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それから数十年が過ぎた今、この静かな館や、庭園の静まりようを目にしていると、それらの出来事はまるで嘘のようにさえ感じられた。しかし、それらの出来事が風化し、忘れ去られようとしている今もなお、数十年も昔にこの世を去ったクリスチーヌや、その他の人々の亡霊が、この館のどこかに存在し、それぞれの苦悩や、悲しみの声をたてているような、そんな気が、ぼくにはして来るのだった…

 

 “それで、何かお感じになりまして?”

 窓のそばに立って、じっと庭を見つめているぼくに向かって、不意に、パーシバル夫人が声を掛けた。振り向くと、パーシバル夫人が部屋の中央に立ち、その後ろのほぼドアのところに、帽子を手にした運転手が、こちらを見て、立っていた。

 “ええ、やはりね”と、ぼくはしみじみと答えた、“なんと言っても、ぼくの祖母が暮らしていた部屋ですから… それにしても、ここから見える庭園の景色も、素敵ですねえ…”

 そう言って、ぼくは夫人の注意を庭園の方へ向けた。

 “誉めて下すってありがとう”と、夫人は、笑顔で答えた、“でも、もとはと言えば、あなたの祖父のミリエルさんが暮らしていた頃から、既にあった庭ですわ。こんなに素敵な庭、本当に誰が考え出したんでしょうね…”

 “ぼくの祖母も、こんな素敵な庭を眺めることが出来て、幸せだったと思います”とぼくは、それとなく言った。

 “それで、こんなことお聞きしてよろしいでしょうか”と、夫人は、何気なく、尋ねた、“そのクリスチーヌという人は、どなたと御結婚なさったのです?”

 不意に尋ねられた質問に、ぼくは再び夫人を見つめ、答えた。

 “結婚した相手は、ブロート。M・ブロートという、ここの会社の重役でした。しかしその結婚は、不幸な結婚に終わりました。もともと、結婚のときに彼女の気持は、完全に覚めていましたし、以前の約束と、父親への義理だてから、仕方なく踏み切ったような結婚だったのですから”

 “そうですか”と、夫人は、気の毒そうに言った、“――でも、お二人の間に、お子さんがお産まれになったんでしょう? あなたのお母さまも含めて…”

 “ところがそうじゃないんです”と、ぼくは言った、“二人の間には子供は出来ませんでした”

 そう言ったとたん、夫人の表情には、驚きが見られた。

 “それじゃ、あなたのお母さんは”と、夫人は、つい口をすべらせた。

 “そう。私生児だったんです”と、ぼくは冷静に答えた、“それは、ブロートと結婚する前に、すべてが片づいていたことなんです。祖母は、結婚前に、ぼくの母を産み、それを、子供のいなかったミリエル家の長女として、その家に託したんです。それらは極秘のうちに行われたことだけれども、そういういきさつで、ぼくの母は、ミリエル家の娘だ、という風になったんです…”


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 そこまで言ったとき、夫人の表情と、運転手の表情には、驚きの様子がありありと伺われた。

 “…でもそれなら、クリスチーヌさんは、随分とお苦しみになったことでしょうね”と、夫人は、痛ましそうな表情で言った。

 “ええ、そうだと思います”と、ぼくは冷静に答えた、“でも、仕方がなかったんだと思います。そういう運命だったんですから…”

 “それで、お父さんの方は、結局、分からずじまいなんですか?”夫人は再び、それとなく尋ねた。

 “いいえ、分かっています”と、ぼくはきっぱり答えた、“それがレオノール・フローバで、ミリエル家に嫁いだ花嫁の弟に当たる人だったんです。ぼくはその人から、すっかり、全部を話してもらいました。どういういきさつで知り合い、どういういきさつで別れることになったかについてまで、全部をね。――でも、それを話している時間は今はありません”

 “そうですね”と、夫人は、納得したようにうなずいた、“それで、その不幸なクリスチーヌさんが住まれていた部屋が、この部屋だというわけなんですね”

 “そうです”と、ぼくはうなずいた。

 夫人も今や、ぼくの話しから、このすりきれた部屋を違った目で見ているようだった。まるで、光の当たったその白い壁や、鈍く光った床のところに、クリスチーヌの亡霊が存在しているかのように…

 

 “でも古い話しです”と、ぼくは話題を変えて言った、“その後、ここをアトリエにしたという、芸術家膚の若いお嬢さんについては、何か御存知ですか?”

 “ええ、なかなか活発なお嬢さんだったそうですよ”と、夫人は答えた、“いつも男のお友達を連れて来ては、ここで食事をしたり、おしゃべりをしたりして、作品の製作に精を出していたそうです。男のお友達も一人や二人じゃなく、何人も連れて来て、しかも、そのガールフレンドまで呼んだということだから、ほとんど毎日、その顔ぶれが変わっていた、ということだそうですよ。本当に、賑やかな毎日だったそうです…”

 “そうですか”と、ぼくは、思いがけない事実を前にして、言った。

 この静かで、昔からそのままであるような部屋も、鉱山主が住んでいたある時代に、そのような賑やかな声や、笑い声をたくさん響かせていた一時期があるらしいのだ。それは、クリスチーヌが生きた時代と、どれほど変わっていたことだろう。今再び、この部屋は無用のものとなり、当時の静けさに戻っていたが、ぼくもそろそろ、この思い出深い、憂いを含んだ部屋から、立ち去らねばならないときがやって来ていた。


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 “そうですか。じゃきっと”と、ぼくは言った、“ここでは、ある者はイーゼルを立てて油絵を描き、別の者は、粘土をこねて陶器をつくったり、めいめい、思い思いの生活を楽しんでいたんでしょうね。きっと賑やかで、楽しかったことでしょう。そのような生活は、なかなかいいものです。羨ましい限りです。――でも、余りお邪魔をしていてはなんですから、ここを出ましょうか”

 そう言ってぼくたちは、運転手を先頭に、この部屋から出ることにした。

 最後にぼくが部屋を出たとき、振り向き様に見た、カーテンのない、春の光りがいっぱい射し込んでいる、冷たい部屋の様子が、なんとも言えず、わびしげに、悲しげに感じられるのだった…

                             

 ぼくたちは再び、黒ずんだあのところどころ傷のついた階段を降り、一階のフロアーを通って、館の外に出た。パーシバル夫人がドアを閉め、館の中が再び、暗い静けさを取り戻すのとは対照的に、館の外は、まぶしいほどに明るかった。庭に一面敷き詰められた芝生が美事に色づき、周りを花々で飾られた池の水面も、太陽の反射で、キラキラと輝いていた。しかしぼくは、すぐには本館の方に入るのではなく、ニレやブナやその他の樹木におおわれた広大な庭の方へ行きたくなった。どうにも止まらぬ思いが込み上げ、ぼくは、夫人に許しを請うた。

 “…すみませんが、あちらの庭の方へ寄せてもらってもよろしいでしょうか”

 “ええ、かまいませんわ”と、パーシバル夫人は、気のよい返事をしてくれた、“それでしたらわたしが案内しましょう…”

 “ええ、助かります…”

 

 一本だけすくっと立ち上がったようなニレの樹のそばを通って、ぼくたちは美事な紫陽花の咲く花壇へと入って行った。そこは、色とりどりの、様々な花の咲く、まるで楽園だった。デイジーやパンジーやバラなどが一斉に咲き匂い、まるで森のような庭のあちこちに、美事な花を咲かせていた。ぼくたちは、その間を縫うように続く、細い芝生の道を、花壇を楽しみながら歩いて行った。夫人は、それらを眺めながら、庭師が絶えず手入れに来てくれていること、また自分自身は、日に最低一回は、ここを通って、このような花の庭を目にするのを、楽しみにしている、とぼくたちに語ってくれた。

 “…それにしても、素晴らしい庭ですなあ”と、運転手も感心して言った。彼は、空をさえ切るかのようにからみ合う、樹木の先の枝ぶりに目を向けた。

 ぼくは、この花園から咲き匂う、なんとも言えぬ匂いを鼻でかぎ、庭園のふんいきの全体を、ぼくの全身で感じ取ろうとした。ここはまた、幼いリディアが遠い昔の日々を過ごし、戯れたに違いない庭園でもあるのだ。そこのバラの園の陰に隠れていたかも知れず、いたずらっぽくリディアが、その陰からパッと姿を現すような、そんな気さえして来るのだった。


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 やがて、園内を廻ってやって来たところは、チューリップや、スイセンや、ユリの花などが、コーナごとに整然と咲いていて、また、円く刈ったスイカズラの樹がおどけたモンスターのように並んでいる楽しい庭だった。そこにはまた、恐らくさっきの庭から引いて来ていると思われる、小川のような水路が庭園を横切っていて、その際にイリスの花が並ぶように咲いていた。水は澄んでいて、美しい青空を映し、ぼくは思わず、そのそばに歩み寄り、美事なイリスの花を眺め入った。すべてが素晴らしくて、申し分のない庭だった。こんなに広々としていて、変化に富んでいる庭なら、何日暮らそうとも、見飽きることはないだろう。

 やがてぼくたちは、一見テラス風になっていて、月桂樹や、柳の樹の茂っている、白いベンチやテーブルの置いてあるところへやって来ると、庭巡りに疲れた為か、そこに腰を降ろした。すぐ近くにも、ナデシコやパンジーの花々が咲いていて、その姿が美事だった。パーシバル夫人は、メイドにお茶を持って来させると言って席を立ち、夫人が去った後、しばらく、静かな時が流れた。しかしすぐ、夫人は館から姿を現し、晴れやかな表情で、ぼくたちのところにやって来た。彼女は、ぼくたちの坐るベンチとは、直角に並ぶベンチに腰を降ろし、ぼくの方に向いて言った、

 “この庭、お気に召しまして?”

 “ええ、もちろんです”と、ぼくは満足気に答えた、“本当に、素晴らしいお庭ですね。一ぺんに気に入りました…”

 “…それで、あなたはこれから、どうなさるおつもりですか?”

 と夫人は、それとなく尋ねた。

 ぼくはしばらく考えを整理してから、ゆっくりと、一語一語かみしめるように言った、

 “この館のことは、もうだいたい分かりましたから、あとは、あなたのおっしゃっておられた、村の老人の家にでも尋ねて、昔あったことのほんの少しでも、その老人の口から聞き出したいことぐらいなものです。きっとその老人は、ぼくの母の幼い頃の姿を見ておられたでしょうし、その他、クリスチーヌやレオノールのこと、その他、ミリエル家にまつわるぼくの知らないことまで、知っているかも知れません。そうしたことを聞くことができれば、幸いです”

 “わたしどもの館にも”と、パーシバル夫人は言った、“時々、珍しいお方がお訪ねになりますけど、あなたのような方は初めてです。もしよろしければ、今、どのようにお暮らしなのか、聞かせていただきません?”

 それでぼくは仕方なく、現在は独りで寂しい田舎に暮らしていること、妹のうち一人は、メロランスに、もう一人は、温泉地近くのルブライラに住んでいることを話した。生い立ちについても、子供の頃に父親に先立たれ、母親リディアが行方不明となって、以後消息がつかめていないことを語った。今から数年前、貧しい暮らしの中に突然レオノールからの便りが舞い込み、余命幾莫もなかったレオノールが伝えてくれた遺産で、現在は細々と暮らしている、ということもぼくは言った。


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 “そうですか”

 と、パーシバル夫人は、ぼくの話しを聞き終えると、さも納得したように、うなずきながら、答えた。

 “それで、あなたはそのお母さんを捜していらっしゃるんですね?”

 ぼくは、パーシバル夫人の顔を見つめながら、うなづいた。

 運転手は、メイドが運んで来てくれたコーヒと茶菓子を交互に手で取りながら、ぼくの方を、興味ありげな表情で見つめていた。

 “そうです”と、ぼくは言った、“過去のことを知れば、何んらかの手がかりがつかめるかも知れないと思いまして… でも、なかなかむつかしいことだとは思っています”

 “正直な話し、わたしは、お母さんの話しは初めて耳にしました”と、夫人は静かに言った、“なにせ、途中からこの館に参ったものですから。恐らく、うちの主人に尋ねても、ほとんど何も知らないだろうと思います。うちの主人も、ここでは全くの部外者なんですから。――でも、あなたのお話しには、なかなか興味がありますわ。本当に、あなたのお母様が、見つかればいいですのにね…”

 “リトイアの近くのサビーノの村が、母の出身地でもあります。これからそこへも行って、色々と伺おうとも思っています”と、ぼくは、自分の決意を語った。

 “あなたのお母さんはリトイアにも住んでおられたんですか?”と、パーシバル夫人は、少し驚いたような顔をして、言った。

 “ええ、母はミリエル家の両親が亡くなった後、しばらく、叔父のレオノールに引き取られてレビエに住んでいましたが、間もなく、レオノールと一緒に、レオノールの伯母が住んでいたリトイアヘ向かったんです”と、ぼくは言った、“それはまだ母が、八つのときでした”

 “――でも、レオノールさんは、叔父じゃなくて、本当のお父さんだったのでしょう?”

 と、パーシバル夫人は冷静に言った。

 “母は何も知らなかったんです”と、ぼくは、しみじみと言った、“レオノールもずっと本当のことを言わなかったものだから、母はただ、レオノールのことを、とっつきにくい、こわい、頑固な叔父さん、と感じていたようです。でも、身なし児の自分を引き取り、育ててくれたから、感謝だけはしていたようです”

 “何も知らないなんて、お気の毒に!”と、パーシバル夫人は、額にしわを寄せて言った。

 “これには色々と事情があったんです”と、ぼくは言った、“もしおいやでなければ、全部話してもかまいませんが…”

 “ええ、結構ですよ”と、パーシバル夫人は、ぼくの方を見、大きくうなずいた。

 それで、ぼくは、ひと息ついてから、話しを始めた。

 “クリスチーヌ・ガラハは、さっきも言いましたように、結局、M・ブロートと結ばれました。でも、この結婚は、もともとブロートの出世の為に利用された、政略的なもので、愛情のゆえに結ばれたものではありませんでした。



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