閉じる


<<最初から読む

102 / 221ページ

試し読みできます

303

ですから、それらは、あなたの言う、ミリエルさんの時代から、私の主人が手を入れた寝室の一部などを除いて、当時のものを使っているということができますわ。そういうことでかまいませんのでしたら、どうぞ、どこでも好きなように見て下さい…”

 “ええ、助かりました。ありがとうございます”と言って、ぼくは、心の底から礼を言った。

 やがて運ばれて来た、紅茶と、茶菓子を口にしながら、ぼくたちはしばらくのあいだ、その場に残って雑談をした。現在出張中のこの館の主が、保険会社の社長であることや、現在メロランスに行っていることや、また、二人の、小学校に通う娘がいて、まだ学校に行っている最中だ、ということなどが分かった。また、運転手にも、元気な男の子が二人いて、町の学校に通っていることも分かった。ぼくが現在、ひとりで、孤独に暮らしていることを知り、彼らは、そのことに同情してくれている様子だった。――しかし何よりも、ぼくの語る、ミリエル家にまつわる話しの方が、彼らの興味を惹いたようだった。

 “もし、どうしても当時のことが知りたいというのなら”と、パーシバル夫人は、ぼくに言った、“この近くの古老のシェーファさんに聞くといいでしょう。あの人ならずっと昔からここにお住まいだし、当時のこともよく記憶されておいででしょう。あたしの紹介だと言えば、快く応じてくれるはずですよ”

 そう言って、パーシバル夫人は、古老の住む家の場所をぼくに教えてくれた。この辺の地理に不案内なぼくには、その場所はピンと来なかったが、代わりに、運転手の方がすぐ呑み込んでくれた。

 “それじゃそろそろ行きましょうか”と、パーシバル夫人は、時機が来たのを見計らって言った。

 ぼくたちは立ち上がって、パーシバル夫人の後に続いた。

 “さて、どこから参りましょうか?”と、パーシバル夫人は、書斎から出て、ホールに立つとぼくに尋ねた。

 “どこからでも結構ですが”と、ぼくは言った、“できれば、ぼくの母親が住んでいた寝室からお願いしたいものです”

 “寝室ね”と、パーシバル夫人はうなずいた、“それなら二階にありますが、あなたのお母さんがどこにいらしたのかは存じ上げてないんですが…”

 “だいたい分かっているんです”と、ぼくは答えた、“母親がピアノを習っていたという部屋もね。――それは、階段を上がって、左側の最初の部屋だと聞いています”

 “偶然ですわね”と、パーシバル夫人は、驚いたように言った、“実はうちでも、その部屋を、子供の勉強部屋に使っているんですよ。よろしければ、その部屋から参りましょうか”

 “ええ、結構です”と、ぼくは答えた。

 そのあいだにも、ぼくたちは、ホールに延びた広い階段を、ゆっくりと上がっていた。飛入りで見学することになった運転手も、豪華なホールのあちこちを、珍しそうに眺めていた。


試し読みできます

304

 “さあここです”と、階段を上がってすぐ左手の部屋のドアをあけて、パーシバル夫人はぼくに言った。

 あけられたドアの中から、青い壁の部屋が現れた。突き当たりには花を活けた窓が見え、机やピアノや、その他の家具があった。壁には円い肖像画や、風景画などが掛けられ、別の面には鏡も掛かっていた。部屋の隅に置かれたソファーも青い色をしており、全体としてのイメージは爽やかで、こぎれいな感じだった。今は誰もいないその部屋を見るなり、ぼくの耳には、あのママの声が聞こえて来るような気がした。

 「…ママはね、昔、大きなお屋敷で楽しく暮らしていたのよ。部屋も数え切れないぐらいたくさんあって、召使や女中もいたわ。ママの部屋は、二階の階段を上がって左側の隅のところで、その奥が両親の寝室だったわ。他に、ママの勉強部屋もあって、それは、階段を上がってすぐ左手のところで、ちょうどママの寝室の隣だった。他にも、ママのおじさんに当たる人の部屋や、書斎や居間や食堂などがあって、そりゃ立派なものだったのよ。今から思い出すと、本当に、あの頃が一番幸せだったようね…」

 ぼくが今、目の前にしているのは、まさにその勉強部屋だった。

 「…その部屋にはピアノがあってね」と言うママの声が、再び耳に聞こえて来た、「毎夕方、決まった時間に先生がやって来る他――女の、若い、割にきれいな先生だったわ―― 優しかったママとか、若い女中の方などと、よくおしゃべりをして遊んだりしたものよ。それに、窓から見える景色が素晴らしかったわ。そりゃ大きなお庭に、池があって、その隅に、立派な彫像などがあるのよ。雨の日なんか、水面が一面雨に打たれて、水面に浮かぶ睡蓮の葉が本当に美しかったわ…」

 “よろしいですか?”と、ぼくは、パーシバル夫人に断って中に入ると、まっ先に窓辺に歩み寄って、ママの言っていた睡蓮の池が見えるか、窓から庭を見下ろした。間違いはなかった。思っていたほど大きな池ではなかったが、確かに池は存在し、光に輝く白いローマ風の彫像と共に、今もなお池の水面に、睡蓮の葉が浮かんでいるのだった。ぼくはその光景に、胸が熱くなる思いがして振り向いた。パーシバル夫人と運転手の二人は、ドアからまだそれほど部屋の中に入って来てはいなかった。今の子供は気まぐれと見え、床の上に無造作に、かかしのようなぬいぐるみや、木製のトラックなどがほったらかしにされていた。

 “なかなかいい眺めですね”と、ぼくは、パーシバル夫人に振り返って言った、“あの彫像は昔からのものですか?”

 “ええ、庭に関しては一切、手をつけてはおりませんわ”と、パーシバル夫人は答えた、“池も、植木も昔からあの通りだったそうですから、きっとあなたのお母さんも、同じ池を見ておられたんじゃないですか?”

 “ええ、この池のことは聞いていました”と、ぼくはしんみりと答えた、“初めて目にして、ぼくが想像していた通りだということが分かりました。その通りに今もあることを知って、何んだか不思議な気持がしています”


試し読みできます

305

 二人は、その言葉を聞いて笑っていた。

 “でも、この部屋は、お母さんがいた頃とは、だいぶ変わっているんじゃないかしら?”と、パーシバル夫人は、落ち着いた表情で言った、“ソファーも、勉強机も、ピアノもわたしたちが持ち込んだものですし、絨毯だって敷き変えましたわ。強いて変わっていないもの、というなら、この壁の色ぐらいなものじゃないでしょうか。ここの部屋は昔からブルーだったということですよ”

 ぼくはその言葉でもう一度、この部屋を眺めた。

 今の子供が使い、一見、何んの変わりばえもしないこの部屋も、数十年前には、まだ幼かったママが使っていたのだった。恐らく、壁にはめられた暖炉だけは、今も、その当時の姿を見せているのだろう。現在の姿からは、昔ママが使っていた頃を想像することは不可能に近かったが、ただ、窓際の、さりげなく花を活けた花瓶を見ていると、当時のママが、そこのピアノのところに坐って、女の先生にレッスンを受けているときの姿が、目に浮かんで来るような気がした…

 一瞬目を閉じると、

 “もう結構です”と、ぼくは言った。

 

 その部屋を出、ぼくたちは、パーシバル夫人に案内されるまま、次の部屋へと向かった。

 “あなたの言っておられる部屋は、現在は使っておりません”と、パーシバル夫人は、廊下を歩きながら、その部屋に着く前に言った、“わたしたちも余り入ったことがないんですよ。今は物置きに利用していますが、あなたの期待に添うことができますか”

 そう言って夫人は、廊下の隅のドアの前に立ち、ドアをあけた。

 中は真暗だった。

 しかしすぐパーシバル夫人は、窓に歩み寄って、カーテンを開けた。昼間の明るい日射しが、室内を浮かび上がらせた。部屋は、それほど大きくはなかったが、足の踏み場もないほど、白いシーツでおおいをした、ソファーやテーブルやキャビネットなどが置かれていた。寝室の面影は全くなかった。しかし、ママが言っていた言葉からすると、この部屋に間違いはなかった。ただ、壁に掛けられた古い額が、当時を忍ばせるような気がした。窓のすぐ向うでは、よく茂ったかばの木が、その美事な葉を風に揺らしていた。窓から見える空は青く、白い雲が浮かんでいた。恐らくママも、幼い頃、この部屋から窓の外を仰ぎ見、あのような空を目にしていたことだろう… この部屋にベッドはなく、ただ他の家具が雑然とあるばかりだった。現在のこの光景からは、ママが寝ていたその姿すら、想像することは出来なかった。――でも間違いなくママはここに住み、毎朝のすがすがしい目覚めを経験していたに違いなかったのだ。そして、目が覚め、まっ先に見たかも知れない、年を刻んだ天井に目をやった。ベッドの置かれていた位置はすぐ分かった。恐らくここだろう。他では、家具の配置上不可能になるのだった。ぼくは再び窓辺に寄り、さっきの池が、あの部屋よりは遠のいたものの、ここからも十分眺められることを確認した。


試し読みできます

306

 “どうです? こんな有様じゃ、何んの助けにもならないでございましょ?”と、パーシバル夫人は、窓辺に立って、ぼくに言った。

 “いいえ、これで十分です”と、ぼくは答えた、“部屋の様子が変わるのは仕方がありません。ただその部屋を見ることが出来ただけでもぼくは幸せです…”

 

 ぼくはその部屋とも別れた。夢にまで描いていた部屋だったが、こうして、余りにも変わり果てた部屋を見てみると、見ない方がよかったかも知れない、という気さえした。いつまでも、夢のままの状態に置いておいたほうがよかったかも知れない。――しかし、ひとたび廊下に出ると、その立派なシャンデリアや、美事な手摺り、重厚なドアや廊下の壁に至るまで、立派な彫刻や細工がほどこされ、ママの言っていたことが夢ではなく、現実そのものの姿で迫って来るような気がして来るのだった。ママが何百回、いや何千回となく通ったに違いない、この廊下や階段は、今も、当時そのままの姿で残されていた。あの華麗なシャンデリアはもちろん、廊下のところどころに置かれている机や、ソファーなども、恐らく、当時もそのままに置かれていたに違いない。そう思うと、すでに変わってしまった部屋を見るよりも、この屋敷の内部の方が、遥かに大きな感動を呼ぶのだった。

 “他の部屋はよろしいんですか?”と、パーシバル夫人はドアを閉めるなり、ぼくに尋ねた。

 “ええ、この階は、これで結構です”と、ぼくは答えた、“――ですが、手紙にも書きましたように、食堂や居間、それに、昔、ここで執事をしておられたガラハ氏とその娘が住んでいたという部屋を是非見せていただきたいんです。その部屋は、この屋敷の離れにあると聞いていましたが…”

 “ああそれでしたら”と、パーシバル夫人は、気が付くものがあったように言った、“それに該当しそうな建物が一軒ありますが、今は誰も使っていない部屋ですよ。長いあいだ使っていないものですから、中はどうなっているものか。確か、前の持ち主ですら使っていなかったということですから、そこだけは、昔の面影をかなりとどめているんじゃないかしら? わたしもあそこだけはめったに入ったことがないんですよ”

 “もしそうなら助かります”と、ぼくは胸を踊らせて言った。もし昔のままなら、これほど幸せなことはない。なぜならそこは、ママの本当の母親、クリスチーヌ・ガラハが暮らしていたところなのだから。

 “でもそこは後回しにして、食堂から行くことにしましょうか?”と、パーシバル夫人は言った。

 “ええ、結構です”と、ぼくは答えた。

 

 食堂は、階段を降りて、一階の奥にあった。パーシバル夫人がドアをあけると中から美事な食堂が現れた。


試し読みできます

307

中央に、白いテーブルクロスを掛けた、椅子が優に十は置くことのできる大きな、丸みを帯びたテーブルがあり、その上には、燭台や、水差しや、花が飾ってあった。向かって左手のところには落ち着いた暖炉があり、右側の壁には、黒光りしている背の低い棚があり、それらの上にも、花や、装飾用の皿や、銀の燭台などが置いてあった。しかし何よりも目を惹いたのは、美事なシャンデリアと、壁に掛けられた、森の風景のタペストリーだった。ぼくは、その豪華さにしばらく目を奪われた。しかし、今目にするこの食堂の光景は、昔のときとは随分と異なっているに違いない。突き当たりに見える窓の向うの、樹木におおわれた庭の光景だけが、かろうじて当時を忍ばせてくれるような気がした。

 “ここの食堂も”とパーシバル夫人が言った、“いろいろと手を入れましたけど、でも、この中央のテーブルと、暖炉だけは昔のままだと思いますよ。余り立派だから変えるに忍びなかったんです。他は随分と変わっているでしょうけどね…”

 その言葉で、ぼくはじっと中央の丸みを帯びた、リネンの白いクロスにおおわれたテーブルと、黒い唐草模様のレリーフをほどこした暖炉とを眺めた。恐らく、ぼくの母親も幼い頃、ここで食事をし、このテーブルや暖炉に手を触れたりもしていたのだろう。しかしその当時、この食堂が、他にどのように飾り立てられていたのか知る由もなかった。ただ、ぼくは、樹木がいっぱい茂っている余りにも美事な窓の外の様子に心が惹かれ、ちょうどあった横のドアから、庭に出てみたくなった。

 “外に出てみてもいいですか?”と、ぼくは、振り向いて、パーシバル夫人に尋ねた。

 “ええどうぞ”と、パーシバル夫人は、快く承諾してくれた。

 ぼくはドアのところに歩み寄り、取手を取って、ドアをあけ、外に歩み出た。恐らく、ママもここを通って何度も外に出たであろうドア。庭への第一歩を踏み出すと、昼の日射しが、樹木や花や庭の芝生に降り注ぎ、まぶしかった。窓のすぐ下には、壁に沿って長い植え込みがあり、そこには数種類の黄色や赤や白いアネモネが咲いていて、風に揺れていた。食堂の窓のところは特に樹木が多く、潅木の下には、しだなどがおい茂っていた。しかし、ぼくの目を止めたのは、さっき、二階から見下ろすことになったかなりの広がりを持った蓮池だった。池のほとりにも様々な花が咲いており、さっき目にしたローマ風の彫像が、静かに池のそばに立っていた。ぼくの体は自然、その方向へと向うのだった。屋敷からそう離れていない池のほとりまで来ると、ぼくは足を止めた。そして、さっきは遠くに見えた蓮池を間近かに感じ、水面に浮かぶ睡蓮や、又、水に反映するスイセンや、イリスの花と共に、自分の姿をも見つめた。恐らくママもこの池で、このように自分の姿を見つめたことだろう。この、昔から存在し、変わることのない池については、何度もママから聞かされたものだった。今、その池のほとりに立って、何んとも言い表しようのない思いが胸に込み上げて来るのを感じた。ママは、まだぼくが生まれる遥か前、ほんの子供のときに、この池のそばで、両親や、家庭教師や、恐らくは女中たちに囲まれて、戯れていたのだろう。そうした遥か昔に、この庭でくり広げられた光景が、この明るい日射しの中で、ぼくの目に浮かぶような気がした。



読者登録

sylaireさんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について