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346

 テーブルの置時計を見ると、もう八時半を、少し過ぎていた。

 “ここのホテルの自慢の料理、ウズラの焼いた料理がなかなかうまかったよ。それとワインとで、すっかりいい気持さ”

 “結構、いい生活をしているのね”と、リサは、弾んだ声でぼくに言った。

 “そちらはもう終わったのかい?”と、ぼくは逆に、尋ねた。

 “ええ、きょうは外食して来たところ”と、リサは、あっさり答えた、“兄さんほどじゃなく、簡単に済ませたわ。帰って来て、今、シャワーを浴びようとしていたところよ”

 “そうかい、それはお邪魔したね”と、ぼくは言った。

 “いいのよ。大事な話しですもの”と、リサはすぐ分かってくれた。

 “それでね、いいかい?”と、ぼくは続けた、“きょう一日、余りに多くを周り、多くの出会いがあって、そのときは忙しくて何も考える暇もなかったけど、ホテルに帰って来て、ひとりぽっちになったとき、クリスチーヌの生きた人生って、何んだろうって、つくづくそういう気がして来たのさ。ひいては、それは、ママの、そして、ぼくの、人生の問いかけにもなる。もっとも、そんなに大そうな事でもないけどね。――でも、そういう気がしたのさ。きょうは、本当に、充実したいい日だった。よく晴れてくれたし、こんなに多くのものを、一度に見せてくれる日って、めったにないからね。ぼくは、この日ばかりは、夢の世界へ飛ぶことができたよ、とりわけ、クリスチーヌの生きていたその時代に。――でも、その日の終わりが来、街へ帰って行く車の中で、夕空を見ると、なんとも言えない、寂しさのようなものを感じた。それがどういう感情なのか、今でもハッキリと説明することは出来ない。でもおぼろげながら、どうやら、この日一日の、クリスチーヌとの短い出会い、そして別れが元となって、複雑な感情へと昇華させたらしいことが、ようやく分かって来たんだ。人間って、ときにはそういう気持になることもあるだろう。センチメンタルな、そんな感情に…”

 “この日一日の体験が、兄さんに、いろんな作用を及ぼしたようね”と、受話器のリサは言った、“でも、いいことじゃない。それが結局、センチメンタルな感情を兄さんに与えるとしても、めったに経験できない、貴重な体験なんですもの…”

 “ぼくもそう思う”と、ぼくは答えた、“お前の言う通りで、ぼくの心はむしろ、晴々しているさ。こんな体験は、ぼく以外の誰にも体験できない。この広い世の中で、ぼくだけが、ただ一人、体験しているのさ。――でも、できれば、お前と一緒に旅をしたかった…”

 それはぼくの、心から出た、本心の声だった。

 “あら、ダメよ”とリサは、驚いたように言った、“この前も言ったように、今は忙しくてダメ。でも、あたしだって、本当は兄さんと同じように、先祖をめぐってみたい気持はあってよ”

 ――しかしそれは、リサが無理に、ぼくに合わせているように、ぼくには聞こえた。いいんだよ、リサ、何も無理にそこまで合わせなくても。ぼくには、お前の気持が、手に取るようによく分かっているんだ…


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347

 “その言葉だけでもぼくは嬉しいよ”と、ぼくは冷静に答えた、“外はもう真暗さ。お前とぼくとは、きょう、違った一日を経験しただろうけれど、いま、この同じ夜を迎え、そのうえ、このように電話でつながってもいるのさ。全く不思議なものだねえ、人間の運命って。そして全く測り知れないさ、人間の心って。もう電話は切るけれど、今晩は、クリスチーヌのことを、ぼくなりに整理してみるつもりなのさ。それが指し示している、深い、深い意味を、ぼくは、じっくりと考えてみたいのさ。それじゃリサ、また電話をするよ”

 “ええ、また何か分かったら、あたしにも聞かせてよ”とリサは言った、“あたしも今晩、兄さんの旅のことを、じっくり考えてみるわ。そして、分からないことがあれば、また聞くかも知れない。本当に、あたしも行ってみたいわ。これは本当よ”

 “じゃあね、リサ”と、ぼくは言った、“おやすみ”

 “ええ兄さんこそ”とリサが言った、“おやすみなさい”

 そうして受話器をおろした。忍び寄る、春の夜の気配が確実に、窓の外の暗黒から、この明るい部屋に押し寄せていた。再びひとりになった、ホテルの部屋のベッドに坐っていたぼくは、孤独だった…

 

 ぼくは何が言いたいのか? 自分でも分からない。ぼくが求めているものは? それは分からない。しかしぼくが逃れたいと思っているものは、間違いなく、この孤独だった。しかしそれは常に、ぼくに押し寄せて来た。押し戻そうと何度試みても、何度も押し戻され、そのたびに、相手は強く、力を増してくるのだった。最初はひたひたと、足下に押し寄せていたものが、今は胸、あるいは、鼻の位置までつかり、息もするのが困難、という有様なのだ。ぼくは本当に孤独だし、死にそうなほど、孤独だった。

 

 ぼくはそれで、今度は、セーラにも電話をしてみたが、いつまで呼んでもセーラは出て来ず、どうやら留守のようだった。ぼくはがっかりして、受話器を置いた。そして、ゴロリとベッドに横になり、クリーム色の落ち着いた天井を見つめながら、この日一日の出来事、昔、セーラと過ごした日々のこと、あるいはもっと遠い子供の頃のことなど、いろいろと頭をめぐらせた。――そのうち、ぼくは、クリスチーヌに出会いたいという願望が、心の奥底に芽生えていることが、だんだんと明らかとなった。その願望は、今すぐにでも幽霊となってもかまわないから、この部屋のそこの隅にでも立って現れて欲しいという願望となって現れたのだった。もちろん、クリスチーヌの幽霊など、現れるはずもなかった。ぼくの気持は揺れ動き、また明日があるのだ、ということで希望を持った。明日もまた、ぼくは行動を開始するだろう。今度は、ぼくたちが、そう遠くない日まで住んでいたレビエの館へと行ってみるつもりだ。そしてその先は――いよいよママが子供の頃を過ごした、リトイアのサビーノの村へぼくは行く。そのことを思うと、ぼくの心は言い知れぬ、鼓動を打つ、わくわくした気持になって来るのだった…


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348

 

 …朝、目が覚めると、白いレースのカーテンから、淡い光が室内に充満していた。カーテンの向うはもう明るく、対岸の教会やその他の建物の様子が、かすかに、カーテンを透けて見えていた。ぼくはぼんやりと、ベッドに身を横たえたまま、両側に束ねられた朱色の厚地のカーテンと、窓の中央に引かれた、薄いレースのカーテンの様子などを見つめた。室内は明るく、穏やかな光に包まれており、もう完全な夜明けだった。昨晩感じた、孤独な不安感は、もうこの朝によって、完全に消失していた。ぼくはゆっくりと起き上がり、窓辺に歩み寄って、さっとレースのカーテンを引いた。すると窓の外に、朝方のすがすがしい川の光景が、目に飛び込んで来た。朝の川は、春風に打たれて、一面さざ波を立て、対岸の樹木の列も、ざわざわと音をたてているようだった。対岸のあちこちに見える教会の尖塔は、夢見るように美しく、澄んだ、青い空に向かって突き立てていた。なんと美事な、落ち着いた街なのだろう。ぼくは、窓の外の、晴れ晴れとした光景を眺めながら、思った。振り向いて時計を見ると、もう八時だった。きょうは土曜日。あるいは、リサは休みかも知れない。そう思って、ベッドのそばの電話のところまで戻って来ると、ぼくは受話器を取り、ダイヤルを回した。

 

 しばらくすると、受話器を取る者がおり、そこから聞こえて来た声は、リサの声だった。

 “もしもし、どなた?”彼女の声は、生き生きとはずんでいた。

 “ぼくだよ、リサ”と、ぼくは言った、“きょうは土曜日だから、休みかと思って”

 “ええ、そうよ。もう起きたの?”と、リサは言った。

 “うん、今起きたところさ”と、ぼくは答えた、“ここの朝は、余り気持がいいから、それを伝えたくて、お前に電話したんだ。きょうの朝は、余り急がないのかい?”

 “ええ、別に予定ってないわ”と、リサは答えた、“でも、友達と、もうすぐ出掛けるけれどね”

 “そうかい。じゃ、手短かにぼくは話すよ”と、ぼくは言った、“ぼくはこれまで、随分といろんな朝を経験して来た。そして、たいていの朝は、ぼくの心をすがすがしいものにさせてくれるのさ。朝は一日の始まりで、原点なんだからね。そして、この日起こるべき一日のことを思うと、心はわくわくするのさ。そんなところなんて、まるで子供みたいなものさ。そしてきょうは久し振りに、そんないい朝を迎えることができた。そんなときは必ず思い出すのさ、こんないい朝って、ぼくの過去のどんな場合にあったろうかって。すると、いろんな朝を思い出す。一番近いのでは、お前が家に帰って来た翌日に迎えたあの朝さ。それ以外にも、お前と旅をしたときに味わったすがすがしい朝もあった。山深いホテルで味わった、新鮮な朝さ。それは確かに、空気がきれいなほど、人里から離れれば離れるほど、いい朝を迎えられる、というわけなのさ。特別なのでは、山道で踏み迷い、ママらと洞窟の中で迎えた朝のことを思い出すよ。


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あれはずっと昔の子供の頃で、それだけに一層、新鮮で、強烈に、ぼくの胸に刻み込められることになったのだろうけれど、あれだけは例外さ。だって、あんな経験なんて、めったに経験できるものじゃないんだからね。原始時代ならいざ知らず、現代において、見知らぬ洞窟で一夜を明かすなんて、およそあり得ないことだからね。――でもあれは、貴重な経験で、しかも、ぼくの一生でも最も素晴らしい朝だった、と今でも思っているよ。本当に、自然の中の、しかも、最も恵まれた夜明けの経験だった。あの経験だけは、思い出すごとに、感動と驚異の目でもって、思い出さずにはいられない。その外にも、貧しいアパートでの朝のことも思い出すよ。全く、いろんなことがあった朝。そして今、このホテルでの朝があるのさ。朝って、本当に素敵だね。毎日がそうだというつもりはないけれど、そういう特別な朝というものもあるっていうことなのさ。朝っぱらからおかしなことを電話して、御免よ”

 “いいえ、面白いわ”とリサは言った、“兄さんの感動がここにも伝わって来るみたい。きっと素晴らしいところにいるんでしょうね。都会に縛られているあたしには羨ましいぐらい。本当に羨ましいわ”

 “ともかく、朝、目を覚まして、そういうことが言いたかったのさ”と、ぼくは言った、“そしてぼくはこれから、お前と昔いた、あのレビエに行く。あの頃の思い出にふけってみるつもりさ。あそこは美しいし、本当に、都会とは違ったよさが、周囲に満ち満ちているところさ。ぼくはきょう、そこへ行くことができるのを、幸運だと思っているよ。だってこんないい春に、ぼくはあの思い出の地へ行くことができるのだから。でき得べばお前も一緒に、と言いたいところだが、そうも行かないだろうしね。でも、心はお前と一緒のつもりさ。それで電話をしたんだ。このことだけは是非、お前に伝えておきたいからね”

 “そう。ありがとう”とリサは言った、“今からレビエに行けるなんて、本当に羨ましいわ。だから兄さん、行けないあたしの分まで行って、よく観察してよ。そして話を聞かせて頂戴。それを楽しみに待っているわ”

 “うん、そうするつもりさ”と、ぼくは答えた、“それじゃ、余り邪魔をしてもなんだし、この辺で切るよ。――でも、今晩また電話をするからね。そのときにまたゆっくりと話すことにするよ。それじゃね”

 “ええ、じゃ、今晩ね”とリサは言った、“兄さんの電話、待っているわ。それじゃまた”

 電話はそこで切れた。ぼくは窓辺に歩み寄り、すっかり晴れ渡った、美しい、真青な空を見上げた。一日の始まり。きょう行く場所に、何が待っているのだろう? そう思うだけで、心は、自然と沸き上がるあの雲のように、わくわくとして来るのだった。

 

 空が、まぶしいほどに青かった。ぼくは車の中にいた。運転手は昨日と同じ運転手、ベルノ氏だった。この日、行くべきルートはいろいろ考えられたが、何はともあれ、まず、レビエのぼくたちの館を見てみたかった。きのうに比べれば、距離は遠かったが、それほど遠いというわけでもない。


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生涯に二度、クリスチーヌが訪れたという、湖畔近くの素晴らしい木造の館。ぼくの心は早くも、昔、ぼくとリサが暮らしたこともあるその館へと飛んでいた。今は誰が暮らしているのだろう。クリスチーヌは、一度目は、レオノールと愛を結ぶ為に、そしてもう一度は、永遠の別れの為に、あの館に訪れたのだ。ぼくは、その部屋の隅々まで、記憶をたどり、思い描くことができた。そこへ、早く行きたかった。そしてもし願わくば、あそこの生活を、もう一度、取り戻してみたかった。あの事件さえなければ、リサが、ぼくの旧友からの暴行を受けるというあの事件さえなかったならば、ぼくたちは今でも、平和に、あそこに住むことができたかも知れないところなのだ。

 車は、素晴らしい農村のあいだを縫って走っていた。周りは一面、緑の畑が続いていた。沿道に茂る濃い雑木林を抜け、ポプラの木の茂る、さわやかな家畜小舎の見える、有刺鉄線を張りめぐらせた牧場を通り、次々と変わる風景の中を、ほとんど車の走らない舗装道路に沿って、風を切ってタクシーは、軽快な速度で走った。ぼくは、シートにもたれかけ、次々と変わり行く、春のさわやかな景色を眺めていた。しかし、流れ行く景色を見つめるぼくの心の内は、なんと雄大に、大きくふくらんでいたことだろう。

 

 長い距離を走り、ついにぼくは、憧れの湖畔までやって来た。ここの湖は、いつ見ても美しい。水は澄んでいて、敷き詰められたような砂利が、ゆるやかに波打つ水面から透けて見える。湖畔の少し沖あいには、葦が茂り、遥か向うの岸辺には、したたるばかりの緑と、その緑の間から勇壮に姿を現す、真白な壁がまぶしいばかりの僧院と、そして、空は澄んで、雲がさわやかだった。車を止めて水辺までやって来たぼくは、思わず、水に手をつけてみた。冷たくて、気持ちがいい。

 “それで、君の言っている館というのは、この近くなのかね”と、降りて来た運転手が、ぼくを見て言った。

 “ええ、もうすぐです”と、ぼくは振り向いて、言った。

 沖合には、白い帆をなびかせたヨットが見える。ここはなんと静かで、のどかで、平和なんだろう。ぼくは、この湖を再び目にして、その昔、リサと一緒に暮らしていた日々のことを、ふと思い出した。あの頃が、ぼくの人生の第二の幸福期―― 本当に幸せで、何不自由なく、思い煩うこともなく、暮らすことができた。彼女の明るい笑顔が、ふと、ぼくの心の中を過った。そう、ぼくは今、その館へ帰ろうとしているのだ…

 

 湖が見え隠れする、雑木林の曲がりくねった道をしばらく走ると、やがて、森の茂みのあいだから、あのなつかしい二階建ての、破風のある館が姿を現した。それは、湖畔からは少し奥に引っ込んだ、小高いところにあり、背後には、深い森と、地層が向き出しとなった、ほぼ絶壁に近い山が見えていた。それにしても、あのときと少しも変わってはいない。館の手前の芝生の緑が、まぶしいほどだった。ぼくを乗せたタクシーは、次第にその館へと近付いて行った。現在は、誰か住んでいるのだろうか? ぼくにはそれが一番気がかりだった。



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