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生涯に二度、クリスチーヌが訪れたという、湖畔近くの素晴らしい木造の館。ぼくの心は早くも、昔、ぼくとリサが暮らしたこともあるその館へと飛んでいた。今は誰が暮らしているのだろう。クリスチーヌは、一度目は、レオノールと愛を結ぶ為に、そしてもう一度は、永遠の別れの為に、あの館に訪れたのだ。ぼくは、その部屋の隅々まで、記憶をたどり、思い描くことができた。そこへ、早く行きたかった。そしてもし願わくば、あそこの生活を、もう一度、取り戻してみたかった。あの事件さえなければ、リサが、ぼくの旧友からの暴行を受けるというあの事件さえなかったならば、ぼくたちは今でも、平和に、あそこに住むことができたかも知れないところなのだ。

 車は、素晴らしい農村のあいだを縫って走っていた。周りは一面、緑の畑が続いていた。沿道に茂る濃い雑木林を抜け、ポプラの木の茂る、さわやかな家畜小舎の見える、有刺鉄線を張りめぐらせた牧場を通り、次々と変わる風景の中を、ほとんど車の走らない舗装道路に沿って、風を切ってタクシーは、軽快な速度で走った。ぼくは、シートにもたれかけ、次々と変わり行く、春のさわやかな景色を眺めていた。しかし、流れ行く景色を見つめるぼくの心の内は、なんと雄大に、大きくふくらんでいたことだろう。

 

 長い距離を走り、ついにぼくは、憧れの湖畔までやって来た。ここの湖は、いつ見ても美しい。水は澄んでいて、敷き詰められたような砂利が、ゆるやかに波打つ水面から透けて見える。湖畔の少し沖あいには、葦が茂り、遥か向うの岸辺には、したたるばかりの緑と、その緑の間から勇壮に姿を現す、真白な壁がまぶしいばかりの僧院と、そして、空は澄んで、雲がさわやかだった。車を止めて水辺までやって来たぼくは、思わず、水に手をつけてみた。冷たくて、気持ちがいい。

 “それで、君の言っている館というのは、この近くなのかね”と、降りて来た運転手が、ぼくを見て言った。

 “ええ、もうすぐです”と、ぼくは振り向いて、言った。

 沖合には、白い帆をなびかせたヨットが見える。ここはなんと静かで、のどかで、平和なんだろう。ぼくは、この湖を再び目にして、その昔、リサと一緒に暮らしていた日々のことを、ふと思い出した。あの頃が、ぼくの人生の第二の幸福期―― 本当に幸せで、何不自由なく、思い煩うこともなく、暮らすことができた。彼女の明るい笑顔が、ふと、ぼくの心の中を過った。そう、ぼくは今、その館へ帰ろうとしているのだ…

 

 湖が見え隠れする、雑木林の曲がりくねった道をしばらく走ると、やがて、森の茂みのあいだから、あのなつかしい二階建ての、破風のある館が姿を現した。それは、湖畔からは少し奥に引っ込んだ、小高いところにあり、背後には、深い森と、地層が向き出しとなった、ほぼ絶壁に近い山が見えていた。それにしても、あのときと少しも変わってはいない。館の手前の芝生の緑が、まぶしいほどだった。ぼくを乗せたタクシーは、次第にその館へと近付いて行った。現在は、誰か住んでいるのだろうか? ぼくにはそれが一番気がかりだった。


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 タクシーは家の前で止まった。それと共に、家に誰か住んでいることが分かった。ぼくは車から降り、なつかしい館の全貌を見つめながら、玄関のドアへと歩み寄った。するとそのとき、中から、笑いながら勢いよく飛び出して来る子供がいた。まず最初に、年の頃五つぐらいの、黒っぽい上着と、薄いブルーのズボンをはいた男の子が飛び出して来たかと思うや、続いて、その子よりは体も大きく、年の頃十ほどには見える、髪の毛を長くし、薄いピンクのセーターと、短い真赤なスカートをはいた女の子が笑いながら、その男の子を追いかけて行き、ちょうど家の前の芝生の上で追いつき、その男の子を芝生の上で倒すや、お互いにキャーキャーと騒ぎながら、とっ組合いを始めるのだった。年の頃十ほどの女の子が、騒いでいる拍子に、赤いソックスの可愛い足や、スカートの奥のパンツが見えたりするのが、ぼくの目に、いささかまぶしかった。芝生の上で、互いに組みつき、ころがったりしているこの二人は、きっと、姉と弟なのだろう。ぼくは、彼らのそばに歩み寄り、家の人のことを聞こうとした。しかしそうするまでもなく、玄関から、二人の騒動をとがめるかのように、一人の若い婦人が姿を現した。黒いモダンなドレスで身を包んでいた彼女は、なかなかの美人だった。彼女は、子供のところへ行こうとするよりも前に、ぼくの存在に気づいたのか、振り向いた。

 “何か御用なんですか?”彼女は、ぼくと、ぼくの後ろにあるタクシーを見ながら、怪げな表情をして言った。

 “実は”と、ぼくは言った、“昔、この家に住んでいた者なんです。事情があって手放したんですが、もう一度見たくてやって来ました。今は、あなた方がお住まいなんですか?”

 “ええ、そうですけど”と言う彼女の表情は変わらなかった。

 しかし、ぼくが怪しい者ではないらしいと分かると、彼女の態度は幾分やわらいだ。さっきまでほたえていた子供たちも、今は騒ぎをやめ、芝生の上に足を投げ出した恰好で、いきなり登場したぼくの方を見つめていた。

 “わたしどもは五年程前に、この家を買い取りました”と、ぼくが尋ねるまでもなく彼女は言った、“今も、とってもこの家を気に入っています。まあ、お入りください”

 彼女はそう言って、ぼくを家の中に案内した。

 

 そうして案内された家の中は、家具、調度を除いて、昔と少しも変わっていないことに気がついた。この玄関。そして、この居間。昔通り、簡素で、飾り気のないところなど、少しも変わってはいなかった。ただ、置いてある家具や、ソファーなどが、少しモダンで、以前よりやや明るい感じがするところが、異なっていた。家人の趣味なのか、壁にはやたらと、モダンな絵や、人物の写真のような額が飾られていた。ぼくたちが案内されたのは居間だった。そこの、ゆったりしたソファーに腰を降ろすと、子供を追っ払ったばかりの若い夫人が、ぼくたちのところにやって来て、腰を降ろした。

 “それで?”と、彼女は言った、“昔、ここでお住まいだったんですか?”


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 “時期的に言えば、きっとあなた方が、ぼくたちが出て、最初に買い取られた人のはずです”と、ぼくは言った。

 “でも、どういうわけで、また、この家を見に来られたんですか?”と、彼女は尋ねた。

 “いえ、とりたてて、これといった理由はありません”と、ぼくは落ち着いて答えた、“ただ、旅の途中でこの近くを通りかかったものですから、ついなつかしくなって、寄ったまでです…”

 “じゃ、旅をしていらっしゃるんですね”と、彼女は言った、“現在のお住まいは遠いんですか?”

 “ええ、ドシアンからです”と、ぼくは答えた。

 “そんなに遠いところから!”と、彼女は、驚いたように言った。

 “実はね”と、ぼくは正直に言うことにした、“旅と言っても、普通の旅じゃないんです。実は、ぼくは、自分の過去を尋ねる為に、ここまでやって来たのです。自分の過去、と言っても、ぼく自身のではなく、ぼくの親の過去です。その場所が、この辺に集中しているものですから、ついでに、と言ってはなんですが、この家にも寄せてもらったわけなのです…

 彼女は、納得したようにうなづいた。

 “失礼ですが、御両親はおられるのですか?”と、彼女は尋ねた。

 “ぼくの父親は亡くなりました、まだ子供のときに”と、ぼくは答えた、“そしてぼくの母もまた、まだ子供のときに、行方不明となってしまったんです…”

 彼女は、悪いことを聞いたとばかり、表情を曇らせた。

 “それで、過去を尋ねにいらっしたのですね”と、しばらくしてから、彼女は言った、“それで、場所はどの辺なんです?”

 “母が昔住んでいたところは”と、ぼくは言った、“リトイアの近くのサビーノの村です。――でもその他に、母の両親がいたロアズマの村へは、つい昨日、行って来たばかりです。実は、この家は、ずっと昔、母の父親が、ぼくにとっては、祖父ですが、その人が建てた家だったんです…”

 “そうですか!”と、彼女は驚いたように言った、“その話しは、今初めて聞きました。 ――でも、なかなかセンスのある、いい家で、みんな気に入っているんです。あなたは、ここには、かなり長い間、過ごしていらしたんですか?”

 “いいえ、ほんの半年間程のあいだだけです”と、ぼくは静かに答えた、“事情があって、引っ越しのやむなきに至ったんですが、今でも、いい思い出として残っています。二階の書斎はまだ残っているでしょうか? あそこから見える湖の景色は、何んとも言えぬ、味わいの深いものでした…”

 “もちろんですとも”と、若い婦人は答えた、“あなたのおっしゃっている部屋は、今では、子供用に使わせてもらっているんです。あなたのおっしゃる通り、あそこから見える景色は、素晴らしいものですわ。


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本当のところ、わたしどもが使いたいぐらいなんですけど、どういうわけか、子供の部屋になってしまいました。なんでしたら、お見せしましょうか?”

 “よろしいんですか?”と、ぼくは尋ねた。

 “ええ、少しぐらいなら、別にかまわないでしょう”と、若い婦人は答えた。

 そう言って婦人は、立ち上がり、奥の部屋へ行って、子供たちと何か、二言、三言、会話をかわしているようだった。しばらくすると、彼女は笑顔で、ぼくたちのいる居間に戻って来た。

 “今、子供に話して来ました。別にかまわないから、どうぞということです。――でも相手は子供でも、一言、断りを入れておかなくてはね”と言って、彼女は、にっこりした、“それじゃ、案内しましょうか”

 ぼくたちは一緒に立ち上がり、彼女の後に続いた。

 なつかしい木製の階段が、やがて、ぼくの前に現れた。二階から、その階段を伝って、さっきの男の子がゆっくりと降りて来た。きっと、自分の部屋が見せられる、というので片づけ物をしたのだろう。その表情は楽しそうではなく、上がって行くぼくたちとのすれ違い様、恨むような目つきで、ぼくを見た。さらに、階段の一番上には、姉の方が、例の赤いスカートをつけた姿で、ぼくたちが上がって来るのを、静かに見下ろしていた。しかし、なんとなつかしい手すり、そして、この壁なのだろう。そのひとつ、ひとつが、ぼくには見覚えがあった。ほんの半年程の間だけだったが、ぼくとリサとは、この階段を、何度行き来したことだろう。二階の階段の上から見降ろす、十才ぐらいの少女。その少女が、かつては、リサであったこともあったのだ。ぼくは、そんなことがあった日を、胸に思い描こうとした。

 そしてとうとう、二階のあのなつかしい部屋へと、ぼくはやって来た。

 窓が、そして、その向うに茂る樹木が、いきなり目に飛び込んで来たその光景が、あの頃と少しも変わっていないことに、ぼくは驚いた。中の家具は、子供用にきちんとアレンジされていても、部屋そのものは、少しも変わってはいないのだ。ぼくはすぐ、窓辺に歩み寄った。すると、あのなつかしい光景が――春のうららかな日にはうっとりと眺め、また、雨の降る曇り空のときは、沈んだ面持で、そして、リサと共に眺めたこともあったあの光景が、再現されたことを知った。窓のすぐ外側に茂るシナの木も、そしてその向うに茂る柳の木も、昔のままで、心なしか、一層たくましく茂っているように、ぼくには思われた。そしてその向うに、深くて、暗い雑木林のあいだに、まるで真夏の海のように青い、澄んだ湖が波を立て、帆をつけたヨットがその上を横切って行く様が、ぼくの目に飛び込んで来た。空も、雲ひとつないほどに澄み、庭の木々がまぶしく、そして揺れ、申し分ないほど爽やかだった。ぼくは、それらを、かつての自分の部屋から眺め、あの当時とほとんど何も変わっていないことを知った。――何も、ここにいる人たちの生活を変えようという気持はない。しかし、彼らが来る以前にも、ここには、幸せというものが存在したことを、言いたいのだ。


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あの当時は、ぼくとリサの二人だけの生活だった。レオノールが病院で悲しい死を遂げた後、急に、この辺りには春が訪れたみたいだった。まるで、レオノールを冬が連れ去ったみたいに、もうレオノールの痕跡はなく、庭には一斉に花が咲き出し、暖かくて、歓喜の春がやって来て、自然、ぼくたちの心もほころんだ。やがてリサは、リランの遊園地に職を見つけ、ぼくは、ここで静かに、読書をし、心の整理を行った。

 ――それが、一番幸せな日々だった。午前中、音楽を聞き、読書に疲れると、ぼくはよく、湖畔に散歩に出掛けた。静かに波が音をたてている波打ち際に立ち、広い湖と、大きな空を見つめていると、それまでぼくを悩ませていた観念も、過去も消え、心は自然と、ほぐれてくるのだった。ぼくは、波打ち際に沿ってゆっくりと歩き、河原の砂利や、湖畔に生える葦や、水鳥たちの飛び立つ様などを眺めた。ときおり、人々もやって来、恋人たちや、家族連れ、あるいは、子供たちだけで遊んでいる人々と、すれ違った。ぼくは彼らを見、それまでぼくを苦しめて来た暗い過去から、ぼくを解きほぐそうとし、もっと、本当の幸せへと、自分を向かわせねばならないと思った。まだセーレンが生まれる前だったが、リサが、この波打ち際で、子犬と戯れていた。小さい子供たちが、子犬と遊んでいたのを見つけ、彼女は思わず、その中に入って行ったのだ。そんな日もあった。ぼくは、楽しそうに子犬と遊んでいる中腰の彼女を見、もっともっと、この幸せは広がって行かねばならないことを思った。しかし、そんなことについて彼女に言うことは、ほとんどなかった。ぼくは彼女の日常の生活の話しを聞き、楽しい遊園地での出来事を聞くだけで、心は満たされた。彼女の楽しい思いが、ぼくにも伝わって来、ぼくの生活も満たされた。――そうして、静かな波打ち際で、一日は暮れて行き、ぼくは夕陽を見つめながら、湖畔に立つ、我が家へと帰って行った。すると、その頃になると、風が出て来、庭のすべての木々をざわざわと揺らす頃になって、一日の勤めを終えたリサが、歩きながら帰って来るのだった。たいてい何か買物をし、手には新鮮な果物とか、ワインとか、その他の品物を持ちながら… そうして一日は過ぎ行き、夜が訪れた。空には美しい星々がいっぱい輝き出し、周囲は恐ろしいほど、闇に包まれて、静かだった。しかし、近くに他の人々の家もあるせいか、寂しい、という気持は、一日もしたことがなかった。家の中は明るく、しかもリサがいて、テレビを見たり、音楽を聞いたり、ワインを飲んだりして、過ごした。 

 …ぼくは、そんな日のことが、明るい窓の外を眺めながら、ふと、脳裏に過るのを感じた。しかしもちろん今は、その日から随分隔たり、変わってしまったことを感じた。ただ庭には美しい花々が――黄色いくさのおうや、赤いせんのうなどの野性草、アネモネや、キンギョソウや、クレマチスなどの花、そして忘れられないあの白いバラの花までが、今は春だとばかり咲いているのが、ぼくの目に止まった。他の花々は、いくらか入れ替えがあったとしても、あのバラの木と、バラの花だけは、今も変わってはいない。リサは、あの庭に出て、そして、心地よさそうに、バラの花の匂いを嗅いだのだ…

 空は青く、風がさわやかだった。ぼくは思わず、窓から体を乗り出し、空と、庭と、それらの花々を眺めた。



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