男
ほとばしる熱いロゴス 遠藤玄三
ほとばしる熱いロゴス
ほとばしる熱いロゴス 遠藤玄三
 
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ぼっち論 留部このつき
ぼっち論 留部このつき
ぼっち論 留部このつき
ゴキブリを食べた日 イエス曖昧
ゴキブリを食べた日
ちょっと前の本当の話 流山ジジ
ちょっと前の本当の話 流山ジジ
ちょっと前の本当の話――かよい婚 流山ジジ
ちょっと前の本当の話――トイレ 流山ジジ
『第三回 新脈文芸賞』 のご案内。
第三回新脈文芸賞のお知らせ
ライター募集
ライター募集
うみねこみすてり論争 犀川ヒフミ
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涼しいタイム涼介論 大友宗麟
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次号特集の記事募集
次号特集:『漫画』
第二回新脈文芸賞
第二回新脈文芸賞受賞作品発表
第二回新脈文芸賞選評 実葛氷柱
第二回新脈文芸賞選評 Jback
第二回新脈文芸賞選評 イエス曖昧
第二回新脈文芸賞選評 まつばらきのこ
第二回新脈文芸賞選評 田子新策
第二回新脈文芸賞選評 留部このつき
受賞作品「カフェオレのつくり方 多摩先生の推理」田子新語
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受賞作品「匈奴島、部活やめるってよ」雨座居姫
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受賞作品「土竜のいる地獄」遠藤玄三
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受賞作品「夏の終わりの雨宿り」留部このつき
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受賞作品「42億匹のうさぎと幼年期の終わり」戸森めめん
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受賞作品「信忠の首」大谷津竜介
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編集後記
編集後記
奥付
奥付

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第二回新脈文芸賞

第二回新脈文芸賞受賞作品発表


第二回新脈文芸賞選評 実葛氷柱

新脈文芸賞選評 実葛 氷柱

 辞書を繙けば「脈」という字には「すじになって続いているもの」とある。
 即ち新脈文芸賞とはその命名が成された時既に第2回の開催は必然であったのだ。そして、この「新脈」という造語は応募作品においても遺憾なく発揮されているといえる。
 今回受賞に至った6作品はどれも神代の祝詞より今にまで連綿と繋がる『ことば』の最先端である。そのムーブメントをこの脳髄をもって感じられたことはまことに重畳だ。

 『カフェオレのつくり方』は実に美しいミステリだ。
 読み始めればすぐに薫る昭和と児童文学のテイスト。探偵である多摩先生と助手の国分寺という一見ありきたりな構図、そして何より巧みに仕掛けられた謎。それら全てが渾然一体となって作品世界を色濃く浮かび上がらせる。
 それは偏に書き手の力であり、あらゆる人間を引きずり込むその手腕は実に見事。
 そして、紛れもなく「子ども」が読んでも楽しめるにも拘らず要所要所に潜む箴言は「子どもだったもの」へと鋭く突き刺さる。
 甘い郷愁と共に湧き上がる苦味。我々にとってまさしくこれはカフェオレなのだ。


 今回最も鋭い作品が何かといえば、それは『匈奴島、部活やめるってよ』に他ならない。
 その暴力的なまでの混沌は、しかして無秩序とは次元を全く異にする。
 あなたはこれを読んでいる間にいくつもの不条理に出会うだろう。しかしその全ては計算されたものであり、作者の掌の上で踊らされているに過ぎないのだ。
 さらに恐ろしいのは読了後で、ネガティ部という存在の真相を知ってしまったが故に我々はさらなる混乱へと叩き込まれる。
 果たしてこの主人公はネガティブなのかポジティブなのか。最後に呼びかける「みんな」とは一体誰なのか。答えの見えない疑問が渦を巻き、正解を見出すために「混沌」へと目を向けざるを得ない。
 そこで気付くはずだ、この作品は「秩序ある混沌」としか言いようがないと。いや、より正確に言えば混沌を積み上げて秩序を形成しているのだと。
 それはさながらモザイクだ。物語のどの部分を切り出してもそこにあるのは方向性の異なる混沌でありながら、一歩引いてみればそれが一つの精緻な絵画として現れる。
 おそらく作者にしか分からないロジックでこの世界は綴られている。全てを置き去りにして渦巻くその激流の前に、我らはただ溺れるより他にない。

 文章の形作り方において一際目立つのが『土竜のいる地獄』だろう。
 その文体には幾人もの影響が見られる。それらを無理やり混ぜ合わせることにより別物として成立させようとしているのだ。
 また、キャラクターの名前やそこに在る様々なものを用いて世界観の説明を最小限に抑えようとしているところは筆者の苦心が感じられる。
 技巧に走るも一興、しかしながら次回は書き手自身の内よりこぼれ出る文章もぜひ味わわせていただきたい。

 『夏の終わりの雨宿り』は陽炎に似ている。
 ほんのわずかな時間の中にある感情と追憶。それは刹那性にこそ価値の本質がある。この時、この情景でしか生まれないものを切り取ったのがこの作品だ。
 きっと「僕」はこれからも同じようなことを思い、同じような情景を経験するだろう。しかし全く同じものができることはない。この世界は唯一にして普遍的といえる。
 我々が読んだものは仄かにゆらめき儚く消える、ありふれていて特別な夏の終わりに立ち上る陽炎なのだ。

 一際シニカルな笑いを運んでくれるのが『42億匹のうさぎと幼年期の終わり』だ。
 始まりはうさぎのシチュー、けれども読んでみれば最初から最後までうさぎどころか人を喰ったストーリーが展開する。思わせぶりな全ては肩透かしであり、大仰な言葉は空虚に響く。
 それもそのはずだ、それら全ては最後の「セックスしたい」を導くための舞台装置なのだから。
 この一言は作中唯一主人公が明確な意志を持って発したメッセージだ。「我思う、故に我あり」を真とするならばこのとき初めて「わたし」は存在したのである。
 その記念すべき一言が物語の最後、人間の欲求にどこまでも忠実に発される。ニューウェーブの流れを汲んでいるかに見せてそれらへの痛烈なアイロニーとなるその構造、作者の笑みが見えるようだ。

 『信忠の首』は単なる「歴史」に留まらない。
 受賞作品では初となる時代小説、その描写は細部に至るまで行き届き戦乱の世の息遣いをひしひしと感じさせる。
 その中でこの物語を支配していたのは誰かと問えばそれは信忠でも、鬼神の如く暴れまわる虎丸でもない。安西五兵衛だ。最初から最後まで立身を目指し空回りし続けるだけのこの男こそ、実は物語の中心に立っている。
 時代小説において歴史を変えることはできない。故に、その枠の中で物語は創られる。五兵衛は「歴史」というどうしようもない暴力の最大の犠牲者なのだ。
 自分にはどうにもならぬことに飲み込まれるということ。それは我々に何時訪れるとも知れぬものであり、漠然と感じ続けている歴史の胎動をはっきりと認識することに他ならない。
 いや、はっきり言ってしまおう。我々は今、確かに後世語られるであろう歴史の只中にいる。故にこの作品はどこか身近で等身大なのだ。このタイミングでこの作品を書いたということ、それが作者の非凡なる「歴史」への眼の証明である。
 あなたがそこにおいて虎丸なのか、五兵衛なのか、それとも名もなき足軽なのか。それはまだ分からない。この作者の下に描かれる日まで。
 

 以上6作品、どれも実に素晴らしいものであった。
 これらは今ここで閉じた物語ではない。読み手が、書き手が辿る道すじのほんの一部分にすぎず、未だ見ぬ三千世界へと通ずる扉なのだ。
 新脈はなお途切れない。ぜひとも次回にもご期待いただきたい。


第二回新脈文芸賞選評 Jback

新脈文芸賞選評Jback

「カフェオレのつくり方」
読み進める中に疑問を抱き心中にわだかまりを残す記述もまたトリックのネタが明かされ氷解した時により大きな心地よさを運ぶ。この快感はミステリ特有のものでトリックを使う技術が確立されていることの証左であろう。全体的に柔らかい文章で殺人事件という汚い部分をうまくかき消して読みやすいタッチとなっている。

「匈奴島、部活やめるってよ」
実に面白い取り組みをする意欲作である。笑いに対する美学を主張し、自らの文で笑いを取る中でもそれを実演してみせる貫徹ぶりに心意気を感じる。「読み物」の形態として違和感を抱いてしまう方もいるかもしれないがまた新しい取り組みには付きものであるとして割り切らざるを得ないだろう。作品の勢いに「また他の日常も覗いてみたい」と思わされてしまえば我々の負けとなるだろう。

「夏の終わりの雨宿り」
文章の序盤では自身の好きだという感情は控えめに表現され身を潜めているが、夕立に閉じ込められ好きな人との空間において相手に思いを巡らすうちに更に思慕が募り次第に感情の吐露が抑えきれなくなる様は恋愛のどうしようもなさを表している。普通の恋愛以上のどうしようもなさを抱えるこの恋はそれゆえに恋愛とは切っても切れない、また一つ楽しまざるを得ない切なさやもどかしさを伝える。

「42億匹のうさぎと幼年期の終わり」
序盤の文からSFかと決めてかかり意気込んで読めば毎度どう展開するのかというところで嘲笑うかのように肩透かしを食らう。そんな調子で最後まで人を食ったように展開していき締めくくりの言葉には思わず吹き出してしまう。
SFとして見ればその要素として強いのはうさぎの話であるが主人公にとっては歯牙にもかけるところでなくそれどころか実のところ好きだった女の子の死の原因でさえどうでもいいことであり、刹那的に描かれたSFはただ最後の言葉で瓦解する。
最終的には1つ何かが解決するという物語としてはよくあるメソッドだが、同時に解決した問題の扱いは軽くその先には何も残らない。あるいは問題を解決しなければならないという固定観念から解き放とうとしているとも取れる。


第二回新脈文芸賞選評 イエス曖昧

新脈文芸賞選評 イエス曖昧

「カフェオレのつくり方」
 今の時代の選評者としては失格なのかもしれないが、普段あまりミステリーというジャンルを読まないせいもあり、若干苦手意識を感じてしまった一作。しかし、読み終わってみるとこれがまあおもしろい。トリックがわかると文章の至るところに作者の遊び心が配置されていることに気付く。物語という力強さではなく、ミステリーが今まで磨き上げてきた技術をしっかりと継承し、遺憾なく発揮した作品である。
 お話としても血なまぐさい殺人事件の中に、タイトルにもなっている「カフェオレのつくり方」が混ざることにより、かわいらしさというか、童話らしさが加味されて、すがすがしさすら残る読み味があった。

「匈奴島、部活やめるってよ」
 とにかく独創的で言葉選びや作品の持つ異様な構造など作者のセンスが光る作品。
 キャッチーなタイトルに誘われて読み始めると、小気味よい軽快なおしゃべりみたいな文章にどんどん飲まれていく。お話も終盤にさしかかると「結局、この話は一体なんなんだよ?」という疑問が立ち上がるのが、その立ち上がった疑問ごと強引に飲み込まれる衝撃のエンディングが待ち構えている。唖然とした。「お釈迦さまの手のうえで踊る」とはこのことである。短い文章の中、曼荼羅のコスモロジーまでを見せた快作。

「土竜のいる地獄」
 今回の粒揃いの作品たちの中でも一番気に入ったのが、この「土竜のいる地獄」。
 土竜が潜む劣悪な環境の中、逃げ出すことを願うわけではなく力を欲した少年の成長譚。
 主人公のジアロが胸糞が悪くなるような事実を受け入れ、順応しはじめ、だんだんと大きくなり、やがて地獄にも収まりきらなくなる骨太なストーリー構成が好印象。
 土竜の扱い方がとにかくうまく、一貫して単なる怪物や悪いものとせずに、その障害さえ乗り越えれば褒賞として恩恵すら与えてくれる存在になっているのもおもしろい。ジアロの利用するものはすべて利用するという視点がよくでていて、荒唐無稽にもとられてしまう竜という生物をうまく使い「生きる手段とは」という力強い切り口へ繋げている。
 文体は物語にあわせて少しごつごつしたぶっきらぼうな言葉使いになってるものの、登場人物のネーミングセンスや、ちょっと崩して飛躍した説明文が心地よく「鉱山に出る土竜は人を喰らうしこんなにでかい」という表現には男らしさと少年らしさがよく含まれていてにやにやしてしまう。
 主人公の思惑から外れたラストは、我々人類が抱え込んだ強すぎる力の行く果てという黄昏を感じた。

「夏の終わりの雨宿り」
 夏の日の夕立という何気ないワンシーンを描いた短編。
 通りすぎてしまえば、見過ごしてしまうけど、ほんの少し目を凝らすと見えてくる人の情や、恋慕、記憶。わかるようでわからないような恋心が情景を拡大し、深みを持たせている。
 短いながらもキャラクターがしっかりと色づけされ、登場人物の想いの距離がそのまま作品と読者との距離へと反映されたせつなく、いまにも崩れ落ちそうな水滴みたいな物語だ。
 心地のよい読み終わりには、夕立あがりの何とも言えない草や土の臭いがふわっと鼻をかすめる。

「42億匹のうさぎと幼年期の終わり」
 変わったことをするのが好きな男がウサギのシチューを作っていると、ウサギのシチューに話しかけられるという、ネジの飛んだお話。
 有名なSF小説アーサー・C・クラークの幼年期の終わりがタイトルに入ってるのでSF作品ともとれるが、どこか間の抜けた文体や、ウサギの穴に落ちていくなど古典的な童話の要素を取り入れているところをみるとマジックリアリズムを狙った作品ともとれる。
 最後のセリフの解釈はなんとでもとれるが、存在しない少女への恋が終わったあとの第一歩と解釈すると、どうしようもないながらも力強いセリフにも聞こえた。

「信忠の首」
 かつての日本を舞台とした歴史小説。大局の中での武士のあり方と、個人としての武士のあり方が産んだ悲劇を描いている。展開される物語はダイナミックに肉片をまき散らしながらもタイトに仕上がっていて、やりたいことがはっきりと見える作品である。戦争を舞台としているものの、敵対する明智軍よりも自分の内側にこそ、本当に問題があり、敵を抱えているかのようなひたむきさに男らしさを感じる。 最後のくだりも虚しさや、無念さというよりかは男らしい結末に思えた。


第二回新脈文芸賞選評 まつばらきのこ

新脈文芸賞選評 まつばらきのこ

今回の受賞作品で一押しなのが「夏の終わりの雨宿り」だ。この作品では、人が恋に落ちるのはちょっとしたきっかけの連続なのだと改めて知らされる。繊細さと丁寧さを兼ね備えた描写で、文芸部の「彼」の本のページをめくる音や吐息、主人公のときめきの鼓動が今にも聞こえてきそう。短い文章の中で凝縮されている、「彼」のたくさんの魅力や主人公の想いにキュンとなる。ただひたすらに相手のことを愛おしく思うのは、特にこの主人公ならばなかなか難しいのではないだろうか。しかしこの作品ではまっすぐに相手を想う一途さがいっぱいに詰まっていた。

「42億匹のうさぎと幼年期の終わり」は、とてもわかりやすい表現と、少しキザな言い回しが魅力的。一人視点特有の視野の狭さを感じさせないスケールの大きいファンタジックな世界観で、不思議な夢を見た後のような読後感がいつまでも心にこびりついた。それでありながら、主人公視点でわかるなあと思うことが書かれていて、現実と非現実が反転した世界に上手く誘い込まれ、まんまとうさぎに転がされてしまった。

第二回新脈文芸賞選評 田子新策

新脈文芸賞選評 田子 新策

 前回を上回る数の作品が届いたと聞いて、寝端の伴としていたヘーゲルを、栞も挟まずに本棚へ仕舞ったのだった。無論、私にとって大変喜ばしいことである。
 私の頭が、ロンドン西部、ソールズベリーの地に敷き詰められた小麦の様に願い実り、深く深く垂れている事を御報告する。

推理の威を抜き取った、摸掏のようなミステリー
「カフェオレのつくり方 多摩先生の推理」

 まず、この作品は我が愚息がしたためた小説である。身内贔屓に評価してしまうことを、ここで断っておきたい。
 主題が見えてこないのは、この作者の特徴なのだろうか? 目新しさはあるものの、自身の見つけたアイデアに胡坐をかいて満足していたのでは、読者に最後まで読んでもらうことすら難しいだろう。
 文章力は伸びる余地があるようだ。国分寺と先生の語りなどは、現実離れしていていっそ気持ちが良かった。
 あとはストーリーの整合性をとること。そこを今後の課題とすれば、小説らしき形が現れるのではないだろうか。今後の練磨に期待する。

俺たちの青春は青くもなければ春でもない。
「匈奴島、部活やめるってよ」
 初めは面食らったが、二行目からは慣れた。
 二階堂少年の前向きなネガティブが心地よい。この作者の特徴として、会話文でストーリーをコロコロと転がし、劇的なまでの破綻が大落ちとなり、懸念と疑念全てを纏める豪腕が有るが、今回もそれは健在で、頭がドキドキ右往左往しつつも安心した。
 やはり肝は、二階堂少年を初めとする登場人物に取り込まれるか否か、だろう。「ネガティ部、良いな」と少しでも思ったのなら、青春群像劇としては成功だ。しかしそれが、根底から覆るとは誰が予想しただろうか。驚天動地の展開である。イエス曖昧氏が「曼荼羅のコスモロジー」と語っていたが、現代にて体現された、まさに宗教的な側面をもった教典なのかもしれない。
 ネガティ部は、みんなのこころのなかにいるよ。

奪われた自由、与えられた自由
「土竜のいる地獄」
 ロシア文学のように、硬く冷たい。しかしその物語は、熱く、繊細だ。土台の出来上がった老練さを感じる。手に職を持った、非常に技巧的な作者である。
 感情をあえて排した文章はまるで詠う様なリズムを持っていて、地獄で屈強な男達の口ずさむ坑道歌さながら腹に響く小説だ。茫漠とした砂漠の砂を食んだような渇いた質感の中に、真逆とも言える、そこに生きるものたちの血と汗にじっとりと濡れた地の底の匂いがするのは、正にそういうところから来ているのだろう。
 ジアロの生き方に、ストレートに感動した。自分自身を育てるものに、正邪はない。死を身近に置く事は、この地獄において生きる為に不可欠だったに違いない。
 ヴィンシィとは、何者なのだろう。ジアロは、これからどう生きるのだろう。尽きぬ疑問は、次作への期待感と、確かなエンターテイメントを持っている事の証左である。

ほおづえをついた手のひらの温度があなたに伝わりますように
「夏の終わりの雨宿り」
 空気が感情を持っている。しとしとと降る雨が、感情を写している。雨の上がった雲が開いた空が、秋を呼び込む。二人の情感と景色が、とても良く溶け合っている。
 グラデーション掛かった色彩が飛び込んでくるような瑞々しい作品だ。
 雨の煙る窓の外で、二人を俯瞰して見ている様な錯覚に陥って、爽やかな気分になった。 
 この、雨後の鬱蒼と匂う雰囲気に浸りきった感情に、我々の頑なな理性や常識は、何の歯止めにもならない。

現実をスポイルした荒唐無稽な御伽噺
「42億匹のうさぎと幼年期の終わり」
 名作を誂えた、洒落たタイトルである。
 タイトルから、端からSFと決め付けて読む。すると、確かにSFと納得させられる。しかし、SFの皮を巧妙に被った御伽噺だと騙された気分になる。最後には、目の覚めたような現実を突き付けられる。
 これはなんなのだ、と考えたときに、荒唐無稽なブログなのだと思い当たり、ここまで読ませる文章に、改めて感心させられた。
 思えば、一行目から最後の句点まで、言いたいこと、伝えたいことは一つであり、作者は隠すこともせず喧伝しているではないか。「セックスしたい」!
 しかし、これが荒唐無稽、とは、私の妄言なのかもしれない。世界中のネットワークの前に座する者皆、寸胴でオーバーテクノロジーな何かを、コトコトと煮込んでいるのかもしれないのだ。
 斯くいう私も今、筋張った牛の脛肉を、ワインと香草でじっくり煮込んでいるのだから……。 

織田の最期……武家とは、滅ぶことと見つけたり
「信忠の首」
 「滅びの美学」という言葉があるが、それに殉じようとした武士たちの、享受の仕方が異なることで生まれてしまった、悲劇。しかし、それさえも美しい。
 戦記とは史実に基づいて著されるもの。物語の行く末が読者には予め示されているのだから、「歴史を変えない程度の創作である事」と言う枷が有る。
 「信忠の首」はそれを美事に打ち破ってくれた。ともすれば尻窄みに描かれてしまう零落の様を、叩き付けるような迫力の有る筆致で魅せ付ける手腕に震えた。
 カタルシスと、物語を畳む技術において、全作品中頭一つ出ているだろう。 

 今回は意欲作が集まったが、奇を衒うばかりが良策ではない。身肌を切るような冷たく鋭い流れに筆を任すようにしたいものだ。
 ソールズベリーには彼の有名なストーン・ヘンジがある。辺りは荒涼としていて、灰色の空が地平にまで伸びていて、強い風が吹いている。そんな神秘的なイメージを持つだろうか。
 しかし実際は、周りはヨーロッパを代表する穀倉地帯で、日本では北海道などで良く見かける巻き藁が、遠慮も風情もなくポン、と置いてある。それはもう牧歌的な風景に、かつての神の腰掛が溶け込んでいる。
 温故知新だ。何事も過去のまま、一ミリも動かさずに在ろうとするばかりが美学でもない。
 凝り固まった文学の仕来りなどに自ら与する事は、罪累である。断じて拒否すべきだ。
 なら、どちらが正しいのか? それはその目で見るまでは分からない。次回を楽しみに待つとしよう。

第二回新脈文芸賞選評 留部このつき

第二回新脈文芸賞選評 留部このつき

 私が選評するために基準として選んだことは一つ。「異文化交流」です。何かと何かが交わるときには、必ず何かが起こります。良いことであることが大半ですが、時に悪いこともあります。ですが、私はこの科学反応のようなものが大好きです。予想がつかないことや、今まで誰も思いつかなかったような新たな発見があるものです。いかにも分かりやすくて簡単で伝わりやすいことだと思います。そういうような考えの元で、私の選評ができあがっていることをまず述べます。さて、本題に移りましょう。

 まず「42億匹のうさぎと幼年期の終わり」ですが、「異文化交流」とは少し離れています。いかにもSFらしい「生物と宇宙」というスタンスであるためです。それでも、うさぎ達の獣くささというのが、主人公の思いと深く強く絡みついていて、触媒を通じた化学反応とでも言うべきものが起こっています。エッセイのように見えながら硬派なSFであるところも、作品の魅力を引き立てる素晴らしいエッセンスです。

 「土竜のいる地獄」では、タイトルでは「土竜と人間たち」を扱った「異文化交流」のようですが、主人公ジアロと周囲の人物たちとの「異文化交流」です。この作品の世界からはたくさんのジアロの影が見えてきます。かつていたジアロ、やがて現れるかもしれないジアロ、流行の時間旅行もののような口ぶりですが、そういうことではありません。ジアロのような思いを抱いている少年という意味です。作中にも「過去のジアロ」が出てきています。ジアロ同士で通じるものがあったのか、諦めと希望を混ぜ合わせたような変質が起こります。暴風雨のような荒々しいジアロの日常には、引き込まれて目が離せませんでした。

 先の項で「混ぜ合わせる」という言葉を使いましたが、その方法を教えてくれる「カフェオレのつくり方」が今回の受賞作の中で私のイチオシです。色よし味よし香りよしの三拍子が揃ったあったかいカフェオレを飲んでいるようでした。恋の甘さも生活感漂う生臭さも併せ持っていて、「異文化交流」の目標とすべき結果の一つでもありそうです。先生の思慮の深さとモノグサは国分寺くんのついつい使ってしまう余計な頭と素直さに凸凹タッグよろしくマッチしていて、ドラマを観ているようでもありました。ぜひ、後味まで存分に楽しめるこのカフェオレを、みなさんも楽しんでみてはいかがでしょうか。

私が触れていない作品も素晴らしいものです。きっと読んだあなたに「何か」を残すと思います。それがあなたの持つ「何か」と「異文化交流」を果たした時こそ、文章を書く人間にとっての一番の喜びだと思っています。新たな出会いが、あなたにありますように。