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 川に沿って車が上流へと向かうと間もなく、緑深い森林地帯へと差しかかったが、その直後に、一段と緑の濃い一角に、屋敷らしいものが見え隠れするようになって来た。美事な芝生と、樹木とのコントラストが美しいその奥に、青みがかった緑色の屋根とベージュ色の壁をした館が、今やはっきりと見えて来た。それは、川からは数百メートルも奥まったところに存在していたが、今や疑いはなかった。いくつかの棟が寄せ集まるように立っているその館こそは、クリスチーヌが晩年を過ごした館だった。

 “あれがそうです”と、ぼくは運転手に言った。

 “また、なかなかきれいな建物だねえ”と、運転手は、近付きつつある館を見ながら言った。

 “ええ、静かで、本当に美しいところです”

 そうしているうちにも車は、美事な樹木と芝生とに導かれて、館のゲートまでやって来た。こちらへせり出すように立っている両サイドの館と、ひかえめだが美しい建物の正面が、ぼくたちの目の前に立ちはだかり、その背後は深々とした森におおわれていた。ぼくはベルを鳴らし、家人を呼んだ。この素晴らしい館から、どんな人が姿を現すのだろう。少なからず、ぼくには興味があった。昔なら、ここにはクリスチーヌが住んでいて、彼女が姿を現したはずなのだ。彼女は、美しい黒髪をした美人タイプの娘だった。細面の白い顔、聡明そうな広い額と、キリッとした目つき――ぼくは、クリスチーヌの顔について、レオノールから聞かされ、或る程度の想像はついていたが、一枚の写真もなく、本当の顔は見たこともなかった。しかし、想像上では、彼女は美しく、薄幸の瞳をたたえており、ぼくにとって、永遠の女性を思わせた。そしてもし、そこの館から、長い黒髪をたたえた彼女が姿を現したとするなら、どれほど驚くべきことだろう…

 しかし、静かな館からやがて姿を現したのは、女ではあったが、想像上のクリスチーヌとは似ても似つかぬ中年の、血色のよい、よく太った婦人だった。彼女は、パーシバル夫人から連絡を受けていた為か、笑顔をいっぱい浮かべて、ぼくたちのところにやって来た。

 “どうぞ、どうぞお入り下さい。あなた方のことは、パーシバル夫人から聞いて知っていますのよ。なかなか興味深い話しをなされたとか…”

 そう言って彼女はゲートを開き、ぼくたちを邸内へと招き入れてくれた。

 “いいえ、ほんのちょっと、昔住んでいた人の部屋が見たくて、ここへやって来ただけです”と、ぼくは言った。

 “ええ、ええ、いいですよ”と、彼女は、にこにこしながら言うのだった、“その話しについてなら、興味深いことがあるのですよ。後でお見せ致しましょう…”

 “それはなんです?”と、ぼくは聞いたが、彼女は、それについては言おうとはしなかった。

 

 間もなく、室内に案内されると、中は薄暗くはあったが、豪華な家具といい、シャンデリアといい、ゆったりしたカーテンといい、なかなかのものだった。美事に磨き抜かれたテーブルや、ピアノ、色彩鮮やかな絨毯が、ぼくの目をそそった。


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ぼくはさっそく、寝室のことを尋ねたが、彼女は快く、案内してくれた。円い幾何学模様が美しい真ちゅうの手すりのついた白い階段を上がって行くと、やがて、クリスチーヌがいたと思われる寝室へとぼくたちは案内された。

 “今、あたしどもが、使っている寝室ですが、恐らく、ここがあなたが言われるお方がお暮らしになっておられた寝室でしょう…”

 そう言って開けられたドアの奥から現れた光景は、天蓋付きの刺繍入りのベッド、白い板壁、背の高い押し開きの窓、両側にたくし寄せられた赤いカーテン、薄い緑色の絨毯、黒く磨き抜かれた机と椅子、フロアースタンド、壁に掛けられた一枚の静物画など、ぼくの心を驚かせるものがあった。当時の様子とは同じでないかも知れないが、恐らく、それほど違ってもいないだろう。ミリエルの館から迎え入れられたクリスチーヌは、ここで密かな生活を営み、日々の、ため息や、憂いや、歓びや、苦悩の暮らしをしていたのだ。彼女の一喜一憂の、その息づかいさえもが、聞こえてくるような、そんな気さえもした。薄明るい室内の重苦しさとは対照的に、押し開かれた窓の外の、樹木がしたたる明るい光景が、何んとも言えずさわやかで、晴れ晴れとした気持ちにするのだった。おそらくクリスチーヌも、あの窓から外を見、遠くミリエル館にいるリディアのことや、レビエに住むレオノールのことに思いを馳せたことだろう。――しかし、この周囲は余りにも静かで、彼女の心を、孤独に、寂しく、沈うつにさせるには十分な環境だった。周囲には、ただ静かな森が広がるばかりで、彼女の孤独な気持ちに答えるものは何もない――ただ広がる青空と、遠くを流れる澄んだ青い川を除いては。そんな彼女が、精神的に頼るべきものを持たず、窮地に立たされたとしても、どんな不思議があるだろう? ――この、落ち着いた、静かな部屋をつぶさに見て、ぼくは、そんな気がした。彼女は、この薄明るい室内で最後の夢を見、死への旅路へと、ここから飛び出して行ったのだ…

 

 “あなたの期待に反するかも知れませんが、ここの家具は、全部わたしどもが搬入したものでございますのよ”と、ダーシ夫人は、親切に言ってくれた。

 “いいえ、かまいませんよ”と、ぼくは、振り向いて言った、“これだけでも十分、当時のことが忍ばれますから…”

 実際そうだった。当時のクリスチーヌのベッドが、このベッドと違ったとしても、どれほどの差があるというのだろう? そんなことは問題ではなかった。ただ、この白い壁の部屋、これらの家具で、クリスチーヌの生きた時代が感じられ、その息づかいさえ感じられるなら、それだけでも十分だった。

 “どうもありがとうございました”ぼくは十分に見終えると、振り向き、ダーシ夫人に丁寧に礼を言った。

 ぼくたちは再び、真ちゅうの手すりの白い階段を降り、一階の居間へと案内された。

 白い、刺繍が美事な椅子に腰掛けると、ダーシ夫人は、さっそくぼくに話しかけて来た。


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 “…それで、あなたが、昔、ここで暮らしておられた奥さんのお孫さん、というわけなんですね”と、ダーシ夫人は言った、“お母さんは元気にしていらっしゃるんですか?”

 “多分、そのはずですけど…”と、ぼくはとまどわずに答えた、“現在は行方知れずなんです…”

 “ああそうですか”と、夫人は、悪い質問をしたとばかり、口をつぐんだ。

 “…でも、クリスチーヌさんのことは、幸いよく分かっているんですのよ”と、夫人は、心持ち表情を和らげ、話題を変えて言った、“もう古い話しですけど、クリスチーヌさんに仕えていた女中が――アンナという名前でした――、クリスチーヌさんがお亡くなりになった後にやめさせられてしまったんですが、巡り巡ってまたこの屋敷で雇われることになったんです。わたしどもが、それとは知らずに雇ったんですよ。昔、この屋敷で働いていた、ということを聞いたもんですからね。アンナは、口の堅い、余りしゃべらない女中でしたが、ただクリスチーヌさんのことだけは、いつまでも慕い、心に残っていたようです。アンナの口から、よくクリスチーヌさんのことを聞かされました。アンナは、クリスチーヌさんのことになると、とたんに雄弁になったのです…”

 “そうですか…”と、ぼくは、意外なことを聞かされ、驚いたように言った。クリスチーヌに女中がいたことは知っていたが、その女中がどんな運命をたどったかについてまでは、ぼくは知らなかったのだ…

 “それで、どんなことを聞かされました?”と、ぼくは、ダーシ夫人に尋ねた。

 “クリスチーヌさんは、まず、とってもお美しい、聡明な方だったようです”と、ダーシ夫人は、それとなく語った、“それに、辛抱強くて、わたしならあんな仕打ちを受ければ、とっても我慢できないって、アンナはよく語っていました”

 “あんな仕打ち?”

 “ええ、夫が、クリスチーヌさんを冷たくあしらったんです”と、ダーシ夫人は答えた、“あんなに美しくて、優しい人なのに、どうしてか、アンナは分からないって、言っておりました。きっと、御主人に女がいるに違いないって、女の直観から、アンナは言っていました。そうでないと、クリスチーヌさんが冷たくされる理由が分からないのです。――ともかく、夫は家に帰っても、クリスチーヌさんとはほとんど口をききません。そればかりか、用事があると言って、すぐ家を出て行く始末です。そういうわけで、クリスチーヌさんと、アンナが一緒に過ごす日が多かったようです。クリスチーヌさんには子供さんがいませんでしたから、いつもひとりで、寂しくしておられたようです。最初は、父親のいる、現在のパーシバルさんが住んでおられる館まで、そう遠くないというのと、寂しさを紛らせる為、帰ったりもしておられたようですが、そのうち、御主人によって帰ることを禁じられてしまいました。それで、アンナを連れて、館の外の、近くの森へ行って、茸刈りをしたり、木の実を摘んだりするのを、唯一の楽しみにしていたようです。――でも、結婚はしたものの、御主人は、家庭ではクリスチーヌさんのことは、一顧だに払わなかったようですよ。アンナがそう言っていました。


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時折、会社の人がやって来られたり、クリスチーヌさんと一緒にパーティに出席しなければならなくなったときだけは、急に優しくふるまったりするんですけど、そうでないときは、忙しいという理由で、クリスチーヌさんとはほとんど一緒に過ごそうとはしませんでした。だから、あんな結婚生活なんてない、とアンナが言っていました。クリスチーヌさんは、いつもひとりで、自分の部屋か、居間にいて、本を読んだり、編み物をしたりして、時を過ごしていたようです。そうそう、言い忘れましたが、クリスチーヌさんは寝室すら、御主人とは別の部屋で、まるで、同じ天井の下に住む赤の他人のような暮らし振りだったようですよ…”

 ぼくは黙って聞いていたが、ダーシ夫人の語る内容から、少しでも、クリスチーヌの当時の暮らし振りが、目に映ってくるような気がした。

 “…ところが、ある日を境に、御主人の、クリスチーヌさんに対する扱いが一層ヒドくなったんです”と、ダーシ夫人は続けた、“その日には、クリスチーヌさんに対する暴力沙汰すら起こりました。その日までは、クリスチーヌさんにつれなくすることはあっても、暴力を働くということはなかったんです。――ところが、クリスチーヌさんの父親が亡くなって、一週間も経つか経たないうちに、急に御主人が、クリスチーヌさんの過去のことを暴いて、クリスチーヌさんを何度もぶったということです。そして、もう二度と見たくないと言って、御主人は、自分のいるあいだは、クリスチーヌさんを、部屋に閉じ込めてしまった、ということです。それ以来、食事はおろか、顔も合わさなくなってしまったようです。ただですら正常な夫婦生活とは言えないのに、こうなってしまっては何もかもおしまいです。本当のところ、御主人は、クリスチーヌさんと別れたかったのでしょう。アンナが、そう言っていました。あらゆるヒドい仕打ちも、クリスチーヌさんと別れる為だって。しかし、唯一の親戚であるお父様を亡くされたクリスチーヌさんには、もはや行くところなんて、どこにもなかったんです。――しばらくは、クリスチーヌさんも、そのヒドい仕打ちに耐えておられました。アンナも、御主人様の目を盗み、そっとクリスチーヌさんの部屋に、差し入れの食事を運んだりもしました。しかし、部屋の中のクリスチーヌさんは、すっかりやつれ、食事ものどを通らない程だった、ということです。顔や、細い美しい腕も、御主人に殴られた、あざのあとが痛々しく、とても見てはいられないって、アンナは言っていました。しばらくは、ショックの日が続きましたが、その後、もう主人がいないに等しい状態での、以前の普通の生活に戻ることができました。御主人に絶縁状をたたきつけられたにせよ、昼間は、主人はいなくて、クリスチーヌさんは、自由に屋敷内を歩き回ることができたんですから。一時は真剣に離婚のことも考えておられたようです。アンナに、冗談に、この家から去ったら寂しくない? って、言ったりしていたということですから。それから間もなくして、クリスチーヌさんは、いつものように、アンナを連れて、森へ散歩に出掛けられました。ところが運悪く、帰るときになって雨が降って来、二人ともずぶぬれになってしまったのです。もともと丈夫な方ではなかったクリスチーヌさんは、それがもとで風邪をひかれ、初めはそれほどでもないと思われたのに、思いの他長引くことになってしまったのです。風邪の他に、心労などが重なり、クリスチーヌさんは、ベッドに伏せがちな日が続くようになりました。


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高熱の日も何日か続き、医者も診断に困っていたようです。病状が良くなれば、転地療養も必要だ、とも言っていました。クリスチーヌさんはそんな状態でベッドに寝込んでしまっているのに、肝心の御主人が、見舞いの一つもやって来ないって、アンナはわたしに、何度も言っていました。あんな薄情な旦那様ってどこを捜しても他にいないって。――でも結局、その雨が、クリスチーヌさんの命取りになってしまったのです。クリスチーヌさんは、気落ちの上、病までも得てしまって、生きる気力さえお失いになってしまい、結局、自殺してしまわれたのですから…”

 ぼくたちは、しんみりと、その話しに聞き入っていた。ぼくに、言うべき言葉は何もなかった、ただ、クリスチーヌの晩年の状態が具体的に明らかになったという以外には…

 “アンナはそのことで、いつも悔やみの言葉を吐いていました”と、ダーシ夫人は続けた、“あの日の朝、奥さんの物音に気づきさえすれば、制止することもできたのに、ってアンナはいつも言っていました。そうでなくても、それらしい徴候を感じ取り、事前に手を打つべきだったって、そうも言っておりました。――でも実際は、それらしい徴候は、何にも感じ取れなかったんです。クリスチーヌさんは、病状の谷間のときには、回復の希望を強く持っておられたようですし、アンナと会うときはいつも笑顔で迎え、そんな深刻な気持を胸の中に秘めていたなんて、誰にも、おくびだに出さなかったのですから。ですから誰も、クリスチーヌさんが死ぬなんて予測できなかったし、誰もが、クリスチーヌさんの回復を確信していたということです。クリスチーヌさんの心の中に、それほど深い亀裂が生じ、悩んでおられたことなど、誰にも測り知れないことだったのですね。――葬儀は、ごくしめやかに行われたということです。参列者の数も少なく、生前ごく親しくしておられた人々だけが集まって、棺が、墓地へ運ばれて行きました。そのときは、さすがに主人のブロートさんも葬儀に参列されました。しかし、棺の中に眠っているクリスチーヌさんが、そのことを喜ばれているかは疑問だ、とアンナは言っていました。もともと愛情がなかったうえの、形だけの参列だったのですから。ごく少数の列が、川を伝って、下流の教会の墓地へと運ばれて行きました。クリスチーヌさんの墓は、生前慕っていた父親の墓地の隣がいいだろうということになって、それだけはしぶしぶブロートさんも同意なさって、結局、父親の墓の隣に埋葬されることになりました。それは、冷たくて、風の強い、実に悲しい日だったと、アンナはわたしに語ってくれました…”

 “そうですか…”と、ぼくはしみじみと答えた、“そのアンナさんのおかげで、ぼくの知らなかったことまで、よく分かりました。貴重なお話し、ありがとうございます…”

 “いいえ、これもみんな、アンナさんとお会いしたから、知り得たことなのですよ”と、ダーシ夫人は優しく答えてくれた、“でも、このようなお話し、誰かに語ることになるなんて思ってもみないことでしたけど、こんなところでお役に立つことになるなんて、全く、嬉しい限りですわ…”

 “ええ、その話し、十分お役に立ちました”と、ぼくは答えた、“ところで、そのアンナさんなんですけど、今はどうなされているのです?”



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