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本当のところ、わたしどもが使いたいぐらいなんですけど、どういうわけか、子供の部屋になってしまいました。なんでしたら、お見せしましょうか?”

 “よろしいんですか?”と、ぼくは尋ねた。

 “ええ、少しぐらいなら、別にかまわないでしょう”と、若い婦人は答えた。

 そう言って婦人は、立ち上がり、奥の部屋へ行って、子供たちと何か、二言、三言、会話をかわしているようだった。しばらくすると、彼女は笑顔で、ぼくたちのいる居間に戻って来た。

 “今、子供に話して来ました。別にかまわないから、どうぞということです。――でも相手は子供でも、一言、断りを入れておかなくてはね”と言って、彼女は、にっこりした、“それじゃ、案内しましょうか”

 ぼくたちは一緒に立ち上がり、彼女の後に続いた。

 なつかしい木製の階段が、やがて、ぼくの前に現れた。二階から、その階段を伝って、さっきの男の子がゆっくりと降りて来た。きっと、自分の部屋が見せられる、というので片づけ物をしたのだろう。その表情は楽しそうではなく、上がって行くぼくたちとのすれ違い様、恨むような目つきで、ぼくを見た。さらに、階段の一番上には、姉の方が、例の赤いスカートをつけた姿で、ぼくたちが上がって来るのを、静かに見下ろしていた。しかし、なんとなつかしい手すり、そして、この壁なのだろう。そのひとつ、ひとつが、ぼくには見覚えがあった。ほんの半年程の間だけだったが、ぼくとリサとは、この階段を、何度行き来したことだろう。二階の階段の上から見降ろす、十才ぐらいの少女。その少女が、かつては、リサであったこともあったのだ。ぼくは、そんなことがあった日を、胸に思い描こうとした。

 そしてとうとう、二階のあのなつかしい部屋へと、ぼくはやって来た。

 窓が、そして、その向うに茂る樹木が、いきなり目に飛び込んで来たその光景が、あの頃と少しも変わっていないことに、ぼくは驚いた。中の家具は、子供用にきちんとアレンジされていても、部屋そのものは、少しも変わってはいないのだ。ぼくはすぐ、窓辺に歩み寄った。すると、あのなつかしい光景が――春のうららかな日にはうっとりと眺め、また、雨の降る曇り空のときは、沈んだ面持で、そして、リサと共に眺めたこともあったあの光景が、再現されたことを知った。窓のすぐ外側に茂るシナの木も、そしてその向うに茂る柳の木も、昔のままで、心なしか、一層たくましく茂っているように、ぼくには思われた。そしてその向うに、深くて、暗い雑木林のあいだに、まるで真夏の海のように青い、澄んだ湖が波を立て、帆をつけたヨットがその上を横切って行く様が、ぼくの目に飛び込んで来た。空も、雲ひとつないほどに澄み、庭の木々がまぶしく、そして揺れ、申し分ないほど爽やかだった。ぼくは、それらを、かつての自分の部屋から眺め、あの当時とほとんど何も変わっていないことを知った。――何も、ここにいる人たちの生活を変えようという気持はない。しかし、彼らが来る以前にも、ここには、幸せというものが存在したことを、言いたいのだ。


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あの当時は、ぼくとリサの二人だけの生活だった。レオノールが病院で悲しい死を遂げた後、急に、この辺りには春が訪れたみたいだった。まるで、レオノールを冬が連れ去ったみたいに、もうレオノールの痕跡はなく、庭には一斉に花が咲き出し、暖かくて、歓喜の春がやって来て、自然、ぼくたちの心もほころんだ。やがてリサは、リランの遊園地に職を見つけ、ぼくは、ここで静かに、読書をし、心の整理を行った。

 ――それが、一番幸せな日々だった。午前中、音楽を聞き、読書に疲れると、ぼくはよく、湖畔に散歩に出掛けた。静かに波が音をたてている波打ち際に立ち、広い湖と、大きな空を見つめていると、それまでぼくを悩ませていた観念も、過去も消え、心は自然と、ほぐれてくるのだった。ぼくは、波打ち際に沿ってゆっくりと歩き、河原の砂利や、湖畔に生える葦や、水鳥たちの飛び立つ様などを眺めた。ときおり、人々もやって来、恋人たちや、家族連れ、あるいは、子供たちだけで遊んでいる人々と、すれ違った。ぼくは彼らを見、それまでぼくを苦しめて来た暗い過去から、ぼくを解きほぐそうとし、もっと、本当の幸せへと、自分を向かわせねばならないと思った。まだセーレンが生まれる前だったが、リサが、この波打ち際で、子犬と戯れていた。小さい子供たちが、子犬と遊んでいたのを見つけ、彼女は思わず、その中に入って行ったのだ。そんな日もあった。ぼくは、楽しそうに子犬と遊んでいる中腰の彼女を見、もっともっと、この幸せは広がって行かねばならないことを思った。しかし、そんなことについて彼女に言うことは、ほとんどなかった。ぼくは彼女の日常の生活の話しを聞き、楽しい遊園地での出来事を聞くだけで、心は満たされた。彼女の楽しい思いが、ぼくにも伝わって来、ぼくの生活も満たされた。――そうして、静かな波打ち際で、一日は暮れて行き、ぼくは夕陽を見つめながら、湖畔に立つ、我が家へと帰って行った。すると、その頃になると、風が出て来、庭のすべての木々をざわざわと揺らす頃になって、一日の勤めを終えたリサが、歩きながら帰って来るのだった。たいてい何か買物をし、手には新鮮な果物とか、ワインとか、その他の品物を持ちながら… そうして一日は過ぎ行き、夜が訪れた。空には美しい星々がいっぱい輝き出し、周囲は恐ろしいほど、闇に包まれて、静かだった。しかし、近くに他の人々の家もあるせいか、寂しい、という気持は、一日もしたことがなかった。家の中は明るく、しかもリサがいて、テレビを見たり、音楽を聞いたり、ワインを飲んだりして、過ごした。 

 …ぼくは、そんな日のことが、明るい窓の外を眺めながら、ふと、脳裏に過るのを感じた。しかしもちろん今は、その日から随分隔たり、変わってしまったことを感じた。ただ庭には美しい花々が――黄色いくさのおうや、赤いせんのうなどの野性草、アネモネや、キンギョソウや、クレマチスなどの花、そして忘れられないあの白いバラの花までが、今は春だとばかり咲いているのが、ぼくの目に止まった。他の花々は、いくらか入れ替えがあったとしても、あのバラの木と、バラの花だけは、今も変わってはいない。リサは、あの庭に出て、そして、心地よさそうに、バラの花の匂いを嗅いだのだ…

 空は青く、風がさわやかだった。ぼくは思わず、窓から体を乗り出し、空と、庭と、それらの花々を眺めた。


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 “本当にいい眺めですわねえ、ここから見ていると”と、不意に、若い夫人が声を掛けた、“そしていつも思うんですよ、この庭を見るたびに。うちの子供って、幸せ者だって。それなのに子供らは、庭のことなんか、ほとんど関心がないんですねえ…”

 ぼくはその言葉で振り向いた。明るさに目が慣れていたせいか、少し暗い室内に立っているそのほっそりした婦人の姿が、一瞬、ある人に見えて、ぼくはドキリとした。しかしすぐ彼女がここの家の他人だと分かって、ぼくの心は平静に戻った。しかし同時に残念でもあった。そのとき、ぼくが見たものは、母親の幻であり、ぼくが残念だったのは、ここに、ぼくたちが住んではいない、という事実だった。だが、この婦人たちの幸せの領域を、今さら、ぼくたちがどうして侵すことかできよう?

 “子供たちって、概して、そういうものですよ”と、ぼくはしみじみと言った、“あとで大きくなってから、初めて、子供の頃の良さというものが分かって来るんです…”

 “そうだとよろしいんですけど”と言って、婦人はにっこりと笑った。

 ふと、ドアのところを見ると、さっきの姉がそこに立って、自分の部屋に他人がちん入しているのを不服そうに、ぼくを見ていた。ぼくは、彼女の恨むような視線に気づき、いつまでもここにいることはできないことを悟った。

 “どうも有り難うございました。ぼくは、丁寧に婦人に礼を言い、出しなに、小さな姉の頭をなでてやって、部屋から出て行った。

 

 他にも、あのなつかしい、書斎や台所、そしてバス・ルームまで見せてもらって、ぼくたちは居間に来た。それぞれの部屋は、この家の住人によって、ぼくたちの頃とは異なった装いをしていたが、それでも、壁や床や天井など、当時の面影を残しているところもあり、なつかしい思いをさせてくれた。あの事件のあった台所は、今も、昔と変わらぬ姿を見せてくれたことに、驚きもし、また同時に、感謝もした。バス・ルームも、置いている物さえ異なれ、浴槽などは、当時そのままだった。ぼくはかつてここで、何度、快い入浴を楽しんだことだろう。リサもここで、ぼくと同じ入浴を楽しんだはずなのだ。しかし、もともと狭い部屋だった書斎は、ここの主人は電機に強いと見え、ぼくの頃よりは、かなり本の数が減り、その代わり、オーディオやその他の音響製品などで、部屋がふさがっている、という感じだった。もちろん、ぼくが部屋の隅に置いていた机も椅子も、影も形もなかった。その代わり、厚い敷布か敷かれ、床に直に坐り、音楽を楽しんでいるようだった。

 ぼくはもうそれだけで十分満足することができたので、帰ろうと思ったが、若い婦人が、ぼくを引き止め、もう一度、居間へ案内した。縞模様のゆったりしたソファーにぼくたちが腰を降ろすと、肘掛け椅子に若い婦人は腰を掛け、ぼくに話しかけて来た。

 “ここには、半年程おられた、ということですが…”

 “そうです。事情があって、手放さねばなりませんでした”と、ぼくは落ち着いて答えた、“本当なら、もっともっと、ここで暮らしていたかったんですが…”

 そう言うと、婦人はにっこりとほほえんだ。


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 “もし、そういう事情がなければ、あたしたち、ここに暮らすことはありませんでしたわね”と、婦人は、笑顔のままで言った、“でも、あなたと、見ず知らずのわたしどもが、この家が元でお会いした、というのも何かの縁です。また見たい、というのであれば、いつでも来て下さって結構ですよ”

 “ええ、そう言ってもらって、嬉しいです”と、ぼくは答えた、“――でも、もう当分は、来ることもないでしょう。ここはあなたの家ですし、よその者がお邪魔すれば悪いでしょうしね。それはそれとして、ぼくはここから見える湖にも、後で寄ってみたいと思っています”

 “ええ、なかなかいい湖ですよ”と、婦人は言った、“向こうにはきれいなお山が見えて、なかなかの壮観です。これからは鱒がとれて、よく釣りに出かける人の姿も見かけますのよ。岸から釣ったり、小船に乗って釣ったりで、なかなかのんびりしたいい光景です。うちの主人も釣りが好きで、よく釣りに出かけたりするんですよ”

 “それはいい趣味ですねえ”と、ぼくは言った。

 …窓から外には、日射しのいい、緑濃い、いい庭が見えていた。同じ家の中でも、住人が変われば、生活、風習も、これほど変わるとは、誰が予期できたことだろう。この家を初めて建てたレオノールに、現在のこのような生活を予想することが出来ただろうか?

 若い婦人は、なおも、自分たちの生活のことや、ぼくのことを聞き出そうとしたりしたが、ぼくはただ形式的に答えるだけで、関心は既に他に移っていた。かつてここに住んでいた頃、それほど強く感じなかったことだが、ここには、あのクリスチーヌが二度、訪れたことに今、強い関心を抱いていた。クリスチーヌは、一度は、この家の中に通され、この家の各部屋を見て回ったかも知れないのだ。しかし、そんなことを、現在の住人はもちろんのこと、この辺に住む誰が知っているだろう。そのうち、ぼくとリサがここで暮らしていた、ということさえ忘れ去られてしまうような、そんな時代がやって来るだろう。その頃には、この辺りは、またどれほど変わってしまっていることだろう。――しかし今は、クリスチーヌがこの部屋にも訪れたかも知れないということが、ぼくの心を捕らえた。すると、ぼくの、天井や壁や床や、窓の外を見る目も、自然変わってくるのだった。そして、出来れば、その時の状況を再現してみたかった。若き日の、レオノールの得意気な表情や、そして美しいあの好奇心に満ちたクリスチーヌが、生きて再び、この部屋の中で姿を現して欲しかった。しかしそれは、我がままなぼくの、かなうことのない、不可能な夢に過ぎないのだろうか…

 “…それで、この前は、山の中で迷いかけましてねえ。あれっ、聞いていらっしゃらないんですか”

 婦人の、驚きとも、非難とも取れる声で、ぼくはふと、我に返った。

 “ええ、済みません。ちょっと他のことを考えていたものですから”と言って、ぼくは謝った。


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 “この婦人は、家族揃って、山へハイキンクに行ったときのことを話して下さってるんだよ。とてもいい話しだ”と言って、運転手がぼくに、婦人の話しの内容を教えてくれた。

 “そうですか。それはいいですねえ”と言って、ぼくは相づちを打ったが、話しもそれで終わることになった。

 ぼくは、その親切な婦人に何度も礼を言い、立ち上がった。

 

 いざ家を去ることになった、明るい、窓の大きな玄関のところにやって来ると、ぼくは立ち止まった。入口の、別にこれといって特徴のない、格子窓状の両開きのドア。その透き通ったガラスの向こうに、かつては、帰って来たリサが姿を現すこともあったが、その遥か昔には、クリスチーヌが、晴れた庭の緑を背景に、姿を現したこともあったのだ。それは、ほんの二度、たった二度だけだった。ぼくはそのとき、言い知れない感情が込み上がって、その場に居合わせたい、という気がした。一度でもいいから、クリスチーヌが、ガラスのドアの向こう側に姿を見せて欲しい、という強い思いがして来たのだった。しかし、そんなことはおよそ、不可能なことだった。ぼくはただ、今見える、明るいドアの外の景色から、それがどんな状況だったかを、想像する他はなかった。二度目にクリスチーヌがやって来たときも、空はきっと、この日のように晴れていたに違いない。庭の樹木も、風に揺れる花々も、この日のように、光り輝いていたに違いない。しかし、二度目のときクリスチーヌは、ただ玄関のドアを叩くだけで、家の中に入ることはついになかったのだ。レオノールの冷たい声を浴び、あきらめた表情で、このドアから去って行く、そんなクリスチーヌの後ろ姿が、この明るいガラス張りのドアを通して、光まぶしい庭のどこかに見えるような、そんな気がした。

 

 “さようなら”と言って、ぼくは、玄関に立ちつくす若くて、きれいな婦人と別れた。この家から去るのがつらいような、いつまでも心に残る別れだった。去り際になって、家の子供が、好奇のまなざしで玄関まで出て来、ぼくに手を振ってくれた。ぼくも手を振り、彼らとの束の間の出会いと、その別れを惜しんだ。

 それに反し、運転手は割り切ったものだった。彼は、車のドアを開け、ぼくがやって来るのを待った。“そう急ぐなよ”と、ぼくはその車を見て、心の中で思った。ぼくは、次には、よくこの辺を散策した、湖のほとりに行きたかったのだ。歩いてでも十分行ける距離だ。車に乗ると、すぐそのことを言った。彼はその通りに少しだけ、車を移動してくれた。

 

 岸辺の波は、穏やかに砂利を洗っていた。水に手を浸すと冷たかった。なつかしい。ただなつかしかった。リサと一緒にここを歩いた日――そんな日のことが急に思い出されて、とてもなつかしくなった。ぼくは無意識に、砂利の一つを手に取り、それを力いっぱい沖に向かって投げつけた。石が遠くに落ち、幾重もの水の輪を描いた。すると、空しい気がした。ここで、こうして、一人でいるのが、なぜとはなしに空しかった。



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