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しかし、その死んだ状況からぼくを蘇らせたのは、他ならぬ妹たちだった。彼女らが、暗い井戸の底のぼくに声を掛け、ロープを降ろし、底に沈んでいるぼくの救出にかかったのだ。ぼくはもう、光というものは、地上の光ではなく、神の光だとばかり信じ切っていたのに、再び地上の光に打たれて、目がくらむと同時に、生き返る思いがした。それこそはまさに、神における復活の経験だった。帰って来たところは、やはり貧しいアパートには違いなかったが、そこには妹たちがいて、ぼくは、地上の生活の良さというものを、しみじみと味わった。――そんな時期があったことが、今となってはなつかしかった。いろいろなことがあったぼくの生活。なぜ人は、色々なことを経験し、年を取って行くのだろう。なぜ、クリスチーヌとレオノールは死に、それっきりなのだろう。それっきり、長い歴史の中から、永遠に姿を消さねばならないのだろう。ぼくが、本当の復活を願うとするなら、それは、彼らの人生ではなかったろうか。しかし、人は、死ねば美しい存在となるのかも知れないが、生きていれば、鼻もちならぬ存在であったかも知れないのだ…

 …ぼくはふと、自分の人生の原点に、「人形の死」があったことを思い出した。あの強烈な思いは、いまだに忘れることがない。遠い、遠い、まだ幸福のただ中にあった幼い日々の中の亀裂―― それが、どのような迂余曲折をたどってかは知らないが、ぼくのその後の人生に、深い爪痕を残そうとは思いもよらないことだった。それは、その後の母との別れ、犬の死、レオノールの死、などによって強化されて行ったのだ。その最初の経験である「人形の死」は、それほど大きな衝撃を、ぼくの心の中に残したのだった…

 様々な、消えては浮かぶ追憶の中から、やがて、一人の少女が浮かび上がって来た。それは、ぼくのリサだった。他の、様々に出会った女や、少女たちのことを思い出しているうちに、彼女のことをすっかり忘れていたのだ。しかし、彼女はいた。今も、ここから何百キロも離れたところで、生活をしているはずだった。その彼女は、どんな生活をしているのだろう? そのことこそは、これまで、余り考えることのないことだった。しかし、このときになって、ふと、ぼくは彼女の生活のことが気になった。あの広い都会で、若い娘が一人、どのようにして生きて行っているのだろう? しかし、彼女のことを余り気にしなかったのには理由があったことにすぐ気がついた。ぼくは、彼女なら大丈夫だと、半ば安心していたのだ。誰にでも愛される彼女の性格。並の男ならきっと目をつけずにはいられない、その可愛らしさ。彼女は、女としての魅力なら、たいていのものが備わっていた。彼女は可愛いだけではなく、男心を虜にするような不思議な魅力さえあるように思われる。その人なつっこさや、美しい笑顔を目にすれば、普通の男なら、彼女のことをほおっておけなくなることだろう。だから、彼女の生活の中で、常時ひとりしか男がいない、ということは考えられないことだった。彼女なら、常時、2~3人は相手にしているに違いない。広い都会の中で、様々な誘惑の手が、彼女のところに延びて来ているに違いない。むしろぼくが心配すべきなのは、彼女がその選択を誤らない、というそのことだけだったのだ。だが表面上は愛想が良く、人なつっこい彼女も、その機転の効く頭の中で、様々に考えをめぐらせていることだろう。


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彼女は、様々な男の誘惑の中から、賢明な相手を選び出すであろうし、選択に過ちが起ころうとは思われなかった。だから、彼女なら都会でも十分にやって行ける、とぼくは確信していたのだ。彼女はむしろ、都会に向いている、とさえ言うことができるだろう。そしてもし彼女を成功に導くことがあるとするなら、それは、男なら一度は惹きつけずにはおかない彼女のその美貌なのだ。彼女の美しさは、全く申し分がなかったし、ぼくだって、かつて何度か、彼女はぼくの妹ではなく、恋人であったなら、と思ったことがあるほどなのだ。彼女の雰囲気の中には、そんな、男を虜にせずにはおかないような悪魔的なものが、ひそんでいるようにさえ思われる。リサに武器があるとするなら、まさにそれなのだ、とぼくは思った。それが、常時、男を惹きつけるのに役に立つだろうし、彼女を成功にも導くだろう。しかし、同じものが、彼女を破滅に導くかも知れないのだ。彼女の賢明さから見れば、それはほとんどあり得ないように思われたが、しかし、わずかな可能性として残されるような気がした。だが、二、三の危機はあるにしても、おおむね、順風満帆で、彼女は生活をして行くに違いない。そのことを思うと、ぼくは少し羨ましい気さえして来た。ぼくにはあんなに冷たかった同じ都会が、美しい彼女には優しさの微笑みを投げかけるとは。しかし、ぼくの為にではなく、彼女のために、それはいいことなのだ。――ぼくは、彼女の、毎日の、生き生きした生活ぶりのことを想像した。彼女のあのアパートで毎朝目覚め、同宿の女友だちポーラと軽い朝食を済ました後、ショルダーバックを肩に下げて、生き生きと、勤め先を目ざして、部屋を出て行くだろう。歩道でも、地下鉄の中でも、肩をいからせ、さっそうと風を切って歩く彼女の姿は、充実そのものなのだ。通勤途上で、後ろから、誰か知り合いの男から声を掛けられでもすれば、彼女は喜んで振り向くことだろう。彼女のその笑顔には幸せが満ちあふれ、男は、彼女と並んで歩くだけで、その幸せが伝わってくるだろう。周りの光景も、パン屋や衣料品店、そばをかすめて走って行く車も、早朝の交通整理のおまわりさんも、他の歩行者たちも、街路樹も、みんな、幸せに包まれたものとして、その男の目に映ってくることだろう。なぜならそこに、幸せの原因である、美しいリサがいるからだ…

 ――ぼくは、そのような、美しいリサと話すことのできる男のことを、羨ましいと思った。ぼくは、ぼくとは異なった世界の中で生きて行く彼女のことを思うと、寂しい気持になるのを禁じ得なかった。彼女は「都会向き」であり、そしてぼくは、自分でもよく承知していることだが、「田舎向き」なのだ。この溝は、どのようにしても、埋まることはない。

 ぼくはなおも、彼女の、張りのある、充実した生活のことを、想像した。さっそうと街を歩く彼女。職場での、なごやかで、時には冗談も飛びかう、楽しい会話。そして、きびしいが、大いに心を燃えさせてくれる取材に、職場を飛び出して行くことだろう。あるデザイナーに、最近の流行をインタビューし、カメラに写し、再び職場に戻ってからレポートに書き、そして編集委員に提出して、雑誌の編集作業に、彼女自身も加わる。それが彼女の仕事なのだ。


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仕事は、夜遅くまで食い込み、議論を重ねることもあるし、早く引けたときには、女友だちや、職場の同僚たちと、レストランへ食事に出かけることもあるだろう。仕事の関係で、同僚の紹介で、全く見知らぬ人と、出会うこともあるだろう。それが、都会に埋没した彼女の生活なのだ。そんな中へ、都会のはぐれ者であるぼくが入って行く余地など、どこにあるだろう? ――それでも彼女は、電話をすれば、必ず、電話の受け口に出、きちんとぼくに応対してくれるのだった。ぼくは、そんな心優しいりサに、感謝すべきなのだろうか?

 そういう、意味あいが飛びかい、忙しさが常に追いたてている生活とは、正反対の世界にぼくはいた。振り返って自分のこのホテルの部屋を見れば、静寂そのもので満たされていた。まるで時計が止まったみたいに、忙しさなど、どこにも見られなかった。――しかし、そこにはっきりと読み取れるのは、寂しさと、そして、悲しさと、だった…


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