閉じる


<<最初から読む

138 / 221ページ

試し読みできます

339

小さいが、均整の良くとれているこの美しい、歴史的な教会こそは、クリスチーヌがそこで結婚式を挙げ、そしてまた、今も眠っている墓のある、教会だった。ぼくは、中を見るのが待ち切れなくなり、教会の中へと向かった。

 ――教会の中は、息を呑むほど、美しかった。きらびやかさとは正反対のその素朴な簡素さが、ぼくの心を奪ったのだ。いくつものアーチ状の梁をめぐらせた背の高い、石造りの天井の下に、礼拝堂があり、そのずっと先の方、一番奥に、光が満ちるような大きな高窓を背景に、美事な祭壇が飾られてあった。身廊の両側に並べられてある長椅子は、歴史が浸み込んだような、古びた木製だった。礼拝堂の中は静かで、ぼくの靴音だけが、音響効果のよい、この石造りの建物の中で、響き渡った。気が付くと、誰もいないと思われた、ガラーンとした礼拝堂の最前列に、白くて、背の高い、六本の蝋燭が目を惹く祭壇に向かって、一人の、黒い頭巾をかぶった婦人が、真剣に祈りを捧げている姿が、目に入って来た。ぼくは音を立てまいと足を止めた。そして、ほぼ中段ほどの長椅子のところに来ると腰を降ろし、この飾り気のない、静かな、ヒンヤリとした礼拝堂の敬けんな雰囲気を膚で感じ、四方の窓から射し込む柔かな光が廊下の一部を照らしている様子に、一種の神秘性さえ感じられるのだった。壁の上段の方に掲げられている聖者たちの彫像が、無言のまなざしを、この礼拝堂に投げかけていた。いつか、クリスチーヌも、結婚の前や後に、この礼拝堂にやって来ては、一人、祈りを捧げていたのかも知れない――ぼくの思いは、そんな遥かな思いへと向けられた。それにしても、最前列の婦人は、なおも祈りを続けていた。誰か、亡き人への祈りなのだろうか、それとも、自分の悔悟に対するざんげなのだろうか… その後ろ姿からは、年齢を推し測ることもできなかったが、ぼくにはなぜか、彼女が、昔のクリスチーヌと重なって見えて来るのだった。ぼくは、その場で目を閉じ、しばらく黙祷をした後、その場を立って、静かに礼拝堂から外に出た。

 外に出ると、礼拝堂の内部のじめじめした雰囲気とは違って、光に満ち、生き返るのを感じた。青い空に雲が沸き上がり、それは、まるで生き物のように、姿を変えつつ、移動を続けていた。教会堂のすぐそばに生える雑草が、光を浴び、風に揺れていた。運転手も、ぼくについて、外に出て来た。そのとき、手に本を持った神父が庭を横切ろうとしたが、ぼくたちが、側廊の出口に立っているのを見ると、気安く話しかけて来た。

 “あなた方は、村の人じゃないですね。何か御用ですか?”

 “ええ、ここに眠っているクリスチーヌ・ガラハさんの墓参りの為に、やって来ました”

 と、ぼくは答えた、“あるいは、クリスチーヌ・ブロートとなっているかも知れませんが…”

 “クリスチーヌ・ブロート”と、神父は天を仰ぐように、記憶の糸をたどりながら言った、“ああ、知っています。その人の墓なら、ちょうど教会の裏の墓地にあります。なんでしたら、案内しましょうか?”

 ぼくは喜んで、その神父の親切を受けることにした。

 墓地は、歴史を刻むようなこけむした煉瓦の塀に囲まれて、その奥の、樹木や、雑草などで、うっそうとしたところに存在した。


試し読みできます

340

そのほとんどが、木の陰となり、光が射し込まず、ただでさえ陰気な墓地が、いっそう、じめじめとした印象を与えるのだった。丸みを帯び、奇妙な形をした墓標の群れが、一見して、ここを墓地だと感じさせた。そのどれもが、色あせ、何か文字が書いてあるが、それがすぐには判読できないほど、風化の中にさらされているようだった。しかし、ところどころには、木の葉の陰から、光が射し込み、そういうところの雑草や墓標は、何かしら、明るくて、救われたような気にさせられるのだった。そして、クリスチーヌの墓は、まさに、その日の当たったところに存在した。

 神父が、様々な墓の間を縫って先に行き、ぼくたちは、その後に続いた。ぼくの手には、しっかりと花束が握られていた。

 “クリスチーヌさんのことは、まだわたしが小さい頃、母から聞いたことがあります”と、神父は案内の途中、おもむろに言った、“気の毒な運命をたどられたことが、一時、村人たちの話題にもなったようです。あなた方はもちろん、御存知でしょうね”

 “ええ、知っています”と、ぼくは答えた。

 “わたしも子供ながら、クリスチーヌさんが亡くなったのを悲しんだのを覚えています”と、神父は、ぼくのことは、余り気にもかけずに続けた、“なかなか美しいお方でしたからね。わたしも、あの方が村を歩いてなさった姿を何度か見かけたことがあって、そのたびに、美しい方だと感嘆したものでした。子供心ながら、強い印象を残したのですね。それに、とってもお優しい方で、見知らぬわたしにも、気持よく心を掛けて下さいました。本当にお若いのに、気の毒な亡くなり方をされました。――もうあれから何十年経ったことやら。それで、今ではすっかりクリスチーヌさんのことは忘れかけていましたが、あなたのおかげで、また思い出しました。彼女のことは、まるで昨日のことのように、今でもはっきり思い出すことができます。――それにしても、今どき、クリスチーヌさんの墓に参りに来られるなんて、失礼ですが、あなたは、どういう関係の方なんですか?”

 “クリスチーヌさんは、ぼくの祖母に当たる人なんです”と、ぼくは、平然と答えた。

 “じゃ、あなたは、あの方のお孫さんなんですか!”と、神父は、驚いたように、ぼくの顔を見て、言った。

 “あの方に、お孫さんがいたとは知りませんでした”と、神父は一息つくと言った、

 “そうとは知らず、失礼をいたしました。――でも、あの方がお亡くなりになったとき、子供さんがいたとは聞いたことがなかったのですが…”

 それでぼくは手短かに、クリスチーヌが結婚する前に既に子供がいたこと、そうなるに至ったいきさつについて、この年の頃、そろそろ老境にさしかかっている神父に、話して聞かせた。

 神父は、ぼくの話しに対して、半信半疑の面持だったが、最終的には信じてくれたようだった。そして、しきりに、“そういう話しは初めてだ”と言って、感心しているようだった。

 “――でも、ぼくも知りたいんです”と、ぼくは、全部を話し終えてから言った、“生前のクリスチーヌのことを。


試し読みできます

341

今まで会った人は全部、直接会った人じゃなかったんですけど、今初めて、生前のクリスチーヌさんを見た、というあなたにお会いしたんです。それだけでも、ぼくは感激です。ですから、そのときの様子を、もっと詳しく、ぼくにお聞かせ願いたいんです。生前のクリスチーヌさんって、どんな人だったかを”

 “それを話す前に、もう着きました”と言って、神父は、雑草におおわれるようにして立っている二つの、色あせた墓標を指さした。それは、さっきまでのうっそうとした場所とは違って、光が当たり、一種明るい雰囲気に満たされて、存在していた。ぼくは、その墓標に歩み寄り、手に持っていた花束をそっと添えた。歩み寄ると、墓標には、はっきりと次の文字が読みとれた。

 「クリスチーヌ・ブロート ここに眠る。1907~1932」

 そして、その横の墓標には、父、パトリック・ガラハの名を読み取ることができた。

 ぼくは、しっかりと、並んで立っている石の墓標を、そしてその下に茂っている数種類の雑草や、置いたばかりの花束の花が、風に揺れている様子を、眺め入った。光を浴びて、そこにある墓標は、ただ静かなだけで、いかなるクリスチーヌの思いも、ぼくに呼び覚ましはしなかった。

 “それにしても気の毒なことです。あの美しい方が、早くして亡くなられたなんて… 普通なら、今も十分生きておられる年齢だったのに”ポツリと、神父はつぶやくように言った。

 “それで、どんな感じの人だったのです?”とぼくは、それとなく尋ねてみた。

 “そう、とっても気だてのいい、優しいひとでした”と、神父は思い出すように言った、“今でも、あの美しい笑顔は、はっきりと思い出すことさえ、できます。ちょうど魚釣りをしていたわたしに優しく声を掛けて下さり、どんな魚が釣れるだの、餌は何だの、どういう風にして釣るだの、興味深そうに話し掛けました。それがきっかけとなって、わたしとは、ちょっとした知り合いになったのです。それはまだ、クリスチーヌさんが結婚する以前のことでした。時々、川沿いの道を通ることがあり、手にかかえていたバスケットの中の、取りたてのりんごを、わたしに下さったこともありました。彼女は、溌剌として、明るく、村の誰からも愛されるような、そんな感じの女性でした。ここは、今以上に小さな村でしたから、たいていの村人とは顔見知りであり、クリスチーヌさんも例外ではなく、よく、村人の家の前で立ち止まって、農夫や、農夫のおかみさんらと話をしている光景を見かけました。そんなとき、彼女は、手まね、身振りを交えて、とっても生き生きと語りかけていました。彼女は、人を楽しませる話術にたけていました。ですから、彼女の話しを聞く村人たちは、必ずと言っていいほど、満足の微笑みを浮かべていたものです。もちろん彼女には、いかなる悪気も、よこしまな心もなく、素直そのものでした。わたしがよく見かけた彼女の姿は、つばの広い帽子に、両肩をふくらませた短い袖と、腰をキュッと締めて、ふっくらしたスカートをしている、ちょうどあの、花売り娘がよく着ていたような、そんなドレスを着た彼女の姿でした。しかしそれがまた、一番彼女によく似合っていました。わたしは、明るい光の中を、そんな姿をした彼女が歩いて行く後ろ姿を、何度も、ほほえましい気持で、目にしたものでした…”


試し読みできます

342

 今では、そのクリスチーヌが、目の前の丸みを帯びた不揃いな墓標の下で、父親と並んで眠っていた。誰も訪れる人がないと見えて、墓石は風化にさらされて傷み、周りは雑草が生えるに任されていた。しかし、明るい日ざしの下で、墓石を取り囲むようにたくましく茂っている雑草を見ると、クリスチーヌの墓標は、生きていることの楽しさを、生命の持つ大切な意味を、ぼくに語りかけているように思われた…

 

 ふと、墓標から顔を上げると、樹木のシルエットとなった墓地の奥の方に、ぼくたちが今しがたそこからやって来たあの美しい、ゴシックの教会が、光を浴び、小麦色に輝いているその様が、ぼくの目に飛び込んで来た。それは驚き、というより、まさに“生命”との出会いだった。重苦しい墓の呪縛から解放されて、生きることの歓びを告げる、その“しるし”との出会いだった。クリスチーヌは亡くなったが、ぼくは、生きていてよかった、と思った。少なくとも、クリスチーヌの悲しい運命や、今ここに生きていることの感動を、ぼくは味わうことができるのだ。まるであの青い空に浮かんでいる白い雲のように、ぼくは今、純粋な感動にひたることができるのだ。――ぼくは、亡くなったクリスチーヌのその分まで、余計に生きなければならない、という気がした。なぜなら、もう彼女のことを思い、語ってあげることができるのは、このぼくしかいない、という気がしたからだった。しかし実際は、ぼくの登場によって、埋もれていた神父の心をも呼び覚ましたのだ…

 “…死んでしまえばそれまでです”と、神父は、ポツリと言った、“このように墓の中に入ってしまわれれば、もうそれ以降の地上の人生はないのです。そう思えば、人はもっと長く生きるべきです。少なくとも、人並みに人生が全うできるほどの長さにね… クリスチーヌさんは、余りにも早くお亡くなりになってしまわれた。それは、神さえ望まれなかった死であるはずです。生きていれば、どんな運命を全うできたかも分からないのに、残念です。――実に残念なことです…”

 そう言って悲しむ神父の言葉の中には、単に宗教的にではなく、個人的にクリスチーヌの死をいとおしむ気持が込められているように、ぼくには思われた。

 “しかし、神の望みにならない死というものがあるのですか?”と、ぼくはそれとなく、尋ねてみた。

 “すべては、運命の成すがままです”と、神父は答えた、“しかし、中には、わたしどもの理解を越えた死というものがあるのです。とりわけ、クリスチーヌさんのような死は、神が望むはずはありません… さあ、もうよろしいですか?”

 ぼくも、ここを去ることに同意した。今度訪れるのはいつになることやら。去って行くとき、ぼくはもう一度振り向いたが、明るい日射しの中で、雑草におおわれ、他の墓標に混じって、ひっそりと、太陽に相対して立っているのが、印象的だった。その上に置いたぼくの花も、春風に揺れながら、次第に遠ざかって行った…


試し読みできます

343

 

 ぼくはその後、ミリエル家の墓をも神父に案内してもらった。神父は、ミリエル家についても子供の頃の記憶や、知識があり、喜んで案内してくれた。場所は、奥の方にあったクリスチーヌの墓所から離れて、むしろ教会に近い場所に、他の墓標に混じってあった。こちらの方は、よく茂った樹木の茂みの陰にあり、じめじめした印象を与えた。父、エドガー・ミリエル氏の他、モーリス及び、ぼくの大伯母に当たるアヌーザの名も見られた。これらの墓を、もしぼくの母リディアが見れば、どのように思うだろうか? そうでなくても、セーラやリサに見せてやりたい気持がした。

 再び教会の前に来て、青い空に突き刺すような塔の先を目にし、ぼくは、死者たちの世界から、生き返って今、生命を享受しているのを感じた。生きていて、このように美しい尖塔を目にすることが出来るのは、何んと素晴らしいことだろう。空の青さも、教会の小麦色の壁も、緑したたる庭の樹木も、なんと生命に満ち、生き生きとしていることだろう。教会は、死者を葬るばかりのところではなく、人生の門出である結婚や、赤子の誕生を司るところでもあるのだ。そして、喜びに満ちたレオノールの姉、アヌーザも、クリスチーヌも、この教会で結婚式を挙げたのだった。その日もきっと、この日のように空は晴れて、明るかったことだろう。この二組の結婚は、内容において違ったものだったが、花嫁のそれぞれの胸の内にあった期待と不安において、それぞれ共通したものがあったはずなのだ。その両方の花嫁も、今はこの教会の墓地に眠っていた。生と死――ぼくは、そうした人間のドラマから解放されて、今、青い空の下で明るく輝いている教会の下にいた。

 

 “どうもいろいろと、ありがとうございました”と、ぼくは神父に礼を言った。

 “いいえ。また来ることがありましたらいつでも、わたしのところへ訪ねに来て下さい”と、神父は笑顔で答えた。

 “ええ、そのときには是非”と言うと、ぼくは神父と握手をして別れた。

 神父は教会の扉のところに立ち、黒い僧衣と、片手に本を持って、もう一方の手を振りながら、いつまでも、ぼくが去って行くのを見送ってくれた。恐らくぼくが彼に与えたことは、クリスチーヌの孫に出会ったという印象を、強く彼に残したということなのだろう…

 

 こうして、この日の旅の行程はすべて終わった。ぼくは、この収穫多い日に出会ったすべての場所や、すべての人のことを、様々に胸に巡らせながら、幸せな気持で帰途についた。ロアズマの村を去り、中都市リランヘと向かう車の中で、ぼくは、段々と日が傾いて行く夕暮れを迎えた。町が近づくにつれ、あれほど晴れていた空にも雲が出て、広々とした畑や、森林に投げかける夕陽の光が美しかった。一日が暮れる頃は、どんな春の日でも、人の心を寂しくさせるものだ。ぼくも、夢中だったこの日を振り返り、少しばかり、心の寂しさのようなものを感じた。



読者登録

sylaireさんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について