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 タクシーは家の前で止まった。それと共に、家に誰か住んでいることが分かった。ぼくは車から降り、なつかしい館の全貌を見つめながら、玄関のドアへと歩み寄った。するとそのとき、中から、笑いながら勢いよく飛び出して来る子供がいた。まず最初に、年の頃五つぐらいの、黒っぽい上着と、薄いブルーのズボンをはいた男の子が飛び出して来たかと思うや、続いて、その子よりは体も大きく、年の頃十ほどには見える、髪の毛を長くし、薄いピンクのセーターと、短い真赤なスカートをはいた女の子が笑いながら、その男の子を追いかけて行き、ちょうど家の前の芝生の上で追いつき、その男の子を芝生の上で倒すや、お互いにキャーキャーと騒ぎながら、とっ組合いを始めるのだった。年の頃十ほどの女の子が、騒いでいる拍子に、赤いソックスの可愛い足や、スカートの奥のパンツが見えたりするのが、ぼくの目に、いささかまぶしかった。芝生の上で、互いに組みつき、ころがったりしているこの二人は、きっと、姉と弟なのだろう。ぼくは、彼らのそばに歩み寄り、家の人のことを聞こうとした。しかしそうするまでもなく、玄関から、二人の騒動をとがめるかのように、一人の若い婦人が姿を現した。黒いモダンなドレスで身を包んでいた彼女は、なかなかの美人だった。彼女は、子供のところへ行こうとするよりも前に、ぼくの存在に気づいたのか、振り向いた。

 “何か御用なんですか?”彼女は、ぼくと、ぼくの後ろにあるタクシーを見ながら、怪げな表情をして言った。

 “実は”と、ぼくは言った、“昔、この家に住んでいた者なんです。事情があって手放したんですが、もう一度見たくてやって来ました。今は、あなた方がお住まいなんですか?”

 “ええ、そうですけど”と言う彼女の表情は変わらなかった。

 しかし、ぼくが怪しい者ではないらしいと分かると、彼女の態度は幾分やわらいだ。さっきまでほたえていた子供たちも、今は騒ぎをやめ、芝生の上に足を投げ出した恰好で、いきなり登場したぼくの方を見つめていた。

 “わたしどもは五年程前に、この家を買い取りました”と、ぼくが尋ねるまでもなく彼女は言った、“今も、とってもこの家を気に入っています。まあ、お入りください”

 彼女はそう言って、ぼくを家の中に案内した。

 

 そうして案内された家の中は、家具、調度を除いて、昔と少しも変わっていないことに気がついた。この玄関。そして、この居間。昔通り、簡素で、飾り気のないところなど、少しも変わってはいなかった。ただ、置いてある家具や、ソファーなどが、少しモダンで、以前よりやや明るい感じがするところが、異なっていた。家人の趣味なのか、壁にはやたらと、モダンな絵や、人物の写真のような額が飾られていた。ぼくたちが案内されたのは居間だった。そこの、ゆったりしたソファーに腰を降ろすと、子供を追っ払ったばかりの若い夫人が、ぼくたちのところにやって来て、腰を降ろした。

 “それで?”と、彼女は言った、“昔、ここでお住まいだったんですか?”


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 “時期的に言えば、きっとあなた方が、ぼくたちが出て、最初に買い取られた人のはずです”と、ぼくは言った。

 “でも、どういうわけで、また、この家を見に来られたんですか?”と、彼女は尋ねた。

 “いえ、とりたてて、これといった理由はありません”と、ぼくは落ち着いて答えた、“ただ、旅の途中でこの近くを通りかかったものですから、ついなつかしくなって、寄ったまでです…”

 “じゃ、旅をしていらっしゃるんですね”と、彼女は言った、“現在のお住まいは遠いんですか?”

 “ええ、ドシアンからです”と、ぼくは答えた。

 “そんなに遠いところから!”と、彼女は、驚いたように言った。

 “実はね”と、ぼくは正直に言うことにした、“旅と言っても、普通の旅じゃないんです。実は、ぼくは、自分の過去を尋ねる為に、ここまでやって来たのです。自分の過去、と言っても、ぼく自身のではなく、ぼくの親の過去です。その場所が、この辺に集中しているものですから、ついでに、と言ってはなんですが、この家にも寄せてもらったわけなのです…

 彼女は、納得したようにうなづいた。

 “失礼ですが、御両親はおられるのですか?”と、彼女は尋ねた。

 “ぼくの父親は亡くなりました、まだ子供のときに”と、ぼくは答えた、“そしてぼくの母もまた、まだ子供のときに、行方不明となってしまったんです…”

 彼女は、悪いことを聞いたとばかり、表情を曇らせた。

 “それで、過去を尋ねにいらっしたのですね”と、しばらくしてから、彼女は言った、“それで、場所はどの辺なんです?”

 “母が昔住んでいたところは”と、ぼくは言った、“リトイアの近くのサビーノの村です。――でもその他に、母の両親がいたロアズマの村へは、つい昨日、行って来たばかりです。実は、この家は、ずっと昔、母の父親が、ぼくにとっては、祖父ですが、その人が建てた家だったんです…”

 “そうですか!”と、彼女は驚いたように言った、“その話しは、今初めて聞きました。 ――でも、なかなかセンスのある、いい家で、みんな気に入っているんです。あなたは、ここには、かなり長い間、過ごしていらしたんですか?”

 “いいえ、ほんの半年間程のあいだだけです”と、ぼくは静かに答えた、“事情があって、引っ越しのやむなきに至ったんですが、今でも、いい思い出として残っています。二階の書斎はまだ残っているでしょうか? あそこから見える湖の景色は、何んとも言えぬ、味わいの深いものでした…”

 “もちろんですとも”と、若い婦人は答えた、“あなたのおっしゃっている部屋は、今では、子供用に使わせてもらっているんです。あなたのおっしゃる通り、あそこから見える景色は、素晴らしいものですわ。


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本当のところ、わたしどもが使いたいぐらいなんですけど、どういうわけか、子供の部屋になってしまいました。なんでしたら、お見せしましょうか?”

 “よろしいんですか?”と、ぼくは尋ねた。

 “ええ、少しぐらいなら、別にかまわないでしょう”と、若い婦人は答えた。

 そう言って婦人は、立ち上がり、奥の部屋へ行って、子供たちと何か、二言、三言、会話をかわしているようだった。しばらくすると、彼女は笑顔で、ぼくたちのいる居間に戻って来た。

 “今、子供に話して来ました。別にかまわないから、どうぞということです。――でも相手は子供でも、一言、断りを入れておかなくてはね”と言って、彼女は、にっこりした、“それじゃ、案内しましょうか”

 ぼくたちは一緒に立ち上がり、彼女の後に続いた。

 なつかしい木製の階段が、やがて、ぼくの前に現れた。二階から、その階段を伝って、さっきの男の子がゆっくりと降りて来た。きっと、自分の部屋が見せられる、というので片づけ物をしたのだろう。その表情は楽しそうではなく、上がって行くぼくたちとのすれ違い様、恨むような目つきで、ぼくを見た。さらに、階段の一番上には、姉の方が、例の赤いスカートをつけた姿で、ぼくたちが上がって来るのを、静かに見下ろしていた。しかし、なんとなつかしい手すり、そして、この壁なのだろう。そのひとつ、ひとつが、ぼくには見覚えがあった。ほんの半年程の間だけだったが、ぼくとリサとは、この階段を、何度行き来したことだろう。二階の階段の上から見降ろす、十才ぐらいの少女。その少女が、かつては、リサであったこともあったのだ。ぼくは、そんなことがあった日を、胸に思い描こうとした。

 そしてとうとう、二階のあのなつかしい部屋へと、ぼくはやって来た。

 窓が、そして、その向うに茂る樹木が、いきなり目に飛び込んで来たその光景が、あの頃と少しも変わっていないことに、ぼくは驚いた。中の家具は、子供用にきちんとアレンジされていても、部屋そのものは、少しも変わってはいないのだ。ぼくはすぐ、窓辺に歩み寄った。すると、あのなつかしい光景が――春のうららかな日にはうっとりと眺め、また、雨の降る曇り空のときは、沈んだ面持で、そして、リサと共に眺めたこともあったあの光景が、再現されたことを知った。窓のすぐ外側に茂るシナの木も、そしてその向うに茂る柳の木も、昔のままで、心なしか、一層たくましく茂っているように、ぼくには思われた。そしてその向うに、深くて、暗い雑木林のあいだに、まるで真夏の海のように青い、澄んだ湖が波を立て、帆をつけたヨットがその上を横切って行く様が、ぼくの目に飛び込んで来た。空も、雲ひとつないほどに澄み、庭の木々がまぶしく、そして揺れ、申し分ないほど爽やかだった。ぼくは、それらを、かつての自分の部屋から眺め、あの当時とほとんど何も変わっていないことを知った。――何も、ここにいる人たちの生活を変えようという気持はない。しかし、彼らが来る以前にも、ここには、幸せというものが存在したことを、言いたいのだ。


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あの当時は、ぼくとリサの二人だけの生活だった。レオノールが病院で悲しい死を遂げた後、急に、この辺りには春が訪れたみたいだった。まるで、レオノールを冬が連れ去ったみたいに、もうレオノールの痕跡はなく、庭には一斉に花が咲き出し、暖かくて、歓喜の春がやって来て、自然、ぼくたちの心もほころんだ。やがてリサは、リランの遊園地に職を見つけ、ぼくは、ここで静かに、読書をし、心の整理を行った。

 ――それが、一番幸せな日々だった。午前中、音楽を聞き、読書に疲れると、ぼくはよく、湖畔に散歩に出掛けた。静かに波が音をたてている波打ち際に立ち、広い湖と、大きな空を見つめていると、それまでぼくを悩ませていた観念も、過去も消え、心は自然と、ほぐれてくるのだった。ぼくは、波打ち際に沿ってゆっくりと歩き、河原の砂利や、湖畔に生える葦や、水鳥たちの飛び立つ様などを眺めた。ときおり、人々もやって来、恋人たちや、家族連れ、あるいは、子供たちだけで遊んでいる人々と、すれ違った。ぼくは彼らを見、それまでぼくを苦しめて来た暗い過去から、ぼくを解きほぐそうとし、もっと、本当の幸せへと、自分を向かわせねばならないと思った。まだセーレンが生まれる前だったが、リサが、この波打ち際で、子犬と戯れていた。小さい子供たちが、子犬と遊んでいたのを見つけ、彼女は思わず、その中に入って行ったのだ。そんな日もあった。ぼくは、楽しそうに子犬と遊んでいる中腰の彼女を見、もっともっと、この幸せは広がって行かねばならないことを思った。しかし、そんなことについて彼女に言うことは、ほとんどなかった。ぼくは彼女の日常の生活の話しを聞き、楽しい遊園地での出来事を聞くだけで、心は満たされた。彼女の楽しい思いが、ぼくにも伝わって来、ぼくの生活も満たされた。――そうして、静かな波打ち際で、一日は暮れて行き、ぼくは夕陽を見つめながら、湖畔に立つ、我が家へと帰って行った。すると、その頃になると、風が出て来、庭のすべての木々をざわざわと揺らす頃になって、一日の勤めを終えたリサが、歩きながら帰って来るのだった。たいてい何か買物をし、手には新鮮な果物とか、ワインとか、その他の品物を持ちながら… そうして一日は過ぎ行き、夜が訪れた。空には美しい星々がいっぱい輝き出し、周囲は恐ろしいほど、闇に包まれて、静かだった。しかし、近くに他の人々の家もあるせいか、寂しい、という気持は、一日もしたことがなかった。家の中は明るく、しかもリサがいて、テレビを見たり、音楽を聞いたり、ワインを飲んだりして、過ごした。 

 …ぼくは、そんな日のことが、明るい窓の外を眺めながら、ふと、脳裏に過るのを感じた。しかしもちろん今は、その日から随分隔たり、変わってしまったことを感じた。ただ庭には美しい花々が――黄色いくさのおうや、赤いせんのうなどの野性草、アネモネや、キンギョソウや、クレマチスなどの花、そして忘れられないあの白いバラの花までが、今は春だとばかり咲いているのが、ぼくの目に止まった。他の花々は、いくらか入れ替えがあったとしても、あのバラの木と、バラの花だけは、今も変わってはいない。リサは、あの庭に出て、そして、心地よさそうに、バラの花の匂いを嗅いだのだ…

 空は青く、風がさわやかだった。ぼくは思わず、窓から体を乗り出し、空と、庭と、それらの花々を眺めた。


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 “本当にいい眺めですわねえ、ここから見ていると”と、不意に、若い夫人が声を掛けた、“そしていつも思うんですよ、この庭を見るたびに。うちの子供って、幸せ者だって。それなのに子供らは、庭のことなんか、ほとんど関心がないんですねえ…”

 ぼくはその言葉で振り向いた。明るさに目が慣れていたせいか、少し暗い室内に立っているそのほっそりした婦人の姿が、一瞬、ある人に見えて、ぼくはドキリとした。しかしすぐ彼女がここの家の他人だと分かって、ぼくの心は平静に戻った。しかし同時に残念でもあった。そのとき、ぼくが見たものは、母親の幻であり、ぼくが残念だったのは、ここに、ぼくたちが住んではいない、という事実だった。だが、この婦人たちの幸せの領域を、今さら、ぼくたちがどうして侵すことかできよう?

 “子供たちって、概して、そういうものですよ”と、ぼくはしみじみと言った、“あとで大きくなってから、初めて、子供の頃の良さというものが分かって来るんです…”

 “そうだとよろしいんですけど”と言って、婦人はにっこりと笑った。

 ふと、ドアのところを見ると、さっきの姉がそこに立って、自分の部屋に他人がちん入しているのを不服そうに、ぼくを見ていた。ぼくは、彼女の恨むような視線に気づき、いつまでもここにいることはできないことを悟った。

 “どうも有り難うございました。ぼくは、丁寧に婦人に礼を言い、出しなに、小さな姉の頭をなでてやって、部屋から出て行った。

 

 他にも、あのなつかしい、書斎や台所、そしてバス・ルームまで見せてもらって、ぼくたちは居間に来た。それぞれの部屋は、この家の住人によって、ぼくたちの頃とは異なった装いをしていたが、それでも、壁や床や天井など、当時の面影を残しているところもあり、なつかしい思いをさせてくれた。あの事件のあった台所は、今も、昔と変わらぬ姿を見せてくれたことに、驚きもし、また同時に、感謝もした。バス・ルームも、置いている物さえ異なれ、浴槽などは、当時そのままだった。ぼくはかつてここで、何度、快い入浴を楽しんだことだろう。リサもここで、ぼくと同じ入浴を楽しんだはずなのだ。しかし、もともと狭い部屋だった書斎は、ここの主人は電機に強いと見え、ぼくの頃よりは、かなり本の数が減り、その代わり、オーディオやその他の音響製品などで、部屋がふさがっている、という感じだった。もちろん、ぼくが部屋の隅に置いていた机も椅子も、影も形もなかった。その代わり、厚い敷布か敷かれ、床に直に坐り、音楽を楽しんでいるようだった。

 ぼくはもうそれだけで十分満足することができたので、帰ろうと思ったが、若い婦人が、ぼくを引き止め、もう一度、居間へ案内した。縞模様のゆったりしたソファーにぼくたちが腰を降ろすと、肘掛け椅子に若い婦人は腰を掛け、ぼくに話しかけて来た。

 “ここには、半年程おられた、ということですが…”

 “そうです。事情があって、手放さねばなりませんでした”と、ぼくは落ち着いて答えた、“本当なら、もっともっと、ここで暮らしていたかったんですが…”

 そう言うと、婦人はにっこりとほほえんだ。



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