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 “この婦人は、家族揃って、山へハイキンクに行ったときのことを話して下さってるんだよ。とてもいい話しだ”と言って、運転手がぼくに、婦人の話しの内容を教えてくれた。

 “そうですか。それはいいですねえ”と言って、ぼくは相づちを打ったが、話しもそれで終わることになった。

 ぼくは、その親切な婦人に何度も礼を言い、立ち上がった。

 

 いざ家を去ることになった、明るい、窓の大きな玄関のところにやって来ると、ぼくは立ち止まった。入口の、別にこれといって特徴のない、格子窓状の両開きのドア。その透き通ったガラスの向こうに、かつては、帰って来たリサが姿を現すこともあったが、その遥か昔には、クリスチーヌが、晴れた庭の緑を背景に、姿を現したこともあったのだ。それは、ほんの二度、たった二度だけだった。ぼくはそのとき、言い知れない感情が込み上がって、その場に居合わせたい、という気がした。一度でもいいから、クリスチーヌが、ガラスのドアの向こう側に姿を見せて欲しい、という強い思いがして来たのだった。しかし、そんなことはおよそ、不可能なことだった。ぼくはただ、今見える、明るいドアの外の景色から、それがどんな状況だったかを、想像する他はなかった。二度目にクリスチーヌがやって来たときも、空はきっと、この日のように晴れていたに違いない。庭の樹木も、風に揺れる花々も、この日のように、光り輝いていたに違いない。しかし、二度目のときクリスチーヌは、ただ玄関のドアを叩くだけで、家の中に入ることはついになかったのだ。レオノールの冷たい声を浴び、あきらめた表情で、このドアから去って行く、そんなクリスチーヌの後ろ姿が、この明るいガラス張りのドアを通して、光まぶしい庭のどこかに見えるような、そんな気がした。

 

 “さようなら”と言って、ぼくは、玄関に立ちつくす若くて、きれいな婦人と別れた。この家から去るのがつらいような、いつまでも心に残る別れだった。去り際になって、家の子供が、好奇のまなざしで玄関まで出て来、ぼくに手を振ってくれた。ぼくも手を振り、彼らとの束の間の出会いと、その別れを惜しんだ。

 それに反し、運転手は割り切ったものだった。彼は、車のドアを開け、ぼくがやって来るのを待った。“そう急ぐなよ”と、ぼくはその車を見て、心の中で思った。ぼくは、次には、よくこの辺を散策した、湖のほとりに行きたかったのだ。歩いてでも十分行ける距離だ。車に乗ると、すぐそのことを言った。彼はその通りに少しだけ、車を移動してくれた。

 

 岸辺の波は、穏やかに砂利を洗っていた。水に手を浸すと冷たかった。なつかしい。ただなつかしかった。リサと一緒にここを歩いた日――そんな日のことが急に思い出されて、とてもなつかしくなった。ぼくは無意識に、砂利の一つを手に取り、それを力いっぱい沖に向かって投げつけた。石が遠くに落ち、幾重もの水の輪を描いた。すると、空しい気がした。ここで、こうして、一人でいるのが、なぜとはなしに空しかった。


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運転手が、向こうの松林の陰に止めた車のそばに立って、タバコに火をつけながら、そんなぼくを見つめていた。それから、彼は、まぶしそうに空を見上げた。本当にいい空だ。まっ白な雲が、青い空に浮かんでいる。水は、澄んで、きれいで、どこまでも、あの、遠くに山が幾重にも重なって見える対岸の、青味がかった水平線まで、続いていた。岸辺の周囲は、たいてい深い緑におおわれていて、家らしい家は、ほとんど見えることがない。それらは、ぼくのこの家と同様、深い樹木の陰に隠れているのだ。それでも時折り、垂直な樹木の陰に、白い、民家らしいものが、ちらほら見える。この湖は、全く無人の湖ではないのだ。――でも昔は、まるで無人の湖かのように、ぼくはリサと、この湖を占領したことがあったのだ。それほど静かで、人影を見ることは、めったになかった。それで、リサと、石を投げたり、追いかけっこをしたりして、ここで遊んだ。そんなときがあったのがまるで嘘であるかのように、波は静かに、岸辺の砂利を洗っていた。昔と変わらず、今も静かだ、ただ遠くから、水鳥の鳴き声が聞こえて来る以外は…

 

 …そうしてぼくはタクシーに乗った。ぼくの幸福な思い出の残る湖を後にして、一路リランヘと走るタクシーの中で、ぼくは、やけくそな気持になり、どうとでもなれ、という気持だった。たった今味わった、ぼくのこの辛い気持を、いったい何が、慰めてくれるというのだろう。ぼくはシートにもたれ、まだその姿を見せてくれる、流れ行く湖の景色を見るよりは、いっそのこと、目を閉じてしまいたい気持だった。そんな、辛い気持を引き起こす景色など、見るぐらいなら、見ない方がよっぽどましだ。そう、ぼくは、動くタクシーの中で、本当の、現在の自分の孤独を、見つめたのだ…

 

 クリスチーヌもレオノールも、もうこの世にはいない。そして、ママも、セーラも、リサも、みんな、このぼくから離れようとして行っているみたいなのだ。だとするなら、残されたぼくは、ひとりぽっちで、どうして生きて行くことが出来るだろう…

 人間は孤独なとき、本当に絶望的な気持になるときがあるものなのだ。しかしそれが、本当に救いなきとき以外は、その、どん底の状態から、必ず浮かび上がる。ぼくもそうだった。車の外が、春の明るさで満ちていたから、その光に誘われて、ぼくの沈んだ気持も這い上がった。まるで暗い地底の洞窟の底から這い上がって来たかのように…

 

 ぼくはこの日の午後、再びリランに戻って来て、タクシーの運転手と別れた。なぜかしら、その日の午後を、ひとりで過ごしたい衝動にぼくはかられたのだ。リラン市街で、見ておきたい場所の移動は、バスや、別のタクシーでも十分行うことができる。ぼくが昼食後、まず行ったのは、リサがかつて勤めていたレストランのある公園だった。ここへは、時々移動遊園地がやって来て、乗り物や、射撃などの店が並び、人々をしばらくのあいだ賑やかせることがあった。春からはその季節に当たっていて、リサが、リランで初めて職を捜したのも、その遊園地でだった。


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彼女は、遊園地の賑わいのあいだ、くるくる回る乗物の係を担当し、遊園地が去った後は、公園のレストランに職を見い出した。深い森におおわれたような公園は、まだ、移動遊園地が来る時期ではないせいか、し~んとしていたが、かつてリサか勤めていたレンガ造りの小さなレストランは、今も営業を続けていた。ハウスの前の野外テーブルに幾人かの客が腰掛け、ぼくもついなつかしくなって、空テーブルのうちのひとつに腰を掛けた。間もなくして、かつてのリサぐらいの若い娘が注文を取りに来たが、ぼくは、コーヒだけを注文して、レストランを取り巻くように茂っている木々に目を向けた。さわやかな風と、柔らかい日射しとが、このテーブルにいるぼくのところに降りかかって来た。穏やかな春の日射しが、心地よくぼくを酔わせた。ぼくは椅子に腰掛け、やがて若いウェイトレスが持って来たコーヒをすすりながら、これから行くべき道筋について考えた。――レオノールが五年も刑に服したという、街はずれの刑務所は、これから行かなければならないところだった。もちろんその中にいる現在の受刑者たちに会いに行く為ではない。だから、外から見るだけにとどめるだろう。それから先は? レオノールの勤務先だが、一時、勤めていたことのある小さな出版社など、現存するかも疑わしく、捜し出すことは困難なことだろう。いずれにせよ、この日の午後は、大した用事はない。ぼくはただのんびりと、かつてリサも勤めたことのあるこのカフェレストランの野外テーブルで、春の公園の静かな景色を眺めているだけだった…

 

 そのようにして一日が過ぎ、そして夜になった。ホテルの華麗な食堂での孤独な夕食後、ぼくは自分の部屋に戻って来、ベッドの上にゴロリとあお向けに寝た。薄い、クリーム色の天井が、ぼくの目を優しく包んでくれた。窓には薄いレースのカーテンが、風のせいか、かすかに揺れていた。ぼくは目をあけたまま、この日一日の出来事を、そしてこの旅の意味するところのものを、その他、人生の全般について考えをめぐらせた。

 公園のあと、郊外の刑務所を、高いコンクリートの塀とその上に有刺鉄線をめぐらせた頑丈な壁に守られた刑務所を訪れ、しばらくのあいだ外から眺めたが、ただ壁の上の空が青いという以外、なんの感慨も、感情も浮かんでは来なかった。人が死ねば、それら物体は、もはやなんの意味も成さなくなってしまうのだ。レオノールがもしそこに閉じ込められているものならば、ぼくは喜んで会いに行きもしただろう。だがレオノールが閉じ込められていたのは、もう何十年も昔のことなのだ。ただぼくは、刑務所の入口の鉄格子を目にしたとき、ふと、自分がかつて、牢獄に閉じ込められていたときのことを思い出した。あのときはまだ何も分からず、ただ生きるのが必死で、罪も犯しはした。そして、セーラが、リサが、面会に来てくれたのだ。それは、暗い、青春の思い出のひとつだった。しかし、今となっては、あのような刑務所暮らしが、なつかしく感じられた。脱出口のない絶望の状況が、まるで神にまみえる直前の兆しのように、ぼくには思われたのだ。人は、どん底になればなるほど、不思議なことだが、幸福というものや、その貴さが、目に見えて来るものなのだ。満たされた状況にあるときには、決してそれは見えて来はしない。ぼくは、冷たい刑務所の中で、もう少しで、神を見ることができたかも知れず、もう少しのところで、幸せな死というものを迎えることができたかも知れなかったのだ。


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しかし、その死んだ状況からぼくを蘇らせたのは、他ならぬ妹たちだった。彼女らが、暗い井戸の底のぼくに声を掛け、ロープを降ろし、底に沈んでいるぼくの救出にかかったのだ。ぼくはもう、光というものは、地上の光ではなく、神の光だとばかり信じ切っていたのに、再び地上の光に打たれて、目がくらむと同時に、生き返る思いがした。それこそはまさに、神における復活の経験だった。帰って来たところは、やはり貧しいアパートには違いなかったが、そこには妹たちがいて、ぼくは、地上の生活の良さというものを、しみじみと味わった。――そんな時期があったことが、今となってはなつかしかった。いろいろなことがあったぼくの生活。なぜ人は、色々なことを経験し、年を取って行くのだろう。なぜ、クリスチーヌとレオノールは死に、それっきりなのだろう。それっきり、長い歴史の中から、永遠に姿を消さねばならないのだろう。ぼくが、本当の復活を願うとするなら、それは、彼らの人生ではなかったろうか。しかし、人は、死ねば美しい存在となるのかも知れないが、生きていれば、鼻もちならぬ存在であったかも知れないのだ…

 …ぼくはふと、自分の人生の原点に、「人形の死」があったことを思い出した。あの強烈な思いは、いまだに忘れることがない。遠い、遠い、まだ幸福のただ中にあった幼い日々の中の亀裂―― それが、どのような迂余曲折をたどってかは知らないが、ぼくのその後の人生に、深い爪痕を残そうとは思いもよらないことだった。それは、その後の母との別れ、犬の死、レオノールの死、などによって強化されて行ったのだ。その最初の経験である「人形の死」は、それほど大きな衝撃を、ぼくの心の中に残したのだった…

 様々な、消えては浮かぶ追憶の中から、やがて、一人の少女が浮かび上がって来た。それは、ぼくのリサだった。他の、様々に出会った女や、少女たちのことを思い出しているうちに、彼女のことをすっかり忘れていたのだ。しかし、彼女はいた。今も、ここから何百キロも離れたところで、生活をしているはずだった。その彼女は、どんな生活をしているのだろう? そのことこそは、これまで、余り考えることのないことだった。しかし、このときになって、ふと、ぼくは彼女の生活のことが気になった。あの広い都会で、若い娘が一人、どのようにして生きて行っているのだろう? しかし、彼女のことを余り気にしなかったのには理由があったことにすぐ気がついた。ぼくは、彼女なら大丈夫だと、半ば安心していたのだ。誰にでも愛される彼女の性格。並の男ならきっと目をつけずにはいられない、その可愛らしさ。彼女は、女としての魅力なら、たいていのものが備わっていた。彼女は可愛いだけではなく、男心を虜にするような不思議な魅力さえあるように思われる。その人なつっこさや、美しい笑顔を目にすれば、普通の男なら、彼女のことをほおっておけなくなることだろう。だから、彼女の生活の中で、常時ひとりしか男がいない、ということは考えられないことだった。彼女なら、常時、2~3人は相手にしているに違いない。広い都会の中で、様々な誘惑の手が、彼女のところに延びて来ているに違いない。むしろぼくが心配すべきなのは、彼女がその選択を誤らない、というそのことだけだったのだ。だが表面上は愛想が良く、人なつっこい彼女も、その機転の効く頭の中で、様々に考えをめぐらせていることだろう。


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彼女は、様々な男の誘惑の中から、賢明な相手を選び出すであろうし、選択に過ちが起ころうとは思われなかった。だから、彼女なら都会でも十分にやって行ける、とぼくは確信していたのだ。彼女はむしろ、都会に向いている、とさえ言うことができるだろう。そしてもし彼女を成功に導くことがあるとするなら、それは、男なら一度は惹きつけずにはおかない彼女のその美貌なのだ。彼女の美しさは、全く申し分がなかったし、ぼくだって、かつて何度か、彼女はぼくの妹ではなく、恋人であったなら、と思ったことがあるほどなのだ。彼女の雰囲気の中には、そんな、男を虜にせずにはおかないような悪魔的なものが、ひそんでいるようにさえ思われる。リサに武器があるとするなら、まさにそれなのだ、とぼくは思った。それが、常時、男を惹きつけるのに役に立つだろうし、彼女を成功にも導くだろう。しかし、同じものが、彼女を破滅に導くかも知れないのだ。彼女の賢明さから見れば、それはほとんどあり得ないように思われたが、しかし、わずかな可能性として残されるような気がした。だが、二、三の危機はあるにしても、おおむね、順風満帆で、彼女は生活をして行くに違いない。そのことを思うと、ぼくは少し羨ましい気さえして来た。ぼくにはあんなに冷たかった同じ都会が、美しい彼女には優しさの微笑みを投げかけるとは。しかし、ぼくの為にではなく、彼女のために、それはいいことなのだ。――ぼくは、彼女の、毎日の、生き生きした生活ぶりのことを想像した。彼女のあのアパートで毎朝目覚め、同宿の女友だちポーラと軽い朝食を済ました後、ショルダーバックを肩に下げて、生き生きと、勤め先を目ざして、部屋を出て行くだろう。歩道でも、地下鉄の中でも、肩をいからせ、さっそうと風を切って歩く彼女の姿は、充実そのものなのだ。通勤途上で、後ろから、誰か知り合いの男から声を掛けられでもすれば、彼女は喜んで振り向くことだろう。彼女のその笑顔には幸せが満ちあふれ、男は、彼女と並んで歩くだけで、その幸せが伝わってくるだろう。周りの光景も、パン屋や衣料品店、そばをかすめて走って行く車も、早朝の交通整理のおまわりさんも、他の歩行者たちも、街路樹も、みんな、幸せに包まれたものとして、その男の目に映ってくることだろう。なぜならそこに、幸せの原因である、美しいリサがいるからだ…

 ――ぼくは、そのような、美しいリサと話すことのできる男のことを、羨ましいと思った。ぼくは、ぼくとは異なった世界の中で生きて行く彼女のことを思うと、寂しい気持になるのを禁じ得なかった。彼女は「都会向き」であり、そしてぼくは、自分でもよく承知していることだが、「田舎向き」なのだ。この溝は、どのようにしても、埋まることはない。

 ぼくはなおも、彼女の、張りのある、充実した生活のことを、想像した。さっそうと街を歩く彼女。職場での、なごやかで、時には冗談も飛びかう、楽しい会話。そして、きびしいが、大いに心を燃えさせてくれる取材に、職場を飛び出して行くことだろう。あるデザイナーに、最近の流行をインタビューし、カメラに写し、再び職場に戻ってからレポートに書き、そして編集委員に提出して、雑誌の編集作業に、彼女自身も加わる。それが彼女の仕事なのだ。



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