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とりわけ、専務のブロートは、血も涙もないということで、労働者たちのあいだでも評判が悪い男でした。そんなある日、会社で、団体交渉が開かれようとしていました。交渉を一目見ようとひしめく労働者たちのあいだに、見慣れぬ顔がひとつありました。それはレオノールで、どういうわけか、労働者たちのあいだに紛れ込んでいたのです。やがて、交渉の時刻がやって来て、会社のお歴々が奥のドアから姿を現しました。社長のモーリスもいれば、副社長のバラン、あの評判の悪い専務ブロートも、続いて部屋に入って来ました。そのときです、労働者の陰から、突然、ものすごい形相をしたレオノールが飛び出して来、ブロートと顔を合わせました。ブロートは、レオノールを一目見るなり、「お前は、あの女の…」と言いかけましたが、そのときはもう既に遅かったのです。レオノールの手には拳銃が握られ、それは、ブロートめがけて火を吹いたからです。余りの突然のことで、誰もレオノールを捕らえようとはしませんでした。労働者たちも、撃たれた相手が相手だけに、撃ったレオノールをそのまま見過ごそうとしました。レオノールはそのまま逃げましたが、間もなくして警官につかまりました。彼は、ブロートをしとめ、クリスチーヌの仇を討ったと思いましたが、実際は弾はそれ、致命傷には至らなかったのです。しかし、彼は逮捕され、殺人未遂の罪で、懲役五年の刑を言い渡されました…”

 “懲役五年も!”と、パーシバル夫人は、驚いた表情をして言った。

 “ええ、祖父は、その刑に素直に服しました”と、ぼくは、冷ややかに答えた、“――それから五年が経ち、世の中もすっかり変わってしまいました。いっときの争議も治まり、社会は再び平和を取り戻していました。レオノールの心も、この五年間ですっかり変わってしまっていましたが、何よりも変わっていたのは、リディアがもう八つにもなり、すっかり娘らしく、成長している姿でした。レオノールは、そんな娘の成長した様を、館の物陰から、こっそりと、何度も目にしていました。それというのも、あの事件を起こした都合上、館に、正式に立ち入ることを許されなかったからです。それで、こっそりと立ち寄っては、リディアが庭で楽しそうに遊んでいる姿を見、胸をなでおろしていました。リディアの成長こそは、レオノールの希望であり、いつかは、本当のことを、一切合切、リディアに話してやろう、と心に決めていました。ときには、彼女の二階の勉強部屋から――さっき見せてもらったあの部屋ですが、彼女が弾くピアノの音色にじっと聞き入り、館の外の壁のところに立って、心のなごむ思いがした、ということもありました。娘らしく成長したリデイアの顔は、見れば見るほど、あのクリスチーヌにそっくりですし、またそうなってくれることを、彼は願っていたのです。レオノールは、これからは心を入れ換え、リディアの為に生きようと、決心しました”

 “…ところがそうこうしているうちに、思いがけない事件がもち上がったのです”と、ぼくは続けた、“レオノールが出所して、まだ日が浅いうちに、今度は姉アヌーザと、ミリエルの会社を継いだ夫、モーリスのあいだに事件が起こりました。二人が、リディアを残して、館の近くを散歩していたときに、何者かに襲われ、殺されてしまったのです。


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犯人はすぐには上がりませんでした。強盗に襲われたという説も、一時は上がりました。いずれにせよ、ピストルで撃たれ、二人とも即死の状態でした。この為に、リディアは、一ぺんに両親を失ってしまい、それまでの幸せな状態から、身なし児というどん底の状態になってしまったのです。しかも、館には弟がいて、会社はこの弟が継ぐことになったから、リディアの立場はますます弱いものとなって行きました。両親の葬儀の後、リディアの処遇のことが問題となりましたが、レオノールが、リディアの叔父に当たる、ということで、結局、レオノールがリディアの面倒を見る、ということに決まったのでした…”

 “…それで、あなたのお母さんは、叔父、というより、真実の父親であるレオノールさんのところへ行くことになったのですね”と、パーシバル夫人は、納得したように、ぼくを見つめながら言った、“でも、そのことを、あなたのお母さんには一言もおっしゃらなかったのですか?”

 “ええ、姉アヌーザが死んだ今となっては、レオノールが唯一人知っている事実であり、レオノールも、いつかは話そうと、その機会を伺ってはいたようです”と、ぼくは答えた、“ぼくの母は、死んだ両親を愛していたあまり、レオノールのことをそれほど尊敬してはいなかったようですし、レオノールの方でも、このまま他人扱いを受けているようではダメだ、とも思っていたようです。ところが、その適当な機会をつかめないうちに、ぼくの母は大きくなり、やがて、家を出て行ってしまったのです…”

 “あなたのお母さんは、家を出てしまわれたのですか?”と、パーシバル夫人は、驚いたように目を大きくして尋ねた。

 “ええ、十七才のときに”と、ぼくは落ち着いた表情で答えた、“それまではずっと、リトイアのサビーノ村で、レオノールと暮らしていたんです。レオノールは他に、レオンという、ぼくの母よりは二つ年上の少年も引き取っていましたから、実際は三人で暮らしていました。母は、レオノールのことをずっと他人だと思っていましたし、余りいいようにも思っていませんでしたから、家にいるのや、とりわけ、村での生活が耐え難かったのだと思います。そんなやかやで、母が十七のときに、家を飛び出してしまいました。――ぼくは、今度の旅で、母が十七になるまで暮らしていたサビーノの村にも寄ってみるつもりです…”

 “…そういうことですか”と、パーシバル夫人は、ひと息ついてから言った、“あなたのお話し、よく分かりました。そういう話しが、何十年も前に、この屋敷の周りにあったなんて、わたくし、何も知りませんでした。それにしても、随分と興味深いお話しでした”

 “――でもそれは、本当にあったことです”と、ぼくは語った、“ぼくも初めて聞かされたときは、面白い話しだな、と思い、その真実の程を疑いもしましたが、嘘、偽りはありません。亡くなる直前の老人の話しには、嘘はないはずですから…”

 “ところで、あんたのお母さんの両親が犯罪に巻き込まれ、殺されたという話しだが、犯人は結局、見つからなかったのかね?”

 そう尋ねたのは、運転手だった。


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 同時に、運転手の目も、パーシバル夫人の目も、ぼくの方に注がれた。

 “それは、ミリエル家の二男の、あのバランでした”と、ぼくは答えた、“バランが犯人だったのです。そのことをレオノールは、自分が受刑者の身であり、イールでの生活が耐え切れなくなって、ぼくの母と一緒に、叔母の住むサビーノ村へ行こうと決心した直後に知りました。――バランが、早く会社を乗っ取ろうと、そういう暴挙に出たのです。しかし、バランの逮捕により、ミリエルの会社は、急速に傾いて行ったようです。その後のことについては、ぼくは何も知りません…”

 “同族の経営になる会社なら、恐らく、倒壊するのも早いだろう”と、運転手はしみじみと言った、“昔、ミリエルの会社があったとは聞いていたが、そういう形で潰れたのだとは知らなかった。――しかし、よくある話しとは言え、恐ろしい話しだ…”

 

 ぼくたちは、木洩れ陽がまぶしく照らす白いテーブルのあるベンチに坐り、ぼくの口から語られた、二昔前の重苦しい話しから、今、ようやく解放された気分だった。昔にも、このような平和なひとときが、恐らく存在しもしただろうが、このときほど、平和のありがたさを、しみじみと感じたことはなかった。葉におおい尽くされた柳の枝が風に揺れ、ナデシコやユリの花が、生き生きとした表情を、このぼくたちの方に向けていた。メイドのマニエーラは、まだ館の戸口のところに立って、ぼくたちの方を浮かぬ表情で眺めていた。空は青く、抜けるように、爽やかだった…

 

 “もうよろしいんですか。とってもおいしいですよ”と、パーシバル夫人は再び、テーブルの上に置かれたマスカットを、ぼくたちに勧めてくれた。

 “ええ、けっこうです。とても、おいしいでした”と、ぼくは、丁寧に答えた、“――でも、いつまでもお邪魔する、というわけにも参りません。この辺で、そろそろ失礼させてもらおうと思いますが…”

 “あら、もう帰られるのですか?”と、パーシバル夫人は、さも残念そうな表情をして言った。

 “ええ、残念ですが”と、ぼくは言った、“他にも行かねばならないところがあるのです。きょうは、こんなに素晴らしい天気ですし、この日が終わらないうちに行ってみたいところがあるんです…”

 “それは残念ですわ”と言って、パーシバル夫人は手を差し出した、“あなたのお話しには大変、胸を打たれるところがありました。――ですから是非またもう一度、このうちへお立ち寄りになって下さい。あなたがまた来られるのを、楽しみにしておりますわ…”

 “それは光栄です”と言って、ぼくは、夫人の差し延べた手を取り、固く握手をし、そして、立ち上がった。

 運転手も、ぼくたちに続いて立ち上がった。


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 木陰の風が、冷たく、爽やかだった。春の風が、こんなに涼しく、爽やかだと感じたことはなかった。月桂樹の木の葉も色づき、芝生の緑も鮮やかだった。ぼくは、これから過去をさぐりに行こうというのに、まるで未知なる未来へ向かって行くかのように、心は晴れやかだった。――この日、耳にし、目にしたことを、ぼくは誰に語るだろう? リサにだろうか? それとも、今は姿を現さない、あのママにだろうか?

 

 ぼくたちが茂みを通り、再び屋敷の中に入ったとき、パーシバル夫人の好意で、現在の調理場を、ほんの少しだけ、見せてもらった。そこでは、古びた、見すぼらしい木のテーブルや、流し、食器棚、などが無造作に置かれ、下働きの少し肥え気味の女が、一生懸命、じゃがいもの皮を剥いていた。かつては、この場所で、あのクリスチーヌも働いていたはずだった。しかしこの若い女に、そんな娘が昔いたことなど、どうして知り得よう? ぼくは、壁に掛けられた数多くの鍋や、スプーン類、それに、もう数十年も使い古されたかも知れない、オーブンやレンジなどを、つぶさに眺めた。古ぼけた、大きな柱時計が、今もなお、静かに時を刻んでいたのが印象的だった。

 

 …このようにして、ぼくたちは、パーシバル夫人に見送られて、昔日の名残りをとどめる、今はほとんど知る人のない、ミリエル館を去った。パーシバル夫人は、戸口まで見送りに出て来、ぼくたちの車が、大きな塀に囲まれた鉄製の門の外に出るまで、名残り惜しそうに、いつまでも手を振り続けていた。ぼくたちを乗せた車が門の外に出て、門を完全に閉められてしまうと、ぼくは初めて、この館がぼくに与え続けた、昔の亡霊たちによる一種の夢状態から覚めたことを感じた。車は、館から出ると、素晴らしいプラタナスの並木のあいだを走り始めた。次々と、日光を遮る、空におおいかぶさるような樹木の蔭が、車の窓を過り、日陰の涼しさとあいまって、ぼくを、一種の陶酔状態へと運んで行くのだった。館から去って、何が、そのような気持ちへと、ぼくを追いやったのかは分からない。しかしそのとき、ぼくは感動的で、しかも、幸福だった。ぼくはうっとりと、車のシートにもたれ、窓の外の、静かで、美しい並木や、その向うに広がる牧歌的な景色を見やった…

 

 やがて車は、静かな、美しい川が、ところどころ樹木の茂った原野のあいだを、ゆっくりと流れているところに差しかかった。その川の色は、目も覚めるほど、青く、澄んでいた。あの川こそは、クリスチーヌが死に、流された川に相違なかった。ぼくの目は、黒々とした樹木の林と、川の流れとの対照が鮮やかで、美しい、その川の風景に釘づけとなった。川に差しかかった以上は、クリスチーヌが晩年暮らしていたブロートの館も、そう遠くはないだろう。ぼくたちを乗せた車は風を切って走り、空は、青く、澄んでいて、白い雲が流れていた。


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 川に沿って車が上流へと向かうと間もなく、緑深い森林地帯へと差しかかったが、その直後に、一段と緑の濃い一角に、屋敷らしいものが見え隠れするようになって来た。美事な芝生と、樹木とのコントラストが美しいその奥に、青みがかった緑色の屋根とベージュ色の壁をした館が、今やはっきりと見えて来た。それは、川からは数百メートルも奥まったところに存在していたが、今や疑いはなかった。いくつかの棟が寄せ集まるように立っているその館こそは、クリスチーヌが晩年を過ごした館だった。

 “あれがそうです”と、ぼくは運転手に言った。

 “また、なかなかきれいな建物だねえ”と、運転手は、近付きつつある館を見ながら言った。

 “ええ、静かで、本当に美しいところです”

 そうしているうちにも車は、美事な樹木と芝生とに導かれて、館のゲートまでやって来た。こちらへせり出すように立っている両サイドの館と、ひかえめだが美しい建物の正面が、ぼくたちの目の前に立ちはだかり、その背後は深々とした森におおわれていた。ぼくはベルを鳴らし、家人を呼んだ。この素晴らしい館から、どんな人が姿を現すのだろう。少なからず、ぼくには興味があった。昔なら、ここにはクリスチーヌが住んでいて、彼女が姿を現したはずなのだ。彼女は、美しい黒髪をした美人タイプの娘だった。細面の白い顔、聡明そうな広い額と、キリッとした目つき――ぼくは、クリスチーヌの顔について、レオノールから聞かされ、或る程度の想像はついていたが、一枚の写真もなく、本当の顔は見たこともなかった。しかし、想像上では、彼女は美しく、薄幸の瞳をたたえており、ぼくにとって、永遠の女性を思わせた。そしてもし、そこの館から、長い黒髪をたたえた彼女が姿を現したとするなら、どれほど驚くべきことだろう…

 しかし、静かな館からやがて姿を現したのは、女ではあったが、想像上のクリスチーヌとは似ても似つかぬ中年の、血色のよい、よく太った婦人だった。彼女は、パーシバル夫人から連絡を受けていた為か、笑顔をいっぱい浮かべて、ぼくたちのところにやって来た。

 “どうぞ、どうぞお入り下さい。あなた方のことは、パーシバル夫人から聞いて知っていますのよ。なかなか興味深い話しをなされたとか…”

 そう言って彼女はゲートを開き、ぼくたちを邸内へと招き入れてくれた。

 “いいえ、ほんのちょっと、昔住んでいた人の部屋が見たくて、ここへやって来ただけです”と、ぼくは言った。

 “ええ、ええ、いいですよ”と、彼女は、にこにこしながら言うのだった、“その話しについてなら、興味深いことがあるのですよ。後でお見せ致しましょう…”

 “それはなんです?”と、ぼくは聞いたが、彼女は、それについては言おうとはしなかった。

 

 間もなく、室内に案内されると、中は薄暗くはあったが、豪華な家具といい、シャンデリアといい、ゆったりしたカーテンといい、なかなかのものだった。美事に磨き抜かれたテーブルや、ピアノ、色彩鮮やかな絨毯が、ぼくの目をそそった。



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