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時折、会社の人がやって来られたり、クリスチーヌさんと一緒にパーティに出席しなければならなくなったときだけは、急に優しくふるまったりするんですけど、そうでないときは、忙しいという理由で、クリスチーヌさんとはほとんど一緒に過ごそうとはしませんでした。だから、あんな結婚生活なんてない、とアンナが言っていました。クリスチーヌさんは、いつもひとりで、自分の部屋か、居間にいて、本を読んだり、編み物をしたりして、時を過ごしていたようです。そうそう、言い忘れましたが、クリスチーヌさんは寝室すら、御主人とは別の部屋で、まるで、同じ天井の下に住む赤の他人のような暮らし振りだったようですよ…”

 ぼくは黙って聞いていたが、ダーシ夫人の語る内容から、少しでも、クリスチーヌの当時の暮らし振りが、目に映ってくるような気がした。

 “…ところが、ある日を境に、御主人の、クリスチーヌさんに対する扱いが一層ヒドくなったんです”と、ダーシ夫人は続けた、“その日には、クリスチーヌさんに対する暴力沙汰すら起こりました。その日までは、クリスチーヌさんにつれなくすることはあっても、暴力を働くということはなかったんです。――ところが、クリスチーヌさんの父親が亡くなって、一週間も経つか経たないうちに、急に御主人が、クリスチーヌさんの過去のことを暴いて、クリスチーヌさんを何度もぶったということです。そして、もう二度と見たくないと言って、御主人は、自分のいるあいだは、クリスチーヌさんを、部屋に閉じ込めてしまった、ということです。それ以来、食事はおろか、顔も合わさなくなってしまったようです。ただですら正常な夫婦生活とは言えないのに、こうなってしまっては何もかもおしまいです。本当のところ、御主人は、クリスチーヌさんと別れたかったのでしょう。アンナが、そう言っていました。あらゆるヒドい仕打ちも、クリスチーヌさんと別れる為だって。しかし、唯一の親戚であるお父様を亡くされたクリスチーヌさんには、もはや行くところなんて、どこにもなかったんです。――しばらくは、クリスチーヌさんも、そのヒドい仕打ちに耐えておられました。アンナも、御主人様の目を盗み、そっとクリスチーヌさんの部屋に、差し入れの食事を運んだりもしました。しかし、部屋の中のクリスチーヌさんは、すっかりやつれ、食事ものどを通らない程だった、ということです。顔や、細い美しい腕も、御主人に殴られた、あざのあとが痛々しく、とても見てはいられないって、アンナは言っていました。しばらくは、ショックの日が続きましたが、その後、もう主人がいないに等しい状態での、以前の普通の生活に戻ることができました。御主人に絶縁状をたたきつけられたにせよ、昼間は、主人はいなくて、クリスチーヌさんは、自由に屋敷内を歩き回ることができたんですから。一時は真剣に離婚のことも考えておられたようです。アンナに、冗談に、この家から去ったら寂しくない? って、言ったりしていたということですから。それから間もなくして、クリスチーヌさんは、いつものように、アンナを連れて、森へ散歩に出掛けられました。ところが運悪く、帰るときになって雨が降って来、二人ともずぶぬれになってしまったのです。もともと丈夫な方ではなかったクリスチーヌさんは、それがもとで風邪をひかれ、初めはそれほどでもないと思われたのに、思いの他長引くことになってしまったのです。風邪の他に、心労などが重なり、クリスチーヌさんは、ベッドに伏せがちな日が続くようになりました。


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高熱の日も何日か続き、医者も診断に困っていたようです。病状が良くなれば、転地療養も必要だ、とも言っていました。クリスチーヌさんはそんな状態でベッドに寝込んでしまっているのに、肝心の御主人が、見舞いの一つもやって来ないって、アンナはわたしに、何度も言っていました。あんな薄情な旦那様ってどこを捜しても他にいないって。――でも結局、その雨が、クリスチーヌさんの命取りになってしまったのです。クリスチーヌさんは、気落ちの上、病までも得てしまって、生きる気力さえお失いになってしまい、結局、自殺してしまわれたのですから…”

 ぼくたちは、しんみりと、その話しに聞き入っていた。ぼくに、言うべき言葉は何もなかった、ただ、クリスチーヌの晩年の状態が具体的に明らかになったという以外には…

 “アンナはそのことで、いつも悔やみの言葉を吐いていました”と、ダーシ夫人は続けた、“あの日の朝、奥さんの物音に気づきさえすれば、制止することもできたのに、ってアンナはいつも言っていました。そうでなくても、それらしい徴候を感じ取り、事前に手を打つべきだったって、そうも言っておりました。――でも実際は、それらしい徴候は、何にも感じ取れなかったんです。クリスチーヌさんは、病状の谷間のときには、回復の希望を強く持っておられたようですし、アンナと会うときはいつも笑顔で迎え、そんな深刻な気持を胸の中に秘めていたなんて、誰にも、おくびだに出さなかったのですから。ですから誰も、クリスチーヌさんが死ぬなんて予測できなかったし、誰もが、クリスチーヌさんの回復を確信していたということです。クリスチーヌさんの心の中に、それほど深い亀裂が生じ、悩んでおられたことなど、誰にも測り知れないことだったのですね。――葬儀は、ごくしめやかに行われたということです。参列者の数も少なく、生前ごく親しくしておられた人々だけが集まって、棺が、墓地へ運ばれて行きました。そのときは、さすがに主人のブロートさんも葬儀に参列されました。しかし、棺の中に眠っているクリスチーヌさんが、そのことを喜ばれているかは疑問だ、とアンナは言っていました。もともと愛情がなかったうえの、形だけの参列だったのですから。ごく少数の列が、川を伝って、下流の教会の墓地へと運ばれて行きました。クリスチーヌさんの墓は、生前慕っていた父親の墓地の隣がいいだろうということになって、それだけはしぶしぶブロートさんも同意なさって、結局、父親の墓の隣に埋葬されることになりました。それは、冷たくて、風の強い、実に悲しい日だったと、アンナはわたしに語ってくれました…”

 “そうですか…”と、ぼくはしみじみと答えた、“そのアンナさんのおかげで、ぼくの知らなかったことまで、よく分かりました。貴重なお話し、ありがとうございます…”

 “いいえ、これもみんな、アンナさんとお会いしたから、知り得たことなのですよ”と、ダーシ夫人は優しく答えてくれた、“でも、このようなお話し、誰かに語ることになるなんて思ってもみないことでしたけど、こんなところでお役に立つことになるなんて、全く、嬉しい限りですわ…”

 “ええ、その話し、十分お役に立ちました”と、ぼくは答えた、“ところで、そのアンナさんなんですけど、今はどうなされているのです?”


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 “もう亡くなりました”と、夫人はきっぱりと答えた、“――この屋敷でね。病気になってから、わたしが田舎に帰ることを勧めたんですが、アンナは強く拒みました。田舎に帰っても知っているものがほとんどいないし、ここが自分のふるさとみたいなものだから、ここで死なせてくれと言ってね。結局、その通りになりました。ただ、お墓だけは、田舎にありますけどね…”

 “…そうですか”と、ぼくは言った。貴重な証人に既に死なれてしまっていたことが、限りなく残念な気がした。もしアンナが生きていたら、ぼくは喜んで、彼女の下へ飛んで行ったことだろう… しかし今は、クリスチーヌも、アンナも、同じく、天国にいるのだ…

 “それでですね”と、ダーシ夫人は、顔をほころばせながら、突然、ぼくに言った、“お話しがもうひとつあるんですの。それはきっと、あなたが喜ばれると思いますけど、アンナが死ぬまで持っていた大切な品です”

 そう言って、ダーシ夫人は、席を立ち、部屋の隅の箪笥へと向かった。そして、引き出しの中から、しばらくしてから、何か品物を取り出したが、それは、小さな額に入れられた、一枚の写真のようでもあった。ダーシ夫人はそれを持って、再びぼくたちのいるところへ戻って来たが、それをぼくたちのいるテーブルの上に置いた。

 “この人を御存知ですか?”と、夫人は、テーブルに置いた額に写っている、一人の若い婦人を指さして、言った。

 ぼくにはすぐ分かった。この変色した古い写真に写っている一人の若い婦人は、ぼくがこれまで見たくても見れずに、夢に描く他はなかった、紛れもなく、あのクリスチーヌその人だったのだ…

 

 彼女は確かに、ぼくが想像していたように美しかった。人に挑むような目つき、真直ぐに結ばれた口、その口の方向に延びている、触れてみたくなるような、柔かな鼻、ふっくらとした頬や、少しとんがった顎、美事に波打ち、肩にまで垂れている髪の毛など、すべての点で、申し分なく美しかった。レオノールが愛したのがこの娘だと知って、ぼくは少なからず、ショックを感じた。そしてもちろん、ぼくの母の母である人―― 秀でて、聡明そうな額など、母を思わせるところもあったが、目や口元に若干類似性が認められる以外は、全体として、重なるところが少ないように思われた。それにしても、もし母が、この写真を見たとしたら、どのように思うことだろう。――クリスチーヌが正面を向いたこの写真は、いつ撮られたものかは分からなかった。しかし、背景にある室内の家具の様子などから、この家に移り住んでからのものに相違ないと推測された。とするならこのクリスチーヌは、亡くなる何ヶ月前のクリスチーヌということになるのだろうか?

 

 ぼくが黙って写真に見入っているのを見て、ダーシ夫人は、それとなく言った。

 “これがクリスチーヌさん、その人なんですのよ。実にお美しい方です。アンナによれば、実際はもっと美しくて、素晴らしい方だったそうです。――でもこの写真からでも十分、その人の人柄が忍ばれます…”


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 “この人が、ぼくの祖母に当たる人なんて、今まで見たこともありませんでした”と、ぼくは、ショックを隠し切れない様子で言った、“――でも、こんな写真が残っていたなんて、全く、思いも寄らないことでした…”

 “これは、今ではもう、あなたのものですよ”と、ダーシ夫人は、顔をほころばせながら言った、“アンナが残してくれた形見ですし、今ではもう、わたしどもの手元に残しておく理由はありません。ここに映っているのはあなたの祖母なんですし、これは、あなたのものです…”

 “本当に、もらってもいいんですか?”と、ぼくは再び驚いて言った。

 ダーシ夫人は、大きくうなずいた。

 ぼくは、嬉しさを隠すことができなかった。こんな素晴らしい写真に出会い、こんな素晴らしいプレゼントにめぐり会えるなんて、予想だに出来ないことだったからだ。ぼくはそれを手に取り、しっかりと胸の中に抱いた。

 “本当に有り難うございます”と、ぼくは言ったが、感謝の言葉が見当たらず、ただ言葉につまってしまうばかりだった、“この感謝の気持、なんて言葉に表していいものやら… ”

 ダーシ夫人も、運転手も、そんなぼくを、かたわらで見つめながら、にっこりと微笑んでいた…

 

 再び外に出たとき、日射しが明るく、正面に茂るイチイの木立がまぶしかった。また、白いバラの花が、涼しそうに風に揺れていた。

 “もう帰られるんですか?”と、ダーシ夫人は、名残惜しそうにぼくに言った。

 “ええ、いつまでもお邪魔するわけには参りませんから”と、ぼくは、丁寧に言った、“本当に、大切な品と、貴重な話し、有りがとうございました”

 ぼくは何度も礼を言って、見送る夫人と別れ、待っている車の方に向かった。

 “妹さんによろしく。それから、もしお母さんにお会いになったなら、お母さんにもよろしく”

 ダーシ夫人は、そう言って、ぼくに手を振った。

 “ええ、そうします”

 ぼくはそう言って車に乗ったが、ぼくだって、この館から離れるに忍びなかった。ぼくの祖母クリスチーヌが数ヶ月過ごしたこの館について、もっと詳しく知り、もっと長く浸ってもいたかった。ここをひとたび離れれば、今度来るのはいつのことになるものか、全く分からなかった。そうであればこそ、もっと長く、滞在していたかった。若い祖母の数奇な運命を担うことになったこの館に、ぼくはもっと、隅々まで知り尽くすまで、滞在していたかった。この写真に写っている美しい女性が住んでいたことがしみついているこの館に、もっともっと触れていたかった。まるで、この館全体が、クリスチーヌそれ自身であるかのように―― 


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実際、ぼくが車に乗って去るときに感じたのはそのことだった。明るい日ざしに輝いている樹木や、ベージュの壁をした瀟洒な館や、その広々とした庭を見渡して、ぼくが感じたことは、それらすべてがこの写真の女性に結びついている、ということだった。いやむしろ、彼女の肉体は滅んでも、彼女の魂だけは、それら無言の物体の隅々にまで、しみ渡り、今や、彼女自身になり切ってしまい、彼女の息づかいさえ、そこから感じられてくるほどなのだ。ぼくが見れば見るほど感じられて来たことは、それら館や樹木や庭が、もはやクリスチーヌとは別のものではなく、クリスチーヌそれ自身だ、ということだった。それらは何も口にはしないけれど、ぼくには何かを、語りかけているように思われた。それは、彼女の悲しい境遇かも知れず、彼女の青春時代に愛したこと、歓んだことかも知れなかったが、春風の成す木の葉のざわめきのせいか、ぼくにはよく聞き取ることができなかった…

 “…それで、どうするんだね? 墓地へ行くのかい?”と、運転手は尋ねた。

 “ええ、――でもその前に、館の裏の森を通って下さい。ぼくの祖母がよく散歩をした森というのを、この目でよく確かめてみたいものですから…”

 “ああ、いいですよ”と、運転手は快く引き受けてくれた。

 

 森は、美しい森ではあったが、ごく普通の、ブナ林が、こんもりと、地面をおおい尽くすような森であった。ぼくは、森のそばに車を止めてもらい、ひとりで、森の中に分け入った。道端の日光の輝きとは異なって、ブナの森の中は、幻想的な光に満ちていて、上空の、緑したたる葉のすき間から見える、透きとおるような空の青さと対照的に、地面の奥の方は、不気味な暗さに満たされていた。しかし、全体として柔かな光に満たされていて、空気もヒンヤリとして、心地よかった。しばらく歩くと、もうさっそく、枯葉の間に、茸が顔を出しているのが見つかった。ぼくは、その場にしゃがんで、しばらく、その土地の茸が生えている様子を観察した後、そっと引き抜いた。そのようにして、しばらく森の中をうろついた後、ぼくは再び車のところにやって来た。

 運転手が退屈そうに座席にもたれて、ぼくを待っていた。ぼくは、両手にたくさんの茸を抱えていた。運転手が、ぼくの茸を珍しそうに見ると、ぼくはこう言った、

 “ねえ、これ、全部あげますよ。家に持って帰れば、奥さん、きっと喜ぶに違いないですよ”

 運転手は驚いたような表情をして、ドアを開けた。

 “いいのかね、全部もらっても”

 “ええ、どうせぼくは、ホテルで食事をするんですから…”

 運転手は礼を言って、ぼくから茸を受け取った。

 ぼくは車に乗ると、村の花屋さんにまず寄ってもらうよう、運転手に言った。



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