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クリスチーヌはもちろん、父、ガラハ氏にすっかりしぼられたが、父親については一言も言わなかった、ということでした。祖父は、そのことを姉から聞かされても、別に驚きはしませんでした。ただ、ブロートとの結婚の日どりを、それとなく尋ねただけでした。姉アヌーザの結婚の日からほぼ一年が経過した春に、結婚式がとり行われるということでした。姉は祖父に、「あの子を祝ってあげる為に来ない?」と、結婚式に参加することを勧めたが、祖父は、つくろい笑いをしながら、きっぱりと断りました”

 “クリスチーヌと祖父との出会いは、以上のようないきさつです”と、ぼくは言った、“祖父はその後も、たびたび姉の館に行っては、自分の娘であるリディアが姉の胸に抱かれているのを見て来ましたが、そんなある日、姉の口から、クリスチーヌの死んだことを聞かされました。しかも姉は、クリスチーヌに忠実だったメイドからこっそり教えてもらって、すべてを知っていました。クリスチーヌがうわごとのあいだずっと、リディアとレオノールの名を呼び続けていたことを。そして、クリスチーヌがいかにレオノールを愛し、リディアのことをいとおしみ、またいかにブロートから虐待を受けていたかを話し、どうしてこのことをもっと早く告げてくれなかったのか、と言って、祖父をなじりまでしました。しかし、祖父には今や一切が明らかとなりました。クリスチーヌの愛が今や本物であったことを知り、さっそくクリスチーヌが葬られている墓の前へ行っては、おいおいと泣きました。しかし、その悲しみと後悔の中からやがて生まれて来たことは、ブロートに対する憎しみと、復讐の念でした。やがてブロートが、まだまぶたの下の涙が乾きやらぬうちに、早々と別の女と再婚したことを知るや、この思いがいっそう燃えさかりました…”

 ぼくがそこまで話したとき、パーシバル夫人と、運転手とは熱心に聞いていた。風がさわやかで、柳の枝が美しく揺れていた。テラスのそばに咲いているデイジーや、スイセンの花もなかなか美事だ。夫人は、テーブルの上にメイドが置いて行ったマスカットを手に取ると、取りたてで新鮮だからおいしいですよ、とぼくに言って勧めてくれた。ぼくはそれを手に取り、ひと粒を口に入れた。とても冷たくて、口ざわりが良く、おいしかった。

 “…それは気の毒な話しですね”と、パーシバル夫人はぼくを見ながら同情するようなまなざしで言った、“とりわけ、クリスチーヌさんは、気の毒な死なれ方をされました”

 “ええ、それについてはもう少し、詳しい話しがあるんです”と、ぼくは冷静に言った、“実は、ぼくの母は、自分の母クリスチーヌの死を、目撃さえしているのです”

 そう言ったとき、パーシバル夫人と運転手の目は、驚いたように、一段と目が大きくなった。

 “さっき、クリスチーヌは病を得て死んだ、と言いましたが、死因は病死ではなく、自殺だったんです”と、ぼくは続けた、“夫の虐待や病が彼女を絶望の余り、死に追い込んだ、と言えなくもありませんが、ともかく、クリスチーヌは病気によって死んだのではありませんでした。夫の冷たい仕打ち、娘、リディアと会えない寂しさ、レオノールとの情事の破綻、そして、自分の体を蝕む病などが全部重なって、彼女の精神を絶望的な状況へと追いやったのでしょう。


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それは、彼女が結婚して三年目のもう秋も終わろうとしている頃の朝でした。日がようやく明けかけようとしている早朝に、例によって、夫のいない館を、クリスチーヌは、人目を忍ぶようにして、裸足のまま飛び出したんです。服装も、ベッドから飛び起きたままの、白い、夜着のままの姿でした。館の裏手の方には、静かな森のあいだに、寂しい、きれいな小川が流れていました。きっとそこへ行けば、今も見られるはずですが、そこはよく霧が発生するんです。その日もちょうど霧が発生していて、早朝と重なったこともあって、視界がよく効きませんでした。クリスチーヌは、その人気のない、静かな小川の方に向かって行き、そのまま帰らぬ人となってしまったんです。――遺書もなく、事故死だという意見もありましたが、それではどうして、そんな早朝に、夜着のままの姿で、小川に行ったかが理解出来ません。それはともかく、その日の朝に限って、ぼくの母は、母親アヌーザに連れられて、その小川の下流のところまで、早朝の散歩にやって来ていたのです。野原に咲き、秋の風に震えている可愛い花を見ては、心を驚かせていたのでしょう。ところが、小川の向うの方で、村人たちがひとかたまりになって何か話し合っているのを見て、ぼくの母とアヌーザとは好奇心に惹かれ、彼らのいるところまでやって来たのです。こんな早朝に人々が群らがっているというのも変でしたが、母が、大人たちの足のあいだをかき分けて向うに出て目にしたのが、水にぬれたまま、丘に引き上げられ、草むらに横たわっているクリスチーヌの、まるで眠っているような亡骸だったのです。彼女は、家の裏手の森のところで身投げをし、そのまま、ゆっくりとここまで流されて来たんです。もちろんアヌーザの方はすぐクリスチーヌだということに気づき、母をその場から引き離しました。アヌーザにしてみれば、母の実母の死をこんな形で見せることになるなんて、とてもできなかったのでしょう。母には、知らない女の人だ、ということで押し通しましたが、この日の出来事は、母の最も幼い日の記憶として、しっかりと脳裏に刻み込まれたのでした…”

 “じゃあ、あんたのお母さんは、その日の事を記憶しておいでなんですか?”と、夫人は、大きな目をして、ぼくに尋ねた。

 “ええ、記憶していたようです”と、ぼくは答えた、“実はぼく自身も、幼い頃そのような経験をしたことがあるんです。そのときに、ぼくのショックを包み隠そうとの配慮からか、母も、自分の幼い日の経験を語ってくれたことがありました。ぼくはそのとき、もう普通の子供の年齢に達していましたが、母はまだ、たったの三才のときでしたが、そういう強烈な経験は、脳裏から消えることがないんですね。母は、そのとき目にした光景を、可成り詳しく記憶していたようです。しかし、そのとき目にした若い女が、実母だったということは、誰にも教えてもらわなかったから、未だに母は、何も知らないはずです…”

 “そうですか…”と、夫人は、大きくうなずいた、“それじゃなお一層のこと、あなたは、お母さんに会う必要があるんですね…”

 “ええ”と、ぼくはうなずいた、“…きょうの帰りがけにでも、ぼくはその小川へ寄ってみるつもりです。ここからは、そう遠くないところにあるはずですから。ついでに、クリスチーヌが三年間暮らしていた館と、クリスチーヌの眠っている墓地に行くことができれば幸いです。クリスチーヌのいた館は、今も、誰かの手に渡って、あるはずですから…”


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 “あなたのおっしゃっている館はきっと”と、パーシバル夫人は、ぼくの言葉に割って入った、“ダーシさんの館に違いありません。裏手に森ときれいな小川があると言えば、あの方の館以外には、この辺で思い当たりませんわ。あの方のことはよく存じあげていますから、行かれるのなら、こちらからお電話でも差し上げてあげましょうか?”

 “ええ、そうしてもらえれば、助かります”と、ぼくは素直に感謝の意を表した。

 柳の葉のあいだから洩れる光りが、真白なテーブルの上に当たって、光と影の織り成す模様が、ふとぼくの気を惹いた。編み籠に盛られたマスカットの冷たい色や、白いコーヒ茶碗などが、なんとも言えず新鮮だった。春のさわやかな光――そして、そよ風に揺らぐ白や黄色や紫など、様々な色をしたパンジー、スイトピー、アガパンサスの花々。季節はさわやかで、うっとりするような日射しの中のひとときだった。しかし、テーブルの向うには、パーシバル夫人が、そしてこちら側には、帽子をかぶり、あごひげを生やした運転手がぼくの話しを聞いていた。もう一昔も前に、この地で息づき、そして、滅び去ってしまった人々の物語を――

 若いメイドが、向うの木の陰になった館の入口のそばで、こちらを向いて立っていた。ただ夫人の次の合図を待つ為にのみ立っている、何も知らない彼女こそは、あのときのクリスチーヌと同じことをくり返す、現在のクリスチーヌと言うことが出来るのかも知れない…

 “マニエーラ!”夫人は、その若いメイドを呼ぶのに、そういう名前で呼んでいた。若くて、ふっくらとし、愛きょうのあるそのメイドの名は、クリスチーヌではなく、マニエーラだった。彼女は、お茶を運び、果物を運び、パーシバル夫人の言うことに、一つ一つ素直に従い、働いていた。ぼくが、そんな彼女の中に、昔のクリスチースの面影を認めたとしても、どんな不思議があるだろう!

 “でも、まだ話していませんわね、どうして、あなたのお母さんが、実父のレオノールさんと暮らすようになったか、ということを”

 パーシバル夫人は、日射しが暑いのか、扇子であおぎながら、ぼくに言った。

 “ええ、話しがあっちこっち脱線してしまって”と、ぼくは言った、“そのことを今からお話ししましょう”

 ぼくは冷たい飲物を飲み、一息入れると、それから話し始めた。

 “クリスチーヌが亡くなったことを知り、墓の前へ行って悲しむと共に、ブロートヘの復讐をレオノールが誓ったことは、さき程言いました。それはその後、半年も経たぬうちに実現したのです。ちょうど、おりしも不況が社会を取り巻いていた時代で、社会のあちこちで労働争議が頻発していました。ここ、ミリエル家の会社でも例外ではありませんでした。社内では、不況を乗り切る為、思い切った首切りをすべしと主張する、副社長のバランや専務ブロートなどの強硬派と、縮小は止むを得ないが、労働者の主張にも耳を傾けねばならないと主張する社長モーリスを初めとする穏健派とに分かれていました。


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とりわけ、専務のブロートは、血も涙もないということで、労働者たちのあいだでも評判が悪い男でした。そんなある日、会社で、団体交渉が開かれようとしていました。交渉を一目見ようとひしめく労働者たちのあいだに、見慣れぬ顔がひとつありました。それはレオノールで、どういうわけか、労働者たちのあいだに紛れ込んでいたのです。やがて、交渉の時刻がやって来て、会社のお歴々が奥のドアから姿を現しました。社長のモーリスもいれば、副社長のバラン、あの評判の悪い専務ブロートも、続いて部屋に入って来ました。そのときです、労働者の陰から、突然、ものすごい形相をしたレオノールが飛び出して来、ブロートと顔を合わせました。ブロートは、レオノールを一目見るなり、「お前は、あの女の…」と言いかけましたが、そのときはもう既に遅かったのです。レオノールの手には拳銃が握られ、それは、ブロートめがけて火を吹いたからです。余りの突然のことで、誰もレオノールを捕らえようとはしませんでした。労働者たちも、撃たれた相手が相手だけに、撃ったレオノールをそのまま見過ごそうとしました。レオノールはそのまま逃げましたが、間もなくして警官につかまりました。彼は、ブロートをしとめ、クリスチーヌの仇を討ったと思いましたが、実際は弾はそれ、致命傷には至らなかったのです。しかし、彼は逮捕され、殺人未遂の罪で、懲役五年の刑を言い渡されました…”

 “懲役五年も!”と、パーシバル夫人は、驚いた表情をして言った。

 “ええ、祖父は、その刑に素直に服しました”と、ぼくは、冷ややかに答えた、“――それから五年が経ち、世の中もすっかり変わってしまいました。いっときの争議も治まり、社会は再び平和を取り戻していました。レオノールの心も、この五年間ですっかり変わってしまっていましたが、何よりも変わっていたのは、リディアがもう八つにもなり、すっかり娘らしく、成長している姿でした。レオノールは、そんな娘の成長した様を、館の物陰から、こっそりと、何度も目にしていました。それというのも、あの事件を起こした都合上、館に、正式に立ち入ることを許されなかったからです。それで、こっそりと立ち寄っては、リディアが庭で楽しそうに遊んでいる姿を見、胸をなでおろしていました。リディアの成長こそは、レオノールの希望であり、いつかは、本当のことを、一切合切、リディアに話してやろう、と心に決めていました。ときには、彼女の二階の勉強部屋から――さっき見せてもらったあの部屋ですが、彼女が弾くピアノの音色にじっと聞き入り、館の外の壁のところに立って、心のなごむ思いがした、ということもありました。娘らしく成長したリデイアの顔は、見れば見るほど、あのクリスチーヌにそっくりですし、またそうなってくれることを、彼は願っていたのです。レオノールは、これからは心を入れ換え、リディアの為に生きようと、決心しました”

 “…ところがそうこうしているうちに、思いがけない事件がもち上がったのです”と、ぼくは続けた、“レオノールが出所して、まだ日が浅いうちに、今度は姉アヌーザと、ミリエルの会社を継いだ夫、モーリスのあいだに事件が起こりました。二人が、リディアを残して、館の近くを散歩していたときに、何者かに襲われ、殺されてしまったのです。


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犯人はすぐには上がりませんでした。強盗に襲われたという説も、一時は上がりました。いずれにせよ、ピストルで撃たれ、二人とも即死の状態でした。この為に、リディアは、一ぺんに両親を失ってしまい、それまでの幸せな状態から、身なし児というどん底の状態になってしまったのです。しかも、館には弟がいて、会社はこの弟が継ぐことになったから、リディアの立場はますます弱いものとなって行きました。両親の葬儀の後、リディアの処遇のことが問題となりましたが、レオノールが、リディアの叔父に当たる、ということで、結局、レオノールがリディアの面倒を見る、ということに決まったのでした…”

 “…それで、あなたのお母さんは、叔父、というより、真実の父親であるレオノールさんのところへ行くことになったのですね”と、パーシバル夫人は、納得したように、ぼくを見つめながら言った、“でも、そのことを、あなたのお母さんには一言もおっしゃらなかったのですか?”

 “ええ、姉アヌーザが死んだ今となっては、レオノールが唯一人知っている事実であり、レオノールも、いつかは話そうと、その機会を伺ってはいたようです”と、ぼくは答えた、“ぼくの母は、死んだ両親を愛していたあまり、レオノールのことをそれほど尊敬してはいなかったようですし、レオノールの方でも、このまま他人扱いを受けているようではダメだ、とも思っていたようです。ところが、その適当な機会をつかめないうちに、ぼくの母は大きくなり、やがて、家を出て行ってしまったのです…”

 “あなたのお母さんは、家を出てしまわれたのですか?”と、パーシバル夫人は、驚いたように目を大きくして尋ねた。

 “ええ、十七才のときに”と、ぼくは落ち着いた表情で答えた、“それまではずっと、リトイアのサビーノ村で、レオノールと暮らしていたんです。レオノールは他に、レオンという、ぼくの母よりは二つ年上の少年も引き取っていましたから、実際は三人で暮らしていました。母は、レオノールのことをずっと他人だと思っていましたし、余りいいようにも思っていませんでしたから、家にいるのや、とりわけ、村での生活が耐え難かったのだと思います。そんなやかやで、母が十七のときに、家を飛び出してしまいました。――ぼくは、今度の旅で、母が十七になるまで暮らしていたサビーノの村にも寄ってみるつもりです…”

 “…そういうことですか”と、パーシバル夫人は、ひと息ついてから言った、“あなたのお話し、よく分かりました。そういう話しが、何十年も前に、この屋敷の周りにあったなんて、わたくし、何も知りませんでした。それにしても、随分と興味深いお話しでした”

 “――でもそれは、本当にあったことです”と、ぼくは語った、“ぼくも初めて聞かされたときは、面白い話しだな、と思い、その真実の程を疑いもしましたが、嘘、偽りはありません。亡くなる直前の老人の話しには、嘘はないはずですから…”

 “ところで、あんたのお母さんの両親が犯罪に巻き込まれ、殺されたという話しだが、犯人は結局、見つからなかったのかね?”

 そう尋ねたのは、運転手だった。



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