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 その日の午後、ぼくたちは田舎の駅のレストランにいた。白い、三角形の壁が特徴的な、なかなか感じのいい店だった。カーテンを押し広げられた窓からは、庭や、窓辺に植えられた花壇の葉が、茂って見えていた。周りには人気がなく、樹木や、茂みの香りがいっぱいの、いかにも田舎のレストランという感じだった。暖かい日には、屋外のテーブルに出ることもできるのだが、この日は、外に出ている客はいなかった。

 

 円いテーブルを囲んで向かいに坐っているリサのすぐ脇には、旅行かばんが置いてあった。ここまで、ぼくが運んでやったかばんだ。ぼくは、このレストランで一番いい昼食を、リサの為に注文した。サーモンを中心とした料理と、上等のワインとを…

 

 “いよいよ、お前ともお別れだね”と、ぼくはポツリと言った。

 リサは、ナイフとフォークで、クリーム・ソースのかかった、美味しそうなサーモンを切っているところだったが、その手を休めて、ぼくを見た。

 “この前、お前と別れたのは、メロランスの駅でだった”と、ぼくは続けた、“あのときは、お前が見送ってくれたけれど、今度は逆だね。もうあれから、一年になろうとしているなんて… そのあいだにいろんなことがあった。とくに、セーラに会えたのが、大きな事件だった”

 “姉さんは、帰って来ないの?”と、リサは尋ねた。

 “当分はね”と、ぼくは、それとなく答えた、“だけど、向こうからなかなか来れないようなら、ぼくの方から出向いて行ってやるよ。本当は、一度でもいいから、早く帰って来て欲しいんだけどね、お前みたいに”

 “そうね、そうなる日が来ることを祈っているわ”と、リサは答えた。

 “それでお前は、街に帰ってからまた仕事かい?”

 “ええ、忙しくなると思うわ”と、リサは答えた、“――でも、ここに帰って来られて、いい気分転換にはなった”

 “気に入ったんなら、またおいでよ”と、ぼくはすかさず言った、“昔はお前も、ここで暮らしていたんだしね。別にこれと言って、特徴のない村だけど、田舎風の生活を味わうには、ここが一番さ。都会に疲れたときでもいい、そんなときにでもまた尋ねてもらえれば、本望さ…”

 “そうね、またそんなときにね”と言って、リサは、優しい微笑みを、ぼくに向けた。

 

 “…ぼくもこれから忙しくなる”と、しばらくしてからぼくは言った、“この冬は、思い切り本を読みたいし、それからまた旅さ。窓の外の、あの草木が一斉に花咲く頃にね。――でも、それまでは、長い、孤独な冬となるだろう…”

 “また、兄さんも、たまには街へやって来てよ”と、リサは優しく言った、“街も、兄さんが思っているほど、捨てたものじゃないわ。結構面白くてよ。兄さんが来てくれれば、あたしがまた兄さんを、街へ案内してよ”


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 “ああ、そのうち、またね”と、ぼくは答えた。

 そう答えたものの、ぼくはどうしていいか分からなかった。これからの長い冬、リサがいなくなってから、どのようにして、過ごして行こう?

 リサの傾けるワイングラスが、窓からの淡い光に反映して、キラッと輝くのが、ぼくに、悲しい思いを感じさせた。

 自然は、あんなに息づいているのに、人生は、こんなに歓びに満ちているというのに、なぜかしら、ぼくの心は重い。

 

 ――ぼくの母、リディア。ぼくは、リディアの人生の後をたどらねばならないと思った。彼女の人生をたどることが、今後のぼくの人生の、指標ともなるだろう。ぼくはもはや、自分の人生を切り開いて行くことはできない。しかし、人の人生の後なら、たどって行くことができるのだ…

 

 “それで、リサ”と、ぼくは言った、“何をするにせよ、お前が街で、成功し、幸せになることを祈っているよ”

 そう言うと、リサはにっこりした。

 “そう言ってもらって、嬉しいわ”と、リサは答えた、“今は、雑誌関係の仕事だけど、将来は自分の事務所を持って、うんとお金をもうけるの。それがあたしの夢よ。うまく行くかどうかは分からないけど…”

 “大丈夫。お前ならできるさ”と、ぼくは、リサを励ました、“そしてもし、いい家にでも住めるようになったら、ぼくを招待しておくれよ。ぼくは遠からず、その日が来ることを待っている”

 リサは、ワインでほんのり赤味の差した笑顔をぼくに向けた。

 “いいわねえ、そんな生活ができれば…”と、リサは言った、“でもそんなのは将来の夢としてとっておいて、今は、現在の仕事に打ち込むことだけよ。――兄さんも、今の仕事が、いつかは花開くことを祈っているわ…”

 “ぼくの仕事?”と、ぼくは驚いたように言った、“何かを書く、ということかい? 確かに、心の中には、モヤモヤとしたものがいっぱいあるんだけど、それをうまく表現する力がぼくにはまだ不足しているんだ。物事を感じる心は人一倍だと自負しているけれど、ぼくはまだまだ経験不足の身さ。何事につけても―― しかしぼくは、人生を、もっと、人一倍感じたい。何が真実であり、何が幸福かをね。たとえば、昔、ママがよく言っていた、幼い頃の火祭りの体験さ。成人してから、ふるさとに戻っても、それが何よりも一番楽しい経験だった、とママはぼくに語っていた。人生には、いつまでも心に残る、そういう思い出というものがあるものなのさ。そして、それらをしっかりとつかんでいる限り、人生はまっすぐに進んで行く。


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ところが、何んらかの原因で、それらを見失ってしまうと、つまり、過去からのつながりを失ってしまうと、人生は、思いもよらぬ方向へと行ってしまうものなのさ。ぼくが考えたいのは、その辺のところなんだ。人生の連続性と、不連続性と…”

 “相変わらず兄さんは、面白いことを考えているのね”と言って、リサは笑った、“そういうところが、兄さんの面白いところ”

 “笑い事じゃない。真面目な話しさ”と、ぼくは、真剣な顔をして言った、“なぜなら、ぼく自身が、この不連続の経験に悩ませ続けられているんだからね。ぼくはもはや、ここがぼくのふるさとだ、と言えるようなふるさとを持ってはいないのさ。ぼくは今や、過去はおろか、どこからも切り離されて、ひとりいる孤独の身さ。だからこそぼくが思うのは、自分の故郷ではなく、ママの故郷に注意を向けることなんだ。そこでなら、ぼくの求めている真実の、何んらかの解決の糸口が見つかるかも知れない…”

 “じゃ、春になれば、兄さんは、ママの故郷に行くつもりなのね”と、リサはしんみりと言った。

 “そう。そしてそこで、ママを知っているという、色んな人に会ってもみたい”と、ぼくは、目を輝かせながら言った、“もちろん、その経験については、お前にも、逐一報告するつもりだよ。そして、その調査を終えてから、お前の言うように、もう一度、お前のいるメロランスヘ、お前に会いに行ってもいい。何んなら、そこで写した写真も持って行ってあげるよ”

 “そう。嬉しいわ”と、リサの顔は、ほころんだ、“その日が早く来ることを、あたしも、兄さんと一緒に、心待ちにしているわね”

 

 “空はいい天気で晴れている”と、ぼくはしばらくしてから言った、“まるでお前が出発するのを喜んでいるようだ”

 リサは、笑顔を輝やかせながら、ぼくを見た。

 “お前が来た三日間というもの、ずっといい天気にめぐまれた”と、ぼくは続けた、

“それは、お前の幸福の為に、わざと、お日様がとっておいてくれた快晴なのさ。――でも、お前も知っての通り、ここがいつも晴れているとも限らない。むしろ、雨が降ったり、雲が出たりのうっとおしい天気も、随分多いものさ…”

 “この三日間というもの、いい思い出になったわ”と、リサは、嬉しそうに言った、“夏には、みんなとキャンプに行ったけど、ここが本当の田舎という気がする。ここへ帰って来ることができるから、あたしも都会で、一生懸命になるような気がするのね”

 “いいことさ、ふるさとを持つ人間は…”ぼくは少し、リサを羨ましそうに言った、“でもぼくだって、持っていないわけじゃない。ぼくたちの第二の故郷、リトイアはね、あそこには、色んな思い出が詰まっている。とりわけ、ママの思い出がいっぱいさ。ぼくたちのあそこでの生活はヒドかったけれど、今になって考えてみれば、あそここそはママが、少女時代の大半を過ごした故郷だったのさ。それに、ママが生まれ育ったというリラン近郊の大きな館や、会社の工場跡。リトイアの高校など、興味の尽きるところはないさ…”


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 “レオノール爺さんの言っていたあの話しは本当なのかしら?”とリサは、真剣な表情になって言った。

 “嘘じゃないだろうさ”と、ぼくは答えた、“あの爺さんの語ってくれたことは、すべて本当の話しさ。だからこそ、ぼくはもう一度、あの話しに出て来る舞台のひとつひとつをこの足でたどってみたい。本当は、あれを聞かされたとき行くべきだったんだろうけれど、あのときは、思いがけない生活ができた嬉しさで、そこまでは余り気が回らなかったのさ。こういうことは、往々にして、時が経ち、落ち着いた頃に、後で、じんわりと、身にしみて感じられて来るものなのさ…”

 “あたしがいなくなってから、急にそんな気がして来たのね”と、リサは、しんみりとした表情で言った。

 “いや、そういうわけじゃない”と、ぼくはきっぱりと否定した、“そういう計画は、前々からあったのさ。そして――本当は、お前のいたうちに、お前と二人で実行してみたかった”

 “それができなくて御免なさい”と、リサは、気の毒そうに言った。

 “いいさ”と、ぼくは、元気をつけるように言った、“何度も言っているように、ぼくはひとりで充分。そして、今度こそは頻繁に、お前に電話をするかも知れないからね”

 “ええ、待ってる”と、リサは、にっこりして、ぼくに答えた。

 

 “夢と希望”と、ぼくは、少ししてから言った、“そういう人生はいいねえ。できればぼくも、そういう人生を送りたい。ぼくがセルッカにいた頃よく夢に見た、幼い、リトイアにいた頃の夢――ぼくはそこへ会いに行くのさ。ただ、ぼくらの本当の故郷、オディープだけは、お前の為にとっておこう。あそこは、お前たちと行くときにしか、値打のないところなんだからね”

 “なかなか行けなくて御免なさい”と、リサは言った、“そのうち、また機会ができたら、兄さんに連絡するわ”

 “いつでもいいけど、ぼくはその日を待っている”と、ぼくは答えた。

 

 以上が、リサの帰郷のすべてだった。彼女が帰るこの日、レストランの外は、まるで祝福するかのように、太陽が燦々と降り注ぎ、花壇や、テラスの茂みも美しかった。世の中には、様々な経験をし、数奇な運命をたどる人もいる。例えば、最近知った、H・ハラーのチベットでの運命がそうだ。リダ・ラーンの収容所から脱走した彼らの前に立ちはだかっていた運命は、まるでこの世のものとは思われない。今でこそ、チベットは知られているが、大戦をはさんだその当時は、まるで異星での体験のようだったに違いない。苦しいことの方が多かったが、それと引き換えに、美しい経験もしているのだ。ぼくも彼のように、とは言わないが、それとどこか似たような経験が欲しい。


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 故郷を訪ねることがそれだ、とは言わない。しかし、旅や冒険は、人生に何かをもたらすものなのだ…

 

 “もう行く時刻だ”と、ぼくは時計の針を見て言った。

 “早いわねえ”そう言って、リサは立ち上がって、旅行鞄を持とうとした。

 しかしすかさず、彼女の手の上に、ぼくの手が伸びて、触れ合った。

 “せめてプラットホームまで、ぼくに運ばせておくれよ”ぼくは言った。

 

 レストランから出ると、外はまぶしいばかりだった。テラスには、人気のないテーブルと椅子とが無造作に配置されている。テラスや花壇の緑も、またまぶしいほどだった。そのまぶしい緑を通して、このレストランの白亜の壁もまた、まぶしく輝いている。空は、雲ひとつないほど快晴だった。

 

 ぼくたちはプラットホームにやって来た。何んの変哲もない、田舎の駅。隅には、自転車や、古い貨車が、まるで打ち捨てられたように置かれている。対面には、緑多い丘のような山がそびえている。時間的余裕は、もうほとんどなかった。ぼくたちがプラットホームに来るや間もなく、前の方に貨車を連結した列車が入って来た。一年半も昔、リサを見送ったこの駅から、今再び、リサは去って行こうとしているのだ。リサは、ぼくの手からしっかりと、自分の旅行鞄を受け取った。

 “楽しかったわ”と、リサはにっこりしながら言った、“兄さんもまた、街へやって来てね。必ずよ”

 “ああ。きっとだ”そう言ってぼくは、彼女の頬にキスをした、“このキスを、しばらく忘れない為の、お前の味として残して置くよ”

 リサは、一段と明るい笑顔となった。

 しかしもう、ゆっくりしている時間はない。他の乗客が乗り込んだ後、リサは客車のステップに足をかけた。そして、そのステップから振り向き、ぼくを見た。

 “じゃあね、電話を待っているわ”

 そう言って、リサは手を振りかけた。そのとき、列車は音もなく、ゆっくりと動き始めた。ぼくも思わず、手を振った。

 “ああ、必ず電話をするよ”と、ぼくは言った、“お前だってまた何かあれば、電話をしてくれよ。ね”

 “ええ、そうするわ”

 そう言って手を振るリサを乗せた列車が、次第に遠ざかって行く。

 ぼくは大きく手を振った。リサはやがて、列車の中に姿を消し、列車も、小さく、小さく去って行った。後に残されて、茫然と立っているぼくのところへ、荷物を手押し車に乗せて運んで来たポーターが、きょとんとした目で見つめているのが印象的だった…



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