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実際、ぼくが車に乗って去るときに感じたのはそのことだった。明るい日ざしに輝いている樹木や、ベージュの壁をした瀟洒な館や、その広々とした庭を見渡して、ぼくが感じたことは、それらすべてがこの写真の女性に結びついている、ということだった。いやむしろ、彼女の肉体は滅んでも、彼女の魂だけは、それら無言の物体の隅々にまで、しみ渡り、今や、彼女自身になり切ってしまい、彼女の息づかいさえ、そこから感じられてくるほどなのだ。ぼくが見れば見るほど感じられて来たことは、それら館や樹木や庭が、もはやクリスチーヌとは別のものではなく、クリスチーヌそれ自身だ、ということだった。それらは何も口にはしないけれど、ぼくには何かを、語りかけているように思われた。それは、彼女の悲しい境遇かも知れず、彼女の青春時代に愛したこと、歓んだことかも知れなかったが、春風の成す木の葉のざわめきのせいか、ぼくにはよく聞き取ることができなかった…

 “…それで、どうするんだね? 墓地へ行くのかい?”と、運転手は尋ねた。

 “ええ、――でもその前に、館の裏の森を通って下さい。ぼくの祖母がよく散歩をした森というのを、この目でよく確かめてみたいものですから…”

 “ああ、いいですよ”と、運転手は快く引き受けてくれた。

 

 森は、美しい森ではあったが、ごく普通の、ブナ林が、こんもりと、地面をおおい尽くすような森であった。ぼくは、森のそばに車を止めてもらい、ひとりで、森の中に分け入った。道端の日光の輝きとは異なって、ブナの森の中は、幻想的な光に満ちていて、上空の、緑したたる葉のすき間から見える、透きとおるような空の青さと対照的に、地面の奥の方は、不気味な暗さに満たされていた。しかし、全体として柔かな光に満たされていて、空気もヒンヤリとして、心地よかった。しばらく歩くと、もうさっそく、枯葉の間に、茸が顔を出しているのが見つかった。ぼくは、その場にしゃがんで、しばらく、その土地の茸が生えている様子を観察した後、そっと引き抜いた。そのようにして、しばらく森の中をうろついた後、ぼくは再び車のところにやって来た。

 運転手が退屈そうに座席にもたれて、ぼくを待っていた。ぼくは、両手にたくさんの茸を抱えていた。運転手が、ぼくの茸を珍しそうに見ると、ぼくはこう言った、

 “ねえ、これ、全部あげますよ。家に持って帰れば、奥さん、きっと喜ぶに違いないですよ”

 運転手は驚いたような表情をして、ドアを開けた。

 “いいのかね、全部もらっても”

 “ええ、どうせぼくは、ホテルで食事をするんですから…”

 運転手は礼を言って、ぼくから茸を受け取った。

 ぼくは車に乗ると、村の花屋さんにまず寄ってもらうよう、運転手に言った。


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 車は再び、澄んだ川沿いに走り始めた。森の奥のクリスチーヌの館がだんだんと遠ざかり、しまいに見えなくなってしまった。周りは、静かな草地と、ところどころに茂る林だけの、見通しのいい平地が広がっていた。やがて、村らしい建物の群れが見えて来、車は、それに吸い込まれるように、中へ入って行った。

 村の建物は、まるで何世紀も生きて来たように、くすんでいた。狭く、曲がりくねった街道沿いに、様々な形をした建物が思い思いの軒を連ねている。壁の色も色あせ、汚れが目立っている。しかし、その古さや、つたの葉をからませた壁や、街道沿いに見せるいくつもの窓の様子などが、なんとも言えぬ趣をこの村に与えているのだった。酒場があり、ホテルがあり、雑貨屋があり、そして、花屋があった。花屋の前で車を止めてもらい、ぼくは花屋に入って行った。そして、美しい花束を二つ買って、再び車に乗った。

 

 ぼくが最初に告げた場所は、教会の墓地ではなく、クリスチーヌの死体が発見されたとされる川沿いの場所だった。ぼくは、是非ともその現場に行きたかった。場所については、幸い、ダーシ夫人がアンナから聞いて知っていて、ぼくに教えてくれたのだった。少し分かりにくい場所だったので、一緒に行こうとまで言ってくれたが、ぼくは丁寧に断った。ダーシ夫人は、その代わりに、ぼくにちょっとした地図を書いてくれた。その地図だけが、場所を知らせる唯一の手がかりだった。ダーシ夫人の語ってくれたところでは、村からそう遠くないところの河原で、一箇所、川の奥へ島のように突き出たところがある、ということだった。流されて来たクリスチーヌの体は、その半島のように延び出たところに引っかかり、早朝、野良仕事に出て来た村人に見つかったのだ…

 ぼくを乗せた車は再び、川沿いの道を勢いよく風を切って走った。やがて、それらしい目印の小屋と、木立とが見えて来た。地図では、その付近で降りれば、川へ出っ張った場所はすぐ見つかる、と書いてあった。ぼくは運転手に、車を止めるように言い、花束をひとつ持って車から降りた。川に向かって歩いて行くぼくの後を追うように、運転手も駈けて来た。

 “死者の霊を弔うのに、わたしも参加させてくれないか”と、運転手が言った。

 “いいですよ”と、ぼくは返事をした。

 道路から川まで、草深いところを歩いて行かなければならなかったが、それらしい場所は、間もなく分かった。これは、ダーシ夫人も気づいていないことかも知れないが、一本の大きな柳の木が川べりに茂っている、すぐ近くの場所が、目ざすところだった。美しい水面に、柳の木はその姿を映し、そこからそう離れていないところに、確かに、川に出っ張った場所があった。しかし、そこももちろん、深い草におおわれていた。ぼくは、クリスチーヌが流れ着いたと思われる場所までやって来ると、足を止め、川の中に目をやった。そこには、かすかなさざ波を受けて、自分自身が映っていた。水は、透明で、川床が透けて見えていた。小さなメダカが流れを避けて、泳いでいる様が、水面を通して、見えていた。何十年も昔には、恐らくこの場所に、うつ伏せになったクリスチーヌの死体が流れ着いたのだ。


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そして、ぼくの母が、早朝の散歩の途中、陸に引き上げられたクリスチーヌの遺体と対面したのも、この場所で、だった。それにしても今は、なんと明るい日射しが、この川面に注いでいることだろう。静かに揺れ動く水面が、時々、まぶしいほどの光を、キラリとぼくの目に反射する。ぼくはそっと花束を、クリスチーヌが流れ着いたと思われる場所に置くと、合掌し、目を閉じた…

 目を閉じて、どれほどの時が流れただろうか、限りない静けさと、沈黙。気が付くと、後ろで、運転手が帽子を手に、頭を垂れて黙祷していた。ぼくは、彼をそっとしたまま、その場を立ち去ろうとした。彼は、足音で気づき、目をあけた。

 “ここなんだね、例の場所は”と、運転手は、ぼくを引き止めるように言った、“ここは何度も走ったことがあるが、そんな言われのある場所だとは知らなかった”

 “恐らく、今の誰れも、そんなことは知りませんよ”と、ぼくは答えた、“そんな古い、昔話しをむし返しに来るぼくの方がおかしいんです…”

 “そんなことはないよ”と、運転手は言った、“大いに興味ある話しだ。人の話しとは言え、なかなかのものだ…”

 “さあ、もう戻りましょ”と、ぼくは言った。

 運転手は、まだ何かあるのではないかとその場に居たそうだったが、やがて仕方なくぼくの後について来た。

 車に乗ると、運転手は、すぐぼくに話しかけて来た。

 “確か、その御婦人が亡くなられたのは晩秋と言うことだったね。だとするなら、今と違って、水は凍るように冷たかったはずだ。その頃にゃ、この辺は雪さえ降るほどなんだからね。――気の毒に、よほど思い詰めることがあったんだろう…”

 “思い詰めることなんかなければ、人は、自殺したりはしませんよ”と、ぼくは答えた。

 

 車は再び走り始めた。広々とし、ところどころに森の見える平地の眺めはすがすがしかった。その中を、ゆるやかなカーブを描きながら、空の青さを映したような、鏡のようになめらかな、川幅のそう広くない川が、ゆったりと流れていた。車の走る、よく舗装された道は、その川と離れたり、近づいたりしながら、村へと向かっていた。

 やがて再び、村の入り組んだ、狭い目抜き通りを通り、村のはずれの教会へと車は向かった。全体がくすんだような村を通り抜けると、やがて、うっそうと繁った森のような樹木のあいだに、目ざすべき教会が姿を現した。全体が土色の、どっしりした石造りで出来た、二つの尖塔のあるこの教会は、その白さや、建物の様式から、歴史を感じさせた。とりわけ、先端に十字架のついている、空に突き立てるような二つの尖塔が、ぼくの目を奪った。車から降り立つと、ぼくは、そのすぐ真下に立って、その塔の雄大さを眺めた。鋭い角度で切り立ったような屋根や、その下の、四方に目を向けている丸みを帯びた高窓など、見れば見るほど、心を奪い取るような何かがあった。しかし、この教会は、規模としては、そう大きなものではなかった。明るい光に輝いた、尖塔や、教会堂の壁が、ぼくの目にはまぶしかった。


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小さいが、均整の良くとれているこの美しい、歴史的な教会こそは、クリスチーヌがそこで結婚式を挙げ、そしてまた、今も眠っている墓のある、教会だった。ぼくは、中を見るのが待ち切れなくなり、教会の中へと向かった。

 ――教会の中は、息を呑むほど、美しかった。きらびやかさとは正反対のその素朴な簡素さが、ぼくの心を奪ったのだ。いくつものアーチ状の梁をめぐらせた背の高い、石造りの天井の下に、礼拝堂があり、そのずっと先の方、一番奥に、光が満ちるような大きな高窓を背景に、美事な祭壇が飾られてあった。身廊の両側に並べられてある長椅子は、歴史が浸み込んだような、古びた木製だった。礼拝堂の中は静かで、ぼくの靴音だけが、音響効果のよい、この石造りの建物の中で、響き渡った。気が付くと、誰もいないと思われた、ガラーンとした礼拝堂の最前列に、白くて、背の高い、六本の蝋燭が目を惹く祭壇に向かって、一人の、黒い頭巾をかぶった婦人が、真剣に祈りを捧げている姿が、目に入って来た。ぼくは音を立てまいと足を止めた。そして、ほぼ中段ほどの長椅子のところに来ると腰を降ろし、この飾り気のない、静かな、ヒンヤリとした礼拝堂の敬けんな雰囲気を膚で感じ、四方の窓から射し込む柔かな光が廊下の一部を照らしている様子に、一種の神秘性さえ感じられるのだった。壁の上段の方に掲げられている聖者たちの彫像が、無言のまなざしを、この礼拝堂に投げかけていた。いつか、クリスチーヌも、結婚の前や後に、この礼拝堂にやって来ては、一人、祈りを捧げていたのかも知れない――ぼくの思いは、そんな遥かな思いへと向けられた。それにしても、最前列の婦人は、なおも祈りを続けていた。誰か、亡き人への祈りなのだろうか、それとも、自分の悔悟に対するざんげなのだろうか… その後ろ姿からは、年齢を推し測ることもできなかったが、ぼくにはなぜか、彼女が、昔のクリスチーヌと重なって見えて来るのだった。ぼくは、その場で目を閉じ、しばらく黙祷をした後、その場を立って、静かに礼拝堂から外に出た。

 外に出ると、礼拝堂の内部のじめじめした雰囲気とは違って、光に満ち、生き返るのを感じた。青い空に雲が沸き上がり、それは、まるで生き物のように、姿を変えつつ、移動を続けていた。教会堂のすぐそばに生える雑草が、光を浴び、風に揺れていた。運転手も、ぼくについて、外に出て来た。そのとき、手に本を持った神父が庭を横切ろうとしたが、ぼくたちが、側廊の出口に立っているのを見ると、気安く話しかけて来た。

 “あなた方は、村の人じゃないですね。何か御用ですか?”

 “ええ、ここに眠っているクリスチーヌ・ガラハさんの墓参りの為に、やって来ました”

 と、ぼくは答えた、“あるいは、クリスチーヌ・ブロートとなっているかも知れませんが…”

 “クリスチーヌ・ブロート”と、神父は天を仰ぐように、記憶の糸をたどりながら言った、“ああ、知っています。その人の墓なら、ちょうど教会の裏の墓地にあります。なんでしたら、案内しましょうか?”

 ぼくは喜んで、その神父の親切を受けることにした。

 墓地は、歴史を刻むようなこけむした煉瓦の塀に囲まれて、その奥の、樹木や、雑草などで、うっそうとしたところに存在した。


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そのほとんどが、木の陰となり、光が射し込まず、ただでさえ陰気な墓地が、いっそう、じめじめとした印象を与えるのだった。丸みを帯び、奇妙な形をした墓標の群れが、一見して、ここを墓地だと感じさせた。そのどれもが、色あせ、何か文字が書いてあるが、それがすぐには判読できないほど、風化の中にさらされているようだった。しかし、ところどころには、木の葉の陰から、光が射し込み、そういうところの雑草や墓標は、何かしら、明るくて、救われたような気にさせられるのだった。そして、クリスチーヌの墓は、まさに、その日の当たったところに存在した。

 神父が、様々な墓の間を縫って先に行き、ぼくたちは、その後に続いた。ぼくの手には、しっかりと花束が握られていた。

 “クリスチーヌさんのことは、まだわたしが小さい頃、母から聞いたことがあります”と、神父は案内の途中、おもむろに言った、“気の毒な運命をたどられたことが、一時、村人たちの話題にもなったようです。あなた方はもちろん、御存知でしょうね”

 “ええ、知っています”と、ぼくは答えた。

 “わたしも子供ながら、クリスチーヌさんが亡くなったのを悲しんだのを覚えています”と、神父は、ぼくのことは、余り気にもかけずに続けた、“なかなか美しいお方でしたからね。わたしも、あの方が村を歩いてなさった姿を何度か見かけたことがあって、そのたびに、美しい方だと感嘆したものでした。子供心ながら、強い印象を残したのですね。それに、とってもお優しい方で、見知らぬわたしにも、気持よく心を掛けて下さいました。本当にお若いのに、気の毒な亡くなり方をされました。――もうあれから何十年経ったことやら。それで、今ではすっかりクリスチーヌさんのことは忘れかけていましたが、あなたのおかげで、また思い出しました。彼女のことは、まるで昨日のことのように、今でもはっきり思い出すことができます。――それにしても、今どき、クリスチーヌさんの墓に参りに来られるなんて、失礼ですが、あなたは、どういう関係の方なんですか?”

 “クリスチーヌさんは、ぼくの祖母に当たる人なんです”と、ぼくは、平然と答えた。

 “じゃ、あなたは、あの方のお孫さんなんですか!”と、神父は、驚いたように、ぼくの顔を見て、言った。

 “あの方に、お孫さんがいたとは知りませんでした”と、神父は一息つくと言った、

 “そうとは知らず、失礼をいたしました。――でも、あの方がお亡くなりになったとき、子供さんがいたとは聞いたことがなかったのですが…”

 それでぼくは手短かに、クリスチーヌが結婚する前に既に子供がいたこと、そうなるに至ったいきさつについて、この年の頃、そろそろ老境にさしかかっている神父に、話して聞かせた。

 神父は、ぼくの話しに対して、半信半疑の面持だったが、最終的には信じてくれたようだった。そして、しきりに、“そういう話しは初めてだ”と言って、感心しているようだった。

 “――でも、ぼくも知りたいんです”と、ぼくは、全部を話し終えてから言った、“生前のクリスチーヌのことを。



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