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その頃、未来は光であり、窓から射し込んで来る光のように、得体は知れないが、遠くから誘い込む、呼びかけのように、ぼくには感じられた。――今も、当時と同じ光が、この浴室内にも存在していた。冷たい風が吹く窓の外は明るく、真っ青な空に、白い雲がたなびいている。しかもこの日、この幸せな日、同じこの小さな家に、あのリサがいるのだ。そう思うと、何かしら、ぼくは幸せだった。かつて、彼女がいたときのように、彼女や、セーラやママがいたときのように、この家の周りに、何か小さな事件が待っているようで、ぼくの心は、小さな期待で踊った。そう、幸せとは、子供の頃のような幸せ――それをぼくは、今、不思議と思い出し、この狭い浴槽の中で、感じられてくるのだった。子供の頃に夢をはぐくんだ、様々な、未知なる国への憧れ――その名から心をときめかす、オルレアンや、カルカソンヌの光輝くばかりの美しい街並。それらは、本やママの口から語り聞かされ、ぼくの心の中で、憧れと夢はふくらむばかりだった。その他、様々な国の、幸せの待っている場所へぼくは行きたかった。とりわけ、病床に伏しているとき、その夢は、いっそう大きくふくらんだ。その状況は今も、少しも変わってはいない。この辺ぴな田舎屋敷の、小さな浴槽につかっていて、この未知なる国への憧れ、旅への誘いは、今も、ぼくの心を捕らえて離さなかった。そこへ行けば、結局大したことがないことが分かるのに、それでも、ぼくの気持は変わらないのだ。ぼくは浴槽につかりながら、子供の頃の自分と、現在の自分とのあいだに、年齢による隔てさえ忘れさせてしまうような、不思議な一致点があることを見い出した。しかし、今は、リサがこの家に来ている。その限りにおいて、ぼくの幸せは不動のものなのだ。でも、――リサがこの家から去ったなら、そのときには再び、ぼくは旅に出よう…

 

 浴室から戻って来ると、リサが居間にいた。冬の明るい日ざしが、居間の向うの、窓ガラスに見える、木の茂みや庭の草の上に降り注いでいた。その明るい光の反映が、この冷たい居間にも伝わってくるかのようだった。室内の家具や、花の活けた花瓶が、窓の外の光を受けて、冷たく光っていた。しかし、室内が冷たいのでは決してなかった。暖炉にくべてあるマキのおかげで、快適なくらい、暖かかった。ぼくが部屋のドアをあけると、ソファーに坐っていたリサが、振り向いた。

 “どう? スッキリした?”と、彼女は尋ねた。

 “ああ、いい湯だった”と、ぼくは、顔をほてらせながら答えた。

 それから、ぼくは、彼女のそばに歩み寄り、彼女のそばに立ってリサを見下ろすように視線を落とすと、そのままの姿勢で言葉を続けた、

 “浴室の中でいろんなことを考えた”と、ぼくは言った、“実に様々なことさ。空想の世界飛翔と言ってもいいな。ぼくは、いろんな国のいろんな所へ行くのさ。でも実際は、ここにいて、こんな辺ぴな、寂しいところにいる。しかし、結局、ここが一番いいのさ。お前がこの家にいたからね…”

 リサは、にっこりと笑った。

 


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 “そう、結局は、愛情よ”と、リサは答えた、“そこに愛さえあれば、たといどんなところにいても、その人は幸せなはずよ。別に、とりたてていい暮らし向きをしなくってもね”

 “お前の言う通りさ”と、ぼくは言った、“でも、人間の心は揺れ動くのさ。絶えず揺れ動く。ひとつとして定まることがない。つまり、絶え間ない欠如なのさ。ぼくは、この欠如から逃れたい…”

 “何を言ってるのよ、兄さん”と、リサは、にっこりして言った、“もっと、頭を冷やしなさいよ。そうすりゃ、ここがどういうところで、兄さんのいるところがどういうところかが、分かってくるわ”

 “そりゃ分かっているよ。ここは田舎の寂しい一軒家さ”と、ぼくは答えた、“でもここは、すべての出発点でもある。帰着点とは、ぼくは考えたくないのさ。今は、ぼくの寂しさの最低にいるけれどもね、今に春が来れば、植物が一斉に芽をふき出すように、ぼくも活動を開始するつもりなのさ。余りにも過剰な空想―― そして、それによる欠如感。それを打ち破るには、ただ、この活動しかないのさ…”

 “そう。家にじっと籠もっていれば、人間はだんだんと陰気になって行くわ”と、リサは言った、“だから、たまには外に出て、みんなと交わらなくっちゃ”

 “いいテーマだねえ”と、ぼくは言った、“外へ連れて行ってくれるのが、リサのようなお姫様なら、ぼくも喜んでお伴もしよう。――でもたいていは、気晴らしと、馬鹿話ししか、そこには待ってはいないのさ…”

 “――でも、外には、いいこともあるわよ、きっと”と、リサは言った、“兄さんの思うような理想はないかも知れないけれど、少なくとも、兄さんを、思い出と、後悔のくびきから救い出してくれるだけのものは、そこにあるはずよ”

 “そう、ぼくもそれを信じている”と、ぼくは答えた、“孤独な家の扉よ、開かれ。されば、新しい世界が眼前に開けん、さ。…ぼくを、この孤独の館から連れ出してくれるのが、お前でなくて残念だねえ”

 “あたし?”と、リサは驚いたようにぼくを見上げた。それから、気を落ち着かせてから、リサは言った、“本当はそうしてあげたいんだけど、あたし一人の力じゃ、どうすることもできないわ”

 “分かっているよ”と、ぼくは優しく言った、“この閉ざされた扉は、自分で開けるさ。そしてこの家から出て行く。次の春が来ればね。――でもそのときが来るまでは、この陰気な家で、ぼくはひとりさ。春に備えて、色んな準備をする為にもね…”

 リサは黙って、ぼくの言葉に耳を傾けていた。それから、しばらくすると、おもむろに彼女は言った、

 “一日って、過ぎるのは早いわぁ。ホラもう、庭の木に西陽がさしているのよ。そのうち、日が暮れて、きょうという日もお終いね…”


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 “ぼくたちの時間って、そんなものさ”と、ぼくは、立ち尽くしたまま言った、“何もしないうちに、じき、時は経ってしまうのさ。そう考えると、一瞬一瞬を、おろそかにすることは、できないねえ…”

 

 ふと、窓の外を見ると、西の空は言いようのない美しさを見せていた。まるで山脈のように盛り上がった雲の頂上辺りに、既に太陽は隠れ、頂上近くを、薄い綿のような広がりをもつ淡い金色で包んでいた。その美しさは、まるでそこに雪山が存在しているかのような、清澄とさわやかな山脈のただ中にいるような錯覚に捕らわれそうだった。しかし、光と雲の織り成すその感動的な饗宴も、ほんの一瞬のことで、やがて、頂上の、輝くばかりに美しい黄金色の光が失われて行くと共に、段々と、周囲は、薄暗く、暮れて行きそうだった。秋の日が暮れるのは早い。もう空は、幾はけかのペンキを塗ったような地平線近くの薄い雲の色と共に、同じような暗さで、段々と暮れて行くのだから… そのうち、何もない空には、明るい一番星が輝き始める。多分あれは、金星だろう。そうしているうちに、二つ、三つと増えて行き、周囲の森が黒い塊に変わるのと引き換えに、満天の星となるだろう。ぼくらは、そこまで見つめてはいなかった。部屋の暗さと共に、カーテンを引き、部屋の中に明かりをともしたのだから…

 

 “きょうも終わってしまった”と、ぼくはカーテンを締め終え、立ったまま、リサの方に振り向いて言った。

 “そのようね”と彼女は、ぼくに向き直って言った、“でも楽しかったわ、この一日――長いようで、短い。ほんとにすぐね”

 “ああすぐさ”と、ぼくは言った、“一日なんて、過ぎるのはすぐさ。このようにして、毎日が過ぎて行き、きょうもまた、さ。――でも、この一日は、いつもとは違った。お前がいたおかげで、楽しい思いをさせてもらったよ”

 そう言うとリサは、にっこりと微笑んだ。

 “さて、それじゃ”と言って、リサは立ち上がった、“食事の準備の、残りの仕上げをしなくちゃね”

 “そうていねいにしてもらわなくてもいいよ”と、立ったリサを見て、ぼくは言った、“夕食は簡単でいいんだ、簡単で…”

 “…でも、久し振りなんだから、兄さんに栄養をつけてあげなくっちゃ”と、リサは言った、“こんな家庭料理って、また、ここ当分は味わえないのよ”

 “そう言や、その通りだな”と言って、ぼくは笑った。

 

 リサが台所へ出てしまうと、ぼくは、居間にひとり残って思った、最近はろくすっぽ、うまい家庭料理を味わったことがない。外食か、自分のまずい手料理か、そんなところですませて来た。その生活は、まるでセルッカにいた頃の、貧しいひとりぽっちの生活と、それほど大差はない。今もぼくは、独身である以上、この食生活に関しては、貧しいのだ…


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 しかし、昨夜に続いてきょうも、リサの手料理を食べさせてもらうのだと思うと、ぼくは嬉しかった。その為の材料は、事前に買ってあって、冷蔵庫にほうり込んである。リサはそれを見て、適当に調理するだろう。昔この家に一緒に住んでいた頃、リサがしていたごく普通のことだったのだ。

 

 ぼくはしばらく居間にいたが、彼女のことが気になり、ちょっと台所をのぞいてみた。 タイルと、小節が目につく、さわやかな板張りの台所では、リサがひとり、オーブンの前に立って、忙しそうに、調理にいそしんでいた。壁にはめられたガラス窓の向こうは、もう真暗だった。ガスレンジの上では、ぐつぐつと鍋が煮え、リサはときどき、オーブンの中をのぞき込んでは、鍋をかきまぜている。やかんが、しゅんしゅんと音をたてていた。ぼくは、ほんのしばらく、彼女の後ろ姿を見ていたが、その彼女が、やがて振り向いた。目と目が合うと、彼女は、ぼくに言った、

 “何か御用?”

 “いや、何かぼくに、手伝うことがないかと思って”と、ぼくは答えた。

 “いいわ。もう少し時間がかかるから”と、リサは答えた、“そのうち、出来上がったら、兄さんに、テーブルへ運んでもらうわ”

 “そうかい、それじゃ”と、ぼくは答えた、“出来上がるのを、もう少し、楽しみにしておくよ”


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 …次の日の朝は、いい朝だった。ぼくがベッドで目を覚ましたとき、窓からは明かりが射し込んで、壁やベッドや絨毯を、柔らかい光で包んでいた。白く輝いて見える窓は、レースのカーテンごしに光にあふれ、その向こうには、まるで光の国が存在するかのように思われた。いずれにせよ、外はきっと、いい天気だろう。いつものくせで、ぼくはすぐには起きようとはしなかった。部屋の隅の、テーブルに置かれた、花瓶の中の、片側だけが光を浴びた可愛らしい花々や、壁に掛けられた額入りの絵などを、それとはなしに見つめながら、早朝の目覚めのひとときを、こうしてベッドに横たえたまま、ぼんやりと過ごすのが好きだった。しかし、目は自然、明るく輝いた窓の方に引き寄せられた。そこでは、花柄に似せた、レースのカーテンのモザイク模様が、窓からの光を浴びて、ほのかに、あるいは、くっきりと浮かび上がって見えていた。そしてあの、光にあふれた窓の向こうには、どんな国が、このぼくを待っているのだろう? その向こうが、本当はどんなのかを知っているくせに、ぼくは、そういうことを想像するのが好きだった。見えないがゆえに想像する。窓の、あふれるばかりの光は、心を引きつけ、ぼくを想像へとかりたてるのに充分だった。――しかし、レースの緩衝作用のせいか、室内を包む柔らかな光の感じが、またなんとも言えず、素晴らしかった。総体として、ブルーの色調で統一してあるこの部屋の中は、窓の輝くばかりの明るさとは対照的に、秋の落ち着いた感じを、ちょっぴり感じさせ、とりわけ陰になった部分は、その印象を強めるのだった。ぼくは、この窓内の、柔らかい色調や家具に包まれて、しばし、平和で夢見るような気分に浸っていた。

 そしてやがて、現在も、この同じ屋根の下にいるリサのことを思った。彼女は、多分まだ眠っているだろう。彼女の好きな、ピンクの色調で統一された、彼女の部屋の中で、彼女も同じように、柔らかな光に包まれて… そう思うと、ぼくは、彼女の部屋を覗きたくなった。昔なら、あのアパートの狭い部屋に閉じ込められていた頃なら、彼女らの寝姿を見るには、ちょっと洗面所へ行く用事があればよかった。彼女らのベッドルームは、その通路をも兼ねていたのだ。しかし今は、そうする為には、隣の部屋までわざわざ出向いて行かねばならない。それは、もっと以前の、ぼくたちの子供の頃に似ていた。あのときなら、確かに、二階のぼくたちの部屋は分離されていたし、妹らの部屋へ行くには、隣までわざわざ出向いて行かなければならなかった。そして今、ぼくはちょうど、あのときの気分に戻ったような、ちょっとした冒険とスリルとを味わう気分になった。ぼくは再び今、子供に戻ったのだ。――やがて、ぼくはむっくりとベッドから起きると、部屋のドアのところに歩み寄り、ドアを開けた。それから、まだ、早朝の冷たさの残っている薄暗い通路を横切り、リサの部屋のドアの前で足を止めた。やがて、息を殺して、静かに真ちゅうのノブを回すと、それは意外と簡単に回るのだった。彼女は、部屋の鍵をかけてはいなかった。ぼくはそっと、部屋のドアを開けた。すると、ぼくの部屋と同じように、早朝の柔らかい光に包まれた部屋の中の、彼女のピンクのベッドの上で、リサは、顔を半分向こう向きに、安らかな状態で眠っていた。ぼくは、部屋の中に入り、ドアをそっと閉めると、音をたてないようにゆっくりと、彼女のそばに歩み寄った。



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