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 “ぼくたちの時間って、そんなものさ”と、ぼくは、立ち尽くしたまま言った、“何もしないうちに、じき、時は経ってしまうのさ。そう考えると、一瞬一瞬を、おろそかにすることは、できないねえ…”

 

 ふと、窓の外を見ると、西の空は言いようのない美しさを見せていた。まるで山脈のように盛り上がった雲の頂上辺りに、既に太陽は隠れ、頂上近くを、薄い綿のような広がりをもつ淡い金色で包んでいた。その美しさは、まるでそこに雪山が存在しているかのような、清澄とさわやかな山脈のただ中にいるような錯覚に捕らわれそうだった。しかし、光と雲の織り成すその感動的な饗宴も、ほんの一瞬のことで、やがて、頂上の、輝くばかりに美しい黄金色の光が失われて行くと共に、段々と、周囲は、薄暗く、暮れて行きそうだった。秋の日が暮れるのは早い。もう空は、幾はけかのペンキを塗ったような地平線近くの薄い雲の色と共に、同じような暗さで、段々と暮れて行くのだから… そのうち、何もない空には、明るい一番星が輝き始める。多分あれは、金星だろう。そうしているうちに、二つ、三つと増えて行き、周囲の森が黒い塊に変わるのと引き換えに、満天の星となるだろう。ぼくらは、そこまで見つめてはいなかった。部屋の暗さと共に、カーテンを引き、部屋の中に明かりをともしたのだから…

 

 “きょうも終わってしまった”と、ぼくはカーテンを締め終え、立ったまま、リサの方に振り向いて言った。

 “そのようね”と彼女は、ぼくに向き直って言った、“でも楽しかったわ、この一日――長いようで、短い。ほんとにすぐね”

 “ああすぐさ”と、ぼくは言った、“一日なんて、過ぎるのはすぐさ。このようにして、毎日が過ぎて行き、きょうもまた、さ。――でも、この一日は、いつもとは違った。お前がいたおかげで、楽しい思いをさせてもらったよ”

 そう言うとリサは、にっこりと微笑んだ。

 “さて、それじゃ”と言って、リサは立ち上がった、“食事の準備の、残りの仕上げをしなくちゃね”

 “そうていねいにしてもらわなくてもいいよ”と、立ったリサを見て、ぼくは言った、“夕食は簡単でいいんだ、簡単で…”

 “…でも、久し振りなんだから、兄さんに栄養をつけてあげなくっちゃ”と、リサは言った、“こんな家庭料理って、また、ここ当分は味わえないのよ”

 “そう言や、その通りだな”と言って、ぼくは笑った。

 

 リサが台所へ出てしまうと、ぼくは、居間にひとり残って思った、最近はろくすっぽ、うまい家庭料理を味わったことがない。外食か、自分のまずい手料理か、そんなところですませて来た。その生活は、まるでセルッカにいた頃の、貧しいひとりぽっちの生活と、それほど大差はない。今もぼくは、独身である以上、この食生活に関しては、貧しいのだ…


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 しかし、昨夜に続いてきょうも、リサの手料理を食べさせてもらうのだと思うと、ぼくは嬉しかった。その為の材料は、事前に買ってあって、冷蔵庫にほうり込んである。リサはそれを見て、適当に調理するだろう。昔この家に一緒に住んでいた頃、リサがしていたごく普通のことだったのだ。

 

 ぼくはしばらく居間にいたが、彼女のことが気になり、ちょっと台所をのぞいてみた。 タイルと、小節が目につく、さわやかな板張りの台所では、リサがひとり、オーブンの前に立って、忙しそうに、調理にいそしんでいた。壁にはめられたガラス窓の向こうは、もう真暗だった。ガスレンジの上では、ぐつぐつと鍋が煮え、リサはときどき、オーブンの中をのぞき込んでは、鍋をかきまぜている。やかんが、しゅんしゅんと音をたてていた。ぼくは、ほんのしばらく、彼女の後ろ姿を見ていたが、その彼女が、やがて振り向いた。目と目が合うと、彼女は、ぼくに言った、

 “何か御用?”

 “いや、何かぼくに、手伝うことがないかと思って”と、ぼくは答えた。

 “いいわ。もう少し時間がかかるから”と、リサは答えた、“そのうち、出来上がったら、兄さんに、テーブルへ運んでもらうわ”

 “そうかい、それじゃ”と、ぼくは答えた、“出来上がるのを、もう少し、楽しみにしておくよ”


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 …次の日の朝は、いい朝だった。ぼくがベッドで目を覚ましたとき、窓からは明かりが射し込んで、壁やベッドや絨毯を、柔らかい光で包んでいた。白く輝いて見える窓は、レースのカーテンごしに光にあふれ、その向こうには、まるで光の国が存在するかのように思われた。いずれにせよ、外はきっと、いい天気だろう。いつものくせで、ぼくはすぐには起きようとはしなかった。部屋の隅の、テーブルに置かれた、花瓶の中の、片側だけが光を浴びた可愛らしい花々や、壁に掛けられた額入りの絵などを、それとはなしに見つめながら、早朝の目覚めのひとときを、こうしてベッドに横たえたまま、ぼんやりと過ごすのが好きだった。しかし、目は自然、明るく輝いた窓の方に引き寄せられた。そこでは、花柄に似せた、レースのカーテンのモザイク模様が、窓からの光を浴びて、ほのかに、あるいは、くっきりと浮かび上がって見えていた。そしてあの、光にあふれた窓の向こうには、どんな国が、このぼくを待っているのだろう? その向こうが、本当はどんなのかを知っているくせに、ぼくは、そういうことを想像するのが好きだった。見えないがゆえに想像する。窓の、あふれるばかりの光は、心を引きつけ、ぼくを想像へとかりたてるのに充分だった。――しかし、レースの緩衝作用のせいか、室内を包む柔らかな光の感じが、またなんとも言えず、素晴らしかった。総体として、ブルーの色調で統一してあるこの部屋の中は、窓の輝くばかりの明るさとは対照的に、秋の落ち着いた感じを、ちょっぴり感じさせ、とりわけ陰になった部分は、その印象を強めるのだった。ぼくは、この窓内の、柔らかい色調や家具に包まれて、しばし、平和で夢見るような気分に浸っていた。

 そしてやがて、現在も、この同じ屋根の下にいるリサのことを思った。彼女は、多分まだ眠っているだろう。彼女の好きな、ピンクの色調で統一された、彼女の部屋の中で、彼女も同じように、柔らかな光に包まれて… そう思うと、ぼくは、彼女の部屋を覗きたくなった。昔なら、あのアパートの狭い部屋に閉じ込められていた頃なら、彼女らの寝姿を見るには、ちょっと洗面所へ行く用事があればよかった。彼女らのベッドルームは、その通路をも兼ねていたのだ。しかし今は、そうする為には、隣の部屋までわざわざ出向いて行かねばならない。それは、もっと以前の、ぼくたちの子供の頃に似ていた。あのときなら、確かに、二階のぼくたちの部屋は分離されていたし、妹らの部屋へ行くには、隣までわざわざ出向いて行かなければならなかった。そして今、ぼくはちょうど、あのときの気分に戻ったような、ちょっとした冒険とスリルとを味わう気分になった。ぼくは再び今、子供に戻ったのだ。――やがて、ぼくはむっくりとベッドから起きると、部屋のドアのところに歩み寄り、ドアを開けた。それから、まだ、早朝の冷たさの残っている薄暗い通路を横切り、リサの部屋のドアの前で足を止めた。やがて、息を殺して、静かに真ちゅうのノブを回すと、それは意外と簡単に回るのだった。彼女は、部屋の鍵をかけてはいなかった。ぼくはそっと、部屋のドアを開けた。すると、ぼくの部屋と同じように、早朝の柔らかい光に包まれた部屋の中の、彼女のピンクのベッドの上で、リサは、顔を半分向こう向きに、安らかな状態で眠っていた。ぼくは、部屋の中に入り、ドアをそっと閉めると、音をたてないようにゆっくりと、彼女のそばに歩み寄った。


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しかし彼女は、ぼくの気配に影響されたのか、まだ眠ったまま、こちら向きへ寝返りを打った。光を浴びた明るい顔が、急に日陰になり、暗くなった。しかしぼくが、彼女の頬にキスをするには、その方が好都合だった。ぼくは、背中に窓からの光を浴び、掛け布団から、半分肩と腕とをのぞかせた状態で眠り続けている彼女のそばまで来ると、朝方の柔らかい光に包まれて、日陰となった彼女の寝顔の頬にそっと唇を近づけ、そしてキスをした。その一瞬の接触で、閉じられていた彼女の目が、驚いたように開かれた。余りの突然のことで、彼女は訳が分からなかったのだろう。しかし目はあけられ、ちょっと何かを考えるように、ベッドの上の一点を見つめていた。

 が、それほど大きな動作にはつながらなかった。

 “なにがあったの?”と、彼女は横になったまま、開いた目で、ぼくを見つめて言った。

 “もう朝だということを知らせに来たのさ”と、ぼくは、絨毯にひざまづき、彼女を見つめながら、落ち着いて言った。

 “そうか、ここは、あたしたちの家だったのね”と、リサは、やっと思い出したように言った、“それで兄さんがいるのね”

 “そうさ、不思議かい?”と、ぼくはおかしそうに言った。

 “それで、あたしに何かした?”リサは、ぼくの質問には答えず、そう尋ねた。

 “ああ、お前の可愛い頬にキスをした”と、ぼくは冷静に答えた。

 “だと思った”と、リサは答えた、“何か、触れたような気がしたもの。――もう朝なのね。それにしても、兄さんのその頭。髪の毛が立ったままじゃないの。寝起きそのままね”そう言って、初めてリサは、おかしそうに微笑んだ。

 “いけない!”と言って、突然、ぼくは頭に手を当てた。

 “でもそう言っているお前だって”と、ぼくも言った、“髪の毛がバラバラじゃないか。まぶただって、まだ眠そうだしね”

 “だって兄さんが急にやってくるんですもの”と、リサは言った、“手入れすることもできないんだから仕方がないわ”

 

 ぼくは、そんな彼女に微笑んだ後、ベッドから離れ、レースのカーテンが締めてある窓辺に寄った。それから、前から気になっていた外界を見る為に、カーテンをさっとあけた。窓の外は期待通りの明るい朝が広がっていた。澄んだ青い空。美しい森。

 “リサ、見て御覧、素晴らしい朝だ”と、ぼくは、窓の外を見つめながら言った。

 “そうね、いい朝のようね”とリサの声が、後ろからした。

 振り向くと、彼女はまだベッドに横になったまま、しかし、出した腕を頭の後ろに添え、向きをこちらに変えて、ぼくと窓の方に目を向けて、答えていた。ぼくの方から見ると、彼女は朝の明るい光に包まれて、ベッドの上に、ポッと浮かび上がるかのようだった。

 “こちらへ来て、見て御覧よ、すがすがしい朝さ”と、ぼくは、リサを促すように言った。


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 しかしリサは、朝の心地良さのせいか、ベッドから起きようともせず、答えた。

 “いいわ。ここからでもよく見えているもの。本当に気持のいい朝ね…”

 ぼくは振り返って、窓からもう一度外を見、穏やかな空や、光に輝いた庭に咲く花や、遠くの森や草地などを見つめながら、リサも、もうすぐこの家から出て行くのだ、と思った…

 

 この日の朝食は簡単だった。明るい朝のテーブルに、リサと二人で向き合って食事をした。木目模様のテーブルの上には、鉢植えの花が飾られ、リンゴやオレンジのフルーツも皿の上に盛ってある。キッチンと隣り合せのこのダイニングの窓からは、すぐ裏側に茂っている樹木の枝や葉がからみ合っている姿が見え、この食堂を、いっそう明るいものにしていた。一方、奥の、キッチンに通じる裏の戸口の窓ガラスからは、別の一角の樹木の様子が見え、ぼくの心を、さらになごませるのだった。いつもなら、ひとりで朝食をとって来たこのダイニングだったが、この日はリサがいた。彼女は黙々と、ナイフとフォークで肉を切り、野菜を口に運んでいた。中央の皿に盛りつけられたローストもまたたく間に消え、あとはパンと野菜と水とが残るばかりだった。ぼくはふと、鉢植えの花から、彼女のフォークを握った手の上に目が落ちた。ブルーのブラウスをのぞかせ黒いカーディガンを着たリサは、そこにいた。しかし、この食堂や、向こうのキッチンは、ぼくたちがいるにもかかわらず、静かだった。仕切り台に置かれた花瓶の花や、花模様の壁紙や、板壁など、あちこちに貼ってある額などの賑やかさにもかかわらず、静かで、無言の表情を保っていた。しかしあすは、この食堂やキッチンも、一層静かになるだろう…

 

 やがて、ぼくたちは食事を終え、リサは立って食器をキッチンヘ運ぼうとした。ぼくもすかさずそれを手伝おうと立ち上がったが、リサはちらっとそんなぼくを脇目に見た。

 “洗うのはあたしがするから、兄さんはそれを運んでくれるだけでいいわ”

 そう言ってリサは、流し台までやって来た。

 ぼくも、彼女に続いて、運んで来た食器を流しに重ねて置いた。それから、彼女に何か語りかけようとしたが、言葉もなく、再びテーブルに戻った。

 ぼくはくつろぐべく、椅子にもたれ、片方の腕を、もうひとつの木製の椅子の背を、肘掛け代わりにして置き、ゆっくりと、窓の方に目を見やった。窓の外は明るく、枝の葉が、風に揺らめいていた。ふと目を室内に向けると、キッチンではリサが、食器を洗っているその後ろ姿が、目に入って来た。グリーンの落ち着いた色調の中で、黒いカーディガンとジーンズの彼女が、裸足で、黙々と働いている様は、ぼくに、何んとも言えない感じをもたらした。もう午後にはいなくなる彼女――その彼女が、今、ここで立ち働いているのだとは何んと奇妙なことだろう。彼女が、残りかすをポイッと、くず篭に捨てる光景を目にして、ぼくは遠い日のことを思った。彼女も、一年も前の日には、このような、同じ姿を毎日、見せてくれていたものだ。だがそれも、今では何んと、貴重なものになってしまったことだろう…



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