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犯人はすぐには上がりませんでした。強盗に襲われたという説も、一時は上がりました。いずれにせよ、ピストルで撃たれ、二人とも即死の状態でした。この為に、リディアは、一ぺんに両親を失ってしまい、それまでの幸せな状態から、身なし児というどん底の状態になってしまったのです。しかも、館には弟がいて、会社はこの弟が継ぐことになったから、リディアの立場はますます弱いものとなって行きました。両親の葬儀の後、リディアの処遇のことが問題となりましたが、レオノールが、リディアの叔父に当たる、ということで、結局、レオノールがリディアの面倒を見る、ということに決まったのでした…”

 “…それで、あなたのお母さんは、叔父、というより、真実の父親であるレオノールさんのところへ行くことになったのですね”と、パーシバル夫人は、納得したように、ぼくを見つめながら言った、“でも、そのことを、あなたのお母さんには一言もおっしゃらなかったのですか?”

 “ええ、姉アヌーザが死んだ今となっては、レオノールが唯一人知っている事実であり、レオノールも、いつかは話そうと、その機会を伺ってはいたようです”と、ぼくは答えた、“ぼくの母は、死んだ両親を愛していたあまり、レオノールのことをそれほど尊敬してはいなかったようですし、レオノールの方でも、このまま他人扱いを受けているようではダメだ、とも思っていたようです。ところが、その適当な機会をつかめないうちに、ぼくの母は大きくなり、やがて、家を出て行ってしまったのです…”

 “あなたのお母さんは、家を出てしまわれたのですか?”と、パーシバル夫人は、驚いたように目を大きくして尋ねた。

 “ええ、十七才のときに”と、ぼくは落ち着いた表情で答えた、“それまではずっと、リトイアのサビーノ村で、レオノールと暮らしていたんです。レオノールは他に、レオンという、ぼくの母よりは二つ年上の少年も引き取っていましたから、実際は三人で暮らしていました。母は、レオノールのことをずっと他人だと思っていましたし、余りいいようにも思っていませんでしたから、家にいるのや、とりわけ、村での生活が耐え難かったのだと思います。そんなやかやで、母が十七のときに、家を飛び出してしまいました。――ぼくは、今度の旅で、母が十七になるまで暮らしていたサビーノの村にも寄ってみるつもりです…”

 “…そういうことですか”と、パーシバル夫人は、ひと息ついてから言った、“あなたのお話し、よく分かりました。そういう話しが、何十年も前に、この屋敷の周りにあったなんて、わたくし、何も知りませんでした。それにしても、随分と興味深いお話しでした”

 “――でもそれは、本当にあったことです”と、ぼくは語った、“ぼくも初めて聞かされたときは、面白い話しだな、と思い、その真実の程を疑いもしましたが、嘘、偽りはありません。亡くなる直前の老人の話しには、嘘はないはずですから…”

 “ところで、あんたのお母さんの両親が犯罪に巻き込まれ、殺されたという話しだが、犯人は結局、見つからなかったのかね?”

 そう尋ねたのは、運転手だった。


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 同時に、運転手の目も、パーシバル夫人の目も、ぼくの方に注がれた。

 “それは、ミリエル家の二男の、あのバランでした”と、ぼくは答えた、“バランが犯人だったのです。そのことをレオノールは、自分が受刑者の身であり、イールでの生活が耐え切れなくなって、ぼくの母と一緒に、叔母の住むサビーノ村へ行こうと決心した直後に知りました。――バランが、早く会社を乗っ取ろうと、そういう暴挙に出たのです。しかし、バランの逮捕により、ミリエルの会社は、急速に傾いて行ったようです。その後のことについては、ぼくは何も知りません…”

 “同族の経営になる会社なら、恐らく、倒壊するのも早いだろう”と、運転手はしみじみと言った、“昔、ミリエルの会社があったとは聞いていたが、そういう形で潰れたのだとは知らなかった。――しかし、よくある話しとは言え、恐ろしい話しだ…”

 

 ぼくたちは、木洩れ陽がまぶしく照らす白いテーブルのあるベンチに坐り、ぼくの口から語られた、二昔前の重苦しい話しから、今、ようやく解放された気分だった。昔にも、このような平和なひとときが、恐らく存在しもしただろうが、このときほど、平和のありがたさを、しみじみと感じたことはなかった。葉におおい尽くされた柳の枝が風に揺れ、ナデシコやユリの花が、生き生きとした表情を、このぼくたちの方に向けていた。メイドのマニエーラは、まだ館の戸口のところに立って、ぼくたちの方を浮かぬ表情で眺めていた。空は青く、抜けるように、爽やかだった…

 

 “もうよろしいんですか。とってもおいしいですよ”と、パーシバル夫人は再び、テーブルの上に置かれたマスカットを、ぼくたちに勧めてくれた。

 “ええ、けっこうです。とても、おいしいでした”と、ぼくは、丁寧に答えた、“――でも、いつまでもお邪魔する、というわけにも参りません。この辺で、そろそろ失礼させてもらおうと思いますが…”

 “あら、もう帰られるのですか?”と、パーシバル夫人は、さも残念そうな表情をして言った。

 “ええ、残念ですが”と、ぼくは言った、“他にも行かねばならないところがあるのです。きょうは、こんなに素晴らしい天気ですし、この日が終わらないうちに行ってみたいところがあるんです…”

 “それは残念ですわ”と言って、パーシバル夫人は手を差し出した、“あなたのお話しには大変、胸を打たれるところがありました。――ですから是非またもう一度、このうちへお立ち寄りになって下さい。あなたがまた来られるのを、楽しみにしておりますわ…”

 “それは光栄です”と言って、ぼくは、夫人の差し延べた手を取り、固く握手をし、そして、立ち上がった。

 運転手も、ぼくたちに続いて立ち上がった。


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 木陰の風が、冷たく、爽やかだった。春の風が、こんなに涼しく、爽やかだと感じたことはなかった。月桂樹の木の葉も色づき、芝生の緑も鮮やかだった。ぼくは、これから過去をさぐりに行こうというのに、まるで未知なる未来へ向かって行くかのように、心は晴れやかだった。――この日、耳にし、目にしたことを、ぼくは誰に語るだろう? リサにだろうか? それとも、今は姿を現さない、あのママにだろうか?

 

 ぼくたちが茂みを通り、再び屋敷の中に入ったとき、パーシバル夫人の好意で、現在の調理場を、ほんの少しだけ、見せてもらった。そこでは、古びた、見すぼらしい木のテーブルや、流し、食器棚、などが無造作に置かれ、下働きの少し肥え気味の女が、一生懸命、じゃがいもの皮を剥いていた。かつては、この場所で、あのクリスチーヌも働いていたはずだった。しかしこの若い女に、そんな娘が昔いたことなど、どうして知り得よう? ぼくは、壁に掛けられた数多くの鍋や、スプーン類、それに、もう数十年も使い古されたかも知れない、オーブンやレンジなどを、つぶさに眺めた。古ぼけた、大きな柱時計が、今もなお、静かに時を刻んでいたのが印象的だった。

 

 …このようにして、ぼくたちは、パーシバル夫人に見送られて、昔日の名残りをとどめる、今はほとんど知る人のない、ミリエル館を去った。パーシバル夫人は、戸口まで見送りに出て来、ぼくたちの車が、大きな塀に囲まれた鉄製の門の外に出るまで、名残り惜しそうに、いつまでも手を振り続けていた。ぼくたちを乗せた車が門の外に出て、門を完全に閉められてしまうと、ぼくは初めて、この館がぼくに与え続けた、昔の亡霊たちによる一種の夢状態から覚めたことを感じた。車は、館から出ると、素晴らしいプラタナスの並木のあいだを走り始めた。次々と、日光を遮る、空におおいかぶさるような樹木の蔭が、車の窓を過り、日陰の涼しさとあいまって、ぼくを、一種の陶酔状態へと運んで行くのだった。館から去って、何が、そのような気持ちへと、ぼくを追いやったのかは分からない。しかしそのとき、ぼくは感動的で、しかも、幸福だった。ぼくはうっとりと、車のシートにもたれ、窓の外の、静かで、美しい並木や、その向うに広がる牧歌的な景色を見やった…

 

 やがて車は、静かな、美しい川が、ところどころ樹木の茂った原野のあいだを、ゆっくりと流れているところに差しかかった。その川の色は、目も覚めるほど、青く、澄んでいた。あの川こそは、クリスチーヌが死に、流された川に相違なかった。ぼくの目は、黒々とした樹木の林と、川の流れとの対照が鮮やかで、美しい、その川の風景に釘づけとなった。川に差しかかった以上は、クリスチーヌが晩年暮らしていたブロートの館も、そう遠くはないだろう。ぼくたちを乗せた車は風を切って走り、空は、青く、澄んでいて、白い雲が流れていた。


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 川に沿って車が上流へと向かうと間もなく、緑深い森林地帯へと差しかかったが、その直後に、一段と緑の濃い一角に、屋敷らしいものが見え隠れするようになって来た。美事な芝生と、樹木とのコントラストが美しいその奥に、青みがかった緑色の屋根とベージュ色の壁をした館が、今やはっきりと見えて来た。それは、川からは数百メートルも奥まったところに存在していたが、今や疑いはなかった。いくつかの棟が寄せ集まるように立っているその館こそは、クリスチーヌが晩年を過ごした館だった。

 “あれがそうです”と、ぼくは運転手に言った。

 “また、なかなかきれいな建物だねえ”と、運転手は、近付きつつある館を見ながら言った。

 “ええ、静かで、本当に美しいところです”

 そうしているうちにも車は、美事な樹木と芝生とに導かれて、館のゲートまでやって来た。こちらへせり出すように立っている両サイドの館と、ひかえめだが美しい建物の正面が、ぼくたちの目の前に立ちはだかり、その背後は深々とした森におおわれていた。ぼくはベルを鳴らし、家人を呼んだ。この素晴らしい館から、どんな人が姿を現すのだろう。少なからず、ぼくには興味があった。昔なら、ここにはクリスチーヌが住んでいて、彼女が姿を現したはずなのだ。彼女は、美しい黒髪をした美人タイプの娘だった。細面の白い顔、聡明そうな広い額と、キリッとした目つき――ぼくは、クリスチーヌの顔について、レオノールから聞かされ、或る程度の想像はついていたが、一枚の写真もなく、本当の顔は見たこともなかった。しかし、想像上では、彼女は美しく、薄幸の瞳をたたえており、ぼくにとって、永遠の女性を思わせた。そしてもし、そこの館から、長い黒髪をたたえた彼女が姿を現したとするなら、どれほど驚くべきことだろう…

 しかし、静かな館からやがて姿を現したのは、女ではあったが、想像上のクリスチーヌとは似ても似つかぬ中年の、血色のよい、よく太った婦人だった。彼女は、パーシバル夫人から連絡を受けていた為か、笑顔をいっぱい浮かべて、ぼくたちのところにやって来た。

 “どうぞ、どうぞお入り下さい。あなた方のことは、パーシバル夫人から聞いて知っていますのよ。なかなか興味深い話しをなされたとか…”

 そう言って彼女はゲートを開き、ぼくたちを邸内へと招き入れてくれた。

 “いいえ、ほんのちょっと、昔住んでいた人の部屋が見たくて、ここへやって来ただけです”と、ぼくは言った。

 “ええ、ええ、いいですよ”と、彼女は、にこにこしながら言うのだった、“その話しについてなら、興味深いことがあるのですよ。後でお見せ致しましょう…”

 “それはなんです?”と、ぼくは聞いたが、彼女は、それについては言おうとはしなかった。

 

 間もなく、室内に案内されると、中は薄暗くはあったが、豪華な家具といい、シャンデリアといい、ゆったりしたカーテンといい、なかなかのものだった。美事に磨き抜かれたテーブルや、ピアノ、色彩鮮やかな絨毯が、ぼくの目をそそった。


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ぼくはさっそく、寝室のことを尋ねたが、彼女は快く、案内してくれた。円い幾何学模様が美しい真ちゅうの手すりのついた白い階段を上がって行くと、やがて、クリスチーヌがいたと思われる寝室へとぼくたちは案内された。

 “今、あたしどもが、使っている寝室ですが、恐らく、ここがあなたが言われるお方がお暮らしになっておられた寝室でしょう…”

 そう言って開けられたドアの奥から現れた光景は、天蓋付きの刺繍入りのベッド、白い板壁、背の高い押し開きの窓、両側にたくし寄せられた赤いカーテン、薄い緑色の絨毯、黒く磨き抜かれた机と椅子、フロアースタンド、壁に掛けられた一枚の静物画など、ぼくの心を驚かせるものがあった。当時の様子とは同じでないかも知れないが、恐らく、それほど違ってもいないだろう。ミリエルの館から迎え入れられたクリスチーヌは、ここで密かな生活を営み、日々の、ため息や、憂いや、歓びや、苦悩の暮らしをしていたのだ。彼女の一喜一憂の、その息づかいさえもが、聞こえてくるような、そんな気さえもした。薄明るい室内の重苦しさとは対照的に、押し開かれた窓の外の、樹木がしたたる明るい光景が、何んとも言えずさわやかで、晴れ晴れとした気持ちにするのだった。おそらくクリスチーヌも、あの窓から外を見、遠くミリエル館にいるリディアのことや、レビエに住むレオノールのことに思いを馳せたことだろう。――しかし、この周囲は余りにも静かで、彼女の心を、孤独に、寂しく、沈うつにさせるには十分な環境だった。周囲には、ただ静かな森が広がるばかりで、彼女の孤独な気持ちに答えるものは何もない――ただ広がる青空と、遠くを流れる澄んだ青い川を除いては。そんな彼女が、精神的に頼るべきものを持たず、窮地に立たされたとしても、どんな不思議があるだろう? ――この、落ち着いた、静かな部屋をつぶさに見て、ぼくは、そんな気がした。彼女は、この薄明るい室内で最後の夢を見、死への旅路へと、ここから飛び出して行ったのだ…

 

 “あなたの期待に反するかも知れませんが、ここの家具は、全部わたしどもが搬入したものでございますのよ”と、ダーシ夫人は、親切に言ってくれた。

 “いいえ、かまいませんよ”と、ぼくは、振り向いて言った、“これだけでも十分、当時のことが忍ばれますから…”

 実際そうだった。当時のクリスチーヌのベッドが、このベッドと違ったとしても、どれほどの差があるというのだろう? そんなことは問題ではなかった。ただ、この白い壁の部屋、これらの家具で、クリスチーヌの生きた時代が感じられ、その息づかいさえ感じられるなら、それだけでも十分だった。

 “どうもありがとうございました”ぼくは十分に見終えると、振り向き、ダーシ夫人に丁寧に礼を言った。

 ぼくたちは再び、真ちゅうの手すりの白い階段を降り、一階の居間へと案内された。

 白い、刺繍が美事な椅子に腰掛けると、ダーシ夫人は、さっそくぼくに話しかけて来た。



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