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 “もう亡くなりました”と、夫人はきっぱりと答えた、“――この屋敷でね。病気になってから、わたしが田舎に帰ることを勧めたんですが、アンナは強く拒みました。田舎に帰っても知っているものがほとんどいないし、ここが自分のふるさとみたいなものだから、ここで死なせてくれと言ってね。結局、その通りになりました。ただ、お墓だけは、田舎にありますけどね…”

 “…そうですか”と、ぼくは言った。貴重な証人に既に死なれてしまっていたことが、限りなく残念な気がした。もしアンナが生きていたら、ぼくは喜んで、彼女の下へ飛んで行ったことだろう… しかし今は、クリスチーヌも、アンナも、同じく、天国にいるのだ…

 “それでですね”と、ダーシ夫人は、顔をほころばせながら、突然、ぼくに言った、“お話しがもうひとつあるんですの。それはきっと、あなたが喜ばれると思いますけど、アンナが死ぬまで持っていた大切な品です”

 そう言って、ダーシ夫人は、席を立ち、部屋の隅の箪笥へと向かった。そして、引き出しの中から、しばらくしてから、何か品物を取り出したが、それは、小さな額に入れられた、一枚の写真のようでもあった。ダーシ夫人はそれを持って、再びぼくたちのいるところへ戻って来たが、それをぼくたちのいるテーブルの上に置いた。

 “この人を御存知ですか?”と、夫人は、テーブルに置いた額に写っている、一人の若い婦人を指さして、言った。

 ぼくにはすぐ分かった。この変色した古い写真に写っている一人の若い婦人は、ぼくがこれまで見たくても見れずに、夢に描く他はなかった、紛れもなく、あのクリスチーヌその人だったのだ…

 

 彼女は確かに、ぼくが想像していたように美しかった。人に挑むような目つき、真直ぐに結ばれた口、その口の方向に延びている、触れてみたくなるような、柔かな鼻、ふっくらとした頬や、少しとんがった顎、美事に波打ち、肩にまで垂れている髪の毛など、すべての点で、申し分なく美しかった。レオノールが愛したのがこの娘だと知って、ぼくは少なからず、ショックを感じた。そしてもちろん、ぼくの母の母である人―― 秀でて、聡明そうな額など、母を思わせるところもあったが、目や口元に若干類似性が認められる以外は、全体として、重なるところが少ないように思われた。それにしても、もし母が、この写真を見たとしたら、どのように思うことだろう。――クリスチーヌが正面を向いたこの写真は、いつ撮られたものかは分からなかった。しかし、背景にある室内の家具の様子などから、この家に移り住んでからのものに相違ないと推測された。とするならこのクリスチーヌは、亡くなる何ヶ月前のクリスチーヌということになるのだろうか?

 

 ぼくが黙って写真に見入っているのを見て、ダーシ夫人は、それとなく言った。

 “これがクリスチーヌさん、その人なんですのよ。実にお美しい方です。アンナによれば、実際はもっと美しくて、素晴らしい方だったそうです。――でもこの写真からでも十分、その人の人柄が忍ばれます…”


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 “この人が、ぼくの祖母に当たる人なんて、今まで見たこともありませんでした”と、ぼくは、ショックを隠し切れない様子で言った、“――でも、こんな写真が残っていたなんて、全く、思いも寄らないことでした…”

 “これは、今ではもう、あなたのものですよ”と、ダーシ夫人は、顔をほころばせながら言った、“アンナが残してくれた形見ですし、今ではもう、わたしどもの手元に残しておく理由はありません。ここに映っているのはあなたの祖母なんですし、これは、あなたのものです…”

 “本当に、もらってもいいんですか?”と、ぼくは再び驚いて言った。

 ダーシ夫人は、大きくうなずいた。

 ぼくは、嬉しさを隠すことができなかった。こんな素晴らしい写真に出会い、こんな素晴らしいプレゼントにめぐり会えるなんて、予想だに出来ないことだったからだ。ぼくはそれを手に取り、しっかりと胸の中に抱いた。

 “本当に有り難うございます”と、ぼくは言ったが、感謝の言葉が見当たらず、ただ言葉につまってしまうばかりだった、“この感謝の気持、なんて言葉に表していいものやら… ”

 ダーシ夫人も、運転手も、そんなぼくを、かたわらで見つめながら、にっこりと微笑んでいた…

 

 再び外に出たとき、日射しが明るく、正面に茂るイチイの木立がまぶしかった。また、白いバラの花が、涼しそうに風に揺れていた。

 “もう帰られるんですか?”と、ダーシ夫人は、名残惜しそうにぼくに言った。

 “ええ、いつまでもお邪魔するわけには参りませんから”と、ぼくは、丁寧に言った、“本当に、大切な品と、貴重な話し、有りがとうございました”

 ぼくは何度も礼を言って、見送る夫人と別れ、待っている車の方に向かった。

 “妹さんによろしく。それから、もしお母さんにお会いになったなら、お母さんにもよろしく”

 ダーシ夫人は、そう言って、ぼくに手を振った。

 “ええ、そうします”

 ぼくはそう言って車に乗ったが、ぼくだって、この館から離れるに忍びなかった。ぼくの祖母クリスチーヌが数ヶ月過ごしたこの館について、もっと詳しく知り、もっと長く浸ってもいたかった。ここをひとたび離れれば、今度来るのはいつのことになるものか、全く分からなかった。そうであればこそ、もっと長く、滞在していたかった。若い祖母の数奇な運命を担うことになったこの館に、ぼくはもっと、隅々まで知り尽くすまで、滞在していたかった。この写真に写っている美しい女性が住んでいたことがしみついているこの館に、もっともっと触れていたかった。まるで、この館全体が、クリスチーヌそれ自身であるかのように―― 


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実際、ぼくが車に乗って去るときに感じたのはそのことだった。明るい日ざしに輝いている樹木や、ベージュの壁をした瀟洒な館や、その広々とした庭を見渡して、ぼくが感じたことは、それらすべてがこの写真の女性に結びついている、ということだった。いやむしろ、彼女の肉体は滅んでも、彼女の魂だけは、それら無言の物体の隅々にまで、しみ渡り、今や、彼女自身になり切ってしまい、彼女の息づかいさえ、そこから感じられてくるほどなのだ。ぼくが見れば見るほど感じられて来たことは、それら館や樹木や庭が、もはやクリスチーヌとは別のものではなく、クリスチーヌそれ自身だ、ということだった。それらは何も口にはしないけれど、ぼくには何かを、語りかけているように思われた。それは、彼女の悲しい境遇かも知れず、彼女の青春時代に愛したこと、歓んだことかも知れなかったが、春風の成す木の葉のざわめきのせいか、ぼくにはよく聞き取ることができなかった…

 “…それで、どうするんだね? 墓地へ行くのかい?”と、運転手は尋ねた。

 “ええ、――でもその前に、館の裏の森を通って下さい。ぼくの祖母がよく散歩をした森というのを、この目でよく確かめてみたいものですから…”

 “ああ、いいですよ”と、運転手は快く引き受けてくれた。

 

 森は、美しい森ではあったが、ごく普通の、ブナ林が、こんもりと、地面をおおい尽くすような森であった。ぼくは、森のそばに車を止めてもらい、ひとりで、森の中に分け入った。道端の日光の輝きとは異なって、ブナの森の中は、幻想的な光に満ちていて、上空の、緑したたる葉のすき間から見える、透きとおるような空の青さと対照的に、地面の奥の方は、不気味な暗さに満たされていた。しかし、全体として柔かな光に満たされていて、空気もヒンヤリとして、心地よかった。しばらく歩くと、もうさっそく、枯葉の間に、茸が顔を出しているのが見つかった。ぼくは、その場にしゃがんで、しばらく、その土地の茸が生えている様子を観察した後、そっと引き抜いた。そのようにして、しばらく森の中をうろついた後、ぼくは再び車のところにやって来た。

 運転手が退屈そうに座席にもたれて、ぼくを待っていた。ぼくは、両手にたくさんの茸を抱えていた。運転手が、ぼくの茸を珍しそうに見ると、ぼくはこう言った、

 “ねえ、これ、全部あげますよ。家に持って帰れば、奥さん、きっと喜ぶに違いないですよ”

 運転手は驚いたような表情をして、ドアを開けた。

 “いいのかね、全部もらっても”

 “ええ、どうせぼくは、ホテルで食事をするんですから…”

 運転手は礼を言って、ぼくから茸を受け取った。

 ぼくは車に乗ると、村の花屋さんにまず寄ってもらうよう、運転手に言った。


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 車は再び、澄んだ川沿いに走り始めた。森の奥のクリスチーヌの館がだんだんと遠ざかり、しまいに見えなくなってしまった。周りは、静かな草地と、ところどころに茂る林だけの、見通しのいい平地が広がっていた。やがて、村らしい建物の群れが見えて来、車は、それに吸い込まれるように、中へ入って行った。

 村の建物は、まるで何世紀も生きて来たように、くすんでいた。狭く、曲がりくねった街道沿いに、様々な形をした建物が思い思いの軒を連ねている。壁の色も色あせ、汚れが目立っている。しかし、その古さや、つたの葉をからませた壁や、街道沿いに見せるいくつもの窓の様子などが、なんとも言えぬ趣をこの村に与えているのだった。酒場があり、ホテルがあり、雑貨屋があり、そして、花屋があった。花屋の前で車を止めてもらい、ぼくは花屋に入って行った。そして、美しい花束を二つ買って、再び車に乗った。

 

 ぼくが最初に告げた場所は、教会の墓地ではなく、クリスチーヌの死体が発見されたとされる川沿いの場所だった。ぼくは、是非ともその現場に行きたかった。場所については、幸い、ダーシ夫人がアンナから聞いて知っていて、ぼくに教えてくれたのだった。少し分かりにくい場所だったので、一緒に行こうとまで言ってくれたが、ぼくは丁寧に断った。ダーシ夫人は、その代わりに、ぼくにちょっとした地図を書いてくれた。その地図だけが、場所を知らせる唯一の手がかりだった。ダーシ夫人の語ってくれたところでは、村からそう遠くないところの河原で、一箇所、川の奥へ島のように突き出たところがある、ということだった。流されて来たクリスチーヌの体は、その半島のように延び出たところに引っかかり、早朝、野良仕事に出て来た村人に見つかったのだ…

 ぼくを乗せた車は再び、川沿いの道を勢いよく風を切って走った。やがて、それらしい目印の小屋と、木立とが見えて来た。地図では、その付近で降りれば、川へ出っ張った場所はすぐ見つかる、と書いてあった。ぼくは運転手に、車を止めるように言い、花束をひとつ持って車から降りた。川に向かって歩いて行くぼくの後を追うように、運転手も駈けて来た。

 “死者の霊を弔うのに、わたしも参加させてくれないか”と、運転手が言った。

 “いいですよ”と、ぼくは返事をした。

 道路から川まで、草深いところを歩いて行かなければならなかったが、それらしい場所は、間もなく分かった。これは、ダーシ夫人も気づいていないことかも知れないが、一本の大きな柳の木が川べりに茂っている、すぐ近くの場所が、目ざすところだった。美しい水面に、柳の木はその姿を映し、そこからそう離れていないところに、確かに、川に出っ張った場所があった。しかし、そこももちろん、深い草におおわれていた。ぼくは、クリスチーヌが流れ着いたと思われる場所までやって来ると、足を止め、川の中に目をやった。そこには、かすかなさざ波を受けて、自分自身が映っていた。水は、透明で、川床が透けて見えていた。小さなメダカが流れを避けて、泳いでいる様が、水面を通して、見えていた。何十年も昔には、恐らくこの場所に、うつ伏せになったクリスチーヌの死体が流れ着いたのだ。


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そして、ぼくの母が、早朝の散歩の途中、陸に引き上げられたクリスチーヌの遺体と対面したのも、この場所で、だった。それにしても今は、なんと明るい日射しが、この川面に注いでいることだろう。静かに揺れ動く水面が、時々、まぶしいほどの光を、キラリとぼくの目に反射する。ぼくはそっと花束を、クリスチーヌが流れ着いたと思われる場所に置くと、合掌し、目を閉じた…

 目を閉じて、どれほどの時が流れただろうか、限りない静けさと、沈黙。気が付くと、後ろで、運転手が帽子を手に、頭を垂れて黙祷していた。ぼくは、彼をそっとしたまま、その場を立ち去ろうとした。彼は、足音で気づき、目をあけた。

 “ここなんだね、例の場所は”と、運転手は、ぼくを引き止めるように言った、“ここは何度も走ったことがあるが、そんな言われのある場所だとは知らなかった”

 “恐らく、今の誰れも、そんなことは知りませんよ”と、ぼくは答えた、“そんな古い、昔話しをむし返しに来るぼくの方がおかしいんです…”

 “そんなことはないよ”と、運転手は言った、“大いに興味ある話しだ。人の話しとは言え、なかなかのものだ…”

 “さあ、もう戻りましょ”と、ぼくは言った。

 運転手は、まだ何かあるのではないかとその場に居たそうだったが、やがて仕方なくぼくの後について来た。

 車に乗ると、運転手は、すぐぼくに話しかけて来た。

 “確か、その御婦人が亡くなられたのは晩秋と言うことだったね。だとするなら、今と違って、水は凍るように冷たかったはずだ。その頃にゃ、この辺は雪さえ降るほどなんだからね。――気の毒に、よほど思い詰めることがあったんだろう…”

 “思い詰めることなんかなければ、人は、自殺したりはしませんよ”と、ぼくは答えた。

 

 車は再び走り始めた。広々とし、ところどころに森の見える平地の眺めはすがすがしかった。その中を、ゆるやかなカーブを描きながら、空の青さを映したような、鏡のようになめらかな、川幅のそう広くない川が、ゆったりと流れていた。車の走る、よく舗装された道は、その川と離れたり、近づいたりしながら、村へと向かっていた。

 やがて再び、村の入り組んだ、狭い目抜き通りを通り、村のはずれの教会へと車は向かった。全体がくすんだような村を通り抜けると、やがて、うっそうと繁った森のような樹木のあいだに、目ざすべき教会が姿を現した。全体が土色の、どっしりした石造りで出来た、二つの尖塔のあるこの教会は、その白さや、建物の様式から、歴史を感じさせた。とりわけ、先端に十字架のついている、空に突き立てるような二つの尖塔が、ぼくの目を奪った。車から降り立つと、ぼくは、そのすぐ真下に立って、その塔の雄大さを眺めた。鋭い角度で切り立ったような屋根や、その下の、四方に目を向けている丸みを帯びた高窓など、見れば見るほど、心を奪い取るような何かがあった。しかし、この教会は、規模としては、そう大きなものではなかった。明るい光に輝いた、尖塔や、教会堂の壁が、ぼくの目にはまぶしかった。



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