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 結局、デイジー・ミラーのような少女は現れなかった。ぼくは空しく食堂車を引き上げ、食堂車の賑わいからも去って、孤独な、自分の寝台車へと戻った。そしてまだ時刻は早かったが、ベッドの上に、ゴロリと横になった。さっきの賑わいがまるで嘘のような、ここは静けさだった。ぼくはひとり、またもひとりになった。ただ列車の響だけが、その振動と共に耳に聞こえて来る。ベッドのランプは薄明るく、自分の寝息が聞き取れそうだった。明日になれば、ぼくは、目的地のリランに着くだろう。そこで、まず、予約してあるホテルに行き、それから一切の行動を開始するだろう。何ひとつ見落とさず、何ひとつ聞き逃しはしない。――しかし、そこで誰に会うというのだろう? ぼくたちのことは何ひとつ知らない村人。あるいは少しは覚えてくれているかも知れない村人。きっと、昔の多くの顔ぶれはもう変わってしまっていることだろう。そんな村の中へ分け入って、ぼくは何をしようとしているのだろうか? ただ昔にもう一度触れ合いたい、そんなものでいいのだろうか? ぼくが触れ合いたいと本当に願っているものは、そのような、もう過ぎ去ってしまった過去ではなく、あの小説に出て来たような、美しくて、無邪気で、何ひとつ罪の意識を持たない、あのような少女ではなかったのか? しかしそれは、小説にして初めて可能な人物像であって、実際には、なかなか存在しないのではないだろうか? ぼくが惹かれ、感動したのは、小説上のデイジー・ミラーであって、実際に、そのような少女が現れたとしても、ぼくはそれほど感動しないのではないだろうか? それについては、答えは見つからなかった。しかしただひとつ確かなことは、ぼくがこれから成そうとしていることは、すべて空しい、という意識だった。なぜなら、思い出はすべて死者であり、ぼくは、死者を相手に、これから行動を起こそうとしているのだから。――しかし、ぼくが本当に求めているものは、やはり生きている人、生きている人と出会い、そして、共に生きる、ということなのだ…

 

 その後、夜が更けるにつれ、デイジー・ミラーの亡霊が、何度もぼくのもうろうとした意識の中で横切り、一度も見たことのないはずの彼女が、肉体と表情とを伴って、ぼくのそばに現れたような気がした。そのたびにぼくは目が覚め、いま、自分が汽車のベッドの上に寝ているのだ、ということに気が付くのだった。しかし、意識は再び、夢の中へと入り、彼女の声や、その生き様が、繰り返し、ぼくの目や耳に聞こえ、重い心のぼくを悩まし、あるいは、興奮し続けるのだった。デイジー・ミラーという魔物は、ぼくにとって何んだったのか、それはついに結論が出ないままだった…


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 …朝になって、汽車は、遠くに森におおわれた小高い丘のような山を背景に、一面、麦畑やじゃがいも、その他の畑で区切られた、広い平野のまっただ中を走っていた。ふぞろいに建ち並ぶ農家や、植林された見事な、さんざしや、樫の木立がある他は、一面、手入れのよく行き届いた畑が広がっているだけだった。ぼくは、つい今しがた目が覚めたばかりで、窓から外を眺めていた。既に晴れ上がった空の下で、朝の日射しが、明るく、広がる畑を一面、照らしていた。やがて、遠方の、森におおわれた丘陵のふもとに、ひと際高く、空を突き刺すような、教会の尖塔が見えて来た。恐らくそれは、名も知れない村の教会だろうが、その光景は、早くも、やがて訪れるはずのリトイアの村への思いとも重なって、憧れと、なつかしい思いとが交錯するような気分を引き起こさせた。ぼくの気持は早くも、ぼくの第二の故郷、リトイアヘと羽ばたいて行った。――もう心には、昨晩あれほど夢中にさせたデイジー・ミラーのことは、すっかり消え去っていた。小説には小説の世界があるかも知れないが、やはり、ぼくの心を捕らえて離さないものは、目の前に展開する、このような現実なのだ。列車のゴーゴーいう響き、窓の外に広がる、明るい、伸びやかで、のどかな光景は、全くの春を感じさせ、ぼくに、さわやかさをもたらしてくれた。野原のところどころに咲く、あの紅い花の群れは、スミレ、そして、あの黄色い花の群れは、きんぽうげ、なのだろうか? それらが、楽しそうに、早朝の、春の風に揺れている。きっと、ぼくがこれから向かうリトイアの村も、このような花や木におおわれていることだろう。列車と平行して走る小川も素晴らしかった。広い平野のまん中に、青い空を反映し、キラリと光って見える小川は、とうとうと、冷たい水をたたえていた。あれは単なる小川か、それとも運河なのだろうか? 列車は、相当の速度で走っているに違いなかったが、風景は一向、変わることがなかった…

 

 …そのようにして、長い列車の旅も終わりに近づきつつあった。静かに広がる田園地帯と、その田園地帯のあいだをゆったりと流れる中程度の広がりを持つ川の向うに、遠くの、森におおわれたなだらかな山と、丘陵のような山とが交錯するところ、うっすらと、もやにおおわれたような町が見え始めて来た。なだらかな丘陵に沿って、建物の白い壁や、川にかけられた石造りの橋などが、段々と具体的に見えて来る。町の中央辺りに、他の建物に交じって、教会の尖塔らしきものが見え、あそこが町の中心地らしいと分かった。このように、うすもやに包まれて、次第にはっきりと、その全貌を現して来る、田園とその向こうに広がる美しい湖とに囲まれた町が、人口10万を越えるリランの町だった。ぼくの目は、鏡のような川面の向こうに見えるリランの町の広がりに、しばらくじっと釘づけになった。

 ――列車はやがて、吸い込まれるように、その町の中に入って行き、速度をゆるめると、やがて現れた駅の横で、ゆっくりと停車した。ぼくは、胸を踊らせながら、荷物を手に取り、他の乗客と共に、列車から降りた。なんというまばゆさ、駅に茂っているシラカバの緑の濃さ、そして、ここから見える、町並みの屋根の輝かしさ、だったことだろう。


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ぼくは、数年振りに、この町へ帰って来たのだった。建物のすべてが、まるで昔に戻ったように、古い色調で統一されていた。昔見たときもそうだったが、ここでは頑強に、新しい波をかぶるのを拒んでいるかのようだった。列車から降りた人は、そう多くはなかった。ぼくは、自分が降りた列車を振り返り、いつか、リサと旅をして、見知らぬ町で降りたときのことを思った。あのときは、ぼくに続いて、リサが、あの列車の降車口から降りて来たものだったが、この日は、知っている顔に出会うことはなかった。ただ、ポーターに荷物を頼む乗客、駅まで迎えに来ていた若い妻と、その子供たちと、久し振りに帰って来た父親との再開とその笑顔、といった光景が、ちらほらと見られるだけだった。ここまで旅にやって来た若い男女のグループの姿も見られたが、彼ら、静かに歩いて行く乗客のあとに続いて、ぼくも駅の出口へと向かった。列車は停止したままで、すぐには動きそうもなかった。ぼくの帰郷を歓迎するいかなる人もこの駅にはなく、ただ、春の日射しの中の静かな駅の風景だけが、印象的だった…

 

 ホテルは、駅から賑やかな市街地をタクシーで五分ほど駆け抜けたところで、川のほとりの、向かいに、花壇や彫像のある小さな広場に面したところに、建っていた。青い切り立ったような屋根と、煉瓦造りの壁の、いかにも重厚な感じの建物だった。ぼくは、タクシーに、料金とチップとを払い、ホテルの中に入って行った。

 

 案内された部屋は、ベッドやテーブルが置いてあるごく普通の、簡素な部屋だったが、ただ窓から見える景色が素晴らしかった。ここからはすぐ、町の中心を流れる川を見下ろすことが出来、窓の下の方に眺めることのできる船着き場のボートや、対岸の樹木におおわれた古めかしい建物や、素晴らしい聖堂の様子などが、一望の下に見渡すことができた。空は穏やかで、対岸では、岸辺を散策する人の姿も眺められた。ぼくは窓を押し開き、外のさわやかな空気を吸い込むと、部屋に戻り、ベッドの上に身を投げ出した。しばらく滞在することになるこのホテル。ぼくは、その古びた模様の壁紙や、白い机、肘掛け椅子、ランプシェードの様子などをじっと眺めた…

 

 …春のさわやかな、冷たい風が室内を吹き抜け、出窓に置いてある鉢植えのゼラニウムの花を揺らし、その風は、ベッドに身を投げ出しているぼくのところにまでやって来た。なんとものどかで、さわやかな気分だった。部屋の窓の外から聞こえてくる様々な小さな音と共に、この風は、ぼくに何か、遠い思いを呼び起こさせた。それは、遥か昔の、子供の頃の気分なのかも知れない… ベッドから窓から見える青空を見、静かに時を刻んで行くぼくの脳裏には、そんな様々な思いや、断片が交錯した。二階の階段から降りて来たママの足。晴れ渡った空の下で、洗濯物を乾していた彼女。家族連れ立ってピクニックへ行ったときの思い出。静かな、小さな清流が流れていた、森と草原。ぼくたちは、敷布を広げ、お弁当を食べた。二階の小さなぼくの部屋で、床に坐りながら、熱心に本を読んでいたぼく自身。


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窓の外は、さわやかな青い空と、ハンノキの目も覚めるような緑の林がおい茂っており、ぼくは、何ひとつ思い煩うこともなかった。ハンノキ林は、木陰を作り、その木陰の下に、まだ幼いセーラやリサの妹たちがいた。彼女たちは、子犬と戯れて、遊んでいたのだ。――そんな遠い、幸せな日々が、確かに昔、あったのだ。あれは、夢だったのだろうか? もう二度と訪れることのない、はかない夢にすぎなかったのだろうか? しばし、ぼくは夢のような思いにふけった後、ふと、今自分が、年を取って、このホテルの部屋にいることに気が付いた。窓から聞こえて来る小さな、現実音に耳をそば立て、ぼくは言い知れぬ、孤独と、空虚さとを感じた。もう誰もいない。あの、優しい思い出を包んでいるのは、このぼくひとり、ひとりぽっちなのだ…

 

 …そう言えばけさ、ぼくは不思議な夢を見た。夢にうなされて目が覚めたとき、ぼくは、悲しみの余り、心が打ち震えていたことに気が付いたのだ。有名な人が亡くなった、という記事を目にして、ぼくはハッとなったのだ。あの人ならよく知っている。彼女がまだ若い頃、世に登場した頃は、素晴らしく美しかったのだ。その頃の写真は、残らず切り抜きとして、保存していたはずだ。ぼくは、どこかの引き出しをかき分け、中からそのスクラップを取り出すと、もう一度、じっくりとその写真を見つめた。確かに美しい。その写真のうち、いくつかは、生き生きした、美しい笑顔を、こちらに向けていた。こんなに美しく、愛らしかった彼女は、もう二度と、世に出ることもないだろう… ぼくは写真を閉じ、まだ彼女のいるところへ行くことにした。あれから年をとったとはいえ、そんなにふけていたわけでもない。幸い彼女の亡くなっているところは、ここからそんなに遠くはない。そして遂にぼくはやって来た。表には、彼女を偲ぶ大勢の人が詰めかけ、並んでいた。最後まで品を失わなかった彼女にふさわしい、感じのいい、モダンな屋敷だ。ぼくは人々のいる、表の入口に向かった。するとそこでは、すすり声が屋敷内から聞こえて来ていた。無理もない。あれほどの彼女が、たったまだ、こんな若い年齢で、あの世の人となってしまったのだ。そのすすり泣きは、この入口のところまで伝播し、入口に立っていた知人や、若いメイドまで泣かせるに至った。若いメイドは立っていることも出来ず、入口の床の上に泣き伏してしまった。その悲しい感情は、ぼくにもよく分かった。ぼくも泣きたいぐらいだった。ハンカチで目頭を押さえ、そうして彼女が眠っているはずの、明るい光に包まれた、屋敷の中へと、ぼくは入って行った…

 

 夢はそこで覚めた。だから、彼女の死に姿を見たわけではない。だが目が覚めたとき、胸が痛くなるような、強い、悲しい感情に捕らわれていたことは確かだった。どうして、それほどまで悲しかったのだろう? また、それほどまで、悲しい夢を見なければならなかったのだろう? 恐らく、若かった頃の彼女の美しさと、その突然の死の中に、ぼくは、世のはかなさの集約のようなものを、見てとったからなのだろう。美しいものも、年には勝てず、やがて死に至る。――これの意味するものを、ぼくは夢の中で見、心の底から感じとったのだ…


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 そんなことが、静かに、ベッドに横になっているぼくの頭の中を流れて行った。なんと冷たい、さわやかな風なのだろう。その一吹き、一吹きが、ぼくに、別の思いを運んでくれそうだ。ぼくは目を閉じ、雨の中を濡れて帰った日のことを思った。小川の両岸は、雨にけむっていた。傘を失い、芝生の敷き詰められた、丸く刈られた樹木の横を、誰も乗っていず風に揺れているブランコの横を、雨に打たれながら、ぼくはひとり、とぼとぼと帰って行った。周りの景色は、すべて雨にかすみ、家や樹木の黒い陰が、恐ろしい魔物のように見えたことはなかった。また、あのときほど、孤独と悲しい思いを感じたことはなかった。しかし、雨にぬれた樹木の枝や葉は美しく、地面に咲いている草花も美しかった。そして、雨にぬれた迷路のような公園の茂みの向こう側から、傘をさしたママとぼくの妹が、このぼくを迎えに、歩いてやって来るのだ。その姿はまるで、茂みに咲いたもうひとつの花のように、美しかった。

 …そういった日は、現在というこの日からは、遥か昔へと切り離されてしまった。今残っているのは、ただその日の記憶だけだが、どれほど確かかどうかは、もう分からない。あんなことがあった日から、どれほど多くの日々が流れ去ったことだろう。あの頃いたママが、まだ子供の頃だった村のすぐそばまで、ぼくは帰って来ていた。思えば、その村は、その日々からどれほど多くの歳月が流れ去っていることだろう。だが人は年を取っても、村は朽ち果てることはないのだ。今も、その当時の家が残っているだろうし、その当時の廃墟の岩陰には、今もその当時と同じように、小さな花が咲いていることだろう。その当時流れていた清らかな小川は、今も同じ音をたてて、きっと流れているだろう。ぼくは、ぼくの知らない昔に存在していたその村へ帰ろうとしていた。リトイアの、さらに小さなサビーノの村へと。ぼくが現在いるこのホテルから、そこへは、もうすぐそこだという思いが、ぼくの胸を震わせた。長い年月の後、ぼくは再び、ママが育ち、旅立った故郷へと帰って来たのだ。めぐりめぐったあげく、結局、自分の思い出の場所へと帰って来る。人生とは、そうしたものなのだろう。長い年月の後、自分のふるさとのことを思わない人はいない…

 

 ぼくはなおも、横になり続けた。いつかリサと旅をした時のことが頭を過った。彼女とホテルに泊まり、彼女は入るなり、シャワーを浴び、そのあいだぼくは、窓辺に立って、窓の外を眺めていた。あの頃はまだ二人で、ぼくは幸せだった。そんな日もあり、そしてもっと遠い日もあった。セーラ。彼女らと会ったときの思い出。彼女らは、海辺からそう遠くない、日のよく当たる、木のおい茂った屋敷で、何不自由なく暮らしていたのだった。学校に通い、ピアノと乗馬とを習っていた。庭は広く、庭に出ている彼女らは、まるで二葉の蝶だった。ぼくはもちろん、そんな彼女たちの姿を目にしたことはない。しかし彼女らの話しから、そうした光景は目に浮かんで来るようなのだ。



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