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恐らくそれは、レオノールの話しが余りにも生々しく、また、感動に満ちた内容だったからだろう。ぼくはとりわけ、まだ若かったレオノールがこの館に訪れ、そこで恐るべき光景――即ち、クリスチーヌと、モーリスの弟のバランとが、レオノールの気持を踏みにじるような情事を楽しんでいる光景を目にし、悲しみ、嘆願しながら追いすがろうとする半裸姿のクリスチーヌを振り切るようにして飛び出したのが、この館であることに思いを致した。その決定的な出来事のあった日から、この館はもう何十年経過しているのだろう。その館の屋根や壁は、明るい日射しを浴び、そういう事件など、まるでなかったように、無言の沈黙を続けているようだった。

 “何かありましたのですか?”と、パーシバル夫人は、ぼくの突然の静止をいぶかしむように、ぼくに尋ねた。

 “いえ、なんでもありません”夫人の声で突然、夢を破られ、現実に引き戻されたような気持になって、ぼくは答えた、“ただ少し、あることを思い出しただけです”

 “言いましたように、ここがその離れです”

 “ええ、見たとたん、そうだと分かりました”とぼくは落ち着いて答えた、“窓も、煙突も、なかなか素敵な館ですね。こんなところで暮らせたなんて、なかなか幸せなことです”

 “あなたのおっしゃるガラハとかいう執事は、本当にこの離れに暮らしていたのですか”と、パーシバル夫人は、ぼくの話しに、興味ありげに尋ねた。

 “ええ、だと思います”と、ぼくは答えた。

 “――でもここは、恐らく、あなたの期待に沿うようにはなってはいないでしょう”と、夫人は、気の毒そうに言った、“確か、この前に一度入ったところでは、この中は、アトリエになっていたみたいです。前の所有主の娘さんが、ここを改造して、自分の絵を画くアトリエに変えてしまったようですよ。だから、昔の家具などは何もなくて、古びたイーゼルとか、絵具のチューブとか、そんなのがころがっていたみたいです…”

 “アトリエに!”と、ぼくは驚いたように言った。

 しかしそうかも知れない。所有者が変われば、何もかも一変してしまうことも、やむを得ないことなのだ…

 

 パーシバル夫人と運転手に続いて、ぼくも、その別棟の入口に向かった。夫人は入口に立ち、ドアをあけかけたが、ドアには厳重に鍵が掛けられていて、開かないことが分かった。

 “御免なさい。うっかりして”と、夫人は振り向き、ぼくたちに謝った、“長いあいだ入ったことがないものだから、鍵が掛かっていたのも忘れていたんです。家の鍵は確か、主人が保管していますから、あるかないか調べて来ます。直ぐ戻って来ますから、そのあいだしばらく、ここでお待ち願いますか”

 “ええ、御迷惑をおかけします”と、ぼくは答えた。


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310

 “いいえ、すぐですから”夫人はそう言うなり、ぼくたち二人をその場に残して、館の方へと小走りに去って行った。

 “随分立派な館だねえ”と、夫人が去ってしまうと、運転手がぼくに言った、“庭も広くてきれいし、こんなに広ければ、人を呼んで野外パーティでも、できそうだね”

 野外パーティ! ぼくはそのことで、あることを思い出した。そしてもう一度、池や、その向うに広がる、芝生の色が美しい、広大な庭園を眺めた。広い、芝生の周りに縁どられた花壇や、刈り込みなどを目にして、そうだ、ここであの、盛大な、結婚披露パーティが行われたのだ、ということを思い出した。それはもう、何十年昔のことだろう。レオノールの姉、アヌーザと、ここの当主の長男であり、ミリエル繊維会社の副社長でもあったモーリスとが結ばれ、その披露パーティが行われたのは、まさしくここだったのだ。それは、ぼくの母リディアが生まれる、まだ一年以上も前のことだった。レオノールによれば、それは盛大なパーティだったそうだ。庭には、白塗りのしゃれたテーブルがいくつも並べられ、その上に、美事という他はない料理がいくつも並べられ、シャンペンやワインでみんなは乾杯し、楽しげな、愉快な饗宴がくり広げられた。楽士たちも呼ばれ、彼らの奏でる音楽に乗せて、みんなは踊ったりもしたということだ。しかし、その中心にはもちろん、アヌーザとモーリスがいた。彼等は、みんなから祝福を受け、みんなの前でキスをするようにせがまれもした。祝福の花束を持った、幸せ一杯の上品で、美しいアヌーザと、その横に、できるだけ落ち着きを保とうとしている、やや緊張気味のモーリスとが座っている光景は、レオノールから何度も聞かされ、目に浮かぶまでさえなっていた。しかし、それがここなのだ、ということについては、今の今まで思い浮かばなかった。

 「…あれは、ミリエル家の館の、大きな池がすぐ近くに見降ろせるところだった」と、レオノールは言っていた。

 村の教会で結婚式を挙げた後、二人がやって来たのは、まさにこの館の庭であり、レオノールの言葉から察すると、広い庭園の中でも、ちょうどあの池の向う側辺りの芝生が特に美事なところで、宴会は催されたのだ。

 ぼくはその場に立って、じっと、ユリやスイセンやサクラソウなどの花々が、その周囲に美事に咲いている、澄んだ水をたたえた、美しい睡蓮の池を眺めた。ちょうどあの池の、向う側辺りに沢山のテーブルが並べられ、賑やかに披露宴がくり広げられたのだろう。そのずっと先には、幾種類かのとうひや、ヒマラヤ杉や、樫や、その他の樹木が、一定の間隔を置いて茂っており、恐らく、木陰となってちょうどいいあの下辺りにも、テーブルが並べられ、饗宴が楽しまれたであろうことが推察された。芝生の切れ目の、庭の端辺りにも、アザミやデイジー、アマリリスなどの花々が、他の草に混じって、所狭しと咲いていた。実になごやかで、素晴らしい光景だった。ちょうどその前日は雨が降って、披露パーティが危ぶまれたということだったが、その当日は素晴らしく晴れ渡ったということだ。だからその日もきっと、この日のようによく晴れていたに違いない。季節もちょうど春で、この日のように、至るところ、春の花々が咲いていたことだろう。


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この広くて、素晴らしい庭が、あのとき以来、どのような変貌を遂げたのかぼくは知らないが、恐らくそんなに変わっている風には見えなかった。ただあのとき、レオノールが目にした光景――忘れ難い光景と違うただひとつの点は、あの賑やかな宴席も、それに列席した人々の姿も、楽士もメイドも花嫁の姿もなくて、今はただ静かな庭園が日を浴びて、そこにあるということだけだった。しかしあの日、レオノールは、あの晴れやかな、生涯忘れることのできない宴席の場で、初めて、若くて、美しいメイドのクリスチーヌ・ガラハと出会ったのだった。

 ――それが、この場所であり、この美しい庭園だったと知って、ぼくはまるで、夢のような気分に誘われた。確かに、結婚の披露パーティが盛大に催されるには、余りある庭園であり、ここでそれが取り行われたのはもう間違いのないことだった。だとするなら、レオノールはどこに腰掛け、人知れず客の注文の料理などを運んでいたクリスチーヌとは、どこで、どのようにして出会ったのだろう。また、クリスチーヌが、二人の結婚を祝う為に、得意のピアノを弾いて、素晴らしい歌声を聞かせたのはどこだったのだろう? いずれにせよ、レオノールとクリスチーヌとがここで出会うことは、レオノールの姉アヌーザの婚約の日から、既に運命づけられていたのだった。二人はその日、ここで運命的に引き合わされ、その後に起こったすべての事件が、この美しい庭園である、この場所から始まることになったのだった… そう考えると、ぼくはもう一度つくづくと、春の日を浴びた、美しい花に飾られた睡蓮の池や、その向うに広がる穏やかな芝生、木立の群れなどを眺めずにはいられなかった。

 

 “それで、この庭で何かあったのかね”不意に運転手がぼくに尋ねた。

 “いえ、聞いた話しを、ちょっと思い出していただけです”と、ぼくは落ち着いて答えた。

 “まあ、こういう大きな館と広い庭園なら、ちょっとした話しの一つや二つぐらいはあるだろう”と、運転手は言った、“余り詮索するのはよすがね、でも、もしよければ、少しぐらい聞かせてくれてもいいと思うんだが…”

 それでぼくは、ここで結婚披露宴があったことを、ほんの少しのあいだ、彼に語って聞かせることにした。

 

 しばらくすると、パーシバル夫人が、塔の下にあるドアから姿を現した。いそいそとやって来る夫人の手には、古びて黒光りした鍵がしっかりと握られていた。

 “お待たせして、御免なさい”とパーシバル夫人は、やって来るなり言った、“うちの主人ったら、鍵をみんないっしょくたにしているもんだから、見つけ出すのが大変。でも、やっと見つかったようですわ。ホラ、この通り”

 そう言って、パーシバル夫人は、その大きな鍵を、ぼくたちの目の前にさし出した。それからすぐ、ぼくたちの立っている前を通り越して、別棟のドアの所へと向かった。


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 やがて、掛け金のはずれる大きな音が聞こえ、長年眠りをむさぼっていたドアがゆっくりと開いた。中は真暗で、すぐには中の様子が分からなかった。夫人が中に入り窓のカーテンを開けると、昼のまぶしい光りが射しこみ、暗い室内が照らし出された。長年の眠りから覚まされた、このヒンヤリした室内を目にして、まず最初に思ったことは、夫人の話しから予想していた室内のほこりっぽさがほとんどない、ということだった。今は使われてはいないが、荒れるままにしていたわけでは決してなかったのだ。窓から射し込む明かりと共に現れた、古めかしい、黒光りして堂々とした正面のドアや、白い壁、市松模様の床などは、今すぐにでも人が住める、という感じを与えた。実際、入った入口のすぐ横にはテーブルが置かれ、人の気配が感じられた。確かにここには、昔、人が住んでいたのだ。白い壁に掛けられた鹿の角で、当時の人の生活ぶりが忍ばれた。しかし、それらの品々は、恐らく、クリスチーヌの代のものではないのだろう。恐らく、ミリエル家が去った後住むことになった鉱山王の娘が使っていたものなのだろう。ぼくには、その娘が行った改造の部分と、そうでない部分とを見分けることはできなかった。夫人の案内で奥に進むにつれ、ここが、幸いにも、古い造りそのままになっていることが分かった。新しい感じのする床はともかく、このドアや、壁や、天井は、恐らくクリスチーヌが生きたその当時そのままに、残っているのだろう。ところどころ、漆喰壁がはがれ、その下地がむき出しになっているのを見るにつけ、その思いを強くした。次に、ぼくたちの来たところは、炊事場だった。最初に目についた古めかしいかまども、当時そのままである思いを強くした。ただ、クリスチーヌの頃には炊事に使われていたこのかまども、鉱山主の娘の代になって、陶器を焼くのに使われていたことが分かった。彼女の落とし物である陶器の破片が、かまどの近くに落ちているのが見つかったからだった。

 ぼくたちは、当時の調理場と玄関に連なる食堂兼居間とをつぶさに見て、当時のガラハ父娘の生活ぶりがどんなものであったか、しのばれるような気がした。本館のすぐ脇にあるこの小さな館で、ガラハ父娘は、すべての勤めを終えた後、ほっとひと息をつくように、この部屋の中で、細々と暮らしていたのだ。

 一階の部屋を隅々まで見終えた後、ぼくたちは二階に上がることにした。古めかしい階段の手すりや、一段一段、きしむような音のするこの板張りの階段は、恐らく当時もそのまま存在し、クリスチーヌやその父が、何度も往復したものだろう。そして恐らく、レオノールも足で踏んで二階に上がり、クリスチーヌの部屋で起こっていたことを目にして、急いで駆け降りて行ったのも、この階段なのだ。ぼくたちは一歩一歩まさにその部屋に近づこうとしていた。ただ、ぼくは階段の上がりしな、ふと階段の横に古めかしい食器戸棚があることに気がついた。もちろん中は空だったが、これは、ガラハ父娘が使っていたものなのだろうか。もしそうだとするなら、これほど、当時を忍ばせるものはないのだ。

 夫人に続いて、ぼくは、一歩一歩、クリスチーヌが寝ていた寝室に近づこうとしていた。それこそは、レオノールとクリスチーヌとの仲が、決定的になった寝室なのだ。


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レオノールは何も知らずに二階へ上がって行き、その中で行われていることがどんなに見るに耐え難いことかも知らずに、幸せな気分で、手を掛けた寝室のドアが、もうすぐそこに迫っていた。レオノールはそこで、愛しいクリスチーヌが、事もあろうに彼女のベッドの上で、ミリエル家の二男、バランと無理やり寄り添っている姿を目にしたのだった。無理やり、という言葉には意味がある。レオノールは彼女が強引に寄り添わされていることに気づきはしたが、その光景そのものがいまわしく、そのことを認めたくはなかったのだ。ぼくはまさに、その問題の寝室に立ち合おうとしていた。夫人がドアの前に立ち、ゆっくりと扉をあけた。その扉の奥に向かって、ぼくの目は輝きを増した。あのときの光景が、レオノールの口を通して、ぼくの目には見えるような気がした。木製の粗末なベッド、ほとんど飾り気のない質素な寝室に、クリスチーヌとバランがいて、こちらを向いている。そしてクリスチーヌの表情は、とりわけ悲しそうで、何か嘆願しているようにさえ感じられる。そのクリスチーヌは、下着のままの姿で、しかもそのスリップのストラップの片側は、はずれている。――ぼくは、寝室の扉が開かれると同時に、そんな光景を扉の向う側に想像した。だが、目にしたものは、使い古されて光っている板張りの床と、白い漆喰の壁、板張りの天井、そして格子状の窓の他は何もない、空っぽの部屋だけだった。ぼくは、その何もなさに驚いた。ぼくが想像していた、彼女たちの生き生きした生活ぶりやドラマが、この空っぽの部屋を目にして、一気にどこかへ吹き飛んでしまったような感じだった。想像していたものが消え、あるのはただ、何もない部屋という、現実の姿だけだった。――しかしそれでも、今、ぼくは祖母クリスチーヌが暮らしていた寝室に立っているのだと知り、嬉しいような、悲しいような、複雑な感情が、胸に込み上げて来るのを感じた。この冷たい、静かな部屋――外からの明かりが、床や天井に光りと影の部分とを造っているこのくたびれたような部屋で、クリスチーヌは暮らし、愛や苦悩や不安の日々を送っていたのだと思うと、なんとも言えぬ思いが込み上げて来るのだった。ぼくはゆっくりと光りの射す窓辺に歩み寄った。外は明るく、もう春だった。この二階の窓からも、睡蓮の浮かぶ爽やかな池や、光り輝く芝生や、それらを取り巻くように咲いている色とりどりの美しい花々や、敷地の周囲によく茂っている木立などがよく見渡すことが出来た。恐らくクリスチーヌも、その青春の日々を、こうした風景を目にし、過ごしたことだろう――未来に降りかかる運命も知らず、ただ淡い光りのような希望を、自分の将来に託しながら… 彼女とレオノールとの運命的なドラマは、あの庭で始まり、この部屋で終止符を打ったのだった。その結果、リディアという一人の少女が生まれ、その少女も、やがてこの館を離れ、数奇な運命の手に導かれて行くことになる。ぼくは今、それらすべての発祥の地にいることを知り、胸が熱くなるのを感じた。ここが、数十年前には、レオノールから聞かされた人々が生活し、互いに関係し、あるいは、すれ違いながら、それぞれの人生を生きていた場所だった。館の所有者、ミリエル氏は勿論のこと、その長男、モーリス、弟バラン、執事のガラハや、家政婦、コック、メイド、花嫁のアヌーザ、その弟レオノール、ミリエル株式会社の重役ブロート、そして忘れることのできない、執事の娘、クリスチーヌをも含めて、彼らが互いに交錯し、生活していたのは、まさにこの場所だった。



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