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 二人は、その言葉を聞いて笑っていた。

 “でも、この部屋は、お母さんがいた頃とは、だいぶ変わっているんじゃないかしら?”と、パーシバル夫人は、落ち着いた表情で言った、“ソファーも、勉強机も、ピアノもわたしたちが持ち込んだものですし、絨毯だって敷き変えましたわ。強いて変わっていないもの、というなら、この壁の色ぐらいなものじゃないでしょうか。ここの部屋は昔からブルーだったということですよ”

 ぼくはその言葉でもう一度、この部屋を眺めた。

 今の子供が使い、一見、何んの変わりばえもしないこの部屋も、数十年前には、まだ幼かったママが使っていたのだった。恐らく、壁にはめられた暖炉だけは、今も、その当時の姿を見せているのだろう。現在の姿からは、昔ママが使っていた頃を想像することは不可能に近かったが、ただ、窓際の、さりげなく花を活けた花瓶を見ていると、当時のママが、そこのピアノのところに坐って、女の先生にレッスンを受けているときの姿が、目に浮かんで来るような気がした…

 一瞬目を閉じると、

 “もう結構です”と、ぼくは言った。

 

 その部屋を出、ぼくたちは、パーシバル夫人に案内されるまま、次の部屋へと向かった。

 “あなたの言っておられる部屋は、現在は使っておりません”と、パーシバル夫人は、廊下を歩きながら、その部屋に着く前に言った、“わたしたちも余り入ったことがないんですよ。今は物置きに利用していますが、あなたの期待に添うことができますか”

 そう言って夫人は、廊下の隅のドアの前に立ち、ドアをあけた。

 中は真暗だった。

 しかしすぐパーシバル夫人は、窓に歩み寄って、カーテンを開けた。昼間の明るい日射しが、室内を浮かび上がらせた。部屋は、それほど大きくはなかったが、足の踏み場もないほど、白いシーツでおおいをした、ソファーやテーブルやキャビネットなどが置かれていた。寝室の面影は全くなかった。しかし、ママが言っていた言葉からすると、この部屋に間違いはなかった。ただ、壁に掛けられた古い額が、当時を忍ばせるような気がした。窓のすぐ向うでは、よく茂ったかばの木が、その美事な葉を風に揺らしていた。窓から見える空は青く、白い雲が浮かんでいた。恐らくママも、幼い頃、この部屋から窓の外を仰ぎ見、あのような空を目にしていたことだろう… この部屋にベッドはなく、ただ他の家具が雑然とあるばかりだった。現在のこの光景からは、ママが寝ていたその姿すら、想像することは出来なかった。――でも間違いなくママはここに住み、毎朝のすがすがしい目覚めを経験していたに違いなかったのだ。そして、目が覚め、まっ先に見たかも知れない、年を刻んだ天井に目をやった。ベッドの置かれていた位置はすぐ分かった。恐らくここだろう。他では、家具の配置上不可能になるのだった。ぼくは再び窓辺に寄り、さっきの池が、あの部屋よりは遠のいたものの、ここからも十分眺められることを確認した。


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 “どうです? こんな有様じゃ、何んの助けにもならないでございましょ?”と、パーシバル夫人は、窓辺に立って、ぼくに言った。

 “いいえ、これで十分です”と、ぼくは答えた、“部屋の様子が変わるのは仕方がありません。ただその部屋を見ることが出来ただけでもぼくは幸せです…”

 

 ぼくはその部屋とも別れた。夢にまで描いていた部屋だったが、こうして、余りにも変わり果てた部屋を見てみると、見ない方がよかったかも知れない、という気さえした。いつまでも、夢のままの状態に置いておいたほうがよかったかも知れない。――しかし、ひとたび廊下に出ると、その立派なシャンデリアや、美事な手摺り、重厚なドアや廊下の壁に至るまで、立派な彫刻や細工がほどこされ、ママの言っていたことが夢ではなく、現実そのものの姿で迫って来るような気がして来るのだった。ママが何百回、いや何千回となく通ったに違いない、この廊下や階段は、今も、当時そのままの姿で残されていた。あの華麗なシャンデリアはもちろん、廊下のところどころに置かれている机や、ソファーなども、恐らく、当時もそのままに置かれていたに違いない。そう思うと、すでに変わってしまった部屋を見るよりも、この屋敷の内部の方が、遥かに大きな感動を呼ぶのだった。

 “他の部屋はよろしいんですか?”と、パーシバル夫人はドアを閉めるなり、ぼくに尋ねた。

 “ええ、この階は、これで結構です”と、ぼくは答えた、“――ですが、手紙にも書きましたように、食堂や居間、それに、昔、ここで執事をしておられたガラハ氏とその娘が住んでいたという部屋を是非見せていただきたいんです。その部屋は、この屋敷の離れにあると聞いていましたが…”

 “ああそれでしたら”と、パーシバル夫人は、気が付くものがあったように言った、“それに該当しそうな建物が一軒ありますが、今は誰も使っていない部屋ですよ。長いあいだ使っていないものですから、中はどうなっているものか。確か、前の持ち主ですら使っていなかったということですから、そこだけは、昔の面影をかなりとどめているんじゃないかしら? わたしもあそこだけはめったに入ったことがないんですよ”

 “もしそうなら助かります”と、ぼくは胸を踊らせて言った。もし昔のままなら、これほど幸せなことはない。なぜならそこは、ママの本当の母親、クリスチーヌ・ガラハが暮らしていたところなのだから。

 “でもそこは後回しにして、食堂から行くことにしましょうか?”と、パーシバル夫人は言った。

 “ええ、結構です”と、ぼくは答えた。

 

 食堂は、階段を降りて、一階の奥にあった。パーシバル夫人がドアをあけると中から美事な食堂が現れた。


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中央に、白いテーブルクロスを掛けた、椅子が優に十は置くことのできる大きな、丸みを帯びたテーブルがあり、その上には、燭台や、水差しや、花が飾ってあった。向かって左手のところには落ち着いた暖炉があり、右側の壁には、黒光りしている背の低い棚があり、それらの上にも、花や、装飾用の皿や、銀の燭台などが置いてあった。しかし何よりも目を惹いたのは、美事なシャンデリアと、壁に掛けられた、森の風景のタペストリーだった。ぼくは、その豪華さにしばらく目を奪われた。しかし、今目にするこの食堂の光景は、昔のときとは随分と異なっているに違いない。突き当たりに見える窓の向うの、樹木におおわれた庭の光景だけが、かろうじて当時を忍ばせてくれるような気がした。

 “ここの食堂も”とパーシバル夫人が言った、“いろいろと手を入れましたけど、でも、この中央のテーブルと、暖炉だけは昔のままだと思いますよ。余り立派だから変えるに忍びなかったんです。他は随分と変わっているでしょうけどね…”

 その言葉で、ぼくはじっと中央の丸みを帯びた、リネンの白いクロスにおおわれたテーブルと、黒い唐草模様のレリーフをほどこした暖炉とを眺めた。恐らく、ぼくの母親も幼い頃、ここで食事をし、このテーブルや暖炉に手を触れたりもしていたのだろう。しかしその当時、この食堂が、他にどのように飾り立てられていたのか知る由もなかった。ただ、ぼくは、樹木がいっぱい茂っている余りにも美事な窓の外の様子に心が惹かれ、ちょうどあった横のドアから、庭に出てみたくなった。

 “外に出てみてもいいですか?”と、ぼくは、振り向いて、パーシバル夫人に尋ねた。

 “ええどうぞ”と、パーシバル夫人は、快く承諾してくれた。

 ぼくはドアのところに歩み寄り、取手を取って、ドアをあけ、外に歩み出た。恐らく、ママもここを通って何度も外に出たであろうドア。庭への第一歩を踏み出すと、昼の日射しが、樹木や花や庭の芝生に降り注ぎ、まぶしかった。窓のすぐ下には、壁に沿って長い植え込みがあり、そこには数種類の黄色や赤や白いアネモネが咲いていて、風に揺れていた。食堂の窓のところは特に樹木が多く、潅木の下には、しだなどがおい茂っていた。しかし、ぼくの目を止めたのは、さっき、二階から見下ろすことになったかなりの広がりを持った蓮池だった。池のほとりにも様々な花が咲いており、さっき目にしたローマ風の彫像が、静かに池のそばに立っていた。ぼくの体は自然、その方向へと向うのだった。屋敷からそう離れていない池のほとりまで来ると、ぼくは足を止めた。そして、さっきは遠くに見えた蓮池を間近かに感じ、水面に浮かぶ睡蓮や、又、水に反映するスイセンや、イリスの花と共に、自分の姿をも見つめた。恐らくママもこの池で、このように自分の姿を見つめたことだろう。この、昔から存在し、変わることのない池については、何度もママから聞かされたものだった。今、その池のほとりに立って、何んとも言い表しようのない思いが胸に込み上げて来るのを感じた。ママは、まだぼくが生まれる遥か前、ほんの子供のときに、この池のそばで、両親や、家庭教師や、恐らくは女中たちに囲まれて、戯れていたのだろう。そうした遥か昔に、この庭でくり広げられた光景が、この明るい日射しの中で、ぼくの目に浮かぶような気がした。


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庭の向うで、ひと際高く、まっ直ぐに上にのびるように、美事に茂るニレの木や、どっしりとした、いくつもの煙突や、破風のある、レンガ造りの、沢山の白い窓が目を惹く、土色の館を見ていると、ここが本当にその場所なのだ、という実感がいよいよ強まって来るのだった。ぼくの目は自然、さっき足を踏み入れることになった二階の勉強部屋の窓、そして、ママの寝室の窓へと向き、それからさらに、大きな芝色の屋根よりも、もっと高く茂る樹木や、尖塔や、その上に広がるまっ青な、美しい空へと向かうのだった。

 そんなぼくの様子を、ドアのところから出て来たばかりのパーシバル夫人と、運転手の二人は、きつねにつままれたような表情で眺めていた。ぼくの、何かにつかれたようなその仕種に、恐らくあっけにとられたのだろう。二人は、言うべき言葉を持たないかのように、ただ、ぼくを見つめていた。その、沈黙のひとときを破ったのは、ぼくの方だった。

 “間違いありません”と、ぼくは、二人の方に向いて言った、“ここは、ぼくの母親が昔、口にしていたところです。――でもここは、ぼくが想像していたよりも、もっと広く、もっと美しいところでした。母親が、こんな素晴らしいところで暮らしていたなんて、思いも及ばなかったことです。本当に素晴らしいところです。何もかも…”

 その言葉で、パーシバル夫人の顔はほころんだ。

 “何んでしたら、庭に出たついでに、離れの屋敷の方へ案内しましょうか。すぐそこなんです”

 “ええ、是非お願いします”と、ぼくは答えた。

 夫人は、睡蓮の池に続く、庭に造られた小川のような細長い水路に沿って、塔の向う側へと、ぼくたちを案内した。

 すると、母屋と直角に連なるような形で、壁の色も、屋根の色も、ほぼ母屋と同じような造りをした、小さな館が現れた。それを目にしたとたん、ぼくには何んとも言えない感慨のようなものが、胸の中を走り去るのを感じた。本館とは別棟のこの小さな、しかし感じのよい館――その周囲を取り巻くようによく茂った樫の木が明るく輝いていたが、この館こそは、その後に続くすべての物語の発端ともなるべき舞台を提供したものなのだ。ぼくはそれを見るなり、この館こそは、レオノールがぼくに聞かせてくれたあの館であることを確信した。そうだ、間違いなくこの館なのだ、あのガラハ父娘が暮らし、この館の主に仕えて働くために住んでいた館なのだ。ぼくの関心は、母屋よりもむしろ、この小さな、しかし魅力的な別棟にあった。なぜなら、この館こそは、ぼくの母の母、クリスチーヌ・ガラハが暮らしていた館なのだから…

 ガラハ父娘が、どういうきっかけで、いつからこの館に住むようになったかについてまでは、ぼくも、詳しいことは聞いていなかった。しかしここの父娘が、ミリエル家の当主と、長男のモーリスに特に可愛がられていたことは、何度もレオノールから聞いて知っていた。ぼくは館の前に立ち、もう遥か昔の、ガラハ父娘や、ミリエル家の人々や、まだ若かったレオノールや、その姉が生きていた時代に思いを馳せようとした。この館を見ていると、なぜかしら、まるでその時代に居合わせているかのような、そんな気がしてくるのだった。


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恐らくそれは、レオノールの話しが余りにも生々しく、また、感動に満ちた内容だったからだろう。ぼくはとりわけ、まだ若かったレオノールがこの館に訪れ、そこで恐るべき光景――即ち、クリスチーヌと、モーリスの弟のバランとが、レオノールの気持を踏みにじるような情事を楽しんでいる光景を目にし、悲しみ、嘆願しながら追いすがろうとする半裸姿のクリスチーヌを振り切るようにして飛び出したのが、この館であることに思いを致した。その決定的な出来事のあった日から、この館はもう何十年経過しているのだろう。その館の屋根や壁は、明るい日射しを浴び、そういう事件など、まるでなかったように、無言の沈黙を続けているようだった。

 “何かありましたのですか?”と、パーシバル夫人は、ぼくの突然の静止をいぶかしむように、ぼくに尋ねた。

 “いえ、なんでもありません”夫人の声で突然、夢を破られ、現実に引き戻されたような気持になって、ぼくは答えた、“ただ少し、あることを思い出しただけです”

 “言いましたように、ここがその離れです”

 “ええ、見たとたん、そうだと分かりました”とぼくは落ち着いて答えた、“窓も、煙突も、なかなか素敵な館ですね。こんなところで暮らせたなんて、なかなか幸せなことです”

 “あなたのおっしゃるガラハとかいう執事は、本当にこの離れに暮らしていたのですか”と、パーシバル夫人は、ぼくの話しに、興味ありげに尋ねた。

 “ええ、だと思います”と、ぼくは答えた。

 “――でもここは、恐らく、あなたの期待に沿うようにはなってはいないでしょう”と、夫人は、気の毒そうに言った、“確か、この前に一度入ったところでは、この中は、アトリエになっていたみたいです。前の所有主の娘さんが、ここを改造して、自分の絵を画くアトリエに変えてしまったようですよ。だから、昔の家具などは何もなくて、古びたイーゼルとか、絵具のチューブとか、そんなのがころがっていたみたいです…”

 “アトリエに!”と、ぼくは驚いたように言った。

 しかしそうかも知れない。所有者が変われば、何もかも一変してしまうことも、やむを得ないことなのだ…

 

 パーシバル夫人と運転手に続いて、ぼくも、その別棟の入口に向かった。夫人は入口に立ち、ドアをあけかけたが、ドアには厳重に鍵が掛けられていて、開かないことが分かった。

 “御免なさい。うっかりして”と、夫人は振り向き、ぼくたちに謝った、“長いあいだ入ったことがないものだから、鍵が掛かっていたのも忘れていたんです。家の鍵は確か、主人が保管していますから、あるかないか調べて来ます。直ぐ戻って来ますから、そのあいだしばらく、ここでお待ち願いますか”

 “ええ、御迷惑をおかけします”と、ぼくは答えた。



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