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それは、車がその方向に走っているあの美しい夕陽が、永遠への誘いをぼくに感じさせた為だろうか、それとも、この旅が、たった自分一人で続けられているせいなのだろうか… ぼくは一人に慣れていたが、このときほど、人生のはかなさと、寂しさとを感じたことはなかった。ぼくを乗せた車は、追おうとしても追い切れるはずのない夕陽に向かって、その最後の光が投げかける美しい大地の中を、まるで、手に入れることができるはずのない永遠を追いかけるかのように、寂しいホテルの一室が待っている、リランの町へと走って行った。その寂しい気持の中で、ぼくが思ったことは次のことだった、

 ホテルに着けば、このことをさっそく妹たちに電話をしよう。少しでもぼくのこの旅が、分かってもらえる相手が、ぼくには必要なのだ。それはぼくのリサ、そしてセーラなのだ…

 

 日はどんどんと暮れて行く。ぼくは、リランの町に近づくにつれ、周囲の風景が、そしてあの美しい雲までが、やがて夜の闇に包まれて行こうとしているのを、どれほどの恐れと、いとおしさの気持で、迎えたことだろうか。まるで夕暮れは、大地ばかりではなく、ぼくの精神までをも、窒息させようとしているかのようだ。恐ろしい夜の悪魔――それが、生きようとするぼくの意志をもくじこうとする。クリスチーヌも、この大地で、そのような夕暮れを、何度か迎えたはずなのだ。美しいが、残酷な匂いもする、この春のたそがれを――

 

 趣のある食堂での孤独な食事を終えた後、ぼくは、自分の部屋に戻って来た。明かりをつけると、クリーム色に花柄模様の柔らかいベッド、赤いカーぺットに、胡桃の木の簡素な机、椅子、そして、白いレースのカーテンなどが、目に飛び込んで来た。これが、今晩相手をする、ホテルのぼくの部屋なのだ。ぼくは、カーテンをあけ、窓を開くと、川向うに広がるこの町の夜景を見、夜空の星を眺め、冷たく新鮮な空気を、胸いっぱい吸い込んだ。そしてしばらく、それらの快い景色を眺めた後、ぼくはベッドのところに戻って来て、枕元の受話器を手に取った。

 うまく行けば、リサの住むアパートにつながるはずだった。

 しばらく、呼び鈴のうなる音が続いた。リサは、留守なのだろうか?

 しかしやがて、確かな手ごたえがあり、受話器を取る者がいた。

 “もし、もし。どなた?”それは、紛れもないリサの声だった。

 “ぼくだよ、久し振り”と、ぼくはホッとして言った、“今、どこから電話しているか分かるかい?”

 “兄さんなの?”と、リサが、ちょっと面食らったように言うのが聞こえた、“今、どこなの?”

 “どこか、当てて御覧よ”と、ぼくは言った。

 リサは黙ったまま答えられなかった。


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 “リランさ”と、ぼくは、勝ち誇ったように言った、“今、リランのホテルの部屋から電話しているんだ”

 “リラン?”と、リサは驚いたように言った、“じゃ、兄さんが前から行くって言ってたところに行ったのね。今、着いたところ? それとも、もう行ったの?”

 “行って来たさ”と、ぼくは、歓びを隠し切れずに言った、“いろんな所へね。ママが住んでいたミリエルの館にも、中へ入らせてもらったし、祖母クリスチーヌの暮らしていたブロートの館にも行ったし、墓参りもしたよ。全部回るのに、まる一日もかかってしまった”

 “へえ~、そんなたくさん行ったの”と、リサは興奮して言った、“スゴイッ! それじゃ随分いろんなことが分かったでしょ。祖母の住んでいたブロートの館って、どんななの? 大きな館なの?”

 “ああ、なかなかいいところにあって、大きさもまあまあさ”と、ぼくは答えた、“でも、いっぺんには全部、語り切れないぐらいだよ。ブロートの館は、静かな森の奥の方にあるのさ。お前も一度訪れるといい。そうすりゃ、祖母のいろんな思いが込みあげてくるからさ。それにそうそう”と言って、ぼくは枕元に置いてあった、古ぼけた額を手に取って見た、“そのブロートの館で、祖母の写真をもらったんだ。一枚しかない大事なものだったんだけど、大事に保管してくれていた現在のそこの館の夫人が、ぼくにくれたんだ。初めて見たけど、祖母の顔は、ぼくが想像していたよりも美人だったよ…”

 “本当? 今、それを持っているの?”と、受話器の中で、リサが言った。

 “ああ、今、見ているところさ”ぼくは、古ぼけた額に写っている若い女の姿を見つめながら言った。

 “本当?”と、リサは、声をはずませて言った、“あたしも是非見たいわ。でも、電話じゃ無理ね。どんな人か、ちょっとでも特徴を話してよ”

 “額が広くて、聡明そうな顔だよ”と、ぼくは言った、“目も鋭くて、鼻もきれいだし、頬もふっくらとしている。――しかし、こんなこと、口でいくら言ってもダメだよ。実物を見ない限りは。一度、実物を見にでも、またおいでよ…”

 “どこへ?”とリサは言った、“行きたいのはやまやまだけど、色々と忙しくてね。――でも、いつかまた見れる日を楽しみにしているわ。今度会うときがあったら、真先に見せてよ。約束ね”

 “ああ、分かってる”と、ぼくは答えた。

 ぼくは、落ち着いた、暖かい、クリーム色の壁や、花柄模様のベッドを照らすスタンドのほのかな明かりを、じっと見つめた。この部屋にはリサはいず、ただ、彼女の声がぼくの持つ受話器を通して、聞こえて来るに過ぎない。開け放された暗い窓からは、夜の冷たい風が、ぼくのいる、ベッドのところまで入って来ていた。

 “もう食事は済んだの?”と、リサは話題を変えて言った。

 “ああ、たった今”と、ぼくは答えた。


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 テーブルの置時計を見ると、もう八時半を、少し過ぎていた。

 “ここのホテルの自慢の料理、ウズラの焼いた料理がなかなかうまかったよ。それとワインとで、すっかりいい気持さ”

 “結構、いい生活をしているのね”と、リサは、弾んだ声でぼくに言った。

 “そちらはもう終わったのかい?”と、ぼくは逆に、尋ねた。

 “ええ、きょうは外食して来たところ”と、リサは、あっさり答えた、“兄さんほどじゃなく、簡単に済ませたわ。帰って来て、今、シャワーを浴びようとしていたところよ”

 “そうかい、それはお邪魔したね”と、ぼくは言った。

 “いいのよ。大事な話しですもの”と、リサはすぐ分かってくれた。

 “それでね、いいかい?”と、ぼくは続けた、“きょう一日、余りに多くを周り、多くの出会いがあって、そのときは忙しくて何も考える暇もなかったけど、ホテルに帰って来て、ひとりぽっちになったとき、クリスチーヌの生きた人生って、何んだろうって、つくづくそういう気がして来たのさ。ひいては、それは、ママの、そして、ぼくの、人生の問いかけにもなる。もっとも、そんなに大そうな事でもないけどね。――でも、そういう気がしたのさ。きょうは、本当に、充実したいい日だった。よく晴れてくれたし、こんなに多くのものを、一度に見せてくれる日って、めったにないからね。ぼくは、この日ばかりは、夢の世界へ飛ぶことができたよ、とりわけ、クリスチーヌの生きていたその時代に。――でも、その日の終わりが来、街へ帰って行く車の中で、夕空を見ると、なんとも言えない、寂しさのようなものを感じた。それがどういう感情なのか、今でもハッキリと説明することは出来ない。でもおぼろげながら、どうやら、この日一日の、クリスチーヌとの短い出会い、そして別れが元となって、複雑な感情へと昇華させたらしいことが、ようやく分かって来たんだ。人間って、ときにはそういう気持になることもあるだろう。センチメンタルな、そんな感情に…”

 “この日一日の体験が、兄さんに、いろんな作用を及ぼしたようね”と、受話器のリサは言った、“でも、いいことじゃない。それが結局、センチメンタルな感情を兄さんに与えるとしても、めったに経験できない、貴重な体験なんですもの…”

 “ぼくもそう思う”と、ぼくは答えた、“お前の言う通りで、ぼくの心はむしろ、晴々しているさ。こんな体験は、ぼく以外の誰にも体験できない。この広い世の中で、ぼくだけが、ただ一人、体験しているのさ。――でも、できれば、お前と一緒に旅をしたかった…”

 それはぼくの、心から出た、本心の声だった。

 “あら、ダメよ”とリサは、驚いたように言った、“この前も言ったように、今は忙しくてダメ。でも、あたしだって、本当は兄さんと同じように、先祖をめぐってみたい気持はあってよ”

 ――しかしそれは、リサが無理に、ぼくに合わせているように、ぼくには聞こえた。いいんだよ、リサ、何も無理にそこまで合わせなくても。ぼくには、お前の気持が、手に取るようによく分かっているんだ…


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 “その言葉だけでもぼくは嬉しいよ”と、ぼくは冷静に答えた、“外はもう真暗さ。お前とぼくとは、きょう、違った一日を経験しただろうけれど、いま、この同じ夜を迎え、そのうえ、このように電話でつながってもいるのさ。全く不思議なものだねえ、人間の運命って。そして全く測り知れないさ、人間の心って。もう電話は切るけれど、今晩は、クリスチーヌのことを、ぼくなりに整理してみるつもりなのさ。それが指し示している、深い、深い意味を、ぼくは、じっくりと考えてみたいのさ。それじゃリサ、また電話をするよ”

 “ええ、また何か分かったら、あたしにも聞かせてよ”とリサは言った、“あたしも今晩、兄さんの旅のことを、じっくり考えてみるわ。そして、分からないことがあれば、また聞くかも知れない。本当に、あたしも行ってみたいわ。これは本当よ”

 “じゃあね、リサ”と、ぼくは言った、“おやすみ”

 “ええ兄さんこそ”とリサが言った、“おやすみなさい”

 そうして受話器をおろした。忍び寄る、春の夜の気配が確実に、窓の外の暗黒から、この明るい部屋に押し寄せていた。再びひとりになった、ホテルの部屋のベッドに坐っていたぼくは、孤独だった…

 

 ぼくは何が言いたいのか? 自分でも分からない。ぼくが求めているものは? それは分からない。しかしぼくが逃れたいと思っているものは、間違いなく、この孤独だった。しかしそれは常に、ぼくに押し寄せて来た。押し戻そうと何度試みても、何度も押し戻され、そのたびに、相手は強く、力を増してくるのだった。最初はひたひたと、足下に押し寄せていたものが、今は胸、あるいは、鼻の位置までつかり、息もするのが困難、という有様なのだ。ぼくは本当に孤独だし、死にそうなほど、孤独だった。

 

 ぼくはそれで、今度は、セーラにも電話をしてみたが、いつまで呼んでもセーラは出て来ず、どうやら留守のようだった。ぼくはがっかりして、受話器を置いた。そして、ゴロリとベッドに横になり、クリーム色の落ち着いた天井を見つめながら、この日一日の出来事、昔、セーラと過ごした日々のこと、あるいはもっと遠い子供の頃のことなど、いろいろと頭をめぐらせた。――そのうち、ぼくは、クリスチーヌに出会いたいという願望が、心の奥底に芽生えていることが、だんだんと明らかとなった。その願望は、今すぐにでも幽霊となってもかまわないから、この部屋のそこの隅にでも立って現れて欲しいという願望となって現れたのだった。もちろん、クリスチーヌの幽霊など、現れるはずもなかった。ぼくの気持は揺れ動き、また明日があるのだ、ということで希望を持った。明日もまた、ぼくは行動を開始するだろう。今度は、ぼくたちが、そう遠くない日まで住んでいたレビエの館へと行ってみるつもりだ。そしてその先は――いよいよママが子供の頃を過ごした、リトイアのサビーノの村へぼくは行く。そのことを思うと、ぼくの心は言い知れぬ、鼓動を打つ、わくわくした気持になって来るのだった…


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 …朝、目が覚めると、白いレースのカーテンから、淡い光が室内に充満していた。カーテンの向うはもう明るく、対岸の教会やその他の建物の様子が、かすかに、カーテンを透けて見えていた。ぼくはぼんやりと、ベッドに身を横たえたまま、両側に束ねられた朱色の厚地のカーテンと、窓の中央に引かれた、薄いレースのカーテンの様子などを見つめた。室内は明るく、穏やかな光に包まれており、もう完全な夜明けだった。昨晩感じた、孤独な不安感は、もうこの朝によって、完全に消失していた。ぼくはゆっくりと起き上がり、窓辺に歩み寄って、さっとレースのカーテンを引いた。すると窓の外に、朝方のすがすがしい川の光景が、目に飛び込んで来た。朝の川は、春風に打たれて、一面さざ波を立て、対岸の樹木の列も、ざわざわと音をたてているようだった。対岸のあちこちに見える教会の尖塔は、夢見るように美しく、澄んだ、青い空に向かって突き立てていた。なんと美事な、落ち着いた街なのだろう。ぼくは、窓の外の、晴れ晴れとした光景を眺めながら、思った。振り向いて時計を見ると、もう八時だった。きょうは土曜日。あるいは、リサは休みかも知れない。そう思って、ベッドのそばの電話のところまで戻って来ると、ぼくは受話器を取り、ダイヤルを回した。

 

 しばらくすると、受話器を取る者がおり、そこから聞こえて来た声は、リサの声だった。

 “もしもし、どなた?”彼女の声は、生き生きとはずんでいた。

 “ぼくだよ、リサ”と、ぼくは言った、“きょうは土曜日だから、休みかと思って”

 “ええ、そうよ。もう起きたの?”と、リサは言った。

 “うん、今起きたところさ”と、ぼくは答えた、“ここの朝は、余り気持がいいから、それを伝えたくて、お前に電話したんだ。きょうの朝は、余り急がないのかい?”

 “ええ、別に予定ってないわ”と、リサは答えた、“でも、友達と、もうすぐ出掛けるけれどね”

 “そうかい。じゃ、手短かにぼくは話すよ”と、ぼくは言った、“ぼくはこれまで、随分といろんな朝を経験して来た。そして、たいていの朝は、ぼくの心をすがすがしいものにさせてくれるのさ。朝は一日の始まりで、原点なんだからね。そして、この日起こるべき一日のことを思うと、心はわくわくするのさ。そんなところなんて、まるで子供みたいなものさ。そしてきょうは久し振りに、そんないい朝を迎えることができた。そんなときは必ず思い出すのさ、こんないい朝って、ぼくの過去のどんな場合にあったろうかって。すると、いろんな朝を思い出す。一番近いのでは、お前が家に帰って来た翌日に迎えたあの朝さ。それ以外にも、お前と旅をしたときに味わったすがすがしい朝もあった。山深いホテルで味わった、新鮮な朝さ。それは確かに、空気がきれいなほど、人里から離れれば離れるほど、いい朝を迎えられる、というわけなのさ。特別なのでは、山道で踏み迷い、ママらと洞窟の中で迎えた朝のことを思い出すよ。



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