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283

 “レオノール爺さんの言っていたあの話しは本当なのかしら?”とリサは、真剣な表情になって言った。

 “嘘じゃないだろうさ”と、ぼくは答えた、“あの爺さんの語ってくれたことは、すべて本当の話しさ。だからこそ、ぼくはもう一度、あの話しに出て来る舞台のひとつひとつをこの足でたどってみたい。本当は、あれを聞かされたとき行くべきだったんだろうけれど、あのときは、思いがけない生活ができた嬉しさで、そこまでは余り気が回らなかったのさ。こういうことは、往々にして、時が経ち、落ち着いた頃に、後で、じんわりと、身にしみて感じられて来るものなのさ…”

 “あたしがいなくなってから、急にそんな気がして来たのね”と、リサは、しんみりとした表情で言った。

 “いや、そういうわけじゃない”と、ぼくはきっぱりと否定した、“そういう計画は、前々からあったのさ。そして――本当は、お前のいたうちに、お前と二人で実行してみたかった”

 “それができなくて御免なさい”と、リサは、気の毒そうに言った。

 “いいさ”と、ぼくは、元気をつけるように言った、“何度も言っているように、ぼくはひとりで充分。そして、今度こそは頻繁に、お前に電話をするかも知れないからね”

 “ええ、待ってる”と、リサは、にっこりして、ぼくに答えた。

 

 “夢と希望”と、ぼくは、少ししてから言った、“そういう人生はいいねえ。できればぼくも、そういう人生を送りたい。ぼくがセルッカにいた頃よく夢に見た、幼い、リトイアにいた頃の夢――ぼくはそこへ会いに行くのさ。ただ、ぼくらの本当の故郷、オディープだけは、お前の為にとっておこう。あそこは、お前たちと行くときにしか、値打のないところなんだからね”

 “なかなか行けなくて御免なさい”と、リサは言った、“そのうち、また機会ができたら、兄さんに連絡するわ”

 “いつでもいいけど、ぼくはその日を待っている”と、ぼくは答えた。

 

 以上が、リサの帰郷のすべてだった。彼女が帰るこの日、レストランの外は、まるで祝福するかのように、太陽が燦々と降り注ぎ、花壇や、テラスの茂みも美しかった。世の中には、様々な経験をし、数奇な運命をたどる人もいる。例えば、最近知った、H・ハラーのチベットでの運命がそうだ。リダ・ラーンの収容所から脱走した彼らの前に立ちはだかっていた運命は、まるでこの世のものとは思われない。今でこそ、チベットは知られているが、大戦をはさんだその当時は、まるで異星での体験のようだったに違いない。苦しいことの方が多かったが、それと引き換えに、美しい経験もしているのだ。ぼくも彼のように、とは言わないが、それとどこか似たような経験が欲しい。


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284

 故郷を訪ねることがそれだ、とは言わない。しかし、旅や冒険は、人生に何かをもたらすものなのだ…

 

 “もう行く時刻だ”と、ぼくは時計の針を見て言った。

 “早いわねえ”そう言って、リサは立ち上がって、旅行鞄を持とうとした。

 しかしすかさず、彼女の手の上に、ぼくの手が伸びて、触れ合った。

 “せめてプラットホームまで、ぼくに運ばせておくれよ”ぼくは言った。

 

 レストランから出ると、外はまぶしいばかりだった。テラスには、人気のないテーブルと椅子とが無造作に配置されている。テラスや花壇の緑も、またまぶしいほどだった。そのまぶしい緑を通して、このレストランの白亜の壁もまた、まぶしく輝いている。空は、雲ひとつないほど快晴だった。

 

 ぼくたちはプラットホームにやって来た。何んの変哲もない、田舎の駅。隅には、自転車や、古い貨車が、まるで打ち捨てられたように置かれている。対面には、緑多い丘のような山がそびえている。時間的余裕は、もうほとんどなかった。ぼくたちがプラットホームに来るや間もなく、前の方に貨車を連結した列車が入って来た。一年半も昔、リサを見送ったこの駅から、今再び、リサは去って行こうとしているのだ。リサは、ぼくの手からしっかりと、自分の旅行鞄を受け取った。

 “楽しかったわ”と、リサはにっこりしながら言った、“兄さんもまた、街へやって来てね。必ずよ”

 “ああ。きっとだ”そう言ってぼくは、彼女の頬にキスをした、“このキスを、しばらく忘れない為の、お前の味として残して置くよ”

 リサは、一段と明るい笑顔となった。

 しかしもう、ゆっくりしている時間はない。他の乗客が乗り込んだ後、リサは客車のステップに足をかけた。そして、そのステップから振り向き、ぼくを見た。

 “じゃあね、電話を待っているわ”

 そう言って、リサは手を振りかけた。そのとき、列車は音もなく、ゆっくりと動き始めた。ぼくも思わず、手を振った。

 “ああ、必ず電話をするよ”と、ぼくは言った、“お前だってまた何かあれば、電話をしてくれよ。ね”

 “ええ、そうするわ”

 そう言って手を振るリサを乗せた列車が、次第に遠ざかって行く。

 ぼくは大きく手を振った。リサはやがて、列車の中に姿を消し、列車も、小さく、小さく去って行った。後に残されて、茫然と立っているぼくのところへ、荷物を手押し車に乗せて運んで来たポーターが、きょとんとした目で見つめているのが印象的だった…


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 …こうして、ぼくは再び、ひとりに戻った。すぐには寂しいという気持が湧かなかった。空が思いがけなく晴れていたせいもあるだろう。それに、ぼくはひとりになっても、やるべきことが待っていた。その為に、彼女が帰ってしまったからといって、感傷的な気持に浸る気にもなれなかったのだ。ここまで彼女と来た道のりを、ぼくはひとりで歩いて帰った。途中、小道の脇に茂る潅木の間で、一本、葉をいっぱいつけたハンノ木のすき間からこぼれ落ちる、明るい、夢誘うような木漏れ陽が素晴らしかった。よく見慣れた丘の風景や、そんな樹木に感動を覚えながら、長い時間かかって、ぼくは家に帰って行った…

 

 そのときに、ぼくの脳裏に、どういうことが去来していたのかはもう忘れてしまった。ぼくの頭を横切ったのは、リサと過ごした三日間の楽しい生活。あるいは、これから取りかかろうとしている、ぼくの母、リディアとレオノールの物語、のことだったのかも知れない。それとも、リサと夜、音楽を聞き、ブランデーを傾けながら、とりとめもなく語り合った楽しい夜のことだったのかも知れない。いずれにせよ、この三日間というものは、まるで夢のように過ぎ去ってしまった。彼女との別れはあっけなく終わってしまったが、その日の夕暮れ、リサのいなくなった家の窓から、遠くの丘や森が、ゆっくりと暮れて行くのを、何か心に穴を空けられたような思いで、見つめていたのを覚えている。確かに、リサが去ったということは、ぼくにとっては痛手だったのだ。昼間、あれほど明るかった空にも、ゆっくりと宵の気配が忍び寄り、光が薄くなって行くにつれ、単に心の闇がおおうばかりではなく、本当の闇が、この地をおおい尽くすことになるだろうという思いが、強くした。それは、この地をやがて真白に染める、厳しい冬の到来を意味していたのだ。

 

 この寂しい別れの日の夜をどのようにして過ごしたのかは知らない。しかしその後、リサからの音信は絶えてなかったし、ぼくからも、リサに電話することはなかった。

 ぼくはひたすら、うっとおしい雨の日を、そしてそれがやがて雪に変わる日を、じっと家の中で耐え抜いて行く決意をした。やがて訪れる春の、行動の日が、ぼくのところにやって来るのを待ちながら…


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第5章

 

 …春の花々が、まるでその日の到来を待ちわびていたかのように、一斉に咲き出す頃、しかしまだ、冬の名残りの分厚い灰色の雲が、ゆっくりと空を流れて行くのを、ぼくはじっと窓から眺めていた。随分と長い冬だった。暗くて、重く、長い冬―― ぼくはその冬を、たったひとりでじっと耐え抜いた。様々な考えが横切り、様々な本を読んだ。しかし、そうした、余り事件のない生活の中で、ただひとつ確実なことは、自分の孤独、ということだった。――だが、春の息吹には、確実に、もうすぐそこまでやって来ている。ぼくは、庭に咲いたクロッカスや、紅いラナンキュラスや、スイセンの花などが、春の嵐に微妙に揺れている様をじっと眺めた。まだ空気は暖かくもなく、むしろ冷たかった。しかし、幾重にも重なって見えるあの雲の彼方には、きっと、喜ばしい春がひかえていることだろう。

 

 ぼくは窓から離れ、ソファーに腰を降ろした。テーブルの上には、時刻表がひとつ置かれてあった。それを手に取り、パラパラとページをめくった。出発の時刻を確認すると、もう一度、自分の部屋を見渡した。また、しばらく留守にすることになるこの家――そして、あの庭―― ぼくは、ぼんやりとそれらに目を向けた。時計の針が静かに時を刻む音。窓の外からは、春を喜ぶかのような小鳥の鳴き声も聞こえて来る。このようにして、この冬を過ごしたこの家とも、もうしばらくでお別れだ。誰れもぼくの旅立ちを見送ってくれないこの家、そしてあの庭。それらは、余りにも静かだ。この落ち着いた壁の色も、ソファーも、床に敷き詰められた絨毯も、壁に掛けられた絵や、フロアースタンド、窓に引き上げられたすだれも、余りにも静かな時の流れの中に溶け込んでいる。そして、窓の向うには、雑然とした庭の茂みの向うに、なだらかな丘の斜面や、森の立木の姿が見える。雨の日には、それらはぼうーっとかすんで、部屋の中でひとりいるぼくの心に、言い知れぬ孤独感を誘ったものだった。余りの孤独に耐えかねて、ぼくは、リサに、そして、セーラに電話したことがあった。両方とも、元気にやっている、生きの良い返事が返って来た。ぼくはかろうじて、雨の日の、憂欝な時を過ごすことができた。――しかし今や、その同じ庭にも、春の柔らかい日ざしが降り注いでいた。雲の切れ目の、青い空から降り注ぐその光は、まるで天使の恵みのようにさえ思われた。それは、春風にそよぐ、うっそうとした庭の花や、枝の葉を、美しく輝かせた。ぼくの目も、その庭の光によって、輝いた。もう春だ。春がすぐそこまでやって来ている…

 

 ぼくは自分の寝室に向かい、既に準備してあった旅行鞄を手に取ると、それをベッドの上に置き、中を開いて、もう一度中身を確認した。必要なものはすべて入っていた。それほど重くないように、本当に必要なもの以外はできるだけ省くことにした。しかしそれでも、持って行く本の数だけは、どうすることもできなかった。ぼくは、旅行鞄をきっちり締めると、窓辺に歩み寄った。庭の木の枝が、すぐそこまで伸びて来ていた。もう何度も見慣れた光景―― ぼくは、それをかき消すかのように、さっと窓のカーテンを引いた。


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 …家を出ると、空には徐々に青空が広がり、春の光が、庭の樹木や、花々を輝かせていた。とりわけ、煙突のある、土色の屋根をした、しっとりした我が家が、春の光に輝いているのが、印象的だった。戸締まりは、すべて済ませていた。また当分、この家を留守にすることになるだろう。この白い壁。そして、美しい春の花々―― のどかな午後だった―― 誰ひとりいず、誰ひとり、ぼくのこの旅立ちを見守る者もいなかった。しかし、これら、自分の住み慣れた家を見ると、ぼくは、いつも感じることだが、それを残して去るに忍びなかった。まるで、ぼくの分身のような、ぼくの家。そしてこの庭―― ぼくは、庭の樹木のすき間から空を仰ぎ見、それが、ぼくのこの旅立ちを祝福してくれているのを感じると、静かにその家を後にした…

 

 一ケ月、二ケ月、あるいはそれ以上。今度、ぼくがこの家に帰って来るのは、いつになるか分からなかった。だから、人知れず、静かな自然に囲まれた、まるで農家のような我が家を、一人にしておくのが、忍びなかった。だけども、そんなことに心を縛られていたのでは、何ひとつ、行動を起こすことができない。一つの悲しみがあればこそ、新たな喜びもあるのだ。ぼくはその喜びに向かって、旅立とうとしていた。思えば昨年の秋の終わりに、リサと歩んだあの道を、今、ぼくは歩んでいた。道端には、あのときとは違って、春の花が咲き、気候もいっそう穏やかになっていた。民家の多少見えて来たところまでやって来て、今一度、ぼくは自分の通って来た道を振り向いた。舗装した田舎道は一本、まっすぐ後ろの丘の方から走って来ていた。あの丘の向うに、ぼくの、誰にも知られない、孤独の家がある。それにしても、緑はなんと豊かなんだろう。左手の低く盛り上がった丘には、半分ほど森のような濃い緑でおおわれ、あとの半分は、明るい牧場におおわれていた。その丘のふもとに、いくつかの、思い思いの方向に向きを変えて建った、二階建の民家が見えていた。道を横切るように電線が、空を走っていた。これが、いずれは寂しい、ぼくの家に通じる道であり、それは同時に、駅にも繋がっていた。

 

 …あの心地よい我が家を離れて、ぼくはどこへ行こうとしているのだろう? ぼくは、駅のベンチにひとり腰掛けながら、そんなことを考えていた。ここから遥か遠いリディアのふるさとへ、ぼくは向かおうとしていた。そこでどんなことが起こるか、知る由もなかった。しかしそこには、かつてぼくたちが住んだことのある二つの家が、今も存在するはずだった。ぼくの心は自然、この明るい春の光に打たれて、なつかしい思いと、期待とにふくらんで行くのだった。そしてリサに報告しよう。ぼくたちのふるさとが、今、どんなに変わっているか、あるいは変わっていないか、ということを―― ぼくはそれを見い出すのが楽しみだった。そして、ぼくたちの母、リディアが、青春時代を過ごしたというあの村の様々な場所に触れるのが、今から楽しみだった。



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