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 今では、そのクリスチーヌが、目の前の丸みを帯びた不揃いな墓標の下で、父親と並んで眠っていた。誰も訪れる人がないと見えて、墓石は風化にさらされて傷み、周りは雑草が生えるに任されていた。しかし、明るい日ざしの下で、墓石を取り囲むようにたくましく茂っている雑草を見ると、クリスチーヌの墓標は、生きていることの楽しさを、生命の持つ大切な意味を、ぼくに語りかけているように思われた…

 

 ふと、墓標から顔を上げると、樹木のシルエットとなった墓地の奥の方に、ぼくたちが今しがたそこからやって来たあの美しい、ゴシックの教会が、光を浴び、小麦色に輝いているその様が、ぼくの目に飛び込んで来た。それは驚き、というより、まさに“生命”との出会いだった。重苦しい墓の呪縛から解放されて、生きることの歓びを告げる、その“しるし”との出会いだった。クリスチーヌは亡くなったが、ぼくは、生きていてよかった、と思った。少なくとも、クリスチーヌの悲しい運命や、今ここに生きていることの感動を、ぼくは味わうことができるのだ。まるであの青い空に浮かんでいる白い雲のように、ぼくは今、純粋な感動にひたることができるのだ。――ぼくは、亡くなったクリスチーヌのその分まで、余計に生きなければならない、という気がした。なぜなら、もう彼女のことを思い、語ってあげることができるのは、このぼくしかいない、という気がしたからだった。しかし実際は、ぼくの登場によって、埋もれていた神父の心をも呼び覚ましたのだ…

 “…死んでしまえばそれまでです”と、神父は、ポツリと言った、“このように墓の中に入ってしまわれれば、もうそれ以降の地上の人生はないのです。そう思えば、人はもっと長く生きるべきです。少なくとも、人並みに人生が全うできるほどの長さにね… クリスチーヌさんは、余りにも早くお亡くなりになってしまわれた。それは、神さえ望まれなかった死であるはずです。生きていれば、どんな運命を全うできたかも分からないのに、残念です。――実に残念なことです…”

 そう言って悲しむ神父の言葉の中には、単に宗教的にではなく、個人的にクリスチーヌの死をいとおしむ気持が込められているように、ぼくには思われた。

 “しかし、神の望みにならない死というものがあるのですか?”と、ぼくはそれとなく、尋ねてみた。

 “すべては、運命の成すがままです”と、神父は答えた、“しかし、中には、わたしどもの理解を越えた死というものがあるのです。とりわけ、クリスチーヌさんのような死は、神が望むはずはありません… さあ、もうよろしいですか?”

 ぼくも、ここを去ることに同意した。今度訪れるのはいつになることやら。去って行くとき、ぼくはもう一度振り向いたが、明るい日射しの中で、雑草におおわれ、他の墓標に混じって、ひっそりと、太陽に相対して立っているのが、印象的だった。その上に置いたぼくの花も、春風に揺れながら、次第に遠ざかって行った…


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 ぼくはその後、ミリエル家の墓をも神父に案内してもらった。神父は、ミリエル家についても子供の頃の記憶や、知識があり、喜んで案内してくれた。場所は、奥の方にあったクリスチーヌの墓所から離れて、むしろ教会に近い場所に、他の墓標に混じってあった。こちらの方は、よく茂った樹木の茂みの陰にあり、じめじめした印象を与えた。父、エドガー・ミリエル氏の他、モーリス及び、ぼくの大伯母に当たるアヌーザの名も見られた。これらの墓を、もしぼくの母リディアが見れば、どのように思うだろうか? そうでなくても、セーラやリサに見せてやりたい気持がした。

 再び教会の前に来て、青い空に突き刺すような塔の先を目にし、ぼくは、死者たちの世界から、生き返って今、生命を享受しているのを感じた。生きていて、このように美しい尖塔を目にすることが出来るのは、何んと素晴らしいことだろう。空の青さも、教会の小麦色の壁も、緑したたる庭の樹木も、なんと生命に満ち、生き生きとしていることだろう。教会は、死者を葬るばかりのところではなく、人生の門出である結婚や、赤子の誕生を司るところでもあるのだ。そして、喜びに満ちたレオノールの姉、アヌーザも、クリスチーヌも、この教会で結婚式を挙げたのだった。その日もきっと、この日のように空は晴れて、明るかったことだろう。この二組の結婚は、内容において違ったものだったが、花嫁のそれぞれの胸の内にあった期待と不安において、それぞれ共通したものがあったはずなのだ。その両方の花嫁も、今はこの教会の墓地に眠っていた。生と死――ぼくは、そうした人間のドラマから解放されて、今、青い空の下で明るく輝いている教会の下にいた。

 

 “どうもいろいろと、ありがとうございました”と、ぼくは神父に礼を言った。

 “いいえ。また来ることがありましたらいつでも、わたしのところへ訪ねに来て下さい”と、神父は笑顔で答えた。

 “ええ、そのときには是非”と言うと、ぼくは神父と握手をして別れた。

 神父は教会の扉のところに立ち、黒い僧衣と、片手に本を持って、もう一方の手を振りながら、いつまでも、ぼくが去って行くのを見送ってくれた。恐らくぼくが彼に与えたことは、クリスチーヌの孫に出会ったという印象を、強く彼に残したということなのだろう…

 

 こうして、この日の旅の行程はすべて終わった。ぼくは、この収穫多い日に出会ったすべての場所や、すべての人のことを、様々に胸に巡らせながら、幸せな気持で帰途についた。ロアズマの村を去り、中都市リランヘと向かう車の中で、ぼくは、段々と日が傾いて行く夕暮れを迎えた。町が近づくにつれ、あれほど晴れていた空にも雲が出て、広々とした畑や、森林に投げかける夕陽の光が美しかった。一日が暮れる頃は、どんな春の日でも、人の心を寂しくさせるものだ。ぼくも、夢中だったこの日を振り返り、少しばかり、心の寂しさのようなものを感じた。


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それは、車がその方向に走っているあの美しい夕陽が、永遠への誘いをぼくに感じさせた為だろうか、それとも、この旅が、たった自分一人で続けられているせいなのだろうか… ぼくは一人に慣れていたが、このときほど、人生のはかなさと、寂しさとを感じたことはなかった。ぼくを乗せた車は、追おうとしても追い切れるはずのない夕陽に向かって、その最後の光が投げかける美しい大地の中を、まるで、手に入れることができるはずのない永遠を追いかけるかのように、寂しいホテルの一室が待っている、リランの町へと走って行った。その寂しい気持の中で、ぼくが思ったことは次のことだった、

 ホテルに着けば、このことをさっそく妹たちに電話をしよう。少しでもぼくのこの旅が、分かってもらえる相手が、ぼくには必要なのだ。それはぼくのリサ、そしてセーラなのだ…

 

 日はどんどんと暮れて行く。ぼくは、リランの町に近づくにつれ、周囲の風景が、そしてあの美しい雲までが、やがて夜の闇に包まれて行こうとしているのを、どれほどの恐れと、いとおしさの気持で、迎えたことだろうか。まるで夕暮れは、大地ばかりではなく、ぼくの精神までをも、窒息させようとしているかのようだ。恐ろしい夜の悪魔――それが、生きようとするぼくの意志をもくじこうとする。クリスチーヌも、この大地で、そのような夕暮れを、何度か迎えたはずなのだ。美しいが、残酷な匂いもする、この春のたそがれを――

 

 趣のある食堂での孤独な食事を終えた後、ぼくは、自分の部屋に戻って来た。明かりをつけると、クリーム色に花柄模様の柔らかいベッド、赤いカーぺットに、胡桃の木の簡素な机、椅子、そして、白いレースのカーテンなどが、目に飛び込んで来た。これが、今晩相手をする、ホテルのぼくの部屋なのだ。ぼくは、カーテンをあけ、窓を開くと、川向うに広がるこの町の夜景を見、夜空の星を眺め、冷たく新鮮な空気を、胸いっぱい吸い込んだ。そしてしばらく、それらの快い景色を眺めた後、ぼくはベッドのところに戻って来て、枕元の受話器を手に取った。

 うまく行けば、リサの住むアパートにつながるはずだった。

 しばらく、呼び鈴のうなる音が続いた。リサは、留守なのだろうか?

 しかしやがて、確かな手ごたえがあり、受話器を取る者がいた。

 “もし、もし。どなた?”それは、紛れもないリサの声だった。

 “ぼくだよ、久し振り”と、ぼくはホッとして言った、“今、どこから電話しているか分かるかい?”

 “兄さんなの?”と、リサが、ちょっと面食らったように言うのが聞こえた、“今、どこなの?”

 “どこか、当てて御覧よ”と、ぼくは言った。

 リサは黙ったまま答えられなかった。


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 “リランさ”と、ぼくは、勝ち誇ったように言った、“今、リランのホテルの部屋から電話しているんだ”

 “リラン?”と、リサは驚いたように言った、“じゃ、兄さんが前から行くって言ってたところに行ったのね。今、着いたところ? それとも、もう行ったの?”

 “行って来たさ”と、ぼくは、歓びを隠し切れずに言った、“いろんな所へね。ママが住んでいたミリエルの館にも、中へ入らせてもらったし、祖母クリスチーヌの暮らしていたブロートの館にも行ったし、墓参りもしたよ。全部回るのに、まる一日もかかってしまった”

 “へえ~、そんなたくさん行ったの”と、リサは興奮して言った、“スゴイッ! それじゃ随分いろんなことが分かったでしょ。祖母の住んでいたブロートの館って、どんななの? 大きな館なの?”

 “ああ、なかなかいいところにあって、大きさもまあまあさ”と、ぼくは答えた、“でも、いっぺんには全部、語り切れないぐらいだよ。ブロートの館は、静かな森の奥の方にあるのさ。お前も一度訪れるといい。そうすりゃ、祖母のいろんな思いが込みあげてくるからさ。それにそうそう”と言って、ぼくは枕元に置いてあった、古ぼけた額を手に取って見た、“そのブロートの館で、祖母の写真をもらったんだ。一枚しかない大事なものだったんだけど、大事に保管してくれていた現在のそこの館の夫人が、ぼくにくれたんだ。初めて見たけど、祖母の顔は、ぼくが想像していたよりも美人だったよ…”

 “本当? 今、それを持っているの?”と、受話器の中で、リサが言った。

 “ああ、今、見ているところさ”ぼくは、古ぼけた額に写っている若い女の姿を見つめながら言った。

 “本当?”と、リサは、声をはずませて言った、“あたしも是非見たいわ。でも、電話じゃ無理ね。どんな人か、ちょっとでも特徴を話してよ”

 “額が広くて、聡明そうな顔だよ”と、ぼくは言った、“目も鋭くて、鼻もきれいだし、頬もふっくらとしている。――しかし、こんなこと、口でいくら言ってもダメだよ。実物を見ない限りは。一度、実物を見にでも、またおいでよ…”

 “どこへ?”とリサは言った、“行きたいのはやまやまだけど、色々と忙しくてね。――でも、いつかまた見れる日を楽しみにしているわ。今度会うときがあったら、真先に見せてよ。約束ね”

 “ああ、分かってる”と、ぼくは答えた。

 ぼくは、落ち着いた、暖かい、クリーム色の壁や、花柄模様のベッドを照らすスタンドのほのかな明かりを、じっと見つめた。この部屋にはリサはいず、ただ、彼女の声がぼくの持つ受話器を通して、聞こえて来るに過ぎない。開け放された暗い窓からは、夜の冷たい風が、ぼくのいる、ベッドのところまで入って来ていた。

 “もう食事は済んだの?”と、リサは話題を変えて言った。

 “ああ、たった今”と、ぼくは答えた。


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 テーブルの置時計を見ると、もう八時半を、少し過ぎていた。

 “ここのホテルの自慢の料理、ウズラの焼いた料理がなかなかうまかったよ。それとワインとで、すっかりいい気持さ”

 “結構、いい生活をしているのね”と、リサは、弾んだ声でぼくに言った。

 “そちらはもう終わったのかい?”と、ぼくは逆に、尋ねた。

 “ええ、きょうは外食して来たところ”と、リサは、あっさり答えた、“兄さんほどじゃなく、簡単に済ませたわ。帰って来て、今、シャワーを浴びようとしていたところよ”

 “そうかい、それはお邪魔したね”と、ぼくは言った。

 “いいのよ。大事な話しですもの”と、リサはすぐ分かってくれた。

 “それでね、いいかい?”と、ぼくは続けた、“きょう一日、余りに多くを周り、多くの出会いがあって、そのときは忙しくて何も考える暇もなかったけど、ホテルに帰って来て、ひとりぽっちになったとき、クリスチーヌの生きた人生って、何んだろうって、つくづくそういう気がして来たのさ。ひいては、それは、ママの、そして、ぼくの、人生の問いかけにもなる。もっとも、そんなに大そうな事でもないけどね。――でも、そういう気がしたのさ。きょうは、本当に、充実したいい日だった。よく晴れてくれたし、こんなに多くのものを、一度に見せてくれる日って、めったにないからね。ぼくは、この日ばかりは、夢の世界へ飛ぶことができたよ、とりわけ、クリスチーヌの生きていたその時代に。――でも、その日の終わりが来、街へ帰って行く車の中で、夕空を見ると、なんとも言えない、寂しさのようなものを感じた。それがどういう感情なのか、今でもハッキリと説明することは出来ない。でもおぼろげながら、どうやら、この日一日の、クリスチーヌとの短い出会い、そして別れが元となって、複雑な感情へと昇華させたらしいことが、ようやく分かって来たんだ。人間って、ときにはそういう気持になることもあるだろう。センチメンタルな、そんな感情に…”

 “この日一日の体験が、兄さんに、いろんな作用を及ぼしたようね”と、受話器のリサは言った、“でも、いいことじゃない。それが結局、センチメンタルな感情を兄さんに与えるとしても、めったに経験できない、貴重な体験なんですもの…”

 “ぼくもそう思う”と、ぼくは答えた、“お前の言う通りで、ぼくの心はむしろ、晴々しているさ。こんな体験は、ぼく以外の誰にも体験できない。この広い世の中で、ぼくだけが、ただ一人、体験しているのさ。――でも、できれば、お前と一緒に旅をしたかった…”

 それはぼくの、心から出た、本心の声だった。

 “あら、ダメよ”とリサは、驚いたように言った、“この前も言ったように、今は忙しくてダメ。でも、あたしだって、本当は兄さんと同じように、先祖をめぐってみたい気持はあってよ”

 ――しかしそれは、リサが無理に、ぼくに合わせているように、ぼくには聞こえた。いいんだよ、リサ、何も無理にそこまで合わせなくても。ぼくには、お前の気持が、手に取るようによく分かっているんだ…



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