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そのほとんどが、木の陰となり、光が射し込まず、ただでさえ陰気な墓地が、いっそう、じめじめとした印象を与えるのだった。丸みを帯び、奇妙な形をした墓標の群れが、一見して、ここを墓地だと感じさせた。そのどれもが、色あせ、何か文字が書いてあるが、それがすぐには判読できないほど、風化の中にさらされているようだった。しかし、ところどころには、木の葉の陰から、光が射し込み、そういうところの雑草や墓標は、何かしら、明るくて、救われたような気にさせられるのだった。そして、クリスチーヌの墓は、まさに、その日の当たったところに存在した。

 神父が、様々な墓の間を縫って先に行き、ぼくたちは、その後に続いた。ぼくの手には、しっかりと花束が握られていた。

 “クリスチーヌさんのことは、まだわたしが小さい頃、母から聞いたことがあります”と、神父は案内の途中、おもむろに言った、“気の毒な運命をたどられたことが、一時、村人たちの話題にもなったようです。あなた方はもちろん、御存知でしょうね”

 “ええ、知っています”と、ぼくは答えた。

 “わたしも子供ながら、クリスチーヌさんが亡くなったのを悲しんだのを覚えています”と、神父は、ぼくのことは、余り気にもかけずに続けた、“なかなか美しいお方でしたからね。わたしも、あの方が村を歩いてなさった姿を何度か見かけたことがあって、そのたびに、美しい方だと感嘆したものでした。子供心ながら、強い印象を残したのですね。それに、とってもお優しい方で、見知らぬわたしにも、気持よく心を掛けて下さいました。本当にお若いのに、気の毒な亡くなり方をされました。――もうあれから何十年経ったことやら。それで、今ではすっかりクリスチーヌさんのことは忘れかけていましたが、あなたのおかげで、また思い出しました。彼女のことは、まるで昨日のことのように、今でもはっきり思い出すことができます。――それにしても、今どき、クリスチーヌさんの墓に参りに来られるなんて、失礼ですが、あなたは、どういう関係の方なんですか?”

 “クリスチーヌさんは、ぼくの祖母に当たる人なんです”と、ぼくは、平然と答えた。

 “じゃ、あなたは、あの方のお孫さんなんですか!”と、神父は、驚いたように、ぼくの顔を見て、言った。

 “あの方に、お孫さんがいたとは知りませんでした”と、神父は一息つくと言った、

 “そうとは知らず、失礼をいたしました。――でも、あの方がお亡くなりになったとき、子供さんがいたとは聞いたことがなかったのですが…”

 それでぼくは手短かに、クリスチーヌが結婚する前に既に子供がいたこと、そうなるに至ったいきさつについて、この年の頃、そろそろ老境にさしかかっている神父に、話して聞かせた。

 神父は、ぼくの話しに対して、半信半疑の面持だったが、最終的には信じてくれたようだった。そして、しきりに、“そういう話しは初めてだ”と言って、感心しているようだった。

 “――でも、ぼくも知りたいんです”と、ぼくは、全部を話し終えてから言った、“生前のクリスチーヌのことを。


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今まで会った人は全部、直接会った人じゃなかったんですけど、今初めて、生前のクリスチーヌさんを見た、というあなたにお会いしたんです。それだけでも、ぼくは感激です。ですから、そのときの様子を、もっと詳しく、ぼくにお聞かせ願いたいんです。生前のクリスチーヌさんって、どんな人だったかを”

 “それを話す前に、もう着きました”と言って、神父は、雑草におおわれるようにして立っている二つの、色あせた墓標を指さした。それは、さっきまでのうっそうとした場所とは違って、光が当たり、一種明るい雰囲気に満たされて、存在していた。ぼくは、その墓標に歩み寄り、手に持っていた花束をそっと添えた。歩み寄ると、墓標には、はっきりと次の文字が読みとれた。

 「クリスチーヌ・ブロート ここに眠る。1907~1932」

 そして、その横の墓標には、父、パトリック・ガラハの名を読み取ることができた。

 ぼくは、しっかりと、並んで立っている石の墓標を、そしてその下に茂っている数種類の雑草や、置いたばかりの花束の花が、風に揺れている様子を、眺め入った。光を浴びて、そこにある墓標は、ただ静かなだけで、いかなるクリスチーヌの思いも、ぼくに呼び覚ましはしなかった。

 “それにしても気の毒なことです。あの美しい方が、早くして亡くなられたなんて… 普通なら、今も十分生きておられる年齢だったのに”ポツリと、神父はつぶやくように言った。

 “それで、どんな感じの人だったのです?”とぼくは、それとなく尋ねてみた。

 “そう、とっても気だてのいい、優しいひとでした”と、神父は思い出すように言った、“今でも、あの美しい笑顔は、はっきりと思い出すことさえ、できます。ちょうど魚釣りをしていたわたしに優しく声を掛けて下さり、どんな魚が釣れるだの、餌は何だの、どういう風にして釣るだの、興味深そうに話し掛けました。それがきっかけとなって、わたしとは、ちょっとした知り合いになったのです。それはまだ、クリスチーヌさんが結婚する以前のことでした。時々、川沿いの道を通ることがあり、手にかかえていたバスケットの中の、取りたてのりんごを、わたしに下さったこともありました。彼女は、溌剌として、明るく、村の誰からも愛されるような、そんな感じの女性でした。ここは、今以上に小さな村でしたから、たいていの村人とは顔見知りであり、クリスチーヌさんも例外ではなく、よく、村人の家の前で立ち止まって、農夫や、農夫のおかみさんらと話をしている光景を見かけました。そんなとき、彼女は、手まね、身振りを交えて、とっても生き生きと語りかけていました。彼女は、人を楽しませる話術にたけていました。ですから、彼女の話しを聞く村人たちは、必ずと言っていいほど、満足の微笑みを浮かべていたものです。もちろん彼女には、いかなる悪気も、よこしまな心もなく、素直そのものでした。わたしがよく見かけた彼女の姿は、つばの広い帽子に、両肩をふくらませた短い袖と、腰をキュッと締めて、ふっくらしたスカートをしている、ちょうどあの、花売り娘がよく着ていたような、そんなドレスを着た彼女の姿でした。しかしそれがまた、一番彼女によく似合っていました。わたしは、明るい光の中を、そんな姿をした彼女が歩いて行く後ろ姿を、何度も、ほほえましい気持で、目にしたものでした…”


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 今では、そのクリスチーヌが、目の前の丸みを帯びた不揃いな墓標の下で、父親と並んで眠っていた。誰も訪れる人がないと見えて、墓石は風化にさらされて傷み、周りは雑草が生えるに任されていた。しかし、明るい日ざしの下で、墓石を取り囲むようにたくましく茂っている雑草を見ると、クリスチーヌの墓標は、生きていることの楽しさを、生命の持つ大切な意味を、ぼくに語りかけているように思われた…

 

 ふと、墓標から顔を上げると、樹木のシルエットとなった墓地の奥の方に、ぼくたちが今しがたそこからやって来たあの美しい、ゴシックの教会が、光を浴び、小麦色に輝いているその様が、ぼくの目に飛び込んで来た。それは驚き、というより、まさに“生命”との出会いだった。重苦しい墓の呪縛から解放されて、生きることの歓びを告げる、その“しるし”との出会いだった。クリスチーヌは亡くなったが、ぼくは、生きていてよかった、と思った。少なくとも、クリスチーヌの悲しい運命や、今ここに生きていることの感動を、ぼくは味わうことができるのだ。まるであの青い空に浮かんでいる白い雲のように、ぼくは今、純粋な感動にひたることができるのだ。――ぼくは、亡くなったクリスチーヌのその分まで、余計に生きなければならない、という気がした。なぜなら、もう彼女のことを思い、語ってあげることができるのは、このぼくしかいない、という気がしたからだった。しかし実際は、ぼくの登場によって、埋もれていた神父の心をも呼び覚ましたのだ…

 “…死んでしまえばそれまでです”と、神父は、ポツリと言った、“このように墓の中に入ってしまわれれば、もうそれ以降の地上の人生はないのです。そう思えば、人はもっと長く生きるべきです。少なくとも、人並みに人生が全うできるほどの長さにね… クリスチーヌさんは、余りにも早くお亡くなりになってしまわれた。それは、神さえ望まれなかった死であるはずです。生きていれば、どんな運命を全うできたかも分からないのに、残念です。――実に残念なことです…”

 そう言って悲しむ神父の言葉の中には、単に宗教的にではなく、個人的にクリスチーヌの死をいとおしむ気持が込められているように、ぼくには思われた。

 “しかし、神の望みにならない死というものがあるのですか?”と、ぼくはそれとなく、尋ねてみた。

 “すべては、運命の成すがままです”と、神父は答えた、“しかし、中には、わたしどもの理解を越えた死というものがあるのです。とりわけ、クリスチーヌさんのような死は、神が望むはずはありません… さあ、もうよろしいですか?”

 ぼくも、ここを去ることに同意した。今度訪れるのはいつになることやら。去って行くとき、ぼくはもう一度振り向いたが、明るい日射しの中で、雑草におおわれ、他の墓標に混じって、ひっそりと、太陽に相対して立っているのが、印象的だった。その上に置いたぼくの花も、春風に揺れながら、次第に遠ざかって行った…


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 ぼくはその後、ミリエル家の墓をも神父に案内してもらった。神父は、ミリエル家についても子供の頃の記憶や、知識があり、喜んで案内してくれた。場所は、奥の方にあったクリスチーヌの墓所から離れて、むしろ教会に近い場所に、他の墓標に混じってあった。こちらの方は、よく茂った樹木の茂みの陰にあり、じめじめした印象を与えた。父、エドガー・ミリエル氏の他、モーリス及び、ぼくの大伯母に当たるアヌーザの名も見られた。これらの墓を、もしぼくの母リディアが見れば、どのように思うだろうか? そうでなくても、セーラやリサに見せてやりたい気持がした。

 再び教会の前に来て、青い空に突き刺すような塔の先を目にし、ぼくは、死者たちの世界から、生き返って今、生命を享受しているのを感じた。生きていて、このように美しい尖塔を目にすることが出来るのは、何んと素晴らしいことだろう。空の青さも、教会の小麦色の壁も、緑したたる庭の樹木も、なんと生命に満ち、生き生きとしていることだろう。教会は、死者を葬るばかりのところではなく、人生の門出である結婚や、赤子の誕生を司るところでもあるのだ。そして、喜びに満ちたレオノールの姉、アヌーザも、クリスチーヌも、この教会で結婚式を挙げたのだった。その日もきっと、この日のように空は晴れて、明るかったことだろう。この二組の結婚は、内容において違ったものだったが、花嫁のそれぞれの胸の内にあった期待と不安において、それぞれ共通したものがあったはずなのだ。その両方の花嫁も、今はこの教会の墓地に眠っていた。生と死――ぼくは、そうした人間のドラマから解放されて、今、青い空の下で明るく輝いている教会の下にいた。

 

 “どうもいろいろと、ありがとうございました”と、ぼくは神父に礼を言った。

 “いいえ。また来ることがありましたらいつでも、わたしのところへ訪ねに来て下さい”と、神父は笑顔で答えた。

 “ええ、そのときには是非”と言うと、ぼくは神父と握手をして別れた。

 神父は教会の扉のところに立ち、黒い僧衣と、片手に本を持って、もう一方の手を振りながら、いつまでも、ぼくが去って行くのを見送ってくれた。恐らくぼくが彼に与えたことは、クリスチーヌの孫に出会ったという印象を、強く彼に残したということなのだろう…

 

 こうして、この日の旅の行程はすべて終わった。ぼくは、この収穫多い日に出会ったすべての場所や、すべての人のことを、様々に胸に巡らせながら、幸せな気持で帰途についた。ロアズマの村を去り、中都市リランヘと向かう車の中で、ぼくは、段々と日が傾いて行く夕暮れを迎えた。町が近づくにつれ、あれほど晴れていた空にも雲が出て、広々とした畑や、森林に投げかける夕陽の光が美しかった。一日が暮れる頃は、どんな春の日でも、人の心を寂しくさせるものだ。ぼくも、夢中だったこの日を振り返り、少しばかり、心の寂しさのようなものを感じた。


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それは、車がその方向に走っているあの美しい夕陽が、永遠への誘いをぼくに感じさせた為だろうか、それとも、この旅が、たった自分一人で続けられているせいなのだろうか… ぼくは一人に慣れていたが、このときほど、人生のはかなさと、寂しさとを感じたことはなかった。ぼくを乗せた車は、追おうとしても追い切れるはずのない夕陽に向かって、その最後の光が投げかける美しい大地の中を、まるで、手に入れることができるはずのない永遠を追いかけるかのように、寂しいホテルの一室が待っている、リランの町へと走って行った。その寂しい気持の中で、ぼくが思ったことは次のことだった、

 ホテルに着けば、このことをさっそく妹たちに電話をしよう。少しでもぼくのこの旅が、分かってもらえる相手が、ぼくには必要なのだ。それはぼくのリサ、そしてセーラなのだ…

 

 日はどんどんと暮れて行く。ぼくは、リランの町に近づくにつれ、周囲の風景が、そしてあの美しい雲までが、やがて夜の闇に包まれて行こうとしているのを、どれほどの恐れと、いとおしさの気持で、迎えたことだろうか。まるで夕暮れは、大地ばかりではなく、ぼくの精神までをも、窒息させようとしているかのようだ。恐ろしい夜の悪魔――それが、生きようとするぼくの意志をもくじこうとする。クリスチーヌも、この大地で、そのような夕暮れを、何度か迎えたはずなのだ。美しいが、残酷な匂いもする、この春のたそがれを――

 

 趣のある食堂での孤独な食事を終えた後、ぼくは、自分の部屋に戻って来た。明かりをつけると、クリーム色に花柄模様の柔らかいベッド、赤いカーぺットに、胡桃の木の簡素な机、椅子、そして、白いレースのカーテンなどが、目に飛び込んで来た。これが、今晩相手をする、ホテルのぼくの部屋なのだ。ぼくは、カーテンをあけ、窓を開くと、川向うに広がるこの町の夜景を見、夜空の星を眺め、冷たく新鮮な空気を、胸いっぱい吸い込んだ。そしてしばらく、それらの快い景色を眺めた後、ぼくはベッドのところに戻って来て、枕元の受話器を手に取った。

 うまく行けば、リサの住むアパートにつながるはずだった。

 しばらく、呼び鈴のうなる音が続いた。リサは、留守なのだろうか?

 しかしやがて、確かな手ごたえがあり、受話器を取る者がいた。

 “もし、もし。どなた?”それは、紛れもないリサの声だった。

 “ぼくだよ、久し振り”と、ぼくはホッとして言った、“今、どこから電話しているか分かるかい?”

 “兄さんなの?”と、リサが、ちょっと面食らったように言うのが聞こえた、“今、どこなの?”

 “どこか、当てて御覧よ”と、ぼくは言った。

 リサは黙ったまま答えられなかった。



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