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本編1

  まばらな拍手が、劇場内に響いていた。
  小学校6年生の最終演奏者がおじぎをして、『小山ピアノ教室発表会』が終演した。
  もしも娘の麻衣が生きていれば、ちょうど同じくらいだろう。年頃の子を見ると、いつもせつなくな
ってしまう。悪いくせだ。
  身内ばかりの拍手がすぐに落ち着くと、僕は慣れた手つきでフェーダーを下げた。そして、記録用の
メモリーカードを機材から取り出し、音響室を出る。
「お疲れさまでした!」
  元気な声が楽屋をにぎわせていた。この解放感のある雰囲気が好きだ。データを受け取り、何度も頭
を下げる主催者の女性に、何度も頭を下げながら楽屋を離れ、舞台に向かう。そして、備品の撤収にか
かった。僕は劇場の音響の仕事をしている。
  撤収を一番に終えてスタッフ事務所に戻ると、デスク兼楽屋担当の大川さんに声をかけられた。いつ
も笑顔を絶やさない、好感がもてる、おばさんだ。
「お疲れさま。大島さん、もうすぐですよね、娘さんの命日」
「記憶力抜群ですね。もう12年も前のことなのに」
「大島さんがここに来たときの事だから、忘れられないのよ。いつも同じ物だけど、はい、お線香」
「いつもすいません。気にしてくれて」
「わたしも子供を亡くしているから、気持ちはよくわかっているつもりよ。何年たっても忘れられない
ものだわ。翔太くんは元気?」
「おかげさまで、もう中学3年だから。親父のことなんて眼中になくて…」
「誰でもそんなもの、ひとり立ちしていくのよ。それから、正式に明日の催し物が中止になったわ。打
ち合わせもないし、舞台の西山さんが出勤するって言っていたから、休めますよ?」
「休日もたまっていることだし、休もうかな」
「急な休みって、こまるのよね?  ああ、大島さんはそうでもないわよね。川が近いから、いつでも好
きな釣りが、すぐできるから。理想の生活ですよね」
「通勤時間さえ気にしなければ、けっこういい暮らしじゃないかな?」
「うらやましいわ。あっ、お疲れさまでした」
  大川さんは笑顔を外に向けながら、帰る出演者たちに挨拶をした。
  大川さんは昔、3歳になった息子さんを交通事故で亡くしていた。
「人は会っただけじゃわからない悲しみを、背負っているのよ」
  と言うのが口癖だった。
  僕の娘は病気の身体で生まれ、すぐに亡くなった。それでも、かなりのショックをうけた。幼稚園に
入園して間もない息子さんを亡くした、大川さんがどれだけの悲しみだったか、うかがい知ることなどできない。死というものを比べられるとは思わないが、僕の方がよほど楽だったろう…回りの人たちに、また産めるのだから頑張りなと言われたけど、娘が亡くなった後、僕たち夫婦は子供を産もうという気には、どうしてもなれなかった。それは、亡くなった娘への愛情表現からなのか、臆病心なのかはわからないが、尾を引いていたのは確かだった。


本編2

  僕は多摩川が好きだった。生まれ育ったのが、多摩川の近くだったので、子供の頃はよく自転車で遊びに来ていた。特に、水の流れが好きだった。川の流れはいつも同じように見えるけど、決していっしょではない。今流れた水は、下流に流れていく。1日中見ていても飽きない風景なのだ。それに、子供とキャッチボールをするのが夢だった。男の子だったら少し大きめのグローブを、女の子だったら赤いグローブを買ってあげたかった。翔太とは、河川敷で暗くなるまでキャッチボールをした。理想の想い出をつくることができた。
  家は多摩川沿いの建て売りを、ローンで購入した。上流に行けば行くほど価格は安かったが、どんど
ん遠くなり、都内に通勤することができなくなってしまう。ぎりぎりのところで妥協するしかなかった
  川には必ず橋がかかっている。その橋の下の空間も好きだった。多摩川の橋はどれも大型のものなの
で、橋の下といっても窮屈な感じはしない。逆に急な雨などの時には、絶好の場所だった。何故か心地よい懐かしさや切なさを感じてしまう。子供のころ無口な父と、橋の下で釣りをするのが楽しみだったからだろうか。

  その日も、いつものように橋の下で釣りをしていた。でもちょっと感じが違う…誰かに見られているような、首筋がゾクゾクするような、そんな気がしたのである。僕は振り向き、自然と橋のたもとに視線をそそいだ。
  いつからいたのだろうか?
  そこには、僕の方に手を振っている少女が座っていた。中学生くらいの、幼さを感じる子だった。
  思わず目をそらした。
  知り合いではなかったからだ。でも、回りに人はいない。対岸にも人影は見えなかった。
  不思議な感じを受けた。彼女は僕に手を振っているのだろうか?
  少女は立ち上がり、スカートについた汚れをはたきながら、近づいてきた。
「お父さん、なかなか気がつかないから、無視されているんじゃないかと思っちゃったわ」
  少女は、怒ったふりをしていた。本心は会えてよかったと思える表情だった。女の香りが、鼻を刺激
した。
  僕はびっくりした。
「お父さん?  僕が?」
「当たり前じゃない。他に誰がいるの?  ねえ、釣れている?」
「いや…ちょっと、ふざけないでほしいな」
「わたしは、ふざけてなんていません。ひどいわ…お父さん、ひどい」
  少女は泣きそうな顔になった。
「僕には娘はいないよ。息子がひとりいるだけだ」
  一瞬、翔太の彼女かとも思った。だとすると随分と大胆な娘だ。
「お父さん、ふざけないで!  わたしは麻衣よ。自分の娘を忘れたの?」
「麻衣?」
  僕の身体は固まってしまった。
  麻衣は確かに僕の娘だった。もちろん、生きていればの話だ。12年前の事だが、麻衣は生まれてす
ぐに亡くなったのだ。僕たち夫婦の長女だった。
「娘の名前を聞いておどろかないでよ。それとも本当にわからないの?  お父さん、おかしいわよ」
  心配そうに僕を見つめる少女の瞳は、決して狂っている目ではなかった。それよりも、情熱と躍動感
が感じられた。
  少女は嘘をついていない。
  では、僕が狂ったのか?  娘が、わからなくなってしまったというのか?
「どうも僕には、今のこの状況が、受け入れられないんだよ。話を整理させてほしいんだけどいいかな
?」
「もちろんいいけど。大丈夫?」
  相変わらず少女は、心配そうに僕を見ている。
「とにかく座って話をしよう」
  水際に椅子のような大きな岩がある。いつも釣りをするときの特等席だ。ちょうどふたりが座れるだ
けのスペースがある。少女は岩に足をそろえて座った。川風に髪が揺らいでいる。その横顔が、翔太に似ているのでドキリとした。
「わたし、ここからの風景大好きよ」
  川の向こうに、ゴミ処理場が見える。安全そうな煙が、少し空中に漂っている。
「あそこの処理場で、わたしたちの排泄物がレンガなどに加工されているのよね」
  そんなニュースを見たことがあった。でも今は、そんな話題に答える余裕などなかった。
「その…変な質問をするかもしれないけど、気を悪くしないでほしいんだ。いいかな?」
「ええ、もちろん」
  不安そうな目を向けていた。
「君は…その、麻衣ちゃんは、いくつなの?」
「もう、すごく失礼な質問よ。でもお父さんが、困っているみたいだから、わたしも真面目に答えるわ
。今は12歳、もうすぐ13歳、今年中学1年生になります」
「誕生日は?」
「4月18日」
  娘の命日だった。
  生きていたということか?  そんな馬鹿なことはない。自分が変な空間に迷い込んでしまったか、夢
としか思えなかった。
「お父さんとお母さんの名前は?」
  馬鹿にした質問だと思ったのか、少し頬をふくらませたが、真面目に答えだした。
  いい子かもしれない。
「お父さんは、大島智久。41歳、A型のおひつじ座、13星座だと魚座ね。職業は会社員。会社員と
いっても劇場の音響スタッフをしている。その前は放送局でニュースの取材をしていたのよね。わたしが生まれた時に、いまの劇場に転職したの。お母さんは大島麗子。37歳、A型のしし座、元銀行員、今は専業主婦。兄は翔太。2歳上で今年中学3年になるわ」
  全て事実だった。
  麻衣が亡くなった時、妻は精神的に不安定だった。僕は妻のそばについていたかった。元気づけてあ
げられるのは、僕しかいないと思っていた。その気持ちを大切にしたかったので、時間がむらで休みが取りづらい報道局の仕事を、辞めることにした。長期休暇が認められなかったからだ。好きで始めた仕事だったが、僕にとって家族はひとつだ。仕事はたくさんある。そう思えるようになったときだった。
  あのとき僕は、家族を守りたかった。
  2歳になった翔太の面倒も、みなくてはならなかった。妻に子供が駄目だったという報告をした日か
ら、毎日病室に通った。妻は一言も仕事のことには触れなかった。触れてしまうと僕が仕事に行ってしまうとでも、思っていたのだろうか。
  落ち着いた頃を見計らって、妻に報告した。
「仕事は辞めたんだ。落ち着いたら新しい仕事を探そうと思う」
「嘘でしょう?」
  その反応は、今まで休みもなしに働いていた、僕へのあてつけのようにもとれた。どうして、好きで
始めた仕事を辞めたのかと問いつめられたが、心なしか妻の表情は明るかった。
「お金なら、多少は貯金があるだろう?  子供を亡くしたんだ。ひとつの人生がはかなくも消えてしま
ったんだよ。仕事なんて小さなものさ。何をしたって生きていけると思うんだ。今は麗子についていたい。翔太の面倒を見ていたいんだよ。家族を放棄すると、自分自身が何のために生きているのか、わからなくなりそうだったんだ」
「いいのね。それで?」
「十分考えた上での、結論だよ」
  自分で家族を持とうと思ったのだから、自分勝手な仕事はしていられなかった。麻衣が元気だったら
、気づかなかったことかもしれない。麻衣が自分の死をもって、家族の大切さを、僕に教えてくれたような気がした。
  妻は涙ぐんでいた。わかってもらえたと思った。
  あれは12年前の、春の出来事。
  あの時の麻衣が、生きていたとは考えられない。
  では今、麻衣と名乗るこの少女は、いったい誰なのだろう? 
「お父さん、もう家に帰ろうよ。夕御飯の用意もあるしね。最近、お母さんの手伝いしているのよ。偉
いでしょう?」
  相手にする気が起きなかったが、このまま置いて走り去るわけにもいかないので、道具を片づけると
黙って歩き出した。麻衣は後ろから少し離れてついてくる。
「お父さん、急に無口になっちゃうんだもん。つまらない…」
  小石をけりながら、ゆっくりとついてくる。家につけば、妻と翔太が味方になってくれるだろう。と
にかく帰ることにした。
  隣の奥さんが、自転車で近づいてくるのが見えた。見知らぬ少女と歩いているところを見られて、変
な噂を流されでもしたら大変だ。
  でも、現実は違っていた。
「こんにちは、釣れましたか?  麻衣ちゃんは、いつもお父さんといっしょに釣りにいくのね」
「だって、お父さんも釣りも大好きなんだもん。釣れなくてもね!」
  何!  斉藤さんが麻衣のことを知っている?  それも親しそうに挨拶を交わしているなんて・・・
  斉藤さんは自転車を止めて、僕の顔をのぞき込んだ。
「大島さん、何だか元気ないわね」
  返事などできる状態ではなかった。
「魚は釣れなかったし、お腹がすいたんじゃない?」
  無邪気な麻衣の言葉に、斉藤さんは笑顔を戻した。
「そうなの?  わたしも買い物に行かないと」
「この時間にスーパーに行くと、お刺身が2割引で買えるからね」
「まあ麻衣ちゃん、よく知ってるのね。いい奥さんになるわよ。じゃあ失礼します」
「またね。おばさん!」
  自転車が、こころなしか早く去っていった。僕は軽いおじぎをするのが精いっぱいだった。
「麻衣ちゃん、親しいのかい、斉藤さんと?」
「やめてよ。麻衣ちゃんなんて…だってお隣さんじゃない。本当に変よ。お父さん」
  自分の記憶が信用できなくなることが、これほど不安になるとは思ってもいなかった。


本編3

  とうとう、麻衣といっしょに家まで来てしまった。不安一杯のまま、玄関を開ける。妻が台所から顔をだした。
「遅かったわね。もうすぐ御飯よ。手、洗ってらっしゃい」
「ハーイ」
  麻衣が返事をして、洗面所にあがっていった。
「ちゃんと石鹸で洗うのよ。魚をさわったんでしょう?」
「今日は、お父さん、釣れなかったのよ。魚はさわってないわ」
「それは残念ね。それでも石鹸使ってよ」
「ハーイ」
  ごく普通の会話が流れていた。妻が玄関に突っ立っている僕に、けげんそうな顔を向けた。
「何しているの?  翔太も帰ってきてるのよ」
  翔太の靴が、玄関で踊っていた。
  身体が自然と手を洗い、気がつくとダイニングのいつもの席に座っていた。
「あなた、何かあったの?  変よ」
「お父さん、釣れなかったんだろう?  だから落ち込んでいるのさ」
  翔太が、からかうように言った。
「そんなことで、大の大人が落ち込むわけはないじゃない」
  妻は翔太に言う。
「男には女にわからない、こだわりがあるんだよ。これは僕とお父さんにしかわからない、男の気持ち
なんだよね?」
「そんなところかな…」
  帰ってからはじめて口を開いた。麻衣が僕と目を合わせてから、みんなに言った。
「今日のお父さん元気がないのよ。そうだ、朝作ったわたしの手作りプリンを、デザートにどうぞ。元
気がでるわよ」
「ゲー、また作ったのかよ。これで5日間ぶっとおしだぜ」
  翔太が、ずっこける真似をした。
「わたしはね。何事もきわめたいのよ。一流のプリン職人になりたい気持ちで一杯なんだから」
「まあ、それは初耳だわ。この間はクッキー屋さんじゃなかったかしら…とにかく食事にしましょう」
  妻が僕をのぞきながら、ビールを注いだ。
「いただきます」
  みんなの元気な声が響く。幸せな家族を客観的に見ているみたいだった。僕はビールをいっきに飲み
ほした。


本編4

  食事の後、2階にある翔太の部屋を覗いてみると、ふたつに区切って麻衣の部屋を作っていた。元が8畳ほどの部屋だったので、ひとり4畳ほどのスペースになっている。入り口もふたつになっていた。
「狭くないか?  このスペースで…」
  僕は翔太に聞いた。
「何言ってるんだよ今さら。お父さんがこうしたんだろう?  他に部屋があったら、そっちに移るけど
?」
  部屋を区切っているのは、仕切り型2段ベットだった。互いに片方だけが使えるようになっている。
翔太は上、麻衣は下を使っている。結構厚い部材を使っているので、お互いに干渉することはなさそうだ。天井まで壁が伸びているので、覗くこともできない。自分がやったことでも、感心してしまった。
「お父さん!  麻衣の部屋に来ない?  久しぶりでしょう?  言っとくけど、お兄ちゃんは駄目だから
ね」
  麻衣が壁越しに言った。
「バカ!  ガキの部屋に入れるわけないだろうが!  それよりも夜は静かにしていろよ。これでも来年
受験を控えた、受験生なんだからな。普通は大事にするものだぞ」
「わかってるわよ」
「そんなに、音が漏れるのか?」
  僕は心配になった。
「ちょうど、寝ようとしている時に、タイミングよく音を出すんだよ」
  麻衣が大きな声で言う。
「それって、お兄ちゃん。勉強しているんじゃなくて寝てるってことよね?」
「バカ!  そういう時もあるって言ってるんだよ!」
  翔太は机に向かってノートを開いた。
「なるほどね。お父さんはちょっといってみようかな。麻衣の方にも…」
  立ち上がる僕に、翔太が言った。
「改築するときは言ってよね。地下室も作りたいし、いろいろと考えていることがあるんだよ」
「生意気を言うな。改築なんてできるわけはないだろう」
「なんだ、改築するんで悩んでいたのかと思ったよ」
  じゃあ、何で来たんだというような態度をする翔太を尻目に、麻衣の部屋の扉を開けた。
「久しぶりよね。お父さんが部屋に入るの」
「ああ」
  初めてだった。
  部屋のいたるところに、大小のぬいぐるみが置いてあった。机の上はきちんと整理されている。
「ぬいぐるみが好きなのか?」
「そうよ。お父さんがいつも買ってくれるんじゃない? お母さんはぬいぐるみに弱いでしょう。だか
ら、この部屋を作ってもらったときから集めだしたのよ。お父さんだって買ってくれるのが好きなんでしょう?」
  妻はほこりアレルギーなので、ほこりの固まりのようなぬいぐるみは、もっとも苦手だったのだ。
  中学の制服がベットの横にかかっていた。麻衣も大きくなったものだ。でも、生まれてから、いまま
での記憶がない。あるのは、麻衣が死んだという、拭いきれない記憶だけだった。そのギャップからか、自然と涙があふれてきた。
「お父さん、なんで制服を見て泣くのよ。花嫁衣裳じゃないのよ。中学生になるだけなんだからね」
「わかっているさ。知らない間に大きくなったから、びっくりしちゃったんだ」
「黙っていても、子供は成長するわ。ほら、子供の時もらったグローブなんて、手が入らないんだから

  麻衣は物入れに入っていた、赤いグローブを取り出して、手を入れて見せてくれた。グローブも買っ
ていたとは…小さい時にキャッチボールをしたのだろうか?
  このまま、回りが認めている麻衣を認めなくては、自分の存在を否定しなくてはならない。
「今日は、麻衣のいうように、お父さん少し調子が悪いみたいだ。もう寝るかな? おやすみ」
「おやすみなさい。身体は大切にしてよね」
  これ以上、初めて会った麻衣の前で涙を見せたくなかった。


本編5

  ダイニングに戻ると、妻はテレビを見ていた。
「どうしたの?  子供たちの部屋に行ったりして。嫌がったでしょう?  最近、大奥みたいなんだから
…掃除もさせないのよ。汚かったでしょう? ねえ、何か飲む?」
「ビールにしようかな。疲れてるみたいだ」
  わざと目頭を押さえた。
  妻は冷蔵庫からビールを出すと、ふたつのコップに注いだ。
「あなた、本当に疲れているだけなの?…心配事でもあるんじゃないの?」
  妻も僕がおかしいと思っているのだろう。
「いや、たいしたことはないんだ…麻衣が大きくなったんで、改めてびっくりしていたんだよ」
「あの頃の女の子は、父親には理解できないことが多いのよ。あなたの思いどおりにはいかないわ。で
も、一緒に釣りに行くし、言うことも聞くわ。普通の子に比べたら、お父さんにべったりの方じゃないのかな?  わたしも嫉妬するくらいよ。自分の子供ながらも女を感じるのよね。釣りをしているときに

何か言ったの、あの娘?」
「何もないさ。それより今日は、麻衣とふたりで出かけたんだよね?」
「ええ、楽しそうに腕なんか組んでいったじゃない」
  今日の記憶の中で、麻衣とは橋の下で会ったことになっている。
  その記憶をごまかした。
「いつものことでも、意識していないと記憶に残らないものだね。もうすぐ麻衣の誕生日だったね。何
か欲しがっていないのか?」
「あの子は、ぬいぐるみばっかり。中学に入学したら、欲しいものでも出てくるんじゃないかしら」
「そうか、もう少し待ってみるか…麻衣が生まれた時、麗子は大変だったよね。思い出すよ」
「でも帝王切開だったから、自然分娩よりも楽だったかもしれないわ。翔太の時は、なかなか産めなか
ったから…術後が痛かったけど…その痛みも、子供を抱くと不思議と忘れちゃうのよね。産んだ苦しみは子供に救われるのよ。あなた、今さら何?…」
  妻は無邪気に笑った。
  僕の記憶によると、麻衣は麻衣の身体と母胎の安全のために、帝王切開で生まれた。妻は麻衣を抱く
ことなく、産んだ苦しみに闘っていた。
  子供を産めば乳もでる。これは薬で抑えることができると知ったので、少しは気が緩んだのを憶えて
いた。
「今夜は早いけど寝るよ」
「無理しないでよ」
「ああ、おやすみ」
  心配そうな妻の視線を痛いほど感じる。布団に入って自分の記憶を確かめることにした。現実と違う
記憶を。



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