目次
1章 現代に巣くう忍たち
1 東大生、藤林悠輔
2 警視庁幹部、相馬泰
3 侵入者
2章 休日の忍たち
1 そして、平凡な一日が始まる
2 女子大生、進藤早紀
3 渋谷の通り魔
3章 足跡を残した忍たち
1 事件現場
2 警察官、上月静夜
3 容疑者、田上明央
4章 取調室の忍たち
1 テレビ記者、叶陽一郎
2 激突-伊賀と甲賀
3 静夜の罠
4 追跡者たち
5章 オモテの忍たち
1 お笑い芸人、風間英太
2 メイド、仁科ともえ
3 JAあおもり職員、応野邦彦
6章 ウラの忍たち
1 風魔の英太
2 戸隠のともえ
3 応変の邦彦
7章 アキバの忍たち
1 ともえと悠輔
2 帰り道
8章 学園祭の忍たち
1 東都大学若葉祭
2 舞台袖
3 トーキョーハンター
4 同業者
5 最強
9章 嵐の前の忍たち
1 ともえと早紀
2 ツイてるともえ
3 ツイてない悠輔
4 邪魔者
5 嵐が来る
10章 相見える忍たち
1 知らなくていい真実
2 悪い夢
3 百地悠輔という男
4 集いし5つの流派
5 赤い瞳の一族
6 ともえの提案
7 激突する赤と青
8 別れなさい
11章 動き出す忍たち
1 六本木のオフィス
2 戸隠の女王
3 忍者王
4 アキバのアイドル劇場
5 同盟
12章 恋煩いの忍たち
1 恋人は忍者
2 最後のデート
3 守ってみせる
13章 集結する忍たち
1 警視庁のメッセンジャー
2 集結した忍たち
3 悠輔の企み

閉じる


<<最初から読む

3 / 50ページ

3 侵入者

「悠輔!」

 

 部屋の異変に気づきその場に駆け込んだ叶陽一郎を悠輔は手を黙ってかざして制止させた。

 

 悠輔は周囲が騒ぐほどのこの緊急事態に焦りはさほど感じてはいなかった。

 

 むしろそのあまりの落ち着きっぷりが周囲の者にとっては恐ろしくさえ思えたのだ。

 

「手出しは無用だ」

 

 悠輔は一言そう言うとかけていた眼鏡を取り外した。

 

 その瞬間、悠輔の瞳は燃えるような赤色に光り侵入者を鋭くにらみつけた。

 

「君たちは事をこれ以上大きくしないよう働いて欲しい。こいつの相手は──僕一人で十分だ」

 

 そういった瞬間、悠輔は陽一郎に向かって眼鏡を放り投げた。

 

 それを受け取った瞬間、陽一郎は一瞬面食らった表情を浮かべたが悠輔に言われたとおり何も言わず部屋から出て行った。

 

「さて……と」

 

 窓を破り冷たく強い風が部屋に吹き込んでいく。

 

 侵入者はぼさぼさの黒髪と黒いコートの裾をその風に任せるようになびかせた。

 

 そして、彼はすっと立ち上がると両手につけたまるで中世の騎士のような手甲を横に広げた。

 

 その瞬間、鋭い音を出しまるで日本刀のようなまっすぐで長い爪が手甲から生えた。

 

 来る──!

 

 そう思った瞬間、一際強い風が部屋に叩きつけるように吹き込んだ。

 

 それと同時に侵入者は動き両手の爪を振りかざして悠輔に襲い掛かった。

 

 だが、悠輔にとってそれは予想済みの行動であった。

 

 侵入者の爪が悠輔の顔を抉り取ろうと振りかざしたその瞬間、彼は表情一つ変えることなくその爪を軽々とかわして見せた。

 

 その瞬間、悠輔は初めて侵入者と目が合った。

 

 なんと冷たい顔をした男なのだろう──その冷たい表情はどこか機械的に見え、そして瞳はたえず青白い光を出し悠輔を射抜き続けた。

 

 だがそれはあまりにも一瞬であった。

 

 次には白くきらめく爪がまたしても悠輔を襲ったが彼は見切ったかのようにそれを身体をそらしてかわす。

 

 そのままの体勢で悠輔は飛び上がりくるりと宙で体勢を変えた。

 

そして着地する直前にそばにあったベッドのシーツを掴むとそれを侵入者めがけて翻し投げつけた。

 

しかし、その奥の手に侵入者は臆することなく投げつけられたシーツを横一文字に切り裂いて見せた。

 

だが、シーツが裂け視界が一瞬開けたその瞬間、まるで襲い狂う狼のごとく黒い影が侵入者の喉下めがけて突進してきたのだ。

 

侵入者は体勢を変え深く腰を沈めかがめると爪が伸びる元の手甲でその攻撃を防御したその瞬間、乾いた金属音と激しい衝撃が侵入者の右腕にのしかかった。

 

衝撃でずるずると引いていく侵入者の足。先ほどの一撃の衝撃は相当な力であった。

 

 侵入者は防御した手甲とは逆の手の爪を伸ばし、悠輔の顔めがけて付きたてた。

 

 だが、それと同時に右手にかかった攻撃はすっと糸を引くように引き下がった。

 

 悠輔は無表情のまま顔に手をやる。

 

頬をぬらす赤い液をぐっと拭い取ると両手で釵と呼ばれる一対の十手のような武器を回転させた

 

 侵入者に向かってシーツを投げつけたその場所に悠輔は釵を隠していた。

 

つまり彼は知っていたのだ。この会談は甲賀に筒抜けであり今日彼らが何かしらの邪魔をしてくることを──

 

 ただ、そんな用意周到の悠輔にとってたった一つの誤算は、邪魔しに来た侵入者がとてつもない強さを誇っていたこと。

 

自分と互角に戦える実力を誇りながらまだその力を隠している。それを悟った悠輔は落胆するどころか大きな悦びさえ感じた。

 

にやりと笑みを浮かべたその瞬間、悠輔は床を強く蹴り侵入者めがけて三度襲い掛かった。

 

 だが、侵入者もさるもの。悠輔の釵の一撃を爪の刃の部分で封じた。

 

 しかし、それも悠輔の狙いでもあった。彼は封じられた釵を柔らかい手のスナップを使ってぐるりと裏返す。

 

次の瞬間、侵入者の爪が逆に封じられた。

 

彼は一瞬焦ったように黒い前髪の間から青白い瞳をかっと見開いた。

 

だが、悠輔はその隙に間髪入れることなく大きく息を吸い込んだ次の瞬間、彼の口から炎が立ち上った。

 

巻き上がる熱気、立ち昇る赤々とした大きな炎──あまりのその大きさにホテルの火災報知機が鳴り響き瞬時に部屋からスプリンクラーのシャワーが降り注いだ

だが悠輔はその攻撃ですべてが終わったとは思ってもいなかった。

 

もくもくと上がる水蒸気の中ゆらりと立ち上がる人影が浮かぶ。侵入者は瞬時にあの炎を避け後ろに引いていたのだ。

 

火に焦げた壁紙のにおいに降り注ぐスプリンクラーの水しぶき、そして割れた窓からひゅううううと吹き込む強い風──

 

侵入者は黒コートを風にはためかせ息を切らしながら気味なほど青白く光る目で悠輔をにらみつけた。

 

「火遁……か」

 

それが彼が発した初めての言葉だった。

 

気のせいかもしれないが彼の顔もどこか喜んでいるような表情に悠輔は見えた。

 

どちらも気持ちは同じであった。最強かつ最高の相手に出会えた──その喜びに打ちひしがれているのだ。

 

「どうするの?」

 

 悠輔は意を決して侵入者に話しかけた。

 

「僕はここで決着をつけたってかまわないよ。でも、そうなれば騒ぎはこれ以上大きくなるのは君だってわかるよね」

 

 侵入者に交渉に入っても悠輔は固く閉ざされた表情を崩すことはなかった。

 

 否、戦っていたときよりもずっと濃度の高い殺気を彼は絶え間なく発しているようにさえ見えた。

 

 相手に舐められるわけにはいかない。勝負を捨てたと相手に思われるのが悠輔は最大に嫌悪していた。

 

「今なら僕たちの力でこの騒ぎをなかったことにすることは可能だ。そっちの方が君たち甲賀にとってもいい選択だと思うけど?」

 

 悠輔はあえて伊賀の威光をかざすかのように侵入者に話しかけた。

 

 幾分かハッタリも含んではいるが、これも侵入者より少しでも優位な立場で交渉を進めるためだ。

 

「ふ……おもしろい」

 

 その問いに侵入者は初めて口を開いた。

 

 口元に柔らかそうな笑みを浮かべてはいるが、やはり表情はどこか機械的で冷たい印象だった。

 

「お前たちの力でこの騒ぎを収めるだと……それは見ものだな」

 

「ちゃんと僕の質問に答えろよ」

 

 そう言うと悠輔は侵入者をキッと睨み付けた。

 

「君に残された道は2つ。このまま手を引いて騒ぎを収めるか、またはこのまま戦って騒ぎをさらに焚きつけるか──選んだからにはこの後は君たち甲賀の責任でお願いしたいところだ」

 

「手を引けといいたいのか?」

 

「──だって、今日は場所が悪いと思わない? これ以上このホテルに迷惑かけられないからさ」

 

 その一言に侵入者は一瞬考え込むように顔をうつむけたが、すぐに彼は蔑んだような笑みを浮かべて悠輔を見た。

 

「お前……その若さで伊賀の頭目なのか?」

 

「まあ、そういうことになるかな」

 

 そう言うと悠輔はくすっと笑った。

 

「そういう君も相当な実力者だね。甲賀の幹部クラスだろ」

 

「それはお前の想像にお任せするよ」

 

 そう言うと侵入者は破壊した窓ガラスのほうへと一歩また一歩引いた。

 

 絶え間なく吹き付ける風で彼の黒コートは音を立ててはためいた。

 

「今日は楽しいショーをありがとう。伊賀の若き家元さん」

 

 侵入者は悠輔を見てにやっと笑みを浮かべた次の瞬間、そのまま後ろへ飛びホテルの高層階から飛び降りた。

 

 すぐそばにいる警察幹部相馬泰はそれを見て驚きを隠せない様子だったが、悠輔自身はさほど驚きは感じなかった

 

 彼のことだ。ここから飛び降りたといっても無事に地上に降りれる段取りは出来ていることだろう。

 

「やれやれ、本当に厄介な相手と出遭ったものだ」

 

 悠輔はため息混じりに一言そう言うと、先ほど侵入者に傷つけられた頬の傷にもう一度触れた。

 

 彼は悠輔の問いに明確な答えは示さなかったが、間違いない。あの実力にくわえてこの秘密の会談を知っていたのだ──彼は幹部どころか自分と同じ頭目クラスの人間だ。

 

そう思うだけで悠輔は少し悔しい思いもしたがわくわくする気持ちも抑えられなかった。

 

彼と別れた後に急にもう一度彼と刃を交えたいという気分に悠輔は襲われていた。

 

「……おい」

 

 やっと落ち着いた悠輔を見て、呆然と経緯を見ていた相馬はびくびくしながら彼に話しかけた

 

 それを見て悠輔は少し気の張ったように鋭い表情で相馬を振り返ったが、すぐに少し蔑んだような瞳で彼を見返した

 

「まだ、そこにいたんですか」

 

「そう言われても……」

 

 ──逃げる暇なんかなかったんだ。仕方ないだろ。

 

相馬はそう言いたげな視線で悠輔をにらんだが、その視線はどこか迫力がなかった。

 

「ともかく、これが僕たちのやり方です」

 

そう言うと悠輔は踵を返して相馬をじっと見つめた。

 

「あなたは現代に忍者なんて信じないって言いましたが、これを見て存在を少しは思い知ったでしょう」

 

「ああ、まあ……」

 

「あなた方が伊賀か甲賀どちらと提携するか──それは今すぐ結論を出せなんていいませんよ。今日のことを見て決めろなんて……ちょっと酷ですよね」

 

「………」

 

 その一言に相馬は顔を引きつらせるばかりだった。

 

 驚愕の事実に慣れているはずの警察なのにとにもかくにもここまで次元の違うものを見せられてしまうと──驚きを通り越してもはや何も言えなかった。

 

「まあ、いいです」

 

 悠輔は一言そういうと相馬から目をそらし部屋のドアの方へ歩いていった

 

 それを相馬は静止しようと立ち上がったが、その前に彼はにこっと優しげな笑みを浮かべ相馬を振り返った。

 

「相馬さんは何も手出ししないでくださいね。この事態は僕たちで処理しますから」

 

「でも、こんな大事件……」

 

「僕たちの力を見くびらないでください」

 

 そう言う悠輔の顔は笑っているのだがその視線は鋭くどこか気高く怖い空気が出ていた

 

 そんな彼を見てもはや相馬に出す口など残ってはいなかった。

 

 悠輔はそれを見て満足げな表情を浮かべ悠然とした足取りでガラスが粉々に割れた部屋を出た。

 

そして、この『ハリーアットホテル』であった一件は翌日にはどのマスコミにも報道されずに彼の言った通りなかったことになってしまったのった

1 そして、平凡な一日が始まる

どんなに非日常の夜をすごした後でも日常の朝は必ず悠輔の前に訪れる

 

いつもと変わらない曇りの日の金曜日。

 

昨日のことで若干節々が痛む中、悠輔の単位取得危機は変わることなくいつもと同じように大学に通わなければならないのだ。

 

だが、朝の東都大キャンパスはどことなく落ち着きが足りない。

 

無理もない。一大イベントである年に一度の東都大学若葉祭があと二週間に迫っているのだから

 

いつもなら静かな朝のキャンパスだけどここ最近に限って言えば、大工仕事をする者、看板のイラストを書くもの、ストリートダンスの振り付けをチェックする者、演劇のチラシを配っている者たちでにわかな活気に帯びている。

 

だが、大学生活にさほど固執してない悠輔にとっては年に一度の学祭もどうでもいい存在であった。

 

それ故に学祭で浮かれほうけている学生が目障りで仕方がなかったのだ。

 

演劇のチラシを渡そうとした女子学生を悠輔は片手で追い払って深いため息をついた

たかが学祭で浮かれるなど考えられない。まるで別世界のことのように感じたのだ。

自分にはそんなことをしている暇なんてない。

 

そう思うとキャンパスで思い思いに表現している彼らがどこか疎ましくさえ思えた。

足早に教室に向かいながら悠輔は頬に手をやった。

 

そこにはあまりにも大きな絆創膏が強い存在感を放っている

 

さすがにこれは目立つであろう──そう思うとなんとも不名誉な気分が彼を襲った。

それは昨日あの黒コートに傷つけられた爪あと。

 

本当ならこんな情けない傷をさらして大学など行きたくなんかなかったけど、ギリギリの単位の中なのだから休むわけには行かない。

 

しかし、同級生たちにこの傷をつっこまれたらどうやって返そう──そう思うとどこか気持ちが少しソワソワしてしまった。

 

そう思いながらやってきた小さな講義室。大きな絆創膏を貼った悠輔が部屋に入ると一同みなそちらに目が行った。

 

ヤバイな。

 

そう思った悠輔はあえて学生が固まっていない窓際の席へ移動すると頬杖をついてその絆創膏を手で隠した

 

だがそんな偽装工作が学生たちには余計怪しく見えたのだろう。

 

そんな悠輔を遠巻きに見ながらひそひそと内緒話をする者、いぶかしげにじっと見つめる者、そして、彼に直接真意を聞こうとする者も──

 

「おいおい、藤林よぉ」

 

 その声を聞いて悠輔はさらに頑なにそっぽを向いた。

 

声を掛けてきたのはあの大嫌いな軟派者の石野誠だったのだ。

 

「おまえ、あの後一体何をやらかしたんだ?」

 

「別に……」

 

「別にじゃねえよ。そのでっかい絆創膏はなんなんだよ」

 

「これは……」

 

 その問いに悠輔は思わず答えを言い淀んだ。

 

 まさか、言えるはずがない。昨日忍者に襲われてちょっと怪我をしただなんて──

 

「──わかったぞ」

 

 石野はそんな悠輔を見てにやっと笑みを浮かべた。

 

「お前、あの後女とデートだったんだろ」

 

「はあ?」

 

「隠すんじゃねえよ。俺の誘いの合コンに行かなかったのはそういう意味だったんだなあ……」

 

 ──何を勘違いしてるんだ、コイツ

 

 悠輔は訝しげな表情を浮かべ悦に入って語る石野を見つめた。

 

 だが、馬鹿な勘違いしてくれたほうが今の悠輔にとっては都合がいいのかもしれない。

 

 下手にしゃべって自分の正体がばれるよりかは人に虚像を見せているほうがまだ安全だ。

 

「で、昨日は相当大変だったのか?」

 

「──さあね」

 

「さあね、じゃねーよ。あれか、例の彼女と喧嘩したのか? その絆創膏の下は昨日彼女に食らった平手打ちで痣ができたんだろ?」

 

「勝手に言えよ」

 

 そういうと悠輔は隣で勝手に妄想と鼻の穴を膨らます石野を無視するようにリュックから教科書を出した。

 

「ところでさ、お前の彼女ってなんて名前だったっけ? たしか冷泉大学の()だったとおもうけど……」

 

「早紀。進藤早紀だよ」

 

「そうそう、早紀ちゃん。あの娘かわいかったよねぇ~。あのときのメンツでは一番の上物だったぁ」

 

 名前も忘れてたくせに──悠輔は石野のことを馬鹿にするように鼻で笑った。

 

「で、結局あれから早紀ちゃんと仲直りしたのか」

 

「別に喧嘩したなんて言ってないよ」

 

「あれ? そうなの?」

 

 その言葉に石野は思わず目を丸くした。

 

 まずい──その瞬間、悠輔は思わず口を手でふさいだ。

 

「喧嘩じゃなかったらその絆創膏は何の傷なんだ?」

 

「それは……」

 

 その問いに悠輔は再び口を濁した。

 

 ああ、なんて馬鹿なことを言ってしまったのだろう。悠輔は思わず頭を抱えそうな気分になった

 

あのまま喧嘩で収めていればこの下世話な馬鹿にここまで苦しめられなくてすんだと言うのに──

 

 そのときだった。

 

 悠輔と石野の間でけたたましく響いた着信メロディ。

 

それを聴いた瞬間、悠輔は助かったと安堵のため息を漏らした。

 

「あ、早紀からメールだ」

 

悠輔はポケットから赤い携帯電話を出すと、石野のことなど無視してメール画面に集中した。

 

そんな彼を見てお馬鹿な石野は何を期待したのかそわそわと背伸びしながらその様子をのぞき始めた。

 

「え? なんて書いてあるの? 昨日のお詫びかな──」

 

 そんな石野を軽くあしらうように悠輔はさらりと一言言った。

 

「石野君。ちょっと邪魔だから向こう行ってくれない?」

 

「えええー!いいじゃん、ただのメールだろ」

 

「人の彼女のメールを覗き見するほど君は下世話な男なのかい?」

 

「それは……」

 

「人のことより自分のことを心配したらどうなんだ」

 

 悠輔のその心無い一言に石野は完璧に返す言葉を失った。

 

 その言葉に仕方なくおずおずと引き下がり自分の席に戻る石野を横目で見た後、悠輔は自分を救ってくれたメールにもう一度目を落とした。

 

【悠輔、明日暇かなー? もし暇ならメールちょうだい!! 渋谷で新しい服とか見たいからさ! ついでにデートしようよ☆】

 

なんとも女の子らしいデコメと顔文字でチカチカするほど眩い早紀のメール。

 

それを見て悠輔は初めて顔を和らげ口元に笑顔を浮かべた。

 

明日ね……

 

悠輔は一瞬現実に戻り予定を考えたが、その前に自然に指が動き真っ先に返信メールを送っていた。

 

【いいよ。付き合ってあげても】


2 女子大生、進藤早紀

翌日──

 

土曜の午前中、絶え間なく人々が交じり合う交差点、渋谷。

 

そんな雑踏に身を任せながら、いつものようにあの日本一有名な犬の像の前で悠輔は待ちぼうけを食らっていた。

 

ふと横を見ると自分と同じ立場の男や女がひしめき合っている。

 

だけどそのメンツは常に絶え間なく入れ替わっている。

 

ハチ公前で待ち合わせしている者は皆、連れ合いが来ればすぐにそこから雑踏の中へと姿を消していく。

 

その男女のローテーションのスピードは驚くほど早く、5分も経たないうちにまったく新しい男女に生まれ変わっていた。

 

──それなのに、僕は一体何なんだ?

 

悠輔はそんな見知らぬ男女の出会いと別れを見て思わず大きなため息をついてしまった。

 

ハチ公前で行われている男と女の早いローテーションに悠輔だけはまったく置いてけぼりにされているのは目に見えている。

 

まるでこの人の足が速い渋谷にただ一人時間を止められているかのような錯覚を覚えながら悠輔はただそこでじっと時間にルーズな恋人を待ち続けた。

 

別に今日が特別ってわけでもない。早紀の遅刻はもはやデートのお約束化している感もある

 

だが、慣れたことだとはいえハチ公前の相手を見つけて去っていくカップルを永遠と見送っていると、やはりその怒りはふつふつと心の中に蓄積していく

 

 いつから待ったか覚えてないけど、その間メールを8通も送ったことはよく覚えている

 

 だけど、早紀から帰ってくる言葉は【ごめーん!!あとちょっとだから☆】というこれまた眩いばかりのデコメだ。

 

 東京の女の子ってみんなこんな感じなのだろうか。

 

 悠輔は携帯片手に待ちぼうけを食らいながらただ気まぐれで我がままな恋人のことを思った。

 

そういえば出会ってから今までわがままな早紀に振り回されっぱなしだ。

 

数合わせのヘルプで行った冷泉大学の女の子との合コンで初めて出会ったのは3か月前。同時に彼女のほうから積極的にアピールされて、悠輔はその気がないのになぜかその日のうちに男女の仲になった。

 

それからメアドを交換したはいいものの、多いときは5分に一回のメール攻撃。

 

任務中にまでラブメールが入ってしまうものだからこっちはたまったもんじゃなかった。

 

デートをすれば時間にルーズだし遅刻するのは当たり前。

 

だけど主導権は完璧に早紀のもので、自分の好きなブティックや雑貨屋を見つけると悠輔ほったらかしでずっと居座ってしまう。

 

それにとんでもなくわがままですぐ拗ねる気分屋のところも手を焼いている。

 

まったく──忍者の世界では誰もが恐れる伊賀忍者の次期家元として君臨している僕が、東京生まれの女の子相手にどうしてここまで振り回されなきゃならないのだろう。

 

だけどそんな早紀を悠輔はどうしても嫌いにはなれなかった。

 

最初は少し疎ましく感じていたラブメールも、最近は少しだけ来るのが待ち遠しく感じられるようになっていた。

 

彼女のわがままなところも少しずつだが認めるようになっている自分がいるのだ。

 

不思議なことにこれが恋って奴なのだろうか……

 

弱点なんてないと思っていた僕だけど、今は完璧に早紀が弱点だ。

 

そう思うとなんかこんな彼女に振り回されている自分がなんとも情けなく感じるのだ。

 

そんなことを諸々考えてまた深いため息をついたその時だった。

 

「やっほー。悠輔、待ったぁ~」

 

 そんな甲高い声に悠輔は不機嫌そうな顔をむっと上げた。

 

そこにはゆる巻きのロングヘアに青いチェニックとシフォンスカートを合わせた早紀がニコニコしながらこちらに寄ってきた。

 

「ああ、何分待ったかわからないくらいに──」

 

「ちょっとー!」

 

「……ん?」

 

「悠輔、何その絆創膏―!」

 

「え……」

 

 そう言われて悠輔はふと自分の頬の絆創膏を触った。

 

そういえばこれをつけたままだったのをすっかり忘れていた。

 

「ああ、これねえ……」

 

「どーしちゃったの? 一体……なんか怪我しちゃったの?」

 

「うーん、話せば長くなるんだけど……」

 

 そう言って悠輔は苦笑いを浮かべた

 

「この前、ちょっとした不注意でさ……こけちゃったんだ」

 

「へえー、それでこんな大きな絆創膏ねえ……」

 

 そう言うと早紀は訝しげな顔をしながら悠輔の顔をじろじろと見つめた

 

 やっぱり、今の嘘を怪しんでいるのだろうか……ただこけただけでこんな絆創膏だ。怪しまないほうがおかしい話だ。

 

 でも、現実離れした事実を話より見え見えの嘘を吐いたほうが彼女のためだ。

 

 自分の本当の正体が知られてしまったら彼女だって危ない立場になるのだから……

 

そんな沈黙がしばし流れたその瞬間、早紀はふっと顔を和らげ笑った。

 

「やだなあ。悠輔って意外におっちょこちょいなんだねー」

 

「あ……ああ」

 

「でもさ、私、悠輔のそういうところ好きだよ。なんか情けないところが守ってあげたい気分になっちゃう」

 

「情けない……」

 

 悠輔は引きつったような笑顔を浮かべながら一言そうつぶやいた。

 

 見せてあげられるならば、自分の本当の顔を早紀に見せてあげたい。

 

それさえ見せれば自分のことを情けないモヤシ大学生だなんて思わないだろうに──

 

「でさ、今日行きたいお店なんだけど……」

 

「そうそう、それどこにあるの?」

 

「えーっとね……最低でも5件あるのよ」

 

「はあ?」

 

「とにかく私についてきて。早くしないと目玉商品売り切れちゃう!」

 

 早紀は一言そういうと悠輔の手首を不意に握り締めるとそのまま雑踏の中へと走っていった。

 

 それを見て悠輔は「ちょっと待って!」といったが時は遅し、彼女に誘われるまま雑踏うごめく渋谷のスクランブル交差点へと吸い込まれていった

3 渋谷の通り魔

最低五件とは言っても──

 

 たくさんのブティックの紙袋に囲まれながら悠輔はファッションビルの待ち合わせで不機嫌な顔をして立ち尽くしていた。

 

 かれこれ何時間彼女のショッピングにつき合わされているだろう

 

悠輔はデートのつもりでやってきたはずなのに、いつの間にか決まったように便利な荷物運びになってしまっているではないか。

 

 なんて情けないんだろう……

 

 悠輔は疲れて落ち込んだようにその場にうずくまった。

 

 こんな姿門下の忍者たちに見られたらどうしよう──とは言っても、彼らのことだ。

 

もうとっくに次期家元が一人の女の子に振り回される姿は彼らの笑い種になっているに違いない。

 

 日本最強の忍者集団の長である僕がただの女の子相手にこれほど四苦八苦するなんて……

 

 なんて情けないんだ。泣けてくるほど情けない……

 

 でも、落ち込んでばかりもいられない。

 

 悠輔はまた深いため息をついて立ち上がると、ちらっと腕時計で時間を確認した。

 

 PM1:45──そろそろ本気で昼御飯を食べたいところ。

 

 これ以上早紀に付き合ってられないと思った悠輔は、大きな紙袋を両手に握り締めながら早紀が居座っている雑貨屋に向かった。

 

 かれこれ三〇分早紀はアロマ石鹸の品定めを続けているような気が悠輔にはしていた。

 

 店から漂うなんとも鼻につくたくさんのアロマが混ざった複合臭に悠輔は顔をしかめながら、店先の早紀に一言声を掛けた。

 

「ねえ、おなかすかない?」

 

「うーん。そうかな? 今何時だっけ」

 

 その問いに悠輔は「僕は便利な道具じゃない」といつもの調子で言いそうになった

が、その言葉を飲み込んで言葉少なに彼女に言った

 

「もう2時になる」

 

「へえー。もうそんな時間なんだ」

 

 そういうと早紀はショッキングピンクの石鹸をかごの中に入れるとスタスタとレジのほうに向かった

 

「悠輔、ちょっと待ってくれる? これだけ買ってからお昼にしよ!」

 

「ああ……」

 

 その気持ち悪い色の石鹸も買うんだ──

 

早紀の買い物好きに悠輔は半ばあきらめの笑顔を浮かべそう思った。

 

しかし、やっと買い物地獄から抜け出せてお昼にありつけると思うとなんともいえない安堵感が悠輔の心の中を包み込んでいった。

 

そして、ふうっともうひとつため息をついて店から出ようとしたそのときだった。

 

「きゃぁぁぁぁぁっ!」

 

 女の悲鳴がショッピングビルのフロア内に響き渡った。

 

 悠輔ははっとそちらのほうを振り向くと、数人の若い女性が腹や腕を押さえぐったりと倒れこんでいた。

 

 その隣では包丁を持った狂気めいた表情を浮かべた男。その様子はこのファッションビルに似つかわしくない狂気に包まれていた。

 

「通り魔よ!!

 

 近くを通りがかった女の人が全ホールに響き渡るような声でそう叫んだ瞬間、周りの買い物客たちはなだれを打つように彼から逃げ出し始める

 

 それに反応して彼も声にならない叫び声を上げ包丁を振りかざしこちらめがけて走ってくる。

 

 途中、追いついた人や転んだ人の足や胸を刺しながら、ずんずんと早紀のいるブティックへと近づいてきたのだ。

 

「悠輔──!」

 

 周囲のおかしな様子に焦って早紀は悠輔の下へ駆け寄ろうとしたが、彼は彼女に向かって手をかざして強く言った

 

「来るな!」

 

 それは彼女にとって今まで聞いたことのない悠輔の凛とした声であった。

 

 その一言に早紀はぴたっと足を止めるしかなかった。

 

 悠輔の眼鏡の奥の瞳は自然と鋭い光を放ち始める。その時、彼は知らず知らずのうちに忍者としての顔へと変化していた。

 

 逃げ惑う人をなぎ倒しどんどんとこちらへ吸い寄せられるようにやってくる通り魔──

 

 そして、ついにその場に仁王立ちする悠輔めがけて彼は包丁を付きたてた。

 

 早紀は思わずその様子に目をそらした。その場にいる誰しもが青年に降りかかる惨劇を予想したに違いない。

 

 だが、こんな怒りに任せて振られた刃を交わすことなど悠輔にとっては朝飯前の出来事であった。

 

 悠輔は身体を表情ひとつ変えず身体を少し横にそらせただけで通り魔の包丁を軽く避けていた。

 

 そして、その反動で通り魔の身体は大きくぐらっとふらついた。その瞬間を悠輔は見逃すことはなかった。

 

 悠輔はがらんどうになった通り魔の肩甲骨の辺りを狙って裏拳をたたきつけた。

 

 次の瞬間、通り魔は強い衝撃で派手に吹っ飛ぶ。

 

 5メートルほど飛ばされた通り魔はそのままフロアに大の字に寝そべりそのまま動かなくなった。

 

 あまりにも冷たい瞳でそれを見ていた悠輔であったが、周囲のギャラリーの多さに思わずはっと我に返った。

 

 ──やばい。ついつい本気を出してしまった……

 

 悠輔はあわてて通り魔の男に近寄り手を触って脈を図ったが、案の定、彼は心肺停止状態だった。

 

「ねえ、ちょっと大丈夫!?

 

 その様子を見て早紀は真っ先に店から飛び出し呆然とする悠輔に駆け寄った。

 

「──悠輔、怪我ない?」

 

「ああ……」

 

「ああ、じゃないわよ! だってあなた通り魔をやっつけちゃったんでしょ」

 

「──早紀」

 

 そういうと悠輔は早紀の手をぎゅっと握った。

 

「え──?」

 

「とにかくここから逃げよう!」

 

「何で? どう言うこと?」

 

「説明は後でするから!」

 

 悠輔は一言そう叫ぶと早紀の手を強く引き囲んでくる野次馬たちを割るようにその場を後にした。

 

 おそらく早紀はまだ何が起きたかわかってないだろう。

 

 だからこそ彼女が事実に気づく前に悠輔はその場から早く逃げたかった。

 

これは間違いなく大事になる。

 

渋谷の超有名ファッションビルに出現した通り魔を取り押さえるどころか半殺しにしてしまったのだから──

 

でも英雄になどなりたくない。なってはいけないのだ。

 

伊賀忍者のトップとして自分の正体をやすやすとあらわにするわけにはいけないのだ。

 

「ねえ、本当にどうしちゃったの?」

 

 急いで事件のあったファッションビルを抜け出した瞬間、早紀はいぶかしげな顔して悠輔の手を払いのけた。

 

「なんで悠輔があの場から逃げ出さなきゃならないの!? 理由を教えて!」

 

「それは……」

 

「犯人が動かなくなってテンパっちゃったのはわかるけど、それっていわゆる正当防衛ってヤツだから悠輔にはなんの罪もないと思うけど……」

 

「そういう問題じゃないんだ!」

 

 そういうと悠輔は下にうつむき拳をぎゅっと握った

 

「今は君に深い訳は話せないけど……とにかく、目立つのが嫌だっただけさ」

 

「目立ちたくないって……どういうこと? 恥ずかしいの?」

 

「そうじゃない……訳は話せないけど」

 

「もう、それじゃあ意味がわかんない」

 

 そういうと早紀はむっとした表情で悠輔の顔を覗き込んだ。

 

「私たち、これでも立派な恋人同士だよね? 隠し事ってあんまりよくないんじゃないかな」

 

「そうはいうけどさ……」

 

 本当のことなんて絶対に話せない。自分が忍者の頭目だなんて口が裂けても言えない。

 

 もし打ち明けたとしても早紀がその現実離れした話を信じてくれるかどうかもわからない。

 

 そんな前にも後ろにもいけない状況なのに、どう早紀に説明すればいいのか──悠輔にはまったくわからなかった。

 

「──もう、何その沈黙!」

 

 黙りこんでしまった悠輔を早紀はむっとした表情で見つめて言った。

 

 だけど、悠輔はそんな彼女に何もいえなかった。

 

「ねえ、悠輔。私に話していない秘密でもあるの?」

 

「あるよ……」

 

 そういうと悠輔は早紀に背を向け一言いった言った

 

「当たり前じゃないか。君に言えない秘密なんて星の数ほどあるよ」

 

「じゃあさ──!」

 

「でも、今は話せない!」

 

 悠輔の強いその一言に早紀は思わず出しかけた不満を引っ込めた。

 

 彼の背中はいつもとは違いどこか物悲しいものを感じた。

 

「──ごめん。今日はこれでデート中止してもいいかな?」

 

「え?」

 

「こんな気持ちで君と付き合ってたら君に不快な思いをさせてしまう気がする。それなら、今日はもうやめたほうが──」

 

「でもさ、そんなこと私気にしないよ?」

 

「気が進まないんだ」

 

 悠輔は一言そういうとうつむき加減に先を急ぎだした。

 

 早紀はそんな悠輔に一瞬付いていこうと足を速めたが、初めて近寄りがたい空気を出す彼を見てすぐに足を止めてしまった。

 

 そのうち悠輔は渋谷の雑踏の中に煙のように消えていく。

 

 そんな彼を呆然と見送りながら早紀は今日初めて見せた彼の別の顔にもう一度とり肌を立てた。

 

 今までただの無愛想で情けない彼氏だったのにほんの少し別の面を見ただけでどうしてこうときめくのだろう。

 

 そう思うと早紀はますます藤林悠輔という男のすべてを知りたくなった。


1 事件現場

「今日の午後二時ごろファッションビル『シャイニーズ渋谷店』でまたしても通り魔事件が発生しました。午後のショッピングを楽しんでいた若い女性たちでにぎわっていた店内は大混乱。犯人は女性4人男性2人を切りつけ、うち2人は重傷を負って近くの病院に運ばれました」

 

 悠輔たちが去ってまもなくしてあのファッションビルは黄色の規制線がぐるぐると張られていた。

 

 いつも人でごった返している場所であるが、今日だけはさすがに様子が違う

 

 たくさんのテレビカメラ、記者やレポーターなどのマスコミ関係者に制服を着た警察官、そして何十にも重なった若い野次馬たちがその店をぐるりと取り囲んでいた。

 

「しかし、この店にある救世主がいたと言うのです。目撃者によると犯人はある青年によって取り押さえられたという話です。彼はその後騒ぎのそばから姿を消してしまい行方がわかりませんが、彼がいなければこの事件はもっと大惨事になっていたことでしょう──」

 

 能天気にカメラに向かってピースサインをする馬鹿な野次馬たちを抑えながら年配の女性リポーターは淡々と原稿を読んでいる。

 

 その横を一人の男が規制線に向かってのそのそと近づいていった。

 

 ぼさぼさの黒髪にいかにも眠たそうな瞳、服装は制服の警官であるがどことなく着崩していてどこかだらしない印象を与えた。

 

 そんな彼を見て、近くにいたかっちりと制服を着た警察官は声を掛けざるを得なかった。

 

「ちょっと、君。どこの署の者だ?」

 

「俺? 渋谷署だけど?」

 

 彼はぼりぼりと頭をかきながら一言言った。

 

「じゃあ所轄のところのか……それよりも、君。何だねそのだらしない服装は!」

 

「これが普通ですけど?」

 

「そうじゃなくて……一応ここは事件現場で一般市民やマスコミがたくさん見ているんだ。そういうところくらいいつもより気合入れて──」

 

「どうでもいいけど、早く入れてくれませんか? 俺、仕事あるんで」

 

「仕事──」

 

 その言葉に警察官は彼を訝しげに見つめた。

 

 いくら自分が警察官だと名乗っても彼の年や背格好を考えて中で捜査する立場の人間じゃない。

 

 そんな彼を入れるべきなのか、否か──

 

「聞いてるのか?」

 

 彼は特段にゆっくりと警察官に語りかけた。

 

 いつの間にか眠たそうだった彼の瞳は奥で不思議な青白い光を放ち始めていた。

 

「俺はこの中に入らなければならないんだ。後で後悔したくなければそこをどいてもらいたい」

 

 彼のその言葉を聞いて警察官は不思議な感覚に襲われた。

 

 自分より年若く階級も明らかに低そうな男であるのに、彼の身体からは強い威圧感が見る見ると吹きだしている。

 

 それに彼の眠そうであり鋭そうでもある不思議な瞳を見つめると、自然と彼の言ったことこそ正しいと思えてくるのだ。

 

 頭の中がその不思議な感覚でぼんやりともやに覆われていった次の瞬間、警察官の身体は無意識のうちに動き出し彼に道を譲っていたのだ。

 

「どうぞ……」

 

 その言葉もまったくの無意識のうちのもの。

 

 次の瞬間、警察官はふと我に返りその言葉を訂正しようとしたがもう時は遅し。彼は悠々と現場のファッションビル内へと入っていった。

 

 一体、何なんだ……あいつ。

 

 頭を覆っていたもやを振り払うかのように頭を振るう彼の横でテレビ局のレポーターは原稿の結を読み始めていた。

 

「──なお、容疑者の男は心肺停止の状態で病院に運ばれ治療中です」



読者登録

古見蔵しかさんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について