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 そんなことが、静かに、ベッドに横になっているぼくの頭の中を流れて行った。なんと冷たい、さわやかな風なのだろう。その一吹き、一吹きが、ぼくに、別の思いを運んでくれそうだ。ぼくは目を閉じ、雨の中を濡れて帰った日のことを思った。小川の両岸は、雨にけむっていた。傘を失い、芝生の敷き詰められた、丸く刈られた樹木の横を、誰も乗っていず風に揺れているブランコの横を、雨に打たれながら、ぼくはひとり、とぼとぼと帰って行った。周りの景色は、すべて雨にかすみ、家や樹木の黒い陰が、恐ろしい魔物のように見えたことはなかった。また、あのときほど、孤独と悲しい思いを感じたことはなかった。しかし、雨にぬれた樹木の枝や葉は美しく、地面に咲いている草花も美しかった。そして、雨にぬれた迷路のような公園の茂みの向こう側から、傘をさしたママとぼくの妹が、このぼくを迎えに、歩いてやって来るのだ。その姿はまるで、茂みに咲いたもうひとつの花のように、美しかった。

 …そういった日は、現在というこの日からは、遥か昔へと切り離されてしまった。今残っているのは、ただその日の記憶だけだが、どれほど確かかどうかは、もう分からない。あんなことがあった日から、どれほど多くの日々が流れ去ったことだろう。あの頃いたママが、まだ子供の頃だった村のすぐそばまで、ぼくは帰って来ていた。思えば、その村は、その日々からどれほど多くの歳月が流れ去っていることだろう。だが人は年を取っても、村は朽ち果てることはないのだ。今も、その当時の家が残っているだろうし、その当時の廃墟の岩陰には、今もその当時と同じように、小さな花が咲いていることだろう。その当時流れていた清らかな小川は、今も同じ音をたてて、きっと流れているだろう。ぼくは、ぼくの知らない昔に存在していたその村へ帰ろうとしていた。リトイアの、さらに小さなサビーノの村へと。ぼくが現在いるこのホテルから、そこへは、もうすぐそこだという思いが、ぼくの胸を震わせた。長い年月の後、ぼくは再び、ママが育ち、旅立った故郷へと帰って来たのだ。めぐりめぐったあげく、結局、自分の思い出の場所へと帰って来る。人生とは、そうしたものなのだろう。長い年月の後、自分のふるさとのことを思わない人はいない…

 

 ぼくはなおも、横になり続けた。いつかリサと旅をした時のことが頭を過った。彼女とホテルに泊まり、彼女は入るなり、シャワーを浴び、そのあいだぼくは、窓辺に立って、窓の外を眺めていた。あの頃はまだ二人で、ぼくは幸せだった。そんな日もあり、そしてもっと遠い日もあった。セーラ。彼女らと会ったときの思い出。彼女らは、海辺からそう遠くない、日のよく当たる、木のおい茂った屋敷で、何不自由なく暮らしていたのだった。学校に通い、ピアノと乗馬とを習っていた。庭は広く、庭に出ている彼女らは、まるで二葉の蝶だった。ぼくはもちろん、そんな彼女たちの姿を目にしたことはない。しかし彼女らの話しから、そうした光景は目に浮かんで来るようなのだ。


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そして――もっと古い時代があった。ぼくたちの本当の故郷、オディープにいた頃の幸せの日々。川辺で彼女らを待たせ、魚を釣っていたときの思い出。二人の妹は、釣りには興味を示さず、土手の草むらで、持って来た本を膝の上に広げ、読んでいたのだった。そして時折り、「釣れた?」とか、「まだ?」とか、ぼくに向いて尋ねるのだった。日射しがきつく、恐らくじっとしていることに耐えられなかったのだろう。ぼくはもう一度川に向かって竿を投げ、魚が釣れるまではもう少し時間がかかることを示した。――そんなことがあった日々。オディープは、ぼくたちの出生の土地だった。美しい自然に囲まれた、素晴らしい場所だった。しかしその頃、オディープでの誕生よりも前にも歴史があり、親たちの人生や故郷があったのだとは考えることもなかった。自分たちのふるさとだけで満足していたし、親のふるさとまで考える余裕はなかった。しかしぼくは今、ようやく、母親が過ごしたふるさとへ足を踏み入れようとしている。ママが子供の頃、ぼくと同じような幼少期を過ごしたかも知れないママのふるさとへ、ぼくは足を踏み入れようとしている。その頃、まだ幼かったママは、学校の往き帰りの花の咲く野道で、あるいは小さな池のほとりで、その幼い胸に将来に対するどんな夢を描いていたのだろうか? そんなことを、今から想像するのが楽しみだった。

 

 ぼくはベッドから降り、もう一度窓に歩み寄って、窓の下の船着き場や、ゆったりと流れる***川や、対岸のよく茂った樹木、それと同じような色をした屋根のある建物、岸辺をゆっくりと往来する人々の姿、などを眺めた。空は、うっすらとよく晴れていた。風が、川の表面を波立たせ、樹木の葉をざわざわと揺らめかした。この空、この晴れた空の下の、あの向こうにママの故郷が存在し、それは今、このぼくを呼んでいるようにも思えた。そう思うと、ぼくの頭は、様々な想像を取り混ぜた思い出でいっぱいになり、いても立ってもいられなくなってしまった。ぼくは、窓を閉め、暗くなったホテルの部屋から出ると、階段を駆け降り、一気に、ホテルの外の広場へと飛び出した。予約し、乗ることになっていたタクシーが一台、ホテルの前に止まっていた。外に立ってぼくを待っていた中年の運転手に、ぼくは行き先を告げた。

 “色々と行くところがあるんだけど、まず、ロアズマヘ行ってくれるかい?”

 “ロアズマだね”と言う、運転手の声がはずんだ。

 ぼくは今、見知らぬ街の見知らぬ場所へ旅立とうとしていた。タクシーは、れんが造りの、古めかしい建物のあいだを走って行った。目に飛び込んで来るものすべてが、目新しく、新鮮で、爽快な気分をぼくに与えた。裏街の、テントの下でかばんや、皮製品、花などを売っている露店商。それを、物珍しげに見つめる街の人。表通りを飾るショーウィンドの華やかさ。陶器や、時計や、ベーカリーや、いかにも、人々の息遣いが感じられてくる、活気にあふれた街だった。タクシーは、落ち着いた建物が両側に並ぶメインストリートを走った後、やがて、両側街路樹の並ぶ静かな通りへと入って行った。ぼくはぼんやりと、街路を歩く婦人や子供や、その他の人々の姿を眺めていた。


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 太っちょの、威勢の良さそうな、帽子をかぶった運転手が、ぼくに話しかけて来た。

 “この街は初めてかね? なかなかいい街だろ”

 “いいえ、初めてじゃないです”と、ぼくは、そう大きくない声で答えた、“昔、ここからそう遠くないレビエに住んでいたし、そのずっと前には、リトイアの近くのサビーノの村にも、少しばかり住んでいたことがあるんです。だから初めてじゃないけど、まるで初めて見るように新鮮で、いい街だ…”

 “ほう、サビーノの村か”と運転手は、感心したように言った、“あそこはなかなかいい村だ。意外と思うだろうが、実は、オレもあそこの村は知っている。というのも、オレの妻の妹が、リトイアに嫁いでいてな、あそこへ尋ねて行ったときに一度、みんなでピクニックに行ったことがあるのさ。余り人の住んでいないところだけど、なかなかいいところさ。――それであんたは、そこの出身らしいけれど、尋ね人か、何かなのかい?”

 “いいえ、それに近いけれど、それそのものじゃありません”とぼくは、それとなく答えた。

 “それにしてもひとりで。どこから来たんだね?”と運転手はなおも尋ねた。

 “ドシアンからです”と、ぼくは答えた。

 “へえ~。随分遠くからなんだね”と、運転手は驚いたように言った、“レビエとも言っていたけれど、あそこもなかなかいいところだ。湖畔際の町でね。なかなかいい町に住んでいたんだね。――でもどうしてそこへ行かないで、ロアズマなんかに行くのだい?”

 “レビエにもいずれ行くつもりです”と、ぼくは答えた、“――でも、いろいろと訳があってね、ロアズマヘまず行きたいんですよ”

 “ふ~ん。面白いね”と、運転手は、ひとり言のように言った、“君の目的が何んだか分からないけれど、この旅は何んだか面白くなりそうだ。気に入ったね。単なる観光でもなけりゃ、何か目的がありそうだからね”

 “別にそれほど大したものじゃなく、個人的なものです”と、ぼくは言った、“ああそれから――ロアズマに着いたら、まず、ミリエルの繊維会社の方へ行ってもらいたいんです”

 “ミリエルの繊維会社?”運転手は、急に顔を曇らせて言った、“ミリエルの繊維会社って、随分昔、あれは確か戦前につぶれてしまった会社じゃないか。今は確か、その広い跡地だけが残っているに過ぎなくて、建物なんてひとつも残ってはいないよ。もっとも基礎の部分は一部残っているかも知れないけれど、草がぼうぼうさ。それでもいいのかい?”

 “ええ、そのことは知っているんです”と、ぼくは答えた、“この前も、何度か行ったことがありますから。――でも、ぼくが行きたいのは、その工場の跡地から少し離れたところにある、元ミリエル家の城館なんです。今は、誰の手に渡っているかは知らないけれど、この前来たときは確か、オーナーは、パーシバルとかいう人に代わっていました”

 “ああ、あの建物のことか”と、運転手は納得したように言った、“それなら確かに今もある。大きな、なかなか立派な館だ。


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確か今も、君の言ったような名の人が住んでいるはずだ。――でもそこに用があるって、さっきから余り人の知らないミリエルって名を出しているが、そのミリエル家と君とは、何か関係があるのかい?”

 “ええ、実は、そこで生まれた娘が、ぼくの母親でした…”ぼくは、それとなく、しかし、きっぱりとそれだけ答えた。

 “へえー、それじゃ”と、運転手は二度、驚いたように言った、“あの、何かい、戦前には名の聞こえたという、あの資産家の孫が君だ、というわけなのかい?”

 “今も会社があれば、の話しですけれどね”と、ぼくは、少し照れるように笑いながら答えた。

 “今では知る人も少ないだろうけれど、ミリエルといえば、このリランでは、戦前、なかなか名の知れた名家だったという話しじゃないか。オレも詳しいことは知らないけれど、ちょっとは聞いてはいるんだ。――でも聞くところによると、会社がダメになったのは、一族のあいだで何かゴタゴタが持ち上がって、それで傾いたという話しじゃないか。君は、そこのところは知っているのかい?”

 “ええ聞きました”と、ぼくは静かに答えた、“全部ね。――でも、人に言えるような内容でもないです”

 “まあいいだろう。内輪のもめごとは余り人に言えたものではないからね”と、運転手は、気よく引き下がって言った、“――それで、君の母親が当主の娘だという話しだが、今も元気にしているのかい?”

 “実は、その母親の行方の手がかりをつかむ為にやって来たんです”とぼくは、正直に白状した。

 その瞬間、運転手の頬にピクッとけいれんが走るのが、バックミラーを通して、ぼくの目に見えた。

 “ああ、そういうことだったのか”と運転手は落ち着いた声で言った、“それで、あちこちへ行かなくちゃならんのだね。そういうことなら話しは簡単さ。この車で、できる限り、君のお手伝いをしよう…”

 “そうですか。助かります”と、ぼくは丁寧に答えた。

 タクシーは、一本まっすぐ延びた道に沿って、ポプラや糸杉などの木立のある景色のいい、麦畑やその他の畑におおわれた静かな平地を走っていた。振り向くと、少し下方のところに、リランの街並が、うっすらと、一見してそれと分かる、森におおわれたなだらかな丘陵地のふもとに、広がって見えていた。少しばかりあいた窓から冷たい風が入り込み、ぼくの頬を打った。相変わらず陽気な運転手は、鼻歌まじりの声をたてながら、ひたすらハンドルを握り、車を走らせ続けていた。大きな荷台のある青色のトラックが、向こうから走って来て、勢いよくこの車とすれ違って行った。沿道に咲く美しい草花や、明るい民家が、次々と後ろへ滑り去って行く。素晴らしい空と、素晴らしい眺めと、素晴らしい気分だった…


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 タクシーはやがて本道からそれると、静かな、まるで山の中に入り込んだかのような印象を与える、深く森におおわれた道を走るようになった。ニレの樹に混じって、ところどころに見えるすももやはしばみの樹が美事だった。やがて、それらの樹林帯が急に跡絶えたところに、一見、広々とした牧草地を思わせるような場所に出たが、ところどころにある朽ち果てた建物の壁の跡が、すぐそれが工場の跡であることを思わせた。舗装道路は、そのそばを通って、さらにその向こうの奥地へと続いていた。

 

 “君の言っていた工場跡というのはここだろう?”と、運転手は、車を走らせながら、沿道の荒れ果てた土地に目くばせをして言った。

 そう言えば、ぼくは思い出した、レオノールが亡くなったその夏、レビエの家からはるばると、リサの手を引いてこの地にやって来た日のことを。あの日の印象が、鮮やかにぼくの心によみがえって来た。日射しは強く、空は澄んでいて素晴らしかった。周りが余り静かなので、車をそこに止めて降りたぼくは、自分の目を疑ったほどだった。ここが、この地が、あの、レオノールが言っていた会社の跡だったのだろうか。今はただ、雑草におおわれた広々とした土地に、崩れ落ちた壁の跡が、ところどころほんの少し、当時の名残りをとどめているだけだった。ぼくはまるで、心の糸が切れたさすらい人のように、リサの手を取って、雑草におおわれた瓦れきの跡を、とめどもなく、あちこち歩き回った。不承不承ぼくに手を引かれるリサは、ふに落ちない表情で、そんなぼくを眺めていた。ぼくは荒涼とした敷地のまっただ中に立って、周りを見渡し、道の向こうの森や、あの、雲の浮かぶ澄んだ空からさえも、ただ小鳥の小さな鳴き声が聞こえてくる以外は、当時この工場で生き、働いていた人々の、ほんのささいな息づかいさえ聞こえて来ないことを確認した。どんなに耳を澄まし、目をこらしても、無残にも打ち砕かれた工場の跡地以外には、何も認めることはできなかった。ただ、崩れ落ちた石の壁の角に、他の雑草に混じって、可憐な忘れな草が咲いているのが、ふとぼくの目に止まり、ぼくの心を惹きつけた。そうだ、今はこれだけなのだ。これが、当時の歴史を物語るすべてなのだ――ぼくは、その花を見入りながら、そんな気がして来、それから再び、とめどもなく広い、雑草におおわれた工場跡や、遠くの森や、打ち捨てられたような自分の車や、リサや、青くかすんだ空の方へと目をやるのだった…

 

 ぼくはそれが、今目にしているこの光景だと思って、再び驚かずにはいられなかった。あの日と少しも変わってはいない。あのとき、リサと来て見た光景と少しも変わってはいない。まるで数年前に来て目にしたのが嘘であるかのような、静かで、少しも変わることのない、荒れ果てた光景だった。

 “どうだい? 降りてみるかい?”運転手は、振り向き、気を利かして言ってくれた。

 “いいえ、いいです”と、ぼくは答えた。



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