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そして、ぼくの母が、早朝の散歩の途中、陸に引き上げられたクリスチーヌの遺体と対面したのも、この場所で、だった。それにしても今は、なんと明るい日射しが、この川面に注いでいることだろう。静かに揺れ動く水面が、時々、まぶしいほどの光を、キラリとぼくの目に反射する。ぼくはそっと花束を、クリスチーヌが流れ着いたと思われる場所に置くと、合掌し、目を閉じた…

 目を閉じて、どれほどの時が流れただろうか、限りない静けさと、沈黙。気が付くと、後ろで、運転手が帽子を手に、頭を垂れて黙祷していた。ぼくは、彼をそっとしたまま、その場を立ち去ろうとした。彼は、足音で気づき、目をあけた。

 “ここなんだね、例の場所は”と、運転手は、ぼくを引き止めるように言った、“ここは何度も走ったことがあるが、そんな言われのある場所だとは知らなかった”

 “恐らく、今の誰れも、そんなことは知りませんよ”と、ぼくは答えた、“そんな古い、昔話しをむし返しに来るぼくの方がおかしいんです…”

 “そんなことはないよ”と、運転手は言った、“大いに興味ある話しだ。人の話しとは言え、なかなかのものだ…”

 “さあ、もう戻りましょ”と、ぼくは言った。

 運転手は、まだ何かあるのではないかとその場に居たそうだったが、やがて仕方なくぼくの後について来た。

 車に乗ると、運転手は、すぐぼくに話しかけて来た。

 “確か、その御婦人が亡くなられたのは晩秋と言うことだったね。だとするなら、今と違って、水は凍るように冷たかったはずだ。その頃にゃ、この辺は雪さえ降るほどなんだからね。――気の毒に、よほど思い詰めることがあったんだろう…”

 “思い詰めることなんかなければ、人は、自殺したりはしませんよ”と、ぼくは答えた。

 

 車は再び走り始めた。広々とし、ところどころに森の見える平地の眺めはすがすがしかった。その中を、ゆるやかなカーブを描きながら、空の青さを映したような、鏡のようになめらかな、川幅のそう広くない川が、ゆったりと流れていた。車の走る、よく舗装された道は、その川と離れたり、近づいたりしながら、村へと向かっていた。

 やがて再び、村の入り組んだ、狭い目抜き通りを通り、村のはずれの教会へと車は向かった。全体がくすんだような村を通り抜けると、やがて、うっそうと繁った森のような樹木のあいだに、目ざすべき教会が姿を現した。全体が土色の、どっしりした石造りで出来た、二つの尖塔のあるこの教会は、その白さや、建物の様式から、歴史を感じさせた。とりわけ、先端に十字架のついている、空に突き立てるような二つの尖塔が、ぼくの目を奪った。車から降り立つと、ぼくは、そのすぐ真下に立って、その塔の雄大さを眺めた。鋭い角度で切り立ったような屋根や、その下の、四方に目を向けている丸みを帯びた高窓など、見れば見るほど、心を奪い取るような何かがあった。しかし、この教会は、規模としては、そう大きなものではなかった。明るい光に輝いた、尖塔や、教会堂の壁が、ぼくの目にはまぶしかった。


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小さいが、均整の良くとれているこの美しい、歴史的な教会こそは、クリスチーヌがそこで結婚式を挙げ、そしてまた、今も眠っている墓のある、教会だった。ぼくは、中を見るのが待ち切れなくなり、教会の中へと向かった。

 ――教会の中は、息を呑むほど、美しかった。きらびやかさとは正反対のその素朴な簡素さが、ぼくの心を奪ったのだ。いくつものアーチ状の梁をめぐらせた背の高い、石造りの天井の下に、礼拝堂があり、そのずっと先の方、一番奥に、光が満ちるような大きな高窓を背景に、美事な祭壇が飾られてあった。身廊の両側に並べられてある長椅子は、歴史が浸み込んだような、古びた木製だった。礼拝堂の中は静かで、ぼくの靴音だけが、音響効果のよい、この石造りの建物の中で、響き渡った。気が付くと、誰もいないと思われた、ガラーンとした礼拝堂の最前列に、白くて、背の高い、六本の蝋燭が目を惹く祭壇に向かって、一人の、黒い頭巾をかぶった婦人が、真剣に祈りを捧げている姿が、目に入って来た。ぼくは音を立てまいと足を止めた。そして、ほぼ中段ほどの長椅子のところに来ると腰を降ろし、この飾り気のない、静かな、ヒンヤリとした礼拝堂の敬けんな雰囲気を膚で感じ、四方の窓から射し込む柔かな光が廊下の一部を照らしている様子に、一種の神秘性さえ感じられるのだった。壁の上段の方に掲げられている聖者たちの彫像が、無言のまなざしを、この礼拝堂に投げかけていた。いつか、クリスチーヌも、結婚の前や後に、この礼拝堂にやって来ては、一人、祈りを捧げていたのかも知れない――ぼくの思いは、そんな遥かな思いへと向けられた。それにしても、最前列の婦人は、なおも祈りを続けていた。誰か、亡き人への祈りなのだろうか、それとも、自分の悔悟に対するざんげなのだろうか… その後ろ姿からは、年齢を推し測ることもできなかったが、ぼくにはなぜか、彼女が、昔のクリスチーヌと重なって見えて来るのだった。ぼくは、その場で目を閉じ、しばらく黙祷をした後、その場を立って、静かに礼拝堂から外に出た。

 外に出ると、礼拝堂の内部のじめじめした雰囲気とは違って、光に満ち、生き返るのを感じた。青い空に雲が沸き上がり、それは、まるで生き物のように、姿を変えつつ、移動を続けていた。教会堂のすぐそばに生える雑草が、光を浴び、風に揺れていた。運転手も、ぼくについて、外に出て来た。そのとき、手に本を持った神父が庭を横切ろうとしたが、ぼくたちが、側廊の出口に立っているのを見ると、気安く話しかけて来た。

 “あなた方は、村の人じゃないですね。何か御用ですか?”

 “ええ、ここに眠っているクリスチーヌ・ガラハさんの墓参りの為に、やって来ました”

 と、ぼくは答えた、“あるいは、クリスチーヌ・ブロートとなっているかも知れませんが…”

 “クリスチーヌ・ブロート”と、神父は天を仰ぐように、記憶の糸をたどりながら言った、“ああ、知っています。その人の墓なら、ちょうど教会の裏の墓地にあります。なんでしたら、案内しましょうか?”

 ぼくは喜んで、その神父の親切を受けることにした。

 墓地は、歴史を刻むようなこけむした煉瓦の塀に囲まれて、その奥の、樹木や、雑草などで、うっそうとしたところに存在した。


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そのほとんどが、木の陰となり、光が射し込まず、ただでさえ陰気な墓地が、いっそう、じめじめとした印象を与えるのだった。丸みを帯び、奇妙な形をした墓標の群れが、一見して、ここを墓地だと感じさせた。そのどれもが、色あせ、何か文字が書いてあるが、それがすぐには判読できないほど、風化の中にさらされているようだった。しかし、ところどころには、木の葉の陰から、光が射し込み、そういうところの雑草や墓標は、何かしら、明るくて、救われたような気にさせられるのだった。そして、クリスチーヌの墓は、まさに、その日の当たったところに存在した。

 神父が、様々な墓の間を縫って先に行き、ぼくたちは、その後に続いた。ぼくの手には、しっかりと花束が握られていた。

 “クリスチーヌさんのことは、まだわたしが小さい頃、母から聞いたことがあります”と、神父は案内の途中、おもむろに言った、“気の毒な運命をたどられたことが、一時、村人たちの話題にもなったようです。あなた方はもちろん、御存知でしょうね”

 “ええ、知っています”と、ぼくは答えた。

 “わたしも子供ながら、クリスチーヌさんが亡くなったのを悲しんだのを覚えています”と、神父は、ぼくのことは、余り気にもかけずに続けた、“なかなか美しいお方でしたからね。わたしも、あの方が村を歩いてなさった姿を何度か見かけたことがあって、そのたびに、美しい方だと感嘆したものでした。子供心ながら、強い印象を残したのですね。それに、とってもお優しい方で、見知らぬわたしにも、気持よく心を掛けて下さいました。本当にお若いのに、気の毒な亡くなり方をされました。――もうあれから何十年経ったことやら。それで、今ではすっかりクリスチーヌさんのことは忘れかけていましたが、あなたのおかげで、また思い出しました。彼女のことは、まるで昨日のことのように、今でもはっきり思い出すことができます。――それにしても、今どき、クリスチーヌさんの墓に参りに来られるなんて、失礼ですが、あなたは、どういう関係の方なんですか?”

 “クリスチーヌさんは、ぼくの祖母に当たる人なんです”と、ぼくは、平然と答えた。

 “じゃ、あなたは、あの方のお孫さんなんですか!”と、神父は、驚いたように、ぼくの顔を見て、言った。

 “あの方に、お孫さんがいたとは知りませんでした”と、神父は一息つくと言った、

 “そうとは知らず、失礼をいたしました。――でも、あの方がお亡くなりになったとき、子供さんがいたとは聞いたことがなかったのですが…”

 それでぼくは手短かに、クリスチーヌが結婚する前に既に子供がいたこと、そうなるに至ったいきさつについて、この年の頃、そろそろ老境にさしかかっている神父に、話して聞かせた。

 神父は、ぼくの話しに対して、半信半疑の面持だったが、最終的には信じてくれたようだった。そして、しきりに、“そういう話しは初めてだ”と言って、感心しているようだった。

 “――でも、ぼくも知りたいんです”と、ぼくは、全部を話し終えてから言った、“生前のクリスチーヌのことを。


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今まで会った人は全部、直接会った人じゃなかったんですけど、今初めて、生前のクリスチーヌさんを見た、というあなたにお会いしたんです。それだけでも、ぼくは感激です。ですから、そのときの様子を、もっと詳しく、ぼくにお聞かせ願いたいんです。生前のクリスチーヌさんって、どんな人だったかを”

 “それを話す前に、もう着きました”と言って、神父は、雑草におおわれるようにして立っている二つの、色あせた墓標を指さした。それは、さっきまでのうっそうとした場所とは違って、光が当たり、一種明るい雰囲気に満たされて、存在していた。ぼくは、その墓標に歩み寄り、手に持っていた花束をそっと添えた。歩み寄ると、墓標には、はっきりと次の文字が読みとれた。

 「クリスチーヌ・ブロート ここに眠る。1907~1932」

 そして、その横の墓標には、父、パトリック・ガラハの名を読み取ることができた。

 ぼくは、しっかりと、並んで立っている石の墓標を、そしてその下に茂っている数種類の雑草や、置いたばかりの花束の花が、風に揺れている様子を、眺め入った。光を浴びて、そこにある墓標は、ただ静かなだけで、いかなるクリスチーヌの思いも、ぼくに呼び覚ましはしなかった。

 “それにしても気の毒なことです。あの美しい方が、早くして亡くなられたなんて… 普通なら、今も十分生きておられる年齢だったのに”ポツリと、神父はつぶやくように言った。

 “それで、どんな感じの人だったのです?”とぼくは、それとなく尋ねてみた。

 “そう、とっても気だてのいい、優しいひとでした”と、神父は思い出すように言った、“今でも、あの美しい笑顔は、はっきりと思い出すことさえ、できます。ちょうど魚釣りをしていたわたしに優しく声を掛けて下さり、どんな魚が釣れるだの、餌は何だの、どういう風にして釣るだの、興味深そうに話し掛けました。それがきっかけとなって、わたしとは、ちょっとした知り合いになったのです。それはまだ、クリスチーヌさんが結婚する以前のことでした。時々、川沿いの道を通ることがあり、手にかかえていたバスケットの中の、取りたてのりんごを、わたしに下さったこともありました。彼女は、溌剌として、明るく、村の誰からも愛されるような、そんな感じの女性でした。ここは、今以上に小さな村でしたから、たいていの村人とは顔見知りであり、クリスチーヌさんも例外ではなく、よく、村人の家の前で立ち止まって、農夫や、農夫のおかみさんらと話をしている光景を見かけました。そんなとき、彼女は、手まね、身振りを交えて、とっても生き生きと語りかけていました。彼女は、人を楽しませる話術にたけていました。ですから、彼女の話しを聞く村人たちは、必ずと言っていいほど、満足の微笑みを浮かべていたものです。もちろん彼女には、いかなる悪気も、よこしまな心もなく、素直そのものでした。わたしがよく見かけた彼女の姿は、つばの広い帽子に、両肩をふくらませた短い袖と、腰をキュッと締めて、ふっくらしたスカートをしている、ちょうどあの、花売り娘がよく着ていたような、そんなドレスを着た彼女の姿でした。しかしそれがまた、一番彼女によく似合っていました。わたしは、明るい光の中を、そんな姿をした彼女が歩いて行く後ろ姿を、何度も、ほほえましい気持で、目にしたものでした…”


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 今では、そのクリスチーヌが、目の前の丸みを帯びた不揃いな墓標の下で、父親と並んで眠っていた。誰も訪れる人がないと見えて、墓石は風化にさらされて傷み、周りは雑草が生えるに任されていた。しかし、明るい日ざしの下で、墓石を取り囲むようにたくましく茂っている雑草を見ると、クリスチーヌの墓標は、生きていることの楽しさを、生命の持つ大切な意味を、ぼくに語りかけているように思われた…

 

 ふと、墓標から顔を上げると、樹木のシルエットとなった墓地の奥の方に、ぼくたちが今しがたそこからやって来たあの美しい、ゴシックの教会が、光を浴び、小麦色に輝いているその様が、ぼくの目に飛び込んで来た。それは驚き、というより、まさに“生命”との出会いだった。重苦しい墓の呪縛から解放されて、生きることの歓びを告げる、その“しるし”との出会いだった。クリスチーヌは亡くなったが、ぼくは、生きていてよかった、と思った。少なくとも、クリスチーヌの悲しい運命や、今ここに生きていることの感動を、ぼくは味わうことができるのだ。まるであの青い空に浮かんでいる白い雲のように、ぼくは今、純粋な感動にひたることができるのだ。――ぼくは、亡くなったクリスチーヌのその分まで、余計に生きなければならない、という気がした。なぜなら、もう彼女のことを思い、語ってあげることができるのは、このぼくしかいない、という気がしたからだった。しかし実際は、ぼくの登場によって、埋もれていた神父の心をも呼び覚ましたのだ…

 “…死んでしまえばそれまでです”と、神父は、ポツリと言った、“このように墓の中に入ってしまわれれば、もうそれ以降の地上の人生はないのです。そう思えば、人はもっと長く生きるべきです。少なくとも、人並みに人生が全うできるほどの長さにね… クリスチーヌさんは、余りにも早くお亡くなりになってしまわれた。それは、神さえ望まれなかった死であるはずです。生きていれば、どんな運命を全うできたかも分からないのに、残念です。――実に残念なことです…”

 そう言って悲しむ神父の言葉の中には、単に宗教的にではなく、個人的にクリスチーヌの死をいとおしむ気持が込められているように、ぼくには思われた。

 “しかし、神の望みにならない死というものがあるのですか?”と、ぼくはそれとなく、尋ねてみた。

 “すべては、運命の成すがままです”と、神父は答えた、“しかし、中には、わたしどもの理解を越えた死というものがあるのです。とりわけ、クリスチーヌさんのような死は、神が望むはずはありません… さあ、もうよろしいですか?”

 ぼくも、ここを去ることに同意した。今度訪れるのはいつになることやら。去って行くとき、ぼくはもう一度振り向いたが、明るい日射しの中で、雑草におおわれ、他の墓標に混じって、ひっそりと、太陽に相対して立っているのが、印象的だった。その上に置いたぼくの花も、春風に揺れながら、次第に遠ざかって行った…



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