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窓の外は、さわやかな青い空と、ハンノキの目も覚めるような緑の林がおい茂っており、ぼくは、何ひとつ思い煩うこともなかった。ハンノキ林は、木陰を作り、その木陰の下に、まだ幼いセーラやリサの妹たちがいた。彼女たちは、子犬と戯れて、遊んでいたのだ。――そんな遠い、幸せな日々が、確かに昔、あったのだ。あれは、夢だったのだろうか? もう二度と訪れることのない、はかない夢にすぎなかったのだろうか? しばし、ぼくは夢のような思いにふけった後、ふと、今自分が、年を取って、このホテルの部屋にいることに気が付いた。窓から聞こえて来る小さな、現実音に耳をそば立て、ぼくは言い知れぬ、孤独と、空虚さとを感じた。もう誰もいない。あの、優しい思い出を包んでいるのは、このぼくひとり、ひとりぽっちなのだ…

 

 …そう言えばけさ、ぼくは不思議な夢を見た。夢にうなされて目が覚めたとき、ぼくは、悲しみの余り、心が打ち震えていたことに気が付いたのだ。有名な人が亡くなった、という記事を目にして、ぼくはハッとなったのだ。あの人ならよく知っている。彼女がまだ若い頃、世に登場した頃は、素晴らしく美しかったのだ。その頃の写真は、残らず切り抜きとして、保存していたはずだ。ぼくは、どこかの引き出しをかき分け、中からそのスクラップを取り出すと、もう一度、じっくりとその写真を見つめた。確かに美しい。その写真のうち、いくつかは、生き生きした、美しい笑顔を、こちらに向けていた。こんなに美しく、愛らしかった彼女は、もう二度と、世に出ることもないだろう… ぼくは写真を閉じ、まだ彼女のいるところへ行くことにした。あれから年をとったとはいえ、そんなにふけていたわけでもない。幸い彼女の亡くなっているところは、ここからそんなに遠くはない。そして遂にぼくはやって来た。表には、彼女を偲ぶ大勢の人が詰めかけ、並んでいた。最後まで品を失わなかった彼女にふさわしい、感じのいい、モダンな屋敷だ。ぼくは人々のいる、表の入口に向かった。するとそこでは、すすり声が屋敷内から聞こえて来ていた。無理もない。あれほどの彼女が、たったまだ、こんな若い年齢で、あの世の人となってしまったのだ。そのすすり泣きは、この入口のところまで伝播し、入口に立っていた知人や、若いメイドまで泣かせるに至った。若いメイドは立っていることも出来ず、入口の床の上に泣き伏してしまった。その悲しい感情は、ぼくにもよく分かった。ぼくも泣きたいぐらいだった。ハンカチで目頭を押さえ、そうして彼女が眠っているはずの、明るい光に包まれた、屋敷の中へと、ぼくは入って行った…

 

 夢はそこで覚めた。だから、彼女の死に姿を見たわけではない。だが目が覚めたとき、胸が痛くなるような、強い、悲しい感情に捕らわれていたことは確かだった。どうして、それほどまで悲しかったのだろう? また、それほどまで、悲しい夢を見なければならなかったのだろう? 恐らく、若かった頃の彼女の美しさと、その突然の死の中に、ぼくは、世のはかなさの集約のようなものを、見てとったからなのだろう。美しいものも、年には勝てず、やがて死に至る。――これの意味するものを、ぼくは夢の中で見、心の底から感じとったのだ…


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 そんなことが、静かに、ベッドに横になっているぼくの頭の中を流れて行った。なんと冷たい、さわやかな風なのだろう。その一吹き、一吹きが、ぼくに、別の思いを運んでくれそうだ。ぼくは目を閉じ、雨の中を濡れて帰った日のことを思った。小川の両岸は、雨にけむっていた。傘を失い、芝生の敷き詰められた、丸く刈られた樹木の横を、誰も乗っていず風に揺れているブランコの横を、雨に打たれながら、ぼくはひとり、とぼとぼと帰って行った。周りの景色は、すべて雨にかすみ、家や樹木の黒い陰が、恐ろしい魔物のように見えたことはなかった。また、あのときほど、孤独と悲しい思いを感じたことはなかった。しかし、雨にぬれた樹木の枝や葉は美しく、地面に咲いている草花も美しかった。そして、雨にぬれた迷路のような公園の茂みの向こう側から、傘をさしたママとぼくの妹が、このぼくを迎えに、歩いてやって来るのだ。その姿はまるで、茂みに咲いたもうひとつの花のように、美しかった。

 …そういった日は、現在というこの日からは、遥か昔へと切り離されてしまった。今残っているのは、ただその日の記憶だけだが、どれほど確かかどうかは、もう分からない。あんなことがあった日から、どれほど多くの日々が流れ去ったことだろう。あの頃いたママが、まだ子供の頃だった村のすぐそばまで、ぼくは帰って来ていた。思えば、その村は、その日々からどれほど多くの歳月が流れ去っていることだろう。だが人は年を取っても、村は朽ち果てることはないのだ。今も、その当時の家が残っているだろうし、その当時の廃墟の岩陰には、今もその当時と同じように、小さな花が咲いていることだろう。その当時流れていた清らかな小川は、今も同じ音をたてて、きっと流れているだろう。ぼくは、ぼくの知らない昔に存在していたその村へ帰ろうとしていた。リトイアの、さらに小さなサビーノの村へと。ぼくが現在いるこのホテルから、そこへは、もうすぐそこだという思いが、ぼくの胸を震わせた。長い年月の後、ぼくは再び、ママが育ち、旅立った故郷へと帰って来たのだ。めぐりめぐったあげく、結局、自分の思い出の場所へと帰って来る。人生とは、そうしたものなのだろう。長い年月の後、自分のふるさとのことを思わない人はいない…

 

 ぼくはなおも、横になり続けた。いつかリサと旅をした時のことが頭を過った。彼女とホテルに泊まり、彼女は入るなり、シャワーを浴び、そのあいだぼくは、窓辺に立って、窓の外を眺めていた。あの頃はまだ二人で、ぼくは幸せだった。そんな日もあり、そしてもっと遠い日もあった。セーラ。彼女らと会ったときの思い出。彼女らは、海辺からそう遠くない、日のよく当たる、木のおい茂った屋敷で、何不自由なく暮らしていたのだった。学校に通い、ピアノと乗馬とを習っていた。庭は広く、庭に出ている彼女らは、まるで二葉の蝶だった。ぼくはもちろん、そんな彼女たちの姿を目にしたことはない。しかし彼女らの話しから、そうした光景は目に浮かんで来るようなのだ。


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そして――もっと古い時代があった。ぼくたちの本当の故郷、オディープにいた頃の幸せの日々。川辺で彼女らを待たせ、魚を釣っていたときの思い出。二人の妹は、釣りには興味を示さず、土手の草むらで、持って来た本を膝の上に広げ、読んでいたのだった。そして時折り、「釣れた?」とか、「まだ?」とか、ぼくに向いて尋ねるのだった。日射しがきつく、恐らくじっとしていることに耐えられなかったのだろう。ぼくはもう一度川に向かって竿を投げ、魚が釣れるまではもう少し時間がかかることを示した。――そんなことがあった日々。オディープは、ぼくたちの出生の土地だった。美しい自然に囲まれた、素晴らしい場所だった。しかしその頃、オディープでの誕生よりも前にも歴史があり、親たちの人生や故郷があったのだとは考えることもなかった。自分たちのふるさとだけで満足していたし、親のふるさとまで考える余裕はなかった。しかしぼくは今、ようやく、母親が過ごしたふるさとへ足を踏み入れようとしている。ママが子供の頃、ぼくと同じような幼少期を過ごしたかも知れないママのふるさとへ、ぼくは足を踏み入れようとしている。その頃、まだ幼かったママは、学校の往き帰りの花の咲く野道で、あるいは小さな池のほとりで、その幼い胸に将来に対するどんな夢を描いていたのだろうか? そんなことを、今から想像するのが楽しみだった。

 

 ぼくはベッドから降り、もう一度窓に歩み寄って、窓の下の船着き場や、ゆったりと流れる***川や、対岸のよく茂った樹木、それと同じような色をした屋根のある建物、岸辺をゆっくりと往来する人々の姿、などを眺めた。空は、うっすらとよく晴れていた。風が、川の表面を波立たせ、樹木の葉をざわざわと揺らめかした。この空、この晴れた空の下の、あの向こうにママの故郷が存在し、それは今、このぼくを呼んでいるようにも思えた。そう思うと、ぼくの頭は、様々な想像を取り混ぜた思い出でいっぱいになり、いても立ってもいられなくなってしまった。ぼくは、窓を閉め、暗くなったホテルの部屋から出ると、階段を駆け降り、一気に、ホテルの外の広場へと飛び出した。予約し、乗ることになっていたタクシーが一台、ホテルの前に止まっていた。外に立ってぼくを待っていた中年の運転手に、ぼくは行き先を告げた。

 “色々と行くところがあるんだけど、まず、ロアズマヘ行ってくれるかい?”

 “ロアズマだね”と言う、運転手の声がはずんだ。

 ぼくは今、見知らぬ街の見知らぬ場所へ旅立とうとしていた。タクシーは、れんが造りの、古めかしい建物のあいだを走って行った。目に飛び込んで来るものすべてが、目新しく、新鮮で、爽快な気分をぼくに与えた。裏街の、テントの下でかばんや、皮製品、花などを売っている露店商。それを、物珍しげに見つめる街の人。表通りを飾るショーウィンドの華やかさ。陶器や、時計や、ベーカリーや、いかにも、人々の息遣いが感じられてくる、活気にあふれた街だった。タクシーは、落ち着いた建物が両側に並ぶメインストリートを走った後、やがて、両側街路樹の並ぶ静かな通りへと入って行った。ぼくはぼんやりと、街路を歩く婦人や子供や、その他の人々の姿を眺めていた。


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 太っちょの、威勢の良さそうな、帽子をかぶった運転手が、ぼくに話しかけて来た。

 “この街は初めてかね? なかなかいい街だろ”

 “いいえ、初めてじゃないです”と、ぼくは、そう大きくない声で答えた、“昔、ここからそう遠くないレビエに住んでいたし、そのずっと前には、リトイアの近くのサビーノの村にも、少しばかり住んでいたことがあるんです。だから初めてじゃないけど、まるで初めて見るように新鮮で、いい街だ…”

 “ほう、サビーノの村か”と運転手は、感心したように言った、“あそこはなかなかいい村だ。意外と思うだろうが、実は、オレもあそこの村は知っている。というのも、オレの妻の妹が、リトイアに嫁いでいてな、あそこへ尋ねて行ったときに一度、みんなでピクニックに行ったことがあるのさ。余り人の住んでいないところだけど、なかなかいいところさ。――それであんたは、そこの出身らしいけれど、尋ね人か、何かなのかい?”

 “いいえ、それに近いけれど、それそのものじゃありません”とぼくは、それとなく答えた。

 “それにしてもひとりで。どこから来たんだね?”と運転手はなおも尋ねた。

 “ドシアンからです”と、ぼくは答えた。

 “へえ~。随分遠くからなんだね”と、運転手は驚いたように言った、“レビエとも言っていたけれど、あそこもなかなかいいところだ。湖畔際の町でね。なかなかいい町に住んでいたんだね。――でもどうしてそこへ行かないで、ロアズマなんかに行くのだい?”

 “レビエにもいずれ行くつもりです”と、ぼくは答えた、“――でも、いろいろと訳があってね、ロアズマヘまず行きたいんですよ”

 “ふ~ん。面白いね”と、運転手は、ひとり言のように言った、“君の目的が何んだか分からないけれど、この旅は何んだか面白くなりそうだ。気に入ったね。単なる観光でもなけりゃ、何か目的がありそうだからね”

 “別にそれほど大したものじゃなく、個人的なものです”と、ぼくは言った、“ああそれから――ロアズマに着いたら、まず、ミリエルの繊維会社の方へ行ってもらいたいんです”

 “ミリエルの繊維会社?”運転手は、急に顔を曇らせて言った、“ミリエルの繊維会社って、随分昔、あれは確か戦前につぶれてしまった会社じゃないか。今は確か、その広い跡地だけが残っているに過ぎなくて、建物なんてひとつも残ってはいないよ。もっとも基礎の部分は一部残っているかも知れないけれど、草がぼうぼうさ。それでもいいのかい?”

 “ええ、そのことは知っているんです”と、ぼくは答えた、“この前も、何度か行ったことがありますから。――でも、ぼくが行きたいのは、その工場の跡地から少し離れたところにある、元ミリエル家の城館なんです。今は、誰の手に渡っているかは知らないけれど、この前来たときは確か、オーナーは、パーシバルとかいう人に代わっていました”

 “ああ、あの建物のことか”と、運転手は納得したように言った、“それなら確かに今もある。大きな、なかなか立派な館だ。


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確か今も、君の言ったような名の人が住んでいるはずだ。――でもそこに用があるって、さっきから余り人の知らないミリエルって名を出しているが、そのミリエル家と君とは、何か関係があるのかい?”

 “ええ、実は、そこで生まれた娘が、ぼくの母親でした…”ぼくは、それとなく、しかし、きっぱりとそれだけ答えた。

 “へえー、それじゃ”と、運転手は二度、驚いたように言った、“あの、何かい、戦前には名の聞こえたという、あの資産家の孫が君だ、というわけなのかい?”

 “今も会社があれば、の話しですけれどね”と、ぼくは、少し照れるように笑いながら答えた。

 “今では知る人も少ないだろうけれど、ミリエルといえば、このリランでは、戦前、なかなか名の知れた名家だったという話しじゃないか。オレも詳しいことは知らないけれど、ちょっとは聞いてはいるんだ。――でも聞くところによると、会社がダメになったのは、一族のあいだで何かゴタゴタが持ち上がって、それで傾いたという話しじゃないか。君は、そこのところは知っているのかい?”

 “ええ聞きました”と、ぼくは静かに答えた、“全部ね。――でも、人に言えるような内容でもないです”

 “まあいいだろう。内輪のもめごとは余り人に言えたものではないからね”と、運転手は、気よく引き下がって言った、“――それで、君の母親が当主の娘だという話しだが、今も元気にしているのかい?”

 “実は、その母親の行方の手がかりをつかむ為にやって来たんです”とぼくは、正直に白状した。

 その瞬間、運転手の頬にピクッとけいれんが走るのが、バックミラーを通して、ぼくの目に見えた。

 “ああ、そういうことだったのか”と運転手は落ち着いた声で言った、“それで、あちこちへ行かなくちゃならんのだね。そういうことなら話しは簡単さ。この車で、できる限り、君のお手伝いをしよう…”

 “そうですか。助かります”と、ぼくは丁寧に答えた。

 タクシーは、一本まっすぐ延びた道に沿って、ポプラや糸杉などの木立のある景色のいい、麦畑やその他の畑におおわれた静かな平地を走っていた。振り向くと、少し下方のところに、リランの街並が、うっすらと、一見してそれと分かる、森におおわれたなだらかな丘陵地のふもとに、広がって見えていた。少しばかりあいた窓から冷たい風が入り込み、ぼくの頬を打った。相変わらず陽気な運転手は、鼻歌まじりの声をたてながら、ひたすらハンドルを握り、車を走らせ続けていた。大きな荷台のある青色のトラックが、向こうから走って来て、勢いよくこの車とすれ違って行った。沿道に咲く美しい草花や、明るい民家が、次々と後ろへ滑り去って行く。素晴らしい空と、素晴らしい眺めと、素晴らしい気分だった…



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