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 やがて、掛け金のはずれる大きな音が聞こえ、長年眠りをむさぼっていたドアがゆっくりと開いた。中は真暗で、すぐには中の様子が分からなかった。夫人が中に入り窓のカーテンを開けると、昼のまぶしい光りが射しこみ、暗い室内が照らし出された。長年の眠りから覚まされた、このヒンヤリした室内を目にして、まず最初に思ったことは、夫人の話しから予想していた室内のほこりっぽさがほとんどない、ということだった。今は使われてはいないが、荒れるままにしていたわけでは決してなかったのだ。窓から射し込む明かりと共に現れた、古めかしい、黒光りして堂々とした正面のドアや、白い壁、市松模様の床などは、今すぐにでも人が住める、という感じを与えた。実際、入った入口のすぐ横にはテーブルが置かれ、人の気配が感じられた。確かにここには、昔、人が住んでいたのだ。白い壁に掛けられた鹿の角で、当時の人の生活ぶりが忍ばれた。しかし、それらの品々は、恐らく、クリスチーヌの代のものではないのだろう。恐らく、ミリエル家が去った後住むことになった鉱山王の娘が使っていたものなのだろう。ぼくには、その娘が行った改造の部分と、そうでない部分とを見分けることはできなかった。夫人の案内で奥に進むにつれ、ここが、幸いにも、古い造りそのままになっていることが分かった。新しい感じのする床はともかく、このドアや、壁や、天井は、恐らくクリスチーヌが生きたその当時そのままに、残っているのだろう。ところどころ、漆喰壁がはがれ、その下地がむき出しになっているのを見るにつけ、その思いを強くした。次に、ぼくたちの来たところは、炊事場だった。最初に目についた古めかしいかまども、当時そのままである思いを強くした。ただ、クリスチーヌの頃には炊事に使われていたこのかまども、鉱山主の娘の代になって、陶器を焼くのに使われていたことが分かった。彼女の落とし物である陶器の破片が、かまどの近くに落ちているのが見つかったからだった。

 ぼくたちは、当時の調理場と玄関に連なる食堂兼居間とをつぶさに見て、当時のガラハ父娘の生活ぶりがどんなものであったか、しのばれるような気がした。本館のすぐ脇にあるこの小さな館で、ガラハ父娘は、すべての勤めを終えた後、ほっとひと息をつくように、この部屋の中で、細々と暮らしていたのだ。

 一階の部屋を隅々まで見終えた後、ぼくたちは二階に上がることにした。古めかしい階段の手すりや、一段一段、きしむような音のするこの板張りの階段は、恐らく当時もそのまま存在し、クリスチーヌやその父が、何度も往復したものだろう。そして恐らく、レオノールも足で踏んで二階に上がり、クリスチーヌの部屋で起こっていたことを目にして、急いで駆け降りて行ったのも、この階段なのだ。ぼくたちは一歩一歩まさにその部屋に近づこうとしていた。ただ、ぼくは階段の上がりしな、ふと階段の横に古めかしい食器戸棚があることに気がついた。もちろん中は空だったが、これは、ガラハ父娘が使っていたものなのだろうか。もしそうだとするなら、これほど、当時を忍ばせるものはないのだ。

 夫人に続いて、ぼくは、一歩一歩、クリスチーヌが寝ていた寝室に近づこうとしていた。それこそは、レオノールとクリスチーヌとの仲が、決定的になった寝室なのだ。


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レオノールは何も知らずに二階へ上がって行き、その中で行われていることがどんなに見るに耐え難いことかも知らずに、幸せな気分で、手を掛けた寝室のドアが、もうすぐそこに迫っていた。レオノールはそこで、愛しいクリスチーヌが、事もあろうに彼女のベッドの上で、ミリエル家の二男、バランと無理やり寄り添っている姿を目にしたのだった。無理やり、という言葉には意味がある。レオノールは彼女が強引に寄り添わされていることに気づきはしたが、その光景そのものがいまわしく、そのことを認めたくはなかったのだ。ぼくはまさに、その問題の寝室に立ち合おうとしていた。夫人がドアの前に立ち、ゆっくりと扉をあけた。その扉の奥に向かって、ぼくの目は輝きを増した。あのときの光景が、レオノールの口を通して、ぼくの目には見えるような気がした。木製の粗末なベッド、ほとんど飾り気のない質素な寝室に、クリスチーヌとバランがいて、こちらを向いている。そしてクリスチーヌの表情は、とりわけ悲しそうで、何か嘆願しているようにさえ感じられる。そのクリスチーヌは、下着のままの姿で、しかもそのスリップのストラップの片側は、はずれている。――ぼくは、寝室の扉が開かれると同時に、そんな光景を扉の向う側に想像した。だが、目にしたものは、使い古されて光っている板張りの床と、白い漆喰の壁、板張りの天井、そして格子状の窓の他は何もない、空っぽの部屋だけだった。ぼくは、その何もなさに驚いた。ぼくが想像していた、彼女たちの生き生きした生活ぶりやドラマが、この空っぽの部屋を目にして、一気にどこかへ吹き飛んでしまったような感じだった。想像していたものが消え、あるのはただ、何もない部屋という、現実の姿だけだった。――しかしそれでも、今、ぼくは祖母クリスチーヌが暮らしていた寝室に立っているのだと知り、嬉しいような、悲しいような、複雑な感情が、胸に込み上げて来るのを感じた。この冷たい、静かな部屋――外からの明かりが、床や天井に光りと影の部分とを造っているこのくたびれたような部屋で、クリスチーヌは暮らし、愛や苦悩や不安の日々を送っていたのだと思うと、なんとも言えぬ思いが込み上げて来るのだった。ぼくはゆっくりと光りの射す窓辺に歩み寄った。外は明るく、もう春だった。この二階の窓からも、睡蓮の浮かぶ爽やかな池や、光り輝く芝生や、それらを取り巻くように咲いている色とりどりの美しい花々や、敷地の周囲によく茂っている木立などがよく見渡すことが出来た。恐らくクリスチーヌも、その青春の日々を、こうした風景を目にし、過ごしたことだろう――未来に降りかかる運命も知らず、ただ淡い光りのような希望を、自分の将来に託しながら… 彼女とレオノールとの運命的なドラマは、あの庭で始まり、この部屋で終止符を打ったのだった。その結果、リディアという一人の少女が生まれ、その少女も、やがてこの館を離れ、数奇な運命の手に導かれて行くことになる。ぼくは今、それらすべての発祥の地にいることを知り、胸が熱くなるのを感じた。ここが、数十年前には、レオノールから聞かされた人々が生活し、互いに関係し、あるいは、すれ違いながら、それぞれの人生を生きていた場所だった。館の所有者、ミリエル氏は勿論のこと、その長男、モーリス、弟バラン、執事のガラハや、家政婦、コック、メイド、花嫁のアヌーザ、その弟レオノール、ミリエル株式会社の重役ブロート、そして忘れることのできない、執事の娘、クリスチーヌをも含めて、彼らが互いに交錯し、生活していたのは、まさにこの場所だった。


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それから数十年が過ぎた今、この静かな館や、庭園の静まりようを目にしていると、それらの出来事はまるで嘘のようにさえ感じられた。しかし、それらの出来事が風化し、忘れ去られようとしている今もなお、数十年も昔にこの世を去ったクリスチーヌや、その他の人々の亡霊が、この館のどこかに存在し、それぞれの苦悩や、悲しみの声をたてているような、そんな気が、ぼくにはして来るのだった…

 

 “それで、何かお感じになりまして?”

 窓のそばに立って、じっと庭を見つめているぼくに向かって、不意に、パーシバル夫人が声を掛けた。振り向くと、パーシバル夫人が部屋の中央に立ち、その後ろのほぼドアのところに、帽子を手にした運転手が、こちらを見て、立っていた。

 “ええ、やはりね”と、ぼくはしみじみと答えた、“なんと言っても、ぼくの祖母が暮らしていた部屋ですから… それにしても、ここから見える庭園の景色も、素敵ですねえ…”

 そう言って、ぼくは夫人の注意を庭園の方へ向けた。

 “誉めて下すってありがとう”と、夫人は、笑顔で答えた、“でも、もとはと言えば、あなたの祖父のミリエルさんが暮らしていた頃から、既にあった庭ですわ。こんなに素敵な庭、本当に誰が考え出したんでしょうね…”

 “ぼくの祖母も、こんな素敵な庭を眺めることが出来て、幸せだったと思います”とぼくは、それとなく言った。

 “それで、こんなことお聞きしてよろしいでしょうか”と、夫人は、何気なく、尋ねた、“そのクリスチーヌという人は、どなたと御結婚なさったのです?”

 不意に尋ねられた質問に、ぼくは再び夫人を見つめ、答えた。

 “結婚した相手は、ブロート。M・ブロートという、ここの会社の重役でした。しかしその結婚は、不幸な結婚に終わりました。もともと、結婚のときに彼女の気持は、完全に覚めていましたし、以前の約束と、父親への義理だてから、仕方なく踏み切ったような結婚だったのですから”

 “そうですか”と、夫人は、気の毒そうに言った、“――でも、お二人の間に、お子さんがお産まれになったんでしょう? あなたのお母さまも含めて…”

 “ところがそうじゃないんです”と、ぼくは言った、“二人の間には子供は出来ませんでした”

 そう言ったとたん、夫人の表情には、驚きが見られた。

 “それじゃ、あなたのお母さんは”と、夫人は、つい口をすべらせた。

 “そう。私生児だったんです”と、ぼくは冷静に答えた、“それは、ブロートと結婚する前に、すべてが片づいていたことなんです。祖母は、結婚前に、ぼくの母を産み、それを、子供のいなかったミリエル家の長女として、その家に託したんです。それらは極秘のうちに行われたことだけれども、そういういきさつで、ぼくの母は、ミリエル家の娘だ、という風になったんです…”


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 そこまで言ったとき、夫人の表情と、運転手の表情には、驚きの様子がありありと伺われた。

 “…でもそれなら、クリスチーヌさんは、随分とお苦しみになったことでしょうね”と、夫人は、痛ましそうな表情で言った。

 “ええ、そうだと思います”と、ぼくは冷静に答えた、“でも、仕方がなかったんだと思います。そういう運命だったんですから…”

 “それで、お父さんの方は、結局、分からずじまいなんですか?”夫人は再び、それとなく尋ねた。

 “いいえ、分かっています”と、ぼくはきっぱり答えた、“それがレオノール・フローバで、ミリエル家に嫁いだ花嫁の弟に当たる人だったんです。ぼくはその人から、すっかり、全部を話してもらいました。どういういきさつで知り合い、どういういきさつで別れることになったかについてまで、全部をね。――でも、それを話している時間は今はありません”

 “そうですね”と、夫人は、納得したようにうなずいた、“それで、その不幸なクリスチーヌさんが住まれていた部屋が、この部屋だというわけなんですね”

 “そうです”と、ぼくはうなずいた。

 夫人も今や、ぼくの話しから、このすりきれた部屋を違った目で見ているようだった。まるで、光の当たったその白い壁や、鈍く光った床のところに、クリスチーヌの亡霊が存在しているかのように…

 

 “でも古い話しです”と、ぼくは話題を変えて言った、“その後、ここをアトリエにしたという、芸術家膚の若いお嬢さんについては、何か御存知ですか?”

 “ええ、なかなか活発なお嬢さんだったそうですよ”と、夫人は答えた、“いつも男のお友達を連れて来ては、ここで食事をしたり、おしゃべりをしたりして、作品の製作に精を出していたそうです。男のお友達も一人や二人じゃなく、何人も連れて来て、しかも、そのガールフレンドまで呼んだということだから、ほとんど毎日、その顔ぶれが変わっていた、ということだそうですよ。本当に、賑やかな毎日だったそうです…”

 “そうですか”と、ぼくは、思いがけない事実を前にして、言った。

 この静かで、昔からそのままであるような部屋も、鉱山主が住んでいたある時代に、そのような賑やかな声や、笑い声をたくさん響かせていた一時期があるらしいのだ。それは、クリスチーヌが生きた時代と、どれほど変わっていたことだろう。今再び、この部屋は無用のものとなり、当時の静けさに戻っていたが、ぼくもそろそろ、この思い出深い、憂いを含んだ部屋から、立ち去らねばならないときがやって来ていた。


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 “そうですか。じゃきっと”と、ぼくは言った、“ここでは、ある者はイーゼルを立てて油絵を描き、別の者は、粘土をこねて陶器をつくったり、めいめい、思い思いの生活を楽しんでいたんでしょうね。きっと賑やかで、楽しかったことでしょう。そのような生活は、なかなかいいものです。羨ましい限りです。――でも、余りお邪魔をしていてはなんですから、ここを出ましょうか”

 そう言ってぼくたちは、運転手を先頭に、この部屋から出ることにした。

 最後にぼくが部屋を出たとき、振り向き様に見た、カーテンのない、春の光りがいっぱい射し込んでいる、冷たい部屋の様子が、なんとも言えず、わびしげに、悲しげに感じられるのだった…

                             

 ぼくたちは再び、黒ずんだあのところどころ傷のついた階段を降り、一階のフロアーを通って、館の外に出た。パーシバル夫人がドアを閉め、館の中が再び、暗い静けさを取り戻すのとは対照的に、館の外は、まぶしいほどに明るかった。庭に一面敷き詰められた芝生が美事に色づき、周りを花々で飾られた池の水面も、太陽の反射で、キラキラと輝いていた。しかしぼくは、すぐには本館の方に入るのではなく、ニレやブナやその他の樹木におおわれた広大な庭の方へ行きたくなった。どうにも止まらぬ思いが込み上げ、ぼくは、夫人に許しを請うた。

 “…すみませんが、あちらの庭の方へ寄せてもらってもよろしいでしょうか”

 “ええ、かまいませんわ”と、パーシバル夫人は、気のよい返事をしてくれた、“それでしたらわたしが案内しましょう…”

 “ええ、助かります…”

 

 一本だけすくっと立ち上がったようなニレの樹のそばを通って、ぼくたちは美事な紫陽花の咲く花壇へと入って行った。そこは、色とりどりの、様々な花の咲く、まるで楽園だった。デイジーやパンジーやバラなどが一斉に咲き匂い、まるで森のような庭のあちこちに、美事な花を咲かせていた。ぼくたちは、その間を縫うように続く、細い芝生の道を、花壇を楽しみながら歩いて行った。夫人は、それらを眺めながら、庭師が絶えず手入れに来てくれていること、また自分自身は、日に最低一回は、ここを通って、このような花の庭を目にするのを、楽しみにしている、とぼくたちに語ってくれた。

 “…それにしても、素晴らしい庭ですなあ”と、運転手も感心して言った。彼は、空をさえ切るかのようにからみ合う、樹木の先の枝ぶりに目を向けた。

 ぼくは、この花園から咲き匂う、なんとも言えぬ匂いを鼻でかぎ、庭園のふんいきの全体を、ぼくの全身で感じ取ろうとした。ここはまた、幼いリディアが遠い昔の日々を過ごし、戯れたに違いない庭園でもあるのだ。そこのバラの園の陰に隠れていたかも知れず、いたずらっぽくリディアが、その陰からパッと姿を現すような、そんな気さえして来るのだった。



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