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しかし彼女は、ぼくの気配に影響されたのか、まだ眠ったまま、こちら向きへ寝返りを打った。光を浴びた明るい顔が、急に日陰になり、暗くなった。しかしぼくが、彼女の頬にキスをするには、その方が好都合だった。ぼくは、背中に窓からの光を浴び、掛け布団から、半分肩と腕とをのぞかせた状態で眠り続けている彼女のそばまで来ると、朝方の柔らかい光に包まれて、日陰となった彼女の寝顔の頬にそっと唇を近づけ、そしてキスをした。その一瞬の接触で、閉じられていた彼女の目が、驚いたように開かれた。余りの突然のことで、彼女は訳が分からなかったのだろう。しかし目はあけられ、ちょっと何かを考えるように、ベッドの上の一点を見つめていた。

 が、それほど大きな動作にはつながらなかった。

 “なにがあったの?”と、彼女は横になったまま、開いた目で、ぼくを見つめて言った。

 “もう朝だということを知らせに来たのさ”と、ぼくは、絨毯にひざまづき、彼女を見つめながら、落ち着いて言った。

 “そうか、ここは、あたしたちの家だったのね”と、リサは、やっと思い出したように言った、“それで兄さんがいるのね”

 “そうさ、不思議かい?”と、ぼくはおかしそうに言った。

 “それで、あたしに何かした?”リサは、ぼくの質問には答えず、そう尋ねた。

 “ああ、お前の可愛い頬にキスをした”と、ぼくは冷静に答えた。

 “だと思った”と、リサは答えた、“何か、触れたような気がしたもの。――もう朝なのね。それにしても、兄さんのその頭。髪の毛が立ったままじゃないの。寝起きそのままね”そう言って、初めてリサは、おかしそうに微笑んだ。

 “いけない!”と言って、突然、ぼくは頭に手を当てた。

 “でもそう言っているお前だって”と、ぼくも言った、“髪の毛がバラバラじゃないか。まぶただって、まだ眠そうだしね”

 “だって兄さんが急にやってくるんですもの”と、リサは言った、“手入れすることもできないんだから仕方がないわ”

 

 ぼくは、そんな彼女に微笑んだ後、ベッドから離れ、レースのカーテンが締めてある窓辺に寄った。それから、前から気になっていた外界を見る為に、カーテンをさっとあけた。窓の外は期待通りの明るい朝が広がっていた。澄んだ青い空。美しい森。

 “リサ、見て御覧、素晴らしい朝だ”と、ぼくは、窓の外を見つめながら言った。

 “そうね、いい朝のようね”とリサの声が、後ろからした。

 振り向くと、彼女はまだベッドに横になったまま、しかし、出した腕を頭の後ろに添え、向きをこちらに変えて、ぼくと窓の方に目を向けて、答えていた。ぼくの方から見ると、彼女は朝の明るい光に包まれて、ベッドの上に、ポッと浮かび上がるかのようだった。

 “こちらへ来て、見て御覧よ、すがすがしい朝さ”と、ぼくは、リサを促すように言った。


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 しかしリサは、朝の心地良さのせいか、ベッドから起きようともせず、答えた。

 “いいわ。ここからでもよく見えているもの。本当に気持のいい朝ね…”

 ぼくは振り返って、窓からもう一度外を見、穏やかな空や、光に輝いた庭に咲く花や、遠くの森や草地などを見つめながら、リサも、もうすぐこの家から出て行くのだ、と思った…

 

 この日の朝食は簡単だった。明るい朝のテーブルに、リサと二人で向き合って食事をした。木目模様のテーブルの上には、鉢植えの花が飾られ、リンゴやオレンジのフルーツも皿の上に盛ってある。キッチンと隣り合せのこのダイニングの窓からは、すぐ裏側に茂っている樹木の枝や葉がからみ合っている姿が見え、この食堂を、いっそう明るいものにしていた。一方、奥の、キッチンに通じる裏の戸口の窓ガラスからは、別の一角の樹木の様子が見え、ぼくの心を、さらになごませるのだった。いつもなら、ひとりで朝食をとって来たこのダイニングだったが、この日はリサがいた。彼女は黙々と、ナイフとフォークで肉を切り、野菜を口に運んでいた。中央の皿に盛りつけられたローストもまたたく間に消え、あとはパンと野菜と水とが残るばかりだった。ぼくはふと、鉢植えの花から、彼女のフォークを握った手の上に目が落ちた。ブルーのブラウスをのぞかせ黒いカーディガンを着たリサは、そこにいた。しかし、この食堂や、向こうのキッチンは、ぼくたちがいるにもかかわらず、静かだった。仕切り台に置かれた花瓶の花や、花模様の壁紙や、板壁など、あちこちに貼ってある額などの賑やかさにもかかわらず、静かで、無言の表情を保っていた。しかしあすは、この食堂やキッチンも、一層静かになるだろう…

 

 やがて、ぼくたちは食事を終え、リサは立って食器をキッチンヘ運ぼうとした。ぼくもすかさずそれを手伝おうと立ち上がったが、リサはちらっとそんなぼくを脇目に見た。

 “洗うのはあたしがするから、兄さんはそれを運んでくれるだけでいいわ”

 そう言ってリサは、流し台までやって来た。

 ぼくも、彼女に続いて、運んで来た食器を流しに重ねて置いた。それから、彼女に何か語りかけようとしたが、言葉もなく、再びテーブルに戻った。

 ぼくはくつろぐべく、椅子にもたれ、片方の腕を、もうひとつの木製の椅子の背を、肘掛け代わりにして置き、ゆっくりと、窓の方に目を見やった。窓の外は明るく、枝の葉が、風に揺らめいていた。ふと目を室内に向けると、キッチンではリサが、食器を洗っているその後ろ姿が、目に入って来た。グリーンの落ち着いた色調の中で、黒いカーディガンとジーンズの彼女が、裸足で、黙々と働いている様は、ぼくに、何んとも言えない感じをもたらした。もう午後にはいなくなる彼女――その彼女が、今、ここで立ち働いているのだとは何んと奇妙なことだろう。彼女が、残りかすをポイッと、くず篭に捨てる光景を目にして、ぼくは遠い日のことを思った。彼女も、一年も前の日には、このような、同じ姿を毎日、見せてくれていたものだ。だがそれも、今では何んと、貴重なものになってしまったことだろう…


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 “ねえ、リサ”と、ぼくはリンゴをひとつ手に取ると、テーブル越しにリサに声を掛けた。

 食器を拭いていたリサは、その声で振り向いた。

 “リサって、いつ見ても可愛いね。お前の姿は、この部屋にピッタシだ”

 “それはどうも”と、その言葉に対しては、リサは笑顔で答えた。

 “ぼくはね”と、ぼくは、テーブル越しにリサを見つめたまま言った、“お前に去られると寂しくなると思う… でも、それは仕方ないことだね”

 リサは心配そうにいっそうこちらに振り向いた。それどころか、彼女は手を拭き、こちらへやって来た。そしてリサは、テーブルに腰掛けているぼくを、立ったまま見降ろすように言うのだった。

 “何を言っているのよ。兄さんはひとりじゃないわ。どこに行っても、あたしがついているんですものね。大丈夫、兄さんをひとりにしやしないから。あたしがここを去っても、また来ればいいじゃないの。あたしもなるべく、また帰ってくるようにするわ。なんと言っても、ここが一番、居心地がいいんですものね。ねえ、あたしが行くからと言って、気を落とさないで。そんな寂しそうな顔をしないで、もっと明るい顔になってよ”

 その言い種は、ぼくの目には、まるでママのように映った。ママがいつの間にか、この瞬間、リサの身を借りて、ぼくに語りかけているのだ…

 ぼくは無理に、明るい顔をリサに向けた。

 “そうだね。お前はまた、街に帰って行く。そして、ぼくはひとり、ここに残る。それは運命のなせるわざで、仕方のないことさ。――きょうは、お前が出掛けるのを、駅まで見送らせてもらうからね…”

 “ええ、ありがとう”と、リサは笑顔で答えた。

 “さあ、もう少しよ”と言ってリサは、急に体の向きを変えた、“この家でのあたしの仕事も”

 そう言って彼女は、再び、この家での最後の仕事の皿拭きに戻るのだった。

 ぼくは、テーブルに残ったまま、ぼんやりと、そんなリサの姿を眺めた。そして再び、目を窓の外にやった。窓の外に見える、からみ合った樹木の枝や葉、あしたからのぼくの友だち。しかしぼくが欲しいのは、やはり生きた人間、リサのような友だちなのだ…

 

 その後、リサはしきりに自分の部屋で荷造りを始めていた。ぼくが彼女の部屋を覗くと、彼女のベッドの上は、旅行かばんと、衣類や何やかやでごった返していた。リサは別に、気が滅入るわけでもなく、それをひとつひとつかたずけていた。ぼくに、何か手伝うことがないかと尋ねても、兄さんは、向こうの部屋でゆっくりしておいてと言う返事が返ってくるばかりだった。


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 その日の午後、ぼくたちは田舎の駅のレストランにいた。白い、三角形の壁が特徴的な、なかなか感じのいい店だった。カーテンを押し広げられた窓からは、庭や、窓辺に植えられた花壇の葉が、茂って見えていた。周りには人気がなく、樹木や、茂みの香りがいっぱいの、いかにも田舎のレストランという感じだった。暖かい日には、屋外のテーブルに出ることもできるのだが、この日は、外に出ている客はいなかった。

 

 円いテーブルを囲んで向かいに坐っているリサのすぐ脇には、旅行かばんが置いてあった。ここまで、ぼくが運んでやったかばんだ。ぼくは、このレストランで一番いい昼食を、リサの為に注文した。サーモンを中心とした料理と、上等のワインとを…

 

 “いよいよ、お前ともお別れだね”と、ぼくはポツリと言った。

 リサは、ナイフとフォークで、クリーム・ソースのかかった、美味しそうなサーモンを切っているところだったが、その手を休めて、ぼくを見た。

 “この前、お前と別れたのは、メロランスの駅でだった”と、ぼくは続けた、“あのときは、お前が見送ってくれたけれど、今度は逆だね。もうあれから、一年になろうとしているなんて… そのあいだにいろんなことがあった。とくに、セーラに会えたのが、大きな事件だった”

 “姉さんは、帰って来ないの?”と、リサは尋ねた。

 “当分はね”と、ぼくは、それとなく答えた、“だけど、向こうからなかなか来れないようなら、ぼくの方から出向いて行ってやるよ。本当は、一度でもいいから、早く帰って来て欲しいんだけどね、お前みたいに”

 “そうね、そうなる日が来ることを祈っているわ”と、リサは答えた。

 “それでお前は、街に帰ってからまた仕事かい?”

 “ええ、忙しくなると思うわ”と、リサは答えた、“――でも、ここに帰って来られて、いい気分転換にはなった”

 “気に入ったんなら、またおいでよ”と、ぼくはすかさず言った、“昔はお前も、ここで暮らしていたんだしね。別にこれと言って、特徴のない村だけど、田舎風の生活を味わうには、ここが一番さ。都会に疲れたときでもいい、そんなときにでもまた尋ねてもらえれば、本望さ…”

 “そうね、またそんなときにね”と言って、リサは、優しい微笑みを、ぼくに向けた。

 

 “…ぼくもこれから忙しくなる”と、しばらくしてからぼくは言った、“この冬は、思い切り本を読みたいし、それからまた旅さ。窓の外の、あの草木が一斉に花咲く頃にね。――でも、それまでは、長い、孤独な冬となるだろう…”

 “また、兄さんも、たまには街へやって来てよ”と、リサは優しく言った、“街も、兄さんが思っているほど、捨てたものじゃないわ。結構面白くてよ。兄さんが来てくれれば、あたしがまた兄さんを、街へ案内してよ”


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 “ああ、そのうち、またね”と、ぼくは答えた。

 そう答えたものの、ぼくはどうしていいか分からなかった。これからの長い冬、リサがいなくなってから、どのようにして、過ごして行こう?

 リサの傾けるワイングラスが、窓からの淡い光に反映して、キラッと輝くのが、ぼくに、悲しい思いを感じさせた。

 自然は、あんなに息づいているのに、人生は、こんなに歓びに満ちているというのに、なぜかしら、ぼくの心は重い。

 

 ――ぼくの母、リディア。ぼくは、リディアの人生の後をたどらねばならないと思った。彼女の人生をたどることが、今後のぼくの人生の、指標ともなるだろう。ぼくはもはや、自分の人生を切り開いて行くことはできない。しかし、人の人生の後なら、たどって行くことができるのだ…

 

 “それで、リサ”と、ぼくは言った、“何をするにせよ、お前が街で、成功し、幸せになることを祈っているよ”

 そう言うと、リサはにっこりした。

 “そう言ってもらって、嬉しいわ”と、リサは答えた、“今は、雑誌関係の仕事だけど、将来は自分の事務所を持って、うんとお金をもうけるの。それがあたしの夢よ。うまく行くかどうかは分からないけど…”

 “大丈夫。お前ならできるさ”と、ぼくは、リサを励ました、“そしてもし、いい家にでも住めるようになったら、ぼくを招待しておくれよ。ぼくは遠からず、その日が来ることを待っている”

 リサは、ワインでほんのり赤味の差した笑顔をぼくに向けた。

 “いいわねえ、そんな生活ができれば…”と、リサは言った、“でもそんなのは将来の夢としてとっておいて、今は、現在の仕事に打ち込むことだけよ。――兄さんも、今の仕事が、いつかは花開くことを祈っているわ…”

 “ぼくの仕事?”と、ぼくは驚いたように言った、“何かを書く、ということかい? 確かに、心の中には、モヤモヤとしたものがいっぱいあるんだけど、それをうまく表現する力がぼくにはまだ不足しているんだ。物事を感じる心は人一倍だと自負しているけれど、ぼくはまだまだ経験不足の身さ。何事につけても―― しかしぼくは、人生を、もっと、人一倍感じたい。何が真実であり、何が幸福かをね。たとえば、昔、ママがよく言っていた、幼い頃の火祭りの体験さ。成人してから、ふるさとに戻っても、それが何よりも一番楽しい経験だった、とママはぼくに語っていた。人生には、いつまでも心に残る、そういう思い出というものがあるものなのさ。そして、それらをしっかりとつかんでいる限り、人生はまっすぐに進んで行く。



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