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 …こうして、ぼくは再び、ひとりに戻った。すぐには寂しいという気持が湧かなかった。空が思いがけなく晴れていたせいもあるだろう。それに、ぼくはひとりになっても、やるべきことが待っていた。その為に、彼女が帰ってしまったからといって、感傷的な気持に浸る気にもなれなかったのだ。ここまで彼女と来た道のりを、ぼくはひとりで歩いて帰った。途中、小道の脇に茂る潅木の間で、一本、葉をいっぱいつけたハンノ木のすき間からこぼれ落ちる、明るい、夢誘うような木漏れ陽が素晴らしかった。よく見慣れた丘の風景や、そんな樹木に感動を覚えながら、長い時間かかって、ぼくは家に帰って行った…

 

 そのときに、ぼくの脳裏に、どういうことが去来していたのかはもう忘れてしまった。ぼくの頭を横切ったのは、リサと過ごした三日間の楽しい生活。あるいは、これから取りかかろうとしている、ぼくの母、リディアとレオノールの物語、のことだったのかも知れない。それとも、リサと夜、音楽を聞き、ブランデーを傾けながら、とりとめもなく語り合った楽しい夜のことだったのかも知れない。いずれにせよ、この三日間というものは、まるで夢のように過ぎ去ってしまった。彼女との別れはあっけなく終わってしまったが、その日の夕暮れ、リサのいなくなった家の窓から、遠くの丘や森が、ゆっくりと暮れて行くのを、何か心に穴を空けられたような思いで、見つめていたのを覚えている。確かに、リサが去ったということは、ぼくにとっては痛手だったのだ。昼間、あれほど明るかった空にも、ゆっくりと宵の気配が忍び寄り、光が薄くなって行くにつれ、単に心の闇がおおうばかりではなく、本当の闇が、この地をおおい尽くすことになるだろうという思いが、強くした。それは、この地をやがて真白に染める、厳しい冬の到来を意味していたのだ。

 

 この寂しい別れの日の夜をどのようにして過ごしたのかは知らない。しかしその後、リサからの音信は絶えてなかったし、ぼくからも、リサに電話することはなかった。

 ぼくはひたすら、うっとおしい雨の日を、そしてそれがやがて雪に変わる日を、じっと家の中で耐え抜いて行く決意をした。やがて訪れる春の、行動の日が、ぼくのところにやって来るのを待ちながら…


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第5章

 

 …春の花々が、まるでその日の到来を待ちわびていたかのように、一斉に咲き出す頃、しかしまだ、冬の名残りの分厚い灰色の雲が、ゆっくりと空を流れて行くのを、ぼくはじっと窓から眺めていた。随分と長い冬だった。暗くて、重く、長い冬―― ぼくはその冬を、たったひとりでじっと耐え抜いた。様々な考えが横切り、様々な本を読んだ。しかし、そうした、余り事件のない生活の中で、ただひとつ確実なことは、自分の孤独、ということだった。――だが、春の息吹には、確実に、もうすぐそこまでやって来ている。ぼくは、庭に咲いたクロッカスや、紅いラナンキュラスや、スイセンの花などが、春の嵐に微妙に揺れている様をじっと眺めた。まだ空気は暖かくもなく、むしろ冷たかった。しかし、幾重にも重なって見えるあの雲の彼方には、きっと、喜ばしい春がひかえていることだろう。

 

 ぼくは窓から離れ、ソファーに腰を降ろした。テーブルの上には、時刻表がひとつ置かれてあった。それを手に取り、パラパラとページをめくった。出発の時刻を確認すると、もう一度、自分の部屋を見渡した。また、しばらく留守にすることになるこの家――そして、あの庭―― ぼくは、ぼんやりとそれらに目を向けた。時計の針が静かに時を刻む音。窓の外からは、春を喜ぶかのような小鳥の鳴き声も聞こえて来る。このようにして、この冬を過ごしたこの家とも、もうしばらくでお別れだ。誰れもぼくの旅立ちを見送ってくれないこの家、そしてあの庭。それらは、余りにも静かだ。この落ち着いた壁の色も、ソファーも、床に敷き詰められた絨毯も、壁に掛けられた絵や、フロアースタンド、窓に引き上げられたすだれも、余りにも静かな時の流れの中に溶け込んでいる。そして、窓の向うには、雑然とした庭の茂みの向うに、なだらかな丘の斜面や、森の立木の姿が見える。雨の日には、それらはぼうーっとかすんで、部屋の中でひとりいるぼくの心に、言い知れぬ孤独感を誘ったものだった。余りの孤独に耐えかねて、ぼくは、リサに、そして、セーラに電話したことがあった。両方とも、元気にやっている、生きの良い返事が返って来た。ぼくはかろうじて、雨の日の、憂欝な時を過ごすことができた。――しかし今や、その同じ庭にも、春の柔らかい日ざしが降り注いでいた。雲の切れ目の、青い空から降り注ぐその光は、まるで天使の恵みのようにさえ思われた。それは、春風にそよぐ、うっそうとした庭の花や、枝の葉を、美しく輝かせた。ぼくの目も、その庭の光によって、輝いた。もう春だ。春がすぐそこまでやって来ている…

 

 ぼくは自分の寝室に向かい、既に準備してあった旅行鞄を手に取ると、それをベッドの上に置き、中を開いて、もう一度中身を確認した。必要なものはすべて入っていた。それほど重くないように、本当に必要なもの以外はできるだけ省くことにした。しかしそれでも、持って行く本の数だけは、どうすることもできなかった。ぼくは、旅行鞄をきっちり締めると、窓辺に歩み寄った。庭の木の枝が、すぐそこまで伸びて来ていた。もう何度も見慣れた光景―― ぼくは、それをかき消すかのように、さっと窓のカーテンを引いた。


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 …家を出ると、空には徐々に青空が広がり、春の光が、庭の樹木や、花々を輝かせていた。とりわけ、煙突のある、土色の屋根をした、しっとりした我が家が、春の光に輝いているのが、印象的だった。戸締まりは、すべて済ませていた。また当分、この家を留守にすることになるだろう。この白い壁。そして、美しい春の花々―― のどかな午後だった―― 誰ひとりいず、誰ひとり、ぼくのこの旅立ちを見守る者もいなかった。しかし、これら、自分の住み慣れた家を見ると、ぼくは、いつも感じることだが、それを残して去るに忍びなかった。まるで、ぼくの分身のような、ぼくの家。そしてこの庭―― ぼくは、庭の樹木のすき間から空を仰ぎ見、それが、ぼくのこの旅立ちを祝福してくれているのを感じると、静かにその家を後にした…

 

 一ケ月、二ケ月、あるいはそれ以上。今度、ぼくがこの家に帰って来るのは、いつになるか分からなかった。だから、人知れず、静かな自然に囲まれた、まるで農家のような我が家を、一人にしておくのが、忍びなかった。だけども、そんなことに心を縛られていたのでは、何ひとつ、行動を起こすことができない。一つの悲しみがあればこそ、新たな喜びもあるのだ。ぼくはその喜びに向かって、旅立とうとしていた。思えば昨年の秋の終わりに、リサと歩んだあの道を、今、ぼくは歩んでいた。道端には、あのときとは違って、春の花が咲き、気候もいっそう穏やかになっていた。民家の多少見えて来たところまでやって来て、今一度、ぼくは自分の通って来た道を振り向いた。舗装した田舎道は一本、まっすぐ後ろの丘の方から走って来ていた。あの丘の向うに、ぼくの、誰にも知られない、孤独の家がある。それにしても、緑はなんと豊かなんだろう。左手の低く盛り上がった丘には、半分ほど森のような濃い緑でおおわれ、あとの半分は、明るい牧場におおわれていた。その丘のふもとに、いくつかの、思い思いの方向に向きを変えて建った、二階建の民家が見えていた。道を横切るように電線が、空を走っていた。これが、いずれは寂しい、ぼくの家に通じる道であり、それは同時に、駅にも繋がっていた。

 

 …あの心地よい我が家を離れて、ぼくはどこへ行こうとしているのだろう? ぼくは、駅のベンチにひとり腰掛けながら、そんなことを考えていた。ここから遥か遠いリディアのふるさとへ、ぼくは向かおうとしていた。そこでどんなことが起こるか、知る由もなかった。しかしそこには、かつてぼくたちが住んだことのある二つの家が、今も存在するはずだった。ぼくの心は自然、この明るい春の光に打たれて、なつかしい思いと、期待とにふくらんで行くのだった。そしてリサに報告しよう。ぼくたちのふるさとが、今、どんなに変わっているか、あるいは変わっていないか、ということを―― ぼくはそれを見い出すのが楽しみだった。そして、ぼくたちの母、リディアが、青春時代を過ごしたというあの村の様々な場所に触れるのが、今から楽しみだった。


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 やがて、あのときと同じように汽車が入って来、ぼくは、晴れ渡った空の下で、汽車に乗り込んだ。乗り込み際振り向くと、今しがたいたベンチの脇の草むらに、名も知らぬ、小さな、青い花が、陽光を浴びて風に揺れていたのが印象的だった。この静かな駅で、ぼくの旅立ちを見送る者はひとりもなく、あの花だけが、無言の表情で、ぼくの乗車の様子を見守ってくれていた。

 

 ぼくが、余り乗客のいない、ガラーンとした座席のひとつに腰掛けるや、列車はゆっくりと動き始めた。ぼくの席は窓際だったが、もう窓の外を見ようとは思わなかった。もう何度も見慣れた光景――それに、残して来た我が家が今、郷愁を誘うと困るからだった。それで、窓から射し込む光を感じながら、ぼくは、膝の上に本を広げた。旅の時間潰しにと持って来た本のうちの一冊だったが、たまたま手に取ったその本は、たちまちぼくの心を奪い、列車の時の経つのも忘れさせた。ときどき目が疲れて、窓の外の景色を見、今が鉄橋を走っているとか、広い果樹園のそばを走っているとかが分かった以外、その本の世界に心を奪われ続けた。それは、そう長くない中編の小説だったが、題名は、「デイジー・ミラー」と言った。もう百年以上も前に読者を勝ち得たこの本は、今も決して、その輝きを失ってはいなかった。この小説のヒロイン、デイジー・ミラー。彼女のあふれるばかりの美しさや、生き生きとした魅力、については忘れることがないだろう。生真面目なウィンターボーンを通して語られる彼女の生き様は、その最初の登場のとき以来、読者の心を離すことがない。こんな美しい彼女なら、たとい初対面でも付き合いを願いたいと思うウィンターボーンに対して、願ってもないことだが、彼女の方から誘いの言葉をかけてくれるその自然さ。その自然なふるまいが、やがて、社交界の醜聞となり、彼女の命取りとなるのだが、それは、彼女の社交好きな性格が成させるごく自然な行動以外の何ものでもなかったのだ。彼女には、ごく簡単に誰ともお友だちになれるそんな性癖が備わっている。とりわけ美しいが故に、男はすぐ彼女と親しくなるのだろう。しかしそれは、――当時の社会習俗についてぼくはほとんど何も知らないのだが、当時のヨーロッパにおけるアメリカ人の社交界において、彼女は蓮葉な女であり、醜聞の種以外の何ものでもなく、社交界の人々のつれない仕打ちを受け、やがて完全に、社交界から締め出されてしまうことになる。しかし彼女の自然な性格は、それでいじけることもなく、社交界の外で、ジョヴァネリという愉快なイタリア人との交際に活路を見いだして行く。それは、彼女がアメリカの社交界で得たごく自然なふるまいを、そのままこのヨーロッパでも延長しているに過ぎず、なんの悪意も、大胆さも、情熱も秘められているわけでもなく、言わば、彼女の「無邪気さ」そのものなのだ。しかしそれは同時に、旧弊じみた当時のヨーロッパ化されたアメリカ人の社交界に受け容れられることはなく、彼女の経験不足、あるいは未熟さゆえに、彼女は、人々の鼻つまみ者となって行くのだ。このように見て行くと、彼女の「死」そのものに、特別意味があるわけではない。


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ある社会状況の中に投げ込まれた一人の女の生き様として、興味を持たせるのに成功した小説として、読むことができるだろう。――ともかく、それを読み終えたとき、列車はなおも走り続けていたが、陽が段々と傾き、丘の上に、うっすらと森に囲まれた城塞が、まだ衰えることのない陽光を浴びて、そびえているのを目にして、ぼくは、一世紀前の当時の時代と、その時代を、ほんの短く生きたデイジー・ミラー、あるいは、デイジー・ミラーのような少女に思いを馳せた。目の前をかすめて行く光景は、すべて「自然」の風景以外の何ものでもなかったが、ぼくの脳裏は完全に、この小説からのみ知られる、当時のヨーロッパ社交界と、その風景へと向けられるのだった。そのように美しく、そのように無邪気にふるまうことのできた少女が、昔、どこかにいたのだし、今も、どこかにいるのかも知れない。ぼくは、本を読み終えて、彼女の生き生きとした、悲劇的な人生が、いつまでも、余韻を伴って、心に残るのを感じた。何か、感動すべきものに出会ったときにいつも感じる、あの、一種、茫然とした状態だった。心はそれに捕らわれ、もうそれ以外のことは考えることもできない… しかし、どうして今、「デイジー・ミラー」なのか? と問われれば、ぼくは、その答えを知らない。旅の準備に、たまたま、ぼくの旅行鞄に紛れ込んだ一冊だったのだし、その内容について、あらかじめ知って読んだわけでもなかった。ただ、その題名に惹かれて読んだのかも知れないが、この、無邪気と、奔放さの典型であるような「デイジー・ミラー」の名だけは、永く、ぼくの記憶に残ることになるだろう。最後に、この種のアメリカ娘が、1860年代には、ヨーロッパのそこここに見られたが、70年代になると、急にパッタリと見られなくなってしまったという後日談が、何か、ぼくの心を暗いものにした。そうした、短い一時代を生きた典型を、このような芸術的な作品の中に結晶できたということは、それだけでも、値打のあることだ、と言うことができるだろう。実は、ぼくの求めていた作品は、そのような作品だったかも知れないのだ… まだ、読み終えて間もなく、列車が走っているとき、是非この一冊を、リサに勧めてやろうと、ぼくはその場で決意した。

 

 長い列車の旅だった。途中、いくつかの大きな駅に止まり、そして、最後の駅で汽車を乗り換えた。陽春の、最後の光が、美しい空を背景に、地平線へと沈むと、やがて闇が訪れた。ぼくは、寝台車を離れ、予約していた食堂車へと向かった。既に食堂車は、人々で混雑しており、ウェイターやウェイトレスが、忙しそうにテーブルのあいだを往き来していた。ぼくは、白いテーブルクロスにおおわれた、二人掛けのテーブルが空いているのを目にすると、そこに腰を降ろした。さっそくウェイターがやって来、ぼくは、ディナーとワインとを注文した。他のテーブルでは皆、楽しそうにしゃべり合っているのに、このテーブルだけが、向かいに人がいないのが、寂しかった。ぼくは、暗闇ガラスに、自分の姿や、車内の賑やかな様子が映っているのを目にしながら、ふと、デイジー・ミラーのような美しい少女が、向かいの席に坐ってくれないだろうか、と空想した。そんなことにでもなれば、この旅はとんでもない方向へ行くことになるかも知れない。だがもし、そんな彼女が目の前に現れれば、ぼくはどのように応対することができるだろうか?



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